この手が好き

爪を噛む。

皮を剥く。

幾つもの自傷行為を何年も続けてきた私の手は、気づいたら歪で後悔ばかりだ。それからまた何年も経った今でも、人に見せるのがなんだか嫌で隠すように生きてきた。常に目に入る自分のこの手が私のコンプレックスだった。
「手、綺麗じゃん。」
挨拶よりも先に先輩に掛けられた言葉に手を止める。受け取り様によってはセクハラともとれる時代。不快に思わなかったのは、少なからず先輩に好意を抱いていたからだろうか。カウンターを挟んで、少し身を乗り出した先輩は、洗い物をする私の手を見てそう言う。20数年生きてきて、初めて言われた言葉に思わず視線を落とした。目に入る濡れた手は、長いとは言い難い白く細い指が伸び、手の大きさに見合う小さな爪がついている。衝撃だった。先輩のその一言で、その瞬間から自分の手が綺麗に見えた。まるで魔法のようで、キラキラと輝いて見える。夜勤明けの呆けた頭でしばらく手を見つめていれば、名前を呼ばれて現実に戻った。
「ありがとうございます。初めて言われました。」
「うそだ、白くて綺麗じゃん。」
本当に、不思議そうな顔をしている先輩が今度は眩しかった。少し伸ばされた手が、何かに気付いてすっと戻される。勘違いしてしまいそうになるから、言葉だけに留めてほしい。私たちの距離感はそんなものでいいから。


その日から自分の手が大切になった。爪の形も整えて、傷がつかないように丁寧に扱った。

この手が好き

この手が好き

たった一言で、簡単に好きになる。

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-07-22

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