肉眼の恋人

 目が覚める。僕は枕もとに転がっている携帯電話に触り時間を確認する。7時半と静かに訴えるデジタルの数字が目に入る。それから眠たい身体を起こして立ち上がる。カーテンを開くと白い墓のような家がズラりと並んでいる。いわゆる『コピーして貼り付け』を繰り返し行ったサッシの傷まで同じ家が地平線の外まで広がっている。
 下の階から咳をする声が聞こえた。
 二度、聞こえた。ワイングラスの縁を指で弾いた咳だ。僕はため息を吐いてその咳の主に向かった。階段を降りると、すぐそこはリビングで濃い木炭の色のテーブルと椅子があった。テーブルの真ん中には透明の花瓶に飾られた赤い花が一輪水に浮いていた。その花を眺めていると再び咳が聞こえた。
「ステーキ、ポーク、ミント、チキンスープ、イヤイヤ」
 僕は声の主を見る。声の主は両手の裏で頬を支え、テーブルに肘を付き、椅子に座り、スリッパを履いた脚をパタパタと動かしていた。まつ毛の長い女だった。僕は椅子に座って脚を組み、女に向かって「ご飯は食べたの?」と聞いた。
「ミカン、アボカド、コーン、コムギ、イヤイヤ」
 女は僕に目を向けずにテーブルの真ん中に置いてある花を見ながら答えた。それで、僕は立ち上がって、キッチンに向かい二つのコップに水を注ぎ、冷蔵庫から二つの食パンとジャムを取り出して皿に乗せてテーブルに向かう。一つのコップと一つのパンは女の前に置いて僕は椅子に座った後にコップに入った水を飲んだ。下水に流れる中枢神経の味がした。
 咳が鳴る。女はジャムを塗りパンを持ち上げた後に僕の方を見て「なに味?」と聞いた。
「なに味だと思う?」僕はパンをかじって返答した。
 女は空中を見て言う。
「だり〜、だり〜、だり〜、空を飛ぶと黄金の蝉が一方通行で真っ直ぐ進んでいる。広い道はゆっくりと確実に細くなっていく。広い道はたくさんの人が歩いているけど、みんないずれ消えていく。でも細い道は生きる。でもでも、細い道を歩く人は広い道を選ぶ人たちに槍で、棍棒で、レーザー銃で木っ端微塵にされるかもね。それでも確信している、一方通行の道は手ぶらでも歩き続けると、遠い遥か昔に歩かれたその道を私と君は歩き続けると、だり〜、だり〜、だり〜、奇妙な月が逆さまになってニッコリと笑うの、風がサラサラと滑る砂のように私の皮膚を撫でた時に四つの円盤の車輪を回転させた馬車は私の前に止まる。馬車の扉が開くと角砂糖の星々が砕け散った音を奏でながら降り注ぐ、どうしてかしら、瞳は割れて反響する。ああ、これが伴奏を蹴り上げることなのね。と、私とワタシの友は、供に歩む為に手を繋いで馬車を焼く。火の匂いは少女が嘘を後悔したものと似ている。だり〜、だり〜」
「僕はね。ブドウだと思う。けど少し違うんだ。半分、ブドウで。半分、イチゴが混じったやつ」
「私も同じ、かな。青いブドウと赤いブドウのジャム」
 僕は笑って答えた。
「それは同じって言わないよ」
「同じよ」
「どこが?」
「青いブドウが、君の言う半分ブドウで、赤いブドウが、君の言う半分イチゴ。それが同じ」
「よく分からないな。人差し指だけマニュキアを塗っていない女の子くらいに意味が分からない。まあ、いいさ。どっちみちブドウ味だって事にはかわりはしないんだから」
「君はいつもそう。どうして理解しようとするの? 理解を理解しないで分かる事もあるでしょ? まわりくどい言葉で私に答える事がそんなに楽しいかしら?」
「例えば?」僕は女の顔を見て言う。女は左下を見て右を見て答えた。
「風が吹くと気持ちいいでしょ?」
 僕は女の言葉に沈黙した。それから口を動かした。
「ああ、気持ちいいね」
「それと一緒よ」
 僕は少し考えて「なんとなく分かるような気がする」と答えた。
 咳が鳴る。咳が鳴る。咳が鳴る。咳が鳴る。
 とても気持ちの悪い咳だ。
「ねえ。私たちだけ朝ごはんを食べているから怒っているのよ」
 咳が鳴る。咳が鳴る。咳が鳴る。咳が鳴る。
 僕は椅子から立ち上がり冷蔵庫から食べ物を取り出してテーブルの真ん中に置いてある花の前にステーキ、ポーク、ミント、チキンスープを置いた。花は咳を止めて鈍い笑い声を出した後に大きな口を開きガツガツと食べ始めるが、すぐに、それらを吐き出した。その光景を見て僕は冷や汗を垂らした。僕は勢いよく椅子から立ち上がり再び冷蔵庫へと向かう。そうして花の前にミカン、アボカド、コーン、コムギを置く。花はやはり、鈍い声を出して目の前に並べられた食べ物を飲み込むように食べ始めるが、泥を吐くようにして床に撒き散らした。その瞬間、僕は女の手を取り家から飛び出した。僕と女は道路を走るが、幾度、走っても走っても同じ白い家が続くだけで、少しも景色は変わらない。
「もう……。走れないよ……」
 女はそう言って立ち止まる。腰を曲げて苦しそうに吐息が乱れる。僕は何も言えなかった。それから白い家の窓の奥を見る。濃い木炭のテーブルの真ん中に花瓶が置いてあり一輪の赤い花が咲いている。他の白い家を見渡して見ると同じ花が一輪だけ咲いていた。
「君の曲が聞きたい」
「僕の?」
「うん、そうだよ。君がピアノを弾くの。でね、それは君がオリジナルで考えたドラマチックと排気ガスで塗り潰した曲で、私は君の側で歌うの。両手を重ねてまぶたを閉じて。悪くないでしょ」
「あはは、何を言ってるんだよ。僕はピアノは弾けないよ」
「それでもいいの」
 女は僕の顔を真っ直ぐに見つめた。
 僕は勢いよく女を強く抱きしめる。
 僕は理解した。女は初めて羽毛の中で寝る表情のように静かだった。

 咳はやまない。

肉眼の恋人

戸川純にハマってます!

肉眼の恋人

  • 小説
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  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-07-20

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