幻想悲曲 第二幕一場

《賛美を捧げます。シオンにいます神よ。エルサレムでは、あなたに満願の捧げ物をささげます》
という、入祭唱の旋律を耳にして、エノイッサははっと我に返ったかのように、それまで俯けていた面を上げてきょろきょろと辺りを見回したのだった。聖堂一杯に立ち並んだ他の信徒どもは皆、 
《主よ、永遠の安息を死者にお与えください。そして、永遠の光で彼らを照らしてください》
と、続けて唱えていた。彼女だけであった。エノイッサだけが唱えないでいた―それをたった今自身でも初めて知ったかのように、彼女は驚いたような表情をして聖歌隊席の中程に立ち尽くしていたのである。先程、司祭の祈祷が終わって、号令を受けた信徒たちがこの入祭唱を歌う為に立ち上がった時、エノイッサもまた、皆より僅かばかり遅れて立つには立ったが、もうそれきりなのだった。つまり彼女は、「主よ……」まで声を出せばもう喉が詰まり、それ以上言葉が継げないでいた。その頭の中には、昨夜の出来事の回想がまるで寄せる波涛のように、轟音を伴いながら幾度となく押し寄せて来ている。そしてそれはどうやら、次第に力強さを増していくようなのである。今彼女が、目の前にある事柄にいくら傾注しようとしたって無駄なのであった。なぜなら、どれだけ現実にある形象を思惟の中に作りだそうと試みたところで、砂で出来上がったようなそれは、波涛のような回想が押し寄せるのに浚われ崩れ去ってゆくだけなのだから。彼女は今、昨夜のことしか考えることが出来ないでいる。
今朝、エノイッサが眼を醒した時には既に、マリアは部屋の中に居なかった。けたたましい朝鐘の響きを耳にしたエノイッサはちょっと頭を擡げた。少し前に泣き腫らした瞳をちょっとだけ開いた時には、太陽の無限に屈折する光線しか部屋の中に認めることが出来なかった。マリアがいなくなったという事実は、世界がはっきりと自らの視覚に浮き上がるにつれて明らかになるのだった。(ああ…… マリア、いなくなったの…… どこ? どこに行ったの? まさか、本当にあんなことするっていうんじゃないでしょうね……)そうして彼女は半ば怯えたふうに、恐る恐る部屋中にマリアの姿を求めようとしたのである。時は経って今宵ミサの夜、エノイッサが大聖堂中に瞳を巡らせたのも、実はそれと似たようなものであった。だがここにもいない―当然と言えば当然だが、エノイッサはマリアをどこにも見つけることが出来ないでいた。もちろん、この失踪が修道院内においてまったく取り沙汰されていないという訳ではない。だがそれは、本当にひそやかなものだった。なぜなら、マリアはこれまでにも度々―その多くが短い時間ではあったが―姿を消したことがあったし、ミサに出席せずに、修道院長や司祭から訓戒を受けたことだってあるのだから。この修道院の人間であれば誰にしたって、マリアのそうしたある種の品行の悪さというのは周知なのであった。それら過去におけるマリアの失踪が一体何を目的としたものであったのかは誰も預かり知らない。しかし、エノイッサにとっては少し事情が違っているわけである。ともかく、いつとも知れず姿を消したマリアのことを、エノイッサを除いては誰も気に留めるようなことをしなかった。ただ、エノイッサはそのことについて、修道院長や若干名の物好きな連中たちより質問を受けもしたけれど。しかしエノイッサは本当にその行方が分からなかったので、内心びくびく怯えながらも、そうした問いに対してはただ一言「知らない」と言ってやり過ごしていたわけである。ミサが始まる頃になってようやく尼僧たちがざわめき始めたが、だからといってその為に教会が儀礼を滞らせるようなことなどするはずも無く―消えた尼僧のことはひとまずうっちゃっておかれたのだった。
 ただ、エノイッサだけは、マリアが何を目的としてどこに向かっているのかを知っている―そう、それはマリアの言っていたことを本当であるとするならばの話ではあるが。(だけど…… 噓よね! そんなことするはずがないって、私には分かるわ…… ああ、あの娘、なぜあんなことを言ったんだろう? マリアは今、どこにいるのかしら…… しかし、本当だろうか? 本当にあの娘はそんなことをするだろうか? もしそうなら、マリアはいったいどうなってしまうだろう……)当然のことながら、そんなことを考えながらびくびくしているのはエノイッサだけなのであり、それを彼女自身もよく自覚しているから、今ここにおいて強烈な疎外と孤独を感じざるをえないのである。(ああ、あなたら、羨ましいわね! ただそうやって、時の流れるままに身をゆだねていれば良いってんだから……)彼女はきょろきょろと周りに立っている同僚たちの表情を伺い見ると、そこにいつもの平坦な、ありきたりな尼僧たちの顔が彫刻されているのを認めて、非難がましく胸中でそうひとりごちたのだった。
 だから、エノイッサはこの大聖堂の中において独り、今は波間に漂う木片のようなものなのである。彼女は意図せずとも自らの拠り所となるものを必死で求めているようなのだった。おそらく、その拠り所というのは―エノイッサにとっての、陸より離れた沖に見つけられる孤島というのは、それはマリアであるに違いない。だが、エノイッサが自身ではそのマリアを求める気持ちを自覚していたのかどうかは定かではない。彼女は、自らの煩悶はマリアの身を案じていることにのみあると、そうばかり感じていたのである。とすると、エノイッサは心のどこかで、マリアがあれをやるとそれとなく信じているのかもしれない…… いや実際、マリアがあれをするはずがないのなら、彼女について何も心配するには及ばないだろうから…… 
《私の祈りを聞き入れてください。すべてはあなたのもとへと至るでしょう》
 典礼聖歌の一曲目の結びが歌われると、大聖堂はしんとなった。祭壇の前では司祭が祈祷をして、典礼分を読み上げていた。だが、エノイッサの耳にはもとよりそんな音は全然聞こえていないのであった。既に意識はここになく、例えば柱の継ぎ目のような、僅かな隙間にも息継ぎの出来る空気だまりを見いだそうとするかのように、空想が大聖堂中を駆け巡っていたのである。
 エノイッサの視線はきょろきょろと辺りを彷徨っていたのだったが、祭壇にばったり出くわすと、まるでそこに何か恐ろしいものでもあるみたいに、じっと傾注を始めたのだった。始めはぼやけて、せかせかと動く司祭帽しかその視界に認めることが出来なかったが、やがて、徐々に、燭台に立てられた蝋柱がひとつひとつ、巨大な十字架の、磔刑にされたキリスト像に刻まれた皺がひとつひとつ、その後ろにある、大壁画の中に佇む登場人物たちの表情までもがひとつひとつ、闇と橙との中にぼうっと浮かび上がってきて、不気味な輪郭を象っていくのだった。エノイッサは特に、ゆらめきながら絵画の聖人たちを照らしつける蝋燭の灯を見て、目眩を覚えたのだった。(火…… )すると途端に、彼女の意識は沼のようにどろっとした、熱っぽく明るい光の混濁の中に陥っていった。(ああ、マリア…… あなたいったいどこにいるの? 本当に、あそこへ向かっているのかしら? 聖人たちよ…… どうしてそんな目で私を見ているの? 知っているんでしょう? 何もかも知ってそうな顔だわ、それ…… どうして笑っているの? 私がおかしいって? 何も知らない私が…… あっは! なら、あの娘が今、どこにいるのか…… ああ、あなたたち…… 教えてよ! ねえ、どうして黙ってなんかいるのかしら……)壁画の中や、ボールトの中に佇む聖人たちの中には、柔和な表情をたたえている者も居たけれど、今のエノイッサには、その微笑が甚だ冷徹な、軽蔑的な嘲笑のように感じられてくるのだった。絵画として永遠を生きる多くの冷たな視線たちが、はるかな高みより自分の表情を刺し貫いているような気がして、それは、顔に何やらちくちくとした痛みすら覚えるほどなのであった。エノイッサの世界では、蝋燭の火がゆらゆらと揺れては大きくなり、やがて炎と化し、この大聖堂いっぱいを覆い尽くしていくかのように、幻想されていたのである。
 だが幻想は、その時さっと姿を消した。司祭が語りを終えて、再びオルガンが鳴り出したから。吹奏楽の大号令を受けた軍隊がさっと武器を構えて突撃を開始するように、オルガンの雄叫びによって奮い立ったこの大聖堂にある有象無象のすべては、共鳴による大きな身震いを起こしながら、突如としてそのぼやけた輪郭を投げ捨てると、はっきりとした形でもってエノイッサの感覚に襲いかかってきたのである。だが、彼女にとって最も恐ろしかったのは、その端緒となったオルガンの叫びなのであった。肉体の内にある骨の随までがその低音と共鳴して、まるで自分のものでないかのように震え出す始末だったし、高音は高音で、尼僧の唯一剥き出しとなった頬の皮膚をびりびりと破いていくように感じられたから。このような次第で、とてもじゃないが、壮麗なオルガンの調べも今の彼女には旋律として耳にすることはできない―それはまるで怒号のように、彼女はオルガンの音が自分を責めているのだと本気で考えかねないほどだった。(…… 幻想だわ! ぜんぶ幻想だったのだわ! まるで…… 幻想そのものじゃないか)エノイッサの憔悴は傍から見ても分かるほどに甚だしいものであったので、右隣に立っている尼僧が先程よりちらちらとこちらを気にしているのだった。それに気が付いた彼女は、いつものエノイッサらしい、ふてくされたような澄まし顔を作ってみせたのだった。隣の尼僧は、彼女がそうしてさっと表情を変えたことに気付いたらしく、きまりが悪そうに、そそくさと別の方を向いたのだった。エノイッサはまた苛々として、(なんでもないのよ…… なんでもないんだから! 別に、大したことじゃないんだから)と、頑なな表情をますます誇示していくのであった。
 オルガンの和声が、ちょうど今がその時を告げたので、皆は一斉に唱和を始めたのだった。エノイッサはここに来てようやっと歌い始めたのだった。目をつぶって、歌に没頭しようと努めるふうにしながら。尼僧たちの合唱は、オルガンの川のような流れの旋律に降り注ぐと、協和、あるいは不協和しながら弾けて、無数の星のようにきらきらと瞬きを見せていた。
《主よ、あわれんでください》
 哀れみの讃歌、その湿っぽい調べが、聖堂の中を満たすだけでは飽き足らず、一体どこよりだろうか、僅かな隙間から外へと漂い出て、隣接した修道院の中庭をも満たし始めた時、同じく修道院敷地内にある墳墓の扉がごとごとと音を発てて開くと、中より小さな人影らしきものが、月下にそっと歩み出てきた。人影は、月明かりすらはばかる様子で、影から影へと、塀沿いに慎重な足取りを運んでいた。やがて、修道院と外の境目にやってくると、月明かりは一瞬その顔を照らしつけたのだったが、それはまさしく尼僧マリアなのであった。これから行おうとすることに対する厳かな心構えからか、それとも、まさしく今まで墳墓の中に隠れ潜んでいたことによる疲弊からか、表情は一層青白くやつれて見えた。マリアはそこでちょっと立ち止まって、光と音の噴出している聖堂の方へとその顔を向けたのだった。
《主よ、あわれんでください》
 しかし彼女は聖堂を見やっているというわけでもなく、頭を少し傾けて顔を伏せがちに、瞳を落として何やら思案をしているふうなのである。
《キリスト、あわれんでください》
 実はマリアはエノイッサのことを考えているのだった。合唱の中に混ざる友の声を探し出そうとして、彼女はこうしてここに立ち止まっていたのかもしれない。
《主よ、あわれんでください》
「主よ、あわれんでください」
《キリスト、あわれんでください》
「キリスト、あわれんでください」
 このようにしてマリアも美しい囁きをその調べの上に乗せたのだったが、それは哀れみの讃歌の最後の節で、語尾を壮大なふうに引き延ばして歌われたものである。曲が終わって辺りが静まり返っても、マリアは少しばかりその場所に佇んでいた。本当にかすかだが、耳をこらすと何やらごにょごにょと、司祭が福音を伝える声を捉えることが出来る。マリアは突然面を上げて、刺し貫くような一瞥を聖堂にくれてやると、ついにしきいをまたいで外へと出た。瞳はぎらぎらと輝いて、怒りと呼んでもよいほどの昂然がみなぎっているその顔は、月がそれを照らしているのではなく、逆に、そこより光が噴出していると思われた程であった。マリアは修道院と聖堂とを背に 宵闇の街へと足を踏み入れたのだったが、彼女はその去り際、ぶつぶつと吐き捨てるようにこんな言葉を呟いていたのである。
「…… そんな狭い場所に閉じこもって、いつまでたっても、いつまでたっても…… くどくどと…… だけど、こんなことを言うのはよそう! だって、くだらないだろうから…… でも、そんなことでは、一体誰が救われるっていうんだろう? ああ、来世ですって……? たとえ来世で神があの哀れな方々を救ってくださるとして…… それならばなぜ、私たちはこの世に遣わされてきたというの? どうして私たちはこんな服を着ているのだろうか…… それは…… だけど、そうだろうか? 祈りによって、人は救われるというのだろうか? 本当に? あの方々も…… 本当に、救われるのだろうか? 後の世の人が改めるって…… それは本当? それなら、私のやろうとしていることは……」
 マリアはそんな疑念を振り払うかのように笑った、
「あっは、そうね! そうかもしれないわね…… だけど、主は言った、《行って、あなた方も同じようにしなさい》って、そう言ったのよ」

 しばらく経って、彼女はこの街を大きく横切る川のほとりを歩いていた。それまでずっと、何かに突き動かされたような足音がただ単調に響き続けていたのである。(どうして私はこんなことをするのだろう? 主が言ったから? 主がそう言ったからだというのか、私は……)修道院から宮殿へと続く道はもう何度も通ったことがあるが、今夜その道を覆い尽くしている闇は途方もない広がりを見せていて、この向こう側に一縷の望み、自らの希望の光が潜んでいるなどとは、まるで信じることが出来ないくらいだった。(気でも違ったのだろうか、私は! だって、こんなこと、こんなたまげたこと! ああ、これがどれだけ馬鹿げたことかっていうことくらい、自分でも分かるよ…… 当たり前じゃないか! こんなことをすれば、私は焼き殺される。それは分かっている。しかし……)彼女はそこでちょっと立ち止まった。その場所は、街の中央を流れる大きな川のほとり、場末から一つ路地に入り込んだところにあった。今までに入ってみたことは無いが、宮殿に行く際にはここのすぐそばの裏路地を通ると都合が良かった。川に沿って大通りを歩きながら、そのぽっかりと空いたような入り口にさしかかって、マリアはいつになくどきりとしたのだった。実はこれまではもう何度も素通りしたところである。(ここは…… そうだわ! ここは……)マリアは実際にその中に立ち入ったことはないが、この路地の向こう側がどういう場所であるかは、人に聞くかなにかして知っていた。しかし実際、この街に住む人間なら、この界隈の物騒さを知らないことはないだろう……(行くのだろうか…… 私は、ここに入って行かねばならないのだろうか?)なぜか彼女はこんなことを考えたのである…… 以前この場所を通った時にはちょっと気にしただけだったが、今夜はまるで自分を誘うかのように、闇がその路地から漂ってくるのだった。また、人目を憚らなければならないという今夜の特殊な事情もそこに紛れ込んでいたに違いない。マリアはその底知れぬ深淵のような黒の前に、足を止めていた。天井など路地についていようはずもないのに、どうしてここまで暗いのだろう? 瞳は何も映さないし、鼓膜だってなんらの音をも捉えることがなかった。ただ、両側の高い建物より投げ捨てられた汚物の匂いが、風も無いのに闇の底から這い出てくるのである。その瘴気のようなものに体を嘗め尽くされている気がして、尼僧はぞっとしたのだった。引き返して、別の道を行くことも出来た。望むのなら…… だがあえてそうしなかったのは、彼女はなにやら強迫的な焦燥に支配されて歩みを進めていたからである。それが、別の道を辿ることを彼女に断じて許そうとはしなかった。そしてついに、暗い中にその足取りを知らせるようにして、履物の乾いた音が壁を伝い始めたのであった。しばらく経って、
「おお…… 通る方、哀れんでください」
と、どこからともなく声が聞こえてきたので、マリアは立ち止まった。それはおそらく、若い男のものに違いない。まだ二十歩と進んでいなかった。この裏路地は周知の通り、乞食やならず者どもの巣窟である。しかし何も見えないから、マリアはそうとは分かっていても、声をかけられた時、それが人外のものによって発せられたような恐怖を覚えたのである。
「おお、尼さん…… もしあなたに慈悲があるのならどうぞ立ち止まって…… 近くに来て私のことを哀れんでください」
「私はそうしています」
 マリアは急いで答えた。
「私に声をかけたのは誰? おっしゃってください、どこにいるのですか? この暗い中では私の眼はぜんぜん役に立ちませんから……」
「こっちですよ」
 マリアは声のする方を向いたが、当然のことながら何も目にすることはできない。闇に眼を当てられて彼女は―それは本当に馬鹿げた考えであると、自分でも分かるのだったが―声の主がこの世にはたして存在しているものかと、一瞬疑いを持ってしまうほどに動揺してしまった。
「尼さん、こっちですよ」
「待って、すぐに行きます」
 そうは言ったものの、石壁が聴覚をかく乱させてしまうから、声の主がどこにいるのやらさっぱり分からなかった。それでもマリアは、手を僅かばかり前に突き出し、闇の中を探ろうとした。先程の声は右側から聞こえたような気がしたから、そちらに向かって歩み始めた。するとすぐに、マリアの足は何やら柔らかなものを蹴りつけた。するとその何かが、先程のものとは違うじいさんのしゃがれ声で、
「何をしやがる、このあばずれ! おまえには情けが無いのか?」
と、叫んだのだった。マリアは飛び上がった。
「まあ! 私は人を蹴ってしまったのかしら…… 許してください。だけど、私に呼びかけた声は、あなたのものではない……」
「お前を呼んだのは」
 喉にたんのかかったような声をして、マリアの足下からじいさんは言った、
「向こう側にいるやつだ。ほら見ろ、よく見るんだ。お前には、分からないのか……」
 マリアは振り返って言われた通りにしたが、暗闇の中に何も判別することは出来なかった。だが瞬きをしないで眼をこらしていると、やがて、何やら座り込んだ人影のようなものがうごめいているのが見えた。
「そうだ、あいつだ。声が反響するからあなたは勘違いをしたのだ。どうやらあいつ、間抜けな面下げてこっちを見ているようだ…… 名前は、確か…… いや! 構わん! 名前などどうだっていい…… さあ早く行って慰めてやれよ。それがあなたの役目だろうからな」
 そう言うと、じいさんは急き立てて、
「それから、いいか、二度と俺が寝るのを邪魔するんじゃない! お前は、尼さん…… 虫けらのような俺たちの、最後に残された安息まで取り上げにきたのか? さあ、分かったらさっさと行け! 行けったら!」
 マリアはしっしと追い立てられるようにしてそこから飛び退いた。彼女は驚いたようにじいさんの方を見たままであった。じいさんはそうしてすぐにまた身を横たえてしまったようである。よく見えなかったが、彼女は音によってそれを聞くことができた。辺りが静まり返っても、マリアは何やら考えこむような様子でその場に立ったままであった。彼女はやにわに呟いた、
「どうして……」
 彼女の声は、かすかに震えていた。
「行けと言ったろ!」
 分からず屋の彼女に向かって、じいさんが叫んだ。
「俺らでも言葉が分かるというに、お前はなんだ! ここに立って何をしようというのか!? 俺をどうしようってんだい? さあ、もう一度言う、あっちへ行け! これ以上馬鹿な真似をしたら……」
 じいさんのがなり立ては、石壁に反響して分裂しながら増殖した。そうして互いが互いと溶け合って巨大化した声は、尼僧を押しつぶそうとしたのだった。彼女は逃げるように背を向けて、その場から立ち退いた。じいさんの声がわんわんと一際耳障りな響き方をして過ぎ去ってしまうと、この路地のどこぞにいるもう一人の浮浪者が尼僧とじいさんのやり取りを滑稽に思ったのか、くつくつと忍び笑いをする音がどこからともなく聞こえてきたのである。マリアにもそれは聞こえているはずであった。彼女は、歩きながら言った、
「私を呼んだのは、あなたですね?」
「ああ、私です、私です」
 マリアは、応える声のところに行くと、かがみ込んだ。その哀れな影の差し出した手を取って、語りかけた。
「そんなにうつむいていないで、お顔を上げて、よくお見せください」
「ああ、尼さん、それは私の願いです……」
 彼がしゃべり、その体をちょっと動かしただけで、吐きそうになるほどに嫌な、獣性の臭気が漂ってきた。哀れな男は面を上げた。暗闇の中でもおぼろげに分かるその輪郭だったが、しかしマリアは、何かにはっと気が付いたらしく、おそるおそる右手を差し出して、そっと男の顔に触れた。意外なことに、彼の肌はいまだに若い瑞々しさを失っていなかったので、マリアの指先にさっと緊張を走らせたのだった。マリアは中指と人差し指で、その閉ざされたままの瞼をなぞりながらこう言った、
「ああ、あなた…… 私の顔が見えないのね?」
「私は……」
 男は言った、
「…… もうずっと、暗い世界の中に生きてきました。だけど、そんな長い苦役も、なんてことはありません…… あなたが、私のために立ち止まってくれて…… これですべて…… ああ、あなたの顔を見ることが出来たら、どんなにいいだろう!」
「私は……」
 マリアが答えた、
「…… 本当に良かった! だって…… 私は…… この路地があまりにも暗くって、踏み入れるのを一瞬ためらってしまったんです…… ひょっとしたら、私はあなたのことに目もくれず、そのまま行ってしまったかもしれない。そう考えると…… だけど、一つだけ教えてください。あなたは目が見えないのに、どうして私が神に仕える身であると分かったのですか?」
「それは……」
 盲人の男はおずおずと答えた、
「その服の擦れる音を聞けばすぐにそうと分かりました。私は、瞳が見えなくなってしまった代わりに、よい耳を手に入れたんですよ…… 衣擦れの音は、あなたが心優しい方だということを、はっきりとこちらに伝えてきたんです」
 彼はそう言って、おぼつかない迷い手でもって、修道服の袖を掴んだ。そうしてその手触りをさらさらと弄んだ。マリアはどきりとして体を強ばらせたが、男のなすがままに任せた。
「ああ……」
と、彼は泣きながら言った。
「…… どうです、尼さん。私たちは獣なんです…… みんな人の形をしているけれど。獣に違いない! あなただって、そう思ってらっしゃるでしょう? 言っておきますけどね、私の着ているこれは、服ではありませんよ。ええ、違います…… もうべっとりと脂がしみついてね、ただの布切れですよ、これは」
「どうして……」
 マリアは耐え切れず、強く打ち消すように言った、
「あなたが獣だなんて、そんな……」
「ああ、尼さん、あなたは優しいね……」
 盲人はそう言うと、彼女の腕にすがって泣いたのだった。そんな彼の様子を、尼僧は驚きと恐怖、そして慈しみといったものの混濁した感情によって眺めさせられていた。暗闇の中で瞳を見開いて、なにか信じられないものでも目にしているような様子で、表情を強ばらせていた。盲人が言った、
「私はこうなってからまだ日が浅いから…… まだ頭だってしゃんとしていますよ…… 日が経つとね、ここに来た人間は、次第にあんなふうになっていくんです」
 盲人の男はそう言ってじいさんの方を指示してみせた。
「私もいつか…… あのじいさんもね、最初はあんなふうじゃなかったと思うんですよ…… 私も、自分がここに来たことが正しいと思うようになる日がくるというのだろうか? ああいうふうに……  いやまてよ、実際、そうかもしれないんだが……」
 そこで会話はちょっと途切れた。
「そうだ、実はね尼さん……」
と、盲人はふいに何か言いかけたようである。しかし、マリアがあたかも「これ以上聞きたくない」というように熱心な口ぶりで、彼の言うのを遮ったのだった、叱りつけるようにして。
「どうして…… 一体どうして、私が立ち止まったと思っているのですか? なるべくしてって…… それじゃあなた、どうして私を呼んだりなんかしたの?」
「どうしてって…… そりゃ……」
 盲人は言うと、なんだかすまなそうに顔を俯けたのである。その様子を見てとった彼女の瞳に、さっと炎のような輝きが宿った。それは、暗闇の中でも分かるのだった。マリアは短く、熱っぽい口調で呟いた、
「望むのなら…… あなたが望むのなら」
 しかしそこでふと、喉の奥がつかえたようになったのだった。それ以上、言葉が出てこないのである。それは、本人にとっても思いがけないもので、中断は突如として訪れた。それは実は、こうした考えが彼女の頭の中にひらめいたからである……(望むのなら、だって? この人が望むなら…… ただ望みさえすれば、この人は、今のここから抜け出せるとでもいうのだろうか? 私は確かにそう言おうとしたのだろうか…… おそらくそう言おうとしたに違いない、私は! でも、どうやって…… いったいどうやってこの人はここから抜けだすの? 私が…… 助けようというのか? 私は、そう言おうとしたのか? 本当に? でもいったいどうやって…… どうやってこの人を?)
「望むのなら……」
と、盲人はうつむいたままで、マリアの言ったのを繰り返した。そこで沈黙が訪れた。するとマリアは妙な不安に駆られて、語り出さずにはいられなかった。
「それにしても…… あなたは、望んでこの世界に生きるようになったのではありませんわね…… お話を聴いていると…… 私には、それがよく分かりますもの」
 彼女の舌は、全然別なことをしゃべり始めていた。
「あなたのお気持ちはよく分かります…… あなたは何か、悲劇的な運命によってここにやってきたのでしょう。ひょっとすると、その目だって……」
「そうですよ、それをさっき言おうとしたのです」
 盲人が顔を上げて答えた、
「〈過ぎ去りし幸福を思い返す時ほどの悲しみは無い〉とは言いますが…… いや、まさにそれですよ。昔は私にも人並みの…… いいえ、それ以上の生活がありました。それが、今はどうだろう。この有様ですよ」
 そう言って彼は、大仰な身振りでもって、自らのなりを示してみせたのだった。彼のまとったぼろきれのような衣服、その原型を留めないまでに朽ち果てているものが、気色悪いべっとりとした衣擦れの音を発てた。鼻をつく獣の匂いとともに、そうして初めて分かったのは、男は半裸に近いということであった。彼はそのぼろきれにそれまですっぽりと身をくるんでいたので、マリアは知るべくもなかったが、こうして大きく手を広げられると、暗いのでよくは見えないが、その衣服のようなものの所々破れた箇所に、ちらちらと彼の肌が覗いているような気がした。
「記憶の甘い香りは、私の心を陶酔させ、それとは逆にまた、切り裂こうともします。悲しい心の中に、甘い記憶が沸き上がってくると、その甘さは一層愛おしく、捨てがたいものとして感じられてくるのです。愛惜というやつですよ…… 尼さん、過去の記憶は、それに陶酔できるということでは優しい。しかし、その過去に対する羨望、現在と未来に対する悲嘆の念が伴ってくると、この上なく残酷なのです…… にしても、あなたを呼び止めたのは他ならないこの私だから、私がどのような道を辿ってきたか、手短に申し上げるとしましょう…… あなたの言う通り、私は元々盲人なんぞではなかったのです。世界が光輝いて見えたことが、私にもありました。この世で、私に光を授けた二人、私の父母は今、墓場の中に眠っています。なぜなら……」
 彼は咳払いをして、続けた、
「処刑されました、何かの陰謀に関わったとかで。黒魔術で…… 誰だかは言いませんが、かの行政長官を暗殺しようと企んだらしいのですよ…… ですが、私の父母は、(生前に父は役所勤めをしていましたが)最後の刻まで、火刑台にくくりつけられた後で、その生命が絶たれるところまで、無実を叫び続けていたものですから、私は、彼らが真に潔白であるということを、今でも信じて疑いません」
「噓つけ!」
 こう言って遮ったのは、この路地のどこかにひそむ人間らしい。軽蔑するようなこの物言いがどこからともなく聞こえてきた時、マリアは、びくりとして声のした方を振り返ったのだった。しかし当然、その姿は闇の中に見えなかった。
「お前の親父がやったのさ。あっは、間違いない、俺は、あいつが広場で焼かれるのを見たぞ! お前の親父は心の底から無実を叫んでいたのではなく…… ただ単に哀願していただけだ。お前の親父の言っていた〈やってない、やってない〉ってのがな、俺には、〈助けてください、助けてください〉ってな、そう聞こえたよ! あっは! いや、俺にはようく分かるよ…… 最後まで恩赦を諦めなかった…… 誰かが、それが人か神かは分からんが、自分を火刑台から救ってくれると希望にすがっていたものらしい。だがその往生際の悪さは、ある意味賞賛に値するよ! ほら、貴様もしっかりと、その血を引き継いでいるじゃないか…… 自分が殺されなかっただけでも感謝するんだ、小僧」
 口を挟んできた男のしゃべりの終わる間際より、盲人の挙動にはむらむらとした怒りがこもってきて、彼は首を振り、肉親の有罪を宣告する言葉の一つ一つを否定したのだった。口を挟んできた男は、笑いをこらえる人のよくする、あの諧謔と侮蔑に富んだ引き攣ったような声で、続けてマリアに語りかけた。
「な、尼さん…… こいつは人殺しの息子なんですよ。両親のせいで、お偉いさんらから恨みを買い、目の玉をぶち抜かれたんです。こいつはそれで生活を失って、なのに、まだ両親を呪おうとはしないで、心まで盲になってその無実を信じ込んでいる有様なんですよ……」
 すると、この路地の隅の方、またどこからともなく「ひひひ」と忍び笑いの声が聞こえてきたのである。
「…… こいつは、この哀れな馬鹿野郎は、この路地を人が通ると言うんです。〈哀れんでください、哀れんでください〉ってな…… 尼さん、ちょうどあなたがそうされたように…… へ、へ、両親と同じですよ。自分の相応もわきまえず(なんたって、家畜以下の生き物らしいんですからな、俺たちは)、声高にそう言っていれば、いつか必ず、救い主さまが現れて、自分を助けてくれるもんだと、本気で信じているんだ! …… 自分は本来ここにいるべき人間ではないと、受け入れることが出来ずにね…… あるいはあなたをたぶらかそうとして」
(でも、私が来たわ)と、とっさにマリアは言おうとした。しかし、それが口に登るようなことはなかった―それがなんだか思い上がりのような気がしたから。自分に対する、疑惑のような感情で、それはマリアの心の中に、最初はさっと刹那的に顔を覗かせただけだったが、彼女がそいつの嘲笑をちらと認めてしまうやいなや、その軽蔑的な笑いの顔はどんどん、どんどんと大きくなっていって、大きな口で笑うそれは、心の中を不快に満たしていくのだった。そこで、マリアの耳には再び、口を挟んできた男の声が聞こえてきた、
「…… どうです? 私はね、尼さん…… もう長いことこんな生活をしているんでね、知っているんですが…… 誰も決して、私たちを救ってくれなんかしませんよ。神様なんてなおさら! だって…… 人が救ってくれるってことは、すなわち神様が救ってくれるってことだから。神様が、私たちに姿を見せることがありますか? …… きっと、神様は優しく、優しく私たちを見守ってくれているんでしょうね! きっと、きっとね……! へ、へ…… この盲人はね、そのことを理解していないんですよ…… いまだに! ありもしない救いを求めて、生きているんだ! ですが、それに関しては、尼さん。あなたらも悪いんだぜ…… あんなことばかり言ってるあなたらも…… おお! 神の使いよ! へ、へ!」
 マリアは、男の冒涜的な言葉に対して、終始無言であった。彼女はただじっと、嘲笑渦巻く闇の中を、虚空を見つめていた。
「…… 分かったろ? そいつは、そんな下卑た野郎ですよ! 美辞麗句を並び立てては、人の心を動かそうなどと、邪悪な魂胆で喋っている…… それでもあなたは、こいつを助けたいと思うかい? へ、へ、尼僧さん、あなたまさか本気で…… そいつが、あなたのお情けに値するような人間だとでも思っているんですかい……? あなたはなんのためにここで足を止めた? そいつを哀れむため? そう、そうなんだろうね…… それは、確かにそうなんだろう…… じゃあ、なんのためにそいつを哀れむんだ? 尼さん、あなたはそいつを哀れんで、一体どうするっていうんだね?」
 尚もマリアは黙っていた。(邪な魂胆? 本当に、そうかしら? 本当に、この人は…… 邪なのかしら? ひょっとして…… そうすると私は、この方の言うことを聞かないでいる方が良かったのかもしれない…… そのまま通り過ぎて…… そのまま、そのまま……)彼女はかぶりをふって、(いやいや、してそんなことはないはずよ……)と、自らに言い聞かせたのであった。そして怯えたようにぎこちない所作で盲人を見やった。すると彼が耳を澄ませて、問いに対するマリアの返答を待ちわびているのがよく分かった。彼はおそらく、こうして自分に見つめられていることも、挙動に表しはしないが気付いているだろう…… 彼を見ているだけで、マリアは盲人の、なにか懇願するような感情が、自らの胸に押し寄せてくるのを感じ取らざるをえないのだった。そうしたものに押し出された感情が唇から漏れ出て、「私は……」と、呟いた。すると声はざわざわと石壁を伝い、この路地を支配するしじまの中を駆け巡ったが、マリアは、こうして響きながら虚空へと再び姿を消してゆく自身の声の中に、はっきりと、恐れやおののき、疑いといった感情たちが震えているのを見出したのである。(ああ…… どうして、どうしてだろう? この人が邪悪だったら…… 邪悪だったら、私はこの人を助けないというのだろうか! ああ、だけど、なんとなく分かる…… 私の中で、秤が揺れている……)彼女は体を震わせた。(この方は私に慈しみを求めている。私はこの方を哀れに思い、そうして救いたいと願っている! ああ、理由なんているのかしら? 何も、何もいらないわ…… 迷うことなんてないじゃない。だめだめ、疑いを持っては…… だけど、もし仮に、本当に仮のこととしてよ…… 邪悪な人に慈悲を与えたら、一体どうなるんだろう? いったい…… どうなるだろう)
 そうして考えていたが、突然マリアはさっと面を上げた。外界の沈黙が続けば、なんだかむらむらとした焦燥に駆られてくる…… それがなぜかだかは分からないが、彼女は今すぐに、嘲弄的な問いに対して答えなければならないと感じたのである。
「私は、この方を、救いたいと願っているわ……」
「救いたい…… 本気なんだな…… 尼さん、ええ? いやまったく、恐れ入ったよ…… でも、どうやって? …… いいや、分かるよ、俺には分かる。あなたの言いたいことがようく分かるよ! 優しい優しい尼僧さん。あなたがどうやってこいつを救うのか…… そいつはな、あなたがこいつを…… へ、へ、他ならない、こいつを……」
 男の声は、引き絞られた弦のように、かすかに震えだした。それは、笑いの緊張がもたらしたものなのであった。
「愛することによって、だろ?」
 とたんに、マリアの顔はさっと青ざめた。彼女はほとんどためらいがちで、ぽつりと呟いたのだった。
「それは…… ええ、そうなのかもしれませんわね」
 すると突然、まるで待ち伏せでもしていたかのように、洞窟のような路地裏に潜んでいるならず者たちが、いっせいにその哄笑を爆発させたのである。マリアは驚いた、そのあまりの声の多さに…… 
「いかれている!」
 暗闇より、腹をよじる苦しそうな引き笑いが聞こえてきた…… 
「ひ、ひ…… そんなに言うなら、そのお前さんの愛とやらで、是非とも俺たちを救ってもらいたいものだ……」
「…… この娘は…… ひょっとしたら、俺たちよりいかれてやがるかもしれないね!」
「尼さん、教えといてやろうか。あなたは俺たちのことを哀れんでくれなくたっていいのかもしれないよ…… なぜなら…… へ、へ! ここにいる乞食どもは、なるべくしてこうなった連中たちだ……  たとえあなたが哀れんでくれたって…… 他ならぬ乞食が、乞食たち自身が、あなたの哀れみに値する人間ではないのかもしれないんだ…… そうだ、それで実際、多分その通りなんだろうけどな。ええ、お前、それを考えたことはあるかね?」
「断言しといてやるがな…… あなたら聖なるお方たちが、俺たちのために楽園をこさえてくれたって…… すぐに俺たちはそこから逃げ出すだろう! どこへ行ったって、俺は…… 俺はまたここへ戻ってくるだろう…… きっと!」
「お前なんかに救ってもらわなくたって、かまわないさ! …… おせっかい!」
「おせっかいだなんて……」というマリアのつぶやきは、雑多な響きに飲まれて沈んだ。
「…… 尼さん、あなたは優しい。あなたは多分本当に優しいんだと思うよ。けれど…… 俺は…… ちぇっ、どうしてこんなことをしゃべっているんだ? さあ、失せろ! めんどくさいやつめ……」
「…… だいたい、こんな夜に、あなたはどうしてこんな掃き溜めを歩いてやがる? さあ、理由はどうあれ、とっとと消えた方が身のためだよ…… 俺たちが乱暴な気を起こす前に…… ええ、今日の日だけは、神に感謝しておくがいい! さあ、行け! 行け……」
 マリアは自身を罵る言葉たちに対して、涙を溜めたのだった。闇を見つめながら、わなわなと震える唇を開いて言った、
「全然、気にすることなんかない…… あなた…… この方々には、言いたいことを言わせておけばいいんです…… ええ、そうよ! 気にする必要なんて、ぜんぜんないわ……」
 それはもちろん、盲人に向けられた言葉だった。しかし路地の哄笑はいまだに高く、聞き手の耳がこれほどまでに冴えていなければ、か細いその言葉は、誰にも聞かれることがなかったかもしれない。
「…… 主は、決してあなたの声を見捨てたりなんかしない…… ええ、本当よ! …… ええ、少なくとも私は…… 沈黙したりなんかしない」
 すると盲人がはっとしたように、
「尼さん、あなたは……」
 しかし、マリアはそれをたしなめるふうに、
「大丈夫、大丈夫……」
と、語りかけたのだった。
「…… なんと言われようが、ぜんぜん、関係ありませんわね? 私は、あなたを……」
 マリアは彼の手を取った。申し訳なさそうにちらちらと視線を落としながら、言葉に詰まった。しかし突然、せき止められた言葉をどっと溢れさすように、
「…… ただ、今はだめです! 今だけは…… だめなんです!」
と、そこからまた、妙に口ごもって、
「…… 今は、私をお待ちになる方がいらっしゃるから…… 死に際を行ったり来たりしながら……  実は私、その方の所へ向かっている途中だったのです。ああ、そうだった! 私、急いでいるの! ですから、今はここを通り過ぎないといけません……」
「尼僧さん、あなたは……」
「よく聞いて!」
 盲人がなにやら不安げな様子で言ったのを、彼女は遮った。薄情者だと思われて、相手の心に失望を生むのはなんとしても避けなければならないのだった。
「私は決して、あなたのことを、ここに置き去りにしたりなんかしない……」
 そこでまたちょっと沈黙が訪れた。二人ともが自身の内的な考えの中に没頭しつつも、相手が次に何を言い出すかと、ちらちらとお互いを気にしているようなのだった。突然、男が口を開いた、
「ねえ、尼僧さん…… 望むのなら…… あなたが望むのなら」
 彼はおずおずと、
「あなたは私のことを全然うっちゃっておくでしょう…… そう、そうなんだ」
「何を言っているの?」
 マリアははっとしたように聞いた。すると彼は、
「…… だって…… 私にはあなたが、とても苦しそうに思えたものだから……」
と、言った。急な言葉に、マリアは思わずどきりとしたのだった。
「苦しそう…… 苦しそうだって、私が?」
しかし男はそれ以上何も言わなかった。(だけど…… いったいどうして私が苦しいっていうんだろう…… ああ、あなた、どうしてそんなことを言うの?)だけどそれは、確かにそうなのかもしれない…… 実はマリアにしても、この考えは元々抱いているものなのだった、それまではあえて考えようとしなかっただけで。だが実際、彼の言った通り、別の人間からするとマリアは苦しそうに見えるのかもしれなかった。(いや、そんなことはない…… 私が苦しそうって、この人、なにか思い違いをしているんだ…… そう、そうよ。それで、もし仮に、本当に仮のこととして…… 私が苦しいというのなら、それは他ならぬ、ここに哀れな人がいるということによる苦しみなんだ…… だけど、これってただ私が…… 他ならぬ、自分の苦しみから……)するとこの瞬間マリアには、相手を哀れに思うということ自体がなんだか思い上がりのような、罪なこととして感じられてきたのである。盲人は、暗にそれをほのめかして、こちらを批難しているのかもしれない…… それなら一刻も早く、この苦しみから逃れたくなるのだった。逆に言うとそれさえ出来れば、万事片が付くわけである……(…… でも、そんなことができるだろうか! だってそれはつまり、この人を…… だけど、そうだわ。この苦しみは捨てられる。捨てようと思えば、ここを通り過ぎれば…… 私がこの人を見捨てたら、私はこの苦しみから…… けど、立ち去ることによって苦しみは、余計にひどくなるんだろうか? ああ、ひょっとすると! いっそのこと薄情者になればいい。私が望むのなら…… でもそんなことが出来るだろうか? この私に……)尼僧の体は震え出した。頭に何やら引き裂かれるような痛みを覚えながら、マリアは考えるのだった。(それに、私にいったいなにが出来るっていうんだろう? この人のことをうっちゃっておいたって…… それはそれで、別に構わないじゃないの…… そもそも私は、この人を、いったいどうやって助けるっていうんだろう? …… 愛することによって? 本当に? あっは! 私は、イエスでもないのに……)彼女は盲人の顔をふと何気なしに見やった。無言で何かを待ち侘びるような表情…… 尼僧は、胸の底にじんわりと、何やら暖かいものが広がるのを感じるのだった。(だけど…… これほど大事なものが他にあるだろうか? 他に何がいるっていうんだろうか! ああ、いったい…… でもこれって、ただの思い上がりなのかしら? あなたをなんとかして救いたいというこの気持ちだって、ひょっとしたら自分のためのものなのかもしれない…… ええ、思い上がりよ。罪よ。余計なお世話よ! そう、そうね。そうかもね…… ああ、だけど…… それにしても、私があなたを癒してさしあげることができたら、どんなにかいいだろうに……)マリアはそうしていつの間にか、黙りこくってしまった。
「…… 尼さん?」
 彼女の奇妙な様子が気にかかったのか、盲人の男は言った。すると突然、まるで彼の言葉に自然と反応するみたいに、マリアの右手がすっと持ち上がったのだった。絶えず震える指先は、閉じたままの男の瞼にそっと触れた。
「やっぱり…… 治らない」
と、マリアはぽつりと言った、
「どうしてだろう…… 私ではだめって言うの? 私がイエスではないから? そう、そうなのね?」
 この奇怪な振る舞いによって呆気に取られてしまった相手を、マリアは急に抱き寄せたのだった。
「救う力がないのに、救いたいと願うことはそれほど理に叶わないことでしょうか?」
 彼女は震える声を絞り出すように、
「ごめんなさい…… ごめんなさい! 私には足りないのよ…… 足りないから、あなたを救うことができないの…… 私はあなたを救うことができないのよ…… だけど、私は決してあなたを見捨てたりなんかしない。必ずここに戻ってきます……」
 そう言って彼からそっと体を離すと、マリアは立ち上がって、再び歩き出したのだった。履物の音が再び響き始めた。その足取りを追うかのように、いやらしい忍び笑いの声はどこからともなく、その唇の歪んだ形をはっきりと音で象りながら、ひたひたとついてゆくのだった。

 月の光によって潤いを増したかにも思われる夜空、その柔肌に、燕型をした矢狭間が先端を突き立てていた。そしてその小窓は一つ目よろしく、「お前がこれから行おうとしていることを、俺は何もかも知っているぞ」とでも言いたげに、高い場所からこちらを見下げていた。大きな箱形の建物には直角しかありえない―目にする者を恣意的に、そのいかつい角によって威嚇するかのようであった。宮殿はいつもと変わらない、だが今宵は更に残忍な狡猾さをもそこに孕んでいるかにも思われた。マリアは二本足で石畳をしっかりと踏みつけ、少し離れた場所からそいつを睨みつけていた、胸をぐっと反らしながら―そうでもしないと気圧されてしまいそうだったから。一見、彼女はつんと澄ましてびくともしないふうに、決意に固まったような表情をしているが、実際のところ、心臓の鼓動はばくばくと、先程からこの宮殿に近付くにつれてどんどんと大きくなるばかりなのだった。今ではそれが、胸を突き破りそうなくらい内側から強く叩いていた。当たり前のことだが、マリアは怖かった―いったいどうして怖くないわけがあるだろう? 誰かに見つかって、捕まってしまう光景が、ちらちらと頭の中を掠めすぎてゆく…… どれだけその光景を考えの外に追いやることができたとしても、心臓の鼓動が高くなっていることが、その光景の置き土産のように―自分の忘れようとした不安が確かに存在していることを、またいちいちと知らせてくるのだった。(…… 怖い? どうして怖いなんてことがあるだろう? 正しい心を持っているなら、怖いことなんて何もないわ……)彼女は、自分の胸を内側から激しく叩く音に耳を澄ませながら考えるのだった。しかし実際マリアしたって、自分が捕まるかもしれないと思っているのだろうか? もしぜんぜん捕まることがないだろうというのなら、そもそもそんな光景を空想するはずがないのである。(…… 大丈夫よ、正しい行いをするならきっと…… そうよ、心配することなんて何も無いわ)彼女は思うのだった。だが実際、どうして失敗しないなんてことが言えるのだろう? (大丈夫。正しい行いをすれば、それはかならず…… 神は見ている。だけど、私のやろうとしているこれは、本当に正しいことなのだろうか? ああ、でも、もうこんなことは考えないようにすることね……)彼女はそうしてじっと隙を伺ったのである。
今がその時だった。宮殿の周りには誰もいない。マリアは影から影へとさっと飛び移った。吸い寄せられでもしたかのように、宮殿の壁にぴたりと張り付いた。慣れたように裏口の扉へと壁伝いに歩み始めた…… ところでマリアは、ここに来るといつも誰かに見られている気がするのだった。いったい、誰かが自分のやろうとすることを全部知っていて、待ち伏せたり、つけてきたりしているんじゃないだろうか? …… きっと思い違いなのだろうけど。彼女は呼吸を止めて耳を澄ませたのだった。それで、こうすることによって何かのうごめく音や気配といったものを認められたことは無いのだけれど、マリアの中ではもはやこれが一つの通過儀礼のようになっていて、彼女はこれでやっと裏口の扉を叩く気構えになるのだった。とん、とんと、静かに、だがはっきりと知らせるために厳かに叩いた。
「誰ですか」
 内側より、男の押し殺したような声が聞こえてきた。尼僧は顔を寄せて、唇を扉に押し当てるような格好で答えた。
「私です。マリアです。さあ早く、人が来てはいけませんから……」
 僅かな間を置いて、裏口の扉が開いた。それが半分開くや否や、マリアはさっと内側へ入り込んだ。出迎えたのは燈火を持った牢番がただ一人である。彼は扉を閉じた。逃げ場を失った明かりが、二人の影を内壁に焼き付けたのだった。牢番はかんぬきも落とした。
「誰にも見られていないでしょうね?」
「ええ、おそらく…… それより、ヨハンネスのご容態は、どうなのです?」
「ああ、彼なら……」
 牢番は何やら考え深げに黙り込んだ。マリアはその顔をじっと見つめて、答えを欲していた。言うまでもないが、今のマリアにとっては、それこそが世で一番の関心ごとなのである。だが、牢番が続けて出した言葉は、全然別な、尼僧にとってまったく思いもかけないものだった。
「…… 本当に、本当にやるんですかい? こんなこと、こんな馬鹿げたこと……」
 一瞬、マリアは彼の言ったことが理解できなかった。まばたきが二、三度行われるほどの間が沈黙と共に刻まれたのである。問いを問いで返されたマリアもやはり、問いで返す外ないのだった。
「この期に及んで、どうしてそのようなことを?」
「だって、分かっているでしょう」
「ええ…… ですが、決まっています。私は今夜そのためにやってきたんですから。馬は外につけてあるのでしょうか」
「ええ、それなら、すべて問題ありませんよ。ですが……」
 彼の声は妙におどおどしていて、
「考え直してはくださいませんか? 尼僧マリア…… どうしてこのようなことをなさるのです? 私は、あなたの身を案じているからこそ言うのですよ。もし、このことが外に知れたら、あなたまで疑いを持たれて…… 捕まって、火刑にされますよ」
「そうは言っても、私には彼を見捨てるなんてこと、出来ませんもの」
「ですが……」
 牢番はそれきり黙り込んでしまったのだった。何やら哀しげな、こちらを批難するかのような眼差しをちらつかせながら。二人とももう何も言わなかった。ただ一言で良かった。それが相手の口から出てくるのを、二人ともが待っていたのである。それはまるで、今から乗ることになる危険な暴れ馬の手綱を譲り合ってでもいるかのように。ついに言ったのはマリアだった、
「行きましょう」
「では、さあ、こちらです」

 もう何度も行き来した通路―だが、今はいつにも増して足をそばだてねばならなかった。宮殿の中はひっそりと静まり返っていて、どれだけがんばってみても完全に足音を消すことは出来なかった。牢は階下にあるから、狭苦しい階段を下りることになる―それを下りてしまうと、四角い格子窓の付いた扉に行き着いたのだったが、すると牢番が腰から鍵を取り出して穴に差し込み、扉を解錠した。鉄でできた輪の取っ手を持ち、引こうとしたのだったが…… 牢番はそこで、はたと動きを止めて、尼僧を振り返ってまた問うのであった。
「尼僧マリア、考え直してはくれませんかね」
 扉が開けばすぐにでも中へ飛び込んでいこうと、その心と脚とがおさえがたい衝動によってかき立てられていたマリアは、苛立ちを隠せずに言うのだった、
「…… ニコラウス、私は、あなたのことをとても優しい方だと思っています…… あなただって、魔女を哀れに思って、私の考えに賛同してくださったじゃない。どうして、今になってそのようなことを?」
「ええ、ええ」
 彼はうなずきながら、息苦しそうな様子で答えた。
「そりゃ、ここに入れられた奴の中で、かわいそうでないやつなんていませんよ。私はあなたよりもたくさん、そういった連中を見てきている。それで言うんですがね。でもやはりね、いざこの時になってみると……」
「…… 怖い? あなたも怖いって言うの?」
「いえ、そういうわけではありません! …… いや、平たく言うとそうなのかもしれませんな」
 そこでちょっとまた沈黙が訪れたのだった。やにわにマリアが口を開いた、
「…… ですが、分かります…… ええ、分かりますよ! あなたがそうおっしゃることにも無理はないわ。そうね…… きっと、馬鹿なのは私のほうね」
 彼女は相手を見据えながら付け加えたのだった、
「ですから、許そう、なんて大層なことは言わないから…… どうぞ、速やかにここから…… 立ち去ってはどうかしら? ヨハンネスだってまだ動けるでしょう…… 私ひとりでも大丈夫よ、きっと。どうぞ、今夜のこれは見なかったことにしてください…… 全然知らなかったと。鍵のことは…… そうね、私にそれを貸してくだされば、なんとかいたしますわ…… 川にでも捨てて。そうすればおそらく、あなたをとがめ立てする方はきっと、誰も…… ええ、それであなたも、どこかへ……」
 マリアの言葉は次第に潰えていき、彼女は不安げな様子で相手をちらちらと見やった。看守は、ひとつも瞬きをせず、尼僧の青ざめたような表情をじっと睨みつけているのだった。突然、彼は長い瞬きをして、大きなため息をついた。それから、妙にぎらぎらとした瞳で彼女を睨みつけて、
「尼僧マリア…… あなたはなんというか……」
と、呟いた。看守はどうやら呆れていたに違いない…… それでもゆっくりと扉を引いて、彼はマリアに道を開いてみせたのだった。
「さあ、さっさと済ませてください」
 この急な振る舞いは、どうやら尼僧に驚きを与えたらしかった。マリアは少しの間ためらいがちに彼と、扉の向こうに広がる暗闇とを見比べていたが、礼の代わりとでもいうようにして彼に一瞥を与えると、意を決して監獄に踏み込んだのである。
 ユニウスの捕らえられた牢は、一番奥にあった。足早にそこへと向かうマリアは、背後で牢番が扉を閉める音を聞いた。彼の持った燈火が後ろからついてくるので、牢内は明るく照らし出されていた。マリアは、もう慣れっこになっていたのか、監獄に立ちこめる悪臭にも物怖じせず、目的の部屋の前へさっと駆け寄り、ひざまずくと、格子の一つを手の甲でこんこんやりながら、牢の中に問いかけるのだった。
「ヨハンネス、ヨハンネス…… 私です、マリアがここに来ましたよ……」
 しかし返事はなかった。(寝ているのかしら?)マリアは、看守の方を振り返った。彼はだらしのない足音を発てながらこちらに歩いてきた。
「牢番さん、ヨハンネスはどうやら……」
「ええ、寝ているようですね」
 看守は彫像のように冷たい、うんざりしたような無関心さをその表情にたたえていた。それを見たマリアは、ぞっとするような不安を覚えたのだった。看守は尼僧の背後に来て、燈火を掲げた。それは格子の向こうを明るく照らし出した。牢の中央には大きな椅子があり、体中を鎖と枷とによってがんじがらめにされたユニウスは頭を垂れて、そこに座していたのである。
「ヨハンネス…… 私が……」
 マリアは、再び言いかけて、はっと口をつぐんだ。まさかと思った。だが、それはどうやら現実のことらしい。明かりに照らされて、どう見ても、ヨハンネス・ユニウスは絶命していた。椅子の上に腰掛けているのは、彼の無惨な屍であり、それは拷問によって穿たれた数々の傷跡を、こちらに見せつけているのだった。ただ、その瞳だけが何かを見据えるように飛び出ており、それはまさにそこだけが生きているかのようでもあり、また、死して尚生に執着しているかのようにも見えた。しかし実際、この瞳も拷問によってそのような奇怪な姿を晒しているのかもしれない…… そこでマリアは初めて気付いた―信じたくはなかったが―牢内に立ちこめる嫌な臭いとは、実は垂れ流しになった彼の体液より湧き出ていたのである。
「ああ……」
 マリアは呟いた。
「どうして……」
 彼女は卒倒しそうになったが、格子に捕まって事なきを得た。ひんやりとした鉄の感触に、意識の振動は収まったが、彼女の呼吸は荒く、顔は真っ赤だった。両手で格子を握り締めて、
「どうして、ヨハンネス…… 死んでしまったの? どうして……」
と、か細く、寂しそうに呟いた。だが次に、叫ぶような声で、
「それなら…… あなたの苦悶は、いったい何のためのものだったというのでしょう!? …… ああ…… こんなこと、こんな酷なことってあるかしら…… ねえ、あなた!」
と、言った。横では看守が、さすがにいたたまれなくなったのか、
「先程、息絶えたのですよ…… あなたは少し遅かったんです、尼僧マリア…… 彼への拷問は本当に酷いものだった。…… 見りゃ分かるでしょう、とっくに……」
と、言った。彼の声も僅かながら震えているように感じられた。それはマリアへの慰めのようでもあったが、それとは逆の、なんだか彼女を責めるような強い調子にも聞こえた。それはまるで、囚人を死に追いやったのが彼女の責任であると言っているみたいなのだった。しかしそれが聞こえているのかそうでないのか、尼僧はただ情けなくしゃくりあげるばかりなのである。
「…… どうしてこんな目に? 何か、あなたが悪いことをしたっていうんだろうか? 正しい心を持った、あなたが…… ああ、そう、そうだわ!」
 彼女は突然顔を上げると、
「神は、神はどうしてこのような残酷をお許しになったのでしょう? どうしてこの方をここまで……  苦しめたの? どうしてあのような暴力を、世に放ったままにしておくのですか? 答えてください! 一体、これほどの苦しみを、何によって贖われるおつもり? ええ、永久に機会は消えてしまったのよ…… この苦しみは、贖われない。永久に…… それに、あの娘は…… ヨハンの娘のヴェロニカは、これからどれほどの苦しみを背負って生きていかなければならないのだろう! いったい…… ああ、考えただけでもぞっとする……」
 マリアは言い終わると、突然ぴたりと嗚咽をやめた。それは自然におさまったわけではなく、恣意的におさえたのである…… 唇は固く結んでいるが、涙はとめどなく流れ出ていた。頬がぴくぴくと震えていて、それは何かを必死でこらえているふうでもあった。尼僧はゆっくりと立ち上がった。そして天を仰いだ、一言も発せずに…… 石で出来た天井を、真っ赤に充血した瞳によってにらみつけた。
「聞こえない…… ほら、聞こえない!」
 マリアはそう言った。さっと顔をむけて、
「牢番さん、あなたには聞こえましたか?」
「い、いや…… なにも聞こえませんよ。ああ、まさか……」
 看守は慌てたように言った、
「誰かが私たちのことを聞きつけて…… 尼さん、あなたにはそのような音が聞こえたっていうんですか?」
「なんですって? 誰かが私たちを…… 私が言っているのはそんなことじゃありません! それじゃあなた、なんにも聞こえなかったんですね?」
 聞かれた看守だったが、尼僧のただならぬ気配、わけのわからない言動に驚かされて、彼は一言も言うことができなかった。
「私にも聞こえません」
そう言ったマリアの唇には義憤の慄きが走っていたが、しかしそれとは別な、悲哀にも似た感情によって歪まされてもいたのである。
「なんにも聞こえません。…… 神は、どうして黙っておられるのでしょう」
 それは己の無力さに対する絶望であったに違いない。マリアは涙を流しながら述べるのであった。
「ここで、こうして…… のたうち回って苦しみ悶える私たちを見ているのが…… そうだ、楽しいんだ! ええ、実際楽しいんでしょうよ! 私たちは、滑稽なんだわ…… 苦しむのは、滑稽なのよ」
 しかし突然、彼女は咳ばらいをすると、
「でもそうじゃないわ! 神は…… 私には分かる。憐れみは存在する。神は私たちを憐れんでらっしゃる。私には分かるもの…… ただ、私たちにはそれが見えないだけなのよ…… ああ、だけど」
 そう言ってマリアはユニウスの亡骸を指差してみせたのだった。
「どうして、人がこれほど苦しまなければならないというの? いったい、何か理由があるの?」
 そして尼僧は激情にまかせて、がちゃがちゃと鉄格子をゆすり始めた。
「やめなさい 尼僧マリア! もし上の階に聞こえなんかしたら……」
「どうして? 答えてください! 彼を返して! 苦しんだ彼を…… どうして意味も無く苦しめたりしたの?」
「やめなさい、やめなさいったら……」
「ええ、この苦役に意味なんてなかったわ…… 彼が死んでしまった今」 
 看守が、尼僧の激しく揺さぶる肩をつかまえて、押しとどめようとした。しかしまったく逆に、それが焚き付けとでもなったかのように、マリアは相手の手を振りほどこうとしてより大きく身をよじり、行動の激しさを増してゆくのだった。
「お願い…… 目を開けて。私です、私が来ましたよ…… マリアがあなたを連れ帰りに来ましたよ。どうして眠っているの? ねえ、ヨハンネス…… 帰りましょう。あなたの家へ。あなたもそれを望んでいる。私にはそれがよく分かりますもの……」
 そこで彼女はぴたりと動作をやめ、寂しく問いかけるように、
「ねえ、どうして起きないの? 私がイエスではないから、あなたは眠ったままなのかしら……  私には、あなたを起こすことが出来ないとでもいうのかしら? ああ、まだ足りないというのか」
「尼僧マリア、いい加減にしないと……」
「どれだけ信じても、希っても『まだ足りない、まだ足りない』って…… 救いを求める人間がいて、救おうとする人間がいる…… ここにいるわ! いったいこれ以上に何が必要なの? どうして私たちふたりの間を隔てるの? こうまで執拗に……  私たちの間に苦難をおくのか!? ああ、今すぐに行ってあなたをそこから…… どうして、この鉄格子が…… そうだ!」
 マリアははっとして、ある種の不気味ささえ感じさせるほどに声の調子を明るくしたのだった。拳を握り締めて、
「分かった! …… これが邪魔なんだ! これが」
 見据えたのは錠前の交錯したところだった。彼女はそこを力任せに叩き始めた。皮がむけて血が滴り落ちた。それを見た看守はぎょっとして、
「やめなさい! ああ、あなた、気がふれてしまったんですね…… 鍵なら私が持っていますよ。だけど、入るのはやめなさい。死体です。ええ、いくら時間が経ってないからといって…… 彼は傷だらけなんです。病気になりますよ」
「構わない!」
 マリアが、狂乱して初めて相手に答えた。
「だから、さあ早く! 早く開けて! この忌々しいものをどけてちょうだい!」
「だめだと言っているじゃないか! 落ち着きなさいよ、尼さん……」
 そう言った看守を責めるかのように、尼僧はじっと見据えた。その瞳の輝きは「早く」としか言っていないようである。かといって看守がそれに応じるわけでもなく、彼もまた「聞き分けのない奴だ」といった顔で睨み返していた。沈黙―ただマリアが猛烈な興奮を―それは燈火の下でも分かるほど―隠し切れずに、肩を大きく上下させていたのである。
 マリアを我に返したものは、看守の行いではなかった―彼女自身の理性など言うまでもない。尼僧を狂乱から救ったもの、それはとある音だったが、そのか弱い音は背後の牢―通路を挟んでユニウスの牢とは向かい合いになっている場所より聞こえてきたのである。獣のうめき、力の無い断末魔のように低い囁き―喉を噛みちぎられて、風穴の空いたような空虚さ―牢の石畳を忍び寄って這い上がり、修道服にまとわりついた、すがって離さないかすかなその囁きは、最初耳にしたとき、それが幻聴かと思われたほどである。マリアは自分の聴覚を一瞬疑ったのだった。だが、二度繰り返された、その声は確かにこう言った。
「助けてください」
 マリアの感情に猛り狂っていた炎は、さっと姿を消した―なぜなら、マリアにとって、そうした声は何よりも現実的なものだったからである。
「助けてください」
 自分の声は誰の耳にも入っていないと感じたのか、三度言われたその言葉の調子は少し荒ぶっていた。だがそれもやっとのことで絞り出したように力なくしゃがれていた。(まさか……)マリアは思う、(この声が幻でないとしたら…… ここにはまだ、誰かいるっていうんだろうか?)尼僧はおそるおそる後ろを振り返ったのである。
看守の持つ燈火はユニウスの牢を照らすから、明かりはそちら側をまったく顧みようとはしていない。しかしおぼろげに分かったのは、明かりのおこぼれをちょうだいしながら、若い男が、ユニウスと同様、やはり椅子に縛り付けられて牢内に居たのである。
「ああ……」
と、マリアがうめき声を上げた。看守がおっくうそうにそちらを見やった。そして彼は、マリアをちらちらと横目で気にしながら、彼女が次にどんなことをするのかとても興味深そうに伺うのだった。
「あなたは…… あなたは一体?」
 そう言って、マリアはそちらへゆっくりと歩み寄った。囚人は答えた、
「見りゃ分かるでしょう…… こうして捕らえられているんです」
「その椅子は…… その椅子に座らされているということは……」
 マリアの声はかすかに震えているのだった。
「ああ、あなたも魔女なんですか」
「違う! 俺は……」
 叫びかけて、男は急に咳払いをした。その身の苦痛からか、語りづらそうに弱々しい声で彼は続けた。
「俺は魔女なんかではない…… 本当だよ、信じてくれ」
 小さな言葉であっても牢いっぱいに響いた。マリアは何も言わずに、彼をじっと見つめていた。そんな尼僧の瞳に、沈黙に疑いの色を認めたのか、耐え切れないように、囚人は言った、
「…… あなたも俺を疑うのか? ああ、疑っているね。そうだ、あいつもそんなふうだったよ……  あの尼僧も、黙って俺を見るだけだったさ。妙な目つきで…… だからもう俺は、信用しないことにしたよ。信じよ、信じよ、って言う奴らが一番疑り深いんだ。だけど、それはしょうがないことかもしれん…… あなたらは俺が大罪人だと、はじめから決めてかかっているんだから。それに、そう何度も何度も自分が悪人だと言い聞かされてくれば、段々とそれが本当のことのように感じられてくるんだぜ…… そうでもなければ、どうして自分が今こんなことになっているのか、分かったものじゃないからな……」
 そうして、彼は自身をあざ笑うかのように笑ってみせたのである。マリアは、彼の声の調べを底から振動させる諦念の調子にぞっとして、しばらくじっと目をこらしたままなのだった。やがて聞いた、
「…… あなた、昨日はここにいらっしゃいませんでしたわね? あなたはいったいいつ、どこから連れてこられたのかしら…… 実は私、なんとなく想像がつくのですけれど……」
「俺がいつからここにいるか、だって? …… 今朝だよ」
 マリアには何もかもがはっきりとしたのだった。
「…… それで、その妙な目つきをした、あなたを連れてきた尼僧というのはきっと…… あの娘のことね。きっとそれは…… エノイッサという尼僧ね」
と言うと、囚われの男はさっと顔を上げたのだった。
「あなた、どうしてそれを……」
「だって、彼女が自分で言っていましたもの。あなたを昨晩ここに連れてきたって。哀れなあなたをここに連れてきたって、あの娘が…… ああ、それで、私は全部知っている。知っているわ……  う、あなたのお名前だって」
 それからちょっと間を置いて、
「ベルグハルト・ヒュンフゲシュマック」
と、尼僧は彼の名を口にした。すると男は突然めそめそと泣き始めたのである。突拍子もない振る舞いだが、彼が言うには、こういうことらしい、
「ああ…… あなたはなんて優しい声で呼んでくれたのだろう…… ああ、そうだ。ここの連中は皆、まるで俺が獣か何かみたいに呼ぶんだぜ…… 『ベルグハルト・ヒュンフゲシュマック!』ってね……  俺はそれが怖いんだ…… それはとっても怖いことなんだよ!」
 彼はぶるぶると震えながら、
「ああ、尼僧さん。あなたの名前はなんて言うんだい…… 俺のことを呼んでくれたあなた、良かったら是非あなたの名前を……」
「マリア…… 私はマリア」
「マリア…… 尼僧マリア……」
 聞くやいなや、ベルグハルトはその名を呼んで言った、
「尼僧マリア、あなたは先程ヨハンネス・ユニウスを助けに来たと言いました。ええ、そうだ。あなたはそいつを助けに来たんでしょう? さっきそう言ってましたもんな…… あなたは確かにそう言った。…… ええ、どうか助けてください。この私を…… 私をこの暗い牢獄より救い出してください」
 マリアはこの言葉を聞いて驚いたのだった。それは彼女の考えの中にはまったくなかったことなのである。だがそうだ、それは然るべきことだ。それに、それは彼自身の本当に切なる懇願に違いない……  ベルグハルトの眼差しは看守の持つ灯によってきらきらと光っていた。涙に濡れた、鏡のように光るその視線に射抜かれたマリアはどきりとしたのだった。(助けてください…… 助けてくださいですって? ああ、そうだわ! 私はユニウスを助けにここに来たのだった……)思い返したようにマリアはさっと振り返った。彼女の視線は、向かいの牢、冷たくなった亡骸にたどり着いたが、すると驚いたことに、マリアには、目の前で助けを求める生きたベルグハルトよりも、この死んで臭い始めたユニウスの方がなんだか愛おしいもののように感じられてくるのだった。
「気にする必要はないですよ、尼僧マリア」
 背後から、それまで黙っていた看守が不意に声かけた。
「全然そんな必要ありません。こいつは悪党ですから、なるべくしてこうなったんです。あなたがこんなことに煩わされる必要はない…… こいつはヨハンネス・ユニウスとは違うんですからな…… こいつは…… 尼さん、今目の前にいるこいつはね、人殺しなんです」
そして彼は、マリアに仔細を語って聞かせたのである。彼が魔女として捕らえられ、ここに収監されるに至ったわけ…… つまり、商人であった彼が己の利益のために商売敵を暗殺して回ったこと、先日催された豪奢な晩餐会によってその仕業が明るみになったこと……
「…… あなた! こいつは悪党なのですよ。憐憫に値しない、こんな者は放っておくべきなんです」
 当然のことだが、ベルグハルトはそれを否定した。
「そんなものはでたらめです、言いがかりなんだ……」
「悪党ならば、誰だってそう言うだろう」
 看守の決然とした口調が遮ると、マリアはたちまち混乱の波涛に飲み込まれた。
「ベルグハルト、あなたは本当に……」
「ちがいます! 誓って…… 俺がやったのじゃない!」
 囚人は訴えた、
「…… 殺された者の中には私の友人もいたのです…… 他の者ならいざしらず、彼までも苦しめて殺す…… あの恐ろしい毒によって…… 私にそんなことが出来るとお思いですか? ええ、尼僧さん?」
 ベルグハルトは咳払いをしながら言った。(ああ、私は何をしているのだろう!?)マリアは胸中で叫んだ。(私は…… どうして彼の話を聞いているのだろう? …… こんなこと、全然どうだっていいかもしれないのに)彼女の視界は次第に霞がかったようにぼやけていった。(どうして今、私はここに立っているのだろう…… 迷う、そうか、迷っているのかしら…… 何に? この人を救うかどうかということ…… もし、今聞いた通り彼が悪い人だというなら…… 私は見捨てる…… そうだわ、私はこの人を見捨てるんだろうか?)マリアはだんだんはっきりとしてくるこの考えに少しどきりとしたのだった。(だけど…… 見捨てればいいじゃない! ええ、それで構わないはずよ…… 何も悪いことなんてないわ…… だって悪い人なんでしょう、この人? ……)マリアは何かを確かめるように、看守の方をちらりと見やった。だが彼女自身の瞳には、懇願するようなベルグハルトの視線が焼き付いていた。(…… この人は本当に悪い人なのか…… ああ! それならいっそのこと、この人が悪い人であればいいのに…… そうすれば私はこの人を……)彼女の鼓動は、激烈な調子に上り詰めていくのだった。(見捨てる! 悪い人であれば…… えっ、悪い人であればいいのにだって? …… そう、そうなのかしら…… だけどそれにしても、悪い人が救いを求めてはいけないっていうんだろうか?  それで…… この人を助けたら私はどうなるだろう? ああ、どうして私は……)
 マリアは額に手を当てて、ふらふらと体を揺すった。
「尼僧さん……」
 看守が不安げに声かけた。しばしの後、マリアは静かに言葉を発した、うめくように。
「…… ベルグハルト、おっしゃってください。それなら私に、あなたはどうしろと……」
「私を助けてください…… それだけです。本当にそれだけなのです。ここから私を……」
 囚人が答えると、途端にマリアの頭は割れそうなのだった。
「行きましょう」
 看守が冷たく言った、
「こんな奴のためにこれ以上かかわりあうことなんてありませんよ。あなた、尼僧さん…… そうだ、あなたが助けにきたのはヨハンネス・ユニウスだった。こいつでなくて…… あなたはこいつじゃなく、彼を救いたかったんでしょう? …… そうでしょう、こんな奴のためにあなたが命を危険に晒す必要なんてあるんですかね? 尼僧さん、こいつがあなたの憐憫に値するような人間だと、あなたは本気で考えているんですか? この大悪党を?」
 マリアはどきりとした。(そうよ! それは確かにそうなんだわ…… この人は悪い人! ええ、そうなのよ……)彼女はベルグハルトを見やって、(それに、私はヨハンネスを助けにここに来たのだった…… あなたではない)瞳が突然ぎらぎらと輝き出した尼僧はなにやらにやりと笑って、(…… だけど、人を救いたいだなんて…… 私はそう言ったわね? ええ、そう言ったわ…… 笑わせるじゃないの! ええ? 尼僧マリア! お前の憐憫なんて…… ただの浅ましい欲望だったんじゃないか? お前にこの人が救えるか? お前はこの人の為に身を捧げることが出来るか!? 今会ったばかりのこの人のために、こんな奴のために! でも…… どうしてこの人を助けてはいけないっていうんだろう! 私のこれが単なる欲望だったとして、欲望でこの人を救ってはいけないっていうんだろうか…… そうだ、ぜんぶ言い訳だ! お前の言っていることは! …… だけど…… 助けられるだろうか? ええ、本当に…… 私はこの人を助けることが出来るだろうか? …… 自分のおそらく望まない形で、人を助けることがお前にできるのか?)さまざまな考えに翻弄されて、彼女の感覚はあたかも実体を失ったかのようにぼやけていた。液体のように、気を抜けば今にでも霧散してしまいそうな魂を、ベルグハルトの言葉の余韻や、見えないところより聞こえてくる彼女自身の言葉によってあちこちに引っ張られている気がしたが、尼僧は自分の感覚を奪われまいと、それらを必死でつなぎとめているのだった。(ヨハンネス・ユニウス…… ああ、とても優しいヨハンネス)と、再びユニウスの方をちょっと見たマリアは、またこちらのベルグハルトに視線を戻して、(だけど、ベルグハルト・ヒュンフゲシュマック…… あなたはどう? …… いや、知らない! 私はあなたのことを何も知らない! …… ああ、秤だ! 私の中で秤がふれている…… ああ、神よ! あなたは本当にいらっしゃるの? どうか、姿を見せてください! どうか、私を裁いてください。そうして私に善悪を指し示してくだされば、私はもう苦しまなくていい…… 迷わなくて良い! そうよ! ただ一言言って欲しい…… それだけで良いのに。あなたは私にどうしろっていうの? あなたは聖書でなんと言ったの?《神は生きている者の神》ですって?)マリアの体は小刻みに震え、涙と汗とでぐっしょりとなった頬はひくひくとしながら、燈火の灯によってじりじりと苛まれているのだった。ちょっとしてからマリアは、
「鍵を貸してください」
と、言った、唇をぶるぶると震わせながら。
「あなた、自分の言っていることが分かっているんでしょうね?」
 看守が聞くと、マリアは答えた、
「分かっているわ」
 彼女は前方のベルグハルトのいる方に視線を向けていたのだが、それは何か別のものを見ているふうなのでもあった。看守は言った、
「だって…… こいつは大罪人ですよ。あなた……」
「ええ、そうよ。そうかもしれない。でも…… ああ、あなた!」
 マリアはヒュンフゲシュマックに声かけた。
「あなた、さっき自分は《魔女》としてここにいるとおっしゃったわね?」
 看守が咎めるように言った、
「尼僧さん、やめなさい」
マリアが強く遮った、
「ええ、そうよ! どうして私がこの人を助けてはいけないっていうの? …… ええ、《魔女》なんて嘘っぱちだわ。たとえこの人があなたの言った通りの大罪人だったとして…… 《魔女》なんて、あらぬ罪で拷問され、痛めつけられて、死んでいこうとしている…… どうして私がこの人を助けてはいけないっていうの?」
 看守は何も答えなかった。彼はじろじろと、世迷い言を言っているかのような尼僧を睨みつけたままなのだった。
「それに…… この人が言われた通りの大罪を犯したのだったら、どうしてそちらの罪で裁かないの? ああ、嘘っぱちよ! ぜんぶ! 嘘っぱち! きっとこの人、無実なんでしょう! ええ、そうなんだ! 分かる、私には分かるわ…… 《魔女》だなんて、きっと口実よ。この人は、不当に痛めつけられているんだわ…… ねえ、牢番さん、あなたもたくさんの《魔女》を見てきたのだったら」
 マリアは看守の瞳をまっすぐに見つめて聞いた、
「《魔女裁判》というものがぜんぶ嘘っぱちで、悪意と虚偽とによって塗り固められているのが分かるでしょう? ええ、ヨハンネスだって……」
 マリアは囚人を指差し、ぶるぶると体を震わせながら、
「確かなのは、この人が不当に痛めつけられているということ…… ええ、こんなのってあるかしら? たとえこの人が大罪人であったとしても…… ぜんぜん身に覚えのないことなのよ、多分これは…… 人が不当に痛めつけられていることを黙って見過ごすのは…… その、当を得たことかしらね……」
 すると突然、それまで黙って聞いていた看守は、
「ですが、罪人として収監されている人間を釈放するというのは…… その、当を得たことでしょうかね?」
と、答えてみせたのだった。瞳の奥底に、さっと火花のような迸りを見せながら。マリアは立ち尽くして、さっと顔を赤らめた。それは怒りにも似た感情なのであった。不意に彼女は、
「《行って、あなた方も同じようにしなさい》」
と、呟いたのだった。福音書の言葉…… そうだ、主は確かにそう言ったのである…… 頭の中で、
《行って、あなた方も同じようにしなさい》
と、同じ言葉が何度も反芻されるのだった。するとどうやら、言葉が鳴り響く度、マリアの鼓動はだんだんと激烈さを増すようなのであった―まるでそれが、自身の心臓を焚き付けでもしているかのように。マリアの右手はぎこちない動作で動き始めた。その言葉は、彼女にとってある種の脅威だった。彼女は立ちすくんだまま、(主がそう言ったのか? 主がそう言ったからか……? 主がそう言ったから、私はそうするのか?)と、自問した。そしてついに、その指先が看守の腰に取り付けられた鍵束にそっと触れたのである。
《行って、あなた方も同じようにしなさい》
 彼女は鍵束を取り上げた。看守は「やめなさい」と言ってそれを取り返そうと試みたが、マリアは断固としてそれを奪い取ったのである。彼は怒りで顔を真っ赤にしながら、
「分からず屋の尼僧さん…… 残念ですよ、本当に残念だ。どこの馬の骨とも分からない、たった今見知ったばかりのその男を救おうとして…… ああ、そうだ。あなたが助けに来たのはヨハンネス・ユニウスだった…… それなのにあなたは……」
と、尼僧を睨め付けた。マリアは手に持った鍵束をじっと見つめて、激しく肩で息をしていた。やがて彼女は、どの鍵が合うだろうと、持っているものをまさぐり始めたのである。
「これだわ」
 そう呟くと、鍵束の中から一つを選び、錠前に差し込んだ。看守が、
「散々言いましたからね…… やめておけと。どうなっても知りませんからね! ええ、俺の知ったことじゃない! あなたみたいな分からず屋…… どうとでもなれだ! ええ、知りませんとも!」
と、言った。錠前の外れる音がした。するとマリアはそこでちょっと手を止めて、看守の方を振り返ったのである。
「ねえ、牢番さん…… 私にいったいどうしろっていうの?」
 マリアは呟いた。焼け付くような吐息を胸の底から追い出そうとするかのようなのだった。
「だって、私…… 自分がどうしてこんなことをしているのか、ぜんぜん分からない…… そうよ、これは私の意志じゃない…… 神の思し召しなのよ」
マリアは鉄格子を開いた。ベルグハルトの元へと駆け寄ると、無言で、囚人の体中に付された拘束具を外し始めたのである。それで、哀れなベルグハルト・ヒュンフゲシュマックの破顔がいかほどのものであったかは、言うまでもない……
「どうですか? …… ああ、歩けるのですね」
 マリアがベルグハルトの肩を支えながら言った。
「ええ、まだ脚は拷問されていませんから…… 本当に、あれは恐ろしいものです」
 ベルグハルトがそう言った。とはいうものの、彼の体は消耗しきっていて、上体を起こすのもやっとといった感じである。彼はうなだれるようにしてマリアに体を預けていた。涙できらきらとした瞳をマリアに向けて、
「尼さん、私は…… なんと言えばいいのか……」
と、しきりと口にしていた。だが尼僧は、
「もう、何もおっしゃらないで」
と、言った。ベルグハルトの希望に満ちたような表情を見ると、マリアはなにやら不可解な、投げやりな感情を抱かされるのであった。二人は牢から出た。
「馬はどこに?」
と、マリアが聞くと、看守が答えた。
「正門につけてありますよ…… ですが、見つからないように、元来た裏口より一度外に出て、それから向かってください。ああ、それと…… これは必要ですか?」
 そう言って看守は、手にしている燈火を掲げて見せた。マリアは「いいえ」と答えた。
「でも…… 牢番さん、ありがとう…… あなたに神の祝福がありますように」
「…… ああ、そして尼僧さんにも。さあ、とっとと行ってしまいなさい」
 看守に言われた通り、マリアは足を上階に向けようとした。だがそこでちょっと立ち止まった…… 振り返って、ユニウスの牢にじっと瞳を凝らした。その最後の姿を目に焼き付けようとするみたいに…… そこにはまだ、冷たくなった彼が椅子に座している。するとマリアには、無言でいるユニウスの屍がなんだか生きているかのように感じられてきたのである。彼は恨めしそうにこちらを眺めている…… 死んでも開いたままの瞳―というよりむしろ、飛び出したのは他でもない彼自身の意志によるものであるかのようなそれは、真っ赤に染まっていた。『尼僧マリア…… どうして私を置いて行かれるのです? そうだ、あなたは私を助けに来たんだ…… それなのに、一体その男は誰だ? どうして私でなく、その男の肩を支えているのでしょうか、あなたは? 娘が知ったらなんと言うだろう……  ああ、あなたは遅かった。もっと早く来てくだされば…… どうして、あなたは…… ああ、だけど、分かりますよ。私は死人だ…… 助かるべきは当然、生きている人間に決まっていますからね。神は生きている者の神だから。私はもう死んでしまったのだから。あなたがその男を助けようというのは、至極当然のことだ。ええ、私のような屍なんぞより…… 尼さん、あなたもそう思ってらっしゃるんでしょう…… ええ、そうなんでしょう…… 』もしユニウスが生きていたら本当にそんなことを言っただろうか? だがマリアの耳にはそう聞こえるような気がするのである。しかしそれ以上、彼の言葉を聞きたくなかった。だが言葉を聞くまいとしても、今度は傷口が―拷問によって穿たれた赤あるいは黒の傷口たちが、そこから滲み出た体液によってぎらぎらと輝き、ある種の言語のようなものとなってマリアの視覚を苛み続けるのだった。
「…… ヨハンネス・ユニウス……」
 彼女はそれ以上、見ることが出来なかった。もう一人の囚人を連れながら、涙と共に背を向けて遠ざかってゆくのだった、足早に。

 宮殿の暗闇の廊下に、尼僧の履物の音と、ベルグハルトの素足の音とが響いていた。そして、二人が呼吸する音も、足音に隠されながら、かすかにだが、聞こえてくるのだった。今まさに窮状より脱した人にはよくあることだが―解放された瞬間の火花のような歓びの後にやってくる名残、静かだがなんとも奇妙な熱情―衝動とでも言おうか、人をそわそわさせてやまない一種独特なあの感情が、今まさにベルグハルトの胸を焦がしているようなのだった。彼は道中、いてもたってもいられないといった様子で、だがそれにもかかわらず相手の様子をしきりと気にしながら、胸に散々たまってきたものをぶちまけるように、マリアに対してせきを切ったのである。
「…… ああ、ありがとうございます。優しい尼僧さん…… ああ、私の受けてきた苦痛がどれほどのものであったか、あなたに分かっていただけたなら……」
 彼は前述したような感情によってせきたてられてはいたものの、それと同時に、暗闇の中で廊下を伝いながら脱出するということによって厳かな緊張を受けていたので(それはひょっとすると厳かなマリアの様子に感化を受けたものかもしれなかったが)、ごくごく小声で、囁くようにして言ったのである。するとマリアはちょっと彼の方に目をやって、
「静かに。誰かに聞かれるといけませんから」
と、返した。ベルグハルトは言われた通りにした。(そう、そうよね)マリアは思った、(たった半日でそれなんですもの…… 本当に恐ろしい……  ええ…… あそこに、あんな場所に、ヨハンネス・ユニウスは二週間いた、そう二週間! それはいかほどの恐ろしさであったろう…… ああ、でももう考えるのはよそう! 今は目の前のこと…… ほら、出口が近づいてきたわ。あと少しよ、あと少し…… )
 裏口にたどり着いたマリアは、かんぬきを音発てないよう慎重に外して、ゆっくりと扉を押し開けた。わずかな隙間から、まず自分がそっと街路に出て、後からベルグハルトを引き出すようにした。それまでマリアは、慎重な足取りとベルグハルトとに意識を集中させていたので気が付かなかったのかもしれない…… 通りに出た彼女は、やや伏せがちになった自らの視界の隅が、何者かのつま先によっておびやかされていることに気が付いたのである。彼女はハッとして顔を上げた。少なくとも、尼僧マリアにしてみればそんなことは全然思ってもみないことだった。それは―彼女にとって今一番会いたくない男が、目の前の数歩先に立っていて、じっとこちらを眺めていたのである。
「ああ、あなたは……」
 尼僧マリアは思わず呟いた。今、彼女の目の前に立っているのは、この宮殿の主ヨハン・クラ―メルであった。どうやら彼の後ろには、部下の兵士と思われる人間が数名ほど立っているようだった。マリアはめまいを覚えた。後から出てきたベルグハルトも、じっとこちらを睨みつけているヨハンの、昨日散々に自分を苦しめた老獪なその表情を見た途端に、慄然として凍り付いた。
「その男を、どこに連れて行く気だ? ええ、尼僧よ?」
 総督クラーメルが聞いた。彼の低く鋭い声音は猛禽類の爪みたいに、マリアの喉を握り締めた。彼女は窒息しそうなほどの苦しみを覚えた。毅然としようと欲しはするが、どうしても恐れを隠すことの出来ない、ちょうどそうした調子で答えた、
「どこに連れて行くか、ですって? そんなの、私の…… ええそうよ、私の勝手だわ」
 言葉を詰まらせながら、かすれたようにやっと絞り出した。これを聞いた総督ヨハンは、
「捕らえろ」
と、後ろに控えている者どもに命じたのだった。石のように冷たい、だが熱狂したように一本気な、そうした足音を響かせながら、数名の兵たちが近づいて来た。彼らによって、尼僧と囚人とは引きはがされた。そして、尼僧の両腕は乱暴に持ち上げられ、二つだったそれが縄によって一つに結びつけられたのである。マリアはなすがままにさせているのだった、呆然とした様子で。だって…… 彼女にいったい何が出来たのだろう?(どうして……? この人たちは何をしているの? 私はこれから、どうなるんだろう?)マリアの頭は惚けたようになっていたが、ふと漠然と、こんな考えが浮かび上がってきたのである…… (この人たち、まるで私を待ち受けていたかのようじゃない…… いったいどうして? 今夜このことを、あらかじめ知っていたとでもいうのかしら……)彼女はみるみるうちに蒼白した。その時突然、背後よりせわしげな足音が聞こえてきて、散開してしまったかのようになっていた尼僧の意識は、さっと元の形に収束されたのだった。マリアが振り返ると、彼が現れた。それは先程の看守である……
「見ろ。この通り捕らえた。こんなやつはもはや聖職者ではない。さあ、こちらへ来い。お前に褒美をとらせてやる」
 ヨハンが命ずると、看守は足早にそちらへと馳せ参じた。うやうやしく頭を下げ、両手を突き出した。ヨハンは懐よりいくつかの貨幣を取り出すと、看守の差し出した手にそれをこぼした。かちかちという鋭い音が数度に渡って聞こえたが、マリアはその音に意識を削り取られていくようなのだった。
「あなたは……」
 彼女は看守に向かって思わずこぼした。すると相手は厳かにこちらを振り返って、
「悪く思わんでくださいよ…… 尼さん…… こうしないと、俺の首が落ちるんだ。悪く思わんでください……」
と、彼は引き攣ったような表情で言った。総督クラ―メルは何やら誇らしげな笑みをたたえているように感じられる……(売られた! 私は売られたんだわ! たとえ助け出すのがヨハンネスだろうと……  最初から、最初からこうなることだったんだ…… ああ、でもそれって、分かり切っていたことじゃないかしら? こうなることは、ええ、そうよ、分かり切っていたことじゃないか……  どうして……  どうして私は、こんな空想じみたことが実現されると、今の今まで信じていたんだろうか……)
「尼さん…… あなたは自らを顧みずその男を助けようとした。だが、自分の体を顧みないというのは、それは…… 立派なことだが…… ああ、そうだよ。あなたは、自分で自分を殺したんです。……  それでもし、それが成就したなら、あなたは俺にまで罪をかぶせるところだったんだ……」
と、看守が毒々しく言い放つと、マリアはどきりとした。彼女はそれまで、彼がそうしたふうに考えているということを、まったく思ってもみなかったからである。彼女は青ざめた表情で、縄で結ばれた両手をわなわなと震わせながら言った、
「ねえ、これって…… 私のしたことって、一体……」
「傲慢な奴め!」
 ヨハン・クラ―メルが言った、
「…… 分からないのか、尼僧? お前は傲慢だ。独りよがりな自己犠牲が善良なことだとでも思っているのか? お前の悪事につき合わされたこいつはどうだ? ああ、そうだ尼僧よ…… お前は悪魔の僕だ」
 すっとマリアの全身から力が抜けた。感極まった尼僧は意識を失い、仰向けに卒倒しようとするのだった。その体を、兵の一人が支えた。糸の切れた傀儡のように、彼女の首はだらんとなり、閉じた瞳がじっと天を見つめていた。さすがに哀れに思ったのか、兵の一人はどうしていいやら分からず、尼僧を抱いたままきょろきょろと頭を巡らして、ヨハンに指示を仰いだ。
「行くぞ」
 総督がそう言うと、尼僧、そして彼女と同じように捕らえられたベルグハルトは、兵によって宮殿の中へと再び引きずり込まれた。囚人は泣き叫んでいた。哀願するその声も、意識を失ったマリアの瞳を開くことはなかった。

 陽はのぼり、ひんやりと瑞々しい生気が、街のあちこちから立ち上っていた。今まさに眠りから覚めた人が瞳を開くと、涙に潤った輝きが目尻の端には現れる、ちょうどそうしたように、街を大きく分断する川は陽光を照り返していたが、同様に、高い屋根の建物の、鈍い色をした石壁や屋根もそうしたことをしていた。世界の空気が、曙の橙ひとつから七つの色に輝き渡った時が、朝の訪れであり、料理屋の煙突からのぼる白い靄、通りを行き交う人々の清々しい息づかい、馬蹄の音、様々なものが、生命として鼓動をする街の意志を告げていた。修道院の一室では、街のそのような姿を目の当たりにすることは出来ない。だが、かすかにだが、その大きな歯車の動く気配というものは空想の力に助けられながらも伝わってくるのであって、朝の到来とともに、それを捉えてしまった尼僧エノイッサは、自室の椅子に座り、机に両肘をついて頭を抱えながら、大きな嘆息を吐いたのであった。今や、エノイッサにとって朝の到来とは、はなはだ忌まわしいものとして感じられてくるのであった。早朝の祈祷を終えて、会堂より無言で帰ってきた、大勢の仲間たちと共に―その時感じた朝のつめたく湿っぽい、きれいな空気の肌触りは、喉をつくような、なにか刺々しい、敵意を持ったもののように彼女には感じられたのである。
 エノイッサは昨晩眠っていなかった。様々な感情が胸底から頭をおびやかしてくるので、安息することが出来なかったのである。それは主に、マリアに関する事柄ではあったけれども、それと付随して、彼女の頭の中には魔女裁判に関する様々な印象も咲き乱れるので、それで一層悩ましかった。こうして不眠によってひきおこされた頭痛、頭の奥になにやら薄膜がへばりついているような感覚も、今のいらいらとした気分を作り出しているものの一つかもしれない。心の刺々しさを、ざらざらとした想念で研磨していくみたいに、彼女の心はなお一層、鋭利さを増してゆくのだった。(ああ…… もう、なんだってこんなことを考えてしまうのだろう?)彼女の頭は、もう何遍も繰り返した想念によって疲弊しても、それを手放そうとはしないのだった。(あの馬鹿…… マリアの大馬鹿者…… あなたは今、どこで何をしているのかしら? 捕まってしまったの? それとも…… いやいや、ひょっとすると始めからそんなことはどうでもよくて、あの娘だって怖じ気づいて逃げてしまったかもしれないわね。ええ、そうよ、そうなんだわ…… 臆病者のマリア! ええ、あなたは臆病者よ…… だけど不気味。静かで、いつもと変わらない…… 本当に不気味な朝だ)そしてまた大きくため息を吐いて、(だけど……  魔女裁判とはいったいなんだろう? 色んな人が捕まって、火刑にされて…… それでも、病気や災厄なんてものはなくならない。教会は言い張るけど。あの人たちが諸悪の根源だって…… いやなに! 分かり切っていることじゃないか! 嘘っぱちよ、そんなの…… いえいえ、ひょっとすると……  ああ、でもやめよう、こんなこと、考えたってしょうのないことよ。だけど…… それじゃあの人たちは、なんのために苦しめられたの? いったいなんのために死んでいったというんだろう……? …… さっきから同じことばかり考えているわね、私ったら!)彼女は自らの頭脳に安息をもたらすかのように机に頭をもたせかけた。そして、福音書が目の前に倒れているのをじっと見つめ始めたのである。(…… それにしてもマリアったら、いったいどこへ行ってしまったんだろう…… ああ、怖い…… でも、いずれ分かることなんだろう、それは…… それならいっそ、悪い知らせに接するなら早い方がいいのかしら……)彼女はこのようにして考えを持て余していた。それは麻薬の中毒作用のようなもので、憔悴した精神にある種の鎮静作用を与えるのであって、禁断症状みたいに頭痛がし出せば、このようにして考えを持て余すことに飛びつくのだった。彼女は馬鹿げた考え事の、その中毒的な安楽から抜け出せないでいることを、自分でも分かっていてそれをやめることができなかったのである。人の苦しむのを見て自分が苦しむのはいやだと思う彼女は、すべてを留保したまま、今のままずっとここでこうしていたいと思ったから、時が止まればよいと願った。それにしてもこのような中毒状態はある種の苦しみを引き起こすから、どうせ他の苦しみに落とされるなら早い方がよい、それなら今まさに自分を苦しめるこの悩みとつき合う時間も短くなる、だから時が進めばいいと願った。窓から入り込む光は、部屋の中を真っ二つにしていた。太陽はあざ笑いながら、ほこりを舞わせていた。高い塀に囲まれた修道院の、時には有り難く思えるこの静けさ―外部との隔絶とが作り出すそれも、今ではあってほしくないもののように思われるのである。雲一つ無い青空を見上げては、その沈黙にいちいち焦燥をかき立てられるのであった。
 不意に、廊下の向こうより低い何者かの足音が聞こえてきた。エノイッサはどきりとして、反射的に体を強ばらせた。その足音の快活な、歩幅のせまいせかせかした調子から、それが大嫌いな修道院長のものであると、すぐに分かったからである。しかし、こんな時間にどうして寄宿棟まで彼女がわざわざこちらへと出向いてくるんだろう? それに、よく聞くとその足音自体からも、いつもと比べて何やら人目をはばかるような、厳かな意志が伝わって来たので、エノイッサは、自らにとって不穏なことを予感させるようものをその中に見いだしたのである。修道院長の足音がここに来るまでにある部屋の入り口をひとつひとつ通り過ぎる度―自分との距離を刻々と詰める、その度に鼓動が速くなった。(また過ぎた! また! やっぱり…… 私に用があるのだわ) あっという間であった。気がつけば、修道院長ジャンヌが、部屋の入り口に立ってじっとこちらを見ている。エノイッサはわざと気付かない振りをした。修道院長は、
「エノイッサ、修道院長室に来なさい、司祭さまがお呼びよ……」
と、言った。(ああ…… いったいなんだろう!?)エノイッサは心中で叫んだのだった。だが、彼女にはなんとなく分かる…… そうだ、あのことだ。もうわかりきっている……(あのことだわ……  マリアのことだ。司祭さまは、いったいどこまで知っているのだろう? ばれたのかしら? でも…… ひょっとすると、全然別なことかもしれないけれど…… だけど、他になにか理由なんてあるんだろうか! こんな時間に、こんな急に……)
 エノイッサは素早く立ち上がった。だが彼女は、立ったまま動こうとはしないのだった。怯えたような鋭い目つきをして、修道院長をじっと睨みつけた。
「何をしているの? さっさとなさい」
 ジャンヌがこう言って入り口から姿を消すと、足音が今度は遠ざかっていくのだった。エノイッサは、彼女の後を追って部屋から出たのだった。廊下を通り過ぎる時、部屋の中から他の尼僧たちが自分を見つめてくるのが分かった。それだからなお一層、毅然と背をのばして、そちらを横目で睥睨するようなこともしない。「私がどうして呼ばれたのか、さっぱり分かりゃしない。これは、全然身に覚えの無いことだわ……」とでも言うように表情を固くして。一方でまた彼女は、自分がこれから司祭によって何か詰問じみたことをされることになるかもしれないとそれとなく予感していたのである。この緊張を伴った予感が、エノイッサに次のようなことを考えさせた。(ああ、あの人たちもこんな気持ちだったんだろうか…… これじゃまるで、私が……)
 修道院長室に入ると、中央の大きな事務机の前で、司祭パウロが腕を組みながら椅子に腰掛けていた。彼は何をするでもなく、そこでじっと待っていたらしい。司祭は部屋に入ってきたジャンヌとエノイッサの二人に気が付くと、ちょっと顔を上げて簡単な挨拶をした。それと同時に、彼はまた修道院長の方に目配せをした。どうやら、ジャンヌに対して「席を外せ」と、その瞳で語っているらしい…… エノイッサはその物々しい合図にどきりとしたのだった。ジャンヌは少し戸惑っていたようではあったが、すぐに部屋から出て行った、静かに扉を閉めて。こうして、部屋には、尼僧エノイッサと、司祭パウロのみが残ったわけである。
 彼女は司祭パウロを見下ろしていた、おずおずと。エノイッサは、まず相手が何か言うのではないかとしばらく伺ってみたが、そうではなかった。司祭パウロは口を開かなかった。何やら鋭い目つきをして、じっとこちらを睨みつけているのである。(…… 私の表情に、何か書かれてあるんだろうか?) たまらない沈黙であった。エノイッサはいっそのこと自分から口を開こうと思った。しかしこの沈黙には、なんだかそれすらも咎められているような感じがして、唇をちょっと開いたままで、何も言い出すことが出来ないのである。いっそのこと誰かがもう一人この部屋にいれば心も少しは軽くなるのではないかと考えるのだったが、おあいにくさまだった。しかしようやく、司祭パウロが、
「ところで……」
と、言ったのだった。(ところで…… ところで、だって? …… いったい何が、ところで、なんだろう?) 言葉を聞いて、司祭パウロが次に何を言い出すのか、エノイッサは瞬間的にそれとなく予感したのである。だって…… 「ところで」なんて言った彼が、あのこと以外に何かを話題にするとでもいうのだろうか? 一見無意味にも見える接続詞、しかしそれは口にする人間の興味がまさしく一点に向けられているということの裏付けであり、彼の関心は他のことなどまったくうっちゃっておいて、もう既にあのことについて思いを馳せていることを示すものに違いない。エノイッサはぎゅっと体を強ばらせたのだった。
「君は尼僧マリアがどこへ行ってしまったのか知っているかね、ええ? エノイッサ……」
 司祭パウロの言葉は、エノイッサにとってまったく予想通りのものであった。鋭い質問はいばらのように伸びて、その刺々しさによってこちらを脅かそうとしてくる。その僅かな隙間を通り抜けようとでもするみたいに、尼僧は慎重に言葉を選ぼうとするのだった。
「いいえ」
 それまで伏せがちだった瞳を見開いて、司祭の冷たな顔をじっと見据えた。パウロの鋭い視線がこちらの瞳の中をまさぐっているのが、エノイッサにははっきりと分かったのである。
「エノイッサ…… 尼僧マリアは今どこにいると思う?」
 続けて司祭がこう尋ねてきた時、エノイッサは冷や汗が噴き出るのを感じた。この質問に関して尼僧エノイッサは、半分知っているようなものであったし、また半分知らないようなものでもあった。
「…… さあ? どこでしょうね。でも、そのうちきっと…… すぐに戻って来ると思います。ええ、マリアのことですもの…… あの娘がふらふらとどこかへ行ってしまうのは、なにもこれが初めてではありませんものね……」
「いいや」
 司祭パウロは言った、
「彼女は帰ってこないよ」
 これ以上ない明白な言葉に、エノイッサは吃驚した。
「…… それは、マリアが帰ってこないとは、一体どのような意味ですか?」
 もはや聞いたって仕方の無いことである。司祭の言葉は短いが、全てを言い切っている…… エノイッサがこう言ったのは、あくまで知らないふうを装いたかったためかもしれない。だが彼女は、目の前で自分をまさぐるように見つめる司祭はとっくにこちらの心中を看破しているに違いないと、それとなく感じてもいた。
「彼女は、尼僧マリアは、とても悪いことをしたんだよ…… 分かるね」
 言われて、エノイッサは返した。
「いいえ…… おっしゃっていることがよく分かりませんけれど……」
 妙にたどたどしい口調となっているのが自分でも分かった。
「司祭さま、あなたが何をおっしゃっているのか、私には……」
「とても悪いことをしたんだ。あれはひどいことだ。だから今、マリアは牢獄にいるよ」
「…… 一体なんのことですか?」
「マリアは牢破りを試みたのだ」
 司祭はあっさりと答えてのけた。
「昨晩、君もよく周知の宮殿に忍び込んで、看守をそそのかして鍵を奪うと、捕らえられていた魔女を…… まあ、君もよく知っての通りのベルグハルト・ヒュンフゲシュマックだ…… あいつを、外へ連れ出そうとしたんだよ」
「…… まさか、あの娘がそんなことを……」
 エノイッサは、あたかも知らないといったふうに。(…… ベルグハルト・ヒュンフゲシュマック? ええ、どうして? あの娘が助けようとしたのはヨハンネス・ユニウスだったはずよ…… 一体昨晩あそこで何があったというの?)もっと詳しく知りたいのはやまやまではあったが、自分から何かまずいこと言ってしまうのではないかと、エノイッサはそれが気がかりで何も口にすることは出来ない。
「だから今…… マリアは今、あそこで尋問を受けている。魔女を救い出そうとした彼女自身もまた、魔女であるかもしれないからね」
 当然のことのようにさらっと述べられた言葉ではあるが、エノイッサにとってはとても恐ろしいものである…… 彼女はあやうく取り乱しそうになるところだった。(尋問…… 尋問って…… ああ、私には分かるわよ、パウロ司祭! あなたが何のことを言っているのか……)エノイッサはもう喉まで出掛かった悲鳴を、寸でのところで飲み込むことができた。
「それだから、君に聞くんだ…… 私は、君とマリアの仲が大変近しいものであるということを知っている。聞けば、彼女はこれまでにも度々牢獄において魔女たちと語らっていたそうではないか…… 深夜、誰にも気付かれないように。君は彼女と同室で暮らしているのではないのか? 他の尼僧たちならまだしも、本当に、今の今まで君はこのことに気が付いていなかったのかね? マリアがそのような不品行な奴であったと…… ええ? エノイッサ、君は何か知っていたのではないかね? もしそうなら、マリアの不穏な行いを我々に伝える義務があったのではないかね? もし君が彼女の悪事を知った上で、それを見逃していたというのなら、エノイッサ、私は君を……」
「いいえ、知りません」
 司祭の結びを待たないで、エノイッサは言ったのだった。
「…… それは、私には何の関係もないことだわ……」
 無言でいる司祭の瞳はぎらぎらと輝いていて、それを見たエノイッサは付け足すように言った。
「司祭さま、今あなたがおっしゃられたことはぜんぜん知りませんでした…… 私は今、初めて知ったんですよ」
 彼女が言ってしまうと、ちょっとの間を置いて、司祭は血色の悪い唇の端をわずかに釣り上げた。椅子を軋ませながら上体をのけ反らして、
「よろしい、よろしい」
 と、彼は呟いた。
「尋問されたマリアもそう言っていましたよ、《これは誰にも関係ない。このことは誰も知らない》ってね。本当にそうなんだろう、ええ、エノイッサ? このことは、彼女以外の誰も知らない…… もちろん君にも関係がない」
 エノイッサの表情はみるみるうちに蒼白していくのだった。すると、司祭はぎらりと瞳を輝かして、急に声音を厳かにしながら、
「…… これは大事だ。いいか、大事なことなのだ……  尼僧が邪悪な行いをしたなどと……  もし君もそうであったというなら、あろうことか、二人もの聖職者が悪魔の僕だということになる……  それは困るんだ。その、私にとってもよくないことだ。だけど、君は違うっていうんだろう? いや、まったく良いことだ。エノイッサ、君が潔白で実にうれしいね、私は……」
「ええ、ええ……」
 …… どうやら話は終わったようである。司祭は何も言わないで不気味な笑みを浮かべていた、こちらをじっと見つめながら。しかしそれは、エノイッサが潔白であるということが分かったことによる笑いなのだろうか? エノイッサにはどうもそのように思われない…… なにやらこちらを見透かすようなその笑いに釘付けとなりながら、彼女は激しく動機を打つ胸を押さえつけた。これ以上すると、彼女は司祭につかみかかって自分の潔白を叫びそうなのだった。しばらくすると、司祭は右手をすっと上げて、こちらに退出を促してきた。エノイッサは素早く扉を開けると、部屋の外に出た。すれ違いに、修道院長が視界を横切り、今出てきた部屋に入っていくのが認められた。
 エノイッサは足早に廊下を渡って自室にたどり着くと、部屋の中央に立ち尽くしたのだった。埃っぽい床を見つめながら、散開してしまった意識が再び戻ってくるのを待っているふうなのでもあった。しばらくすると、ものを考えることが出来るようになる。自らのものとなって帰ってきた意識の断片たちを眺めれば、それらがさまざまな思念を抱えているのが分かる。(やっぱりマリアはあれをやったのだ! なんということ……)だけど、ベルグハルトを助けたとは、いったいどういうことだろう? 彼女が救いに行ったのはマリユス・ユニウスだったはずである…… いったいあそこで、何があったのだろう? どうしてマリアは、ユニウスを助けなかったのか……(こんなこと、考えたくもないけれど…… それが他ならぬ、ユニウス自身の望みによるものだとしたら…… いや、でもひょっとすると、彼はとっくに死んで……)だがエノイッサはそこまで考えると、何を思ったのか、さもおかしいとでもいった具合に、ぷっと吹き出して、(だって、そんな…… こんなこと考えたってどうしようもないわ! なぜなら、もう…… あの人は助からない! みんな死んじゃう! あの娘も、ベルグハルトも…… だからマリアが誰を救い出そうとしたかなんて、どうでもいいことよ…… ええ、そうよ。だって、結局…… 楯ついたりなんかしたら、みんな殺されるってことが分かったものね!)
 エノイッサの脳裡には、マリアが連行される情景が浮かび上がってくるのだった。どこからともなく、男たちが駆け寄ってきて、必死に逃げようとするマリアを押さえつけながら、引き立てていく……  そして、それから哀れな尼僧に対して何が行われるかというと、
「…… 尋問! 尋問だわ!」
 エノイッサは思わず声に出して呟いたのである。司祭の言った尋問とはなんだろう。いったいどのようなことを尋問するのだろう。いったい彼らは、どのような方法でマリアを…… だがそんなこと、分かりすぎるほど分かっている! たちまち、エノイッサの頭蓋には、尋問の恐ろしい光景が映し出されようとするのである…… 
 その瞬間のことであった。彼女の意識の中にはさっと閃光のような光が迸り、映し出されようとした尋問の光景は、鋭い頭痛を伴いながら、その光によって焼き尽くされたのであった。光は、恐ろしいものから目を背けようとするエノイッサ自身の意志が作り出したものなのだった。彼女は意識を失いそうになりながら膝を折った。たまらない呼吸にあえぎながら、(…… これは…… 私の見ようとした光景は、幻想でもなんでもなくて、実際に今、行われていることかもしれないんだわ! いや、考え過ぎかもしれない…… もしそうじゃないとしたら…… でも、尋問って、それはいったいどういう意味だろう…… ああ、そんなこと、分かりきっているだろうに!)じわりと涙を浮かべて、(…… いったい、どうしてこうなってしまったの? いったい何が間違っていたんだろう…… これは、避けられないことだったのか? だって、私、あれほど止めたわ! ええ、マリア…… あなたが私の言うことを聞いてさえいれば…… こうなることは分かっていたじゃないか! たとえ助けるのがユニウスだろうと、ベルグハルトだろうと…… マリア、あなたにだって分かっていたはずよ。これは全部、あなたのせいよ……)エノイッサは片手で頭を支えながら立ち上がって、よろよろと部屋の中を歩き始めたのである。それは気を紛らわしているふうなのでもあった。だがしばらくして、彼女はふと何かを思い返したように…… おそるおそるそちらを見やった。卓の上…… そこには聖書が置かれていた。だが彼女は聖書ではなくて、その分厚い本に閉じられた、数枚の紙片を見やったのである。聖書に挟まれたそれらは、別にそこからはみ出ていたわけでもなかったけれど、エノイッサにははっきりと見えるように感じられたのだった。それは昨日の朝、彼女が起きた時枕元に落ちていたものである。そう、マリアが託していった、ユニウスからの手紙。誰にも気取られることの無いように、起きてからすぐにエノイッサは聖書に挟んだのだった。(そういえばあの娘、こんなものを私に押し付けていったっけね!)あの時のことを考えると、またいらいらしてくるのだったが、(マリアはもう帰ってこないとすると……  この手紙はいったいどうなるんだろう?)エノイッサはどきりとした。なんだか、その紙片はもう目にしないで、永久に忘れ去った方が良いような気がしてくるのだった。(かかずりあいになってはだめよ……)だがエノイッサは気がかりになってしかたがなく、我ともなしに聖書の置かれてある卓に近づいた。(だけど、マリア…… 物騒なものを置いていったわね! ええ、こんなもの……)彼女は聖書を開いて、中にあった紙片を取り上げた。すると途端に、それは本当に奇妙なことだったが、その紙片からマリアの声のようなものが聞こえてきそうな気がするのだった。彼女は思わず手紙を開いた、
《さようなら、愛しい娘ヴェロニカ。本当にさようなら。私は何の罪も無く投獄され、何の罪もなく拷問を受け、そして何の罪もなく死なねばならない》
 すると、エノイッサの耳にそれは、あの朝、まさしくマリアが読んだその通りになって聞こえてくるのだった。彼女は夢中になって続きを読み始めたのだった、
《私は神を拒んだことなどないし、今後もそんなことをするつもりはない―慈悲深い神が、私にそんなことをさせ給うはずがない。そんなことをするくらいなら、寧ろどんな苦しみにも耐えてみせる》
 それはまるで風にさらわれてゆく草に手をのばすようなもの―エノイッサは今耳に聞こえてくる声を必死でつなぎ止めようと、がむしゃらに文字を追っていくのだった。
《天の神様は私が何も知らないということをご存知のはずだ。私は無実のまま、殉教者として死ぬのだ》
 そこまで読むと、修道服の胸のところをぎゅっと掴んで、
「ああ、マリア…… マリア!」
と、思わず天を仰いで叫んだ。追憶の中でマリアの言葉を聞く尼僧の胸底にはぼんやりと、なにやら熱線のような暖かみが迸り始め、それが、今まで緊張に尖り切っていた意識を、次第に溶けさしてゆくのだった。
《…… しかし、これがいったい! 魔女だろうか!? ええ、エノイッサ!? これが果たして…… 恐ろしい魔女の話す言葉だろうか!?》
 頭の中で、マリアの言った言葉が反芻されると、エノイッサの表情はみるみるうちに醜く歪んでゆき、瞳から涙を溢れさせながら彼女は、
「ああ…… そんな馬鹿なことがあるか? あの娘が悪いだなんて…… 間違っているだなんて!」
と、何度も呟きながらしゃくり上げ始め、そして、
《このことは誰も知らない》
と、耳元でマリアの声がささやいた時、寝台の上に崩れ落ちて激しく泣いた。

幻想悲曲 第二幕一場

幻想悲曲 第二幕一場

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-07-15

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted