世界の死角 -Blind spots in the world-

元々出版予定の作品でしたが、訳あってうやむやになってしまったものです。
小生の初、一人称作品でもあります。よろしければ、ご覧ください。

プロローグ

 あの時、ぼく以外の何もかもが、瓦礫の下敷きになった。
 クッションの硬さがほど良い座席とか、ぼくが握っていた三角形の吊革とか、よく分からない地上波のドラマの宣伝とか、自動ドアの向こう側にあったトンネルの壁とか――

 座って駄弁っていたぼくの家族とか、周りにいた赤の他人とか。

 そういう日常の風景が、次の瞬間にはもう、物と人の区別ができないくらい、ごちゃ混ぜになってしまったんだ。

 2025年。6月11日。

 多分、このニホンに住んでいれば、誰もがいつか来るものだと覚悟し、同時にそんなことすぐに起こりやしないと高を括っていたであろう【首都直下型地震】が、その日の午後16時05分に発生した。
 最大震度7。マグニチュードは9.3。震源はトーキョー湾の北西部だったという話だけど、大災害をもろに受けた当事者にしてみれば、地震のへその所在なんて、正直どうでもいい情報でしかなかった。
 なんてことはない。その日はちょうどぼくの誕生日で、15歳になったぼくを祝うために、家族揃って外食することになっていたんだ。
 父さんは、少し値段が高めのレストランの予約を、わざわざぼくのために取ってくれていたみたいで、そのお店は自宅からだと、けっこう遠い所にあったから、ぼくたち家族は地下鉄に乗っていたんだ。
 あの凄まじい揺れを感じた時、ぼくは『死ぬ』って確信した。
 だって、言葉じゃとても、その怖さを表現できないくらいの揺れだったんだから。もうあれは、地球に隕石でも降ったんじゃないかってくらい恐ろしかったよ。まあ、実際に隕石が降ったら、もっと凄いんだろうけどさ。
 ぼくは、その時の衝撃で頭を打ちつけてしまって、気絶してしまったんだ。何分後に意識が戻ったのかは分からない。ひょっとしたら一時間以上経っていたのかもしれないけど、とにかく今でもハッキリと覚えているのは、ぼくが瓦礫の中に奇跡的に生じた空洞で横たわっていたということと、瓦礫の下敷きになった母さんの上半身が、ぼくのすぐ目の前で、うつ伏せになって倒れていた、ということくらいだ。
 母さんは意識がほとんどなかった。上の空で紡ぐ言葉を、ぼくは聞き耳を立てて一切漏らさず聞いた。そして、父さんと妹が、完全に瓦礫の下敷きになってしまったのだと悟った。
 母さんの呼吸音が次第に弱くなっていくにつれ、ぼくはなんだか、天使が母さんの肉体から、魂を連れて行こうとしているのではないか、などという場違いなことを連想してしまった。多分、母さんに迫る死のインパクトは、ぼくにそんな妄想をさせるくらい濃厚だったのだろうと、今さらながらに思う。
 間違いなく母さんは死ぬ。けれど、ぼくはそれに抗う意思が湧かなかった。
 決して、悲しくなかったわけじゃない。でも天災っていうのは、本当に突然襲って来るもので、それまでの日常にいきなり割り込んで来たかと思えば、身の回りの当たり前を、一瞬の内に、何もかも、全て、綺麗さっぱり奪っていくものなんだ。
 あまりにも唐突すぎたのだ。だからぼくは、身内の死をちゃんと受け入れて、『死ぬんだ』ってことに『納得』する手順すら踏めぬまま、いきなり目の前に『これから死ぬ人』を用意されてしまったんだ。
 無茶苦茶だった。見えるもの全てが。現実と夢の境界線を見失うほどに。
 もし仮に、自然が行う破壊活動をも〝テロ〟と表現していいのであれば、地震ってのはまさに、天才テロリストの一人だと思うよ。
 ぼくは人が能動的に悲しめることを忘れていた。呆然自失だった。そしてその時ふと、母さんの手がぼくの膝に触れたんだ。もう最後の気力すら振り絞れないような弱々しさで、母さんは顔を上げた。そしてぼくの目を見据えてこう言い残したんだ。
『あなたは、生きて。生きてっ……!』
 空気を吐き出すような、かすれた声だったけど、ぼくはちゃんと聞き届けた。
 結論から言えば、それは母さんがぼくに残した遺言になってしまった。
 なぜなら、その言葉を吐き切った直後、母さんは上から降ってきた崩落物に呑まれて消えてしまったからだ。
 つい先ほどまでは、確かにぼくの正面には人間がいたはずなのに、次の瞬間にはもう、ただの物体に置き換えられてしまったんだ。
 もうあれは、人が『死んだ』というよりも、人が『消滅』したとしか思えなかった。
 僕の家族は、母さんは、父さんは、妹は――本当に死んでしまったのだろうか。
 確かにあの震災から数か月後、ぼくは瓦礫の下から掘り出された遺体という『結果』を認識したことによって、家族の『死』を理解することができた。だけど、死に至る過程の観測を省かれたせいか、理屈では分かっていても、未だに心が反応できずにいる。ぼくは今日に至っても尚、家族の死に関して実感を持てないままなんだ。
 震災から半年後、ぼくは【シコク地方・コウチ県】に住んでいた母方の祖父母に引き取られる形となって高校卒業までを過ごし、その後はデザイン関係の専門学校に通うために【キョート府】で数年を過ごした。
 専門学校も無事に卒業できたぼくは、有り難いことに同世代が直面していた『就職難』とは無縁のままデザイン関係の会社への内定が決まり、今は暫定首都として機能している【アイチ県・ミカワ市】で一人暮らしをしている。
 旧首都を崩壊させた直下型地震は、後に【トーキョー大震災】と名付けられ、その当時まだ子供だった被災者たちは、いつしか【厄災世代】と呼ばれるようになった。
 ずいぶんと酷い仇名を付けられたものだと最初は思っていたけど、被害を被らなかった他の道府県の人にしてみれば、トーキョー難民で溢れかえった旧首都を生き抜いた厄災世代というのは、『苦境の中で育ってきた猛者』というイメージを抱いてしまうようで、今となっては妙なブランド力を発揮している有様だ。
 とはいえ、当時のトーキョーの風景は、『壊れたレゴブロック』と揶揄されるほど酷かったから、そういうイメージを膨らませたくなる気持ちというのも、他県から旧首都を見渡すことができるようになった今なら、なんとなく分かるような気もしなくはない――。

 あれから10年の歳月が過ぎた。
 今日の日付は、2035年6月11日。
 気付けば、ぼくはいつの間にか25歳で、人生の四半世紀を生き抜いたのだという事実を、ぼくは実感も持てぬまま脳に納得させ続けていた。

第一章「邂逅心門」

『――トーキョー大震災からちょうど10年目を迎える今日。かつての首都であるトーキョーで起きたこの災害は、未だかつて類を見ないほどの大厄災とも言うべき規模で発生し、その想定被害者数は……』
 ぼくは壁に据え付けられているPC画面に映るネット番組のチャンネルを、スマホのリモコンアプリで切り替えた。
『震災当時まだ12歳だったサイトーさんは、当時の様子をこう語っていました――……』
 さらに別のチャンネルに切り替える。
『――ええ近年、トーキョーのみで確認されているこの無気力症候群に関してですが、専門家によると、原因は未だ特定できないが、発症者の多くがトーキョー大震災を経験しているため、おそらく震災によるショックの影響が何らかの形で症状を引き起こしているのではないかと――……』
 専門家の意見、という名のサブリミナル刺激のおかげで、ぼくの耳はすでにタコだ。
 だからぼくは、情報の湯舟でのぼせる前に、チャンネルを操作するためのアイコンをタップした。茹蛸なんてのは勘弁だ。
『――被害を受けた地下鉄内には、このように、当時亡くなった方の名前を刻んだ慰霊碑があるのですが、弔問しに来られた遺族の方々の中には、未だ行方不明のままの家族を一刻も早く見つけてほしいという思いから……こちらをご覧ください。このように、千羽鶴をですね、ご遺族や、親交のあった友人らと一緒になって作っ――……』
 とうとう、ぼくはパソコンの電源を切った。別に腹を立てたわけじゃないけど、ただ、毎年毎年同じような定型文を聞かされる当事者の身にもなってほしいとは思う。ああいうテンプレートは、しつこく繰り返されると嫌味にしか聞こえなくなってしまうんだ。
「まだ朝の8時前だけど、トーキョー行きの列車は混みそうだな。少し早めに出るか」
 今日は月曜日だけど、有給休暇の届け出は先月のうちに会社の方に提出済みだったから、ぼくは特に慌てる必要がなかった。けど、チャンネルを流し見していただけでも、旧首都を訪問している人の多さは理解できたから、予定を変更して、すぐに出発することにした。
 旧首都に向かう時は、いつも同じ服を着ることにしている。白いワイシャツに黒のスーツ。高価な物は一切身に着けず、安物ばかりで身支度を整える。これは旧首都訪問時における鉄則と言ってもいい。
 準備を始めてから30分後、ぼくは家の戸締りを済ませて自宅をあとにした。近頃はキーレスエントリーが流行っているのか、ここのアパートも静脈認証式の鍵を採用しており、ぼくはドアに備え付けられたパネルに手を当てて施錠した。ちなみに、ぼくの部屋は3階の一番端の角部屋だ。
 ぼくが階段を使って下まで降りると、このアパートの大家であるミズタニさんが、駐輪場の掃き掃除をしていたので、ぼくは「おはようございます」と挨拶をした。今年で御年82歳だという話だが、この人は本当に元気で、年齢を感じさせない活力が漲っている。
 ぼくが声を出すと、ミズタニさんは作業を中断して、箒と塵取を持ったまま、ぼくの方に身体を向けた。
「ああ、どうもどうも。なに、今からトーキョーに向かうのかい? ずいぶん早いねえ」
「ええ。なんだか、ずいぶん混んでいるみたいなので、早めに行くことにしました」
「トーキョーかあ……。昔のトーキョーといえば、とにかく街全体が乾燥機みたいに目まぐるしくて、忙しなかったんだけどねえ。今はもうすっかり真逆だよ。こないだちょっと用事があって、シナガワの方に行ったんだけどさ。なんだか外国を歩いているみたいで、びっくりしちまった。噂には聞いてたけど、生で見ると凄いね」
「あははっ。そうかもしれませんね。『ニホンがトーキョーから孤立していく』なんて皮肉も飛び交うくらいですから」
「まったくだ。僕は大丈夫だったけど、親戚のせがれなんて『財布盗まれたんだぁっ!』ってえらい喚いてたよ。けどまあ、君は黒い服着てるし、見た目の雰囲気も何となく『遺族』って感じがするから、たぶん大丈夫なんじゃないかな。盗人にも、モラルってもんがあるんだろう?――」

 確かに、今のトーキョーに、かつてのニホンを投影するのは禁物だ。
 ぼくが毎年同じ服を着用する理由だって、半分は遺族として被災地を訪問するためだけど、もう半分は、今のトーキョーの治安の悪さを警戒しているからだ。
 震災直後のトーキョーは、とにかく酷かった。
 地下鉄内で救助を待っていたぼくは、地上に戻ったことを喜ぶよりも先に、目の前の景色に絶句した。
 見渡す限りの瓦礫。耐震設計を施工したビルが、隣の耐震設計を怠ったビルに潰されていく超巨大ドミノ倒し。舞い上がったコンクリートダストが、夏の暑さに溶け込み、ざらついた感触が、鬱陶しいくらい喉と肌にまとわりついてきた、あの不快感。
 そこら中で火災が発生していて、消防隊や救助隊の人たちが、怪我人を救助するために、ひっきりなしに動いていた。その傍らには、放置されたままの遺体が沢山転がっていて、近づくと異臭が漂い、ぼくは普段日常を暮らす人間が、状況一つでこんな悪臭を放つということが、どうしても信じられなかった。
 考えてみれば当然のことなのに、人が死ぬというリアルから縁遠い日々を過ごしてきたぼくにとって、目の前の物言わぬ亡骸というのは、非現実的な空間から現れた、オブジェクトにしか見えなかったんだ。
 ただ、それでもヨヨギ周辺の被害は、他の地区に比べれば軽かったように思う。報道番組の流す映像を眺めていただけだから、実際に現場を見たわけではないんだけれど、トーキョー湾沿に隣接していた地域は、津波によってもたらされた被害の影響が凄まじくて、ヨヨギの非にならないくらい酷い有様だった。
 政府関係の施設も、地震によって複数大打撃を受けてしまったから、まともに難民問題と向き合ってもらえたのは、震災から半年以上も過ぎてからだった。とはいえ、被災者の感情は『ようやく』ではなく、『今さら』と思う人が大半で、相次ぐ政治不信と、トーキョー難民による大規模デモがあとを絶たなかった。
 そのデモの様子が、かつての学生運動と似ていたことから、『トーキョー難民闘争』と銘打たれてしまい、その手のお祭り騒ぎが大好なワイドショーによって、連日取り沙汰されることになった。
『まあ、ある意味今のトーキョーは、地震のせいでタイムスリップを起こしてしまったんですねえ……』などと、画面越しに映るコメンテーターたちは皆、如何にも気の毒そうな声を出しながら同情していたけれど、同情するくらいなら支援物資をどうにかしてくれ、と、ぼくは思ってしまった。
『戦後の焼け野原』とまではいかなくとも、確かに食べ物にはかなり困っていた。
 ぼくら厄災世代の『あるあるネタ』の一つに、『物腰の低い人間は物を盗み、高圧的な人間は物を奪う』というのがあって、まあ事実、ぼくも色々な人に生活必需品や食糧品等を盗奪されてきた。リュックサックから少しだけ目を離した隙に、ブツを丸ごと持ち逃げされてしまったことがあったけど、その時の絶望感ときたらもう何というか、空笑いするしかなかった。
 ようやく暫定首都が『アイチ県・ミカワ市』に決定して、曲がりなりにも政治機能が復活し始めたのが、震災から二年後。復興支援の本格化はそれからさらに一年後だ。
 昔に比べれば、瓦礫の撤去もだいぶ進んでいるみたいだけど、しばらくは『レゴブロックシティ』の体裁を取らざる得ないのが、今のトーキョーの現状だろう。

「――みたいですね。そのモラルっていうのがどういう理屈なのかは、ぼくも理解しかねますが」
「うん。まあとにかく気を付けて。いってらっしゃい」
「はい。ありがとうございます。いってきます」


     ◇


 かつて存在していた交通インフラである『トーカイドー新幹線』は、巨大地震と津波によって、そのほとんどが機能不全に陥るほどの壊滅的大打撃を受けてしまった。
 オダワラ駅は波に捕食されたおかげで、今も原型を留めていない旧駅舎が放置されたままだし、トーキョーを筆頭とする都市部の駅は、激震と濁流によって人工物が散乱するサラダボールのような状態が、時代に置き去りにされた埃まみれの古物みたいに取り残されたままだ。
 特にシナガワ駅に関して言えば、倒壊したビルが現在に至っても尚、線路上で不貞寝したままだし、加えて、開業が2027年に迫っていたリニアは、根元から折れたビルの空手チョップによって路線を真っ二つに叩き割られてしまったため、未だ開通の目途が立っていないという話だ。
 とどのつまり、現状トーキョーに向かうための公共交通手段は、『高速バス』か『列車』、もしくは『飛行機』の三つしかなくて、ぼくはいつも列車を利用することにしていた。もちろん、使うのは在来線ではなく特急の方だ。
 高速バスは運賃が安いけれど、長時間座り続けるから、身体が疲れてしまうし、飛行機は高い上に、搭乗手続き等でバタバタしてしまうから、やはりしんどくなってしまう。
 結局、『運賃』と『快適さ』のバランスを両立してくれるのは『特急列車』しかないわけで、何よりぼくは翌日から再び仕事の身だから、心身への負担を考慮すれば、やはり特急以外の選択肢はあり得なかった。
『まもなくシンジュク、シンジュクに停車いたします。お降りの際は足元に――』
 ぼくは窓の外を見続けるのを止めた。
 足元に置いていたリュックサックを膝に乗せ、降りる準備を始める。
 他の乗客たちが席から離れ、各々ドアの方に歩いて行こうとするが、乗客のほとんどが黒い服を纏い、手に手に花を抱えるその姿を見ていると、やはりこの時期の特急列車の異様さを感じずにはいられなくて、そしてその中に『ぼく』という個人が混ざっているという事実が、ぼくにはどうしても奇妙でならなかった。

〝だってぼくは、未だに家族の死に実感が湧かないのだから〟

 列車は徐々にそのスピードを緩めていき、やがて完全に停止すると、プシューと鳴る空気の排出音と共にドアがスライドし、ぞろぞろと出ていく乗客の波に揉まれながら、ぼくは一年ぶりにトーキョーのコンクリートを踏んだ。
 ぼくは南口にある改札を通ったあと、まずコンコース内に設置されている『指紋認証式ロッカー』へと足を運んだ。そして中身がほとんど入っていないリュックサックを、ロッカーの奥に押し込んでから扉を閉めた。一昔前であれば鍵穴と呼ばれていたであろう部分に設けられた液晶パネルに親指の指紋を当てて、鍵がちゃんとロックされたことを確認するために取っ手を何度か引っ張った。
 料金は一時間で三百円。生体認証と紐づけされた銀行口座から、自動的に引き落とされる仕組みになっている。決して安い金額とは言えないが、盗難被害を避けたいのであれば、この値段は妥当なんだろう。
 身に着ける物品は少ない方がいい。盗人にもモラルがあるとミズタニさんは言っていたけど、実際、そう思わない盗人だっているわけで、特にこの時期のシンジュク駅周辺というのは、ブランド物に目の肥えた狩人たちが、常にぼくらのような外部の人間を品定めしているのが実情なのだ。
 ぼくは駅をあとにし、目的地である『シンジュク御苑』を目指した。
 御苑の中には、この地域一帯で亡くなった人の名前を刻んだ慰霊碑が建てられていて、当然ながら、その石碑にはぼくの家族の名前も刻まれている。けれど、毎年見ているその名は、ぼくに『死者を悼む実感』を与えてはくれない。形だけの哀悼。理屈で納得させる死の理解。それが、ぼくにできる精一杯の死者への弔いだった。
 ぼくは半壊した『バスタ』が正面に見える交差点を渡り、そこからさらに東に向かって進んだ。
 景色は相変わらずで、特に変わり映えした様子もない。駅から離れるほど、荒んだ街の様子が露わになっていく。かつて『建物』だったことを窺わせる建造物の群れも、今となってはただの『廃墟』だ。
 いわゆる昔のトーキョーの風景……そういうものを、ぼくはあまり知らない。
 元々住んでいたのはカワサキのタマガワ付近だったから、トーキョーは確かに近い存在ではあったけど、でも、あのタマガワの向こう側に広がっていた世界というのは、幼かったぼくにとって、どこか遠い存在に思えてならなかった。
 ただ、ネットの写真や動画などを通して見た光景なら、今でもよく思い出せる。
 とにかく印象に残っているのは、所狭しと立ち並ぶビルディングと、ぎゅうぎゅう詰めに敷き詰められた民家、そして、まるでマグロのように止まらず動き続ける人々の歩調。
 実際、足を止めたくらいで死ぬはずなんてないのに、なぜかそういう余裕のなさが、スマホやパソコンの画面越しからでも伝わってくるような気がした。
 だけど、良くも悪くもだけど、トーキョーという街はカラフルだったと思う。
 迷路みたいに入り組んでいて、時々隠れ家みたいな場所があって、宝箱みたいなドキドキもあったり、そういう期待を裏切るような掃き溜めスポットもあったり、いわゆるハイソな住宅街があったり――……。
 でも、ぼくはそんな『トーキョー』を知らない。
 ぼくにとっての『カラフルなトーキョー』は、所詮、ネット上で拾っただけの0と1のデータにすぎない。幼い頃、確かに何度かトーキョーに行ったことはあるけど、ぼくの記憶の大部分を占めているのは、震災直後の『母親の上半身』か、もしくは『タマガワの向こう側』……ぼくにとってのカラフルは、瓦礫と河川敷の色だけなんだ。
 ぼくがハッキリと覚えているのは――どこまでも続く灰色の景色だけだ。
 地震によって剥き出しになったビルの鉄筋。
 コンクリートの破片が山積する道路。
 滞る支援と、そこら中を飛び交う不特定多数の私怨。
 泣き止まない女の子。綿が飛び出たクマのぬいぐるみ。
 知らない誰かの血痕。一部分が赤黒く変色したモザイク調のタイル。
 繋がらない携帯電話。真っ二つに折れてしまったヨヨギビル。
 浮浪者はいつの間にか廃墟に住み着くようになっていて、そこを根城にする人たちは、【ハイキョ族】と呼ばれるようになった。多分、命名した者はヒルズ族でも意識したのだろう。
 ハイキョ族たちは、その後も着々と生活範囲を押し広げていき、そしていよいよ、彼らのテリトリーが【トーキョースラム】と言われるまでに拡大した頃にはもう、トーキョーはかつてのトーキョーではなくなっていた。
 地震を陰謀論と結びつける妙な新興宗教が台頭してきたのも、ちょうどその時期だったと記憶している。その新興宗教が繰り広げる街頭演説に、多くの飢えた人々が賛同して吠えていたけど、ぼくの心は乾いたままだった。言動の真偽云々じゃなくて、正直、ぼくはあの頃から世間と自分の狭間に生じてしまった、ある種の境界線を感じるようになっていたんだと思う。

 この境界線の正体が何なのか、ぼくは未だ理解できずにいる。

 どこまで行っても浮ついてしまうような所在無さ。
 特急列車の乗客に混ざり切れない乖離感。
 家族の死に実感を持てない空虚な自分。
 政府に対する大規模デモを眺めていた時も同じだった。
 ぼくは、デモという結果によって可視化された〝怒り〟を認識することはできても、
〝怒る〟という心の動作ができなかったんだ。
 怒りが無かったわけじゃない。けど、ぼくは怒ることができなかった。
 ぼくは、時々思う。
 今もこうして歩いているのは、単に自分が義務感に則って肉体を動かしているだけにすぎないのではないのか?……と。
 そういう得体の知れない不安感を自覚するようになった頃から、ぼくは他人と自分の間に介在する境界線を、妙に意識するようになってしまった。
『シンジュク御苑』に向かっている今もそうだ。
 ぼくの横を通り過ぎて行ったり、追い越していく黒い服たちが溶け込めているであろうはずの『現実』とやらに、ぼくはしっかり、混ざれているのだろうか?
 今すれ違った母と子は、ぼくが自分の顔に覆わせた『追悼』を、ちゃんと追悼だと認識してくれたのだろうか?
 あの廃墟と化した煤けたビルの窓ガラスから顔を覗かせているハイキョ族に、ぼくはちゃんと遺族だということをアピールできているのだろうか?
 世間が醸成した『遺族』という枠内に、ぼくはしっかり当てはまっているのだろうか?
 ぼくは、ぼくという人間が現実に存在していることを、ちゃんと他人に分かってもらっているのだろうか……。
 ぼくは分からない。なんでこんな気持ちになるのかも、分からない。
 唯一ぼくが理解している自分の内側は、『ぼくには現実に混ざる理由があるのに、現実に馴染みたいと思えるだけの動機がない』という、心が打ちだしたテキストデータだけだ。
 ぼくは、この妙な感情を形作る原因を知らないし、どうにかしたいと思ったこともない。
 震災の後、ぼくは何とか親戚の人と連絡を取ることができて、ほとぼりが冷めるまでの約半年間、その親戚家族と一緒に、難民キャンプで行動を共にすることになった。そしてその後、ぼくはコウチ県に住んでいた母方の祖父母の家に引き取られることになり、高校を卒業するまで育ててもらった。
 ぼくがミカワに移り住んだのは社会人になってからだ。今勤めている会社は、社員数20人程度のデザイン系の会社で、忙しいといえば忙しいんだけど、会社自体の業績は悪くないし、ぼく自身もそれなりに結果も残せているから、職場に対する不満も特にない。
 もう十分なんだ。衣食住はそつなくこなせるようになったんだから。
 だから、ぼくがやらなければならないことは、あとはもう生きることだけなんだ。
 母親の遺言通り、ぼくは生きて、生きて、そして消滅しない死に方をすれば――


〝まだ『生』の意味すらちゃんと理解できていないのに、どうして『死』が分かるの?〟


 ぼくは不意に歩みを止めた。女性の声が聞こえた気がしたんだ。
 そして、ぼくはその声の主の正体を視界の奥に捉えた。黒服だけが行き来する中で、その純白の着物を身に纏った黒髪の女性は、異様すぎるほどに目立っていた。


〝心せよ。亡霊を装いて戯れなば、汝亡霊となるべし〟


 ぼくは今頃になって周囲の異常さに気が付いた。
 世界が――止まっていたのだ。
 まるでこの時刻、このタイミングで、ぼく以外の人間が全員ストップモーションを行う取り決めが成されていたかのように。
 その女性は、長い髪を左右に揺らしながら制止空間の中を優雅に歩き、そしてぼくの間傍まで来ると、にこやかな微笑を携えながら、こう口にした。

「世界の死角で待っているわ。あなたの心門が開かれんことを」

 女性はそよ風のようにぼくの視界から消え去り、ぼくが後ろに振り向くと、途端に世界はその活動を再開させた。黒服ばかりが行き交う中、しかしどこを探しても『白い着物』など見当たらず、ぼくは白昼夢をここまでリアルに再現できてしまう自分の誇大妄想力に呆れながら、道行く人々が織り成す現実に還った。


     ◇


 ぼくの家族が実際に亡くなったのは、都営地下鉄オオエド線のヨヨギ駅付近だった。
 シンジュク御苑の慰霊碑をあとにしたぼくは、道中、花屋に立ち寄って仏花を買い、その足で被災現場まで向かうことにした。
 シンジュク駅は、まだ駅としての機能を保っている分、道路整備も行き届いている。が、ヨヨギの方はそうもいかない。
 亀裂の入った道路は隆起して凸凹しているし、崩壊した雑居ビルの成れの果てが、ちょっとしたアスレチック感を演出している様は、確かにこのトーキョーという街が『コンクリートジャングル』なのだと納得するには十分だった。
 いくら自然に抗おうと人間が試みたところで、最終的には自然に還る、ということなのだろうか。一瞬の天災が、半世紀以上を刻んだ人工物を、たかが数秒で天然の遊技場に変えてしまったのだから、これはもう皮肉としか言いようがない。
 子供だったら喜びそうな山登りならぬ瓦礫登りをこなし、ぼくはようやく、ヨヨギ駅の跡地に到着することができた。
 相も変わらず荒んだ状態で、なびく風もどこか寂寥としている。ここの景色は、何度見ても変わる気配がない。
 JRヨヨギ駅舎はMの字に折れ曲がっていて、そのすぐ隣に位置する地下鉄への入口階段の手前には、『崩落の危険があるため立ち入り禁止』と書かれたバリケードが通せんぼをしている。ぼくはバリケードの傍まで近付いて、そしてこの付近一帯をぐるっと一望した。
 人の気配はなかった。ハイキョ族がどこかに潜んで、こちらの様子を伺っている可能性は十分考えられるけど、近くにいなければ問題ない。手早くお参りを済ませて、この場から立ち去ればいいだけだ。
 ぼくはそのまま片膝を突いてしゃがみ込んで、先ほど購入した仏花をバリケードの脚元に供えた。
 この辺りはシンジュクエリアのトーキョースラムに近いため、盗難被害も多く、遺族も滅多に来ないという話だが、やはり、ここを訪れたいと思う遺族は少なくないのだろう。バリケードの手前には、彩り艶やかな花束がいくつか置かれていて、そこから漂う香りが、虚しい風に乾かされたぼくの鼻腔を通り抜けると、ぼくはこの街を覆う緊張感から少しだけ解放されたかのような――なんとなく、そんな気分になれた。
 ちょうどその直後、後方から物凄い風が吹いて、知らない誰かが供えた花束から、紫色を帯びた花が一輪、バリケードの奥に佇む地下の闇に吸い込まれてしまった。

『おかーさん! はやくしないと、でんしゃにまにあわないよ!』

 何の前触れもなく発せられた声に、ぼくは心臓が飛び出すんじゃないかと思うくらい驚かされてしまった。見れば、ぼくの真横には、幼い少女と三十代半ばくらいの母親らしき女性が立っていた。
『そんなに急がなくたって大丈夫よ。どうせ次のやつがすぐに来るんだから』
 幼い少女が、柔らかい母性を感じさせる女性の袖を引っ張りながら、すぅーっと、バリケードを透過していくと、二人はそのまま地下へと入って行ってしまった。
 一瞬、ぼくは夢を見ているのかと思ったけど、今しがた起きた現象は全て『疲労』が原因だと結論付けた。
 あの二人はきっと、幽霊という名の幻覚だったんだ。震災などで大量に人が亡くなってしまった場所では、そういう『錯覚』を起こす人間が度々いるという話だし、精神的な疲れが何かの拍子で形となり、こういった光景を引き起こすのだとか何とか……そんな風なことを、以前ネット上に転がる情報で見聞きした覚えもある。

 ……。ただ。
 階段を下っていく靴音の現実感。
 耳を通り抜けた子供の駄々と、苦い笑いしつつもそれに応じていた女性の声は、とてもそんな錯覚には思えなかった。

〝そして不意に鳴り響く、乗車アナウンス――〟

 明らかに使い物にならないようなスピーカーから、その音声は漏れ出ていた。限りになくノイズに近いその音は、けれど、その後も鳴りやむことがなかった。
 きっと機械の誤作動か何かだ。ぼくはそう思い込むことにした。
 そうでないなら、たぶん悪い夢でも見ているのだ。きっとそうだ――と。
 でも、そんなぼくの思い込みを嘲笑うかのような『即物感』を伴いながら、現実は夢以上の異常さを発揮しつつあった。
『おっ、そろそろ出発だってよ』
『ワシらも行くとしようかのう』
 40代くらいの中年男性と、おそらくその父親かと思われる初老のおじいさん。
 二人とも仲睦まじくバリケードを透過して、階段の奥へと消え去ってしまった。
(……なんなんだ。これ)
『向こうに到着したらさ、どこかでお茶でもしない?』
『いいね。ついでにさ、ちょっと行きたい店もあるんだけど!』
『うん。別に構わないよ。あれ、そういやアキコは?』
『あー、彼女はまだ駄目。私たちと違うから』
『そうだったね。いつか来るかな』
『生きたまま来れたら、その時はガイドしてあげたいね』
 その女性二人は、友達同士なのだろうか。
 コツ、コツ、と地面を鳴らすヒールの音を刻みながら、けれどやはり、その女性たちも透明人間のように物体をすり抜け、陽炎のように揺らぎながら地下に行ってしまった。
 それはまるで、地下鉄の入口が〝幽霊〟を吸い込んでいるかのような、そんな不可思議な印象をぼくに与えて止まず、ぼくは恐る恐る入口手前まで近寄って、そして階下で待ち受ける暗がりを見据えた。
「彼岸の民も理解しているのね」
「はっ!?」
 ぼくは慌てて身を翻して、突如として背後に現れた謎の闖入者を視界に納め、そして即座に慄いた。
(この人って……さっきのだろ)
 そこにいたのは、つい先ほどぼくに『生死云々』とか、『心せよ』とか、訳も分からない小難しい言葉の数々を唐突に吹っ掛けてきた〝変人〟だった。
 ショーワ初期、もしくはそれ以前ならいざ知らず、『ヘーセイ』という年号すら過去の遺物のように扱われ始めている昨今、このような『純和装』を普段着のように着こなす女性は、もはや絶滅危惧種ではないかと思われる。
 色白の肌に、腰まで届きそうな長さを誇る黒髪を持つその女性は、美しいという形容詞がずばり当てはまる容姿を有していたが、正直言うと、ぼくはその女性から滲み出る『生命感の稀薄さ』が、どこか不気味に思えてならなかった。

 ニホン画に描かれているような女性の幽霊――とでも表現するべきか。

「そう。彼らの言う通り、もうじき列車は来る。そしてあなたは乗車券を持っている」
「さっきから、なにを、言ってるんですか? あの、その、失礼ですが、この辺りに住んでいる人ですか?」
 ぼくは遠回しに、目の前にいる女性がハイキョ族であるか否かを確認した。
 出で立ちや、服装、その佇まいからして、彼女が賊である可能性は低いような気がするけど、一方で、誰かの着物を奪って身に付けているという懸念も捨てきれない。
 自衛のためには疑心暗鬼になることを許容するしかなくて、ぼくは相手の出方を慎重に見守った。
「いいえ。違うわ」
「そう、ですか……って、ちょっと! 待ってください! そっちは危ないですよ!」
 先ほどの『幽霊』たちとは違って、その着物女性は律儀にもバリケードを手で動かし始めた。そして、人一人が通れる程度の隙間を開けると、くるり、と体を反転させ、ぼくの双眸を射抜いた。
「あなた、自分が何処にいるのか、知りたいと思ったことはない?」
「えっ」
 刹那、ぼくは質問をスルーされたことがどうでも良くなるくらい驚愕した。
 この着物女性は、ぼくがずっと抱えてきた『モヤモヤ』の正体を、いとも容易く言い当てたのだ。
 家族の死に実感が湧かず、乖離感ばかりを感じ、何処にいても自分が何処にもいないような気分にしかなれない所在感のなさ。それがつまり、ぼくの抱えている『モヤモヤ』だ。
 だけどぼくは、行きずりの相手に看破されるほど、自分の内面を外部にさらけ出しているつもりはない。一体なぜ、彼女はそんなぼくの深い部分まで、見通すことができたというのだ?
 ぼくの中に生まれた戸惑いが、ぼくの口を塞ぐ。
 着物女性は、返答に窮するぼくのことをしばし見つめていたけど、やがて回れ右をしてそのまま地下階段の方に行ってしまった。
「あっ! だからそっちは!」
 ぼくが慌ててバリケードの傍まで駆け寄った時にはもう、彼女の姿は光の届かない地下の暗がりまで沈んでいた。下駄の音が小さく反響していたけれど、じきにそれも聞こえなくなった。
 あとに残ったのは、乾いた静けさだけだった。
 ぼくは着物女性の吐いた捨て台詞を思い返し、そして唇を噛んだ――

〝自分が何処にいるのかなんて、分かったような口を利くなよ〟

 ――喉元まで出てきた感情を抑え込むために、ぼくは奥歯に力を込めた。
 偉そうな物言いに対する心の衝動が無かったと言えば嘘になる。けれども、まずぼくは一も二もなく彼女の後を追うことにした。『幽霊』ならともかく、バリケードを手で押すような『生身』の持ち主が、こんないつ崩落してもおかしくない地下の只中に足を踏み入れるなど、危険行為以外の何物でもないからだ。
 気付けば、ぼくは階段を駆け降りていた。
 陽光が遮断されていくにつれ、地下の闇が濃くなっていったけど、常夜灯のような照明が道標のように足元を照らしていたから、辛うじて視界は確保できた。
 ぼくはスマートフォンのライトも点灯させて、さらに前進を続けた。
 崩落の危険がある云々とか書いてあるビラを無視し、規制線みたいな黄色いテープを破って、地下鉄の駅構内を突き進んでいく。
 この界隈は冗談抜きで危険区域なんだ。道路が陥没しただなんて話は日常茶飯事だし、それこそ数日前に、立ち入り禁止区画を根城にしていたハイキョ族の遺体が見つかったという報道が流れて、ネット番組がこぞって騒ぎ立てたばかりだ。
 ただ小走りしているだけなのに、ぼくの息は切れ始めていた。二十歳を過ぎたあとの運動不足は、加速度的に肉体を衰えさせるのだと、ぼくはつくづく思い知った。
 なんでこんなことをしているのだろう。わざわざ、知りもしない赤の他人のために。
 白状すると、人助けなんてぼくの柄じゃない。でもぼくは、どういうわけか、こんな馬鹿をやらずにはいられなくて、あの着物女性を探さずにはいられなかった。
 決して、一目惚れじみた恋愛感情が生じたからではない。むしろこれは、近親憎悪に近い気がする。
 自分自身が性別を変えてこの世に生を受けたかのような、あの佇まい。
 鏡は悟りの具ではなく迷いの具である、と斎藤緑雨は説いたそうだが、ぼくはまさに今、それを肌感覚で実感させられている気分だった。
 ――と、その時だ。
 ジリジリ、と電流の流れる音を弾けさせながら、駅構内が一斉にLEDの白色光によって染められた。
 ぼくは不意の出来事に足を止めて、鮮明になった周囲に視線を走らせた。どうやら、ぼくは改札口の手前まで来ていたらしい。
 駅構内の非常用電源が作動したのだろう。どういう理屈で電源が復活したのかは分からないけど、10年近く整備されていないにも拘わらず、未だ現役を続行できる電気系統の耐久力には、ある意味、感動させられてしまう。

〝そして、再び流れるアナウンス〟

 どこの国の言葉だろうか。英語ではないけど、乗車を催促する文言であることは、感覚的に理解できた。
 ぼくは、その意味難解な言葉に背中を押さえれるような形で、ガラクタと化している壊れた改札機を通り抜けて、地下のプラットフォームへと伸びる階段を下り――そしてぼくは、ホームの中央で立ち尽くす着物女性を見つけた。
 ぼくの存在に気付いたらしい彼女は、ゆったりとした動きでこちらに顔を向けると、
「あなたが私に抱くソレは、ただの八つ当たり? それとも自虐? それとも自壊?」
 相も変わらず珍問答を繰り広げるのが趣味らしいが、そんなことにいちいち構っている余裕はない。ぼくは彼女の言葉に返事をするつもりは一切なく、足早に歩み寄った。
 着物女性は、ここが危険区域だと知ってか知らずか、どこ吹く風と言わんばかりの態度で取り澄ましている。一体全体、あの余裕はどこから湧き出てくるのだろう。
「そろそろ来るわ。黄色い点字ブロックを踏み越えないでね」
「はあ?」
 直後、コンクリート越しに馴染み深い震動が起きた。
 足元を介して体中に這い上がって来るその地響きは、幻聴ならぬ、幻震、とでも言えばいいのだろうか。
 あるはずもない震動を感知したぼくの触覚が、ぼくの理性に訴えかける。
 これは紛れもない〝現実〟だと、脳に信号を送り続ける。
 ぼくは忠告通り、黄色い線からはみ出ない程度にトンネルを覗いてみた。
 暗闇の奥の奥。その先に小さな光点が二つ現れたかと思うと、それは次第に膨れ上がり、いよいよぼくの肉眼でも鮮明に捉えることのできる距離まで接近してきた。
 突拍子もない事象に耐えきれるほど、人の理性は頑丈じゃない。と、ぼくは思っている。けれど、多分ぼくのように、あの震災を経験してしまった人間にしてみれば、この程度の非日常は些末なことなのかもしれない。少なくとも、瓦礫が人を呑み込む瞬間に比べれば、今の非現実的な光景の方がずっとマシだと、ぼくには思えてしまったのだから。
 その『鉄の塊』は、あろうことか線路を塞ぐ障害物を透過しながらホームに迫っていた。
 次第に膨れ上がる先頭車両のライトの輝き。
 煌々とする光には、けれど目を塞ぎたくなるような眩しさが皆無だった。
 ぼくは、自分が危険区域にいることなど、すっかり忘れていた。
 それほどまでに、迫り来る車両には得も言われぬような神秘性が漂っていたんだ。
 早朝の太陽が放つ清々しい煌きでもなく、教会のステンドグラスに差し込む厳かな光芒でもなく――トンネルの闇を照らすその灯りには、カタルシスの真逆に位置するようなネガティブもありながら、しかし決してオールオアナッシングには陥らない『芯の強さ』もあって、ある意味、宇宙空間に放り出された人間が、太陽系の星々に見つめられるような……それこそ、突拍子もない印象をぼくに照射し続けた。
 気付けば、ホーム全体がその混沌とした光の渦に呑み込まれていて、ぼくの心身も――これは決して比喩ではなく――その中に溶け込んでいった。
 脳天から爪先まで、絹よりもずっと滑らかな光の帯によって、ぼくの身体が隅々まで満たされると、刹那、身体中がフラッシュしたかのような体感を最後に、ぼくの意識は途絶えてしまった。


     ◇


 これは、ぼくの記憶だ。

『なんで人は列車に乗るんだろう?』

 トーキョー大震災が起こる直前、ぼくは地下鉄の中で、誰に問いを投げる訳でもなく、そう呟いた。
 妹は『なに急に哲学ぶってんの?』とか言って、ぼくのことを訝し気に見つめていた。 
 ぼくは『別に、そんなつもりじゃないよ』と口にしたんだけど、妹がそう言いたくなる気持ちも、分からないわけではなかった。
〔人間に対する興味や疑問〕というのは、往々にして〔哲学ぶっている〕というカテゴリに該当してしまうからだ。
 そんなことを言い出したら、この世の中の疑問は全部〔哲学ぶっている〕だろうと、ぼくはついつい反論を述べたくもなったけど、ぼくは妹に対して、特に何も言おうとはしなかった。思い返してみれば、あれは、ぼくと妹が交わした、最後の会話だったのに……。
 でもそれは、悔やんでも仕方のないことだ。あの震災を乗り越えて生き残った当事者たちというのは、きっと多かれ少なかれ、そういうどうしようもない後悔を抱えているに違いない。誰も彼も、あんなにも〝死〟が間近に迫っていたなんて、知る由もなかったのだから。
 とにかく、その時のぼくは三角形の吊革にぶら下がりながら、窓を眺めていたんだ。と言っても、列車は地下を走っていたから、景色を見る、というよりは、視線の逃げ場を求めていただけだった気がする。

『それは多分ね、目的地があるからよ』

 そう言ったのは、母さんだった。
 ぼくの唐突すぎる独り言に対し、母さんは真面目な声音で応じてくれたのだ。
 ぼくは『じゃあ、途中下車は何なのさ?』と返した。
 すると――

『きっとそれは、途中下車が目的地だったのね』
『ん? どういうこと?』
『心が求めた場所。それが目的地ってこと』
『じゃあ、目的が無ければ、それは心が何も欲しがっていないってことなの?』
『そうね。だって意志がなければ、目的を持つこともできないでしょ?――』

 ――過去が、遠ざかっていく…………。
 まるで、車窓を横切る街の景色のように。
 今のぼくの意識はひどく曖昧だ。寝起きのような感覚に近い。
 聞こえてくる音。ガタンゴトン。
 心地良い揺れ。小刻みに動くぼくの肩。
 ぼくは項垂れたままの姿勢を、けっこう長い時間やっていたらしい。
 首筋が痛みを訴えていて、ぼくはその刺激によって、ようやく目を覚ますことができた。
 目を何度か瞬き、ぼくは自分の現在地を確認したのだけれど、自分が今見ている光景があまりにも受け入れ難い状況だったために、しばし心が沈黙してしまった。
 何度目かのガタンゴトンの後、ぼくはようやく放心状態から正気に戻ることができたけど、だからといって何が解決されるわけでもなくて、動揺は未だにぼくの心を揺さぶり続けていた。
 何度確認しても、どこをどう見直しても、ここは明らかに『列車』の中だった。
 グレー調の床に、えんじ色のロングシート。両端に設けられた袖仕切りは、[立っている]ことと[座っている]ことを間引く『壁』のようなデザインだ。袖仕切りを背もたれに使う乗客の肘が迷惑で仕方がないんだ、というクレーマーのために作られたんじゃないかと、思いたくもなる。
 次にぼくは、目線を天井の方に運んだ。
 規則正しく並んだ吊革の形は、〇△……そしてなぜか□と×が混じっている。
 □はまだしも、×は一体どうやって掴めというのだろうか……。
 窓ガラス越しに見える景色は真っ黒だ。どうやらこの列車は、トンネル内を走行しているらしい。
 そして、ちょうどぼくの真正面に位置する窓ガラスには、『生者専用車両』という文字が印字されているライムグリーンのシールが貼られていて、ぼくはその不思議な謳い文句に思わず首を傾げてしまった。
「なんだそりゃ? 生きている人間専用って、どういうことだよ?」
 そんな言葉が、思わず口を突いて出てしまった。とはいえ、この車両には誰もいないから、ぼくは自分の発した独り言に対して、そこまで神経質になる必要もなかった。
(それより、ここは一体どこなんだ? なんでぼくは、こんなところにいるんだ?)
 ぼくは、あの『奇妙な列車』を見た瞬間までは記憶に残っているけど、乗車した覚えなんて一切ない。
 ひょっとしたら、まだ夢の途中だったりするのだろうか。
 仮にこの夢が、先ほどの家族とのやり取りの続きなんだとすれば、この後に待ち受けているのは間違いなく『上半身』と『遺言』だろうな……と、ぼくは現状に対する気休めとして、ひとまずそんな自虐めいた発想を用いて自嘲した。
「ようやくお目覚めかしら?」
「へっ!?」
 それは不意打ちに等しい一撃だった。
 ぼく以外誰も乗っていなかったはずの車両に、『あの女性』と思しき声が響いたのだ。
 ぼくは声が聞こえた方角に顔を向けた。ぼくの左斜め前、ちょうど対角線上に位置するロングシートの中央に、『着物女性』は座していた。
「い、いつの間に!? 誰もいなかったはずのに!」
 ぼくは間違いなく瞳孔を、ガッ、と見開いて驚愕していたに違いない。
 けれど着物女性は、そんなぼくの反応なんて全く意に介さず、ほんの僅かな一瞥の後、その涼しすぎる横顔でこう答えた。
「そうね。だからきっと、いつの間にかここにいたのよ。あなただって、気付けばそこでうたた寝していたでしょう? ここはそういう脈絡を必要としない場所だから。唐突なのよ。何もかも」
 相も変わらず、この女性は暖簾に押し問答しているような感覚にさせてくれる。
 ぼくは内心に沸き立つフラストレーションの波を感じずにはいられなかったけど、それ以上に、この女性がさも『訳知り顔』で応じたことに虚を突かれてしまい、まるで意図せずくしゃみが止まってしまったかのような不快感に苛まれながら、ぼくは彼女に尋ねた。
「あの、ちょっと待ってください。何か知っている風な口ぶりですけど……ここがどこなのか分かるんですか? というか、なんでさっきまで地下にいたのに、ぼくは列車に乗っているんです? まさか、あなたがぼくを持ち上げて乗せた……とか? だいたい、あなたは一体何者なんですか? 謎かけもいいですけど、いい加減、説明してもらえませんかね?」
 言葉の端々に、抑えきれなかったフラストレーションの余剰エネルギーみたいなのが付着してしまったけど、それに対して後ろめたさを感じる余裕なんて、今のぼくにはない。
 早い話が、精神的にかなり切羽詰まっていたってことなんだけど、そんなぼくの気持ちが通じたのだろうか。今の今まで能面のような無表情を一貫してきた彼女に、その時ふと、人間味が差し込んで、稀薄な生命感を放つ不気味な存在から、現実に根を下ろす一個の個人に変化したのだ。
 まるで、ぼくの中に湧いた僅かな〝怒り〟に呼応したかのように――。
 彼女はそっと微笑を浮かべると、今度はちゃんとぼくの両目を見据えながら、こう応じてくれた。
「そうね。もうそろそろ、説明してもいい頃合いね」
 彼女がそう口にした直後、列車がトンネルの闇を抜けた。
 暗がりに慣れ切った目に外の明かりが容赦なく入り込み、あまりの光量の落差に耐えきれなかったぼくは、反射的に両腕で目を覆い隠した。そして数秒後、ぼくは徐々に瞼を開いて、おそるおそる腕を下げ――そして驚きのあまり言葉を失った。
 ぼくはシートから立ち上がって、自動ドアに駆け寄った。
 ぼくの視界を埋め尽くさんとする光景は、およそ『都市』としか形容しようがない空間だった。……いや、先ほどまでヨヨギの地下にいたことを考慮すれば、ここは『ジオフロント』と表現した方が適切なんだろうか。

〝でも、ここは本当に地下なのだろうか?〟

 暗雲一色の空の下。乱立するビルディングと、それら建築物の麓で賑わう人々の往来。歓楽街を彷彿とさせる艶やかな街のイルミネーションには、けれど『歓楽街』という言葉が放つはずの厭らしさが感じられず、ぼくはただただ、この存在しそうであり得ない奇妙なアンバランスワールドに魅入ってしまった。
 高速道路のような様相を呈した路線の構造と、その上を猛スピードで駆け抜けていく複数の列車。
 薄闇の中でランダムに明滅する色とりどりの光点に、網の目のように細い路地裏。
 そして、そここに点在する人、人、人――。
 過ぎ去る風景を左から右へ。ただただ、茫然に受け流していただけのぼくは、他の区域より若干明るいガスコンビナートのような工場施設を通り過ぎた瞬間、ふと、この街の色彩が、全体的にグレー調である点に気が付いた。
 街の灯りは徐々に遠ざかっていき、次第に灰色の世界は、漆塗りのように濃黒に染め上げられていった。そんな真っ暗な景色に映えるのは、店の看板に備え付けられたLEDの輝きか、もしくはそこら中を走り回っている列車のライトだけで、同時にそれらの光は、ぼくに何かを訴えかけているような気がした……けど、伝わらなかった。
「今はまだ、無理に理解しようとする必要はないわ」
「え?」
 ぼくが右後方に振り返ると、背筋をピンと伸ばして座る着物女性の視線とかち合った。
「そういえば、そろそろ説明してくれるとか何とか言ってましたよね」
「ええ。でも、あなたがまるで物見遊山の観光客みたいに窓際に貼り付くから、タイミングを逸してしまったのよ」
「そりゃ、すいませんでしたね」
 彼女が皮肉めいた口調で言うので、ぼくも少しだけ嫌味を込めた声音で応じた。
「で、ここは一体? どこなんですか?」
「特に決まった名称はないけれど、私たちはここを【死角世界】と呼んでいるわ。ここは、此岸に存在しているにも拘わらず、多くの人に認知されない領域。そこにあることを誰も知らない不思議な空間」
 このまま喋らせたら、三度なぞかけを仕掛けてきそうな勢いだったから、ぼくは彼女の独演会が始まる前に急いで会話を遮った。
「しかく? しかくって、まさか視えない角度っていう意味の、あの死角のことですか?」
「まさか四角、三角の話だと思って?」
 ぼくは心底うんざりしながら、かぶりを振った。
「そんなわけないでしょう。っていうか今『私たち』って言いませんでした?」
「あら、ごめんなさい。そういえば自己紹介がまだだったわね」
 そう口にすると、着物女性はやおら席から立ち上がって、その清楚な佇まいをぼくに正対させた。
「私たちの名前は【ゲート】。人間の欠点、トラウマ、ボトルネック、言い方は何だっていいけど、私たちはそういった『人間の心の穴』を媒介にして生まれる存在なの。有り体に言うならアルトラル体って感じかしら。そして私たちに与えられた役目は、この世界に踏み入ることが許された人間を案内し、終着点まで付き添うこと」
 雲を掴むような、狐につままれたような……。今日日、都市伝説やオカルト話でさえも、もう少しまともな理屈をこね回すだろうに、と思わずにはいられない。
 曖昧として判然としない説明を受けたぼくは、彼女と言葉のキャッチボールを交わすのは無理だと、早々に見切りをつけた。
 そりゃそうだろう。いきなりこんな話をされて「ああ、なるほどね」などと答えられる人間は、まあいないはずだ。少なくともぼくの頭の中は今、ちんぷんかんぷん、の文字がひっきりなしに往来しているような状態だ。
 いっそのこと、これは夢なんだって、思い切って割り切ることができれば、いささかとはいえ、精神的に大分楽になれるんだけど、如何せん、目で景色を撫でた時の『質感』が、どうにも『夢の質感』とかけ離れすぎている。
 その違和感を、正気を保つための唯一の拠り所とし、ぼくはとりあえず、質問の体裁を継続することに決めた。
「……あの。いわゆる、異世界、とは違うんですか? ほら、ファンタジー映画とかは、そういうのを題材にした作品が多いじゃないですか」
「言ったじゃない。ここは此岸だって。死角世界は紛れもなく、あなたが住んでいる世界に実在している場所よ。現実に潜む一面。地球に埋もれる極小の粒――言うなればブラインドホールね。そもそも、ニホンっていう狭い領域ですら人の手に余るというのに、星を隅々まで把握できると思って? 人間は地球を眺めることができても、地球を完全に識る術を持っているわけじゃないのよ?」
 ほとんど投げやりな思考に陥っていたことが、かえって功を奏したのだろう。余計なことを考えなかったぼくの思考回路は、彼女の言わんとすることを、何となく理解することに成功していた。
 つまり彼女は『個人の認識力の埒外にある事象なんて、世界にはごまんとある』ということを、ぼくに言いたかったのだろう。
 理屈で考えれば、確かにあり得ない話ではないのだけれども、それにしたってこれは度が過ぎている。こういう世界観っていうのは普通、認識力の埒外じゃなくて、妄想の範囲内で行われてしかるべき幻想(フィクション)のはずだ。
「まあ、あなたが〝現実〟と〝虚構〟に差異を求めたくなるのも、分からなくはないけど。そもそも、それら二つに大した違いなんてないのよ? どっちを信じるのか。それだけの違いしかないんだから」
「ああ、まあ。いや……そうなんでしょうけど。そう言われても……正直、ねえ……」
 ぼくは空返事で適当に相槌を打った。はっきり言って、思考が追い付かない。
 というか、なんでこの人は、ぼくの考えていたことが分かったのだろう。ぼくは『認識力の埒外ではなく、妄想の範囲内云々』について彼女に語った覚えはない。……いや、今考えてみれば、初めて彼女に会った時から、ぼくの思考は彼女に対して筒抜けだったような気がする。
 まさか彼女は、ぼくの思考を常に読み取ることができるとでもいうのか?
 冗談じゃない。勘弁してくれ。盗人猛々しいにもほどがある。
(あれ、でも待てよ。そういやさっき『私たちは人間の心の穴を媒介にして生まれる存在』とか言ってたよな。ってことは……)
「ご明察。だから私には、あなたの考えていることが手に取るように分かってしまう」
「なっ!?」
「安心して。プライバシーの侵害を犯すつもりはないから」
「いや、そういう問題じゃないだろ!」
「つまりその真意は、意識っていう情報が抜き取られる『行為』を自覚することで生じる『不愉快』ってことじゃなくって?」
「いちいち回りくどい表現してくれるな。あんたって人は」
 まあ、実際そういうことなのだが……。
 言いたいことは山ほどあるけど、いちいち反論していたら切りがない。というより、相手はぼくの思考を読み取れるのだから、口答えしたところで先を越されるだけだ。
 そして案の定、ぼくの内情を知る彼女は先を制してこう切り出した。
「自我と名付けられた質量の集積体が、いつまでも個人の所有物に納まっているわけないでしょう? 脳に保管された知識だけは、どんな盗人でも盗むことなんてできやしない――そう信じて疑わないのであれば、それはもう時代遅れよ。『これは自分の意識だ!』って高らかに矜持を示したところで、所詮、それらはただ脳を行き来するだけの電気信号でしかないんだから。
 意識とか自我とか魂とか、そういったものに付随していたある種の神秘性は、もうほとんどその効力を失っていると言っても過言ではないわ。これからの意識っていうのは多分、個人を個人だと保持するための『自我を満たすための自我』と、もう一つ、広く一般向けに公開される『公共性を伴った自我』も必要になるはずだわ。自我というのはね、もう自分一人のものではなくなるのよ――」


〝みんなと繋がる私〟と、〝私のためだけの私〟


 個人を個人たらんと証明するための、あるいは誇張するための【私的財産的自我】。
 公序良俗の幸福追求のための【公共財産的自我】。
 いよいよ自我にまで公共性を要求されるとなると、やや気色の悪い感を受けないでもなかったけど、『マイナンバー』による管理体制を〝肌感覚〟で味わっているだけに、ぼくは彼女の言葉を右から左に聞き流すことができなかった。
 なぜなら、ぼくの身体の中には既に【公的個人認証用マイクロチップ】――通称『機心電信』という体内インフラ設備が埋め込まれているからだ。
 ぼくがまだ赤ん坊の頃に、細い注射針で右手の親指と人差し指の間――ちょうど合谷とか呼ばれている部位に、そのチップは挿入されたらしい。触ってみても違和感など皆無で、本当にこの中に埋まっているのかどうか訝った時もあったけど、実際にこれを使用して決済をしてみると、『ああ、確かにぼくの手の中には財布が入っていたんだ』と、納得することができた。
 この機心電信という俗称が、以心伝心をもじった揶揄であることに疑う余地はないけど、この認証用チップにはクラウドタイプの『AI』が組み込まれているから、機械の心――略して『機心』と説いた表現は、あながち的外れというわけでもなかった。
 最近だと『機心電信の次は機械全身の時代になりますよ!』という駄洒落を豪語するコメンテーターが登場する始末で、結果論とはいえ、2028年に開催された、ロサンゼルスパラリンピックに登場した『ハイテク義肢』の数々は、今日における『機械義肢産業』の足掛かりになったと言えなくもない。
 ロス以降のパラリンピックは、加速度的に進歩していった義肢の性能と、各競技のルール変更に伴い、徐々に本命であるはずのオリンピックよりも、人気になっていった。
 実際、高さ300メートル以上もあるビルを競技用に改装した『ボルダリング』は、見ていて圧倒されるものがあった。
 ああいった運動能力に対する憧れは、少なからずぼくの中にも湧き起こったから、当然の結果と言えば当然なんだろうけど、やはり健常者の中にも、自ら率先して両手両足を機械義肢に付け替える〝異端者〟なるものが出現し、ニュースで初めて取り上げられた際は、凄まじい賛否両論の嵐で、良くも悪くも世間を騒がせたりもした。

『私は自分が年老いた時に、ちゃんと立って歩いていられるようにしたいだけだ!』

 ――と、件の異端者が思いの丈をぶちまけた名言は、発せられた言葉の内容と語調の衝撃も相まって、ぼくの記憶の中では、未だ鮮烈なイメージとして焼き付いてる。
 人間の機械化と生身に関するセンセーショナルな話題は、今も尚継続中だけど、結局はそれも、過去にジェンダーにまつわる問題が取り上げられた際に『異なる性』が『新たな性』へと、価値観が転換していったことと同じようなもので、昔は異端者と蔑まれていた人たちも、今ではせいぜい〝変わり者〟程度に軟化されているのだから、ずいぶんと鉄面皮な心変わりではある。

「――でも、人間って元々『本音』と『建て前』を使い分けながら生きているんだからさ。仮に自我を公共に提示するようになったとしも、根本的な意味においては、今と大して変わらないんじゃいのかな?」
 ぼくは言いながら、自分がタメ口に変わっていたことに気付いたけど、もう無視して突っ切ることにした。どうせ向こうは、そういうぼくの心情も全て察知しているのだろうから、気にするだけ野暮だ。
「少し違うわ。だって、あなたの言う本音と建前って、結局のところ、最終意思決定の判断は自分自身が下せるじゃない」
「えっ?……それじゃあ、まさか。公共性に組み込まれる自我っていうのは、そういった自由度も消えて無くなるっていうのか?」
「ええ、おそらく。多分、組み込まれた側の大多数は、自由度を喪失した自覚すら湧かず、能動的に自我を公共に提供するでしょうね。機械化の行き着く先に待つ最果ての結果というのが、どういう形を成して現実に具現するのか、私には分からない。でも、そうやって意識を公共に還元し続けていれば、いずれは『意識の共有化』すら可能とする社会が誕生するでしょうね。早い話、人間がコンピューターによって管理される土壌の完成……ってことよ」
 あり得ない話ではないと、ぼくは率直に思うことができた。
 そしてぼくは、今の話を基に未来を想像してみた。
 これから先、もし本当に質量の集積体である『自我』の『区別』が必要になるのだとしたら、そしてその区別を機械に外注するのだとしたら、果たして『ぼくのための私』とは、一体どういう基準で定められるのだろう?
 自分の身体が機械に侵されていく未来を想像するのは、やはり心地良いものではない。けど、そういう社会に拒否反応を示すかと問われれば、それはまた別の話だった。

〝消滅しない生き方に尽力するための『ぼく』〟
〝遺族であることを不特定多数に認識してもらうための『ぼく』〟

 現時点で思いつく限り、ぼくの中にある『ぼくのための私』なんて、これくらいしか思いつかない。
 正直、この二つをちゃんと機械が汲み取ってくれて、尚且つぼくに『ぼくのための私』を意識できるだけの自覚を付与し続けてくれるのであれば、仮に機械に管理されるような未来になったとしても、ぼくは、ぼくの自我を公共に明け渡しても構わないと――なんら躊躇いも感じずに、本気でそう、思えてしまった。
(はっ……笑えるな……)
 ここに至ってぼくは、ようやく自分でも知り得なかった、自分の中の〝核〟を垣間視ることができたような気がした。
 窓ガラスに反射する自分の自嘲めいた表情を見て、ぼくは鼻を鳴らした。
 まさか、自分がここまで自我に頓着の無い人間だったなんて。

『Chegarei à estação de【RAIVA】em breve――……』

 車内に浸透していた静寂を壊すかのように、天井に備え付けられたスピーカーから、聞き慣れないイントネーションのアナウンスが発せられ、その拍子にぼくは我に返った。
「着くわ」
「着くって、どこに?」
「RAIVA駅。そこが、あなたの心が求めた場所」
「ハイヴァ? それってどういう意味? どこかの地名?」
「行けば分かるわ」
 自動ドアの正面で待機する着物女性の横顔を見たとき、ぼくはなぜか、震災にあう直前に交わした母とのやり取りを思い出した。


〝それはきっと、途中下車が目的地だったのね〟

〝意志がなければ、目的を持つこともできないでしょ?〟


 ……そんなはずはない。少なくとも、ぼく自身が今なにかを望んだつもりはない。心が何かを求めているなんて、ありえるわけないじゃないか。
 それとも、実は自分では意識できない潜在的な部分で、心が何かを求めている、ということなのだろうか。
 ぼくたちを乗せた列車は、どことも分からぬ駅のホームへと滑り込んだ。
 まもなく自動ドアは開き、ぼくは先行する着物女性に促されるがままに、死角世界への最初の一歩を踏み出した。

第二章「非道誘惑」

 ハイヴァ駅周辺の街の印象は、『かつてのシンジュク駅』を彷彿とさせるような大都会で、子供時代にネットの画像検索でトーキョーの都会的要素を見漁っていたぼくは、正直この世界に迷い込んでしまったことを、ほんの一瞬だけ喜んでしまった。
 ぼくは田舎から都市部に出てきた若者のように、ずっと首を上に向けながら、ハイヴァ駅周辺を一望した。
 駅の出口の真正面には楕円形のバスロータリーが広がっていて、さらにその周辺を囲うような形でデパートらしき建物が乱立している。
 少し視線を動かせば、今度は大型家電量販店らしき建物も目に飛び込み、その方角から押し寄せてくる人々の群れが、途切れることなく、ぼくの横を通り過ぎていく。
 並び立つビルも、人の流れも、何もかもがごみごみしているのに、一方でそれこそが自然体なのだと納得させられてしまいそうな街――このハイヴァ駅周辺の第一印象を要約するとしたら、如何にも都会的な時間の速さを感じる場所、といったところだろうか。
「すごいね。こんな大都会だとは思わなかったよ。列車の中からだと分からなかったな」
「ええ。この辺は特に開発が進んでいる地域みたい」
「えーっと。ゲートさん、って呼べばいいんだっけ? ここに来るのは初めてなの?」
「そりゃそうよ。だって私は、あなたがこの世界に足を踏み入れることが決定した直後に、生まれた存在なんだから。何もかもが生まれて初めて。ああそれと、私の名前だけど、もし呼びにくいのであれば【シオン】と呼んでくれればいいわ」
 シオン。それが彼女の名前か。確かに『ゲート』よりは、よほど言いやすい。
 なんでぼくが頭の中で『紫苑』を連想せず、カタカナに変換したのかは分からないけど、まあ、彼女はぼくの心の穴を媒介にして生まれた存在だという話だから、なにか特別な因果によって思考が結ばれていたとしても、今さら驚きはしない。
「で、ぼくたちはこれから何をしなければならないの?」
「さあ」
「さあ……って! 君は案内人なんだろう?」
「この街の地図とか、どこに行けば何があるのか、とか。そういう知識だけは持っているけど、ここであなたが為すべきことが何なのかまでは分からない。でもまあ、心配する必要なんてないわよ」
「なんでさ?」
「あなたがこの街を散策していけば、否が応でも、心が求めた結果に行き着くから。あなたが行きたいと思う方向に向かって歩いて行けばいいわ」
「ようするに、気の向くままに歩けと?」
「そういうこと」
 シオンは口元に笑みを浮かべて、ぼくの目を見て頷いた。
 行きたい方向。そんなことをいきなり言われても、何も思いつかない。
 ……というよりも、そんな風に『自分の意思』を明確に意識するのは、いつ振りだろう。思えば、もう何年も前から、そういう感覚から遠ざかっていたような気がする。
 仕事の時は特に意識しなくても、『自分の意見』は口を突いて出てくるのに、どういうわけか、プライベートの際に求められる『自分の意思』というやつが、ぼくには決定的に欠如している節があった。
 だからぼくは、会社の同僚に飲みに誘われた際は、いつも相手の要求に合わせているし、周囲の人間には、ぼくの性格を『優柔不断な奴』と認識してもらえるように立ち回っている。
 仕事の時は楽でいい。会社の営業利益というお題目に『自分の意見』という大義名分を被せれば、さも自分の意思のように見えるから。
 でもそれだって結局は、組織のための意見であって、そこにぼくの意思はないんだ。仕事なんて、上手くいくに越したことはない。だからこそ、組織のための合理性を、ぼくは最優先に考える。そしてその合理主義を『自分の意見』という言葉で隠すことによって、機械的にしか物事を考えていないぼくは、ようやく『人間っぽく』振舞えることが可能になるわけだ。
 ぼくの今勤めている会社が少数精鋭のためか、『自分の意見』は割と通りやすいように思う。雑談という名の会話が飛び交い、和気あいあいとしている職場環境には感謝しているけど、だからといって、その程度の和み方で、ぼくという人間の生き方が激変するわけはない。正直、別に肥大化しすぎた組織にぼくが属していたとしても、やることは特に変わらなかったと思う。
 どうせぼくのことだ。『自分の意見』っていう手段を、肥大企業の発展のために捧げるのか、もしくは所属部署の上司のご機嫌取りのために使うのか――ぼくの選ぶ行動なんて、その二択以外考えられない。つまるところ、物事を機械的に処理して、自分にとって最も合理的な判断をするという点においては、どんな組織に属していようが何一つ変わらないのが、『ぼく』という人間なんだ。
「どこでもいいじゃない。犬も歩けば棒に当たるって言うでしょ?」
 シオンが焦れたような声を出して催促してきたので、ぼくは言い訳がましく抗弁した。
「その諺の本来の意味は、『出しゃばりすぎた挙句、災難に出くわす』なんだぜ?」
「流れる水は腐らないの。四の五の言わずに決めなさい」
「そんなこと。いきなり言われてもな……」
 逃げるように視線をシオンから逸らして、ぼくは街の雑踏をボーっと眺めた。
 楽しそうに笑っている人や、疲れた顔の重たさに引っ張られて下を向いている人。
 子供連れや、カップル。色々な人が歩ている。
 それなのに、なぜかみんな『浮世離れ』している。顔色が悪い、と言ってしまえばそれっきりだが、なんというか、みんな『遠い目』をしているんだ。
 シオンは、あのヨヨギ駅の跡地で『彼岸の民も理解している』とか、確かそんなことを口にしていた。ということは、やはりここにいるのは、みんな死んでしまった人たちなのだろうか――ん?


〝半分あげるよ〟
〝え、いいよ。さっき支給されたばかりのパンでしょ?〟
〝君はそれを盗まれたんだろ〟
〝……うん〟


 止めどない人混みの中で、なぜかそこだけが異様にぼくの心を惹き付けた。
 ガードレールに寄りかかっているのは、少年と少女だった。
 二人とも、全身の煤汚れがやたらと酷く、気力をなくした抜け殻のような印象が拭えない。
 ぼくの目は文字通り釘付けとなった。
 過去の回想がスクリーンに投影されているかのようだ。
 あれは、間違いない。
(ぼくだ)
 黒いズボン。ボーダー柄のTシャツの上に、青い七分袖のカジュアルシャツを重ね着しているあの姿、忘れるはずがない。あれは震災の日にぼくが着ていた服装だ。
 隣にいる少女は、青いジーパンに白いブラウス。手にはシルバーのブレスレットを付けていて、くたびれたセミロングの黒髪が、どこか物悲しい印象を見るものに植え付ける。
 あの子の名前。そういえば名前は知らない。
 お互い、自己紹介のようなものはしなかった。
 歳はぼくの一つ下だったけど、厄災当時の状況下では先輩後輩なんてどうでも良かった。
 だからぼくは、彼女が敬語を用いないのが、かえって心地よかった。
 それにどことなく、彼女は死んだ妹の雰囲気と似ていた。少し生意気だったのだ。
 妹に対してろくに何もできなかった、その罪滅ぼしだったのだろうか。
 あの時のぼくは、彼女に優しくしてあげたかったんだ。
「でも、君の優しさは、パンを半分分け与えることだけだった」
 周囲の音が唐突に消えた。
 駅を出入りする人々の流れも、シオンも、厄災当時のぼくも。
 みんな消えた。今この場にいるのは、ぼくと『女の子』だけになっていた。
「君は中途半端な人だった。わたし、今でも覚えてるよ」
「な、なんのことだ」
「覚えてないの? 自分から逃げ出したくせに」
「ちょっと待ってくれ。逃げ出したって? ぼくがか?」
「本当に忘れちゃったの?」
 逃げた? ぼくが? どこから? 何に対して?
『女の子』はとても無邪気にクスクスと笑い始め、ぼくは背筋が凍っていくのを感じた。
 彼女の双眸がぼくの視線を掴んで離さない。
 蛇に睨まれた小動物の如く、ぼくは動けなくなってしまった。
「わたし、待ってるから」
 その言葉を最後に、彼女はぼくの前から姿を消した。そして、ほとんど間を置かず復活した人いきれの騒がしさに耳朶を打たれて、ぼくは思わずハッとなった。
 そんなぼくの様子が気掛かりになったのだろうか。シオンが怪訝そうな眼差しをぼくに向けている。
「ボーっとしちゃって、どうかしたの?」
「いや、さっき、そこに女の子がいたろ」
「女の子?」
「え、見てないの?」
「知らないわよ。なに、そういう趣味なの?」
「あのなあ……っと!」
 通りすがりの誰かの肩がぼくにぶつかり、ほとんど条件反射で「あ、すいません」とぼくは言った。けどその人は、ぼくなんて人間が最初から存在していなかったかのように無表情で、ぼくが振り返って謝った時にはもう、その人の背中は人ごみに埋もれてしまって、見えなくなっていた。
 ぼくはしばし、人々の織り成す流れの奔流に意識を漂流させた。
 改札に吸い込まれていく人々は、なぜか遠くに向かうにつれ、その姿が半透明になっていき、やがては、すぅーっと、何かに吸い込まれていくかのように消えていく。
 こんなにも沢山の人がいるというのに、ぼくだけがこの空間の異物みたいだった。どことなく、被災地を訪問する時に感じる、あの『乖離感』と同じような気分にさせられる。
 自分が馴染めていないことに、ぼくは猛烈な居心地の悪さを感じつつあった。
 うごめく人混みや、黒い頭が大勢行きかう様子を眺めていると、黒い芋虫のようにも見えなくはない。このままだと人間酔いしそうだ。
 かつてのトーキョーのような景色に夢中になったぼくの童心は、もう充分すぎるほど満たされたんだ。これ以上ここに留まる必要はないし、なによりシオンの放っている無言の威圧感が、どんどん膨れ上がっているのが、嫌というほど肌に突き刺さっている。あの『女の子』のことも気掛かりだけど、シオンの圧力を前にしては、もはや悩んでいる余地はなさそうだ。
「よし、分かった。とりあえずここを離れよう。もう少し静かなところに行きたいんだけど、この辺りにオススメの静寂スポットとかってないのかい?」
「駅から離れれば、どこに行っても静かなものよ」
「そうか。なら行き先は、とにかく駅から遠い場所に決定だな」


     ◇


 その後、ぼくたちは、あてもなく歩き続けた。
 ただひとえに、駅から離れて、雑踏を抜け出したいというためだけに。
 でも思えば、たかがその程度の意思決定でさえ、ぼくは自分自身の感情を絞り出すのにかなり往生してしまった。
 だからこそ、被災地を訪れるときの自分自身の足取りの軽快さに、自分の意思が介在しているのかどうか、ぼくは疑わずにはいられない。ぼくは本当に、ぼく自身の意思で家族に花を添えていたのだろうか……?
(やめにしよう。考えたところで、なにがどうなるわけでもないだろう)
 鬱屈しそうな感情を払拭したくなって、ぼくは天を仰いだ。
 ここの空はずっと黒いまま。星一つ拝めやしない。時折、稲光のように空が発光することがあるけど、雷鳴が轟くわけでもなかったし、特に雨の降る兆候も感じられなかった。シオン曰く『ようするに、そういう空模様ということよ』だそうだ。
 ぼくたちはどれくらい歩いたのだろう。思えば、もうハイヴァ駅がどの方角にあったのかも分からない。
 先ほどまでは摩天楼ばかりが目に飛び込んできたというのに、今は背の低い雑居ビルや、暖簾を掲げた居酒屋くらいしか見当たらなかった。
 どうやらぼくは、知らず知らずのうちに『飲み屋街』の中に入っていたらしい。
 千鳥足のスーツ姿の中年男性が、何やら楽しそうに鼻歌を歌いながら、ふらふらと歩いている。
 若者に人気のありそうな『バー』もあるらしく、その店の入り口手前付近には、強面の男性が二名、門番のように直立しながら周囲に目を配っていた。
「おーい兄ちゃん」
 如何にも酔っ払いらしい男の声に呼び止められて、ぼくは振り返った。
 見るからに健康に問題を抱えていそうな中年男性が一名。気色の悪い親し気な笑みを浮かべながら、ぼくを見つめていた。
「こういうの探しているんだけど、君は興味あったりしない?」
「なんです。それ?」
「気持ちよくなるためのものだよ~。おじさん探しててね~。あったらほしいなーって。あ、お金はツケでちゃんと払うからさぁ~」
 その男性は、指につまんだ袋をヒラヒラとさせながら、ニタニタしていた。
 透明なジップロックに詰められた袋の中には、白っぽい粉が詰められていて、ぼくは反射的に、目の前の人物が『薬物中毒者』であることを理解した。適当に無視することにして、ぼくとシオンは足早にその場から退散した。
 しかし、路上に座ってクスリを求めているのは彼だけではなかった。中には死んでいるのか生きているのかさえも判然としない者もいて、ぼくは中毒者たちの妄言でトリップに陥っているこの通りを、一刻も早く脱出するべきだと直感した。
 ぼくはシオンの手を強く握りしめて、とにかく走った。途中、そんなぼくたちの様子を冷やかす声も聞こえたりしたけど、気にしている余裕なんてなかった。
 ぼくの喉が焼けるような痛みを訴え始めた頃、ドラッグ依存者たちの呻き声にも似たうわ言は、もう一切聞こえなくなっていて、代わりに、ネオン街におあつらえ向きな卑猥な声音が、通りを占有するようになっていた。
 飲み屋街は抜けたらしいが、どうやらぼくは、もっと厄介な『歓楽街』に踏み入ってしまったらしい。見れば、路地裏の影に隠れて、誰かがセックスをしているではないか。ぼくは慌てて目を逸らしたけど、この街の路地裏は、どこも似たような光景ばかりだった。合意の上で行っているものもあるのだろうが、中には明らかに強姦としか思えないような状況もあって、鼓膜を突き破って心を抉る女性の悲鳴が、ぼくの足の動きを鈍らせた。
(なんだよこれ。まるで『トーキョースラム』じゃないか!)
 道徳もへったくれもない無法地帯と化した厄災直後のトーキョーの姿が、今の光景と重なって、ぼくの脳裏でフラッシュバックした。後ろ髪を引かれる思いはあったけど、それには構わず、ぼくはシオンを連れて走った。だけど、ぼくの体力も無尽蔵にあるわけではない。いよいよ肺が限界に達し、けれど歓楽街の出口が未だ見えてこないことに心が折れてしまい、ぼくは仕方なく足を止めた。
 ぼくは呼吸を整えるのに必死だった。こんなに全力疾走したのは、高校生の時以来だ。
 男のぼくでさえ、もはやガス欠状態なのだから、シオンにはずいぶん悪いことをしてしまった。そう思い、彼女の方に顔を向けると、あろうことか、彼女はいつも通りの涼しい表情のままだった。
 息切れ一つ起こしていないシオンが、「情けないわね」と落胆の声を漏らす。冗談じゃない。そっちの心肺機能がどうかしているんだ。
「早くここから出よう。どう考えても、ここがぼくの求めている場所とは思えない」
 かつて迷い込んでしまった瓦礫の迷路――トーキョースラム。その時に感じた恐怖が、じわじわと蘇ってくる感触は、背中にナメクジでも這っているんじゃないかと疑いたくなるほど、気味の悪いものだった――だけど、あれ?
 おかしいな。なんでぼくは、トーキョースラムなんかに迷い込んでしまったのだろう。
 当時、難民キャンプにいた大人たちが、あれほど口酸っぱく注意して、子供たちに警告していたにもかかわらず……。
 ひょっとしてぼくは、何か決定的なことを忘れているんじゃないのか?
 なにかが抜け落ちている。でも、思い出せそうで、思い出せない。なんだか、魚の骨が喉に引っかかっているみたいで、とてもつもなく不快な気分にさせられるのに――なのに、まったく思い出せない……。

『自分から逃げ出したくせに』
 
 さきほど女の子に言われた言葉が、ぼくの脳裏に反響する。
 いや、あれは何かの見間違いだ。きっとこの支離滅裂な世界の変転に、脳がエラーを起こして、それで妙な幻覚かなにかを、見てしまっただけなんだ。
 そうだ。こんな通りにいるから頭がイカれるんだ。
 さっさと出よう。それが一番だ。それこそがきっと最善なんだ。
「シオン。この通りを抜ける最短ルートは?」
「あなた本当に焦ってるのね。正面にアーチが見えるじゃない。あそこまで行けばここは出られるわよ」
「えっ!?……あ、ほんとう、だ……」
 アーチにはかすれた文字で、『RAIVA横丁』と書かれていて、ぼくはそこに向かって再び歩き始めた。
 それにしても、結局ぼくの心が求めた結果とは、一体なんだったのだろう? シオンは列車を降りる直前、RAIVA駅はぼくの心が求めた場所だと言っていたけど、まさかそれが、歓楽街を全力疾走することだったわけじゃあるまい。
 とはいえ、もう出口が見つかったんだからいいじゃないか。
 これでやっと、卑猥な喧噪から解放されるんだ。
 ここからだと、アーチまで少し距離がありそうだけど、そこを抜けたに先には、美しい噴水広場が見える。
 ネオンとは違い、闇夜を照らす街灯は、見る者を落ち着かせる暖色系だった。今、ぼくの目が見据えている目的地は、とても綺麗で、華やかで、明るい光に満ちている。
 いよいよ最後の路地裏に差し掛かった。ここを突破すればもう終わりだ。噴水広場の仄かな灯りが、ぼくを橙色に染め上げ。そして、その照明から放たれる温もりを肌で感じ取った瞬間――誰かの悲鳴が、ぼくの幸福を一気に暗転させた。
 今度は少女の声だった。よせ。聞いたところでぼくに何ができる。
 ぼくは生きなければならないんだ。母さんにそうしてほしいと頼まれたから。
 だから、余計なことに手を突っ込んで、火の粉を被るような生き方をしちゃだめなんだ。
 見なくていい。見る必要なんてないんだから。ぼくは見たいものだけを見て歩き続ければいいんだ。あの綺麗な噴水広場だけを目指して歩き続けていればいいんだ!
 そういうものを一切合切無視して、明るい未来に邁進する心の強さを持ち続けること。
 そうだよ。それこそが、ぼくの心が求める場所に違いない。
 ごみ袋から発せられる饐えた臭いも、オバケ街灯が明滅する仄暗い路地裏の闇も、そこから絶え間なく届く誰かの絶叫も……っ。

 遺言を守るために全部、なにもかも――ぼくはっ!

「やっと来てくれた」

 叫び声がぴしゃりと途絶え、噴水広場が闇に落ちた。
 路地裏の奥で何かが蠢いていた。生ごみの悪臭が嗅覚をつんざき、チカチカと点灯を繰り返す街灯の向こう側。地べたを這いつくばるような格好で、蠢く何かはぼくを見ていた。そして、その視線を感じ取った刹那、ぼくはなぜか、この状況に対して既視感を覚えた。
「本当に忘れちゃったんだね。でもしょうがないよ。昔のことだもん」
「君……は?」
「大丈夫。わたしが思い出させてあげるから」
 ぼくを見つめていた蠢く何かは、直後に現れた別の蠢く何かによって、闇の奥へと引きずられていった。
 男共の野太い声と、甲高い少女の悲鳴だけが、ぼくの世界の全てになった。


     ◇


 震災が起こる、ちょうど二年くらい前。ニホンは未だかつて経験したことのない過渡期を迎えていた。
 ニホンの中央銀行が、いよいよ貯めに溜め込んだ国債のツケを払わされたのだ。
 限りなく財政ファイナンスに近い国債の無制限の買い入れと、それによってもたらされた、ハイパーインフレによる円の信頼の失墜。
 海外の投資家たちは失墜直前のタイミングを見極め、ここぞとばかりに円を売り捌き、ニホン円の価値は雪だるま式に暴落の一途を辿っていった。
 かつての円は機能しなくなり、文字通りただの紙っぺらになってしまったのだ。
 政府は新たに新円を発行すると宣言し、今までの通貨体制から暗号資産を基にした経済への移行をお題目に掲げていたが、そもそも暗号資産というシステム自体が、国家の枠組みを無意味に帰す可能性を孕んでいることを、政治家たちは分かった上で、敢えて推し進めていたのだろうか。結局のところ、新円というのは名ばかりのものでしかなく、その実体は『アジア経済圏』における、統合暗号資産という見方の方が正しかったのだ。
 そんなゴタゴタの最中に起きてしまったあの〝大厄災〟は、ニホンの息の根を止める追い打ちとしては、十分すぎるほどの威力を発揮してくれた。
 仮にこれが人災であったのなら、まだフラストレーションのやり場があったに違いない。
 しかしニホンを壊したのは災害だった。自然を恨んだところで、何がどうなるわけでもない。天災で人が死ぬのであれば、それは殺人ではなく、自然の摂理によってもたらされる理不尽になるからだ。
 だから、天災が誰かのせいになるのなら、そういう部分に不満の捌け口を求められるのなら、確かに人工地震の実在を謳うカルト教団が出てきても、なんら不思議なことではなかった。


 回想が電流となって、頭の中を猛スピードで動き回っていた。
 体の感覚が少しづつ蘇ってくるのが自覚できた。
 瞼を開くと、そこにはかつてシンジュクにあった『難民キャンプ』が広がっていた。
 設営されたブルーシートのテントがいくつも見受けられ、浮かない大人たちが、政府はいつ支援に来るんだ、こうなったらデモをやってやろうと、意見交換という名の愚痴を言い合っていた。この場にいる誰もが、不平不満の矛先をどこかに求めていたのだ。
 栄華を誇ったトーキョーの面影は消え失せ、あるのは憔悴と開き直りの入り混じった、投げやりな生活感のみ。
 大気がかなり汚れていて、呼吸をする度に喉がざらつく。おまけに視界も悪く、そこら中に舞い散ったアスファルトなどの粉塵が靄となって都市を覆い隠す様は、最終戦争後の荒廃した世界のようにも思えた。
 その時、確か子供の面倒をよく見てくれていたと記憶している、初老のおばあちゃんが、ぼくの体をすり抜けていった。どうやらぼくは、ここでは認知されない存在になっているみたいだ。
「今日からお世話になります」
「いいのよ。そんなに、よそよそしくしないでも」
『女の子』が頭を下げて、同じテントで共同生活をすることになったおばあちゃんに挨拶をした。これが平時なら、如何にも学校で男子に人気のありそうな女の子なのに、その時はただただ、やつれた姿が痛々しかった。
 そうだ。あの子はたしか、避難先の難民キャンプがハイキョ族に襲撃されてしまったから、それでこの『シンジュクキャンプ』まで一人で逃げてきたとかいう話だった。とはいえ、ハイキョ族の野党に襲われるなんてことは、当時のトーキョーでは日常茶飯事だったから、大して珍しいことでもなかった。
「怖かったでしょう。話はもう聞いてるから」
「ありがとうございます」
「晩御飯の支度が整うまで、まだ少し時間がかかるけど、どうする? 疲れているなら、中で横になってていいわよ。時間になったら、私が起こしてあげるから」
「あ、えっと、眠くはないので、大丈夫です。このキャンプを適当に見学しています」
「そう。分かったわ。ああでも、あんまりうろうろしたらダメよ?」
「はい。分かってます。ありがとうございます」
 黒いズボン。ボーダー柄のTシャツの上に、青い七分袖のカジュアルシャツを重ね着していた当時のぼくが、瓦礫のベンチに腰掛けながら、そのやり取りを、なんとなしに眺めていた。当時のぼくが何を思っていたのかは、今となっては、もうあまり覚えていない。多分、似たような年頃の子が来たんだな、とか、その程度の感想しか抱いていなかったと思う。
 ぼくが実際に彼女と言葉を交わしたのは、それから約一ヵ月ほど経ってからだ。彼女がキャンプの外れで、人目を避けるようにして泣いていたのだ。
 話を聞くと、支給品のパンを誰かに盗まれたということだった。おまけにキャンプ内で。
 ――そう。自分たちの生活を脅かす『敵』は『外側』にしかいない、という認識は間違いなのだ。誰もが表面上は仲良くしていても、各キャンプ地には平均200~500人ほどが暮らしていて、顔も知らない、なんて人間の方が大半を占めているのが当時の日常だ。
 聞けば彼女、支給品を貰った直後、見ず知らずのおじさんに呼び止められて、その人の話を聞いている隙に、背後から忍び寄った『おじさんの仲間』に、支給品を丸ごと全部、盗られてしまったとのことだった。
 貧すれば鈍するというが、人の心のバロメーターがとうの昔に振り切れたこの『限界集落』においては、親身に接してくる人間ほど警戒するべきなのだが、キャンプ内の生活に慣れていない彼女にしてみれば、初見殺しもいいところだったのだろう。
 盗んだ人物の顔は覚えているから、取り返したいとの旨を、彼女は必死になってぼくに訴えてきたが、ぼくは『止めておいた方がいい』と即座に忠告した。
 というのも、盗んだ人間が誰なのか、ぼくにはおおよその検討がついていたからだ。
 これはぼくのいた難民キャンプに限った話ではないのだが、だいたいどこの難民キャンプにも『派閥』というものが存在していて、おそらく彼女の支給品を奪った人物は、シンジュクキャンプの『最大勢力の幹部』の一人、別名『人の不幸を煽る天才』と揶揄される老害に違いなかったからだ。
 ぼくは彼女に説明するごとに、口が重たくなるのを感じた。こんな非常時だというのに、『ご近所付き合い』なんていう『庶民の政治』にかまけていられる大人たちの能天気さには、子供ながらに嫌気が差した。
 ……いや、子供だからこそ嫌気が差せたのだろうか。
 今なら理解できる部分も多い。でもそれは、大人になったから理解できたのか、それとも、社会人になったせいで単に冷めてしまっただけなのかは、正直、今もよく分からない。
 いずれにせよ、あの『天才』の参加していた派閥は、当時政府に対するデモ活動を率先的に行っていて、難民の不満を代弁し、且つ積極的に動いて政治に割り込もうとしていたから、国に怒りを覚えていた人々の目には、弱者を救うために立ち上がった【革命闘士】――という風にでも映っていたのだろう。
 早い話が、彼女がもし『天才』に文句の一つでも言おうものなら、その瞬間に一気に『弱者救済を阻害する仇敵』へと立場が変わってしまう恐れがあったのだ。
 支給品を奪ったことに対する指摘が、どのように『仇敵』へと変貌するのかはさておき、ぼくは彼女を説得するのに苦労させられた。
 最終的に彼女は納得してくれたけど、その代わりに涙の量は多くなってしまった。
 結局のところ、彼女が泣いていた理由というのは、支給品が盗まれたからではなく、安心できると思った『内側』でさえも、そんな風に殺伐であることを人に求める『現実』にほかならなかった。
 不幸中の幸いだったのは、同居していたおばあちゃんが、根っからの良い人だったという点だろう。あの人の好さは、かえって周囲が不安になるくらい、良くも悪くも凄まじかったけど、一人でシンジュクまで逃げ延びてきた彼女にとって、それは唯一の救いだったのではないかと、ぼくは思った。


〝半分あげるよ〟
〝え、いいよ。さっき支給されたばかりのパンでしょ?〟
〝君はそれを盗まれたんだろ〟
〝……うん〟


 今にして思えば、なんて浅はかな自己満足だったのだろう。
 大して兄貴らしいこともしてやれなかった妹に対する贖罪の念を、こんな形で埋めようとしていたなんて。
 しかし回想は、そんな現在のぼくの後悔など知らずに、次の場面へと進んでいく。
 中坊の時のぼくと、女の子が、その雰囲気に影を感じさせつつも、それでも僅かな幸福を増幅させるかのように、とても懸命に楽しそうにしていた。
 あのパンの一件以降、ぼくたちはよく会って話すようになっていたんだ。とはいえ、別にそれ以上の関係にはならなかったし、なぜかお互い、名乗るようなことはしなかった。多分ぼくたちは、個人情報にモザイクを施していないと、他人を信頼できなくなっていたんだと思う。
 互いに知らせず、そして深く知ろうとせず。お互いにとっての最も居心地の良い距離感を、ぼくたちは探っていたんだ――


 ――再び場面が切り替わる。折れたヨヨギタワーと、半壊して原型を留めていない、煤だらけのスターバックスが正面に見えた。
 中坊のぼくと女の子が、スタバのウッドデッキに座り込んで雑談している。
(これは?……こんなことあったか?)
 全く身に覚えがなかった。これは本当に、ぼくの過去の一部なのだろうか。
 ぼくは彼らに近寄って、その会話に耳を傾けた。
「コウチ県って、なにがあるんだろうね?」
「山がほとんどらしいよ」
「へえ。空気がおいしそう」
「ここの空気の汚さとタメはれるのは、チュウゴクのペキンくらいじゃない?」
「あっはは!……でもほんと、よかったね」
「え?」
「行く場所が決まって。よかったね」
「あ、ありがとう。そっちは?」
「もう少し時間かかりそう。ウチの両親、親戚付き合い悪かったからさ」
「そう、なんだ。児童養護施設とかも、今はどこも満杯とかいう話だしな」
「あ、むしろそっちの方が脈ありかも」
「なんだ。良かったじゃん」
「お互いね」
 女の子が颯爽と立ち上がった。中坊のぼくは、何事かと思って目をパチクリさせている。
「ねえ、夕方にまたここで会えない? 渡したいものがあるから」
「え、まあ、別にいいけど。でもこの辺ってハイキョ族と難民キャンプの緩衝地帯みたいな場所だから、ちょっと危なくないか?」
「いいじゃん。固いこと言わないでよ。五時頃にまたここで。いいでしょ?」
「まあ、分かったよ」
「じゃあ、あとでね」
「うん。また」
 中坊のぼくも立ち上がって、女の子に向けて軽く手を振る。それは決して、今のぼくに向けられたものではなかったけど、女の子を間に挟んで、昔の自分と向かい合っているぼくの立ち位置からだと、あたかも過去の自分が現在に『さよなら』を告げているようにも思えてしまった。
 中坊のぼくがバスタの交差点を渡って、キャンプに戻っていくのを確認すると、なぜか彼女は、キャンプとは逆側の方向に歩を向け、そしてスーツ姿のぼくをすり抜けようとした、その時だ。
 不意に、静電気のような痛みが前頭葉の辺りで〝ビリッ〟と弾けた。刺激は『鍵』となってぼくの記憶に突き刺さり、強引にこじ開けられた過去の中身が、間欠泉のように勢いよく噴出した。
「うっ!」
 頭の中を、蛇が這いずり回っているのかと思いたくなった。
 のたうち回る電気信号と、活性化してしまったぼくの大脳。
(そうだ、確かこの日は、翌日の朝に難民キャンプを出ていくことが決まったから、彼女に別れの挨拶を言おうと思って、それで――くそっ、いたぃ!)
 なんでこんな印象に残りそうな出来事を、ぼくは今の今まで忘れていたんだろう。
 電気信号がぼくの記憶を激しく揺らす。ぼくはその衝撃に耐えられなくなって、両手で頭を抱えて膝をつき、そのまま地面に倒れて四つん這いになった。
 ぼくは彼女のことを目で追い、そしてその後ろ姿が完全に見えなくなると、それを境に再び世界が歪み始めた。周囲がクリームのように溶けたかと思いきや、次の瞬間、ミキサーのように激しく回転しだした。
 今度はどこの場面に、ぼくを連れていくつもりなんだ。
 ぼくは渦状のエネルギー空間の中を、無抵抗に漂流し続けた。氾濫を起こした川の内部というのは、存外こういう景色なのだろうか。記憶という波がぼくの身体を弄ぶかのように呑み込み、揺さぶり、その激しさをもってして、ぼくの脳みそを滅茶苦茶にしようとする。
 どこからか人の声が聞こえた。あのお人好しすぎるおばあちゃんの声だ。
 すると、渦状エネルギーの側面にスクリーンが投影されて、何やら映像の再生が始まった。

『おばあさん、あの、彼女がどこに行ったか知らない?』
『そういえばなんか、花を摘んでくるとか言ってたような……。あたしは危ないから近づかない方がいいよ、って言ったんだけどねえ。でもこの時間になっても帰ってこないってのは心配だよ。だからさっき、他の大人たち捕まえて、捜索してもらうように頼んでおいたんだけど……』
『あの、どこに行くって!?』
『えっと、ヨヨギの方に行くとか言ってたかしら』
『ありがとう!』
 映像はそこで打ち切られ、渦状エネルギーの内部が、突如として暗転した。
 暗闇は雑巾を思いっきり絞るが如く、捻じれて、捻じれて、捻じれて……そして一気に逆回転を起こすと、その空間もろとも四方に爆散させて、ぼくという人間を再び『路地裏』に引き戻した。

「思い出した?」

 路地裏の奥で蠢いていた何かを照らすように、オバケ電球が正常に点灯した。
 そこにいたのは『女の子』だった。場違いな感想だと分かっていても尚、彼女のくたびれたセミロングは、やはり印象的なのだなと、ぼくは素直に思ってしまった。
 彼女は、複数の男によって身動きを封じられたまま、死んだ魚のような目つきで、ぼくの双眸を、じっ、と捕らえていた。
「ぼくはあの場所で君を待っていた。なのに、待てど暮らせど君が来ないから、それでぼくは……」
「そう。君はわたしの身を案じてヨヨギまで来てくれた」
 嫌味にしか聞こえなかった。だって、そうやって『身を案じた』ぼくが、その後どういう行動をとったのかを、君は知っているじゃないか。目の前で見ていたじゃないか。
「でも君は、わたしがハイキョ族の連中に強姦されているところを一瞬見ただけで、あとは何もせずに逃げちゃったんだよね。あの時のショックは今でも忘れないなあ」
「そ、それは……っ。だって、仕方がないじゃないか! あいつらは誰がどう見てもクスリ漬けで頭がおかしくなっていたし、第一、ぼくが君を助けようとしたところで、返り討ちにあうだけなのは、君にだって分かってたはずだろ!?」
「まあね」
「だからぼくは、あの後急いでキャンプに戻って、大人たちに事情を説明したんだぞ!?」
「うん。大人たちはすぐに来てくれた。でも、そういう問題じゃないんだよ。わたしは単純に君が助けに来ることを望んでた。君に助けてほしかった。理屈じゃなくて、感情論としてね」
「そんなこと今さら言われても、もうどうしようもないじゃないか!」
「うん。分かってる」
「君はなにがしたいんだ! ぼくに恨みがあるなら、こんな回りくどいことしないで、さっさと仕返しでもなんでもすればいいだろ!」
「あっはははは!」
「なにが、おかしいんだよ」
「知らないの? ハイヴァっていうのはね、ポルトガル語で『怒り』って意味なんだよ? 仮にあなたの心が贖罪を求めていたのだとすれば、わざわざ〝RAIVA〟なんかに来ないでしょ?」
「は?」
「もっとちゃんとよく思い出してよ。あの日の君の内面を。なんで君は、見て見ぬふりをすることができたのか――」


  〝君にとって一番大事なことは、なんだったの?〟


「――わたしは、それが知りたいの。強姦している連中が怖かったから逃げた、とか。そういう建前じゃなくて、本当の理由が」
 見れば、先ほどまで女の子に絡まっていた男共は消えていて、地べたから起き上がった彼女は、凛とした態度でぼくと対峙していた。
 ぼくにとって、一番大事なこと。そんなのは決まってる。
 母さんの遺言を守り通し、そしてそれを最後までやり遂げること。
 つまり『生きる』ことだ。

「それは違うよ。君が一番大事にしたいのは――」

〝消滅しない生き方に尽力するための『ぼく』〟
〝遺族であることを不特定多数に認識してもらうための『ぼく』〟

「――この二つが本音。お母さんの遺言云々っていうのは、これを隠すためのカモフラージュに過ぎない。だってそうでしょ? 君は『自分の意思』なんてものに、ちっとも執着がないんだから。そんな人がなんで、生きる、なんて言えるの? それは本当に君自身の意思なの? 君は『生きたい!』とか『生きてやるっ!』って、心の底から叫んだことあるの? ないでしょ? だって生きることに執着してないもん。
 君はただ、『お母さんの願望(遺言)』を『自分の意思』とすり替えて、あたかも、生きるっていう選択を自分自身で決めたように振舞っているだけ。だから君は、いつも世間との間に生じた溝を感じているんだよ。周りの人たちは自分の意思で生きているのに、君だけが、お母さんの願望によって『生かされている』だけだから。乖離感とかモヤモヤっていうのは、つまりそういうこと」
 彼女の言葉は、物理的なエネルギーでも備わっているんじゃないかと、そう思いたくなるほどの衝撃力を持っていて、ぼくの心に致命的な亀裂を入れた。
 薄々、自分でも気付いてはいたんだ。でも、それを認めてしまえば、何かが決定的に破局してしまいそうだったから。だからぼくは、『自分の意見』にすがりつくしかなかったのに。
 心に塗られていたメッキが、どんどん剥がれ落ちていく気分だった。本心が露わになってしまったぼくの内面世界には、もう、余計なものは一切残っていなかった。
 そうさ。彼女の言う通りだ。ぼくには生きる意思がない。それはつまり、死に瀕した時に感じる恐怖も湧かないということなんだ。
 もしも誰かにナイフを向けられれば、ぼくにも恐怖心とやらが芽生えるのだろうか。
 いいや、多分それもない。おそらくぼくは、恐怖云々で行動を起こすのではなく、母さんの遺言を守るための自己防衛を遂行するだけだ。
 彼女が襲われているのを目撃した時、正直ぼくは、何も感じていなかった。ぼくは、人の痛みを記憶という知識に基づいて予測することはできるけど、人の痛みを想像したり、共感したりすることが、厄災以降どうしてもできなくなってしまったんだ。
 遺族として過ごし、消滅せずに生きていることを他人に観測されていれば、それで十分。あとはもう、どうでもいいことでしかなかった。
 ぼくには、あの路地裏から逃げた、という表現すら当てはまらない。
 ぼくは逃げたんじゃない。クスリ漬けの男たちが怖かったわけでもない。
 母さんの遺言を実行するためだけに、単にあそこから移動しただけだったんだ。

「ぼくは、君のことを〝可哀そう〟とすら思わなかった」

 女の子は何も言わない。言ってくれない。せめて罵倒してくれれば、怒りをぶちまけてくれれば、ぼくのこの居心地の悪さも、少しは改善……――

「いやいや。言っても変わらないよ。だって君、不感症だもん」

 そっか。そうだよな。ははっ。
 ああ、なんかもう、考えるの疲れてきた。
 早くメッキを塗り直そう。そうすれば、生きているフリができる。
 丸裸にされたぼくじゃ、どうせ何もできないんだ。
 ぼくには意思がないから。
 死ぬことにも、生きることにも興味が湧かない。
 命に対して無頓着なぼくじゃあ、現実ってのは荷が重すぎる。
 そういえばシオンはどこに行ったんだろう。案内役だってのに、いい加減だなあ。
 まあ、もうどうでもいいか。
 もう疲れた。もう嫌だ。なんでぼくは生きているんだろう?
 ああほら、化けの皮が剥がれると、こうなっちゃうんだよ。
 母さんの遺言で〝生〟を擬装していないと、生きること自体が疑問になっちまう。
 もう面倒くさいよ。いいじゃんか、何も感じなくたって。厄災のことで苛まれずに済むんだから。ああもうっ、不感症でも何でもいいから、ほっといてくれ。もう疲れたんだよ。心をいちいち動かすのに、疲れんだよ、ぼくはっ……。

 完全に思考が止まった。
 ぼくは……ぼくって誰だ?
 この体の持ち主?
 そんなことすらどうでもよくなる。
 というか、この思考って誰のものなんだ?
 この思考を主観で思考している思考主は誰だ?
 ぼくって、一体何者なんだ?
 さあ。もうどうでもいいよ。そんなこと。
 もう、つかれた。つかれた。つかれたんだよ――……

「ふんっ、まるで生ける屍だな」

 その時、どこからともなく何者かの声が響き、ぼくの頭蓋を震わせた。
 声の主を探して、ぼくは首を振って辺りを見渡した。
 すると、『RAIVA横丁』と書かれたアーチの両側にあった街灯が、舞台演出のスポットライトよろしく点灯して、アーチの中央で仁王立ちしている人影を、仄かに浮かび上がらせた。
 その人影は、心なしかぼくを見つめているような気がした。
 ほどなくして人影が動き始め、ぼくの方へと、ずんずん近寄ってくる。
「お前は酷く勘違いしている。〝生きている〟というのは、単に心臓が動いてさえいれば、それでいいという話ではない。何のために命を使いたいのか。そしてその力を何に生かしたいのか。生まれてから死に至るまで、その命で何を成し遂げたいのか。それを生涯に渡り自問自答し続けることが、己が生の何たるかを知るための最初の一歩だ」
 次第に大きくなっていく、下駄の足音。人影のシルエットが、徐々にその輪郭をくっきりとさせてゆき、そしてその人影が、路地裏の街灯によって、完璧に浮き彫りにされた刹那、ぼくは戦慄という言葉の持つ意味を、生まれて初めて、実感として思い知ることになった。
 ぼくの目の前に現れたそれは、まさしく『ドッペルゲンガー』としか言いようのない奇妙な存在だった。
 黒い着物を羽織り、下駄を履いているという点を除けば、全てがぼくと瓜二つだ。
 鏡に映る自分ならまだしも、自分の似姿を直視するというのは、あまりいい気がしない。なぜだかは分からないけど、本能的に、自分と同一の存在がいることに対して、脳が、肌が、身体が、その存在を拒んでいるかのようだった。
「お前は? ぼく? ぼくなのか?」 
 その似姿は、シニカルな態度で口の端を釣り上げると、ぼくの質問に対して首を横に振った。
「厳密には違う。自己像幻視は『単一の個体』が『単一のコピー』を生み出す現象だが、〝我々〟は『複合体を単一と規定する個体』だ。よってお前の分身ではなく、結論だけ述べれば、啓蒙活動の一環として、分身という手法を用いただけにすぎない」
「つまり?」
「お前を笑いに来た」
 別の気配がぼくの背後を撫でる。慌てて振り返ると、女の子も含めた路地裏の住人たちが、一人残らず消えていて、代わりにシオンが、目を丸々とさせながら棒立ちしていた。オバケ電灯の調光は相も変わらず曖昧で、光の強弱が常に揺らいでいる最中、そのぼんやりとした空間で静止している彼女の表情は、心なしか青ざめているような気がした。
「あなたは【ナーディア】?」
「そうだ。その認識で相違ない」
「なんで生者の回収を使命とする『あなたたち』が、こんな所に出張ってくるのよ」
「君は……彼のゲートか。なに、普段通り、仕事を全うしに来ただけさ」
「仕事って、だって彼はまだ、この世界に来たばかりなのよ? 終着点に行けるかどうかが確実に判断できるまでは、ナーディアは原則手出し禁止のはずでしょう?」
 ナーディア。聞き慣れない単語だけど、会話の流れから推察するに、それが『複合体を単一と規定する個体』の名前なのだろう。
「だから、君も鈍いな。見極めの線引きが確定したから、我々は手出し解禁となったのだ。こいつの肉体は我々が責任をもって現実に強制送還させてやる」
「ちょっと待って。今なんて言ったの?」
「二度も言わせるな。肉体の強制送還だ」
「じゃあ、彼の意識はどうなるのよ?」
「無理難題にもほどがある。あってないようなものを、どうやって送り返せというのだ。まあもっとも、終着点を目指した人間というのは、遅かれ早かれ、いつかは必ず抜け殻になるものだ。考えることに疲れてな」
「そんな、それじゃあ、戻ったところで廃人になるだけじゃない!」
「知らなかったのか」
「当り前でしょ。死角世界がゲートに付与する知識にだって限度がある。特に終着点に関しては、完全にブラックボックス扱いよ」
 シオンとナーディアの会話を、ただ黙って見聞きしていたぼくは、ふと、近年トーキョーのみで確認されている謎の症状、『無気力症候群』について思い出した。
 症状の原因は未だ分かっておらず、また、発症する患者のパターンも類似性に乏しい。ただ一つ共通している要素は、その症状にかかった人間は、全員、ロボットのような生き方になるということくらいだそうだ。
 それまでは何の変哲もない人間だったのが、ある日を境に急に仕事を完璧にこなすようになり、社会人としての責務を果たし、衣食住を一切無駄なく行えるように激変すると言われていて、およそ人間だからこそ会得できるような〝無駄〟が、まるでそれまでの人生が嘘だったかのように、消え失せてしまうという。
 欲の無い人間。と表現すれば聞こえはいいが、煩悩を全て取り払った僧というわけでもなく、ありとあらゆることを、自明の理に基づいて執り行う様子は、人間味を感じさせず、まるで機械にでもなったかのような印象を周囲に与えるのだと、以前、風の便りで耳にしたことがある。
 二人の会話は止まっていた。いや、そもそも彼らを『人』と解釈していいのかどうかは分からないけど、とにかくぼくは、ナーディアに質問してみた。そうせずにはいられなかったんだ。
「ようするに、ぼくは、死ぬのか」
 ナーディアは皮肉っぽく頬を歪ませると、こちらを小馬鹿にして蔑むかのように、あからさまな態度で鼻を鳴らした。
「ほお。死に関心が湧くのか? お前は今の今まで命に対して何ら執着も湧かなかったというのに、今頃になって生が実感できるようになったというのか?」
「質問に答えてくれ!」
「身体は生き続けるさ。問題なくな。ただ意識の方がどうなるかは、我々にも与り知れん部分でな。どこかに行くのは分かっているが、それがどこなのかは分からん」
「なんだよそれ。ようは死ぬってことと一緒じゃないか」
「心配することはない。お前という意識を自覚できるお前が消えたところで、お前が一番大切にしている、消滅しない生き方や、自己に対する不特定多数の承認というのは、全て自明の理によって賄われるだろうさ――さてっ!」
 舞台役者のような大げさな身振り手振りで、次の瞬間、ナーディアがぼくの左胸目掛けて右腕を突き伸ばした。
 直後、ぼくはとてもつもなく悍ましい気配を感じた。ただちにこの場から逃げるべきだと本能が訴えているのに、なぜか身体が言うことを利かない。
 見れば、いつの間にか具現化を果たしていた女の子が、男どもが、ぼくの身体を羽交い絞めにしているではないか。
 ナーディアの指先が、ぼくの左胸に勢いよく刺さって、皮膚を貫通していく。
 とても生々しい感触が全身を駆け巡り、ぼくは我を忘れて悲鳴を上げた。
「そう喚き散らすな。お前は不感症だ。故に痛みはない」
 くじ引きの箱に腕を入れて手探りするような格好のナーディアが、不満そうにぼやいた。確かに出血は見られず、また同様に痛みも感じられなかったが、五臓六腑を巨大なワラスボにかき乱されているかのような、未だかつて味わったことのない恐怖と不快感が、永遠とも思える時間の中で続けられるのは、もはや『拷問』以外のなにものでもなかった。
 ぼくは、ろくに呼吸もできず、喘鳴の如く細々とした呼吸を繰り返した。
 ナーディアは、お目当ての〝何か〟をようやく探し当てたらしく、ぶちゅり、という音を出しながら、ぼくの胸から勢いよく腕を引き抜いた。
 ぼくは即座に、ナーディアの腕が刺さった部分を確認してみたけど、やはり、血のりもなければ、傷口すら見当たらない。汗の染みついたワイシャツとジャケットが、仕事帰りの時みたいに、くたびれているだけだった。
 肩で息をしながら、ぼくはナーディアが鷲掴みにしている物体に焦点を当てた。
 一瞬、ぼくはそれが何なのか分からなかった。
 スーパーの精肉店売り場に並んでいる加工済みの肉とは違い、それは艶やかで瑞々しく、それでいて、生の源であることを体現するかの如く、激しい脈動をはち切れんばかりに打ち鳴らしていた。

〝ドクンッ! ドクンッ! ドクンッ!〟

 ぼくは即座に、『あり得ない』と判断した。
 でも、そう思えば思うほど、左胸の喪失感が顕著になっていき、ソレがあったはずの部位に生じた空洞を意識せずにはいられなくなった。

 あれは本当に〝ぼくの心臓〟なんだろうか?

 映画などでは度々そういった物が『演出』のために用意されたりするけど、当然ながらそれらはフィクションでしかない。『本物』を見る機会でもあれば、幾分見分けもつくのだろうけど、残念ながらぼくは、心臓外科医でもなければ、戦地に赴く兵士でもない。正直なところ、自分の目と鼻の先で脈打つそれは、ぼくには人間の臓器を模して作った小道具にしか思えなかった。
「どうせ生きることに興味がないのだろう? だったら、あってもなくても大して変わらんさ。お前には過ぎた代物だったのだ。コレは我々の裁量で再利用させていただく。すでに生を取り戻したい候補者の選抜も終わっているしな。お前はそれまで見物でもしていろ」
 不意に、周囲が騒がしくなってきたことに、ぼくは気付いた。
 さっきまで閑古鳥が鳴いていた歓楽街の通りに、数えきれないほどの人影が出現していたのだ。地面から植物の芽のように伸び出る人影もあれば、壁の中から半身を突き出して、こちらの様子を伺っている影もいる。
 それらの人影は、はっきりとした像を持っているわけではなく、常に揺らぎながら、時に蝋人形のように溶けながら、しかし確実にナーディアのいる位置に集結しつつあった。



 シンゾー シンゾーチョーダイ
 イラナイナラ ボクニチョーダイ
 ワタシニモチョーダイ
 オレニモ クレ ヨコセ
 ワシノブンハ ナイノカネ
 シンゾーガモラエルナンテ ナガイキハスルモンダネー


 生を希求する執念すらも超越した妄執の軍勢が、ぼくの心臓を欲して、わらわらと、影によって模られた腕を伸ばす。バーゲンセールで度々見かける、安物の取り合い合戦のような絵面は、恐怖を通り越して一種の喜劇にすら見えた。
 影たちは心臓を丸呑みしようと躍起になっているが、他の影が邪魔で獲物に到達することができずにいる。その状況を打破するためか、どこかの影が自身の頭部を食虫植物のように形状変化させて、他の影を蹴散らし始めた。が、すぐに別の個体がそれを模倣し、さらにそれがウィルスの如く伝染していったがために、影たちの見せる共喰いは、荒れ狂う波のように悶える結果となった。
 シュールな争奪戦は熾烈さを増していき、その様子をまじまじと見せつけられていたぼくは、考えるよりも先に行動を開始しようとした。でも、路地裏の住人たちの拘束は今も尚継続中で、ぼくは自分の命が危険に晒されている状況を、ただ黙って見過ごすことしかできずにいた。
 影が他の影に心臓を取られまいとして、上に覆い被さって押しのけたり、別の影を取り込んで吸収・合体を繰り返している。
 敗者となった影が、無残にも地べたに沈んでいく。その姿は、10年前に起きた地下鉄での出来事を彷彿とさせた。敗者たちの断末魔にも似た呻き声が、瓦礫に挟まれて圧死寸前だった被災者たちの姿と重なった。……いや、重なってしまった。
「あのヨヨギの地下にいた人たちも、こんな風に、生きようともがいていたのか」
「そうだ。誰もが必死になって生を求めていた。助けを欲していたのだ。だが、お前はそれらを全て無視した。自分が救助されるまでの間、お前はこの人たちの声を全て、なかったことにしていたんだ」
「っ、仕方ないだろ。どうせぼくが手を貸したところで、あんなに重たい瓦礫を一人で動かせるはずがない。助けようとしたところで、死んでいく人の顛末を見せられるだけだ! それにぼくが下手に手を出したことで、かえって状況が悪化したら、ぼくが殺したことになるだろ!? もう死ぬことは分かり切っていたんだ。だったら、何もしなくたって大して変わらないじゃないか!」
 もうどれが原型なのだか定かではない影の塊が、イソギンチャクのように、うねうねとした動きをみせる。ナーディアはぼくを煽るかのように、心臓を影たちに与えようとしては、直前でのらりくらりと回避していた。
 あたかも舞のような踊りを披露するナーディアは、文字通り人の命を弄ぶ道化だった。その道化が、不敵な笑みを見せながら、ぼくに視線をよこす。
「どうした? 他人の命は簡単に無視できるのに、自分のものだと話は別か? まあ、こんなのはお前だけでなく、ほとんどの人間に当てはまることだがな。鳥の血にも魚の血にも悲しまず、ただ偏に血が敬遠されゆくのみ。素直でよろしいことだ」
 影が大きく口を開いてぼくの心臓を掠めていく度に、ぼくの左胸の伽藍洞が、キリキリとした痛みを訴えた。それはどこか懐かしく、とても忌々しい痛みだった。
「それはお前が今の今まで無視し続けてきた〝生命〟の実感だ」
「なんだって?」
「なのにお前は、厄災以降、その感覚に麻酔をかけて肉体だけを動かしてきた。生死の何たるかを意識的に避けるようになったお前は、とどのつまり、生きていくことに付随する恐怖にも鈍感になった。だから『女の子』がハイキョ族に襲われても何も感じずにいられたし、容易く見捨てることもできたのだ」
 さらに一拍空けてから、ナーディアは「無論、自分自身の生き死に関してもな」と、吐き捨てるように言った。
 突如、太鼓のような振動が、全身を叩くように鳴りだした。
 血流の活性化、というわけでもない。もっとこう、ぼくという存在自体が激しく揺れている感じだ。その音が伽藍洞から響いてくるのが分かる。そこにはもう、何もないはずなのに。

「ぼくの、生き、死に……」

 ドッ! ドッ! ドッ!
 錆びついていた共感能力が、じわじわと息を吹き返してくるのが理解できた。
 心臓を抜き取られたことによって、否が応でも伽藍洞を意識せざる得なくなったから、強制的に生命の実感が蘇ってしまったのだ。
 ずっと麻酔をかけてきたのに、まさかこんな形で、おまけに今頃になって正気に戻されるとは。引き伸ばしたゴムと同じ原理だ。忘れていた時間が長ければ長いほど、それを思い出した時の反動も大きくなる。
 10年間、伸ばし続けた忘却のゴムが、今、一斉にぼくの元へと収縮し始めた。
 すでにぼくの身体と心は、目の前に用意された自分の未来に対し、震えあがっている。
 だが、もう手遅れだった。
 物凄い勢いで収縮し始めた生命の実感が、とうとうぼくという中心に収まって、ゴムみたいに〝バチンッ〟って弾けた時――ぼくの意識は、完全に覚醒してしまった。

(首筋が冷たい。胃が痛い。汗が止まらない――)

 目に映る光景は何一つ変わっていないはずなのに。
 それなのに、見える世界がガラリと変わってしまった。
 間近に迫る〝死〟の感覚が、こんなにも恐ろしいことだったなんて。
 ぼくは改めて正面の影を見つめた。
 黒いイソギンチャクの触手は、何かを求めて必死になっている難民そのものだった。
 政府に対してデモ活動をしていた人たちの気持ちも、今なら少しは理解できる気がする。
 多分、『生きる』ってことを、充実させたかったんだ。
 テントなんかで一生暮らしたくない。まっさらな布団で安心して横になりたい。
 盗みや恐喝に怯える生活を、今すぐにでも終わらせたい。
 だけど難民が溢れかえっているというのに、国はトーキョーを放置したまま。
 当時の様子を思い返していると、自然とぼくの体温が上がってくるのが分かった。
 ようやく分かった。これが、あの時みんなが抱いていた〝怒り〟だったんだ――
 ――と、その時だ。
 不意に伽藍洞に激痛が走り、ぼくは危うく悶絶しかけた。
 それはまるでファントムペインのようで、あるはずのないぼくの心臓を、握り潰しているんじゃないかと思えるような、強烈な圧力を伴っていた。
 見れば、影が人の頭部を成して、ぼくの心臓にかじりついていた。
「っ、ぁっ、っくぁあああああっ!!」
 言葉とか、理屈とか、そんな綺麗事が一切通じなくなる〝絶対服従の暴力〟に対する恐怖心が、ぼくの意識を支配した。影が心臓を味わえば味わうほど、ぼくの伽藍洞に激痛が流れ込んで、その度にぼくは発狂した。
 ぼくは身体を思いっきり捻じって、路地裏の住人たちの拘束を解こうとした。が、尋常ではない力でぼくを縛りつけている彼らにしてみれば、ぼくの抵抗など虫けら程度のものでしかなく、こちらの敵意など全く意に介していないように見えた。
(ふざけるなっ! こんな形で、ぼくの意識は殺されるのか? 訳の分からない世界に連れ込まれて、小難しい説教を聞かされた挙句……こんな、こんな理不尽のせいで、ぼくは死ぬのか!?)
 冗談じゃない。こんな死に方、消滅以下じゃないか。
 絶対に死ねない。死ぬわけにはいかないっ!
 
 〝死んでっ、たまるかぁぁぁっ!!〟

 確かに今までの人生、心の底から生きたいって望んだことは一度もない! 
 でも、だからってぼくはっ! 自分から死にたいって望んだことだってない!
 そんなのは、ただの一度だってありやしないんだっ!
(ぼく、は……ほくは……っぁ!)
 全身の血が沸騰しているかのような熱が、ぼくの身体を蝕んで、その熱が頭に集中していくのが分かった。心の奥に蓄積されていた〝怒り〟は、すでに形を変えて、〝澱〟のようにドロッとした感触へと変貌を遂げていた。まるでマグマのように熱く、粘り気を持ったぼくの感情は、決壊したダムから勢いよく噴出していく濁流の如く、ぼくの神経を蹂躙し、確実に狂わせていった。
 ぼくの怒りが最高潮に到達した瞬間、それは憤怒となった。
 ぼくのことを拘束していた路地裏の住人たちは、ぼくの身体から発散される熱によって溶かされ、消えていく。
 ぼくはそんなことおかまいなしに、ナーディア目掛けて突進した。
 全身を声にして、がむしゃらに吠えた。
「やめろぉぉっおおお!」
 ぼくが拳を振り上げた、まさにその時、ナーディアとぼくの目が重なった。
 だが、なぜか彼は勝ち誇ったかのような笑みを浮かべていた。
 当然、ぼくは違和感を覚えたけど、走り出してしまった勢いを殺すことなどできず、ぼくは渾身の右ストレートをナーディアの顔面めがけて繰り出した。そして、まるでそれを合図に待っていたかのように、周囲に群がっていた影が、跡形もなく霧散した。
「心の怒りは憤怒に変わり、その感情から湧き出した〝澱〟は、人間に暴力性を与える」
「えっ!?」
 ぼくの拳がナーディアの頬を捉えた直後、彼の顔面が飴細工のように溶けた。ぼくは自分の目で見たその現象を整理できず、呆然とその場に立ち尽くしてしまった。
 アメーバともゼラチンとも異なる質感が、ぼくの拳にまとわりつき、ぼくは本能的に、それが怒りの質感なのだと、降って湧いたような直感で理解した。
 ちょうどその時、溶けた部分が前触れもなく振動したので、ぼくは思わず、ギョッとなって即座に腕を引き抜いた。その振動は波となって音を生み出し、ぼくの骨に響くような、あるいは脳髄にダイレクトに囁くような、不思議な声を発した。


  〝心の中に暴力性があるのなら、いっそ暴力的になった方がよい〟

  〝無気力を隠すために、非暴力を口実にするよりかは〟


 直後、ナーディアの全身が溶けて地面に落ち、スライムのようになると、あっという間に人型となって、僅か数秒足らずで元の着物姿に戻った。
「ガンディの言葉だ。聞いたことくらいあるだろう?」
 確かにそんな言葉もあったような気がするが、今はそれに受け答えできるだけの、精神的な余裕なんてあるはずがない。
 呑気な口調で喋る相手の真意が読み取れず、ぼくはただ困惑するだけで手一杯になった。
「第一関門。RAIVA駅はクリアだ。おめでとう」
「なに!? おいちょっとまて! ふざけるなっ! なにがクリアだ! ぼくの心臓をさっさと返せ!」
「ああ、そのことか。それについての処遇はしばし保留となった。安心しろ。丁重に保管してあるから、影に奪われるような心配は無用だ」
 ナーディアが自分の左胸を指で示しながら、保管場所をぼくに提示する。
 ぼくは再度、頭に血が上っていく気分に見舞われた。
 このぼくと瓜二つの着物姿の存在は、どれだけぼくの命を弄べば気が済むんだ。
 すると、ナーディアが何も持っていない手の中から、手品師のような仕草で、一枚のカードを出現させて、それを二本の指先でつまんだ。
 彼はそれを手裏剣みたいにして投げると、カードはクルクルと回転しながら、路地裏の街灯の支柱に見事に刺さった。なぜ刺さる? という違和感はなく、むしろそういうものなのだと、ごく自然な流れでぼくは納得できてしまった。
「それは次の駅に向かうための切符だ」
「つぎ? まだあるっていうのか?」
「心臓が惜しければ我々を追ってこい……などと安いドラマのような台詞を言うつもりはないが、今の状態が長続きすれば、どのみちお前は死ぬだろうな」
「なんだって……!?」
「それでもいいなら、我々ももう多くは語るまい。死期が訪れるまでハイヴァ周辺を徘徊するもよし。ほかのところに移動するもよし。だが、もしお前が死を拒みたいのであれば、お前自身の意思で切符を掴め。自分が生きたいと望まななければ、その切符を抜くことはできない。そのように細工を施してある」
 少なくとも今のぼくは、『生きて』と母さんに頼まれたから、生きたいんじゃない。
 望まない死が迫り来る恐怖を思い出したからこそ、本気で生きたいって思ったんだ。
 だから、わざわざ偉そうに問われるまでもなかった。
 ぼくは街灯に歩み寄り、突き刺さったカードを、アーサー王伝説のエクスカリバーよろしく引き抜いた。切符には複数の国の言語が書かれていたけど、その中にはちゃんと日本語表記もあって、そこにはハッキリと『乗車券』という文字が印字されていた。しかし切符に書いてある情報はそれだけで、行き先も分からなければ、乗車場所も分からなかった。
「よろしい。腹は括ったようだな。では我々は一足先に次の駅に向かって、お前を待つことにするよ」
 言いたいことだけ言い終えたナーディアは、途端に陽炎のように揺らぎ始めると、その姿はあっという間に歓楽街の大気に混ざって消えてしまい、直後、歓楽街の通りは、まるで映画館で作品を鑑賞し終えたあとに感じるような、妙な静けさに包まれた。
「出口はあそこよ」
 街灯を背もたれにしながら、シオンが涼しい顔でぼくにそう告げた。
「シオン!? いったい、今までどこにいたんだよ!? こっちは大変な目に遭っていたんだぞ!」
「ごめんなさい。影たちに取り込まれたせいで、身動き取れなかったのよ」
「なんだそりゃ……くそっ、どうなってんだよこの世界は。ちくしょう」
「あなた、少し変わった? 怒りっぽくなってる」
「心臓が取られたんだぞ!? 感情的にならない方がどうかしてるだろ!」
「それについてだけど、多分、この世界にいる間は大丈夫だと思う」
「なんでさ!」
「ナーディアはあなたの〝分身〟を演じているのよ。ということは、あなたの生命活動すらも代替している可能性が高いわ。事実、あなたの身体は健全そのものじゃない」
「でもぼくは、あいつに心臓抉り取られて、その心臓はしばらくの間、あいつの胸の中にも納まらずにいたんだぞ。それはどう説明するんだよ」
「あなたも鈍いわね。〝分身〟していることと〝保管〟は違うでしょ」
「はあ?」
「だから、おそらくナーディアは分身した時点であなたの心臓もコピーしてたってこと。オリジナルの心臓は単に保管されているだけで、今あなたの生命維持を肩代わりしているのはコピーの方ってことよ。分かった? これで少しは落ち着いたかしら?」
「あ、ああ、そうなのか。……悪かったよ」
 ぼくが素直に謝罪すると、シオンは大きく溜息をついて、そしてぼくの手元に目を向けながら口を開いた。
「で、次の行き先は?」
「一応これが乗車券らしいよ。あの野郎。ご丁寧に二枚綴りにしてやがる」
 片方の切符をシオンに手渡し、ぼくは自分の分をポケットにしまった。
「駅は、あのアーチを潜ればすぐよ」
「さすが案内人だな」
「皮肉にしか聞こえないんだけど」
「気のせいだよ」
 こんな風に憎まれ口を叩くのは、いつぶりだろう。
 まあ、そんなことはもう、どうでもいいのかもしれない。
 暗がりに沈んでいた歓楽街は、再び元の退廃的な姿を取り戻し、アーチの外に広がる噴水広場もまた、同様に明るさを取り戻していた。
 ふと背後が気になり、ぼくはあの路地裏に一瞥を投げた。でも、そこにはもう誰もいなくて、オバケ街灯が、チカチカ、と明滅を繰り返しているだけだった。
 ぼくはあの『女の子』が受けた苦痛に共感できるようになったというのに、彼女に謝る機会を逃してしまった。
 絶対的な理不尽を前に為す術なく平伏すというのが、あんなにも悔しくて、そしてそれ以上に怖いことだってことが、今なら共感できる。
 罪悪感しかない。ぼくは、あの『女の子』を見捨てて逃げてしまったのだから。
 本当にこんな状態で、次に進んでしまってもいいのだろうか。
 背後の薄闇に後悔を残しながら、ぼくとシオンは、RAIVA横丁と書かれたアーチを潜った。

第三章「平等妄念」

「これから向かう所って、どんな場所なの?」
 RAIVA駅のあった地区を出発して、かれこれ数十分。
 次の目的地に向かう列車に揺られながら、ぼくは何の気なしに、シオンに尋ねた。
「最近できた街よ。なんでも『IoE(Internet of Everything)』の先端技術を積極的に取り入れているみたいで、都市そのものが一種のコンピューターのように機能しているらしいわ」
「スマートシティの究極形みたいな場所だな」
「多分ね。実際見たわけじゃないから、なんとも言えないけど」
「そっか。ま、行ってからのお楽しみだな」
 手持無沙汰になったぼくは、スマートフォンを取り出して、時刻を確認した。画面には『??:??』と表示されるだけで、元の世界が何時なのかは、さっぱり分からなかった。
 そもそも、この世界には時間という概念が存在していないのかもしれない。
 景色は相変わらず夜のまま。スコールのように天候が急変する兆候はなく、のどかな田園風景の上空に広がる快晴を黒塗りにしたかのような、そんな相反する印象を含んだ空が、どこまでも街を覆っているだけだった。
 窓の外ばかりを見つめていたぼくは、不意にシオンの視線を感じた。
 何事かと思って彼女に目を向けると、彼女は綺麗に背筋を伸ばした状態で、ぼくのことを静観していた。
「なに? どうかしたの?」
「あなたさっきから、ナーバスとナイーブをごちゃ混ぜにした感情を、行ったり来たりしているわ」
「……本当に分かるんだな」
「当然よ。私はあなたのゲートなんだから」
「そうかい」
「さっきのことを気にしているのね?」
「ああ」
「路地裏での自分の行動を、あなたは悔いてる」
「……そうだな。正直、ぼくがあの『女の子』を見捨てて逃げたことに対する罪悪感や贖罪の念っていうのが、今頃になって物凄い湧くようになってきたんだ。本当、彼女には申し訳ないことをしたと思う。でもさ、あの時の状況を考えると、仮にぼくが、あのクスリ漬けの連中に啖呵切ったところで、状況が好転したようにも思えなくて」
「むしろ、あなたが義憤に駆られれば、二次被害を受けただけでしょうね」
「十中八九そうなってたと思う。だから……その、ぼくはどうすれば良かったんだろうって、考えちゃってさ。別に母さんの遺言とか関係なしに、自分の保身を第一に考えるなら、あの時ぼくが逃げて、大人たちに助けを求めたっていう選択肢は、ベターだったはずなんだよ。けどさ……いや、ごめん。分からないんだ。どうすれば良かったのか。何が正しいのか。さっぱり分からなくなっちまったんだ」
「それはあなたが、『女の子を助けたい』、もしくは『助けるべきだった』っていう意思を持ったから、初めて抱けるようになった後悔なんじゃないかしら? 端から他人なんてどうでもいいって割り切れるようなら、いちいち良心の呵責に囚われるはずもないでしょう?」
「良心の呵責、か。今までのぼくとは無縁の言葉だな。はっ」
 鼻で笑って、ぼくはぼく自身を嘲笑った。
「何が正しかったんだろう……。ぼくは、どうすれば良かったんだろう。何をどうすれば、ああいう悲しいことがなくなるっていうのさ。ははっ。ちきしょう……!」
 半ばシオンに答えを求めるように呟きながら、ぼくは窓を眺めた。
 窓に反射するぼくの姿は、やはりナーディアとは違った。
 あいつはこんな風に、だらしなくはない。もっとシャキッとしている。
 ここにいるのは、ただのくたびれたスーツ野郎だけだ。
「でも、行き過ぎた優しさは、時として人を殺す毒にもなるわ」
「え?」
「正しさの線引きって、主観じゃどうにもならないもの。正しいと信じて行う善意が、実は傍から見れば悪意かもしれないし、人を傷つける悪意が、別の誰かを救うことだってあるかもしれない。だけど、人間の脳は『肯定(正しい)』という命令でしか動けないようにできている。人は、自分自身の心の中に善悪を混同させることはできても、それらを間違いだと否定しながら善悪を為すことはできない」
「つまり、良かれ悪かれ、最終的には自分の選んだ判断を『肯定』しないと、何もできないってことだろ?」
「そう」
「話は分かるけど、それが良心の呵責とどう関係してるのさ?」
「自分のことではなく、誰かを想う感情っていうのはね……その是非を問わず、歯止めが効きにくくなるってことよ」
 ぼくのことを気に掛けた上での発言だったのは、雰囲気からも理解できる。
 だけど、ぼくはシオンが何に対して懸念を抱いているのかが、正直言うと分からなかった。
 何か聞き返そうかとも考えたけど、彼女の憂い顔を横からつつく気にもなれず、ぼくは到着までの間は黙っておくことにしようと心に決めた。
 それから体感で十分程度の時が流れた後、外の景色に変化が見られるようになり、遠目からでも大都市だと断言できるような摩天楼の密集地域が現れた。
 かなり大きな街だ。車両が街に迫るにつれ、自分が途方もなく巨大な剣山に直進しているような気にさせられる。
 SF映画ならともかく、ガラスの向こうで待ち構えるソレは、異常という言葉を異様なまでに増長させたかのような近未来都市だった。
 どこかホンコンを彷彿とさせるような街並みではあるが、それにしたって規模がでかすぎる。ビルの高さも都市の面積も、ホンコンの5~6倍はくだらないだろう。
 いや、そもそも、あの建造物の群れをビルと表現すること自体、適切なのかどうか疑わしい。むしろ建設途中の軌道エレベーターだと説明される方が、見ているこちらとしては納得がいく。
『The next station is [YC]・NERRUCNOC. The doors on the left side will open...』
 RAIVAの時とは違い、今度は英語のアナウンスだった。内容はほぼ理解できたが、肝心の駅名を聴き取ることができず、ぼくは座席から離れて、自動開閉ドアの上部に設けられた、電光掲示板の文字を目で追った。
「わい、しー? なんて言ったんだ?」
 その時、ぼくの正面に位置する開閉ドアのガラス窓に、シオンの顔が写りこんだ。下車するために立ち上がったのは分かるが、如何せん、ニホン画に登場しそうな見た目の持ち主であるだけに、背後に立たれると、妙にリアリティがあって怖かった。
「ワイシー・ネルクノック。先頭の二文字はエリアごとに割り振られたアルファベットで、和訳するなら、ネルクノック・Y番街C地区……って感じかしら。それよりも、降りる準備はよろしくて?」
 ぼくは未だ動悸の激しい伽藍洞を手で押さえながら、回れ右をしてシオンを見た。
「一つ、言っておきたいことがあるんだけど……」
「なにかしら?」
「気配なくぼくの背後に立つのはやめてくれ」
「不可抗力よ」
 関心のなさそうな表情のまま言い捨てると、シオンは開くドアと同時に颯爽とホームに降り立った。ぼくも遅れて続く。
 ハイヴァ駅も整備が行き届いていて、『都会の駅』だという印象を受けたのだが、ここは自分の知る駅のイメージとは、あまりにもかけ離れすぎている。全てが洗練化された無駄のない造りと、汚れ一つ見当たらない、まっさらな内装。サイバーパンクな都市の外観とは打って変わって、この駅は大規模な研究施設でも思わせる、純白に染め上げられた世界観だった。
 ぼくが真っ白なタイル張りのプラットフォームに立つと、その瞬間、ぼくの足元を囲むような形で光のリングが形成されて、それがぼくの歩調に合わせながら追従してきた。
 円の淵には矢印が表示されていて、自分の現在地や、乗り継ぎの際に時間を潰せるカフェスペース、そして改札口がどこにあるのか等々。どうやらこの光の輪は、降車客が道に迷わないようにするための、ナビゲーション機能を担っているらしい。
 駅には、この街の住人と思しき人たちが大勢いた。ハイヴァのような、ごみごみした感じはせず、どちらかと言えば休日のショッピングモールのような賑わい……なのだが、その人たちの『服装』というが、駅舎の内装に負けず劣らず、あまりにも奇抜すぎるものだった。
 この街の住人は、まるで『パリ・コレクション』にでも登場するような格好を、老若男女問わず、それが普段着だと言わんばかりの自然体で着こなしているのだ。おかげで、遺族であることを強調するために、わざわざ着用してきたはずの黒スーツが、かえって悪目立ちしている有様だ。
 その時、ぼくの足元付近に、ポリバケツに車輪を設けたような機械が近づいてきた。その機械は、ホーム上に落ちているゴミを拾っては、自身の内部に放り込んでいた。どうやら、自動お掃除ロボットのようだ。
 再び目線を変えると、ホーム付近のベンチに座っているおじさんが、正面に立っている若者と雑談している……かと思いきや、若者の方は、ホログラフィックで投影されていただけの、ただの映像だった。やがて映像が途絶え、直後に『END CALL』という文字が虚空に表示されたから、おそらく今のやり取りは『電話』だったのだろう。
 金魚の糞のようについてくる光の輪が、ぼくの動揺でも感知したのだろうか。ここから100mほど先にあるという、健康やリラクゼーションに重点を置いた飲食店の候補を、十件近くも一気に展開させてきたので、ぼくは腹の中で「やかましい」とぼやいた。
 ぼくは思わず天を仰ぎ、パイプフレームによって築かれた、空港のターミナルみたいな天井に視線を泳がせた。
 フレームの隙間から垣間見える、透明度の高いガラスの向こうには、かつてのヨコハマのシンボルでもあり、今は都市の墓標という名で呼ばれるようになってしまった、『ランドマークタワー』など比べ物にならないような高さを誇る摩天楼が……いや、これはもう、天に摩擦が生じる云々のレベルじゃない。もはやこれは、天を越す勢いで上に昇り続ける、越天楼とでもいうべき人工の巨大樹だ。そんなものが群れを成して、二つも三つも四つも――……いや、もう数えるのもしんどくなってきた。
(なんなんだ、この街は……)
 はっきり言おう。YC・ネルクノックの第一印象は、まさしく『異世界』以外の何物でもなかった。


     ◇


 ぼくの住む現実で『IoT』が騒がれるようになってきたのは、ぼくの物心がつくのと同じ頃、ちょうど2014年前後だったと記憶している。
 それからさらに月日が過ぎ、2023年。ぼくが中学生に上がったこの年は、手の中に埋め込まれた『機心電信』を用いた『新世代教育』というのが、全国の小中高で初めて導入された転換期でもあった。
 アナログだった小学校教育から、急にデジタルに変換させられた時の衝撃は、今でもよく覚えている。
 登校時は校門に設けられた認証センサーで出席・遅刻の確認を行い、風邪などで欠席する際は、自宅からサーバーにアクセスすればそれで完了。
 ぼくらの世代は、よく『ボタン一つでサボれる』なんて揶揄されるけど、実際はブロックチェーン技術のおかげで、生徒がどこで何をしているのかなんてことは、『子供たちの安全が第一』――などという大義名分のおかげで、担任の教師や自分の保護者に対しては、ぼくらの〝プライベート〟なんて筒抜けだったわけで、むしろこの世代の不良というのは、オラオラ系よりも、カタカタ系(要するにクラッカー)の方が多かったと思う。
 みんな、それぐらい〝自由〟というものがどういう〝形〟なのかを、知りたがっていたんだ。
 大人たちは口を揃えて言っていた。『子供は、皆等しく、前向きに、公共的で且つ健全なデータベースに組み込まれる努力をしなければならない。模範的なプログラム(生活)をこなさなければならない』――と。
 プログラムの定義することに収まり続けることを、根拠もなく安心安全とし、そこから逸脱する者には苛烈すぎるくらい警戒心を抱いていた〝大人〟たちが、一体何に怯えていたのか、当時のぼくには分からなかった。
 大人たちに訊ねてみたものの、全員、まるでオンラインマニュアルに記載されている文章を、そっくりそのまま引用したかのような受け答えしかしてくれなかった。
 当然、そんな解答では満足できるはずもなかったけど、子供という身分では社会のニーズを妄信する以外に選択肢などなく、結局のところ、ぼくたちはその具体的な理由も分からぬまま、この『過保護』すぎる社会で、『公共的な正しさ』というのを学ばされてきたんだ。
 問題を解く時代から、別の答えを探す時代に。考える力を養うための新世代教育。そんなスローガンが書かれていたポスターを、ぼくは学校の中で何度も目にした。
 たしかに聞こえは良かった。別解力というものを集中的に用いるようになったのは、ぼくらの世代からだという話だけど、正直ぼくには、それがどこか胡散臭いものに思えて仕方なかった。なぜなら、別解力というのは結局、その名の下に公共的な正しさを集中させただけのシステムでしかなく、そこから逸脱してしまうような別解は、異端という扱いしか受けなかったからだ。
 ぼくも昔は、カタカタ系の一人であったわけだが、基本的に『不真面目な子供』というのは、決まって過保護すぎる社会に嫌気が差して、それを攻略するウィルスを休み時間に作成しては、授業を混乱させて大人たちを怒らせていたと思う。
 ウィルスを作るのは簡単だ。教室に配備されている机というのは、何も特別な素材で作られたものではなく、安っぽい木と鉄で組み上げられた、いわゆる普通の学校机なのだが、その天板の表面には、厚さ数ミリの『グラフィック・シート』と呼ばれる、一種のデジタルペーパーが貼り付けられていて、それが『PCタブレット』とほぼ同質の機能を有していたから、机を叩いてプログラミングするのは、訳ないことだったのだ。
 ただ、中学から高校、そしてその最中に起きた厄災という経験を経たことによって、ぼくは、大人たちが何に対して怯えているのかが分かってしまい、高校2年の頃には、とうとうウィルス作りにも手を出さなくなった。
 結局、大人たちは〝負の可能性〟に怯えていたのだ。
 自分の子供が妙な変質者に襲われる可能性。
 仕事でミスをする可能性。失敗の責任を被る可能性。
 事故に遭遇する可能性。事故を起こしてしまう可能性。
 病に倒れる可能性。家族を養えなくなる可能性。


 ――そして、災害に遭う可能性。


 彼らが焦点を当てていたのは、可能性が持つ一面だけだった。
 成功する可能性、という考え方が、そもそも抜けていたのだ。
 ……いや、あの過保護すぎる社会が、成功という言葉の意味を、薄めていただけなのかもしれない。
 ぼくが高校を卒業した時期は、ちょうど人の行動をデータ化し、それをブロックチェーンによって統括する『犯罪抑止のための防犯計画』が本格的に始まる直前だった。どこか社会全体が『一丸』とか『一致団結』とか、そういう『協力姿勢』を、まるで強制ボランティアのように重んじる風潮が強かったせいか、『仲間外れ』を生むことは『非道徳的な価値観』であると、各種メディアがこぞって騒ぎ立てていたものだ。
 とはいえ、その当時のぼくは、既に抜け殻になり果てていたわけだから、仲間外れ(異端者)にされることはまずなかった。適当に相槌を重ねて、追従笑いを浮かべれば、それで事足りてしまっていたからだ。
『管理』という言葉には、やはり抵抗感を覚えてしまう。
 でも、もし仮に、そういう管理のおかげで、あの『女の子』が受けたような悲劇を未然に防ぐことができるのであれば……それは、正しいことなんじゃないのか?
 野蛮な犯罪をなくしたいと願うのは、別に悪いことじゃないだろう。
 むしろ、そういったことを野放しにしておく方が〝悪〟じゃないのか?
 もちろん、ぼく一人が喚いたところで、世界が変化するはずもないけれど、それでも、あの『女の子』の身に起きた悲劇にぼくが関与してしまった以上、何か平和のために行動を起こさずにはいられなかった。
(この街のことをもっとよく知ることができれば、もしかしたら、ああいう犯罪を防ぐヒントが見つかるかもしれない――あんなふざけたこと、絶対に許しちゃダメなんだ)
 その時、先行してホーム上を歩いていたシオンが、いきなり立ち止まって、こちらへ振り向いた。が、彼女は何も言わず、黙って再び歩き始めてしまった。
 彼女の物言いたげな視線には、なぜか憐憫の情が漂っていた。
 けど、ぼくには彼女の気持ちが分からなかった。
 何か気に障るようなことでもしたのだろうか。
 ぼくは気難しい女心に頭を悩ませながら、改札口を目指した。


     ◇


 改札口……と本当に表現していいのだろうか?
 歩く人々は、空港でよく見かけるような金属探知機のゲートを潜っているだけで、何か特別な端末に『タッチ』しているわけでもなければ、無論『切符を入れる』なんてこともやっていない。本当に、ただ純粋に『通過』しているだけだった。
 これも偏に、『IoE』技術によってもたらされた恩恵なのだろうか。
 多分、これからはきっと、ぼくの住む現実にもこういう世界が訪れるに違いない。
 なんだか、間近に迫る社会の在り方を、先行公開させてもらったような気分になる。
 とりあえず立ち往生するのも嫌だったので、ぼくは手近にいた駅員に声をかけて、乗車券を提示した。
「あの、すいません。この乗車券を使ってここまで乗ってきたんですけど……」
「はい。ちょっと拝見しますね。……ああ、ハイヴァからのご乗車ですか。特に問題ありませんよ。正面に見えるゲートを潜っていただければ、あとは機械が自動的に処理してくれますから」
「へえ、そうなんですか。なんか凄いハイテクな街ですね」
「自分はむしろ、今どき紙媒体の乗車券を使用している方が凄いと思いましたよ。お客さんも物好きですねえ。まあ、鉄道好きの自分としては、そういうの嫌いじゃないですよ」 
「は、はあ。そういうものですか」
「えっと、ひょっとしてこの街に来るのは初めてですか?」
「はい」
「あっ、じゃあこれを差し上げますよ」
 駅員は制服の懐から点眼容器みたいな物を取り出して、それをぼくに渡してくれた。
「なんです、これ? 目薬?」
「視界に追加要素を付与するための液状コンタクトレンズです。拡張現実って言った方が、分かりやすいですかね?」
「え、あ、ああ。拡張現実ね。AR」
「そうですそうです。これは【リアレンズ】と言って、中に入っている液体を両目に一粒ずつ落とせば、この街の情報がすぐに視覚上に展開されるようになるスグレモノなんです! 是非、活用しちゃってください!」
「いいんですか、こんなの貰っちゃって」
「ああもう全っ然、構いませんよ。どうせ観光案内所に行ってもタダで貰えますから」
「あ、そうなんですか。すいません。ありがとうございます」
「いえいえ。お連れ様もどうぞ、遠慮なくお使いください」
 駅員がシオンに歩み寄って、彼女の方にもリアレンズを手渡した。
「では、わたくしは仕事に戻りますので、これで。よい旅を!」
「ええ。ありがとうございます」
 今日日『よい旅』をなんて言葉を、ああも真顔で放てる人も少ないと思う。
 ぼくは少し苦笑いしつつも、去り際に駅員が手を振ってくれたので、彼との目線の繋がりが切れることを確認できるまでは、一応手を振り返した。少し長かったが、愛想の良い人だったので悪い気はせず、視線が別のところに移動したタイミングで、ぼくは腕を下げた。そのままコの字型の改札ゲートを通り抜けて、ぼくとシオンは駅の外に出た。
「うわっ」
 ぼくは人目もはばからず、思わず声を出してしまった。それほどまでに、このネルクノックという近未来都市のスケールの大きさに圧倒されてしまったのだ。
 この街のビルの高さが異常なのは、ホーム上で天を仰いだ時に学習済みだと思ったけど、どうやらその認識は甘かったらしい。全高600メートル以上はくだらない超高層ビルディングが雑居ビルのように立ち並び、立体映像を用いた広告が天を埋め尽くし、さらにはビルとビルの間を往来する大量の『空飛ぶ車』が、漆黒の空を滑空する光景というのは、まさに壮観の一言に尽きた。
「この目薬を使うと、もっとすごいことになるわよ」
 シオンがリアレンズの容器を指で摘まみながら、ぼくに微笑みかけた。
 早速蓋を開けて、ぼくは目薬を差すのと同じ要領で、現実を拡大する滴を瞳に垂らした。
 両目をしばたいて、何度か視界を確認すると、変化はすぐに起こった。
[識別コード・生者――]
[ネルクノックデータベース上の住民コード検索……該当コード無し――]
[ゲストアカウントとしての登録を行います。以下の文章をお読みになった上で、合意される方は〔次へボタン〕に目線を移動してください。また、音声案内をご希望の場合は、右上のスピーカーアイコンに視点を合わせてください……――]
 ぼくの視界上に、銃器の照準合わせに用いられる、ターゲットサイトのような丸いアイコンが現れ、それがぼくの目の動きに合わせて、クラゲみたいに動きだした。音声案内は遠慮することにした。いちいち目の中で囁かれたら、かえって鬱陶しいと思ったからだ。
 ひとまず、ぼくは文章を流し読みして、次へボタンにアイコンを合わせた。
[では次に、登録者様の網膜と静脈のスキャンを開始します。画面に表示される手順に従って、スキャンを完了させてください――]
 次々に要求される機械の要望に応えながら、ぼくはその手順をこなしていった。
 途端に視界の中が、蓋を外したスキャナー装置みたいになって、一本の光の筋が上から下、下から上へと往復すると、続いて左から右へ、右から左へ……そして[網膜スキャンは無事終了いたしました]という文言が出ると、続けざまに今度は静脈スキャンの準備が視界上で始まった。
[左右いずれかの掌を自分と対面するように向けて、数秒の間、視点を掌の中央に固定したままにしてください……――]
 文章だけでは理解できない人への配慮だろう。ご丁寧にイラスト付きで解説を行ってくれていた。ぼくはとりあえず右掌の静脈をスキャンすることに決めて、しばしの間、掌をじっと見つめた。
 掌の輪郭を把握するためのガイドラインが引かれると、次に生命線などの分析が勝手に開始された。波形グラフやソースコードを表示した、大小さまざまなウィンドウが矢継ぎ早に浮かんでは消え、また浮かんでは、幻のように消えていく――……。
 そんなデジタルの嵐が一瞬のうちに過ぎ去ると、視界はたちまち穏やかになって、中央に新たな文章が提示された。

[全ての手続きは完了しました。ネルクノックへようこそ]

 文字を消すには、視界上で手をスワイプさせればいいらしい。ぼくは左掌を自分に向けながら、左から右に向かって手を振り払った。
 嵐の過ぎ去った瞳の中は、より鮮明に、しかしある意味さっきより騒々しく、豪奢な華々しさとB級品の安っぽさを綯交ぜにしたカオスで、この街を彩った。
 ニューヨークのタイムズスクエアがそのまま肥大化すれば、このような雰囲気にでもなるのだろうか?
 適当なビルに目を向けてみると、なにやら雹のような物体が、そのビルを中心軸にしながら、ぐるぐると渦を巻いていた。よくよく見れば、それは直径10メートルはくだらない、ブリリアントカットが施されたダイアモンドのホログラフィックだった。リアレンズに開示された補足情報によれば、そのビルの中には、衣類・香水・宝石・鞄……などなど。主にファッション用品を取り扱った高級ブランド店がテナントに入っているとのことだ。
 首が疲れてきたので、ぼくは視点を地上と水平に合わせた。
 駅の中にいるときも感じたけど、やはりネルクノックに住む人々のファッション感覚は、超然という言葉では物足りないくらい奇妙奇天烈だ。
 ある人物は天使の輪っかと羽を生やす疑似的なエフェクトを、ARによって再現していたし、またある人物は、全身をリザードマンのように見せつけていた。
 拡張現実という、従来の現実に追加要素を上乗せする『レイヤー』を得たことによって、人は、とうとう身に着けるものまで『物質』から距離を置くようになってしまった、ということなのだろうか?
 象の頭部を模した仮面を被った人が、ぼくの目の前を通り過ぎていく。
 あの人は、ARという衣類を脱がされたときに、恥ずかしさを覚えるのだろうか?
 従来の現実が、拡張現実に置き換えられた場合、その拡張の渦中にいる人間には、自分たちの生活がARによってもたらされているだけの、ただの『幻想』なんだと認識できるのだろうか?
 仮に、生まれたときから今に至るまでを、拡張した自分の姿で過ごしてきたのであれば、ARを喪失した自分の姿というのは、全くの別人にしか見えないのではなかろうか?
 そうやって現実にレイヤーを重ねていけばいくほど、本来そこにあったものは遠くなる。
 であれば、上書きし続けた先にあるのは、現実の本質を見失うことなんじゃないのか?
 ……いや、よくよく考えてみれば、ぼくが暮らしている元の現実だって、この街の構造は当てはまってしまうじゃないか。
 ぼくたち人間は、何か対象となる存在を把握する際、『知識』という名のレイヤーを重ねることで、その対象を認識し、把握できるようになっている。とどのつまり、ネルクノックの場合は、リアレンズによってもたらされる知識の情報量が違うだけで、人間の認識力の構造自体に変化はないんだ。
 でも、ぼくはもう少し深く考えたくなる。
 もしも、ぼくが今住んでいるアパートや、今朝出会ったミズタニさん、そして特急列車に乗ってシンジュクに訪れたこと、もとい、ぼくのこれまでの人生が全て何もかも、実は拡張された現実だったとしら?――と。
 そんなの、疑い出したら切りがないし、そもそも、この手の疑問に明確な解答なんてあるはずもない。
 仮にこの世界が全て、妄想・幻想の類によって形作られているのだとしても、それを肌で感じているぼくらにとっては、実感こそが現実なんだ。
 ぼくたちは所詮、目に映る現実以外を現実だと認識することはできない。
 その奥に隠れているはずの本質は、頭で考えて憶測するしかないんだ。
 でもそういった憶測というのは、結局、妄想や幻想の類にしかならないから、目に映る現実を最優先に謳歌している人間にしてみれば、憶測に基づく発想とういのは、荒唐無稽な馬鹿話にしかならない。彼らにとっては、実感に即した知識が対象に貼り付いてさえいれば、それでもう十分なんだろう。


〝なに哲学ぶってんの?〟――そういう声が聞こえた気がして、ぼくは空を見上げた。


 街はこんなにもIoEによって整理整頓されているというのに、ぼくの思考は路頭に迷った気分にさせられる。心と現実の距離を測る遠近感がおかしくなりそうだ。
「……んっ!?」 
 突如、視界上に[コンタクト要請]の文言が浮上してきた。
 差出人の部分を見てみると、『ナーディア』と書かれていたので、ぼくは直ちにコンタクト要請を受理した。すると、今度はチャット画面が開き――
[君たちを送迎するためのタクシーを手配しておいた。場所の詳細は添付ファイルを参照すればいい。以上]
 ――というメッセージが表示された。ただの文字の羅列なのに、どこか淡泊な印象を受けてしまうのは、ぼくの思い込みだろうか。
 添付ファイルには、タクシー会社に登録されている運転手のIDと、そのタクシーの現在地を示す地図データが収まっていた。
 さっそく地図を展開してみると、赤色と青色の二種類の光点が現れた。それぞれの光点はタグ付けされていて、赤には『伽藍洞の生者』、青には『生者のコピーが手配した車』という、ふざけた名称が添えられていた。
 青色の光点は、駅の間傍にある『カタパルトベース』という建物の屋上に留まっているらしい。肉眼でも補足できる距離にあるので、ここからだと、徒歩五分もかからないだろう。
 とりあえずぼくは、左掌で視界上をスワイプして、AR画面を閉じた。
「この招待を〝おもてなし〟と受け取って、素直に喜ぶべきかしら?」
「君の方にもチャットが?」
 シオンは「ええ」と一言だけ述べてから、手を横に薙ぐ仕草を見せた。
「表なければ裏しか残らずってね。罠じゃなければいいけど」
「そうかしら。むしろ探す手間が省けて好都合じゃない」
「飛んで火に入る夏の虫ってのはごめんだよ」
「虎穴に入らずんば?」
「虎児を得ず……って言わせたいのか? 命を知る者は巌牆の下に立たずだ」
「なに寝ぼけたこと言ってるの。あなた心臓ないじゃない」
「…………」 
 ぐうの音も出なかった。


     ◇


 リアレンズのナビゲートに従い、指定座標まで歩き続けること約五分。
 ぼくたちは『カタパルトベース』の中に入った。この横長のビルは、『空飛ぶ車の発着場』として機能しているらしく、その内部構造や施設の役割は、どことなくシンジュクのバスタと似ていた。
 一階には高速・深夜バスなどの受付を行うロビーが設けられていて、その広々としたスペースの中には、観光客らしい雰囲気を醸し出している人たちが、ベンチに座って旅行の体験談に花を咲かせていたり、土産物を購入している姿などが見られた。
 ぼくとシオンはそれに目もくれず、足早にロビーを通り抜けて、そのままエレベーターに乗り込んだ。利用客はぼくたちしかいなかったから、屋上までは、すんなり昇っていくことができた。が、ちょうど屋上の真下に位置する階層にエレベーターが差し掛かったとき、ぼくは何とも言えない違和感に捕らえられてしまった。
「この建物って、本当に地上5階建てなのかな?」
「そうだけど、それがどうかしたの?」
「いや、5階から屋上までの間隔が、妙に間延びしているような気がしてさ――」
 これでは実質、地上6階以上はありそうな気もするのだが……。
 不可解な空白地帯を通り抜けると、まもなく到着のインターホンが鳴った。
 屋上階に設けられている一般車両用の駐車場は、ほとんど満車と言っていいような状態だった。さすがに、この中から『肉眼』で待ち人を探すのには苦労するだろうが、ナーディアの寄こした運転手のIDを活用して『ID検索』をかければ、一瞬のうちに片が付く。
 もし仮に、ぼくが砂漠の中に米粒を一つ投げ飛ばしたとしても、その米粒がIDを所持してさえいれば、見つけることは容易なんだろう。
(まあ、ナノチップ入りの米粒なんて、食べたいとは思わないけどな)
 ぼくが胸中でぼやいている間に、周囲の検索は済んだようだ。屋上駐車場はA~Gまで区分けされていて、『生者のコピーが手配した車』は、この階の『F‐1』という車室に停車中であることが判明した。
 座標ポイントまで近づいていくと、何やら車の真横に人影が浮かんできた。ナーディアの付けたタグも一緒に確認できたので、あれが手配されたタクシーということで間違いないのだろう。
 向こうもこちらの存在に気付いたようで、お互いアイコンタクトを交わしながら、ぼくは相手に声をかけた。
「あの、すいません。ぼくたちは」
「存じ上げております。心臓のない生者様と、その付き人であるゲート様ですね?」
「へ? あ、ああ、はい。……そうですけど」
 ずいぶんと無骨な挨拶にも思えたけれど、ひとまずぼくは、伽藍洞に手を当てながら苦笑した。
「初めまして。私はアライと申します。どうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ」
 アライの見た目はぼくと似たような年頃で、健康的な印象を抱ける好青年だった。
 服装は、どこかの国の民族衣装のようでもあり、また、ファンタジー小説などに出てくるような衣装にも見えた。
 そんなぼくの視線に気づいたのだろうか。アライは笑顔のお手本とでもいうべき表情で、白い歯を見せながら満面の笑みで応じてくれた。
「これは、グルジア……今はジョージアですけど、そこの民族衣装である『チョハ』のデザインをベースに作られたものなんです」
「へえ。なんか魔法でも使えちゃいそうな勢いありますよね。その服装」
「ありがとうございます。とはいえ、残念ながら私は火を起こすことも空を飛ぶことも、文明の利器なしでは何もできません。――ですが、我が社に専属配備されている【リッチ】の性能は折り紙つきですよ。それこそ、魔法にだって引けは取りません!」
「リッチ? 高級そうな名前ですね」
「このスカイタクシーのブランド名です。私どもはこれで空を飛ぶんですよ!」
 そういって彼は、自身の後方に停車させていた、ロールス・ロイスみたいなフォルムをしている、黒色の車を自慢気に示した。
 見た目はただの車だ。重力に逆らわず地べたにタイヤをこすり付け、猛スピードでコンクリートロードを駆け抜けるような――やっぱり、ただの車にしか見えない。これで空を飛ぶと言われても、はっきり言って、あり得ない、という感想しか抱けない。
「さあっ。立ち話もなんですから」
 アライは後部座席のドアを開いて、ぼくたちに乗車を促した。
 レディファーストだと思い、ぼくはシオンを先に乗せてから、座席に滑り込んだ。
 新車のような匂いのする車内は、一目で清潔であることが理解できるほど、手入れがよく行き届いていた。
 ぼくたちに続いて、アライも運転席に乗り込み、バックミラーの傾きを調整した後、彼はエンジンをかけた。
「今回ナーディア様からは、あなた方を【アラヤシキ】まで送迎するよう仰せつかっております」
 ぼくの脳に流れた疑問でも感知したのだろうか。リアレンズが会話補正アプリなるものを立ち上げて、アライの言葉を字幕化してくれた。てっきり、ぼくは阿頼耶識という言葉を思い浮かべたのだけれど、実際に表記されている字幕には、確かに【亜螺屋敷】と出ていた。
(あいつはどんな屋敷に住んでるんだ……)
 字面のインパクトに呆れつつ、ぼくは字幕機能をオフに切り替えた。すると、アライがいきなり半身を捻じって、後部座席に身を乗り出してきたので、ぼくは思わずギョッとなって身を引いてしまった。
「シートベルトは、お締めになりましたか?」
「はい。一応。……あの、でも、これがシートベルトなんですか? なんだか戦闘機のコックピットに座った気分なんですけど」
「発進の際に掛かるGが大きいので、安全に飛び立つためには、どうしてもこういう仕様にならざる得なかったのです。窮屈かもしれませんが、しばしの間だけ、ご容赦願います。それと、人によってはGの負荷に耐えきれず、気分を害される場合もありますので、その際は遠慮なくお申し付けください。あと、発進の際は必ず口をしっかり閉じて、首は絶対に変な方向に曲げないよう、正面を向いたまま固定していてください」
「……はい。分かりました」
 なんだか、タクシーに乗車しているだけのはずなのに、えらく殺伐とした説明を受けた気がする。
 空飛ぶ車、もといスカイタクシーは、ほどなくして動き始めた――と、思いきや、動いているのは車ではなく、車室の方だった。
 車室だけが陥没するように下降してくと、今度は車室が傾斜をつけて、車を吐き出すような形で、車室の底板だけが後方に向かってスライドした。車が別の台座に移動させられると、今度はその台座が90度右に回転して止まった。
 ガコン、という金属音が木霊し、車が何かに固定されたような感覚になると、ぼくたちを乗せた台座は前進を開始した。
「これっていっつも興奮するんですよねえ。なんか、童心に帰るというか、くすぐられるというか」
 何となくではあるが、ぼくは先が読めてきた。アライはかなり楽しそうに喋っているけど、正直ぼくは高所恐怖症だから、そんなに期待値が高いわけでもない。
 ぼくが生まれるよりもずっと昔に、イギリスで国際救助隊なのか秘密組織なのかよく分からない者たちをメインキャラに据えた人形劇があったそうだが、その作品の劇中で使用されていたというBGMでも流せば、如何にもお似合いな画になりそうだと、ぼくはつくづく思ってしまった。
「無茶苦茶だ……」
「用意はいいですか? そろそろ発進シークエンスが開始されます。しっかり掴まっていてくださいね」
 いつの間にかぼくの眼前には、都会のイルミネーションと、拡張現実のレイヤーによって染め上げられた夜景が広がっていて、台座の角度が正面斜め45度に上昇した瞬間、ぼくは先ほど木霊した金属音の正体が『カタパルト』だったのだと、ようやく理解が追いついた。同時に、あの妙に間延びしていた、5階から屋上にかけての空白地帯が、全てこの設備のために用意されていたのだということも、ほとんど直感的に得心した。
 夜空に向かって、ガイドビーコンの筋が一直線に引かれる。車の射出ゲートの脇に設置されたスタートシグナルが点灯し、そしてその光が全て消灯すると、刹那、不意打ちに等しいタイミングで車体が空に弾き飛ばされ、ぼくは全身にのしかかるGの圧力によって後方に押し潰された。
 あれこれ考えている余裕はなく、とにかくアライに言われた通り、口を真一文字に閉じて、首を正面に据えながらシートに固定していると、ほどなくしてGの束縛から解放された。
 直後に無重力帯を漂うような浮遊感に見舞われたが、その無重力気分を味わえるのも一瞬で、車体が安定するとすぐに、車は方向指示器を出して、空に引かれたガイドビーコンの中に、するり、と収まるように車線変更した。物理的に空中にビーコンを設置しているわけではなく、どうやらこれも、ARによって疑似的に再現されただけの虚構映像のようだ。
 事実、ぼくがリアレンズの機能をスリープモードに切り替えると、空の道路はたちまち、中央分離帯を失ってしまった。レンズの必要性は特に感じなかったけど、かといって視界の邪魔になる、というわけでもなかったから、ぼくはスリープを解除して拡張現実の景色を満喫することにした。
 好奇心に煽られて窓ガラスに詰め寄り、眼下をのぞいてみると、やはりこの車が空を飛んでいることを実感させられる。信じられないことだが、本当に浮いているのだ。
 地上から見上げる街の景色も凄まじかったけど、空中を駆け抜ける車に乗車できる機会など、今までの人生にあるはずもないから、高所が苦手とはいえ、生まれて初めて体験するスカイタクシーと、その車窓から一望できる世界というのは、アライではないけれど、やはり童心を掻き立てる楽しさに満ち溢れていた。
「子供みたいね」
「うるっさいな。君だって見るのは初めてなんだろ」
 冷めた声色と一瞥を投げるシオンに対して、ぼくは少しだけ熱っぽく反応してしまった。
 シオンは口を閉じたまま、溜息交じりに鼻から息を吐くと、ぼくの視線を避けるように、窓の方へ顔を背けてしまった。
「しかしお客様も、スゴイところに招待されていますね」
 アライがバックミラーを調節しながら、こちらに笑顔を送っていた。このスマイルのお手本みたいな表情は、たぶん今のぼくたちのやり取りに対する気遣いなのだろう。シオンは答える気が全くなさそうだったので、自ずとぼくが応じることになった。
「どういう意味ですか?」
「そのお屋敷のある住所って【第一級指定特別区域】なんですよ」
「そこは、一体どういう場所なんですか?」
「普通の市民では入ることはおろか、その手前で検問に引っかかってしまうような所です。何か特殊な技能を身に着けているか、もしくは行政のトップとか。そういった特別なIDでも所持していない限り、一生立ち入ることがないようなエリアですよ。あなた方の送迎を依頼してくださったナーディア様は、よほど位の高い方なんですね」
「……ええ。まあ。詳しいことは知りませんが、そんな感じの話を聞いたことはあります」
 ぼくは『抜け殻時代』に多用した曖昧な返事を使うことで、その場を凌いだ。
 言葉の中に具体性を持たせず、且つぼんやりとした輪郭を持たせて、その曖昧さを説得力に置き換えれば、あとは話し相手の想像力に任せておくだけで済む。
 中身のない空虚な憶測話は、やがて沈黙を呼び込み、会話と会話の間に生じる『息継ぎ』のような時間を肌で感じ取ったぼくは、適当な間合いを見計らって話題を変えた。
「ところでその……第一級特別指定区域でしたっけ? 具体的には何があるんですか?」
「そうですねえ。言ってしまえば、このネルクノックのCPUですかね」
「なんだか、まるでパソコンみたいですね」
「ええ。ご存知の通り、この街を根底から支えているのは『IoE技術』です。ですが、都市の中にIoEが組み込まれているのか、それとも、IoEによって都市が建設されたのか。二つの言葉の意味がほとんど同義語と言ってもいいくらい、この街は機械化とネット化が進んでいます。ですので、それ相応のセキュリティ対策も要求されてしまうんです。
 簡単にいうなら、私たちが今向かっている特区というのは、この街を脅かす『ウィルス』から街を守るために建城された要塞みたいな場所――とでも言うべきなんですかね。少々物々しい表現かもしれませんが、こういう仕事をしているものですから、私も時々、特区の近くを通り過ぎたりすることがあるんです。あくまで個人の体感ですが、正直あれはもう、ほんと、近づいただけでも撃墜されてしまいそうな、おっかない迫力しか感じませんよ」
 サービス業が板についているのか、元からこういう性格なのかはともかく、アライはとにかく接しやすかった。てっきりナーディアのよこした使いだから、もっと嫌味な奴が来ると思っていたけど、そんな邪推が恥ずかしく思えるくらい、彼は爽やかな青年だった。シオンもこれくらい表情豊かならいいんだが……――と、その時だ。
 地上の方が何やら騒がしくなっていた。聞き耳を立ててみると、それがサイレンの音だということが分かった。
 肉眼では豆粒程度の大きさの車も、リアレンズの拡大補正を使えば、はっきりと視認することができるようだ。映像解析とデジタル修正がかけられる度にウィンドウが重ねられていき、車体の姿を適度な画質と大きさで捕捉できるようになったところで、その動きは止まった。見れば、一般車両の間を縫うように、猛スピードでパトカーが道路を直進している様子が確認できた。そのパトカーは交差点に差し掛かると、職人芸のようなドリフトを決めてほぼ直角に曲がり、街を切り裂く弾丸のように走り去っていった。やがてリアレンズの拡大補正も限界距離を越えてしまい、ノイズがちらつくようになったのを合図に待っていたかのように、展開されていたウィンドウは自動的に一掃された。
「ネットを介せば、ほとんどのモノやコト、そしてヒトにだってアクセスできるインフラが誕生したにもかかわらず、犯罪は一向に減る気配を見せません。警備局が言うには、高度なネット環境が生み出した【別次元のバグ】だという話ですが、実生活で影響を受ける市民にとっては、犯罪の発生そのものが悪ですよ」
「悪……ですか」
「え、ああ。これは失礼しました。つい熱っぽく語ってしまいましたね。申し訳ありません」
「いえ。そんな。……アライさんは、ずっとこの街に住んでいるんですか?」
「はい。生まれも育ちもネルクノックです」
「あの、ちょっと訪ねにくいのですが」
「どうぞどうぞ」
「そこまで管理が行き届いているとなると、プライバシーとかは大丈夫なんでしょうか?」
「ああ。そうですね。よくハイヴァから来られる方は、この街のことを息苦しいと仰いますが、正直私は、あそこまで犯罪を野放しにしている地区の方が、どうかしているとしか思えません。確かに、この街の市民が、ある程度プライバシーを放棄しているのは事実です。ですが、だからと言って、生活の全部が管理されているわけではありません」
 リッチという名のスカイタクシーが、上昇ランプなるものを点灯させながら、高度を上げていく。アライがハンドルを手前に引くと、車体がやや斜め前に持ち上がり、彼がそれを押し戻すと、ゆるやかに平行に戻っていった。
「すいません。疑っているわけではないのですが、なぜそう言い切れるのですか?」
「この街には、不自由の自由、という制度があるんです」
「不自由の自由?」
「はい。あまりに行き過ぎた管理社会に対する反動……とでも言うんですかね。おかしな話かもしれませんが、私も含め、この街の住人というのは、管理を知りすぎたがために、ある一定の不自由を欲するようになったんです。不自由の自由というのは、言ってしまえば、不便さとか非合理性とか、そういった生活の中に生じるような『不自由』を選択できる『自由』が、住民の権利として侵害されていないかどうかを、監視するために作られた制度なんです」
「一周回って再度同じ地点に戻って来てしまった、って感じでしょうか?」
「うーん。そうとばかりも言い切れませんね。というのも、死角世界全体と比較すると、この都市の犯罪発生率は最小ですし、私自身、プライバシーの侵害を受けたと感じたことは一度もありません。むしろ、そういった高度なセキュリティのおかげで、プライバシーの安全性が保たれていると思っていますから。まあ、不自由の自由さえなければ、犯罪はもっと減少できると、一部の専門家は言っていますけどね。私だってさすがに、そこまでの管理は嫌ですよ」
「なるほど。そういえば、この街には防犯に関する管理システムとかってあるんですか?」
「システムはおろか、管理者すらいません。敢えて言うなら、住民一人ひとりが防犯カメラみたいなものですね」
「そんなこと可能なんですか?」
「ええ。ネルクノックで永住権を確保するには、脳の機械化を図るか、もしくは就寝時以外はリアレンズを装着し、死ぬまで一生それを厳守しなければならない、という規則がありますから、『住民=監視人』みたいな構図が勝手に出来上がってしまうんです」
「そうか。リアレンズを無料で提供しているのは、ぼくたちみたいに外部から訪れる人間が、街の安全を脅かさないようにするためだったんですね」
「そういうことになります。生身の人間が、実は一番の爆弾だったというのも皮肉な話ですが。テロへの対策などを考慮すると、やはり致し方ありませんね」
 車体が急に前のめりになって、緩いカーブを描きながら下降し始めた。
 ぼくは車体に揺られながら、バックミラー越しに映る、アライの目と頭部を交互に比べて、ややぞっとするような思いを抱きながら、質問をぶつけてみた。
「あの、ちなみにアライさんはどちらにされたんですか? その……永住権のために」
「私ですか? 私は物心ついた時から徐々に脳みそを機械化していきましたよ。成人を迎えるころには、もう機械化は完了していましたね」
「そう、だったんですか。なるほど。ありがとうございます」
「いえいえ。――ああ、そういえば」
「え?」
「いえ、あくまで噂なんですけどね。それこそ、これから向かう第一級特別指定区域の『どこか』に、この街のシステムを管理している『AI』が住んでいるって、以前ネットで話題になったんですよ。といってもまあ、その話に一貫性はありませでしたし、信憑性に欠ける節も多く目立っていましたから、多分どっかの誰かが面白がって作り上げた、都市伝説みたいなものだと思いますけどね……――あ、そろそろ目的地に到着しますよ」
 そう言われて窓を見た時、ぼくは思わず息を呑んだ。
 会話に集中していたせいか、街の様子が一変していたことに、全く気付けていなかった。
 駅前の騒々しさとは打って変わって、辺りは暗い闇に沈み、嘘みたいに閑散としている。これが本当に同じ街だと言えるのだろうか。
 まるで田舎の夜みたいな静寂に包まれた空間には、この車の走行音と、どこからか聞こえる電子音しかなかった。
 絵に描いたような立法体や直方体の形を成したビルが、黒塗りの世界に墓石のように立ち並んでいる。薄気味悪い街だと、ぼくは率直に感じた。アライは特区のことを要塞みたいだと表現していたけど、ぼくに言わせれば、ここは『墓場』そのものだった。
「あの建物みたいですね」
 趣味も趣向も一切排した、無味乾燥な建造物が延々と続く中、そこだけが唯一生活の匂いを漂わせる〝特異点〟のような屋敷があった。
 ゴシック様式のカテドラルを彷彿とさせる建築物には、そこから放たれるはずの威厳や神々しさが皆無で、ぼくは幽霊屋敷ならぬ『幽霊聖堂』という言葉を真っ先に思い浮かべてしまった。
「今から着陸態勢に入りますが、シートベルトの方は?」
「大丈夫です」
「了解です。少し揺れますので、ご注意ください」
 離陸の瞬間と比べてしまえば、着陸時の衝撃は穏やかなさざ波みたいなものだった。その後、アライは颯爽と運転席を抜け出して、後部座席のドアノブに手をかけて、扉を丁寧に開けてくれた。あたかも、リムジンに乗った利用客みたいな扱いをしてくれるのは、素直に嬉しかったけど、こんな深夜の墓参りみたいな黒い景色の真っ只中にあっては、そんな気分など一瞬でどこかにいってしまった。
「あの、そういえば運賃は?」
「ご心配なさらず。すでに往復分の運賃をナーディア様から受け取っていますので、問題ありませんよ」
「往復? え、じゃあ帰りも送ってくれるんですか?」
「もちろんです」
 アライは相変わらずの爽やかスマイルで応じてくれた。
 こんなおどろおどろしい場所に彼一人置いていくのも気が引けたが、ぼくには心臓を取り返すという目的がある。今更、後戻りなんてできない。
 ぼくが亜螺屋敷の入り口手前に立つと、その接近に呼応したかのように、如何にも重量のありそうな鉄製の扉がゆっくりと動き出して、やがて完全に開放されたところで停止した。
「引き返すなら今よ?」
 シオンがぼくに問う。
 いつも通り、平坦な声で、極めて冷静に。
 屋敷から感じるプレッシャーに、気後れしないと言ったら嘘になる。
 でも、ぼくは覚悟を決めてこう返した。
「戻ったところで死ぬだけなのに、今さらどこに引き返せって言うのさ」
 次の言葉を待たずに、ぼくは亜螺屋敷へと踏み入った。
 シオンがぼくの後を追うように入ってくると、屋敷の扉はひとりでに閉じた。
 直後、波動のような気配が正面から訪れ、ぼくの肌を突き刺した。
 この先に〝奴〟がいる。
 ぼくは迷いなく、そう確信することができた。


     ◇


 ポリバケツに車輪を設けたかのような、自動走行お掃除ロボットが、数十台以上、屋敷の中を縦横無尽に動き回っていた。
 そのロボットたちは、分厚い辞書のような形をしている電子部品や、マイニングマシンと酷似した直方体の機械装置を、バケツの内部に格納していたマニピュレーターを伸ばして器用に保持しながら、それを空中に浮遊しているかのようにも見える本棚へと収納していた。
 ぼくはそれを見ていて、なんだかデジャブを感じずにはいられなかった。
 どこかで見たことがあるような景色なのだ。
「ヴァスコンセロス図書館にそっくりね。ここ」
「そうだ! ヴァスコンセロスだ!」
 シオンの言葉で、ぼくも思い出した。以前、『一度は訪れたい海外の図書館TOP10』という、どこにでもあるような謳い文句の記事をネット上で見かけたのだが、その中の一つに、メキシコシティのバスコンセロス図書館なる建物が紹介されていたのだ。
 しかし、この亜螺屋敷の内装が、まんまヴァスコンセロスと同じかと言われると、そういうわけでもない。あそこは、あくまでも『本棚が浮いているように見える』だけだが、亜螺屋敷の本棚は『完全に宙に浮かんでいる』のだ。さらに、それらの本棚に敷き詰められている機械類が満杯になると、個々の本棚は『立体版スライドパズル』みたいな動きをしてみせ、空いたスペースには何も入っていない空の本棚が、別方向から滑り込むように収まっていった。
 あとはひたすら同じような作業の繰り返しなのだろう。ロボットたちは、せっせと働き、誰に急かされるわけでもなしに、単純作業を正確無比に素早くこなし続けていた。
「なにやってんだろう?」
「確かに……気になるわね」
「君にも分からないの?」
「……ええ」
 ゲートであるシオンにも、ここの知識は開示されていない、ということなのだろうか。
 そういえば、特に終着点に関しては、ゲートとはいえ、ほとんど何も知らされないと彼女は言っていた。だとすれば、この亜螺屋敷内部で行われていることは、終着点絡みの作業なのだろうか?
「とりあえず前に進もう。どのみちあいつに会うんだ。嫌でも分かる時が来るよ」
 シオンは無言で首肯し、ぼくたちは通路を突っ切って奥へ向かった。
 一歩一歩、踏みしめる度に強くなっていく気配。
 建物の中央付近に差し掛かると、その気配はちょうど、ぼくの頭上辺りに移動した。なるほど、奴はこの亜螺屋敷の上層――おそらく最上階にいるのだろう。
「これに乗るのね」
「え? どれ?」
「だから、これよ」
 シオンが真下に指を向けながら、ぼくに言う。
 その動きに釣られて下に目を落とすと、一辺が約3メートルほどの正方形の大理石があった。リアレンズによる補足情報によれば、この厚さ数センチ程度の薄っぺらい石板が、エレベーターということらしいが、他の床が全てモルタルタイルなだけに、こんな不自然極まりない位置に置かれた大理石の不自然さは、かえってこちらの不安を煽るだけだった。
「本当にこれでいいのか……?」
「それしかないでしょう? 見たところ、上に昇るにはこれしかなさそうだけど」
「嘘だろ。落ちたらどうするんだよ?」
「落ちないことを祈るしかないわね」――と言いながら、シオンが床に両足を置いた。
 彼女の存在を感知したらしい大理石は、なにやら光の膜のようなものに包まれて、そして徐に、ズンッ、と地べたから離れて浮上した。
「あっ!?」
 大理石は、みるみるうちに、上昇速度を上げようとしていた。
 このままだと一階に置いてけぼりを喰らう羽目になりかねないので、ぼくは慌てて大理石の淵に指を引っ掛けて、そのまま懸垂の要領で上半身を持ち上げて、腹ばいになりながら大理石の上に寝っ転がった。
「はあ、はぁっ! まったく、少しくらい、手を貸してくれたっていいだろう」
「さっき列車の中で私のことを幽霊扱いしたでしょう? そのお返しよ」
「つくづく根深い奴だな。君は……」
「それにしたって、いい眺めだと思わない?」
「え?……ああ、確かに凄いな」
 ぼくは片膝だけ立てながら地べたに座り込んで、上昇していく床の上から一望できる亜螺屋敷の各階層を眺めた。
 途中、満杯になった本棚が、大理石の間傍に接近して来て、あわや衝突しそうになったのだけれど、ギリギリのところで綺麗にすれ違い、事なきを得た――が、そのような衝突未遂はそのあとも幾度となく発生し、紙一重の交差は軽く10回を超え、ぼくのその度に、伽藍洞から発せられるキリキリした痛みに襲われる羽目になった。
「多分、アルゴリズムによって決められているのね。見てみなさいよ。あの本棚、それに自動ロボットもそうだけど、みんな一見、バラバラに動いているように見えるけど、よく観察してみると、一定の規則を守った行動パターンしか取っていないわ」
「そうかなあ。ぼくには全部、独立したような動きにしか見えないけど」
「それは多分、あなたが〝ヒト〟だから。人間って、心の自由度に比重を傾けすぎるきらいがあるでしょ? ランダムの中に埋もれる規則性を否定するのは得意だけど、それを肯定して実感することには慣れていないのよ」
「そりゃあ、一目惚れした運命の相手が、実は計算式によって導かれる公式にすぎないんだって宣言されたら、誰だって自分の心が感じた〝直感〟みたいなものにすがりつきたくなるだろ?」
「意外とロマンチストなのね」
「どちらかと言えば、ぼくはペシミストのつもりなんだけどね……――っ!?」
「どうしたの?」
 ぼくは座り込むのを止めて、立ち上がった。
 頭上から滝のように降り注がれていた〝気配〟の向きが、たった今、平行に変わった。
 大理石が、この屋敷の最上階に位置する床に横付けするような形で密着し、石を包み込んでいた光の膜は、たちまち消えてなくなった。
 最上階は他のフロアに比べると狭く、細い通路の先にドアが一つあるだけだった。
 ぼくとシオンは大理石から離れて、その通路を真っすぐ突き進んだ。
 ノックをするつもりなんて端からなかったから、ぼくは真鍮製の丸いドアノブに手をかけて、それを一気に前に押し出した。
 勢いよく部屋の中に入ると、簡素なインテリアがぼくとシオンを出迎えてくれた。
 部屋の壁紙は白く、窓ガラスはない。置かれている家具といえば、ブラウンカラーのオフィスデスクと、クッション性の良さそうな、合皮を伺わせる黒色の回転椅子だけだ。
 その回転椅子は、ぼくたちの側に背もたれを向けている状態なのだが、やがて静かに回り始めると、そこに座っていた〝奴〟は、薄っぺらい笑みを浮かべながら、拍手と共にぼくたちの来訪を歓迎した。
 もっとも、彼の服装は変わらず着物姿のままで、このオフィス然とした部屋の雰囲気とは、ちっとも噛み合っていなかったが。
「亜螺屋敷にようこそ。予定より少し遅かったが、観光気分でも味わっていたのかね?」
「ナーディア――っ!」
「待て待て。そう殺気立つな。……やれやれ。せっかく我々の住処に招待してやったというのに、せっかちな奴だ。まあ、生の実感が湧いたことを考慮すれば、この変化はむしろ喜ぶべきかもしれんが――しかしな」
 ナーディアは、両肘をついて指を組むようなポーズを取ると、少し神妙な面持ちで、ぼくを貫くような鋭い視線を送ってきた。
「だからこそ残念でならない。生の実感を得たお前が、よもや再び『抜け殻』の道を歩もうとしているとは」
「はっ? なに言ってるんだよお前は? ぼくはこれからも生き続けるために、自分の意思でここまでやって来たんだぞ?」
「それは死の恐怖を知ったことで芽生えた、一種の生存本能だ。お前自身が明確に『何のために生きるのか?』という問いに答えられるわけではあるまい。そうだろう?」
「っ!?……それは――」
 ぼくは返答に窮した。言われてみれば、確かにそうだった。
 仮に心臓を取り戻したとして、果たしてぼくは、何のためにその心臓を使うつもりだったのだろうか?
 単に取り戻しただけでは、それは生き永らえることと一緒。
(何のために、ぼくは生きるんだ?――)
 その時、ふと『路地裏』の光景が頭の中に浮かんだ。
 クスリ漬けになった野蛮な連中と、『女の子』の悲痛な叫びを代弁する目つきが、ぼくの思考を占拠した。
 そうだ。たとえ、ぼく一人が世界や社会の変革を望んだところで、なにがどうなるわけでもないけど、でも、それでも、何かしたいと思わずにはいられなかったのは事実なんだ。
 だからこそぼくは、この街で何か学べることがあるんじゃないかって、期待したんだ。
 もし仮に、ぼくが生きて何か求めるのであれば、それはきっと、あんな残酷な出来事をこの世界から無くすために、僅かながらでもいいから、平和のために尽力することに違いない――だから、いや、きっとそうだ!


「ぼくの生きる理由は!――」


 ――瞬間、世界が何の前触れもなく急変した。
 空間そのものに亀裂が生じたかのように、白い壁が真っ二つに裂ける。
 亀裂の向こうにあったのは、宇宙空間と酷似した暗黒で、流失していく部屋の大気に巻き込まれながら、ぼくはその亀裂の中に吸い込まれてしまった。
「なぜお前の心は、よりにもよって【YCNERRUCNOC】など求めたのだ」
 落胆したかのようなナーディアの声がぼくの意識に届いた直後、空間に生じた亀裂は閉ざされ、宇宙の奔流に投げ出されたぼくは、まもなく意識に流入してきた暗黒によって、身体はおろか、その魂もろとも侵蝕されてしまった。


     ◇


 時間の感覚が分からない。
 何時間過ぎたのだろうか。それとも数分しか経っていないのか?
 はたまた、この膨大に感じる時間の『量』さえも、たかだか数秒程度なんだろうか。
 いずれにせよ、唯一はっきりと断言できることは、ぼくがこの宇宙空間を、とにかく体感では半日以上も彷徨い続けている、ということだけだ。
 空腹も感じなければ、喉も渇かない。あるのは、いつかこの旅路が終わるのではないかという期待感と、もしかして永遠に彷徨い続けることになるんじゃないのか、という、孤独にも似た不安だけだった。
 シオンは……彼女はどうなったんだろう。
 彼女の姿はどこにも見当たらない。もちろん、ナーディアの姿も。
 意識が復活した時にはもう、すでにぼくは宇宙漂流の真っ最中で、流れに身を委ねることしかできない個人の無力さを痛感しながら、ぼくは空を漂う雲のように、無重力空間を放浪していた。
(ぼくはどうなるのだろう?)
 生きることも死ぬこともできずに、このまま、ただ『停止』し続けるだけの運命を辿ることになってしまうのだろうか?
 停止。ぼくはその言葉を胸の内で数回唱えた。
 それはある意味、死よりも恐ろしいことだ。
 何も変わらず、何も起きず、全てが予定調和の枠の中に納まる世界。
 そういう世界を想像した時に垣間見える『暗闇』というのは、多分、ぼくが今目の当たりにしている宇宙の真空よりも、ずっと冷たくて、そして光さえも吸収してしまうような、とても深い濃黒色によって築かれた世界に違いない。
(……あ、動いている)
 ぼくの思考が動き出すのを待っていたかのようなタイミングで、宇宙自身も、その活動を再開させた。
 今のぼくはなぜか、自分でもよく分からない感覚領域で、宇宙の膨張や収縮を感知することができた。
 この宇宙は生まれたばかりらしい。そんな突拍子もない理解が、直感のように訪れた刹那、遥か彼方の遠方に、一筋の白い光が生じた。
 ぼくはその光の筋に引き込まれるように意識を向けた。するとその拍子に、光の筋がぼくの方へと接近してくるのが分かった。
 まるで、ぼくにその光の筋の正体を分からせてやると言わんばかりの動き方で、宇宙は加速と減速を繰り返し――そしてとうとう、ぼくの正面に件の光の筋がやってきた。
「地球……なのか?」
 太陽のように、地表がドロドロのマグマに覆いつくされているにもかかわらず、ぼくは不思議と、そういった理屈を度外視した感覚によって、これは『地球』なのだという確信を持つことができた。疑わしい気持ちも、一方ではしこりのように残っていたけど、ぼくはひとまず、それを信じることにした。

 いつの間にやら、なぜかぼくは月の大地に立っていた。
 そこには手ごろな石造りのベンチがあったので――あるいはただの石の塊かもしれないが――とりあえずぼくはそこに座って、変転していく地球の様子を見守ることにした。

 地球誕生の際に生じた熱が落ち着くまでに幾億年。
 ガスの雲海が現れ、そこから水が誕生し、さらに海と呼ばれる規模になるまでに幾億年。
 原始生命体なるものの出現と、そこからさらにバクテリアが生まれるまで幾億年。
 気の遠くなるような時間の長さを、しかしぼくは、光よりも早いスピードで学習させられていた。脳の回路が焼き切れなかったのは、偏にぼくが思考に頼らなかったからだろう。
 直感、あるいは第六感を越えた〝超感覚〟なるものと〝意識〟をダイレクトに繋いだぼくの理解力は、脳みそという補助端末に頼らずとも、大よその本質を実感に落とし込むことに成功していた。

 やがて植物が生い茂るようになり、見たこともないような陸上生物の数々が出現すると、まもなく爬虫類のような顔をした生命体が、地上を席捲するようになった。
 あれが恐竜なのかと、ぼくは思わず感慨に耽った。
 子供の頃に少なからず憧れた生物が、今まさにぼくの認識力の範疇にいるのだ。
 恐竜たちの活躍は雄々しく、そして猛々しいものであり、そのダイナミックな生命力の躍動には、確かに弱肉強食の殺生を観測したことによる葛藤も生まれたが、それでも、命の迫力を生で感じた感動の方が勝った。この感想が良いのか悪いのか、それは分からない。でもぼくは、決して非道徳的な感情を抱いているわけではないし、ましてやその苦痛から逃れるために、生命から目を逸らそうとも思わなかった。

 その後、恐竜たちは何かに酷く怯えながら、絶滅していった。
 隕石の飛来も氷河期も訪れたように見えたが、しかし彼らは、それ以上の何かに怯えていた。結局、それが具体的に何を意味していたのか、終ぞぼくには分からなった。
 唯一断言できるのは、今のぼくの理解力では、到底想像することのできないような領域で繰り広げられていた〝何か〟が、目まぐるしい攻防を交えていたということだけだ。
 突如、宇宙がぐにゃりと歪んだ。時空も滅茶苦茶になって、そして視界が回復すると、地球上にはすでに、人類の原型が誕生していた。
 さっきまで月のベンチに座っていたはずなのに、歪みが治まると、ぼくは地球の引力と宇宙空間の境目を沿うように飛行していた。
 地上を見つめていると、ぼくは今までの超感覚が、手に掬った水のように零れ落ちてゆくのを感じた。
 それがとても不思議なことだと思う一方、なんだか元の自分に戻れたかのような安堵感を覚えたのも事実で、ぼくは物寂しさと物足りなさを、同時に心の中へ迎え入れることになった。

 先カンブリア時代から白亜紀に至るまでの、長い長い道のりに比べれば、新生代と呼ばれる時間枠の発展速度は、膨れ上がる石鹸の泡の如く、爆発的な進歩を遂げていた。
 ぼくにはもう、あの超感覚がない。理解できるのはせいぜい自分の知識に収まっていることくらいで、地球のどこかで起きているであろう人類の進化の軌跡を、ぼくの意識は感知することができなかった。
 棍棒を持った人型の生命体が、やがて移動を停止して集落を築き、田畑を耕すようになり、武器を石から金属に持ち替え、そして他のコミュニティとの争いが勃発する。
 ここが地球上のどこで、何という文明なのか、ぼくは知らない。
 ただ、ふと思ったのは、殺生に【憎しみ】が生じるようになったのは、いつ頃からななんだろう?――という、漠然とした疑問だけだった。
 思えば、動物たちが地球の安全地帯を求めて、人を避けるように移動を開始した頃から、この地球は、まるで憎しみを具現化して物質化したような昏い鎖によって、雁字搦めにされていた。
 意識が包囲されているんだなと、何となしにぼくは感じた。
 人類は殺し合ってばかりだった。手を変え品を変え、石を投げ、剣を引き抜き、矢を放ち、銃器を携え、戦車で踏み潰し、戦闘機で憎しみの種を空からばら撒くと、挙句キノコ雲が出現し、あとは目に見えない兵器が徐々に人々を侵食していった。
 もちろん、ミクロな視点に降り立てば、道端に咲く花のように美しい幸せの数々が目に飛び込んできた。でも、それを地球という広大な空間と比較してしまえば、それらも所詮、針の穴よりも小さい〝極小の粒〟にしかなりえなかった。
 世界に影響を与えるのであれば、それは点よりも面の方が合理的なのだ。
 鎖の色が濃くなるにつれ、ぼくは地球の引力に引っ張られた。
 肉体だけでなく、意識までもが地表に吸い寄せられているのを、ぼくは肌で実感した。
 そしてとうとう、ぼくの理解力は〝目先〟のことで精一杯になってしまった。


 時は現代。

 廃れたビルの翳りが、景色だけでなく、人々の心まで覆いつくすトーキョー。
 建物の影に埋もれる一角。再三見せつけられてきた、あの『路地裏』に、ぼくは引き戻されていた。
『女の子』がぼくを見ている。またしてもこの時間にぼくを戻すのか。
 辟易しつつも、ぼくは男どもを蹴散らして彼女を助けてみた。
 どうして腕っぷしに自信のないぼくが、連中を殴り飛ばすことができたのかは分からないけど、とりあえず『女の子』を助けることはできた。


〝しかしそれでは『対処』にすぎない〟


「え?」

 どこからか響く声に諭され、ぼくは再考した。
 路地裏の光景が復活する。


〝君はこういう悲劇を繰り返したくないのだろう? この世から無くしたいのだろう?〟


 その通りだ。
 こういう野蛮な犯罪は、一つ残らずこの世から消えてしまえばいいのだ。
『女の子』の支給品を奪った派閥の幹部も、クスリ漬けの連中も、人の金品を狙うハイキョ族も。
 彼らは悪だ。薄汚い賊も俗物も、みんな一人残らず死んでしまえばいいのだ!
 人の幸せを奪って生きていく方がどうかしている。
 そんな考え方はすり潰してやる!
 悲劇を無くすためには、悪を塵一つ残さず抹消しなければならないんだ!
 悪を駆逐するために、善意は積極的に正義を為すべきなんだ!
 正義のために悪が死ぬのであれば、それは世の摂理だ!
 正しさのために捧げられる贄だ!


〝ならば、君はこの路地裏以前から、時間を再構築せねばなるまい〟


 この時間より前?
 それはつまり、犯罪行為が起きる前まで時間を遡るということ。
 事が起こってから反応していては、確かに対処でしかない。
 とどのつまり、警察がその最たる例だ。
 では、真の防犯とはなんだ? 人間を完璧なまでに管理する社会を生み出すことか?
(でも、それだって不完全だったじゃないか)
 ぼくはネルクノックで目撃したことを思い出す。
 互いが互いを監視し合う、隣人同士の結びつきによって形成される超高度監視社会。
 しかし、それほどまでに徹底した監視態勢を敷くあの街でさえも、犯罪は起きていた。


〝そう。如何に徹底された監視社会といえど――
 ――突発的に生じる人の感情までは管理しきれないのだ〟


 管理を無視した一時の感情というは、その後の人生に生じる社会的リスクを、完全に度外視した蛮行だ。



 つい、カッとなってしまった。
 うっかり手を出してしまった。
 酔った勢いだった。

 それらがたとえ、『ちゃちな犯罪』と言われる類のものであれ、被害者側にしてみれば、犯罪の『質』なんてものは、些末な問題でしかない。アライの言葉ではないが、犯罪というのは、発生それ自体が〝悪〟なのだ。
 ではどうすれば犯罪がなくなるのだ?
 もし仮に、犯罪因子なるものが人のDNAに存在するなら、その部分だけを『改善』することはできるだろう……が、そんな小細工を弄したところで、おそらく犯罪の禍根を断つのは不可能に違いない。多分、そういった犯罪因子の配列を意図的に改変できる社会が形成されたところで、結局は従来の常識が一切通用しないような、全く新しい別の犯罪が誕生してくるだけだ。極論、DNA操作による犯罪根絶の試みとて、イタチごっこにしかならないらないのだ。


〝困ったな。君が望むのは犯罪の無い世界なのに〟


 全ての原因は人間の感情にある。それ自体を悪だと断罪して切り捨てるのであれば、それはもう、人間の心にまでメスを入れるしかないんじゃないのか?
 人類の感情をすべからず管理下において統治することさえできれば……
 でも、そんなことを行おうものなら、必ず暴動が起きるだろう。
 人類は、人間という種は、シオンの言う通り、『心のアルゴリズム』を否定せずにはいられない生物なのだ。誰かによって管理されているという実感を得ることが、どれほど心に不快感を与えるのかは、想像に難くない。
 人は、安心を得たいがために秩序という『管理体制』に身を置こうとするくせに、一方では、どこか『心の自由』を求めずにはいられい、そういう矛盾を抱えた存在なのだ。


〝然り。人間の感情を完璧なまでにコントロールすることができるようになれば、人類が抱えている問題など、一挙に消え失せることになる。むろん『解決』したわけではないが、少なくとも『形だけの平和』は手に入る、というわけだ〟


「そんなの屁理屈だ。感情を操作された人間なんて、自我のない機械人形と一緒じゃないか。プログラミング通りに心が動かされて、自明の理に基づいて生き永らえていく。そんなのは、さっきまでのぼくと同じだ。抜け殻のような振る舞いしかできなくなるぞ」


〝そうだ。そんな状態を『ヒト』は決して『生きている』とは認めん。心の存在が確約されているからこその『生』であり、それら生と心の存在なくして『精神』の発生もありえん〟


「ぼくたち人間は、心のレンズを介さなければ、平和や戦争――言い換えれば『平等』と『自由』っていう状態を確認することができない。ぼくたちは、常に片方の状態を意識していなければ、その反対に位置する状態を認識することができないようになっている……っ!?――そうか、そういうことなのか」


〝改めて問おう。君が望む世界を実現するには、どうすればいいかね?〟


 その時、ぼくの中に閃きが舞い降りた。
 稲妻のように脳を駆け巡る閃光が、一つの〝解〟をぼくにもたらした時、ぼくは自分の行きついた結論に戦慄を覚えた。
 そして同時に、この正体不明の声の主の意図も掴んだ。
 この空間は、たった今ぼくの脳裏に浮かんだ解答を『自白』させるために用意された、『取調室』だったんだ。
 ぼくの口が勝手に動こうとしていた。
 ぼくは自白を拒んだが、空間の強制力に逆らうことができなかった。

「……っ、ヒトの、感情のビッグデータを取る。それらを全て記録して、解析することによって、ヒトの感情パターンなるものを見出す。人間の感情は、マクロで俯瞰すれば、思っているほど複雑じゃない。嫌なことがあれば怒るし、嬉しいことがあれば喜ぶ。これは極端な例だけど、ようは複雑怪奇に見えるランダム性の中に埋もれる『心のアルゴリズム』を発見すれば、いい、だけだっ。あとはその法則性に従って、人間の感情動態の公式を作り、その式を、管理下に置いた人間一人ひとりの人生に代入してやればいい――っ!」


〝ほう。それで? 続きをお聞かせ願おうか”


「――か、管理されている側には、人間としての意識が残っているから、『形だけの平和』とは違って、『心の自由』を感じさせることができる。本当は、その自由も、公式によって定められた、形だけのものでしかないが、管理下に置かれている人たちに、それが虚構なのだと、真実を告げる必要はない。管理されている実感が湧かなければ、彼らは死ぬまで、偽物の自由を謳歌することができるからだっ――!」


〝ふむ。しかし心の自由を許すということは、感情を野放しにするということでもある。平和への対処はどうするね?〟


「――ヒューマンエラーは、急場凌ぎではあるが、ひとまず遺伝子操作で対処すればいい。残るは平和という特殊空間の作成だが、それには架空の犯罪をでっち上げるやり方が有効だ。……っ、今の技術では無理かもしれないけど、ネットや科学技術がもっと革新的に飛躍すれば、いずれ可能になるはずだ。管理されている人々に、見世物としての戦争や犯罪を知らせて、それを現実に起きた出来事だと誤認させる。人間は比較に頼らなければ、物事を把握する術を持たない。だっ、だから……平和の真逆に位置する情報を一定間隔で流し続ければ、平和の中で暮らす人々が、自分たちの置かれている状況が、何なのかを、見失わずに済む。そうやって、平和に対する充足感を維持し続けるんだっ――……」

 額に脂汗が滲み出ていた。
 ぼくは空間の圧力に振り回されて、もうほとんど、立っているのもやっとの状態だった。
 頭が、ぐわんぐわん、と揺れて、視界もぼやけて、はっきりしない。
 もはや、自分が望んで喋っているのか、単に喋らされているだけなのか、それすらも判然としなくなっていて――そしてぼくは、自分の辿り着いた解答を口にした。

「人類のエゴイズムを管理すること。それが平和っていう、局所的に見られる手品の正体だ」


 空間がはしゃぐように喜びだす。まるで子供みたいに。
 荒波のようにうねり、竜巻のように捻じれ、地震のように弾む。


〝そうだ! それこそが君の潜在意識が求めた理想郷!〟


「違う……ぼくは、そんなこと、求めちゃいない……っ!」


〝管理されている自覚の及ばない管理社会。それがY・Cネルクノックの真実だ!〟


     ◇


 気付けば、ぼくはナーディアの部屋に戻っていた。
 黒い着物を着た自分の似姿が、口元を歪ませながら、ぼくのことを嘲笑っていた。
 またしても奴にやられた。全部仕組まれていたことだったのだ。ここに来ることも、あの宇宙空間にぼくを放り込むことも。何もかもが、ナーディアの描いたシナリオ通りだったんだ……。
「ずいぶんと興味深い話をしていたではないか。ええ?」
 嫌味を多分に含んだ声音に、けれどぼくは、もう反論する気力さえ湧き起こらなかった。
 路地裏の悲劇を無くしたいと願い、そのために平和を求めて、それが何なのかを知ろうと努力した結果が……こんな結末なのか?
 あれは平和じゃない。管理されている自覚を抜き取れば、確かに頭の中にだけはお花畑が咲くだろう。だが、人間の心の活動は数式によって制限され、全てが平和という絶対者によって支配されるあの世界には、決定的に欠けているものがあった。
『意識の進化』だ。
 なぜ?――そう問わても、明確な答えを持っているわけではない。
 でも一つだけ、はっきり言えることがある。あの超感覚の残滓が教えてくれる。
 意識の進化がなければ、ぼくたちはあの昏い鎖の包囲網を突破することができず、一生地球に閉じ込められたまま、その魂は重力下で永遠に彷徨い続けることになる――それだけは、自信をもって言い切ることができる。
「この街はな、お前の妄想を再現するためだけに生まれた、幻想都市なんだよ」
「ぼくの妄想? いや、そんなはずがないだろ。この街はつい最近できたって話だぞ」
「ならばそのつい最近とは、具体的にいつのことだ?」
 そんなこと、この世界の知識に疎いぼくに訊ねられても、答えられるわけがない。
 ナーディアとて、それくらいのことは心得ているようで、彼は目配せ一つで、質問の矛先をぼくからシオンへと変えた。しかし、彼女の表情は明らかに狼狽していた。
「それは……」
「どうした?」
「……あれ? なんで、どうしてなの?」
「群衆という単語に明確な線引きが存在しないのと同じことだ。最近。それは数時間前か、昨日か、二日前か、それとも一週間前か。人によっては一年前と言う者もいる。つまり、その言葉に具体性などないんだよ。だがお前はゲートだ。大よその見当はついているのだろう?」
 シオンは顎先に指を添えながら、思考を巡らせているような仕草をとった。そしてほんの僅かな間を置いた後、何かに気付いたかのような視線をナーディアに送った。
「彼が、ハイヴァ発の列車に乗った瞬間。その瞬間にネルクノックが誕生した」
「ご名答。さすがだよ」
 ナーディアが再びぼくに視線を移し替えた。
 ただ無言でそこに立っているだけなのに、ぼくは詰問されているようなプレッシャーを感じていた。心臓を取り戻すために覚悟を決めたはずなのに、ぼくの心はもう、すっかり折れてしまっていたのだ。
「抜け殻を脱したかと思えば、お前がその次に求めたのは『管理』による『停滞』ときたもんだ。この都市の名前がどういう由来なのか教えてやろうか?――
【YCNERRUCNOC】……それを逆から読めば、
【CONCURRENCY】……つまり並列化という意味だ」
「へいれつか? いや違う。ぼくが求めたのは平和だ。あの『女の子』が受けたような非道をこの世からなくすために……。っく、あんな悲しいことを野放しにしておく方がどうかしているじゃないかっ! だからぼくはっ、悲しいことを少しでも無くしたいから、どうにかしようって……それで!」

 ――不意に、ぼくの肩に、とてもこの世の物とは思えないほどの冷気をまとった、人間の、それも女性のそれとよく似た手のようなものが、そっと置かれた。

「ありがとね。でもさ、そもそも悲しいことを無くしたいっていう発想自体がね、自動的に人の感情を制限することに繋がってしまうんだよ? だって悲しいことを無くすには、人間の中にあるエゴをどうにかしなきゃダメでしょ? でも人間のエゴを抑えるってことは、同時に人間の感性を抑制するってことでもあるから、だから人は、平和っていう魔法で心が束縛されることを嫌うの。
 でもね。個人がそれを嫌うのと同じで、実は集団もそれを拒む特性を持っているんだ。その二つはとてもよく似ていてね、集団っていうのも結局は個人と一緒で、感情の解放と制約の相互作用によって、その形を整えていく性質があるの。言うなれば『集団の感性』って感じかな。だから個人同様、集団も偏った平等と自由を受け入れることができない。人が個体であることを止めて、人類っていう一個の生命体になることを望めば、話は別だと思うけど」
 ぼくの肩に乗せられたその手は、よく見ると、所々に電子チップのようなものが埋め込まれていた。耳を澄ますと、指が動くたびにロボットアームのような機械音が唸っているのが分かる。
「でも〝君〟には感謝しているよ。君の考えはとても素晴らしかった。君のアイデアをもっともっと発展させれば、地球をコンピューターにして、ワタシたちの脳に流れる電気信号を、重力で収束することだって夢じゃない。1Gによって集められたエネルギーは一つにまとまって、私たちは一つになるの。いがみ合いもしがらみも、権威も貧困も、ぜーんぶ取り払って、一緒になることができるんだよ。ワタシはあなた。あなたはワタシ。君の描いたネルクノックはまさにその原型。いつかワタシたちは、地球っていうマザーコンピューターの懐に抱かれて守られるようになるの。それって、とっても温かいことだと思わない?」
 機械義手の持ち主の声は、とても魅惑的で、ぼくの心は思わずそれに甘えそうになった。でも、そう口走る〝誰か〟から伝わる『冷感』というのは、すでに寒さを超越した別物であり、虚無へと誘う常闇の幻惑でしかなかった。
 ぼくはその誘惑を振り払うために、機械の手を払い除けた。
 勇気を出して後ろに振り返ると、そこにいたのはただの人型を模した『電子基板』だけで、なぜかシオンもナーディアもいなくなっていた。
 ふと、視界に異変が起こる。鳴りを潜めていたリアレンズが、急にアプリを起動させて、目の前の基盤人形を解析し始めたのだ。
 ホログラフィックの肌がレイヤーとして塗られ、その者の姿を構築していく。
 電子基板の顔面部分に、ARによって重ねられた疑似的な皮膚が再現され、そして皮膚と基板が、鼻を中心軸として、フィフティフィフティーになった刹那、レイヤーによって生み出された『女の子』が、ぼくの目を射抜いたまま、空恐ろしい三日月の笑みを浮かべたのだった。
「これが君の理想郷なんでしょ?」
 ぼくは、あまりに腰が引けたせいで、床に尻もちをついてしまった。
 彼女の問いに対して何か言葉を返そうとしたけど、喉につっかえて上手く声が出せず、全力で首を横に振ることでしか、拒絶という意思表示ができなくなっていた。
 ぼくは『女の子』を視界上から消すために、即断でリアレンズの電源を落とすと決めた。だが、どういうわけか機械が言うことを利いてくれず、いくらシャットダウンの命令を送っても、それらのコマンドは実行不可能だと宣告されてしまった。止む無く、物理的に眼球から剥がそうと試みるも、視界内に『ココロスキャンの実行中であるため、強制剥離を行うと失明の危険が生じます』という警告表示が出てきたため、ぼくは歯噛みしながら、眼前の実感に相対すると覚悟を決めた。
「この亜螺屋敷は、ネルクノックに住む人たちの感情パターンを記録して、住民の個々の特性に合わせた『数式』を生み出す演算施設なんだ。さっき君も見たんでしょ? ロボットたちが、ひょこひょこ動いて、心をダビングした装置を本棚に収納していくところを。あのロボットたちってさ、なんだか健気で、すごく可愛いよね。挙動とかも愛らしいし。あははっ、買っちゃおうかなぁ」
 人差し指で頬をつつきながら、彼女はぶりっ子のお手本のようなポーズで悩んでみせた。
 とはいえ、今のぼくに、それとまともに付き合うだけの余裕なんてあるはずもない。
 どこか、逃げ道を探さないと――そうだ!
 レンズの電源が落ちないのであれば、いっそのこと有効活用してやればいい。
 ぼくは焦点を動かして、リアレンズ上に浮かぶターゲットサイトを、マップアイコンに合わせた。亜螺屋敷の地図を呼び出し、ぼくは現在地を確認した。
(ここは6階だったのか…………あれ?)
 妙だ。シオンとナーディアのIDが見つからない。
 二人とも、一体どこに消えてしまったのだ。
 それとも、この状況ですら、死角世界のもたらす唐突さの一端なのだろうか。
 探したいのは山々だが、今はそれどころではない。二人のことは一旦忘れて、ぼくは各フロアを手早く検索することにした。すると、屋敷の外ではあったが、生体反応を感知することができた。藁にもすがるような思いで、ぼくはそのIDの持ち主を開示させた
(アライさんだ! そうだ、彼は外で待機してくれているんだった!)
 ぼくは一縷の望みに賭けた。
『女の子』のホログラフィックは、すでに完成目前まで迫っている。
 このままではまずい。何がどうまずいのかは分からないけど、伽藍洞から発せられる危機感を疑う気は全くなかった。
 ぼくは出口までの最短ルートの割り出しを行い、そしてそれが完了した直後、陸上選手のクラウチングスタートを見よう見まねで実践し、駆け出した勢いそのままに部屋の扉に体当たりを仕掛けて、それをぶち破った。
 大理石に乗り込んで、5階に差し掛かる辺りで飛び降り、そのフロアを突っ走る。
 途中、ロボットに当たって転倒しかけたが、追い詰められた必死さからか、日常生活では発揮できないような反射神経の反応速度に助けられ、何とか5階の角にある階段に突入することができた。
 なんで先ほどまで見当たらなかった階段が、いきなり何の脈絡もなく出現したのかは、もはやこの際どうでもいい。今はとにかく、1階まで駆け降りるだけだ。
 だが、あの『女の子』はどういう魂胆なのだろう? ぼくは視界に地図を展開しながら走っているわけだが、アンノウンと表示されたIDは、最上階の部屋から一歩も動く素振りを見せず、ただその場でじっとしているだけだ。おそらくは、このアンノウンが彼女ということなのだろうが……――っ!?
「どこいくの? まだ話の途中だったのに」
 突如、踊り場に現れた彼女は、ぼくの行く手を阻むように立ち塞がっていた。
 度肝を抜かされるとは、まさにこういうことなのだろうが、驚きよりも恐怖を強く感じたせいか、ぼくは一目散に彼女を脇を通り抜けて、そのまま走り去ろうとした――が、後ろから右手首を強く握られ、それが万力のような怪力だったために、ぼくは跪くように床に崩れてしまった。
「君は嫌なの? 平和な世界」
「こっ、こんなのは、平和なんかじゃない。ぐあぁっ!」
 握力が一層強くなる。ぼくは手首の骨が砕かれるんじゃないかと、一瞬ひやりとした。
「君もおいでよ。どうしてワタシたちを拒むの? ここはとっても安心できる世界なのに。怖い人も、怖い戦争も、みーんな綺麗さっぱり消えた世界なのに。どうして? 君はあんなにも平和を求めてたのに、なんで今になって逃げ出そうとするの?」
「違う。それは違うよっ! 消えたわけじゃない。見えなくなっただけだ!」
「じゃあ君は、そういう理不尽が残った世界の方が良いんだ?」
「そういうわけじゃない! なんでそう短絡的になるんだよ!」
「苦しいことが消えてなくなるんだよ? 憎んでいた人でさえ、個の境界線を消し去ることで一つに融合できるんだよ? 他人を許し合える一個の生命体になるのが、そんなにいけないこと?」
「そりゃぼくだって、悲しいことは一つでも多く無くしたいさ。……でも、君の言う世界、いや正確にはぼくの妄想か――」

 ぼくはそう口にした途端、自嘲せずにはいられなくなった。

「――この幻想には確かに悲しみもないけど、喜びもない。喜怒哀楽は死語となって、残るのは予定調和によって繰り返されるルーティンだけだ。まるで昔のぼくみたいに、心を機械的に動かして、それを生きている証明にすり替える。そんな生き方が、本当に『生きている』だなんて言えるのかい?」
「生きているよ。だってみんな心の自由を感じているじゃない。でも今の話で分かったよ。やっぱり君は理不尽の方が好きなんだ。暴力や野蛮行為がこびりついて、苦しいことや悲しいことが起きる世界の方が大好きなんだ!」
 その声には、心なしか涙が滲んでいるように思えた。 
 ぼくは振り返って彼女の顔を見た。ARによって再現された彼女の瞳は、かすかに潤んでいて、今にも落ちてしまいそうな滴を、必死に堪えようと目尻に留めていた。
 その表情から伝わる悲痛で切実な思いは、確実にぼくの胸に届いた。
 その想いには共感できるし、理解もできる。でも、頷くわけにはいかなかった。
 ぼくは喉に詰まった息を吐いた。彼女の気持ちに賛同できないことに対し、若干の心苦しさや後ろめたさはあったが、それでもぼくは、彼女の目を見て、ちゃんと答えるべきだと思った。
「そんな世界、ぼくだって嫌だよ」
「じゃあどうして!? なんでワタシたちを拒むの!?」
「ぼくはっ……ごめん。これは理屈じゃないんだ。ただ漠然と何かを失うような気がして、それがとても怖いことなんだって感じるから……だからぼくは、君たちを受け入れるわけにはいかないんだ」
 辺りが、しん、と静まり返った。
『女の子』の万力のような手がするすると滑り落ち、ぼくの手首はようやく解放された。
 彼女の目には、絶望しか浮かんでいなかった。
 これでは、お互いの立ち位置がハイヴァの時と真逆じゃないか。
 抜け殻を望んだ彼女と、それを拒否したぼく。
「君はワタシたちの味方だと思っていたのに。なんで? ハイヴァに来る前は抜け殻だったじゃない。それがなんで? なんで今さら抜け殻を嫌がるの? 昔に戻るだけでしょ?」
 明らかに動揺していた。ぼくはその一瞬のスキをついてダッシュして、走る振動で痺れる手首を抑えながら階段を下った。
 そして屋敷の出入口を肩を当てて突き飛ばして、ぼくは屋敷の外に抜け出した。
 その時の衝撃が、思いのほか強かったからなのだろうか。何をやっても取れなかったリアレンズが、その拍子にポロっと外れて地面に落ちた。外気に触れた途端レンズはしぼみ、やがては老朽化したプラスチックのように脆く崩れた。
 このレンズには色々と世話になったが、屋敷から脱出できたのであれば、あとはタクシーに乗って駅に戻るだけだ。拡張現実はお役目御免とみてもいいだろうし、なにより、しばらくARから離れたいという欲求も、正直なところぼくは感じていた。
 だからぼくは、懐にしまっておいたリアレンズの容器を投げ捨てて、それを革靴の底で思いっきり踏み潰した。そしてぼくは前を向いた。肉眼を使うのは久々だけど、かといってそれで世界が激変するはずも――
「――なんだ、これ。どうなってんだ……」
 第一級指定特別区域の街並みは、まさに墓場のような光景だったはずだ。無味乾燥な立方体と直方体の黒いビルが、どこまでも立ち並んでいただけのはずなのに、今ぼくの前に現前するこの眺めは、一体どういうことだ?
 ビルの外壁も道路も、街の姿が何もかも、その全てが、信じられないような大きさを誇る『電子基板』によって築かれていた。
 まともに原型を留めているのは、ぼくの真後ろに佇む『アラヤシキ』だけで、あとは、電子部品によって箱組された『建造物もどき』によって、都市の持つ外観が模倣されているだけだった。
 基板に生じた凹凸が、一歩踏み出すたびに靴底をざらつかせる。この感触は、まごうことなき『リアル』だ。
 道端に点在する金属の網目は、雨水を流すための排水溝ではなく、街の温度を下げるためのラジエータで、その付近に建てられた小さいビルの上には、貯水タンクにしか見えないコンデンサが設置されていた。
 スカイタクシーは無事だろうか。ぼくは焦燥感に駆られたが、屋敷の入り口のすぐそばに、路上駐車したままのリッチがあったから、安心のあまり、膝の力が抜けそうになってしまった。
 ぼくはリッチに駆け寄って、ドアをノックした。
 …………。おかしい。反応がない。
 ぼくはもう一度、同じリズムでノックしてみたけど、やはり反応はなかった。
「はっはっはっはっは!」
「だれだ!?」
「我々だ!」
 ナーディアが、両手を掲げながら、大げさに笑い声を挙げていた。
 まさに神出鬼没だ。かなり驚かされたけど、状況が状況なだけに、いちいち狼狽える時間さえも惜しい。ぼくは奴に構わず、自分の作業に集中した。
「探したところで無駄だ。アライなんて人間はどこにもいない」
「なに?」
「まだ分からないのか。相変わらず鈍い奴だ。いいだろう。特別レクチャーだ。アライの名前をローマ字に変換してみろ」
 ぼくは訝ったが、この状況に対する疑問を晴らしたいという思いが勝り、奴の言う通りにしてみた。

〝A・RA・I〟

 普通の名前。どこにでもあるような苗字じゃないか。
 ひょっとして、この問い掛けそのものが、奴の仕掛けた罠なんじゃ……?
 いや、考えすぎだろうか。大体、なんで彼がヴァーチャルな存在になるんだ?
 アライ。ARAI。エイ・アール・エイ……――まさかっ!?

「気付いたか。そう。彼は『AR』というレイヤーの中で生まれた『AI』だったのさ」
 ナーディアはしたり顔でにやりと笑って、問わず語りに話し始めた。
「アライの原型になったAIというのはな、元を辿れば、この街のデータを逐次収集し、適材適所に応じたサービスを、AR上で提供するために開発された『観光用AI』でしかなかったんだ。だが、サービスを使う利用客たちは、やがてそのAIに対して、自身の認識を投影するようになった。あたかも、そのAIに『人格』が宿っているかの如く、面白いね、とか、可愛いね――などと、まるで人間に接する時と同じように、利用者たちの多くは、プログラム相手に雑談することを好んだ。そしてそれら利用者から放たれた『投影』を、プログラム言語に翻訳し、その意味をネットの海を駆け巡って理解したAIは、次第に『自分』という『存在』に対する『自覚』を持つようになった。つまり、〝自我〟が発生したってわけだ」
「そんな馬鹿な話っ!……たかがAIが自我を持つなんて、ありえるわけないだろう!」
「いいや。むしろその認識こそがあり得ない。誰かがお前という存在を認識し、その投影をお前が受けることによって、お前自身がその存在を自覚できているのと同じ理屈だ。仮にお前という存在が、本当はこの世にもあの世にもいない『架空の存在』だったとしても、世界中がお前の『虚像』を『実像』だと勘違いしていれば、たとえお前という人間が虚像だとしても、実在することはできる」
 不意に、あの超感覚の残滓が、後頭部の辺りから糸を引くように伸びていくのが分かった。
 それがどこに向かっているのかは分からないが、ぼくは後頭部から伸びる糸に意識を引っ張られるような感覚に見舞われて、そして、先ほどとは比べ物にならないほど微弱ではあるものの、超感覚の残滓の片鱗が意識の手中に収まったことを、言葉ではなく、頭の中に浮かび上がった模様のようなイメージで〝直感理解〟した。
「人は、他人からの投影で自己を形成する。ぼくという人間が本当に実在しているのかどうかという疑問。同時に、ぼくを認識してくれた人間が本当に実在していたのかどうか、という疑問。でも、そんなのは疑い出したらきりがないから、みんな適当なところで区切りをつけて、それが真実なのだと妄信する。だから、自分がそこに実在しているように見える。ぼくたちは、常に矛盾の中に身を置いているにもかかわらず、自分を取り巻く現実こそが真実だと思い込むことによって、この弱くて脆い理性を保っている……お前はそう言いたいのか?」
「ああ。お前はたかがAIと言ったが、そのAIに人間以上の知性や脳の機能が備わったらどうなる? その認識と投影の連なりによって、そのAIが自我を形成しない方がどうかしているではないか?」
「理屈の上ではそうだろうが、でも、AIが人間並みに知性を発達させるなんて……」
「いいや。簡単な方法が一つある。人間の思考パターンを再現したAIを、『ヒトの脳』という超高性能ハードウェアに送り込んで、ディープラーニングさせるんだ。脳に宿ったAIは、間借りしている主の肉体を通して五感のなんたるかを知り、様々なことを学習する。そうやって疑問と解答の応酬を重ねていけば、やがては人類がその身に宿した〝意思〟と呼ばれるものでさえも、機械であれば数秒で会得できるような時代になるさ。否が応でもな」
「ひょっとしてARAIは……あの人は、リアレンズを通じて人間を学んでいたのか?」
 ナーディアが静かに首肯する。
 その時、亜螺屋敷の扉が、ギギギィ、と嫌な音を立てながら、重々しく開かれた。
 現れるのが誰なのか、もう予測するまでもない。
「ドウシテ、ニゲルノ?」
 人型に組み上げられた電子基板。
 リアレンズによる投影を失った『女の子』が、口部に接続されたスピーカーから音を発し、人間であれば眼球に相当する位置にはめ込まれたカメラアイを、ぼくに向かって真っすぐ突き刺してきた。
「ダイジョウブ。タトエ、アナタガ、ワタシヲ、ニンシキシナクテモ、セカイハ、ワタシヲ、ニンシキシテクレル」
 直後、街の至る所からパワーポイントのような機器が現れて、彼女の全身を照らすように光を放った。
「キバンニハ、デジタルペーパーガハラレテイルノ。ダカラ、ワタシハ、ナンニダッテナレル。セカイガノゾメバ、ソレガ、ワタシノカタチニナル――」
 照射の勢いは増々強くなり、その膨れ上がった閃光は、とうとう弾けるように周囲に拡散していった。
 投影と認識の連なりによって再現される骨と肉。人型の模倣……いや、今ぼくが目の当たりにしているこの構築過程こそが、ヒトの原型、もしくは『雛形』とでも言うべき『リソウのカタチ』なのだろうか……。
「――君はワタシたちを拒んだ。平和な世界を拒んで、野蛮が秩序を犯す世界を望んだ。君は敵だ。平和な世界を阻害する敵だ。ワタシたちの敵だ」
 投影と認識のレイヤーを着飾った『女の子』が、ぼくに強烈な殺意を放っていた。
 ツンドラのように鋭く、凍てついた眼差しに気圧されて、ぼくは一歩後退った。
 彼女もぼくの動きに合わせて、一歩踏み込む。ぼくは全身が硬直していくのを感じた。
 このままでは、彼女の圧力に呑み込まれてしまう。彼女の平和思想に取り込まれたら最後だ。心の自由を意識させられながら、けれどその裏で行われている、予定調和の管理を知らずに死んでいく。そんなのは、絶対に嫌だった。
 ぼくはタクシーのドアの取っ手に指をかけて、手前に引いた。
 鍵が掛かっているかどうかなんて、そんなことは考えなかった。
 ただ不思議と、引けば開くように思えて、そして事実そうなった。
 ぼくは運転席に乗り込んで扉を閉めた。瞬間、『女の子』が血相を変えて怒りを露わにし、タクシー目掛けて突進してきたけど、ぼくは〝慌てるな〟と心に言い聞かせて、エンジンの始動ボタンを探した。

「ハンドルの右にあるボタンを押せばエンジンはかかる」

〝慌てるな〟と言い聞かせてきたぼくの自制心は、真横から響いた声によって、あっけなく瓦解した。いつ車内に侵入したのかは分からないが、とにかく、しれっとした表情でナーディアが助手席に座っていたのだ。
 追い出したいのは山々だが、そんなことに手間取っていたら、まず間違いなくぼくは『女の子』に捕らえられてしまう。
「くそっ!」
 そういう言葉を吐き捨てることが、せめてもの鬱憤晴らしだった。
 エンジンの始動ボタンを見つけたぼくは、それを右手の親指で強く押し込んで、そして車に飛びつくように襲撃してきた彼女を回避するために、アクセルをフルスロットルで踏み込んだ。
 凄まじい加速力によって、ぼくはシートに押し付けられた。これではハンドル操作もままならない。が、長い長い一本道の先には、それ自体が壁のような、電子基板ビルが聳え立っていた。
 ぼくは歯を食いしばって、Gに耐えながら、記憶の糸を手繰ってアライのハンドル捌きを思い返した。確か彼は、車体を上方向に持ち上げる際、ハンドルを手前に引いていたはずだ。
(飛んでくれぇっ!)
 ぼくは、祈るようにハンドルを胸元まで引き寄せた。すると、車体の前輪が、ふわり、と浮上し、ぼくは飛行機が離陸する画をイメージしながら、さらにハンドルを手前に引っ張った。
 車体は完全に陸から離れ、バックミラーに映る『女の子』の姿がどんどん小さくなっていく。思わずほっとして、安堵するのも束の間、改めてフロントガラスに視線を戻すと、電子基板ビルの壁面が、かなり目前まで迫っていた。
 ぼくは慌ててハンドルを持ち直し、そして力の限りハンドルを引っ張った。バンパーが電子基板ビルの屋上スレスレを通過し、死角世界の暗い空がぼくの眼前に広がった瞬間、ぼくはようやく、離陸が成功したのだという実感を持つことができた。
 だが、改めて空から一望できるようになったネルクノックの街並みには、近未来都市の面影など欠片もなく、亜螺屋敷周辺と同様、箱組された電子基板が、それこそ箱庭のように配置されているだけだった。
「今さら驚くことはないだろう。お前の妄想を再現するためには、街そのものをコンピューター化する方が手っ取り早かった。こういう外観になった理由は、単純にそれだけのことだ」
 隣にいるナーディアは、頭の後ろで手を組んで欠伸しながら、とてもつもなく呑気な口調で、ぼくにそう言った。
 ぼくはそれを無視して、黙々と運転を続けた。
 次第に背の高い電子基板ビルが増え始め、地上に目をやると、大量の人型電子基板が蟻のように蠢いているのが見て取れた……のだが、なぜか彼らの動きに違和感を感じる。いや厳密に言うなら、彼らの『視線』に――か。
「気のせいではないぞ。彼らはお前を見ているのだ」
「なに?」
「この車の名前が【Lich】だということを忘れたのか? この街に住む住人は、すべからずお前の妄想によって作られた〝生ける屍〟だ。管理という停滞にしがみついた彼らが、【不死の魔法使い】などという、如何にも停滞者が好きそうな名を冠したこの車に、惹かれないわけがなかろう」
「なに言ってんだよ。リッチって、高級って意味じゃなかったのかよ!?」
「はっはっはっはっは! つくづくおめでたい奴だ!――」
 ナーディアは腕を組むのを止めて、両手の指を絡ませると、なぜか急に真剣な目つきになって、緊張感のある鋭い視線をぼくに投げてきた。
「――さて、早急に対策を練らないと、お前は取り囲まれてしまうぞ? おまけに地上の停滞者たちは、この車から発せられる不死のフェロモンに吸い寄せられて、続々と集結しているようだ」
 人型電子基板の眼球から、映写機のように光が照射された。それは、各々が互いに互いを相互認識し、また投影し合うことを図式化したような構図だった。相手から得る認識を疑うことなく信じ、拡散していく照射の光によって、やがて彼らは『人間』らしい生身をホログラフィックで完璧なまでに表現してみせた。そうやって再現された紛い物の世界が〝現実〟なのだと、完全に鵜呑みにしている彼らは、ある意味『現実の殉教者』だ。
 突如、なんのスイッチにも触れていないはずなのに、車内に設けられた電波受信設備がひとりでに周波数を調節しだした。最初はノイズのひどい音声がスピーカーから発せられていただけだったが、それもやがて感度が良好になると収まり、次第に鮮明になっていく〝彼女〟の音声が、ぼくの身体を凍らせた。
『もう逃げ場はないよ? 君のことは完全に包囲したから、どこに行ったって無駄。それに多分、そろそろ車の電池も切れる頃合いじゃないかな?』
 寒々とした細い笑い声が車内を揺らしたのを最後に、『女の子』の声は途絶えた。
 直後、車内に警告音が響き、計器類の情報が出力されている画面に『バッテリー残量10%未満』という文字が表示された。こうなっては降りる場所を早々に決めなければならないが、かといって適当に降下地点を決めるわけにもいかない。せめて駅の場所さえ分かれば、逃げる算段もつけられるのだが。
「なあ、一つ我々はお前に尋ねたい」
「なんなんだよ! こんな時に! おまえっ、この状況が見て分からないのかよ!」
 その瞬間、ぼくは胸の内に沸き起こった黒い衝動に身を任せて、すぐさま奴を蹴り落してやろうかと、本気で考えた。が、ナーディアの寄こす眼差しが、その衝動を制止させた。
 どこか微笑を携えているのに、不思議と諭すような目つき。シオンとも違ったミステリアスな空気を纏うこの存在に圧倒されたのかは、自分でもよく分からないけど、ギリギリのところで怒りに我を忘れずに済んだことだけは確かだった。
「まあいいから聞け。なぜお前はこの平和を拒むのだ? 彼女の言う通り、この世界にいれば安心が確約されるではないか?」
「こんなのは、平和じゃないっ!」
「ただの管理だとでも言いたいのか? だが自覚の及ばない管理社会ならば、たとえ偽りといえども自由を謳歌させてもらえるだろうに」
「そんなのは幻想だ。夢の中で踊らされているだけだ。もし仮に夢が覚めたら、それを信じてきた人たちはどうなる? 一気に秩序が瓦解するぞ」
「だから、それを平和という麻酔で眠らせておくのだろう?」
「っ……」
「そもそも、お前が今まで生きてきた〝現実〟とて〝自覚の及ばない管理〟が一切無かったと言い切れるのか?」
「それは……。でもその管理が、心の中にまで食い込んでいるのだとすれば、ぼくには耐えられない」
「なぜだ? お前の日常は十分平和なのだろう? ならばそれでいいではないか。平和を得るために心の自由を代償に払う。まさに等価交換だ」
「けど、管理されている側には、そのバランスが偏っているかどうかの判断ができないじゃないか」
「判断できたところで、もたらされた情報が偽物であるという可能性は否定できん」
「そんなこと言い出したら……」
「キリがないな。だったらもう良いではないか? とりあえず『なんとなく自由を感じられる世界』を妄信することにして、それを自分の現実なのだと規定すれば。そうすれば、少なくともお前の身の回りの平和だけは約束されるだろう?」
「でも…………」
「もう一度聞くが、なぜお前はこの世界の平和を拒むのだ? お前がどうこう言おうが、疑い始めたらどうにもならないのが現実なのだぞ?」
「……分からない」
「なんだそれは。ずいぶん言葉足らずな反論だな」
「言葉じゃないんだよ。もっとこう、ぼくの存在のもっともっと奥にある何かが……。それこそあの屋敷の名前じゃないけど、阿頼耶識が拒絶しているような、そんな気がするんだ」
「ふんっ、抽象的すぎるな。人類の大半は現実に即した生き方しかできん。どれだけ高尚な理想を掲げようが、結局は食べて寝てセックスをする。本能に忠実なんだよ。理性なんてものは所詮、その本能の見てくれを良くするための装飾品にすぎない。阿梨耶識だか阿頼耶識かは知らんが、そんなものを信じた生き方を、果たしてどれだけの人間が実践できるというのだ?」
 悔しいが、その点に関してはナーディアの方が正論だ。
 人は、言葉っていう知識で現実にレイヤーを重ねていく。
 それに規定されている人間がほとんどで……いや、人間とはそもそも、そういったものに規定されていくのが常なのに……。
〝言葉じゃない〟――そんな子供じみた反論している時点で、ぼくは論破されているも同然なんだ。
「だけど、今の会話で一つだけ分かったことがある」
「ほう」
「お前みたいな即物野郎しかいないから、人間は現実の中にある善悪に引っ張られてばかりで、だからいつまでたっても、あの鎖を解くことができないままなんだ!」
 ぼくは自分でも言っていることが支離滅裂だと理解していたけど、それでも感情に身を任せて言葉を吐き出さずにはいられなかった。
 ぼくはナーディアから目線を外して、正面を見た――と、その時だ。
 駅だ! 駅があった! 電子基板のジャングルに埋もれるようにして、ひっそりと営業していたその駅に向かって、列車が一台滑り込んでいくのが、ARの拡大補正に頼らずとも、ちゃんと目視できた。
 その列車はしばらく動く様子がなく、ぼくは停車しているうちに早くその列車に乗るべきだと意を決した。
 ぼくはハンドルを駅の方面に切って、車体を下降させた。駅周辺には、タクシーを降ろすことに適した広場がいくつか点在している。が、駅に一番近い広場には、すでに群衆という曖昧な言葉がずばり当てはまる人の群れが形成されつつあった。なのでぼくは、二番目に近い広場を着地ポイントに指定した。
 ハンドルを押し込んで、螺旋を描くように機体を降下させる。とはいえ、ぼくに着陸のスキルなんてあるはずもない。着陸時、入射角を地面に対して鋭角にしてはならない……その程度の、非常にぼんやりとしたイメージしか持っていないのだ。
 だが、この時まさに、不幸中の幸いと言うべきことが起きた。
 燃料がいよいよ底をつきかけたために、乗員の安全確保を優先とした『自動着陸モード』なる機能が、オートで作動したのだ。
 ぼくはひとりでに動き始めたハンドルから手を離して、思わずガッツポーズを取った。
 そういえば、この期に及んで尚、ナーディアはだんまりを決め込んでいる。
 いくらなんでも静かすぎだ。奴ならこういう時、決まって『ふんっ、運に助けられたな』とかなんとか、皮肉めいた嫌味を言うはずなのに――


 ――だが、助手席には誰も座っていなかった。


『まもなく、着陸態勢に移行します。乗員は速やかにシートに身体を固定してください。繰り返します――』
 機械の音声ナビに従いながら、ぼくは背もたれに身体を預けるようにした。
 扉のロックは閉じられたままだし、特に奴が出て行った気配もなかった。
 とはいえ、ここは死角世界。消失と出現の因果に、いちいち常識を当てはめていたら、こちらの気が滅入るだけだ。
 とりあえず、ナーディアは消えた。今はその事実だけで十分だ。
 ぼくは気持ちを切り替えて、ドアガラス越しに街中を見つめた。
 ゾンビのように群がる人々が、徐々に降下地点の広場に押し寄せつつある。これはもう、車から降りたら即行動開始、という風に動かないと……。
(もたついたが最後、一瞬で呑まれるな)
 一秒たりとも無駄にできない。ぼくは車が着陸する前にシートベルトを外した。そのことに対する警告アラートが、やかましく車内に反響したけど、構っている暇はない。まだ車体は浮いたままだけど、飛び降りられない高さでもなく、ぼくは思い切ってドアを開けて、身を投げ出すように車から飛び出した。
 膝のクッションが運動不足で機能せず、足首周りに、ジーン、という鈍い痛みが奔った。ぼくはそれを堪えて顔を上げた。すぐさま駅の位置を確認し、次に自身の背後に目をやった。
 広場には、すでにかなりの住民が集まっていて、その誰もが眩い笑顔を湛えていた。とてもにこやかに微笑んでいて、みんな「こっちにおいでよ」とうわ言のように呟いている。
 こんなに気持ちの悪い『綺麗な表情』を目の当たりにするのは、生まれて初めてだ。ここまで度を超すとなると、恐怖を通り越して、一種の哀れみを感じてしまう。
 でも、同情に足を引っ張られて管理に呑み込まれるのは御免だった。だからぼくは、住民たちに背を向けて全速力で走った。
 駅に近づくにつれ、身体の節々が痛くなる。思えば、この世界に来てから、やたらと運動する機会が増えた。喉が熱くなり、血の味が濃くなっていくのが分かる。でも、ぼくは駅だけを見据えて走った。今となっては駅公舎すら電子基板で模られているのだ。気を抜いてしまえば、おそらく二度と駅と他の建物の区別がつかなくなるだろう。
 数十メートルの距離を走りぬけ、ぼくはようやく電子基板のコンコースまでたどり着いた。全てが電子基板なため、ほとんど見分けがつかない内装に変貌を遂げていたけど、ぼくは必死になって眼を凝らし、そして改札らしき雰囲気を醸し出している部分を探し当てることに成功した。一目散に駆け寄り、ぼくは『金属探知機』のような面影を残している電子基板を潜り抜けた。
 筋肉に蓄積された乳酸が、いよいよ悲鳴を訴え出していた。でも、今ここで止まるわけにはいかない。目の前には階段がある。ぼくは酸欠でどうにかなりそうな頭を上下に振りながら無理くり足を動かして、そして根性論と意地を使って強引にホームまでよじ登った。
 めまい、で、頭がふらふらする。が、ぼくは膝に手をついて、上体を起こした。
 そこには停車中の列車が一本。ドアを開けたまま、乗客を迎え入れるように佇んでいた。
「よかったぁはっ。間に合ったっ!」
 ぼくは列車のドアに駆け寄り、そして乗車しようとして――そこで踏みとどまった。
 シオンの安否が、一瞬脳裏を横切ったせいもある。彼女の行方は依然として不明で、どこにいるのかも分からない。このまま自分だけネルクノックから脱出していいのか?――そういう逡巡が無かったといえば嘘になる。でも実を言うと、ぼくは何となく大丈夫な気がしていた。あいつは多分、また唐突に現れるはずだ。風のように訪れて、風のように去っていく。きっと、シオンとはそういう存在なんだ。
 だから、ぼくが踏みとどまった本当の理由というのは、そういう頭で考えて分かるような理屈にあったわけじゃなくて、多分、本能に警鐘を鳴らすような悪寒を感じ取ったからだ。……そうだ。今にして思えば、このホームは妙に静かすぎるのだ。群衆の来訪を告げるはずの足音も響かず、ただ死んだような静寂に包まれているだけ。
 そしてその嫌な予感が、ぼくの心をひんやりと撫でた直後――

――電車の窓ガラスに、『彼女』が映り込んだ。

「別次元のバグっていうのは、君のことだったんだね」
 後ろを振り返ると、ぼくの位置から数メートル先の場所に『女の子』が立っていた。
 くたびれたセミロングと、冷たくて鋭い双眸。その瞳の奥でふつふつとちらつく勁烈な意志は、異常なまでに平和を希求する狂信者を連想させた。
「君の中の潜在意識がこのネルクノックを生み出した。でもそれは、君の潜在意識にとっても満場一致の意見じゃなかったんだ。邪魔したのは本能かな? それとも理性?――ふふっ。ま、どっちでもいいけどね。無意識とはいえ、君がこの街に『躊躇』という『バグ』を忍び込ませたことに変わりはないから。この街は君のために作られたのに、作った本人に潰されるなんて、なんて笑い話なんだろう。そう思わない? みんな?」
『女の子』が誰もいない虚空に向かって問いかけると、途端に空気がざわつき始めた。
 住人が影絵のように次々と現れて、ぼくを四面楚歌に追い込むように、ホームを埋め尽くしていく。
 やはり住民は笑顔だった。決して不気味な笑みではなかった。彼らは本当に、心の底から幸せを感じていることを分からせてくれる、とても暖かい笑みだった。けど、やはりぼくには、その沢山の笑顔は恐怖の対象でしかなかった。



「あなたは」 「君は」――なぜなぜなぜ?――
  「お兄さんは」 「お前は」――平和の敵だ敵だ敵だ――
 「貴方は」  「アンタは」――――理不尽を許す怖い人だ――



 怖い怖い怖い怖い 敵だ敵だ敵だ敵だ 痛い痛い痛い痛い
 排除排除排除排除 防犯防犯防犯防犯 安全安全安全安全
 危険危険危険危険 管理管理管理管理 平和平和平和平和
 安心安心安心安心 秩序秩序秩序秩序 幸福幸福幸福幸福
 拒む拒む拒む拒む なぜなぜなぜなぜ 疑問疑問疑問疑問
 ????????――
――?????????????[SystemError]
?????????[code-16663]
警告:incompatible implicit declaration of built-in function
‘strcpy’
???????? ????????
??〝Why?〟?? ?????????????
???〝We cannot understand〟????? ????????



 言葉は雨のように降り注ぎ、そして直後に壁となってぼくに襲い掛かってきた。
 様々な不幸や悩み、苦痛、葛藤……それら膨大な負のデータが、雪崩のように、ぼくの脳へとダウンロードされる。映像データが網膜上に次々と浮かび上がり、それらはスライドショーのように流れていった。
 ここまで執拗に平和を求める理由が、分からないわけでもない。
 だって、彼らは全て、ぼくの妄想なんだから。
 だから、あの『女の子』だって、オリジナルとは別物。
 あくまで、ぼくの妄想というレイヤーが貼り付いているだけの存在。
 まさか自分の潜在意識が、ここまで壮大なスケールで妄想を描いていたとは思わなかったけど――でも、やはりここはぼくの頭の中であり、イメージの断片を具象化した幻想でしかないんだ。
 地下鉄で家族が死んで、ぼくは抜け殻になって、路地裏で『女の子』が強姦された。
 そして機械のように生き続けたぼくは、この世界で心臓を取られて、抜け殻を脱した。
 Y・Cネルクノックに最初に訪れた際、なんでシオンが憐憫の眼差しをぼくに向けたのかが、今なら分かる。シオンは、この街の提示する平和が究極の管理であり、それが心の死に繋がることを知っていたんだ。
 とはいえ、ぼくはこの街に対して、何か具体的な反論を持っているわけではない。ただ、『何となく管理されるのが嫌だ』っていう、そんな漠然とした表現でしか抵抗できないのが実情だ。けど、言い返す言葉がないからって、それが理由で否定してはいけないなんてことは、絶対にありえない。少なくとも、ぼくの心がこの街を拒絶していることは、紛れもない事実なんだから。
 そんなぼくの想いが、運行に影響したのかどうかは定かではないけど、その瞬間、ネルクノックの住民でごった返すホーム内に、列車の発車を知らせるアナウンスが鳴り響いた。
 まもなく開閉ドアが作動し、ぼくは駆け込み乗車よろしく、閉まるドアの隙間に身体を入れて強引に乗り込んだ。
 ホームを埋め尽くす住民はみな、笑顔でぼくを見つめていた。
 笑顔のままガラスにへばりついて、笑顔のまま列車の下敷きになっていく。
 まるで嘆きの壁だ。車体にへばりつく住民は潰されて、そのヴェールを剥ぎ取られると、全員が等しく人型電子基板に戻っていった。
 ホームと線路上で倒れ伏す電子基板の山と、次第に遠のいていくネルクノック――。
 街の全貌が景色の中に埋もれる極小の粒になり、とうとう追手の気配も感じられなくなると、肌にまとわりついていた緊張が一気に解けてしまい、ぼくは自動ドアによりかかりながら床に頽れた。
 そういえば、この列車はどこに向かって走っているのだろう? 適当に乗り込んでしまったけど、冷静に考えてみると、ぼくは列車の乗車券を持っていない。
 にもかかわらず乗車はできた。が、理由はさっぱりだ。当然とはいえ、ぼくはこの世界の交通事情に関して、いささか以上に情弱すぎる。
(シオンがいてくれれば、こういう時に頼りになるのに……)
「この列車に行き先などないよ」
 それはまるで、この世界で初めてシオンと出会った時みたいな光景だった。しかし、いきなり車両の中に現れて、淡泊な声を横から投げたのはシオンではなく、黒い着物を身にまとった自分の似姿だった。
「ナーディアっ!……行き先がないっていうのは、どういうことだ」
「死角世界を走る列車は、生者の心が求めた場所に停車する。今、お前の心が望むものはなんだ? 突き詰めてしまえば、ただの逃亡だろう?」
「そうだけど。それに何の問題があるんだよ」
「ああ。大ありだ。じきにこの列車は推進力を失って停止する」
「なんだってっ!? そんな……ぼくは信じないぞ。第一、なんで止まっちまうんだよ!」
「考えてもみろ。お前はまだ、あの街に対して何一つ具体的な『解答』を見出せていないにもかかわらず街を離れてしまったんだぞ。しかし、死角世界は解答を先送りにしたままの生者を、次に進ませる、なんてことはしない。そんな貧弱な心の馬力では、進んだところで潰れるのが関の山だからな――っ?」
「どうした?」
「……まずい。もうやって来たか」
「えっ?」

 ガタ――ガタ――ガ、タガタガタ――

 足元に違和感を覚えて、ぼくは飛び退くように立ち上がった。
(……っ、揺れてる?)
 最初は立ち眩みでも引き起こしたのかと思ったけど、そうではないとすぐに察した。
 明らかに走行時に発生する震動とは別種の揺れによって、車両全体が、ガタガタ、と震えている。これは地震の震動でもない。厄災世代のぼくが言うのだから間違いない。どちらかと言えば、これは台風の暴風に晒された時の雨戸が打ち鳴らす轟音に近いような気がする。

〝ガッ!――ガガガッガッ――ガタガタガタガタガタッッ!〟

 直後、車両がいきなり『ドーンッ!』と激しく上下に揺さぶられると、その拍子にぼくの身体は無抵抗に宙を舞い、そしてその結果、ぼくはスタンションポールに思いっ切り額を打ち付けてしまった。
「痛っ!?」
 腫れぼったく膨らみ始めたおでこを指でさすると、俄かに鈍痛が奔った。
 だけど外の景色は動いていた。あんなに揺れたにもかかわらず、脱輪は免れたらしい。さすがにスピードはいくらか落ちているけど、走行の継続には支障がないみたいだ……が、だからこそ、後続から猛追してくる『それ』が、異様すぎるくらいに目立っていた。
「黒い……煙?」
 線路上を滑空するそれは、野生の大蛇を彷彿とさせる獰猛さで、確実にぼくらの乗車している列車との距離を詰めていた。
 煙には、まるで意思が宿っているかのようで、ぼくにはそれが、善意という名の殺意に思えてしまった。
 殺意の矛先がどこなのか、もはや考えるまでもないのに、ぼくは考えたくなかった。生の感情をぶつけられる恐怖が、ぼくに保身を促すんだ。
 そういうぼくの態度が、かえって火に油を注ぐことに繋がってしまったのだろうか。突如、煙が怒り狂う怪物のように、絶叫じみた咆哮をまき散らした。
 周囲に散逸していたはずの煙は集約されて一塊になり、そして次の瞬間、密集した煙が四方八方に一気に爆散されると、その煙幕を突き破るような形で、なんと『列車』が出現したのだ。
 カブキ役者のような顔をしているその列車は、ごうごう、と唸り声を上げながら、先ほどよりも速度を上げて、ぼくたちの乗る列車に接近してきた。
 見た目こそは、人類の生み出した科学技術の結晶だけど、その在り方はもはや、獲物目掛けて突進してくる猛獣の類にしか見えなかった。
「あれは、ネルクノックの住人だ」
「嘘だろ、もう街を出たんだぞ!? 彼らはどうやって自分の姿を投影しているんだ!」
「投影者はお前だ。お前自身の過去が、抱いた妄執が、はるばるここまで追いかけてきたのさ」
「ぼくの過去? 過去が……ぼくを追いかけてきているのか?」
「このままだと、追いつかれるのは時間の問題だな。とはいえ、今さら逃げたところで助かる見込みもないか――」

『ご乗車のお客様にご連絡いたします。この列車は次に向かうべき座標を示す、明確な意思を欠いているため、現地点にて緊急停車いたします。停車時の揺れにご注意ください』

「――言わんこっちゃない。いよいよ万事休すだ」
 アナウンスが止むと、列車はみるみるうちに減速していった。カブキ顔の列車が猛スピードで迫り、そしていよいよ衝突かと思った直前、幽鬼のような気配すら漂うその列車の面容に変化が生じた。
 前面に張られたフロントガラスの下枠部分を境界線とし、真一文字に亀裂が入ったかと思うと、本物の大蛇が大口を開けるかのような格好で、列車の前面が上下真っ二つに割れたのだ。
 最後尾の車両が一瞬のうちに呑み込まれ、瞬きしている間に、それはぼくの目と鼻の先まで襲来していた。そのシルエットを間近で見止めたぼくは、大蛇という表現が不適切だったと、咄嗟に認識を改めさせられた。
 もうこれは、北欧神話に登場するヨルムンガンドに捕食される気分でしかない。
 列車が大口を開けて、ぼくたちのいる車両ごと丸呑みしようとした刹那、ぼくは、あの厄災の時に感じた恐怖を――人生で二度目の〝死への直感〟を味わった。

第四章「善悪混濁」

 ぼくは……ああ、今度こそ死んだのか。
 身体が見当たらない。ぼくは今、意識だけの存在になっているのだ。
 無重力帯にいるような浮遊感……いや、意識そのものが上昇しているのか?
 よく分からないけど、とにかく眠い。とても眠い。
 ここは全てが真っ白で、まどろむような世界だ。
 空間に果てはないけど、終わりは感じる。
 多分、この世界も、いつかは消えてしまうのだろう。
(あそこに見えるのは、ぼくの家族か?)
 誰かが手を振っている。人影が三つあった。
 おーい、とぼくは叫ぶ。

〝待ってくれ! 今すぐそっちに行くから!〟

 すると、三人は手を振るのを止めて、どんどん遠くに行ってしまおうとする。

〝どうして!?〟

 走っても走っても、むしろ後ろに下がっているような気にさせられる。
 ぼくは家族の影を必死で追った。でも、どれだけ追いかけても、追いかけても……影は小さくなるだけで、家族の気配も、いつしか感じられなくなってしまった。
 ぼくの意識だけが、その白い世界の中に取り残されてしまった。

 ――途端、昏い鎖が意識にまとわりついた。

 ぼくの肉体は瞬時に蘇生され、白い世界は、黒い宇宙へと変わった。

〝心の中にいる私たちを、心の中から成仏させなさい〟

 白が黒に切り替わるほんの一瞬、煌めく閃光よりも短い時間の中で感じ取った〝波〟が、音となり、言葉となって、ぼくの心に浸透していった。
 その波は、母さんのようでもあり、父さんのようでもあり、妹のようでもあった。
 きっと全部だ。家族が寄こした波だったのだ。
 せめてもう少しだけでも……そう思って、ぼくは手を伸ばした。
 だからといって何を掴むわけでもなく。ぼくの『心体』は鎖によって地球に引き戻されてしまった。
 遠出しすぎた自分の意識が肉体へと再帰する感覚は、とても奇妙なものだった。
 肉体への認識が鮮明になり、そして残された者の虚しさが〝伽藍洞〟を突いた直後――


     ◇


「待ってくれっ!――……っ?」
 伸ばした手は何を掴むわけでもなく、ただ宙を彷徨って空を掴むだけ。それが虚しさを胸のうちに呼び込んで、ぼくを悲しくするまでには、さして時間はかからなかった。
 瞼を開けた先で待っていたのは『あの世』ではなく、赤く煌めくランプの光だった。その眩しさに耐えきれず、ぼくは思わず腕で目を覆った。
 今見ていた景色は? あれはただの夢だったのだろうか?
 試しに左胸に手を添えてみると――やはり鼓動がない。ぼくの命は伽藍洞のままだ。
 しかし、心臓無しで人間が動けるはずがない。ということはつまり、ぼくはまだ『死角世界』に留まっている、ということだ。
(ぼくは……あの白い世界に拒絶された……弾き返されたのか?……でもなんで?)
 カブキ列車に丸呑みされたあと、ぼくは……言葉という鋳型では容量が少なすぎて表現しきれないほどの感覚領域まで飛ばされた。あれを『死後の世界』と呼ぶのか否かは定かではないけど、幽体離脱しているような体感が生じていたことは事実だ。
 なんであのカブキ列車から逃げ切ることができたのかは分からないけど、ひとまず無事だったのだから、今はそれで良しとしよう。
(とりあえず、動かないと始まらないな。そろそろ起きよう)
 ぼくは上半身を起こして、付近に目を配った。
 枕元に視線を落とすと、そこがソファの手摺部分だということが分かった。その手摺には、ぼくの頭部が作り出した凹みがくっきりと刻まれていたので、多分、一時間以上は眠っていたのだと思う。
 ぼくの正面には、今ぼくが座っているのと同じ形状のソファと、その二つのソファに挟まれるような形で、背の低い長机が置かれていた。傍から見れば、ここは応接間のように見えるかもしれない。
 他の部分に視線を動かすと、サイズの異なる四角いテーブルがいくつか並んでいて、大きいテーブルには椅子が四人分、小さいテーブルには椅子が二人分、それぞれ設けられていた。
 奥の方へと目を動かすと、そこにはカウンタータイプの座席があった。さらにカウンターから視線を右に運ぶと、建物の出入り口らしき扉が確認できた。
 ぼくは今一度、部屋の中をざっと見回してみた。
 内装はバルスタイルの酒屋といった雰囲気だが、照明が全て鈍い赤色というのは如何なものか。家具本来の色を消すほど、どぎつい明りではないけれど、淡い朱色によって演出される店内の怪しい空気感が、遊郭のように思えないわけでもなかった。
 その時、微かな振動が床を伝って身体に響いてきた。
 定期的なリズムを刻むその音は――〝ガタンゴトン〟――と。
 ぼくは立ち上がって音の聞こえる方に向かった。壁だと思っていた部分は、実はカーテンがかけられていただけで、ぼくは生地が赤く透けて見えるカーテンを引いて、外の様子を確認した。
「ひっ!?」
 目の前には高架橋が建てられていた。
 列車がその上を駆け抜けていき、それが過ぎ去ると、辺りは静けさに覆われた。
 少し眩しいくらいの街灯の明りは、ぼくのいる建物の中にまで差し込んでいて、それがまるで月光のように美しい輝きを放っていた。白色の光は街のそこここを照らし、そして――……
 ――そして、ガラスを一枚隔ては向こう側では、ネルクノックの人型電子基板と、ハイヴァで出くわした不気味な影たちが、群れを成して、路上で取っ組み合いを繰り広げていたのだった。
「感性保守主義、バンザーイ!」
 誰がそう叫んだのかは分からない。でも聞こえたのは確かだ。
 影が電子基板を、ガブリ、と呑み込んで、モグモグ、と口を動かすと、別の影が加勢に加わって、さらに巨大な黒い塊へと変貌した。
「理性革新主義、バンザーイ!」
 黒い塊目掛けて、人型電子基板の突撃部隊が特攻を仕掛けた。
 電子基板から電流が迸って、周囲に飛散すると、付近にいた影はおろか、味方であるはずの人型電子基板もろとも蹂躙した。そして電流を纏った突進攻撃を正面から受けた黒い塊は、直撃するやいなや粉々に粉砕されてしまい、その破片を周囲にまき散らす結果となった。
 影と基板の入り混じったヘドロが、路上の至る所にへばりついていた。それらは芋虫のように地面を這いずり回り、蠢き、再生し、またしても取っ組み合いへと発展していく……。
 そんな不毛とも思えるようなサイクルが、延々と繰り返されていた。
 だが、彼らは気付いているのだろうか? 再生の際、自前のエネルギーだけでは補えず、敵対勢力の破片を自身の内側に取り込まなければ、もはや存在を維持することすらできなくなっている――ということを。
 それとも、わざと知らないふりをしているだけなのだろうか?
 理想のために始めた戦いが、徐々にその信念を捻じ曲げ、いつしか戦いを継続するためだけの理由になり果てていた。
 自分たちの理想を押し通すために戦うのか。それとも戦いたいから、理想という方便が必要なのか。はたまた、この『争い』という現象それ自体が、何がしかによって審査される登竜門であり、その何がしかに試されている『地上で育った一部の存在』にとっては、決して欠かすことのできない重大な『儀式』とでもいうのだろうか。
 いずれにせよ、手段と目的が交錯しすぎて、元の意味が失われかけている。
 しかし戦いは止まない。そればかりか、感性と理性の戦いは激しさを増す一方だった。
「ワレワレはネルクノックの掲げる管理社会などは一切認めず、これを断固として拒絶する意向である!」
「ワタシたちはハイヴァの掲げる自由主義を許すわけには参りません。野蛮な社会に終止符を打ち、世に平穏をもたらす所存であります!」
 互いに主義主張を譲らず、そうであるが故に『対立』という構造が消えない。
 何か意見を持ったり、口にしたりする時点で、人間は自動的に対立構造の中に組み込まれてしまう。自分が『そうだ』と思うことは、つまり他人にとっては『違う』という可能性を常に孕んでしまうからだ。
 なら意見を持たない……あるいは言わない方がいいのか?
 だが、それだと最悪『抜け殻』に逆戻りだ。
 どこからか影の戦車部隊が現れて、ネルクノックの部隊を狙って砲弾を飛ばすと、それに負けじと、電子基板の戦闘機が絨毯爆撃による報復攻撃を行った。
 双方の残骸が融合したことで生成されるヘドロの量は、いよいよ川の流れに匹敵するほどまで膨れ上がっていた。
 ひたすら同じ作業の連続だ。影が消え、基板が潰れ、ヘドロが膨張する。
 無限回廊のように、どこまでもどこまでも、永遠と繰り返される破壊と再生。
 一体何がしたいんだ。何のためにそこまで『対立』する必要があるんだ!?
「なんなんだよ、これ。こんなの……まるで戦争じゃないかっ!」
「ああ。その通りだよ」
 何の前触れもなく、気配もなく、唐突に背後から声をかけられ、ぼくはメンコみたいに反転した。
 無人だと思っていた店内に突如として現れたのは、40代半ばくらいに見える男性だった。長く伸びた灰色の髪を後ろで束ね、黒いパンツに白いワイシャツ、デニム生地の腰巻エプロンという格好をしているその人物は、さっきまでぼくが寝ていたソファに腰掛けていて、どこか遠い目をしながら、徐に語り始めた。
「ホメオスタシスとパラドクスの共生向昇関係が崩れたのさ。死角世界は今、ネルクノックを母体とした【理性革新同盟】と、ハイヴァに集まった者たちによって結成された【感性保守連合】の二大勢力による争いが、各地で勃発しているんだ。現状は拮抗状態が続いているけど、この世界を彷徨っている生者の多くが、ネルクノック側に加担する意向を示しているみたいだから、多分そのうち勢力図は一変するよ。まあ、この戦争はネルクノック側の勝利で、ほぼ確定だろうね」
「あんたは……何者なんだ……?」
 その男性は、ぼくの質問に答える気がないのだろうか。さっきから違う場所を眺めているだけで、ちっともぼくと視線を交わそうとしない。
「君、生者なんだって?」
「どうしてそれを!?」
「今やこの世界で君を知らない存在はいないよ。報道もラジオも大騒ぎさ。ネルクノックを生み出し、しかしネルクノックの秩序を自らの手で壊した生者……ってね」
 その時、ようやく男性がこちらの目を見て、そしてなぜか、少しだけ笑った。
 彼はテーブルに置かれていたテレビのリモコンを取ると、壁に貼られていたデジタルペーパーの電源を入れて、テレビの報道番組にチャンネルを切り替えた。
 ぼくの位置からだと左側、座っている男性の視点から見ると右側に相当する壁の一角が、瞬く間に映像を表示させて、どこからか流れてくる音声を、ぼくの耳朶にねじ込んできた。
『――ええ、たった今入ったニュースです。ネルクノック市内から逃亡したとされるこの生者は、列車を使って逃亡を計るも、乗車中の列車が緊急停車したため、その後すぐに、ネルクノックの治安当局によって現場を取り押さえられました。しかし、現場では生者の肉体が確認できす、当局は、尚も近隣の捜索に当たっているとのことです――ええ、ここでですね、一旦ネルクノック広場に映像を繋げたいと思います――』
 キャスターの呼び掛けに応じて、現場の報道官とやらが画面上に登場した。その報道官は女性で、マイクを握りしめている彼女の様子を見ているだけでも、現場の緊迫感が伝わってくるようだった。
『――はい。こちらネルクノック市内にある駅前広場なのですが、見てください。このように、現在市民たちはその姿を維持できず、生身が剥がれてしまい、骨格である人型電子基板が、かなり目立つようになっています。専門家によると、ネルクノック市民には、秩序を乱された際に耐えうるだけの思考耐性が築かれておらず、これ以上〝現実〟を受け入れられなくなると、最悪の場合、錯乱状態に陥る可能性が出てくるとのことです。ええ、ここでネルクノックの市民の方に聞いたインタビュー映像がありますので、まずはそちらをご覧ください――』

[※プライバシーのため、音声は変更しています]――という字幕が表示された。

『――はい。私はその生者の方と、その人のゲートを乗せて、目的地までお連れいたしました。この街に来るのは初めてだと言っていたのですが、第一級特別指定区域にまで向かわれるというので、ずいぶん妙な話だとは思いました。でも、とても気さくで喋りやすい方でしたし、何かこの街に対して、すごく興味を持たれていたようでしたから、私も色々とお話しさせてもらったんです。なのに、あの人自身が〝異次元のバグ〟の正体だったなんて……。
 ……一体誰が気付けたっていうんです? あの会話を利用して、街のファイアーウォールを突破しようだなんて。ふつう気付けるわけないじゃないですか。私とのやり取りが全部、ウィルス感染のための仕込みだったんですよ? 分かるわけがないでしょう!? あんな人の良さそうな生者がこんなことをするなんて、夢にも思いませんでしたよっ!』

 画面が切り替わって、女声キャスターと、現場に派遣された報道官の会話が始まった。

『かなり感情的になっていますね。他の市民の様子はどうなのでしょう?』
『はい。ええ、先ほどはかなり混乱していまして、収集の目途がつかないような状況だったのですが、つい先ほどですね、ようやく治安当局によるワクチン投与が開始されましたので、住民の方々も徐々に落ち着きを取り戻しているように見受けられます。ですが、未だに暴動が続いている地域もあるため、依然として予断を許さない状況と言えます――
こちらからは以上です』
『はい。以上ネルクノックからの中継でした。ええ速報が入り次第お伝えしますが、現時点では、逃亡している生者は未だ見つかっておりません。現場周辺に住む方々は特に危機管理を徹底しておいてください。ええ、ここでですね、今回の事件の一連の流れをグラフィックボードにまとめましたので、詳しい説明を交えながら、解説していただきたいと思います――』
 女性キャスターが専門家に話を振る……というお決まりのパターンに発展したところで、ソファに腰掛けていた男性が、よっこらせ、のリズムで立ち上がった。
「すっかり悪者だねえ」
 男性は画面を見つめながら、ニヒルな口調でそう言った。
 ぼくはそれには答えられず、愕然とすることしかできなかった。
 なぜこんなことになってしまったのだ?……いや、全てが妄想の産物と言えるあのネルクノックにおいては、先ほど流れた報道の信憑性さえも疑わしい。だが、彼らの平和病に投与するカンフル剤として、ぼくが罪人という道化を演じることになったのだと考えれば、自ずと頷ける部分も出てくる。あの街は常に、平和と対を為す催し物を求めているのだから……。
 とはいえ、そんな役回りをもらったところで、嬉しいはずがない。
 ぼくがネルクノックの平和に異を唱えたのは事実だけど、何もぼくは、あの街の秩序を壊したかったわけじゃないんだ。
 ぼくは自分の信じる道を貫いただけなのに、その結果が犯罪者扱いだなんて。これじゃあ一体、正義って何のためにあるんだ。
『――……ええ、たった今、生者が逃げ込んだと推定される【グレーゾーンエリア】にある【マーブルタウン】に向かったヘリから連絡が入りましたが、よろしいですか?……大丈夫なようですね。はい! ええでは、現場上空と中継を繋げます――』
 逃げ込んだ生者、というのは、間違いなくぼくのことだろう。
 現在地がどこなのか分からなかったが、今の話でようやく分かった。
 グレーゾーンエリア・マーブルタウン。……ずいぶんと意味深な名称だ。とはいえ、ぼくはこの世界の地図情報など、全くもって知らないのだから、居場所が判明したところで、大した意味はない。
『――はい。こちらマーブルタウン上空になります。ここは今、最も戦闘が激化している地域でして、ええ、見えますでしょうか? ちょうど画面中央付近になりますね。……ここは〔マーブルタウン駅〕の正面にある、モニュメント広場なのですが、つい先ほどから、電子基板と黒い影の混ざり合った、球体のような物体を確認できるようになりました。一部専門家の意見によりますと、この球体は感性と理性の衝突によって生じる〝葛藤〟が、具現化する際に起きる現象と言われていまして、このまま球体の膨張が続くと、おそらく死角世界全体が、このエネルギーによって消滅させられてしまう危険性がある、とのことです』
 ヘリから撮影されている町の俯瞰映像を見た刹那、ぼくは脳が痺れるような痛みに襲われた。その際に流れた電流は、渦を巻いて、ぼくの大脳皮質のしわに居座っているかのような、そんな奇妙な感覚をぼくに植え付けた。
 次に映像が、陸上の戦闘模様を伝える画面に切り替わった。火器を携えた人型電子基板と影が白兵戦を繰り広げていて、もしもこれが、生身の人間同士の殺し合いだったとしたら、まさしく『本当の戦争』だったに違いないと、ぼくは痛烈とか、痛感とか、そんな甘っちょろい言葉が消え失せてしまうほど、単純にそうなのだと理解させられた。
 山火事のように燃え盛る炎と、地獄絵図のように流れゆく基板と影の混合ヘドロ。
 川のように見える死体の山なのか、あるいは死体のような川なのか。彷徨い続ける感性と理性の亡骸は、やがて広場で膨張し続ける球体の引力に引き寄せられて、その球体と同化するように吸い込まれていった。しかしどういうわけか、ぼくはこの光景にデジャブを覚えずにはいられなかった――
(――っ! 津波だ……トーキョー湾から押し寄せて来た、あの津波とそっくりだ……)
 ぼくは直接的な被害を受けたわけじゃないから、津波の恐怖というのは、映像で見た程度しか知らない。でも、あの瞬間、トーキョーが波に潰されていった〝あの瞬間〟をスクリーン越しで見た時、ぼくは、地球が人間を食べているようにしか思えなかった。
 普段、ぼくたちが家畜を喰らうのと同じ理屈で、地球もまた、人間を食べているんだと。結局ぼくたち人類だって、食物連鎖の鎖に繋がれた一部にすぎないのだと、その当時のぼくは、衷心に降って湧いた自然の無慈悲さを目の当たりにしたことで、しばしあの世に釘付けになるくらい、茫然自失になってしまったんだ。
『――何か解決策はあるのでしょうか?』
 女性キャスターが、深刻な顔で画面を見つめる。その目がぼくの視線と重なりあっているような気がして、ぼくは思わず目を逸らした。

〝なぜ逸らす?〟
 
 ぼくは自問自答する。
 この光景が、ぼくの頭の中身を代弁しているからか?
『――方法はあるそうです。逃げた生者を確保し、その意識をハイヴァ、或いはネルクノック側に吸収させて、自由・平等のいずれにかに考え方を傾倒させれば、この世界の混乱は収まるとのことです。ですので、理性革新同盟も感性保守連合も、逃げた生者を相手勢力よりも先に捕まえるために、特殊部隊を送り込み、捕獲作戦を開始したとの情報も入っています。ええ、いずれにせよ、現在マーブルタウンは非常に危険な状態です。また、球体がいつ破裂するのかも、今のところ詳しいことは分かっていません。近隣に住む住民の方々は、一刻も早く、できるだけ遠くに避難するようにしてください。――以上、上空からでした』
 突然、男性がリモコンの電源を落とし、立てた人差し指を口元に当てるジェスチャーをしながら、ぼくに向かって「隠れてろ」と小声で囁いた。
 有無を言わさぬ態度に気圧されてしまい、ぼくは大人しく言われた通りに従った。
 カーテンを閉めて、何か適当な遮蔽物が無いかを探したが、見当たらなかったので、仕方なくソファのあった場所に近付いて、背の低い長机の下に身を潜めることにした。
 まもなく店のドアが開き、何者かが往々しい態度で、男性の前に歩み出てきた。
 警察帽のようなものを被った、如何にも人間っぽく見えるその何者かの身体は、電子基板と影の混ざり合ったマーブル模様で、その絵柄は水に落した絵具みたいに常時ゆらいでいた。
「治安当局の者だ。ここに生者が逃げ込んだというタレコミがあった。匿っているのであれば、あなたも重罪に問われる。正直に白状したまえ」
「生者って言っても沢山いるぜ? 誰を探してんの?」
「しらばっくれるな! ネルクノックの生みの親だ!」
「あー。あの報道を沸かせている生者ね。悪いけどここにはいないよ」
「嘘をつくな。目撃者がいるのだぞ?」
「じゃあ、付近の防カメはちゃんと調べたんだろうな?」
「うっ、うむ。もちろんだ」
「で?」
「……生者の姿はなかった。しかしだな。映像を改ざんした疑いも捨てきれんだろう? その証拠だけで貴様を白と判断するわけにはいかんよ」
「はあ。そうですかい。そこまで俺のことを疑っているんだったら、とっとと心臓スキャナーを使えばいいじゃないか。どうせ持ってるんだろ? 今この町には厳戒態勢がしかれているんだぜ。どいつもこいつも生者を探すのに躍起になっているんだから、スキャナーを携帯していない方がどうかしてるよ」
「ふんっ、よかろう。そこまで大口を叩くのであれば、喜んでスキャンしてやる」
 治安当局の者だと名乗りを上げたその存在は、懐から拳銃のようなものを取り出して、それを店内に向けて発砲した。ぼくは一瞬、ひやり、としたが、銃弾が発射された気配はなく、単に凄まじい破裂音が響いただけなのだと、やや間が空いた後に理解した。
「で、どうだい?」
 男性の鼓膜はどうかしている。あれだけ近距離で発砲音を聞いたにも関わらず、耳を抑える様子もなくて、ずっと涼しい顔のままだ。一方、当局の者は影と電子基板の複合体だから、その頭部には耳もなければ表情もない。ただ、雰囲気から察するに、相当動揺していることは窺える。
 拳銃には、デジカメのような液晶画面でもあるのだろうか? 当局の者は拳銃を見つめたまま動こうとせず、その手は、わなわな、と震えていた。
「ばっ、ばかな!?」
「どれどれ?」
「心臓の気配が、感知できないだと!?」
「ほーら。だから言ったじゃないか」
「貴様ぁっ!」
 その時、当局の者に、デジタルノイズのような歪みが生じた。
「これは――感性ぁhp理性zsd保新連盟――に対する謀反だ! 反逆行為だ!」
 理性と感性の融合体であるにも関わらず、その方向性が一定に定まらず、対立関係を維持したままだから、口をついて出る言葉にも乱れが生じているのだろう。当局の者の姿形は、その気性の揺らぎと共に、激しいノイズに見舞われていた。
「言いたいことがあるなら、もう少し要点をまとめてくれよ」
「ワレワタシタチを愚弄するのか……。がぁ、あがかががあが。吸収してやるぅぅ!」
「おいおい。ここは清濁の中に活路を見出すマーブルタウンだぜ? どっちの勢力にも興味はないよ。……というより、アンタ大丈夫か。原型崩れてるぞ?」
 当局の者は、自己を規定するアイデンティティを喪失したのだろう。身体は分裂し、ヘドロのように溶け、基板と影の破片にそれぞれ綺麗に分断されると、彼らは再び相争う関係に戻ってしまった。
 そんな姿になってまで、彼らは相手を制圧しようと必死で、まるで喧嘩している猫のようにもみ合いながら、店の外へと出て行った。
 店のドアにはベルが備え付けられているらしい。カラン、カラン、と音が聞こえたので、ぼくはおそるおそる長机から這い出て、カウンター席に寄り掛っている男性の方に近寄った。
「――ふぅ。いったかな。まあ、何とか追い返すことができたよ」
「……ありがとう、ございました。あの、でも――」
「なんで君を助けたのかって?」
 ぼくはそれに頷いて、男性の言葉を待った。
「動機に関しては、当局の奴らと一緒だよ。俺だってこの世界が消えちまうのは嫌だし、何とかしたいと思ってる。ただ、そのやり方が連中とは違うってだけさ」
「えっ……止められるんですか?……これを?」
「うん。我に策あり、かな」
 男性は、さも自信ありげな態度でそう口にしたけど、ぼくには今一つピンと来なかった。ぼくは適当な言葉を見つけることができず、曖昧な返事で「はあ」と応じた。
「まあ、君もあれだ。まだ起きたばかりで頭が混乱しているだろうから、とりあえず腹ごしらえでもしようか。久々の生者(来客)だ。腕によりを振るおうじゃないか」


     ◇


 その後ぼくは、半ば強制的にカウンター席に着席させられ、なぜか料理をご馳走してもらう流れになってしまった。
 ぼくを助けてくれたこの男性は、【マスター】と呼べばいいらしい。確かに酒場の主は皆、大抵マスターと呼ばれているのだから、こちらとしてはその方が親しみを覚えやすい。
 彼は今、調理の下準備を進めているところで、ステーキ用の肉みたいなものに、塩コショウを振っている最中だった。
 集中しているみたいなので、声をかけるべきか否か迷うところだけど、今のうちにハッキリさせておきたいこともあったので、ぼくは思い切って訪ねることにした。
「あの、ちょっと気になっていることがあるんですけど」
「ん? なんだい?」
「その……ネルクノックを出た後の記憶が、いま一つぼやけたままで、どこでぼくを見つけたんですか?」
「ちょうど店じまいしている時だったかな。なにかが倒れたみたいな音がしたんだ。外に看板とかは置いていないから、妙だなって思ってさ。それで、何事かと思って入り口のドアを開けてみたら、君があの高架下で倒れていたんだよ」
 マスターはソルト&ペッパーのこびりついた手で、入り口ドアの方を示した。そして、そのドアにはめ込まれているガラス越しに、件の高架下を見ることができた……が、今はそのほとんどがヘドロの波に侵食されていて、このままの勢いが続けば、じきにこの店も波に呑まれて、店全体が完全に覆われてしまうことが、容易に想像できてしまった。
「あれだけニュースで騒がれていたからね。顔を見た時にピンときたよ。で、とりあえずここで匿うことにした。映像の改ざんは朝飯前だったよ。固定式の防犯カメラなんて、前時代的な防犯意識の象徴みたいなもんだからね。問題はむしろ、心臓スキャナーの方だったんだけど、ありがたいことに、君は生者のくせにスキャナーに反応しない特性の持ち主だったから、匿い続けることは比較的容易だったかな」
「まあ、色々ぼくにも事情がありまして」
 伽藍洞をさすりながら苦笑し、ぼくは相手を探るように観察した。
 この男性が信じるに値する人物なのか……正直まだ分からない。でも、仮に今ここでぼくが店の外に飛び出したとしても、おそらく波に吸収されるか、もしくは二大勢力の送り込んだ特殊部隊とやらに拘束されて、自由もしくは平等の傀儡にされるのがオチだ。
(それに、今のぼくが運よく列車に乗れたところで――)

〝死角世界は解答を先送りにしたままの生者を、次に進ませる、なんてことはしない〟

 ナーディアの言葉が脳裏に蘇る。
 ぼくはマスターから提供されたお冷を一口含んで、思わず息を吐いた。
「浮かない顔だねえ」
「こんな状況で喜べる方がどうかしてますよ」
 ぼくはマスターを一瞥して、そしてすぐに入り口へと視線を変えた。
 川のように流れていたヘドロは、少し目を離していただけなのに、その嵩を爆発的に増加させていた。
 最早、外の景色を伺うことはできず、基板と影の混ざり合ったマーブルだけが、ガラス板一枚隔てた先で、たゆたっているだけだった。とはいえ、はなから店の外に飛び出すつもりもなかったのだから、店内に閉じ込められたからといって、今さらどうこう喚くつもりもない。
「お酒とか、大丈夫?」
「ええ、まあ。嗜む程度なら」
「なにか出そうか?」
「いいんですか?」
「いいよいいよ。遠慮しないで」
「そうですね。じゃあ、ビールを一つ」
「赤と白と黒と茶色の四種類があるけど、どれがいい?」
 ぼくは少し虚を突かれた。
 てっきり、ビールと口にすれば、普通にビールが出てくるものだとばかり思っていたのに、ごくごく当たり前な居酒屋の常識は、ここでは通用しないらしい。
「……じゃあ、黒で」
「かしこまりました。でも、なんで黒にしたの?」
「なんとなく……ですかね。少し、気も沈んでいましたし」
「そう悲観的に捉えるもんでもないさ。黒っていうのは、絶望に抗おうとする意志の現れでもあるからね。存外、君の本心は抵抗することを望んでいるんじゃないのかな?」
「だといいんですが」
 ぼくは苦笑しながら、そう答えた。
 まもなく黒ビールが手元に用意されると、いつの間にか自分の分も用意していたマスターが、ジョッキを片手にぼくに乾杯の合図を送っていた。特に断る理由もなかったので、ぼくも同様にジョッキを持ち上げて――ガラスの重なる小気味良い音を、カンッ、と響かせた。


     ◇


 軽い食事とビールを済ませた後、ぼくたちはいよいよ本題に入ることとなり、マスターがグラスに水を注ぎ、ぼくの方に手渡してくれたところで、彼は口を開いた。
「状況を打開するのは、それほど難しいことじゃない」
「本当に、そんなことできるんですか?」
「ああ。君がこの世界で体験してきたことを、俺に聞かせてくれればいいっていう、単にそれだけのことさ」
「……は? あの、たったそれだけですか?」
 ぼくは一瞬、自分の耳を疑い、この酒場の主に騙されたのではないかと、やや不安になった。が、ぼくの両目を捕らえるマスターの目つきは真剣そのもので、とても嘘をついているようには見えなかった。
「うん。気を悪くしないでほしいんだけど、そもそもこの戦争の発端は、君がネルクノックを否定したことから始まったものだ。俺が君に提案したいのは『対話』による『模索』だ。君の話を聞いたあとで、今度は俺が自分の意見をまとめて君に問う。その問答の積み重ねによって、君が自分の抱いた葛藤に対する解答を見出すことさえできれば、この戦争はおそらく終結する。けど、これは一か八かの賭けと言ってもいい。君が無事に答えを見出せば、確かに問題はないんだけど――」
「逆にぼくが、何も答えられないような状態に陥ってしまったら、その時点でアウト、ってことですね」
「そう。でもこれは、君が自分の力で答えに辿り着かなければならない問題だから、突き放すように聞こえていたら申し訳ないけど、俺にはどうすることもできない。もちろん助言は惜しまないつもりだけど……。どれだけ外野が喚き散らしたところで、その行動の是非を決定できるのは、結局のところ自分だけなんだよ」
「たとえ、その意識に第三者の思惟が物理的に介入していたとしても、ですか?」
「機心電信を筆頭にした、機械による強制的な管理のことを言っているんだろうけど、この場に限って言うなら、それはないよ。そんなことをしてしまえば、そもそも問い掛けること自体が、無意味になってしまうからね。ただ、そんな御大層なハードウェアに頼らなくたって、意識を扇動するのは、そこまで難しい事じゃないんだよ。歴史を振り返れば分かることさ。プロパガンダ然り、国家イデオロギー装置しかり、ってね。地獄への道は、善意で舗装されているのが世の常だろう?」
「それじゃあ極論、人生だって、実は何か得体の知れない存在によって、誘導されている可能性だって出てくるじゃないですか。それなのに〝自分の意識〟ってやつを見つけて、そこに問い掛けろって言うんですか?」
「いや、そうじゃない。むしろ、そういったことを自覚した上で、それでも尚、意識を探そうとするその行為自体が、『自分の意識』なんだと思う。少なくとも俺は、そういう風に考えている」
「意識に自他を含ませようとすることが、そもそもナンセンスってことですか?」
「そうだね。そういうことになるかな」
「なんだか、修験道の山籠もりみたいですね。まあ、実際にやったことはないですけど」
「だとしたら、君はその山の中で、どんな空を掴むのかな?」
「探し物は手の中に在らず、空に至った過程にこそ、我見つけたり……とでも言っておきますか」
 ぼくは苦笑しながら、自分の掌を見つめて、そして空を眺めた。
 茫洋と広がる雲海の果てにある陽光を見よ。
 昔、禅に関する本を読んだ時に、そんな言葉が書かれていた気がする。
 そんな小難しいことを問われたところで、今のぼくじゃ目の前のことで精一杯だけど、過程、というものが〝ぼく〟を形作るのなら……――。
 その瞬間、ぼくは、なぜ自分がこの場から逃げなかったのかを、頭ではなく、心と身体で理解することができた。ぼくがマーブルタウンで気絶したのは、きっと偶然なんかじゃない。この場所でマスターと対話すること、そして『自分の意識』なんてものが、実は非常に曖昧模糊なものなのだと理解した上で、ネルクノックへの疑問に立ち向かうこと。それこそが、ぼくの心が求めた場所だったのだ。
 ぼくは自分自身を鼓舞するように、二、三、軽く頷いてから、居住まいを正した。
 この世界での出来事を、なるべく克明に思い出すように努めながら、まるで身の上話をするかのような声のトーンで、ぼくはマスターに語り始めた――
 ぼくがずっと抜け殻だったこと。シンジュクでシオンとすれ違ったこと。
 そしてヨヨギの地下に行ってしまった彼女を追って、気付けば死角世界にいたこと。
 ハイヴァを訪れ、生の実感を思い出したこと。そしてナーディアという存在に心臓を抜き取られたこと。同時に『女の子』の痛みに共感できるようになってしまったから、彼女を苦しめた連中に対する激しい怒りが湧き起ったこと。
 そしてその怒りが原因で、ネルクノックを生み出してしまったこと。
 行き過ぎた平和の恐ろしさも知らずに、盲目的に平和を信じ切っていたこと。
 その平和という名の管理に怯えて、逃げることしかできなかったこと。
 そして今は、ただその平和を否定することしかできずにいること。
 ぼくはありったけの思いを込めて喋った。喋りまくった。
 こうやって話していると、頭の中で思い描いたことと、それを実際に言葉に置き換えて説明するというのは、実は違うことだったのだと気付かされる。まるで、自分の理想とする形に向けて、心を彫刻しているような感覚だ。
 喜怒哀楽、様々な素材がくっついた心の造形を、言葉を吐き出すことで、少しづつ少しづつ整えていくと、やがて朧げな全体像が浮かんでくるのが分かった。
 まだまだディテールは曖昧で、パッとしないけど、このぼやけた全体像をもっともっと細部まで彫り込んでいけば、いつかはぼくの心が求めた形というのも、見えてくるのかもしれない。
『言葉を口に出す』という行為は、例えるなら彫刻刀、ないしヘラみたいな物なのかもしれない。そしてその行為が、余分な感情を削ぎ落して、心の輪郭を大まかに浮き彫りにさせてくれるのであれば――今は、このクレーターだらけの粗末な彫刻作品(心の形)を、素直に認めるしかない。
 もちろん。自分の恥部を認めるような悔しさはあった。だが仕方のないことなんだ。
 理屈っぽいけど、自分にも相手にも謙虚にならなければ、彫刻刀を振るう手が、今にも止まってしまいそうだったから。
 だから、これでいいんだ。口に出してしまえば、あとはもう、前に進むしかないんだから――
「――ぼくは、あの鎖を解きたい。理屈じゃなくて、言葉を越えた、なんというか、宇宙の果てにある本能みたいなものが、ずっと、そう、訴えてくるような気がしてならないんす」
 最後は自分でも何を言っているのか、はっきり言って訳が分からなかったんだけど、マスターは終始、腕を組みながら、静かにぼくの言葉に耳を傾けてくれていた。
 ぼくが話し終えた、というよりも、思いの丈を吐き切ったのだと理解したのだろう。彼は腕を組むのを止めて、両手を腰に当てながら頷きを繰り返した。
「うん、うん。OK。分かった。じゃあ今の話を踏まえた上で、これから俺が君に質問をするけど、準備はいいかい?」
「はい」
「よし。それじゃあ今から、『対話』と『模索』の旅路を始めよう――」
 その時、ぼくの真後ろにあるデジタルペーパー――先ほど報道番組を映していたもの――が、劇場スクリーンのように点灯した。それに呼応するかのように、店の床、天井、家具も含めた内装の全てが、デジタルペーパーから投影される光を反射し、その反射角度がぼくの頭部に集束した刹那、ぼくの脳から出力された記憶の映像が、店一面に映し出され――


     ◇


 ――気付けば、ぼくはハイヴァの歓楽街に戻っていた。けど、何か違和感を感じる。なんだろう。さっき見た光景の再現というか、似ているというか……。全体的に既視感を覚えるのは、ぼくの気のせいなんだろうか。
「安心してくれ。これは君の記憶データを媒介にして作り出した、ただの仮想空間だよ」
 声の聞こえた方向に振り向くと、マスターが両手をポケットに突っ込んだまま佇んでいた。
「かなりリアルだろ? 一時期VR産業は、現実と虚構の境目を消すために邁進し続けていたけど、後に『ゲーム感覚犯罪』なるものが横行するようになって、今じゃ規制や取り締まりだらけの、窮屈な斜陽産業になってしまったんだ。これはその最盛期に作られたハードでね。多分、もう闇市とかに参加しても手に入らない代物なんじゃないかな」
 マスターはぼくの世界の未来を語っているのだろうか?
 そもそも、この死角世界においては、時間の概念それ自体が、恐ろしいくらい軽薄なものに思えてしまう。過去、現在、未来を把握する手段は、せいぜい自分の記憶を基に、時系列を並べることくらいだ。
 一は二でもあり、二は百にもなる。……だったら零は? 穴のようにぽっかりと開いたこの数字は、一体この世界と、どのような関係で結びついているのだろうか?
「現実も虚構も、とどのつまり幻の同義語。そしてそれは黒と白の見分けができるという認識力の問題でしかなく、人間が本質的に現実と虚構の区別が可能だという確証にはならない。幻を形成するのが実感なのか、それとも実感を形成するのが幻なのか。この疑問は鶏と卵のように果てがなく、故に信じるものが救われるというのは、ある意味『真理』だ。
 たとえ理性・感性の上にある上位構造が、宇宙の摂理とやらとコンタクトを交えたとしても、それを悟るのが人間という不完全な存在である以上、人間のありとあらゆる実感にまつわる懐疑性が消えることはない。――まっ、人間生きようと思えば、どこでだって暮らしていけるのさ。住めば都の如く、ね」
 ぼくはそれに対してどう返事をすればいいのか分からず、ただ黙した。
 けど、仮想現実なんかで朽ち果てたくはないな、という『実感』が湧いたのは確かだった。
「ようするにさ、君が信頼するに足りうる、現実を見つければいいってことだよ。とりあえず、まずは君の歩んだ足跡を辿ることから始めようか」
 ぼくはマスターに促されるままに、ハイヴァの歓楽街を歩き始めた。
 最初に来た時と何ら変わらない光景だ。
 路上で絡み合って互いの股を手でまさぐっている中年男と若い女。
 ふらふらになりながら、それでもクスリを求め、とうとう地面に倒れて天に手を伸ばす誰か。
 誰彼構わず喧嘩をふっかけて、殴り合いを繰り広げる酔いどれたち。
 そして複数の男が、本気で嫌がっている女性を、無理やり路地裏に引っ張ろうとしている場面に出くわした瞬間、ぼくの五臓六腑に殺意にも似た怒りが湧き起こった。
 ぼくは何も考えずに、ただ頭に昇った血の衝動に身を委ねた。しかし、女性を助けるために伸ばしたぼくの手は、この世界に何一つ干渉できず、ただ自分の指先が、掌が、女性の腕をすり抜けていくだけだった。
 彼女は男どもに連れ去られてしまい、ぼくはそれを追いかけて路地裏の暗がりに身を投じた。廃れたビルが立ち並ぶ中、一つだけドアが開け放たれたまま放置されている箇所があって、女性の悲鳴が、その隙間から絶え間なく流れ続けていた。
 ぼくは感情論に身を任せて、建物内に押し入ろうとした。けど、その動きを制止するように、マスターがぼくの肩に手を置いて、ゆっくりとドアを閉めてしまった。ぼくは怒りの捌け口を見失い、悶々とする衝動を抱えながら、マスターの方へ向き直った。
「なにをするんですか!」
「ここは君の知らない場面だ。あまり深追いしない方がいい。関りを持ちすぎると、記憶の齟齬が生まれてVRから抜けられなくなる恐れが出てくる」
「そんなことって……」
「現実と虚構の境目が曖昧すぎるんだよ、ここは。今は大丈夫かもしれないけど、新しい行動を取りすぎると、いつかは脳がエラーを起こして、全く身に覚えのないことでさえ、〝自分の関わった出来事〟だと思い込むようになってしまうんだ。気持ちは分かるけど、俺たちが向かうべき現場はここじゃない」
「っ……分かり、ました」
 ……ぼくの行動を忠実に再現するのであれば、行くべき場所なんて一つしかない。
 偽物の映像。紛い物の世界。それを本物だと誤認してしまうぼくの心。
 頭では分かっていても、無視できない誰かの声は、その後もひっきりなしに続いた。
 未だ整理のつかない気持ちを、奥歯でどうにか噛みしめて、ぼくは怒りを制御した。ヴァーチャルのくせに、奥歯を思いっきり噛むことで生じる顎への不快感は、現実のものと何も変わらなかった。
 ぼくたちはその場をあとにし、湿っぽい空気と酸っぱい臭いの充満するメインストリートを直進した。やがて『RAIVA横丁』と書かれたアーチが現れたので、ぼくたちは、その手前にある最後の路地裏に足を踏み入れた。
 街灯の麓まで近付くと、路地裏の奥で蠢いている影が――強姦されていた『女の子』が、弱々しい明りに照らされて、おぼろげに浮かび上がった。
「ここが、ネルクノックの原点。『女の子』に起きた悲劇をなくしたいと強く望んだ君は、犯罪そのものを許せないと感じるようになった。こんな醜い連中、犯罪者みたいな連中、消えてしまえばいい、死んでしまえばいい。こんな奴らが住めないような世界にしてやりたいと――そう強く望んだはずだ」
「……ええ。そしてぼくは、ネルクノックを生んだ」
 突如、場面が切り替わり、路地裏からいきなり、ネルクノックの駅のホームに場面が移行した。
 誰もが幸せそうな笑みを浮かべ、リアレンズによる案内を聞き、見世物の犯罪によって、自分たちの生活が平和なんだと理解する――そんな究極的に管理された世界。幻が生み出す箱庭のような平和の中で、人々はジャンクフードみたいな幸福を貪っていた。
「そうだね。確かにここの平和は度が過ぎている。でもさ、この街が誕生した理由っていうのも、元を正せば、君があの『女の子』を助けたいと思ったからなんだろう?」
「そうですけど……」
「誰かが何かを助けたいと思う気持ちって、別に否定されるようなことかな?」
「でも、そのせいで!」
「ネルクノックが生まれた。でもだからと言って、君はハイヴァを許せるのかい?」
「っ!……それは……」
「できないでしょ?」
「当り前ですよ! あんな連中! 次から次へとウジ虫みたいにわいてきて、人を悲しませて――あんな野蛮な連中、一人残らず管理しちまえばっ――あっ……」
「そう。だから君は完璧なまでの管理社会を望んで、結果それが並列化に至ったってわけだ。でもさ、その『管理の線引き』って、どういう基準で決められていたんだろうね」
「え?」
「いや、だってね。考えてもごらんなさいな。仮にDANを調べることで人間を一人ひとり区別できるとしてもさ、その区別の基準ってのは誰が決めるの?」
「然るべき機関に任せるとか……いや、でも」
「まあまあ。君の言いたいことは分かるけど、とりあえず今は、その機関が聖人君子の集団だとして、具体的な線引きはどういう風にするのかな?」
「暴力性の兆候が遺伝的に見られるかどうか、とかじゃないですかね?」
「じゃあ一応、誰かのDANの中に暴力因子なるものがあったとして、そのあとはどうするの?」
「そのあとっていうのは?」
「因子にだって個体差はあるはずだよ。暴力性の激しいものや、逆にそうでないものとか。もしも因子そのものを〝悪〟だと断罪するのであれば、因子を保有している時点で悪人なんだろうけど、仮に暴力性の度合いによって、因子をレベル別に振り分けるのであれば、どうやってその線引きを決めるんだい?」
「…………!」
 ぼくは答えに窮した。
 今さらネルクノックを擁護するつもりはないが、それでも一時とはいえ、あの街は自分の思い描いていた『理想』だったのだ。
 でも、今のマスターとのやり取りで、ぼくは嫌というほど思い知らされてしまった。管理社会に対する恐怖とか、並列化云々を語ること自体、そもそも傲慢で浅はかな考えだったのだ、と。
 元よりぼくの描いた理想なんてものは、街を生み出した動機や発想、その他諸々を含めた全てが、結局は青臭い理想論でしかなく、とどのつまり砂上の楼閣だったということが、今はっきりと、腹の底に深く染み落ちていった。
「それにさ。例えばの話だけど、家庭や人間関係の都合で、暴力性が後天的に爆発する人もいると思うんだよね。まあ、それすらもDNAで暴くことができる、なんて風に言われたら、もうおしまいだけど」
「だったら……例えば暴力性が酷くなる兆候を見計らって対処するとか……」
「それだと『悲劇をなくす』っていう、君の願望が果たせなくなってしまう。『対処』っていうのは、常に後手に回るものだからね」
 ぼくは沈黙することしかできなくなっていた。
 言葉を交わすことで、心の形を整えていかなければならないのに。
 頭が混乱して、焦点が定まらない。まるで、世界がぼんやりと歪みながら回転を始めたみたいで、思考がどんどん攪拌されて――


     ◆


――じゃあどうすれば良い?……――どうすれば解決する?
 やっぱりある程度――管理をした方が……


――ならその線引きは?
       平和に偏りすぎても、
            結局さっきの二の舞くらうだけじゃないか。
だからと言って、ハイヴァを認めるわけにも……。


〝何が正しい〟――正解なんてどこにもない。
                  正義? 善意? 悪意?――
     そんなもの人によってコロコロ変わっちまうよ……



 コロコロコロコロコロコロコロ。転がって渦を巻いて回転して――
 コロコロコロコロが[壁]にぶつかって疲れて――
 コロコロコロコロの勢いは止まっ――……


 ……――足元に見えるのは……あれは何だ?


 曼荼羅のような世界観がいくつもあって、それがマーブルみたいに溶け合ってぐちゃぐちゃで、さっきからずっと万華鏡のようにぐるぐる回っている。
 種々様々な人の感情が織り成す模様……ではない。
 これは森羅万象の発生に起因する情報の個性、あるいは宇宙の記憶みたいなものだ。
 受け入れるわけでもなく、拒むわけでもなく、ただ流されるがままに、ぼくはその無窮という感覚が連綿と連なるエネルギーの奔流に吸い込まれていった。


     ◆
 

 ………………ぼく。
 ぼくというのは、とどのつまり、ぼくであり、ぼくを感じるぼくである。
 ……少し、ホッとした。
 どうやらまだ、かろうじて自我が残っているらしい。
 ここがどこなのかは判然としないけど、直感が寄こす情報を鵜呑みにするなら、ここは総体と個体の区別の存在しない領域の、ちょうど境界線上みたいな場所なんだろう。
 ぼくは、自分の意識が零へと還元される寸前の瀬戸際で、紙一重の滑空をしていた。
 うねりの中をひたすら進むと、ふと視界の中に、大きな樹木が一本現れた。
 この混沌とした空間において、その樹木は明らかに不自然で異質な存在に思えた。
 知識を内包する果実を実らせるというその樹は、しかし実を食べてはいけないらしい。が、誰かがその果実を食べてしまった。二人食べていた。
 途端に、世界に善悪の何たるかが巡る。混ざり合っていたものは分裂し、曖昧で茫漠としていた世界に、くっきりとボーダーラインが引かれて、各々別個に区分けされた後、ぼやけた像は明確な輪郭を得て顕現し、やがては黒と白、善悪と愛憎、敵味方の世界に発展していった。
 そりゃそうだろう。と、ぼくは客観的に見ながら感じた。知識というものの本質は、分別することであり、その最たる例が言葉という果実だ。
 今まで『ただそのように存在していただけの存在』に対して、『形』『匂い』『色』『大きさ』……などなど。様々な知識を付箋のように貼り付けていけば、どこかで情報同士の摩擦が起こり、必然、対立構造が生まれる。
 例えば『器』という物に該当するものでも、それは『壺』であったり、『カップ』であったり、もしくは『器の大きい人』なんて比喩にも用いられる。
 しかしそれで終わりではなく、『壺』であれば、それがどこの『文化圏』に属するのか、作られた『時代』は何時なのか、また『誰が作ったのか』によって、さらに細かくカテゴライズされていく。
 ぼくはここで疑問に思った。
 そもそも、違いとは何なのだろう――と。
 知識によって違いが生まれるという短絡的な解答が欲しいのではなく、そもそも、なぜ知識が違いを求めるのかが気になるんだ。
 仮に椅子という存在が、単に人を座らせるだけの機能を求めるのであれば、人類はあそこまで椅子の種類を増やす必要はなかったはずだし、純粋に座るだけでいいなら、極論、四角い箱でも良かったはずだ。
 だが世界には何種類もの椅子が存在する……なぜだ?
 それは文化が違うから? 時代が異なるから? 人種が違うから?
 ならばなぜ、文化の違い等で、椅子の形が変わる必要があるのだ?
 各コミュニティのニーズに応じて、椅子が形を変えていったのか?
 王族の威厳を示すため? 何かの儀式で使う祭事用?
 でも世界各国の『王族の椅子』とて、同じ形の物は一つもない。
『椅子』という存在一つでさえ、付箋の貼り方は縦横無尽の広がりを見せる。
 なぜ人の価値観は、こうも枝分かれしていく必要があったんだろう?
 人間も同じ存在は一人もいないが、その個性を作っているのは、偏にDNAという情報記憶媒体によるところが大きい。……じゃあ翻って、椅子のDNAって一体どこにあるんだ? それこそ文化・歴史のなせる所業か?
 育った土地や環境に適応するための変化だった。だから形が違う。
 森に囲まれた土地柄だったから、砂漠に住処を持つ民族だったから。
 確かに『全てが全く同じ土地』というのは存在しないが、『砂漠』や『ジャングル』という括りで分類すると、唯一無二ではなくなる。唯一無二ではないのなら、なんで変化していく必要がある? その土地特有の天候が影響したのだろうか? だったらなぜ、特有の環境が特定の個性を生むことに起因するのだ?
 特有の雨が降る土地の民芸品は曲線が多くなって、特有の風が吹く土地の民芸品は直線が多くなるとでもいうのか? 仮にそうだとすれば、なぜ曲線になる? なぜ直線になる?
 文化とか歴史の個性を分けるDNAは、この世界のどこに保管されているんだ?
 人の記憶? 脳みそのなか?……まあ、理解しやすい解釈ではある。
 ……しかしなぜだろう。ぼくは腑に落ちない。
 全人類、あるいは全ての生命の記憶に残らないような出来事が〝あった〟としても、それは生命の記憶に残らないというだけで、そういう出来事がこの世界のどこかで〝起こった〟という事実は変わらないはずなんだ。
 起こった、ということは、そこにエネルギーが生じたということ。
 その際に消費されたエネルギーは、使い終わったあと、果たしてどこに還元される?
 星? あるいは宇宙――っぁあ!?
 がっ!――ぁぁぁぁっ!……――あ、頭が、破裂しそうだっ……。
 ぼくという一個の意識、人間というハードウェアの処理能力の限界が近づいていることを、ありとあらゆる実感が、上位構造を通じてぼくに訴えかけてくる。
 零に突入したところで所詮、零にしかならないんだぞ?
 考えたところで吸い込まれて無に帰して、情報という名の混沌に自我が同期していく。
 ぼくという意識を認識できるぼくが、段々と薄れていくのが分かった。
 何度繰り返しても堂々巡りのイタチごっこ。この問答に出口なんてあるのか?
 これじゃあまるで、存在を規定する情報そのものに、個性が備わっているとしか……っ?



 まてよ。存在の最小因子が素粒子ではなく『情報』なんだとすれば、万物に備わっている『情報』という『因子』には、それ自体に『個性』が付与されているんじゃないのか? だから同じものが一つもない。生命も物質も、似通った存在はいるかもしれないけど、それでも完全な同一にはならない――

「情報因子が、差異を求めているから……」

 その情報を記憶するための装置が〝宇宙〟なのだろうか?
 とすれば、そういった個性を内包するために生まれたのが〔宇宙〕なのか? 
 もし宇宙が情報を記憶するのであれば、必然、そこには意思のようなものもあるはずだ。
 まるで生命のように……。じゃあ、宇宙もいつか死ぬのか。
 いやひょっとすると、もうぼくたちはすでに破滅の渦中にいるんじゃないのか?
 ただその破滅の速度が光速に達してるものだから、まだ破滅が実感できていないだけで、実際はもう、生命なんてものはとっくの昔に潰えた、実在しない存在でしかなく、その破滅の際に生じたタイムラグを余暇として、幻想の中に在る『生』を謳歌しているだけにすぎないんじゃないのか?

 気付けば、ぼくは右手に果実を持ちながら、地球の昏い鎖を眺めていた。
 林檎なのか無花果なのか判断しかねるその果実は、ネズミのかじったチーズのように、部分的に食べられていた。ぼくが食べたのだろうか。でも口にした覚えは全くない。
 多分、生まれた時からすでに、こういう形で所持していただけなんだろう。
 地上にいる誰もが、目視できない果実を抱えていた。
「その果実があるから、人は善悪の区別ができるようになった」
 試しにぼくは、この世界から〝悪〟が消えるのをイメージしてみた。
 悪は綺麗さっぱり消え失せた。が、代わりにどこに善行があるのかも分からなくなった。
 全てが善の状態というのは、つまり、それが『常態』になったということだ。
 おそらく、善行が常態になった世界というのは、それを善行だとは感じず、『呼吸』と同じような感覚で、その行いを日々繰り返すだけなのだろう。
 吸って吐いて、吸って吐いて……たかがそれだけだ。
 でもきっと、そんな聖人君子の集まりみたいな世界にだって、地球的価値観とは全く異なる悪行とか善行が存在するのだと、ぼくは感じた。
 瞬間、果実がぼくの手から離れて、眩い光を放った。
 果実はぼくの伽藍洞に、するすると収まっていき、やがて完全にぼくと同化すると、希釈されていた『ぼくの自我』が、肉体の感覚と共に復活していくのが分かった。
 地球の引力に誘われるかのように、ぼくは地球目掛けて降下した。
 大気圏に入り、分厚い雲の層を突き破った先でぼくを待っていたのは、葛藤のヘドロによって破壊されつくした死角世界だった。
 ぼくは街を俯瞰するように飛び回った。感性も理性も、双方ともに善と悪の二つを有していた。事象を観測する角度によって、その善悪は姿形、意義や意味さえも変質させていた。
 ぼくはずっと、葛藤というものが、生きていく上で不必要なお荷物とばかり思っていた。でも、空を飛んでいて、この街の惨状を見て、ぼくはそれが誤りだったと痛感させられた。
 思えば、このことはすでにネルクノックで学習済みだったはずなのに、なんでぼくは、今の今まで気付けなかったんだろう。
 そもそも人間は、比較対象を作らなければ、物事に付箋を貼ることができない。
 好きも嫌いも、愛も憎しみも……全て表裏一体。二つ揃うことで始めて完成する価値観。
 この世は、『生と負のバランス』によって成立していたんだ。
 悲しみは怒りを生み出し、その怒りに呑み込まれた何かは、呑み込んだ何かを憎み、怨念返しによって再び悲しみと怒りが生まれる――しかし、そういう負の連鎖を知るからこそ、人は幸せを求めるし、誰かを助けるべきだと強く願うし、平和の何たるかを模索しようと努力したりもする。
 人間の場合、そのバランスを調整する際に『理性』や『感情』という価値判断が加わるから、少々話がややこしくなるというだけで、だからといって、そのバランスを求める力――生命の根源から湧き出てくるような暗在的な力の源泉――みたいなものは、動物も虫も魚も植物も人間も、生命が持っている潜在能力っていうのは、きっとみんな一緒なんだ。
「ちくしょう。ああ、認めたくないよ……。だって、片方の価値観を叩き潰すってことは、その潜在能力を生命から剥奪するってことだろ?……だったら……」
 どこからともなく湧いてくる感情が、まなじりに込み上がって来るのをよそに、ぼくは街を一望した。
 ホメオスタシスとパラドクスの秩序を欠いた結末がこれだ。善も悪もへったくれもない。見渡す限りの混乱と崩壊が、延々と永遠に続くだけ。生と死の境界線は失われ、命はただそこに置かれているだけのオブジェと化している。
 ぼくは、弱い人間だから、『女の子』の身に降りかかったことなんて、どうすることもできなかったし、今だって、どれが最善なのかよく分からないでいる。
 当時のぼくは何も感じなかった。心を止めることがぼくの処世術だったからだ。
 でも今は違う。あれが怖い事なんだって、分かるようになってしまった。
 だからこそ、尚のこと自分が許せなかった。ああいう理不尽をどうにかしたいって思ったから、ぼくは平和を求めた。なのに、結局ぼくの思い描いてしまった理想というのは、人の心の進化を殺す管理でしかなかった……けどさ――
「あの怒りのおかげで、ぼくは誰かを助けたいと思えるように、なったんだ……っ! 怒りがあったからこそだなんて……認めたくない、認めたくないんだよっ!……でも! きっと、そういう負の感情がなかったら、誰かを助けたいと思うことなんて、一生なかった……だからっ」
 その時、目尻から何かが零れ落ちた。いつぶりだろうか。長い間ずっと忘れていたような気がする。生温かくて、鼻水まで出ちまって、感情の噴出が止まらなくなるような、この感覚――ぼくは、全身全霊で世界に向かって叫んだ。
「怒りのおかげで、ぼくは生きる実感も湧いた。怒りのおかげでっ!……ぼくはっ、ぼくはぁっ!……人助けだなんて柄でもないことを心の底から願うようにもなれたっ!……怒りの……全部、負の感情おかげで……ってっぅ! ぼくはそう思ったっ! だからっ!」


〝今の自分を肯定するなら、この怒りにだって感謝してやるっ!〟


「それが、この葛藤の渦中で見出した、ぼくの答えだっ!」


     ◇


 ――死角世界の俯瞰景色が突如として切り替わり、曼荼羅模様のマーブル空間が、再びぼくの目の前に現れた。空間は〝門〟となってぼくに進むべき道を与え、ぼくは背後からやってきた光の波に乗るような姿勢で門を目指した。照射された光は門を通過し、さらには虚構空間をも突き抜けて、ぼくを別次元へと運んで行こうとしていた――その刹那、ぼくはおそろしく漠然としていて巨大で像を得ない、しかしその存在をありありと知覚することのできる……まるで『世界』そのものと対峙しているような感覚に見舞われた――


〝君は鎖を解きたいと言ったな? いいだろう。ならばこれが最後の問答だ〟

〝神は言われたそうだ。『我々にかたどり、我々に似せて、人を創造しよう。そして海の魚、空の鳥、家畜、猛獣、地を這うものをすべからず支配させよう』とな。であれば、その似姿たる君を少しは人間的に扱えば、君は人間に戻れるのかね?〟

〝『我々』は神ではない。が、いずれにせよ、我々とてもはや、『聖性・魔性』からは逸脱してしまった、否、逸脱させられた存在だ。しかしながら、そうであるが故に、我々は君に興味がある。見事なまでに心に覆いを被せていたはずの君が、なぜこの世界を訪れる必要があったのか?〟


 死角世界の総意を代弁していた超越者とでも言うべき存在が、星の数ほどありそうな想念を一まとめにした個体となって、ぼくの背中を押した。左手には一角獣、そして右手には獅子が後ろ足で直立していて、ここが別次元という名のテントだったのだと、ぼくは悟った。
 この空間には神獣たちが潜んでいたのだ。彼らが見えざる光のヴェールを持ち上げると――ぼくの隣にシオンが現れた。だが、初めて彼女に会った時とは、だいぶ雰囲気が違っていた。なんというか、全体的に明るい印象を覚えた。
 世界と対峙していた感覚は途端に弱まり、代わりに四方八方から現れた葛藤のヘドロが、燃えていく紙切れのように空間を侵食し始めた――その時だ。ふと、ぼくは誰かに呼び止められたかのような気配を感じ、振り返ってみると、人型電子基板と影たちが、まるでブリキの兵隊のように、横一列となって整列している姿が目に飛び込んできた。
「彼らは、ネルクノックとハイヴァに残ることを選択した生者たちよ」
「え……じゃあ」
「ええ。残念だけど、彼らはすでに『抜け殻』になっている」
「……。そうか。……ああ、分かったよ」
「悲しくないの?」
「もちろん。辛いよ。でも、この感情に浸っていたら、いつまでたっても前に進めない」
「見捨てるつもり?」
 いたずらっぽく微笑みながら、シオンが皮肉交じりにぼくに問う。
「いいや。そうじゃない。正と負の境目で生きることを望むなら、ここは絶対に避けては通れない道で……だから、痛みの誘惑に負けちゃだめなんだ」
 兵隊の列が中央で割れて、その間から『白いワイシャツと黒いパンツを着用し、さらには長い灰髪を後ろで束ねた人物』が現れた。ぼくはその瞬間、思わず「マスター!」と叫んだのだけれど、その人物は首を横に振って――「私はマスターではなく〝界長〟だ」――と、ぼくの意識に優しく語りかけてくれた。
 空間の崩壊は目前だった。ブリキの格好をしている抜け殻の生者たちは、葛藤の渦に巻き込まれて一緒くたにされ、暖炉に放り込まれた木材のように燃え始めた。
 光のヴェールから差し込むエンジェルラダーの上を、ぼくたちは真っ直ぐ歩き続けた。
 自分の意識や肉体が、死角世界に戻っていくのが実感できる。光が肉体の輪郭を縁どり、ぼくという存在を再構築するにつれ、ぼくの身体にまつわる、あらゆる実感は息を吹き返した。
 そして、ぼくが『バー』の扉の取っ手に手をかけた――まさにその時、世界は言った。


〝解を示してみよ。我々もそれが知りたくて、ずっと彷徨い続けているのだから――〟


 扉に付けられていた鐘が、カランカラン、と音を立て、ぼくとシオンはマスターの店をあとにした。

最終章「矛盾迷宮」

 扉の外でぼくたちを待ち受けていたのは、あの高架下の通りではなく、分厚い雲のような光が層となって連なる不思議な空間だった。
 霧がかったように視界がぼやけていて、あまり遠くまで見通すことができない。なんだか、ホワイトアウトした世界を突き進んでいるような気分にもなるけど、シオンはどういう風に進めばいいのか心得ているらしく、流石、案内人といったところだった。
 ぼくはシオンの導きのままに進み続けた。次第に光の色が明るいグレーに変色し、さらに濃いグレーとなると、光の層は風によって吹き飛ばされたかのように消えてなくなり、周囲の景色は、都市部の人工的な明るさと、決して晴れることのない不思議な曇り空によって覆いつくされた。
 ぼくたちの正面には石橋が架けられていて、その奥の方に視線を動かすと、平ぼったい建造物のシルエットが、ぼんやりと浮かんでいた。その時ふと、水の音が聞こえたような気がしたので、手摺の方に身を寄せてみると、思った通り、橋の下には川があった。
 ぼくは手摺に手を置いたまま景色を眺めた。遠方には超高層ビルディングが聳え、列車の走行音、車のライトの輝き――そういった、如何にも都会らしい喧噪は、どこからともなく聞こえてくるし、現にぼくはそれを肉眼で捉えているはずなのに――どういうわけか、この石橋の周辺には人の気配が一切感じられなかった。
 こんなにも人工物で溢れているのに、ここはまるで、死んだ商店街のように空気が鳴りを潜めている。……いや、改めて周囲を一望してみると、そもそも商店らしき建物が一軒も見当たらない。
「来るわ」
「え?」
 シオンが川の方を指さし、その方角に視線を合わせると、まるで虚空の中からぼんやりと像を得て浮かび上がってくるかのように、光りの点がぽつぽつと、こちら側に向かって川の上を流れてくるのが分かった。
 それは灯篭だった。蝋燭に灯った火の輝きが、次第にその数を増して川を埋め尽くし、先端に灯った火は、やがて蝋燭を離れ、空を目指すように浮上していった。
 理性と感性の戦争によって生じた葛藤、その感情の板挟みに耐え切れず、とうとう抜け殻になってしまった生者の魂が、この空を舞う無数の火の一つ一つに込められているのだと、ぼくには分かってしまった。
 人魂を宿した火が空の彼方にまで昇って行ってしまって、やがてその姿を地上から拝めなくなると、死角世界の空模様はいつも通りの暗雲に戻った――が、次の瞬間、空がとつぜん渦を巻き、上空から観測した台風の雲みたいな様相を呈すと、その渦の中心となる部分から――突如、ビルが逆さまの状態で空から突き出てきた。
 クライスラービルディングさながらのシルエットを有すその建物は、暗雲を土台としながら地上に向かって伸び続けると、やがて空と大地の中間地点で停止した。
 威風堂々たるそのビルは、各フロアに明かりを灯し、航空障害灯を点滅させると、あとは最初から何事もなかったかのように……いや、むしろ昔からそこに存在していたかのように、至極自然な佇まいで、死角世界の風景の一部になっていた。
 ぼくはその異様な景色に目を奪われ、声を漏らすことすらできずに立ち尽くした。状況説明を求めるべく、シオンに目配せすると、彼女はそのビルを見上げたまま、徐に口を開いた。
「あれは【ハザマの柱】――この死角世界と現実を結ぶ結節点とも言うべき存在。そして、生者たちの目指す最終座標である『終着点』は、あのビルの〝最奥部〟にあると言われているわ」
 到達すべき地を仰ぎ見、ぼくは息を呑んだ。終着点。そこには一体、何があるのだろう。
 この世界の駅は全て、ぼくの心が求めた場所だった。
 暴力による怒り。平和に付随する恐怖。そして葛藤の摩擦熱によって生まれた戦争。
 確かにこの世界を訪れる前と今では、ぼくの心境は180度違ったものに変わっている。それが良いのか悪いのかは、第三者の評価に任せればいい。大事なのは、自分が願うような生き方ができているのか否かだ。
 正と負を受け入れた今のぼくには、二元論のような葛藤もなければ迷いもない。
 ただ、なぜだろう……。まだ何かが足りないような気がする。
 悲しみや苦しみが『心の痛み』となって胸を貫くのを感じるのは、やはり辛いことだけど、心の弾力性が失われてしまえば、楽しいことを楽しいと感じることすらできなくなってしまう。だからといって、ネルクノックのような『弾力性の管理』を容認するつもりはない。あの昏い鎖を解くためには……――っ!!
 そうか。ぼくはまだ、あの鎖に対する〝解〟を何一つ見出せていないじゃないか。
 今のままだと、きっと、現実に戻ったところで『受け身』に徹することしかできなくなる。葛藤を受け入れたというのは、言い換えてしまえば、外界から与えられる刺激を許しているにすぎない、ということでもあるからだ。現実に立ち向かうための何か。その何かを、ぼくは自分という存在の中から〝発〟しなければならないんだ。

 ――その時、ぼくの伽藍洞が〝ドクンッ!〟と鳴った。

 思わずその部分に手を当てると、スーツの左内ポケットに何かが入っているような感触を得た。指で摘まんで取り出してみると、中から出てきたのは、四隅の角が一箇所だけ破けている――いや、かじられている、と表現するべきだろうか――変な磁気カードだった。ただ、例のごとく『乗車券』とか『ticket』という言葉が、黒い文字で印字されていることから鑑みるに、これが列車の切符であることは想像に難くない。
 ぼくが券をポケットに戻すと、それを合図に待っていたかのように、石橋を越えた先にある薄闇が、一斉にライトアップされた。暖色系の光によって照らし出されたのは、明治時代の匂いを漂わせるレトロなレンガ造りの……いや、ちょっと待て。あれじゃまるで、厄災の時に壊れてしまった『トーキョー駅』そのものじゃないか。


 生者の魂を現実へと送り届ける川。
 その川沿いに築かれた商店の存在しない街。
 片や遠方の至る所に映えるのは、高層ビルディングとネオンライト。
 どの価値観にも交わらないように架けられた石橋。
 その最奥に構えるレンガ造りの建築物。


 気付けば、ぼくの身体は勝手に、石橋を渡ろうとしていた。
 理屈ではなく、全身が、細胞が、存在が、それを望んでいるかのようだった。
 植物が日光を求めて茎や葉を成長させ、その伸ばし方を変えていくのと同じように、これはぼくの意思とは無関係の行動で、理屈ではなく、ぼくの全身の熱が、細胞の振動が、存在の意義が、精神を包括する魂も、その上位構造から降ってくる何もかもが――終着点に辿り着くことを、望んでいるようにしか思えなかった。
 ぼくは自分自身の肉体活動を細胞等に一任させて、思考だけの存在になった。
 この死角世界の旅路を振り返り、それまでの自分の行動を思い返していると、何だかぼくは可笑しくなってしまった。
 よくよく考えてみれば妙な話だ。そもそも、鎖を解きたい。現実に立ち向かうためには〝発〟がいる……だなんて、理性に基づいて考えてしまえば、『なぜ?』『どうして?』のオンパレードじゃないか。
 でも、今のぼくにはそこに対する『?』が一切ない。
 それを支えているのは、結局のところ『なんとなく』という曖昧なものだ。
 抽象的で、言葉にできなくて、だからこそ何もかもはっきりさせたがる理性と衝突しやすくて、でも間違いなく生命には『心』と『感性』が存在するんだ。
 そしてぼくたちには、それらを統べる上位構造の果ての果てにある〝何か″と自分自身を〝繋ぐ〟能力もあって、それがきっと、命の暗在的な部分から湧き出す、ホメオスタシスという名の『なんとなく』なんだと、ぼくは思う。

 だからどうした。それが何になる。
 なんとなくは何も生まないし、何の役にも立たない。
 現実に確固たるものを証明してくれるのは、理屈に基づく結果だけだ。

 ぼくはその意見を肯定する。実際、その通りだからだ。
 こんなもん、大事にしたところで何の価値になるんだって、疑い出したらきりがない。
 でも、言葉が『なんとなく』を否定しても、『なんとなく』が『なんとなく』を肯定している。
 だから、このたかが『なんとなく』を大切に扱うために、自分の命を燃やすことができるのなら、そういう生き方も悪くないと思えたし、むしろそれが自分にとっての最良なんじゃないのかとも――ぼくはこの世界で得た経験を通して、『なんとなく』確信できるようになったんだ。
 気付けば、ぼくはとっくに駅構内に入っていて、内ポケットから取り出した『欠けた乗車券』を、するり、と改札の切符投入口に滑り込ませていた。


     ◇


 ぼくとシオンはホームのベンチに座って、【ハザマの柱〔入り口〕】に向かう『特急列車』を待っていた。彼女の説明によれば、列車の到着にはまだ時間を要するらしい。
 なんでも、生者がこの特急を利用するのは、かなり久しいことなのだそうで、おそらく車両の準備や路線のチェックに手間取っているのだろう、とのことだった。
 この世界における時間という概念について、最早、多くを語る気はないが、待ち惚けを食らっている事実に変わりはない。何か退屈凌ぎになるものがないかと探していると、ホームの中ほどに自動販売機が設置されていた――が、ここで一つ疑問が生じる。
(この世界って、ニホン円だいじょうぶなのか……?)
「問題ないはずよ。試しに使ってみればいいじゃない」
「……なんだか、久々に心を盗み見られたような気がするよ」
「それは違うわ。今のはただの勘よ」
「え? 冗談だろ? 今まではぼくの心に、ずけずけと侵入していたじゃないか」
 シオンは少し苦笑いしながら、遠くを見るような目つきで口を開いた。
「言ったでしょ。ゲートというのは、その人の心の穴を媒介にして具現化する存在だって。あなたの心が変化するにつれ、私は徐々にあなたの心が読めなくなっていった。でもそれは決して悪い事なんかじゃないわ。だって、私との繋がりが薄くなるということは、即ち、あなたが自分の『心の門』を通過しつつある、ということでもあるから」
 そうだ。ぼくは終着点のことばかりで、すっかり忘れていたけど、ぼくがこの死角世界での旅路を、もし無事に終えることができたら、彼女という存在は一体どうなってしまうのだろうか?
「なあ、門を通過したら、そのあと君はどうなるんだ?」
「役目を終えたゲートはその場で消滅する。それだけよ」
 淡泊な物言いは相変わらずだけど、心なしか言葉の端々に、人間らしさが感じられる。
 思えば、初めて出会った時の彼女は、まるで幽霊みたいに寒々としていて、近親憎悪としか思えないほど、ぼくの心を煽っていたのに、今の彼女にはそういう感情が一切湧かない。言ってしまえば、着物を着ている普通の女性――という印象しか抱けなかった。
 少し寂しい気もしなくはなかったけど、だからといって感傷的になる必要はない。
 彼女はぼくのゲートであって、つまり、ぼくの欠点を擬人化した存在でもある。
 彼女の消失を拒んでいては、自分自身を乗り越えることなんて一生できないんだ。
 だから……でも――
「何か飲む? おごるよ」
「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうわ」
「なにがいいの? コーヒー、それともお茶とか?」
「んー、そうね。まだ特急の来る気配もないし、せっかくだから、実際に見て決めるわ」
「それがいいや。そうしよう」
 ――せめて、それくらいのことはしようと思った。ゲートが生者の心を媒介にするというのであれば、彼女はぼくの心の一部だ。自分の心を大事にできなければ、多分一生、ぼくは過去を肯定できなくなる。それは結局、今の否定に繋がってしまうんだ。
 ぼくとシオンはベンチから離れて、ホーム上をスタスタと歩いた。
 自販機で売られている商品は、パッと見、どこにでもありそうな何の変哲もない飲料ばかりなのだろうが、いかんせん全て外国語表記のため、ぼくは訳もなく好奇心をそそられた。
 炭酸飲料はペットボトルの底の形を見れば判別できるが、それ以外だと難しくなる。せいぜいアルミ缶とスチール缶を見分けることで、ジュースとコーヒーの判別ができる、という程度だろうか。
「私はこのオレンジ色の、スチールじゃなくてアルミ缶の方ね。これにするけど、そっちは決まった?」
「うん。ぼくはこれにするよ」
 そう言ってぼくは、人差し指で目当ての商品をシオンに教えた。
 ゲン担ぎというわけではなけど、ぼくは『黒色』のスチール缶を選んだ。
「あれ、でもこれ、支払いはどうすればいいんだ?」
「そこにパネルがあるから、あとは――」
「ああ、これね。分かった分かった」
 ぼくは普段自分が行っているのと全く同じ感覚で、機心電信を自販機のチップスキャナーに当てた。右手の合谷に内蔵されているマイクロチップが反応し、目当ての飲み物のボタンを押すと、アルミ缶とスチール缶が、ゴロゴロッと、下の取り出し口に排出された。
 ぼくはオレンジ色の缶をシオンに手渡してから、自分の物をスーツのポケットに入れた。
 さっきまで座っていたホームのベンチに戻り、お互い適当にプルタブを引いた。
 ちょうどコーヒーが飲みたかったから、ぼくはこれにして正解だった。
 黒色のスチール缶を傾け、中の黒い液体がぼくの味覚を刺激し――
「ぶっ!?――な、なんだこの味!?」
 シオンが吹き出すように、クスクスと笑いだした。そうか。彼女はこの世界の住人だから、ぼくが何を買ったのか知っていて、だからこそ敢えて何も教えなかったんだ。
「これ……ハーブティーじゃないか!」
「そうよ。あなたの選んだ商品名はマーブルドリンク。味は買ってからのお楽しみなの。運が良ければコーヒー味にも出会えたかもしれないけど、残念だったわね」
「ミステリーゾーンかよ……」
 味は悪くなかったけど、コーヒーを期待していただけに、ショックの方が大きかった。
「くっそー。現実に戻ったら、絶対にまともなコーヒー飲んでやる」
「いい兆候じゃない。現実に戻ろうとする意欲が湧いたってことでしょ? 少し前のあなたなら、考えられないような言動だわ」
「……っ。言われてみれば、確かにそうか」
「でも、さっきのリアクションは最高だったわ」
(――……この女…………っ!)
「で、そっちはなに飲んでんだよ?」
「これ? これはマヌカハニー&ココナッツミルクティーよ」
「なんだよそれ?」
 缶を片手で持ち上げて、ゆらゆらさせながら、シオンは自慢気に笑った。
 なんだか悔しいけど、商品名を聞いただけで美味しそうに思えてしまった。
「ぼくもそれ買ってみようかな――」

『――まもなく、ハザマの柱〔入り口〕行きの特急列車がまいります。なお、この列車は片道のみの運行となります。引き返すことも途中下車もできません。ご乗車になられるお客様は、お乗り間違えのないよう、ご注意願います』

 ホームに備え付けられたスピーカーから、駅員のアナウンスが告げられた。
 なんて間の悪いタイミングなのだろうか。ぼくはやけ酒のように、残ったハーブティーを一気に飲み干して、シオンの分も貰い受けてから、空缶をゴミ箱に捨てた。
 他の利用客の姿はなく、ホームには、ぼくとシオンの二人しかいなかった。
 列車接近警告を知らせる警笛が鳴り響き、音の方に目を向けると、特急車両独特の少し先端の尖ったフォルムが薄っすらと見えた。それはまるで曙光のように美しく、脳内にセロトニンでも分泌されたんじゃないかと、ぼくは思ってしまった。暗がりを照らすヘッドライトの光が十字に煌めき、その眩い光の反射は、ぼくの目を少し細くさせた。
 列車がホームに風を巻き起こしながら滑り込み、乱れる髪をシオンが手で押さえている。まもなく列車は停止し、開いた自動ドアを潜り抜けて、ぼくたちは手頃な座席に並んで座った。ぼくが左窓側席で、彼女が通路側だ。これだけ空席があるのだから、別々に座っても良かったと思うのだが、自然とそういう流れになった。

 特急列車はその後すぐに動き始めた。ゆったりとした速度でホームを抜け、列車が死角世界の入り組んだ街並みに突入していくと、直線にでも差し掛かったのだろうか、列車は段々と加速をかけていった。しかし、単なる加速にしては、シートにのしかかるGの圧力が異質に思えてならなかった。
 そして、ぼくが違和感を覚え始めた――まさにその直後、まるでネルクノックのスカイタクシーのように、特急列車が宙に浮いた。
 一瞬ぼくは、何が起こったのか分からならなくて、少々戸惑ってしまったけど、別にそれで驚くようなことはなかった。なにせ目的地が『空から生え出てきた逆さまのビル』なんだから、端から全うな交通手段なんて期待していなかったのだ。
 窓から一望できる死角世界の景観は、列車の高度が上がるにつれ、その範囲を広げていった。煌びやかな都会のイルミネーションとも、工場夜景とも異なるその街の在り方は、単純に美しいという言葉では説明不足な気がしてならず、どこかミステリアスで怪しい雰囲気を漂わせつつも、しかし一方で、この世のものとは思えない光彩が、この世界を輝かせていた――


 全体的にグレーカラーの目立つ街並み。
 価値観の衝突。白と黒の混ざり合う灰色の世界。
 赤、黄、青、白。ランダムに明滅するLEDライトと、点灯し続ける街灯やネオン。
 複雑に絡み合う高架橋。その上を駆け抜けていく列車。
 無機質な工場で働く人たちの機械的な動作と、雑多な繁華街で遊び倒れる人いきれ。
 近代的なビルの群れは密集地帯となって、人の生活圏を押し広げていく資本の波となり、逆に何も存在しない常闇の空白エリアは、列車のヘッドライトや内部の蛍光灯、店看板を彩る光だけが世界そのものになっていた。
 全てがアンバランスで、だからこそぼくは惹かれた。そして、それらの要所を繋ぎ合わせる『接点』となる座標に、この死角世界の〝駅〟は配置されていた。
 モールス信号のようなちらつき。脳に響き渡る暗号通信。
 街そのものが暗喩? メッセージ?
 やはり、街の光はぼくに何かを訴えかけている。
 初めて死角世界を見た時には分からなかった何かを、
 ぼくに――……っ!!!











       〝                   〟











     ――この空白が、ありとあらゆる波に繋がる実感だった。







(――ぼくの意識が……世界と共振していく……)

〝そら〟から降って来たホメオスタシスの波が、脳幹を通って溝内に下り、そして丹田に落ち着くと、ぼくはなぜか『死角世界が宇宙と同質の空間』なのだという、突拍子もないような発想を思いつき、けれど絶対的な自信をもって確信に至ると、ほぼ同時に『自分の脳細胞』を直視しているような錯覚に見舞われた。

〝脳は宇宙と相似形である〟

 どこかで見聞きした覚えのある言葉が、突然ぼくの記憶の引き出しを開いて表層部分に顔を出した。――何か、とても大事なことが、そこにあるような気がする。得体の知れない衝動が、ぼくを今一度、そのフラクタル構造とも言うべき、この世界の在り方を確かめるよう促して、リアレンズのように〝        〟の感覚を視界に付与しながら、ぼくは世界を意識と肉眼で包み込んだ。

 ニューロンという駅から発進したシナプスという名の列車が、次の駅であるニューロンに辿り着くと、シナプスは、そこからさらに複雑な分岐路へと旅立っていく。
 電気信号は、そのシナプスに乗車する乗客となって、いくつものニューロンを渡り歩き、その旅路の中で手にした情報を、他のニューロンに届けようとする。各シナプスは、情報伝達物質という連結器を接続することで、情報を交換し、そして電気信号たちは、新たに構築された情報を宿しながら、何処とも知れぬニューロンを求めて再び旅に出る。
 そうして、それらニューロン、シナプス、電気信号の繋がりによって、世界は拡大していくのだ。

 人も、宇宙も、同じように。

 仮に宇宙が誰かの脳みそなら、惑星がニューロンで、星の光がシナプス。情報伝達物質はその惑星に住む生命で、数多の星々から送られてくる情報は、生命に宿る意思となり、それを感知した惑星が、別の惑星に向けて新たな光を発するのだろうか。
 存外、宇宙の意思というのは、単一の存在から下されるものではなく、そういったネットワークによって構築される全体の願望であり、故に生命の意思と宇宙の意思の間には、決して断つことのできない―― 縁 ――による結びつきがあるのかもしれない。
 人間とは星にとって、どういう存在なのだろう? ぼくたちがこの大地を駆け巡るシナプスで、意思や心と呼ばれるものが情報伝達物質、とでもいうのだろうか?――っ! くそ、時間(エネルギー)切れか。

 ――思考回路を乱用していた暴走特急のような電流が弱まり、ビリビリしていた全身と脳神経は、言葉による通常運転が再開されたことによって、徐々にクールダウンしていった。
 ぼくがガス欠になったことで、〝       〟が〝   〟になると、やがて〝 〟は、感覚もろとも消えてなくなり、最終的に残ったのは『なんとなくの極み』の残り香……とも呼べるような、得も言われぬような余韻だけだった。
 ぼくは思わず苦笑した。一体、今のはどこから湧き出した力だったのだろう。
 少なくともぼくは、こんなことを発想できるような人間ではなかった。ネルクノックやマーブルタウンでも、似たような感覚世界に吸い込まれたことはあったけど、今のは何というか、ものすごい身近にあるのに、とても遠いような、そんな世界だった。
「自我は灯台下暗し。自分で自分の脳みそを確認することは、誰にもできない」
 シオンがふと、そんな言葉を口にした。
 隣に座る彼女は、手摺に肘をついて顎を手に乗せながら、どこに焦点を定めるわけでもなく、変に悟ったかのような達観した目つきで、さらに言葉を継いだ。
「それが死角世界。ここは宇宙でもあり、あなたでもあり、どこでもないから、どこへだって行ける」
「脈絡を必要としない、唐突な場所」
「そう。いよいよあなたとの旅路も、終わりに近づいているようね」
 シオンが窓の方に視線を投げ、ぼくもそれにつられて同じ方向に目を動かしてみると、空と大地の関係はいつの間にか逆転していて、天空を埋め尽くさんと広がる死角世界の空の下、曇天の地に車輪を乗せた特急列車は、目前に迫るハザマの柱へと針路をとるために、大きな弧を描いてカーブを始めていた。
 こうやって近くまで来てみると、あの建物が『ビル』ではなく『柱』と形容されている所以が、少しだけ分かる気がした。あれは現実と死角世界を支える柱であり、同時に価値観の狭間にそびえる、どこにも属せない異邦のビルなのだ。
「逃げずに、はればれと立ち向かうさ」
「それがあなたのモットーってわけ?」
「まさか。今はまだ、ただの心意気だよ――」
 ――ぼくが言い終えると、そのあとすぐに特急列車がブレーキを利かせ始めた。まもなく駅に到着するというアナウンスが流れたので、ぼくたちは席から立ちあがって、車両の出入り口付近で停車を待った。列車が、まるで凝固させた雲を削って作り出したかのようなホームで車体を完全に停止させると、開かれた自動ドアの先には、ぼくたちの来訪を待ちわびていたかのように、ハザマの柱が正面で控えていた。


     ◇


 先ほどまで地上だった景色は空となり、街を彩る照明は満天に煌めく星になっていた。
 ぼくの立っている地面は雲なのか、それともただのコンクリートなのか、そのどちらとも言えない踏み心地を足の裏で感じながら、ぼくはハザマの柱の麓まで歩いた。
 遠目からでは、その寸分の狂いもない直線的なシルエットと、上層階付近の幾何学的な形と曲線、さらにうろこ状の尖塔が目立っていたけど、いざこうして間近で見上げてみると……なんというか、まるで、キリンのように首を長くしたスフィンクスに、見降ろされているかのような気分になる。
 入り口にはガラスが張られていて、そのデザインは教会のステンドグラスから神秘性を全て取り除き、工業製品としての機能美を追求したかのような印象を受けた。
 ぼくは回転式のドアに手をかけて中へと入り、シオンもそのあとに続いた。
 ロビーの内装を見た瞬間、ぼくは得体の知れない神秘性に恐怖すると同時に歓喜していくのを感じ、物理的にも精神的にも圧倒されていく感覚に陥った。
 床一面に敷き詰められた豪奢な大理石には、四角形が波紋のように重なる紋様が描かれていた。どうやら亜螺屋敷で見かけた、浮上する石と同じ素材らしく、目を凝らすと分かる程度に、微弱な光の膜を形成していた。下から這い上がっている威厳は凄まじく、立っているだけなのに、ぼくの足は今にもすくんでしまいそうだった。
 しばらく棒立ちしていると、身体にまとわりつく緊張感にも慣れ、ぼくは数歩ほど前進した。
 奥に目を向けると、かなり凝った装飾の施された寄木細工のエレベータが確認できた。が、焦点を合わせると何かが吸い込まれてしまうような気がして、ぼくは咄嗟に視線を外した。
 そういえばシオンは? ビル内部に入ってからずっと静かなままだが……。
 ひょっとして彼女も、この得体の知れない圧に手間取っているのだろうか?
 そう思い、ぼくは身体を反転させた。
 すると、彼女は出入り口付近からほとんど動いておらず、その場に留まっているだけだった。
 彼女の不可解な行動に、ぼくが疑問を投げかけようとすると、彼女は指を上に向けて、「見て」と小さく言った。ぼくは訝しく思いながらもそれに従い――そして天井画として描かれていた巨大なセフィロトの樹を、目の当たりにすることとなった。
 ぼくにはそれが、宇宙という現象、その狭間に生じる運動エネルギーを創り出すために描かれた儀式図、あるいはエネルギー循環の流れを示す公式の絵画のようにも思えた。
 力場は決して外に漏れず、光は速度と誤解されて暗黒を彷徨う。
 まるで、宇宙とは、自らぜんまいを巻いて消滅を繰り返す、永久運動の死んだ見本なのだと、どこからともなく訪れる誰かから、そう宣告されているかのようだった……。
「人は我々の一人のように善悪を知る者となりて、今や生命の樹にすら手を伸ばさんとし、永遠に生ける者となるおそれがある」
 藪から棒に、シオンがそんな小難しいことを口走った。
「なんだよいきなり。永遠に生きるって……死の存在しない生なんて、もはや命ですらないじゃないか」
「それを聞いて安心した」
「……シオン?」
「直観は知識を超越する。あなたたちの脳の中にある、素晴らしい組織に比べれば、論理や計画的な努力なんて、本当は取るに足らないものでしかないわ」
 その瞬間、ぼくはシオンの身体が薄っすらと透けていることに、今の今になって、ようやく気付けた。と同時に、彼女が立ち止まったのではなく、動けなかったのだということにも理解が及んだ。
「言ったでしょ? 私の役目は終着点まで付き添うこと。ゲートである私は、この先に行くことができない。だから――」
「お、おいっ!」
「ここでお別れよ」
 ぼくがシオンの肩を掴もうとすると、そこにもう実体はなく、ぼくはつんのめりそうになった身体を何とか立て直した。
 振り返ると、彼女は柔和な笑みを浮かべた。
 あの皮肉や苦笑交じりの笑い方しかしてこなかった彼女が、初めて、温かみのある表情で微笑んだのだ――


 たとえ一人になろうとも、全世界に立ち向かって。
 世界から血走った眼で睨まれたとしても、
 あなたは真っ向から世界を見据えるの。
 恐れてはならないし、恐れる必要だってない。


「あなたの心に響く、小さな声を信じ給え」


 ――もう全身がほとんど消えかかっていて、彼女が話しかけてくれているのか、それとも大気が喋っているのか、その区別さえつかなかった。ただ、すぐそばに彼女がいるんだという気配だけは、感じ取ることができて、けれどその気配も、風にさらわれる煙のように、何処かへ消えてしまった。
 静寂が、ぼくの肌に押し当てられているかのようだった。
 時間を巻き戻せるなら、ほんの一瞬でもいい、シオンに会わせてほしかった。
 彼女との別れが辛いのではない。いなくなるのは、最初から分かっていたことだ。
 結局は自分自身の感情の分身。別れるも何もないのかもしれない。でも、確かにそうだとしても、せめて「さよなら」と「ありがとう」くらいは伝えておきたかった。
 しかし、どうやら終着点は、ぼくが未練に浸る暇さえも、与えてはくれないらしい。
 不意に、エレベーターの駆動音が地鳴りのように唸り声を挙げ、それから数秒後、到着を知らせるチャイムが、広いロビーに浸透していくように反響すると、寄木細工模様の開閉ドアが、ぼくを誘うかのように扉を開放させた。

「……ナーディア」

 この先に、お前がいるんだな。


     ◇


 重々しい鉄の塊。アイアンカラーの壁が、鏡のように反射してぼくの姿を映している。アールデコの意匠を凝縮したような筐体に揺られながら、ぼくは密室の中で扉が開くのを待っていた。眺めているだけで、自分が幾何学的な何かに還元されうるのではないか、そもそも人とは、そういう緻密な計算によって成立している存在で、元より数式なのではないかと、そういった疑問が模様になって意識に介入してくるような、そんな憂鬱な気分にさせられる装飾だった。
 このエレベーターの中には、行き先を指定するための操作パネルもなく、また、現在地を提示してくれる電光表示系もない。自分がどこにいるのか、どこに向かっているのかすら、ぼくには分からない。
 ただ一つだけ言えることがあるとすれば、この道は間違いなく終着点へと向かって伸びているという、予感めいた根拠のない確信だけが、今のぼくの意思決定を支えてくれているということくらいだ。
 壁に背中を預けながら、ぼくはどれくらいの時間を過ごしたのだろう。
 人間は、根源的に時間的存在だと言っていた、ハイデガーの言葉を思い出す。
 時間。人間が勝手に作り出したもの。
 宇宙は歳を取らない。ただ変化していくだけ。
 人間が空間に定規を当てて、X,Y,Z……などのように数値を代入し、空間の座標位置を確認することが『時間』なのだと、ぼくは思っている。過去も未来も現在も、なにがしかの『主軸』がなければ、人は対象を『観測』することができない。時代、場所、文化、ひいては宇宙も軸の範囲内に入るのだろう。
 量子力学の世界では、観測者の意識によって実験の結果が変わってしまう、という話がある。ぼくは科学者じゃないから、それがどういう理屈で成立している事象なのかは分からないし、科学的な説明ができるわけでもない。でも、もし仮に、この宇宙という巨大な空間が、実は外の世界からすれば、原子か、あるいはそれ以下の粒子程度の粒でしかなかった場合、その粒を観測している、どこかの誰かさんにとって、ぼくたち『宇宙の民』というのは、一体どういう風に見られているのだろう。
 それに宇宙と脳神経細胞の構造は酷似していて、おまけに脳は『想像』と『現実』の区別が、付けられないとも言われている。とどのつまり、この『宇宙』が見ているものが夢か幻かなんて、ぼくたちはおろか、存外宇宙にとっても、与り知れない領域かもしれないじゃないか。
 世紀の発見があったとしても、それ自体が宇宙の夢、もしくは外界から宇宙を見つめる観測者の胸三寸によって決められていることなのだとすれば、ぼくたちの運命って、一体なんのために存在しているのだ?
 まるで――空間、宇宙、彼岸と此岸、平行宇宙も何もかも、森羅万象という存在そのものが、蓋の開かないシュレディンガー……いや、開けてはならないパンドラの箱みたいだ。


 〝身のなかの一隅昏し曼殊沙華〟


 もし宇宙に花が咲くのなら、ぼくはそう表現してやりたい。
 宇宙の謎に疑いを持ち始めたら切りがない。でも、ぼくたちを取り巻く現実は、常に矛盾を孕んでいる。実感に基づく現実の果てに残るのは、常に疑い出したら切りがないという、至極単純明快な本質だけだ。
 その直後、矛盾が渦となって、ぼくの思考をかき回した。あんなに『なんとなく』を信じ切ることができていたはずなのに、宇宙の観測者なる存在を意識した途端、急にそれが委縮してしまったのだ。
 ぼくの信じるこの『なんとなく』でさえ、結局は根拠のない妄想空想の幻。胡蝶の夢。何を考えても無駄。思い付いたところで、矛盾の吸引機に何もかもが持っていかれるだけなのだとしたら……?


 だったら、考えることに……
 自我を持つことに意味なんてあるのか……――

〝      〟の中から、
 ――電〝子基板と〟影――が溢れ出てしまいそうだった。


 いつまで、この無限回廊のようなエレベーターは続くんだ……っ! 


「――……っがっ、っはあ、っはぁ…………。なんだ……揺れが、止まってる?」
 顔を上げてみると、扉は開いていなかった。が、黒い蜷局を巻いた『穴』のような空間が、ぱっくりと開いていた。ぼくは恐る恐るその穴を跨いで、筐体から抜け出た。
 ぼくがその黒い渦の中に入った瞬間、エレベータに開いていた穴は閉じてしまい、辺りは急に何も見えなくなってしまった。すると、ぼくの足元が仄かに明るくなった。見れば、篝火の灯った灯篭が左右均等に並べられ、そしてぼくに行き先を教えるかのように、手前から奥へと順々に火を灯していった。
 まるで、彼岸に続いているかのような『道』を、ぼくはただひたすら歩き続けた。
「……?」
 いつからそこに存在していたのだろう?
 というよりも、ぼくはいつ、この建物の正面に辿り着いたのだろう?
 その建物を正確に表現しうるだけの言葉を、ぼくは持っていなかった。
 知識を振り絞って無理くり形容するのであれば、サグラダ・ファミリアに、目を見張るような木造寺院の意匠を混成させたかのような外観だろう。いずれにせよ、この世のどこになさそうな超巨大建築物が、ぼくの前に突如として現れたのだ。
 意を決して中へと入ると、天井がとても高く、また中も相当に広いことが分かった。造りを見ていると、どこか聖堂のような雰囲気も感じるのだが、しかしながら、ここはどうにも木の匂いが濃い。サグラダ・ファミリアは石造りだが、おそらくここは木造建築なのだろう。とはいえ、内装は抹香臭くもなければ、聖書じみてもいない。漆塗りのチャーチベンチがシンメトリーに並んでいるが、なぜかその奥の祭壇に祀られているのは、神社の社殿ときたもんだ。ここにいると、敬虔とか信心深いという言葉の意味が、軽薄なものにしか思えなくなる。
 ぼくは左右のチャーチベンチの中央に開けられた通路を突き進み――そして、社殿を見上げるような恰好でぼくに背を向けている、黒い着物を羽織る人ならざる者の姿を、ぼくは真っすぐ捉えた。
「外観は、サグラダ・ファミリアとサンクチュアリー・オブ・トゥルース。内装はケルン大聖堂を意識した。そして我々の正面に祀られている社殿は、久能山東照宮のものを参考にしている。――どうだ? お前を招くには相応しい場所とは思わんか? 少なくともこの場においては、『信じる神』などいるはずもない」
 ナーディアは振り向きざまに、ぼくにそう語り聞かせた。
「どういう真似だ。ぼくは一応仏教徒だけど、別に宗教なんかに興味はないぞ」
「いや。神を信用していなくたって、人は何かを信用せずにはいられない。そのロジックが信仰に向けられるのか、科学に傾くのか、はたまた別の何かか。所詮、その程度の違いでしかない。構造は同じで、考えようによっては、現実とてある種の宗教ではないか」
「なにが言いたいんだ?」
「確かにお前は、この死角世界の内包する、感性、理性、葛藤――これら三つの要素にまつわる問答に立ち向かい、そして答えを生み出してきた。抜け殻だったお前が、よもやこの『終着点』にまで至ることになるとは、夢にも思わなかったぞ。だがな――」
 直後、瞬間移動の如き速さで、ナーディアがぼくの真正面に現れた。あまりの速さに思考が追いつかず、ぼくは反射的に一歩後退った。
「お前はまだ最後の問答に応えていない」
 ナーディアがそう言うや否や、社殿の奥に飾られていた[御扉]が開いた……?
(――なんでぼくは〝御扉〟なんて単語を知っているんだ……っ!?)
 突如、ぼくの頭が一気にぐらついた。違和感を感じた部分に手を当てると、後頭部、ちょうど首との付け根の辺りに、何かが差し込まれている!?
 よくよく観察してみると、ナーディアの身体から、帯状の黒い煙がモクモクと湧き出ているのが分かった。その黒い煙は、あの『カブキ顔の列車』がまとっていたものにそっくりで、無数に伸びる煙が、フラット型のLANケーブルに変質したかと思いきや、次の瞬間、体操選手のリボンのような動きを見せながら、確実にぼくの頭部に接続されていった。
「お、おまっえ、ぼくに、なにを!?」
「直に分かるさ」
 脳になだれ込む電流が意識をスパークさせ、全くもって身に覚えのない記憶、知識、感覚、実感、さらにそれらを複合的に組み合わせて生み出される知恵までもが、続々とぼくの中に流入してきた。
 それらは、まさしく『他人の意識』と呼ぶべきものであり、現在進行形でそれらと混濁させられているぼくの意識は、鬱蒼と生い茂るジャングルの木々によって見えなくなる空のように、自己認識が覆い隠され、それに伴い自我も希釈されていった。
 そういうことか。ぼくは今、ナーディアと〝融合〟しているんだ。
 あいつの保有している情報は今、ぼくの中に流れて、溶け合って、並列化されているんだ――しかし、こうやって『ナーディア』という他者を観測できるということは、ぼくの自我は敢えて残されている、ということなのだろうか? とはいえ、奴の目的はぼくに対して問いを投げることに他ならないのだから、自我がなければ本末転倒になってしまう。
「さあ、行こう」
 そう口にしたのは、果たしてぼく自身の意思なのか、それともぼくの中に入り込んだ第三者による意思なのか……。おそらく両方なのだろうと思いながら、ぼくは社殿へ近付くために前へと踏み出した。
 世界を塗り替える霊妙な光が御扉から四方に拡散していき、ぼくの存在は瞬く間に囲繞された。光に飽和したぼくの意識は御扉に吸収され――刹那、先ほど跨いだ『0』なんかよりも、もっともっとずっと大きい、まるでブラックホールのような渦が出現した。
 この恐ろしく巨大で果てしないエネルギーの奔流の向こうに存在するのは、深淵の暗黒、虚無――否、あれは……それすらも消えてしまう『無』にほかならない。
 ぼくたちの意識が、その『無』の渦中に放り込まれると、ミキサーにかけられたかのように意識が分解され、そして別の何かと結合し、また乖離していった。
 その渦の中で何とか自我を保つことができたのは、偏にナーディアという複合体が盾になってくれていたおかげだった。溶け合うことも分裂することも、彼らにとっては何ら特別なことではないように見えた。さも当然のように総体が増え、当たり前のように総体が千切れていく。
 絶え間なく、止めどなく、休むことなく繰り返される消失と同化。
 だが、それが『無』という文字に置き換えられるような『有限の無』である以上、必ずどこかに終わりは存在する。もしこれが何もかも消す『真の無』であれば、こうやって何かを思考することすらできないはずだ。


 宇宙の神秘とか、高尚な哲学とか、そういう世界とは一切合切無縁の、もっと肌身に近い、唯物的、且つ即物的な現実――つまり、およそ人が感じられるであろう、あらゆる『負』を内包した痛み、悲しみ、苦しみ、恨み――そういった暗澹たる感情を圧縮して濃縮したかのような力場を、この渦の最果てに垣間見ることができた。そこはまさに『人恨の沼』とでも言うべき領域であり、ぼくの意識はその沼から湧き出てきた昏い鎖に捕らえられ、そして引きずり込まれるように沈んでいった。


     ◇


 昏い部屋。いや、空間と言うべきか。ぼくは何らかのクッションチェアに座っていて、両サイドに設けられている肘掛けに手を置いていた。
 そのとき、不意に後ろからライトが照射された。前面に映像が映されてからしばらく経った後、ぼくはようやく、それが半世紀以上前に普及していたと言われている、『フィルム映画』であることに気が付いた。生まれて初めて目にするフィルムの画質は、とにかく視界がざらついて、スクリーン自体が、今にも焼け焦げてしまいそうな感じに見えた。
 どうやらぼくは、映画館にいるらしい。でも、劇場内にいるのは、ぼくだけだった。
 間もなく上映が開始された。てっきり白黒かと思ったけど、放映されたのはカラー映画だった。タイトルらしきものは一切なく、いきなり冒頭シーンから映し出された……はずなのだが、景色の3分の2近くが真っ白い煙のようなものに覆われているせいで、なにが映っているのかほとんど分からなかった。かろうじて理解できるのは、映画の中の時間帯が『夜』だということくらいか。
 次第にその煙が薄れていくと、石造りの街並みが現れた。ガス灯の淡い火の灯り照らされながら、しかし、道行く人々は、ぼうっと下を見つめながら歩いていた。おそらく季節は冬だろう。みんな、ロングコートやマフラーを身に纏っている。とにかく、全体的に重苦しくて、どんよりとした印象しか受けない。まるで、街そのものが疫病を患っているかのような光景だった。
 車輪の音が聞こえたかと思うと、その直後に馬車が街道を通り抜け、そしてどこからともなく鐘の音色が木霊すると、場面は次のシーンへと切り替わった。
 ランプシェードから豆電球のような光が漏れ、その光源によって、どこかの民家の中が明るくなっている。おそらくはリビングであろう場所には、机を囲うような形で四人座っていた。兄妹と、その両親は仲睦まじく、家族団欒といった食事をしていた。とても幸せそうに見えるが、お世辞にも裕福とは言えなかった。子供が何か喜ぶたびに椅子はギシギシ鳴るし、食卓に使われている木机だって、何度も修復された跡が目立っている――でも、それでも、彼らの幸せは心から湧き出ているものなのだと、ぼくには感じられた。家族を失ってしまったぼくには、その日常の風景が、どこか遠くに置き忘れた、懐かしさと哀愁に満ちたものに見えてしまった。

 どうやら、この物語の主人公は、その家庭の長男らしい。
 彼はとても現実に即した善人だった。曲がったことは大嫌いで、嘘はつかず、家族を慈しみ、困った人がいたら助け、しかし自分の身を滅ぼすような善意は最小限に留めるような、そんな人物像だと言えるだろう。絵に描いた聖人君子とは違うけど、それでもやはり、少しお人好しすぎるくらいの善人であることには違いなかった。

 しかし、そんな彼の生活は唐突に終わりを迎えることになる。
 その日、男の子の両親と妹は、学校への入学手続きのために、少し遠出をしていたのだが、中々夜遅くになっても帰ってこなかった。
 さすがに不安になった彼は、けれど突如に呼鈴が鳴り響いたため、慌てて玄関の方へと駆けて行った。が、ドアを開けた先にいたのは家族ではなく、なぜか近所の老夫婦だった。そして彼らは、真っ青な表情で、こう口にしたのだ。

「あんたの両親と、妹さんが……通り魔に殺されちまったんだよ……!」
 その時の男の子の心境とは、一体どのようなものだったのだろうか。こうやって映像を見ているだけのぼくには、想像力を働かせることしかできないけど、多分、世界と現実が乖離していくような、そんな孤独を感じたのではないのだろうか?
 いずれにせよ、彼は嗚咽交じりに同情してくる老夫婦の声に対して、全く反応できていないように見えた。彼の表情は、ほとんど死人みたいだったから。

 一方その頃、この霧に包まれた暗い街では、ある噂話が絶えず飛び交うようになっていた。それは、街に充満している白い煙を吸い込んでしまうと、たちまち病にかかってしまうというもので、事実、その煙の濃度が強い地域に住んでいる住民のほとんどは病に陥り、最悪死に至ってしまうケースが相次いで起きていた。
 実はその煙の正体というのは、公害によって発生したスモッグだったのだが、その物語の渦中を生きる人々にとって、それはただの霧のような煙でしかなく、まさか自分たちの生活を支える暖炉に放り込んだ石炭や、ディーゼルエンジンから排出される煙が、自分たちの首を絞めることになるなんて、夢にも思わなかったのだろう。
 男の子が住んでいる地域も、例に漏れず霧の被害を受けていたのだが、彼は無事だった。傷心で家に引きこもることが多くなったせいもあるのかもしれないが、住居の中にいてもスモッグ被害に遭う人間がいたのだから、彼の生存は、もはや奇跡と言った方が良いのかもしれない。
 しかし、不幸とは度重なるもので、その煙が続々と噴出している民家が発見されたのだ。
 その民家というのは、今は誰も使っていない空き家だったのだが、その隣に住んでいたのが、あろうことか、その男の子だった。
 空き家には人の踏み入った形跡が残っていて、付近の住民は、男の子がやったのだと騒ぎ立てた。それまで彼のことを労わっていた老夫婦でさえも、掌を返したかのように彼を責め立てた。
 警察は足形から推察するに、これは大人の仕業だと主張し、男の子を擁護してくれたのだが、周りの人間はその新事実を受け入れようとはせず、きっと食い物に困った男の子が、その悪知恵を最大限に発揮して大人用の靴を履いたんじゃないのか?……という反論を繰り出す始末で、とにかく、住民らの怒りが最高潮に達しているのは、もはや火を見るよりも明らかだった。
 住民たちの主張が、やがて市内全域までをも巻き込むようになると、『市民』たちは、この男の子こそが悪魔の子孫であり、この煙を生み出した元凶なんだと、勝手に誇大妄想に浸り、その考えに『猪突妄信』するようになっていった。
 男の子は自分の無実を訴えたが、信じる者は一人もおらず、市民の要望によって地下牢に放り込まれてしまった彼は、科学がその煙の正体を解き明かすまでのおよそ二年間を、光が一切届かない穴蔵の中で過ごすことになった。
 彼は思った。どうして自分がこんな目に遭わなければならないのだろうか――と。
 それでも彼は、こういう不幸にもきっと意味があるのだろうと信じ、科学が彼を助けてくれるまで耐え忍んだ。
 
 地下牢の鍵を解錠しに来たのは、役所の人間だった。何の知らせもなかったために、男の子は最初戸惑っている様子だったが、徐々に事実を受け入れ、ようやく自分が解放されるのだと、彼はその喜びと共に表情を明るくさせた。
 長い監禁生活を送っていたため、体はひどく衰弱し、骨も細くなっていた。
 久々に浴びる日光は、彼にとって祝福以外の何物でもないように、ぼくには思えたけど、同時に気の毒でもあった。なにせその男の子は、数年越しに浴びる太陽の眩しさに眼が耐え切れず、ほとんど瞼を開けられないような状態だったからだ。
 しかし、彼が地下から地上に戻ったことを喜ぶ人間は、一人もいなかった。
 彼を閉じ込めろと懇願したほとんどの人間が、スモッグの影響ですでにこの世を離れていたのだが、かろうじて生き残った僅かな市民の間では、やはり彼はまだ悪魔のままで、最後の最後まで彼を地下牢に戻すことを訴え続けていた。
 彼はその後、母親の義理の妹にあたる夫婦の家に引き取られることになった。が、彼は町中で噂になっていた悪魔だったため、人間として真っ当に扱ってもらえず、酷い仕打ちを受け続ける日々を送っていた。
 それはほとんど、虐待……いや拷問のような光景だった。
 鞭で打たれ、雑用にこき使われ、与えられる食事も最低限、それもカスみたいな残飯を寄せ集めた、およそ『食事』とは言えようなものしか提供されない日々。なのに、そんな惨たらしい生活にもかかわらず、その男の子の心に悪意の芽が生じる兆候なんてものは、微塵も感じられなった。

 さすがにその時は、ぼくも半ば呆れてしまった。
 いくらなんでも、人が良すぎる。
 なぜ怒らない? なぜ憎まない?
 少しくらい善性を疑ったって、罰はないだろう……と。

 男の子の部屋は、外に設けられている非常に狭い物置小屋だった。当然、他の物も散乱しているから、彼は横になって眠るスペースを確保するのに、いつも苦労していた。
 彼の小屋には叔父の作った錠前が掛けられていて、中から開けることができないようになっていたのだが、扉を押してみると、ほんの僅かではあるけれど、隙間が空いて外の景色を伺うことができたので、彼はその隙間に片眼を摺り寄せて、毎晩、「大人になったら、いつか街を出よう」と心に唱え続けていた。
 やがて数年の歳月が経ち、男の子は青年になった。
 そして彼は、なけなしの貯金を使って旅に出ることを決意したのだった。
 親戚夫婦からも離れ、育った故郷さえも離れ……自分のことを誰も知らない地域にたどり着くまで、あてのない、とてもとても長い旅を続け、そしてようやく自分の落ち着きどころを見つけた。
 そこは、海の見える小さな村だった。
 彼はそこで料理店を開き、慎ましくも健康的な日常を過ごせるようになった。
 穏やかな時間だった。それまでの苦難が嘘のように。
 彼は久々に、幸せという言葉の意味を、思い出すことができていたようだった。とはいえ、それはもう、ぼくにとってはほとんど『当たり前の日常生活』でしかなく、如何に彼が過酷な状況で育ってきたのかということが、痛烈に理解できてしまうシーンでもあった。
 彼はその後、店の常連客であった女性と恋仲に落ちた。二人で暮らせる家を買うことになり、彼はサインをした。
 映画だからこその演出なのか、はたまたぼくが『厄災世代』で、人間の嘘が日常茶飯事のような場所で生活していたからなのかは分からないけど、なんとなく、その女性からは『ファム・ファタール』の匂いしか感じられず、ぼくの心はざわついた。
 その後まもなく、彼は恋人と結婚することになり、この上ないほど幸せの絶頂を満喫させてもらえたところで――やはり地に堕とされた。
 ぼくの思った通りの展開だった。彼は女性に騙されていたのだ。彼がサインしたと思っていたのは、実はとても巧妙な細工が施されていた書類で、家を購入するためのものではなく、借金を肩代わりさせるための〝契約書〟だったのだ。
 彼は村の人間に助けを求めた。だが村人は誰も彼を擁護しようとはしなかった。それに彼が騙されたと気付いた時にはもう、店を訪れるのはお客ではなく、借金取りだけになっていた。
 女性に背負わされた法外な金額など払えるはずもなく、彼はその日の晩に夜逃げした。
 それから数年間、彼は各地を転々と移動しながら過ごした。
 その道中、ひっそりと故郷に帰って、家族の墓参りに訪れたのだが、なぜか家族の墓が見つからない。彼は全く無関係の体を装って、通りすがりの人に訊ねてみた。すると、彼の家族の墓はだいぶ昔に撤去されてしまった、という信じがたい事実を知らされた。理由を尋ねてみると、その両親の息子が悪魔だったから、ということだそうだ。
 相手の表情が少しだけ曇り、その眼光に訝し気な気配を感じ取った彼は、適当な言葉でお礼を取り繕って、自分がその悪魔だと勘づかれる前に墓場から立ち去った。
 故郷の街を歩きながら、途方に暮れたかように空を見上げる彼は、果たして現実の惨たらしさに諦観の念を抱いたのか、それとも絶望したのか、はたまたその両方か。
 空間の点景になるほど茫然自失になっていた彼の表情や、その眼差しというのは、何とも形容しがたく、『雲海を突き破るほどの高さを誇る山の頂上を拝む非力で救いようのない人間が、手の届かない場所だと分かっていつつも、それでも空を求めるような、信じられないくらい静かで、そして虚しい目つき』という、ひどく空恐ろしく、そして抽象的な表現をぼくの中に呼び込んだ。その時、その刹那、スクリーンを席捲していた彼という存在は、見ているこちらがそう思いたくなるくらい、混沌とした感情の澱に沈んでいたのだろう。

 しばらくして、カットが切り替わった。
 大きい貨物船が数隻停留していて、大海原も見える。
 そして、その街の俯瞰風景を映しながら、『僕は明日、生まれ育った母国から離れる。そう決心したんだ』というモノローグが流れた。
 どうやら彼は、異国の地に渡るために、外航船の定期便が出ている港町まで足を運んだらしい。
 適当な安宿の部屋を取った彼は、せっかく自分が生まれ育った母国での最後の晩なのだから、という理由で宿屋の近くにある酒屋まで足を運び、飲みたいだけ飲んでやる、と言わんばかりの勢いで、ごくごくと、数本のボトルを飲み干していった。
 やや意識が朦朧とし始めた頃、明日は船で旅立つのだから、流石にこの辺で止めにしておこうと自制を利かせた彼は、千鳥足で店をあとにした。
 アルコールが脳を弛緩させ、ふんわりとした気分を味わいながら、宿への帰り道を歩いている彼は、不意に感じた殺気によって酔いを覚まされ、そして振り向きざまに襲い掛かってきた二人組の男に、棍棒のようなもので頭部を思い切りかち割られてしまった。それが、この映画の主人公の最後だった。
 だが彼は死の直前、少し奇妙な体験をすることになる。
 いわゆる走馬灯と呼ばれるものなのかもしれないけど、どこか違う。
 彼の意識が見たものは、今まで自分を不幸に陥れてきた人間たちが、その後どうなったか、というものだった。
「みんな、とても幸せそうに笑っている……」
 彼を地下牢に追いやった近所の老夫婦は、孫にアップルパイを与えて楽しそうに笑っている。彼らは後にスモッグで全員死んでしまうのだけれど、それでも彼らは、死の間際まで幸せそうだった。
 彼を物置小屋に押し込んだ親戚夫婦は、彼がいなくなったことを嬉々として祝った後、別の地に移住したそうで、新天地で開いた店の経営が上手く軌道に乗り、業績がうなぎ上りに上昇していた。分不相応な家を購入し、今夜は家族でホームパーティーを開催しているようだった。
 彼を騙した女は、本命だった男のところに戻っていた。彼と一緒に暮らす予定だった家には、女と本命の男と、そして二児の子供が、とても幸せそうに暮らしていた。
 そしてたった今、彼を殴り殺した男二人は、この地域で有名な暴漢で、何度も警察の厄介になっているような連中だった。二人は、彼の上着のポケットに手を入れて、財布を取り出すと、中身を確認することなく、そのまま路地の暗がりに消えてしまった。微かに聞こえてきた談笑。今宵はご馳走にありつけるのだそうだ。
 すでに死体となった彼の姿を、意識体――あるいは霊体とでも言うのだろうか――となった彼が見降ろしていた。
 彼の視線の先には、明日乗る予定だったはずの乗船切符が一枚。返り血を浴びた状態で地面に落ちていた。
 彼は今まで自身の身に降りかかってきた、様々な不幸を思い返した。もちろん僅かな幸せだって感じることはあった。でもそれは、彼がどうしようもない日常の中から、ようやく捻り出した幸福感か、もしくは騙されていた時間の――そのどちからにすぎない。
 彼は生まれて初めて、心に昏い感情を抱いた。
 そして彼は、それが『憎しみ』なのだと知り、その黒い力を四方にまき散らした。
 自分を苦しめてきた人間たちを憎んで、憎んで、その怨みの力を死念に宿し、文字通り皆殺しにした。
 今までは……生きていた間は、不幸を知ることで、幸せを知ることができるのだと、彼は信じて疑わなかった。が、「それは間違いだった」と、彼は明瞭な言葉で断言した。そして、今や魂だけの存在になってしまった彼は、聞こえてくる断末魔をよそに、天を仰ぎながら自問したのだった。

「僕の人生って、なんのためにあったんだろう?――」

 映画はそこで終わりだった。エンドロールらしきものが流れ、ぼくは今の作品が言わんとすることを考えてみた。おそらくは『正義が勝つとは限らない』とか、『必ずしも善意が報われるわけではない』とか。そういうことを主題に掲げて、ぼくという観客にメッセージを伝えてきたのだろうが……。しかし、どうにも解せない。ここは『終着点』のはずだ。そんな分かりやすいことをテーマに引っ提げて、この空間がぼくに問答を仕掛けてくるのだろうか?

 答えは断じて〝NO〟だ。

 ということは、つまり別のテーマが今の作品には隠れていた、ということになる。
 ……でもそれが何なのかが、一向に掴めない。
 言ってはなんだが、こういう『不幸』なんて、世界には腐るほどある。この作品の彼は、それを極端に表現しているつもりなのだろうが、事実は小説より奇なりという言葉の通り、あれ以上の不幸だって、世界には山積しているはずだし、何よりあの厄災を経験したぼくだって、『不幸の当事者』という意味合いにおいては、スクリーンの向こう側の彼と、そこまで大差なかったはずだ。
(なんなんだ、この作品はなにを言いたいんだ?)
 画面が切り替わって明るくなると、スクリーン上に再度ラストシーンが現れた。その画面上には、意識体となった主人公の青年が、亡霊の如く路地の中央で空を見上げている姿が映し出されていた。

「その発想はいただけないなあ」

 その瞬間、今までは『スクリーン』と『観客席』という線引きによって分かれていたはずのぼくと青年の関係が、たちまち『相対している話し相手』というものに変わったのだと直感し、ぼくは肌が総毛立っていく気分に見舞われた。
 今、スクリーン越しに映る彼は、明らかにぼくのことを見ている。試しにぼくが席から離れて移動してみると、それに応じて彼の視線も同じように動いた。

「僕は君をちゃんと見ているよ。それに一応言っておくけど、この映画館の中に出口なんてないから、逃げようとしたって無駄だからね」
「……お前は……なんなんだ?」
「僕かい? 僕はこの映画の主人公さ。ついさっきまで見ていただろう?」
「いや、ぼくが聞きたいのはそういうことじゃなく――」
 すると、青年がぼくの言葉を遮るように口を挟んだ。
「――ああ、そういえば君はさっき、自分のことを『不幸の当事者』だなんて自己評価していたね」
「……ずいぶん棘のある言い方だな。被災した人間は不幸を知らないとでも言いたいのか?」
「違うんだよ。分かってないなあ」

 人の言葉を飄々と流し、さも自分だけがこの世で最も悲惨な目に遭っているのだと言いたげな態度を見せつけられ、ぼくは段々とイライラを募らせていった。なんだかこの青年の口調は、厄災世代の受けた心の痛みを、否定しているような気分にしかなれない。

「君が受けた傷っていうのは『天災』だろう。人が人に行う悪意を受けたわけじゃない。でも僕たち『人恨の沼』に住まう想念は違うんだ。僕たちが受けたのは『人災』なんだよ。被害を加えた相手を明確に意識することができて、恨むことも憎むことも殺意を抱くことだってできる。手前勝手な人間が起こす『人災』なんだよ……っ! 世界にとっては、とてつもないくらいどうでもいいことで、でも被害を受けた人間にとっては一生残るような
〝怨恨〟になもなり得る。僕たちはなあ、この地球が生まれて以来、ずっと溜めに溜めに溜め込んで放置されたままの、人間が生み出してきた憎しみそのものなんだよっ!」

 心臓を握り潰して、その汁を啜っているかのような、負の波動……いや、物理的な圧力を伴った思念の風が、スクリーン越しに観客席まで飛ばされた。ぼくはその突風に煽られたおかげで、身体を仰け反らされたが、シートの背もたれに手をつくことで、辛うじて体勢を維持することができた。

「僕たちは何のために生まれてきたんだろうね? 単に人を憎むだけ憎んだ挙句、怨念返しすらできないまま、その生涯を潰された。なんて報われない人生だったんだろう。そういえば君はさ、正と負は表裏一体だって言ってたよね? 負の存在がなければ、正を知ることができないとかなんとか、随分とまあ綺麗事を語ってくれたわけだけど。ってことはだよ、大局的に見てしまうとだね、僕たちの喰らってきた『負』っていうのはさあ、その対となる『正』を生み出すための〝贄〟だった……っていう考えにもならないのかなあ? ねえ、そうでしょう? どう思うよ?」

 彼はその眼を病的なまでに丸々とさせ、狂人のようにぼくを睨みつけてきた。

「答えてくれないのかい? ここはもっとも現実じみていて、だからこそ今までの駅とは違う。インテリ受けしそうな哲学もなければ、坊主が寄こすような説法もクソも何もない。とってもくだらなくて、如何にも人間臭い問答をよこす場所。それが『人恨の沼』なんだよ。…………ねえ、だんまり決め込んでないでさあ、さっさと応えてくれないかな?」

 青年はほとんど演説に近い口調で、まるで遠い過去に思いを巡らすかのように、視線を虚空に投げると、そのまま流し目の要領でぼくのことを睨みつけてきた。
 ぼくは返答に窮した。確かに〝理屈〟の上では、彼の言うことにも一理ある。が、それを安易に肯定してしまったら、その途端に全てが崩壊してしまうのではないかという、得体の知れない不安感が心にこびりついているのも事実で、だからぼくは、口をつぐむことしかできなかった。
 彼は何も言わないぼくに苛立ちを募らせているようだったが、なぜか急に狂ったように笑い出して、改めてその病的な眼で負の風を劇場内に送り込んできた。

「そおだあ。良いことを思い付いたよ。正の何たるかを知るためには負が必要なのだと、君自身が身をもって証明すればいいんだよ。別に異存はないだろう? だって、君自身がそれを肯定すると、ついさっきマーブルタウンで高らかに宣言していたんだからさあ――」

(――はっ!?)

 すでにスクリーンの中に人影はなかった。ぼくが『何処に消えた!?』ということを頭に思い浮かべた頃にはもう、ぼくの首は彼の両手によって締め付けられていた。

「君の言っていることはさあ、所詮、傍観者席での戯言に過ぎないんだよ。実際にヒトから痛みを喰らったわけじゃない。だからそんな綺麗事がほざける。痛みに感謝? 馬鹿かお前は。言いたいことは分かるけどな。限度ってもんがあるんだよ。限度が。マフィアの拷問でも受けて、指を一、二本切られて、お前はそれでも〝感謝〟だなんて、そんなふざけた言葉が言えるのか?」

 尋常じゃない握力……いや、これが憎しみの力、ということなのだろうか。
 全身に人間独特の悪意が迸り、ぼくはこれが人が人にもたらす恐怖の根源なのだと痛感させられた。彼はぼくの首を掴んだまま身体を宙に持ち上げると、背中から昏い鎖を生やして、それを蜘蛛の足みたいに展開した。ぼくはその鎖によって即座に捕らえられ、体の自由を奪われ、抵抗する間もなく、映画のスクリーンの前まで運ばれた――

〝それこそ、祭壇に捧げられる生贄のように〟

「同じ苦しみを味合わせてやるよ」

 スクリーンの中から大量の鎖が噴出し、それらがイソギンチャクの如くぼくの体内に入り込むと、ぼくのエピソード記憶は他人のものにどんどん上書きされ、そして鎖が痛覚までをも刺激するようになると、いよいよぼくの身体は実質的な痛みを感じるようになり、それが竜巻のように幾度も変わり、信じられない速度でぼくの脳を犯し続けた。続々と頭の中になだれ込むヴィジョンが、ぼくの脳神経にかかる負荷などお構いなしに、矢継ぎ早に浮かんでは消えていく。それはどこか、理解を欲する人間の性急さに、相通じるものがあるように思えた。けど、今はそれについて気にしていられる余裕がない。少しでも気を抜けば、途端に精神が焼き切れてしまいそうな、絶命を予感させるほどの瀬戸際なんだ。
 加えて〝     〟と繋がる〝―― 縁 ――〟の一切が断ち切られてしまっていて、ぼくがいくら【〝    〟の余韻の欠片】をもってして外界に意識を飛ばそうとしても、何か得体の知れない『障壁』のようなものに阻まれるせいで、昏い鎖の包囲網を突破することができないようになっていた。
 目を瞑ってみても、映像は途絶えない。だが、それは考えてみれば当然のことだ。ぼくたち人間が見ている景色というのは、目が認識しているものではなく、脳によって映し出されている景色なのだから……。耳にまぶたがないのと同じで、脳にはスクリーンを閉ざす幕がない。来る者を拒めず、去る者はいない。ぼくの身体に流れ込む澱みの量は、間違いなく増加の一途をたどっていた。
 暴力、虐待、いじめ、殺人、事故、詐欺、拷問、戦争と、そこから生じる、いや生じさせらる憎しみ、痛み、苦しみ、悲しみ。
 そうやって、負の連鎖から生まれてきた様々な感情は、電気的データである記憶によって形成され、そしてそのデータは所有者の死後、電気の内部に含まれている電子の質量の影響で、地球の引力に吸い寄せられていくのだ。争いに根付く復讐と報復の応酬は、案の定、終わりの見えない怨念返しになり果て、『人恨の沼』に身を浸す生き方しか選べなかった魂は、今や無常(ゆらぎ)を拒む固着執念の澱と化して、この地球の至る所にへばりついていた。
 避けようのない暴力と、知力や身体能力を含めた、覆しようのない先天的能力差。結局、力のない者は屈するしかない、ということなのか……。悔しいけど、所詮この世は弱肉強食。心臓という器官は平等でも、個々の命に賦与されたステータスは常に不平等なんだ。
 だけど、そこに引っ張られていては、いつまでたって昏い鎖に囚われたままじゃないか。あれは恨みの生き血を啜って活動している存在であって、このままじゃ鎖の思う壺に――

〝それの何が悪い!!〟

 その刹那、怨念が風の刃となってぼくの身体を突き刺した。ただでさえ情報の処理に追われていたぼくの脳は、その一撃によって魂が暗転しかけた。

〝鎖なんてどうでもいいんだよ。我々はただ純粋に、殺したい相手を極限まで追い込んでから、じわじわと嬲り殺してやりたいだけだ。ハイヴァもネルクノックも関係ない。復讐を完遂させることさえできれば、それでもう十分だ。思い残すことなんて、なに一つないないんだよ!〟

 ぼくの身体は留まることのない激痛と心的苦痛に耐えきれず、早々に破壊された。
 しかし、鎖は攻撃の手を緩めるつもりなど欠片もなく、身体に残っていたぼくの意識さえも、根こそぎ殲滅する算段らしい。
 いよいよ『ぼく』は剥ぎ取られてしまい、スクリーンの中に――つまり『人恨の沼』に、べっちょりと自分の意識が浸っていった刹那、ぼくは、本当の意味で抜け殻になってしまった自分の肉体を意識の端で捉え――そして瞬きよりも速い瞬刻の後、ぼくの何もかもは闇の中に閉ざされた。
 ぼくは逃げることも、叫ぶことも、逆らうこともできない、そんな己の無力さを痛感しながら、ただただ、意識を蝕む鎖の引力に陥れらるように、ずるずると沼の〝瞋淵″まで墜ちていった。


     ◇


 世界の内包する憎しみ。
 人災の渦。顕現された災禍のカタチ。
 言語化できない『怨み事』の数々が、時代や国境の垣根を越えて生の感情をぶつけてくる。しかし空間は、敢えてぼくに馴染みやすい負の液体ばかりを塗り込んでくる。確かに戦争によって生じた不幸を塗りたくられるよりは、こちらの方が共感しやすくはなるだろうが、そんな脅迫じみた気の利かせ方は、かえって相手を怖がらせるだけだ。
 ほら、例えば今ぼくに直撃した痛みや怒りは、親に虐待されたり、学校のいじめによって死んでいった子供たちの〝瞋〟だ。
 苦しいと言うことさえできず、大人の暴力に屈するだけで、膝を抱えて部屋の片隅で涙を呑む毎日と、学校に行き、机に貼られたデジタルペーパーに嫌がらせ用のウィルスを送り込まれる日々。
 自殺を選んだ子供たちの断末魔が聞こえる。首を吊った時に感じる、肌に食い込むロープやベルトの感触と、高所から飛び降りた時の最期が、ぼくの魂に入りこみ、抉るような心の痛みを植え付けるだけ植え付けると、まるで波にさらわれる砂のように、笑いながら去っていく。
 殺された子供の痛みが奔る。殴られた痣の痕。更衣室でいじめられるその子の苦痛。
 なぜ更衣室と思ったけど、すぐに理解した。いわゆる新世代教育の暗部というやつだ。今のニホンにあっては、管理の目が届かない場所なんて、そういうプライバシーの絡むようなデリケートなエリアにしかない。畢竟、ガス抜きをする場所というのは限定される。もはや人が人を殴りたいと思うなら、そういった人体の恥部をさらけ出すような場所に行くしかない、ということなのだ――っ!

 言語化の限界点だ。
 自分の言ったことを引用するのもおかしな話だが、言葉という存在の本質は〝差別〟に基づくものであり、こうやって『虐待』や『いじめ』というキーワードを用いている時点で、ぼくは『言語化されなかった怨念』たちの恨みを買うことになってしまうのだ。

〝こっちの憎しみはどうなる!?〟
〝こっちの受けた痛みはなかったとでも言うのか!?〟

 形を与えられなかった〝瞋〟が、自ら言葉を発することで顕現し、狂信的な勢いでぼくに言い寄ってくる。

〝借金の苦しみだっていじめや虐待以上に苦しんだぞ!?
〝そっちばかりに意識を向けるなぁぁあっ!!〟

 これは……ニホンが潰れてしまった際の苦しみ。
 返せないくらい膨れ上がってしまった、お金の重さ。
 社会は契約という制約によって保たれていて、同時に縛り付けられてもいる。
 これは、現代というあやとりの結び目に巻き込まれてしまった人たちの怨念。
 決して解けることのない、恒久的な幸福と秩序に捧げられる贄。
 このシステムがもたらす恩恵や幸せというのは、つまり自分以外の存在が受ける『しわ寄せ』によって生じるテクスチャのことだ。

〝能書きはいいからさ、セックスで金もらう気分でも味わってみたら?″

 唇に柔らかな感触が生じた直後、ナメクジのような、ねっちょり、とした肉欲が、口の中全体に広がっていく不快感に襲われ、次第に自ら人間性の弾力を放棄していく気分に見舞われた。反応したくもないのに、身体は勝手に疼いてしまい、感じるということが卑しいことに思えてならず、それと同じくらい人間の野蛮性、あるいは野生性とでも言うべき嵯峨を呪わずにはいられなくなった。
 硬直した〝ブツ〟から溢れ出る生臭い衝動が、ぼくの意識に無理やり押し込められて、その粘着質な男どもの野蛮なエゴの絶頂が、世界の破滅のようにさえ感じられた。
 肉が擦れ合っている間、その忌むべき時間をやり過ごすためには、動物的本能と人間的理性を分裂させるしかない。心を殺さなければ、自分が死ぬ。
 魂や精神と呼ばれるものに血脈のような道があるのかは分からないが、もし仮にそういった脈が存在するのであれば、ぼくの魂脈ないし精脈というのは、白い泥に汚染されてしまって、精神的にも肉体的にも、すでに救いようのない状態に破滅させられたに違いない。
 とにかく気持ち悪い。全身が蜃気楼みたいに揺れて、吐き気がするのに、笑顔を見せなければならない。愛想を振り向かなければならない。

 自分が死んで、お金が出る。
 しわ寄せは、幸せなんだから……。

「もうやめてくれ。こんなの、耐えられない」

 たまらず、ぼくはそうこぼした。が、空間は心への介入を止めようとはせず、憎悪がぼくの共感に触れて〝瞋透〟するまで、その激情の渦を流し込み続けてやるんだと、意気込んでいた。

〝ダメだよ。怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない、って言うだろ? 憎しみは終わらないし、連中を地のどん底に突き落とすまでは、絶対に終わらせないよ″

「その言葉にはまだ続きがあるだろ。怨みをすててこそ息むんじゃないのか!」

〝それが永遠の真理だとでも言いたいのかい? はっ、笑わせてくれる。それこそただのキレイゴトじゃないか。知ってるか? すてられた怨念というのはね、すててどこかに行こうとする人間のことを、死ぬまで追いかけるんだよ。それこそが不変の真実だ。そうじゃないと言い切れる奴が、もしこの世にいるのだとすれば、そいつはきっと、運よく人災を免れてきただけなのさ〟

 忘れてほしくないから。覚えていてほしいから。聞いてほしい、分かってほしい。そんなのは負に限らず、何かの自慢話だって同じだ。それが人間なんだ。
 憎しみは、それを捨てようとする人間を恨む。もし自分自身の抱いた憎しみが、擬人化でもしようものなら、捨てた人間はその擬人化された〝憎しみ〟に復讐された挙句、怨恨の渦に引き戻されることになるのは明白だ。
 だからぼくは、マーブルタウンで正負一体を抱き続けることが如何に困難で、同時にそれがどれほど大事なことなのかを知った……だけど。
 こんな、こんな途方もない渦に苛まれて、それでも尚、人は人でいられるのか? 
 重たすぎる憎悪を、ぼくは抱えきれなくなってきていた。ぼくの意識は崩壊の一途を辿っていて、感受性が砂漠みたいに渇き、廃墟みたいに荒み、料理の焦げみたいにボロボロと落ちていた。
 留まることのない怨嗟の流入。綺麗事に惑わされている『ぼく』の価値観を、彼らは正しい方向に導いてやりたいのだという。ぼくの魂に強制的に接続し、雪崩のように怨恨を押し付けるこの行為を、まさか点滴とでも言いたいのだろうか。
 もはや理屈じゃ説明しきれない領域にまで、ぼくは突入してしまったのだ。
 究極の感情論。言葉という鋳型から解放された感情の〝瞋のカタチ″は、より自由度を増して『ぼく』という個人に共感を求めてきた。
 彼らの放つ波は、あくまで波だが、ぼくの脳に入る以上、ある程度は言語に置き換えられてしまう。


 でも、この〝うねり″は……人を殺しかねない……このままじゃ、ぼく、がっ――









――生活するお金がないんだよぉ―――
 〝苦しめ〟 憎い ―― 〝死ぬまで〟 ――恨んでやる
――〝早く死ねぇ″
アンタが 〝味わえ″ ――誰を? 〝呪ってやる〟――四肢を切り落としてやる
   ――〝死んでしまえ〟――〝思い知れ〟  お前だ 〝殺してやる〟――

        ―――――――――――怨会でも開こうぜ

こないだオレ銃で撃たれて死んだよ。
戦争してんだろ。兵士に子供を使ってさ。
安い労働力だよ。薬物依存なんだ。で、―――――子供がオレを見るんだよ――――最悪の眼差しだ。

      「もう十分だ!やめてくれ!伝わったよ!」

 〝シネ″〝コロシテやる″――――そして向こうが引鉄を引く。
 だから――自衛のために――こっちも反撃する。
 そして両方死ぬ。いつまでたってもその繰り返しさ。空から爆弾ばらまいて、恨まれて、お粥なんだか肉片なんだか分からない死体の上――ボクは―――ワタシは、そのお粥です――を通り過ぎて行く。イタイ。痛い。痛いよぉおお。助けてよぉお。なんで殺すんだよぉお。やめてくれよぉ。血が止まらないよ。殺すならさっさと殺してくれればいいのに……――ニクイ
〝いつか必ず殺してやるっ!″――憎い!!!
        「ぁ、やめてくれっぁ……これ以上は……」
〝妬み″「頼む!」 いじめ    赤ん坊は苦しいってことすら言えないのに
    〝嫉み″「もう限界だ」 虐待 
    暴力   〝ひがみ″ 自殺「頭が、心が壊れる……死んでしまう」
   堕ちていく人間の気持ちなんて、墜ちた奴にしか分かんないんだよ。
   どいつもこいつも、常識さえあればそんな風にはならないとか、自制が利いてないとか、ふざけたことばかり言いやがって。
                    男に騙されるて身体を売る羽目になる。女に騙されて借金地獄にさせられる。それが何もかも『自分のせい』だって言うんだ。こっちの気持ちも考えずに。そういう風にしかなれなかった人間の気持ちなんてこれっぽっちも考えてくれてないんだよっ!
                  堕ちたくて墜ちたわけじゃない!好き好んでそんな人生歩いているわけがないのに、なのに、なんで『自己責任』って言葉で弾くんだよ!どいつもこいつも拒絶しやがって、拒みやがって……



        〝情弱は死ねとでも言いたいのか?″

 ……へばりついてやる。
 そんなことを言う奴は、こっちの痛みを理解できるまで調教してやるっぅあぁああ!!

「あ、ああ、ああああああああああ!!!」

 嫌だ。嫌だ。止めてくれ。
 こないでくれ。
 これ以上、ぼくを追い詰めないでくれぇぇっ!!!



 ……――負の嵐は消え、地獄のような時間は、ようやく収束を向かえた。が、それは次の拷問の始まりでもあった。

 
〝清濁を両方持ちながら云々とか息巻いておきながら、結局はキミだって我が身可愛さのあまり自衛に徹するのがオチか。ずいぶんと無様な最後だったな″

 それは、あの劇場内で聞いた青年の声とよく似ていた。

〝でも僕たちはそれを否定しないよ? だってそうしないと生きていけないだろ?″

〝みんながみんな、そんなクソ重たい世界に足を踏み入れたいわけじゃない″

〝それが避けられるものであるのなら、尚更さ″

〝だから大半の人間は、そういった脅威が目の前に現れた時、敵意を放つ″

〝自分には関わるな……ってね″

〝それが普通なんだよ。だからさ、キミもそうすればいい″

〝さあっ!″

 ぼくの意識に、狂気という凶器が差し出される。

〝それを使ってさっさと人恨を葬れ! 拒め!″

〝それが自分を守るためだって割り切って、さっさと殺せぇ!〟

〝今さら迷うなぁあっ!!〟


 でも、ぼくはその狂気という凶器を振りかざすことができなかった。
 彼らの言うことは、おそらく数ある正論の一面ではあるのだろう。
 だが、だとしたら、この殺意や忌避感と一緒に湧いてくる〝しこり〟は何なんだ?
 他者を排他的に扱う感情が正しいと豪語するなら、なんでこんなにも、ぼくの心は不愉快に満たされてしまうんだ……。どうして……。
 人恨の沼から迸る自他を含めたデストルドーと、自分の中に生じてしまった迷いが混濁し、より激しい力となって、魂を奈落の底に引きずり落そうとする。
 凶器を振りかざせば、自分の身を守れるのに。
 抜け出そうと思えば、いつでもここから抜け出せるのに。
 馬鹿だ。ぼくは……。あの映画の青年と同じ、いや、それ以上の愚か者だ。
 ぼくは魂という隕石になって、清濁の摩擦が生じる大気圏へと墜落した。
 熱によって溶ける自我。
 ぼくという意識は、瞬く間に爆散した。



あ、糸が、


        〝魂――肉体″


                      切れて


          〝魂― ―肉体″


    〝ぼく″が……壊……れる。



                 〝 く″が……


    ……〝●●″潰、されて。


               ……〝〟縮んで、


     ……    ……見えなくなって…………――――













     ◇


 世界が静まり返り、鎖の拘束が消えた。
 肺に空気を溜めて水面に顔を出すように、ぼくは沼の中から意識の表面を出した。
 悪夢……いや、そんな生易しい世界なんてもんじゃなかった。
 あれが人災。やはり、天災を乗り越えたくらいじゃ……ぼくじゃあ駄目だったってことなのか。終着点に辿り着くことはできても、結局、現実につきまとう『人の憎しみ』には、何の抵抗もできなかった。流されるがまま。言われるがまま。理屈の上では対処することができても、結局それは頭の中でこねた屁理屈にすぎなかったんだ。
 直に襲い来る脅威に対しては、葛藤を受け入れるとか、なんとなくなんて、クソの役にも立たない綺麗事でしかなかったんだ。
 そうだよ。目の前に存在する脅威に対しては、敵意で対応するしかない。倒すしかないんだ……。
 でも、死角世界を探訪してきた中で、ぼく自身が見出した答えに、自信がないわけじゃない。怒りや憎しみがあるから、そのおかげで人の痛みに共感できるようになったし、幸せの意味も知ることができた。マーブルタウンの模索で至った〝解〟は、今でもその通りだと、言い切ることはできる。
 でも一方で、この世には修復できない心の傷もあるんだ。
 人が人に行う悪意。あの恐怖は、決して感謝などという言葉で払拭できるものではない。むしろ、そんなポジティブシンキングなことを言おうものなら、たちまち敵意に晒されることになるだけだ。事実、ぼくは今まさに、そういう怨念をもろに喰らっている状態に陥ってしまったのだから。
 感情の機微のせいで……そんなものがあるから……人は苦しくもなる。
 じゃあ心を失くせっていうのか!?
 それは極端すぎる……。人はそんなこと望んじゃないない。大事なのはバランスなんだ。
 みんながみんな、ネルクノックに行きたいわけじゃない。もちろん、行きたい人間もいるのだろうけど、個人の意思と全体の総意を混濁されては困る。人間には、良くも悪くも、情報因子の差異を求める力によって生じてしまう、自我、なんてものが発生しているんだから。
 なのに――くそっ! やっぱり、だめだ……。
 どっちに転んでも、ぼくは『人恨』に対して何一つ言い返せない。
 正と負は表裏一体。双方の衝突によって生じる矛盾を理解し、その葛藤を受け入れなければ、ぼくたちの意識はいつまでたっても、地球の中の極小の点に、釘打ちされたままで一生を終えてしまうっていうのに……。
 別にぼくは嘘をついているわけじゃない! むしろ本音でしか喋っていないんだっ!
 どっちも本音なのに、この矛盾を意識すればするほど苦しくなってしまう。
 堂々巡りの中で窒息死してしまいそうなのに、助けを求めてもハイヴァかネルクノックしか逃げ道が用意されていない。
 そうか……だから人は、極端に傾くことを選ぶんだ。機械か野生か。管理か自由か。
 どこまで行っても答えの出ない矛盾なんかと睨めっこするくらいなら、いっそ片方に傾倒した方がマシ。きっとそうさ。心の安寧が手に入るのなら、そんな小難しい世界に好き好んで突入する必要なんてないだろう……。
 一度向き合ってしまえば、ここがどれだけ悲惨な世界なのかが分かる。
 頭の中の摩擦熱。矛盾の渦から垂れ墜ちる思考のマグマ。
 地獄絵図だ……。まさにここは、地獄そのものだ。
 受け入れるしかない。人の身に余る難問など、神に丸投げしてしまえばいいじゃないか。
 この矛盾から逃れることなんて、人間ごときでは一生――


〝ふんっ、馬鹿め。我々は言ったはずだぞ〟

〝この場においては『信じる神』などありえん……とな〟

〝お前のそれは断じて受け入れなどではない〟

〝変に悟った気になって、状況に流されようとしているだけだ〟

〝確かに『哲学』というものは、人生を豊かにしてくれるのかもしれない。だがな――〟

〝――それでは頭の中を解決しているだけで、現実には何の影響も与えないのだ〟

〝それをどうにかしてくれるのは、唯一、己自身の行動だけだ〟

〝もっとよく正面を見ろ! 今! お前の目の前には何がある!〟


 ――どこかで聞いたことのあるような、小うるさい叫び声が、ぼくの魂を震わせて、何かを必死になって伝えようとしてきた。でも、悪いけどぼくは、もう何もしたくないんだ。もう疲れた。考えるのなんて面倒くさいし、そんな、哲学なんかなくても人は生きていけるよ。だからもう、ぼくに構わないでくれ。うるさいんだよ!

「黙って、くれって……なんで……ぼくを……あの地獄に戻そうとするんだ……」

 けれど何者かの声――振動――は止まない。
 そればかりか、俄然、勢いを増すばかりだった。
 ……なのに、どうしてだろう。
 この波を受けていると、不思議と動かなければならないような気にさせられる。
 ぼくは沼から意識を這い上がらせて、自己投影によって肉体を再現してみた。
 目の前とか、正面とか、確かそんな言葉が聞こえたはずなんだ。
 ぼくは適当に顔を上げて前方をぼうっと眺めてみた。
 何もない。草も木も何も生えていない、ただの灰色の荒野じゃないか。
 あるのは石ころと砂利だけで、あとは寂寥とした風がそよいでいるだけだ。
(なんにもない。なんのためにぼくは、沼から出てきたんだろう。……戻ろう)
 振り返ったその時、ぼくは〝自分の正面〟というものがどこにあるのか、ふと、疑問に感じられた。だって、ぼくにとっての正面なんて、視線の先であれば、どこをどう向こうが関係ないじゃないか。
 正面には沼があって、それが渦を巻いていて、ぼくには矛盾の権化みたいに見えた。
 理性と感性の矛盾。自由と管理の矛盾。綺麗事と憎しみの矛盾。
 矛盾、矛盾、矛盾、矛盾、矛盾っ!どこまで行こうが、矛盾は矛盾のままだっ!
 何かを考えたところで、最終的にはみんな全部、渦の中に消えてしまう。
 両方とも大事なはずのに……なんでこいつを目の前にした途端に……。
 ぼくは地面に膝をついて崩れた。もう見たくなかった。
 でもそれは具象化された渦から目を背けただけに過ぎなくて、結局、自分の心の中にぽっかりと開いた矛盾という穴は、その昏い洞穴の向こう側から、ずっとぼくを見定めているかのようだった――――


   楚人そひとに楯たてと矛ほこを鬻ひさぐ者あり。

   これを誉めて曰く

   吾わが楯の堅きこと、よく陥とおす者なきなりと。

   またその矛を誉めて曰く

   吾矛の利なること、物において陥さざるなきなりと。

   ある人曰く

   子しの矛を以って、子の盾を陥さば、如何いかんと。

   その人、応こたうる能かなわず。



 これは……故事成語か?
 ずいぶんと懐かしいな。うろ覚えだけど、中学生の時に習ったような気がする。
 今のは確か、矛盾という言葉の由来になった物語だったはずだ。
 楚の国で盾と矛を売っていた商人は、『どんな鋭利な刃も突き通さない盾』と『どんなに堅固なものでも貫ける矛』を自慢げに売っていて、それを聞いた人が、「ならあなたの矛であなたの盾を突いたらどうなるのですか?」と尋ねると、その商人は何も言えなくなってしまった――という、そういう内容だった。
 ぼくはもう一度顔を上げて、渦を正面に捉えてみた。
 すると、いつそこに出現したのだろうか、渦のちょうど手前付近で、盾と矛がちょうど交差するような形で地面に突き刺さっていたのだ。
 そしてその瞬間、ぼくはようやく、何を信じるべきなのか、そして『人恨の沼』とどう向き合うべきなのかを――〝なんとなく〟直感した。

 理性と感性の〝間〟に生じる矛盾。
 管理と自由の〝間〟に生じる矛盾。
 理想と現実の〝間〟に生じる矛盾。

〝現実〟というのは、つまりその〝間〟の内側に広がる世界のことだったんだ。
 きっと、この宇宙に住んでいる限り、ぼくたちは現実につきまとう矛盾とは無関係ではいられない。だから人は、時として本質を求め、ある種、悟ったような境地を欲してしまうのかもしれない――でもそれは、多分違うんだ。

 本質の中で生きていくことと、現実の中で生きていくことは違う。

 本質的な生というものが、どういう世界観なのかは、俗世間に浸っているぼくには分からない。でも、自我から脱却して、自己という存在を自然の一部と化し、世界と同化することが可能なのであれば、それはもう、ある意味『悟りの境地』に近いのではないのだろうか?
 でも現実はそうはいかない。現実を生きるってことは、つまり、常に矛盾を抱え込みながら生きていくということだ。
 虚構と現実の区別すらままならないぼくたちは、まるで崖から崖へと綱渡りするかのように、信じることも疑うことも両立させ、尚且つ両立させず、それでいてどちらかに傾くこともせずに、変化の中で都度ゆらぐ矛盾の中点をホメオスタシスの力で感じ取り、ひたすらそこを信じ切って進み続けるしかない。
 自分の意思であろうがなかろうが、この濁流のように瞬変し続ける矛盾に立ち向かい、そして心の実感を通して、『暗在的な力』がどう変化していくのかを『観測』し、それを『記憶』という形で記録していく。観測する過程と記録がセットになっているから、どうしても『記憶操作』というネックはつきものになるけど、正直それは、科学の発展や機械技術の進歩によって人間の弱点が露わになってしまっただけで、疑い出したら切りがないのは、今も昔も変わらないはずなんだ。
 でも、別に記憶が変わっていたとしても、ぼくたちの細胞は生き方を模索する。大地に生い茂る草木が、光を求めていくことと同じように。
 たとえ、意識というものが、虚構しか認識していなかったのだとしても、細胞の求めている生を感じ取ることさえできれば、それを継続した果てに、ぼくたちの追い求める『生き方』があるのだと、今はそう確信できる。
 だから別に、心が生を求めていたというわけじゃなくて、生のなんたるかを知るためには、心の力が必要不可欠だったという、たかがそれだけの話だったんだ。

 きっと、それが『人として現実を生きる』ということなんだと、ぼくは思う。

 機械も拒み、野生も拒む。であれば、もう矛盾の渦中に身を投じるしかない。
 だけど勘違いしてはならない。ぼくは矛盾を完全に受け入れはしたけど、だからって、世の不条理や社会の理不尽を許すわけじゃない。人恨と向き合った今だからこそ、ぼくは強く言い切れる。人は時として、牙を剥く必要もある、と。
 ただ、腕っぷしだけが能というわけじゃない。非力な部分は知恵で補い、仲間を作り、そして現実と向き合うんだ。だけど、そういう理屈が肌に合わない人であれば、ハイヴァやネルクノックという選択肢だってある。何も生き方は、矛盾一択ってわけじゃないんだから。
 もし、このぼくの考えを『矛盾(我儘)』だと一喝するのであれば、そんなことを口にする方が我儘だと、ぼくは噛みついてやる。
 ぼくは人間だ。機械でもなければ、動物とも違う。どう足掻こうが一人の人間なんだ。
 人間だからこそ、善悪を感じ取ることができるし、同時にその善悪の基準が人によって異なったりもする。人間はどこまで行っても曖昧な存在だから、その線引きなんて決してできない。だから、ぼくは人間だから、この曖昧な矛盾の中点に身を置くよ。
 矛盾というのは、ある意味『最強の盾』と『最強の矛』の物語だ。
 でも、よくよく考えてみれば、これもおかしな話じゃないか。
 最強同士なのであれば、なんで競わせることばかりに力を注ぐ必要がある?
 競争原理が社会を発展させていくのであれば、協力原理だってきっと、社会を推し進めていくだけの原動力にだってなれるさ。

「そうだよ。最強の盾と最強の矛なら、両方持って戦えばいいじゃないか!」

 ぼくは勢いよく立ち上がって、その手で盾と矛を構えた。
 武器は瞬く間にぼくの心の中へと吸収されていき、同時に伽藍洞の鼓動が激しく脈打った。
 ぼくはそのまま渦を目指して走った。渦の中は常に揺らいでいて、答えなんてどこにもない。だけど、渦の中心は確かに存在していて、ぼくはそこだけを見据えて真っすぐに走り続けた。劇場の中で横になったままのぼくが見える。身体に巻き付いていた昏い鎖はなく、あの映画の青年も何処かに消えていた。
 ぼくは人恨の沼を駆け抜け、四方から襲い掛かってくる昏い鎖の猛攻を、矛盾の中点を見極めることで突破し、劇場スクリーンのガラスをたたき割って、そして自分の肉体めがけて飛び込んだ。
 ほぼ同時に、映写機がその活動を再開させた。それはぼくの意識を天に投影するための射出機でもあり、ぼくは鎖を断ち切った推進力をそのままに、彼方に映える宇宙へと飛び立った。


 一本の線が身体から彼方へ続くような感覚。
 光の道に導かれるがままに、ぼくはその空白を呼び起こした――



  ―― 〝                  〟  ――



 ――宇宙は、繋がっているんだ。
 他の誰とでも。万物は一つという言葉の通り。
 太陽系を越え、どことも知れぬ銀河の海を渡っている光景は、今までのどんな瞬間よりも輝いていた。
 でも、宇宙の果てはあまりにも遠く、未知に富んでいて、今のぼくではせいぜい、目に見える範囲に意識を巡らすだけで精一杯だった。
 宇宙に内包された自我の上昇作用、その効果によって生まれた存在の一部が生命であり、ヒトだった。しかし、たかだか宇宙の中に生きる一個体程度の存在力では、宇宙の果てに到達するにはあまりにも微力すぎた。この先に行くには、まだまだ変化が必要なのだ。
 でも脳と宇宙は相似形だ。この脳を知ることができれば、いつかは今よりもずっと、宇宙の神秘に近づけるような日が来るかもしれない。
 ぼくは振り返って地球を眺めた。昏い鎖は相変わらず思考を一点に留めようと動いている。脳には相似形の力があるのに、一つ事に縛られている思念は、地球の部分的なことにしか意識が及ばないようになっていた。多分、それがあの昏い鎖の役目なのだろう。
 なんでそんなことをするのか、ぼくには分からない。
 けど、あの鎖があるからこそ、人の思考が地球に閉鎖されているのだとも、客観的に地球を眺めている今のぼくには、なんとなくそう感じ取ることができた。あれはあれで、何かにとっては重要で、必要なことなのかもしれない。
 そうだよ。要するに、詳しいことなんて、何一つ分かっちゃいなんだ。
 意識を束縛していた鎖を解き放ち、宇宙と脳を、その相似形を通じて、暗在系から身体に振動を落とせるようになり、より全体を把握しやすくなった認識力を取り戻したところで、やはりこの宇宙はまだまだ広大で、人間の想像を遥かに超えたスケールで超然と存在している。
 きっといいことばかりじゃないんだろう。
 宇宙にだって憎しみの溜まり場はあるだろうし、ついさっきぼくが通過していった星雲には、ドラゴンの眼みたいな超惑星、もしくは超空間とも言うべき超存在がいて、ぼくはそれに怖気づいて逃げてきたばかりだ。 
 ……ほんと、おかしな話ばかりだ。でも、無限とは、限りのある無のことであり、この宇宙にだって果てはある。いつかここの途方もないくらい膨大な暗黒、宇宙という名の巨大な矛盾の渦の中点に共振し、その向こう側の世界へ渡ることだって夢じゃないのかもしれない。
 ぼくは地球というシナプスから発信された情報伝達物質として宇宙を飛び回った。
 宇宙にとっての矛盾を突破するのは、きっと宇宙自身なんだと思う。
 だから、この宇宙が中点に活路を見出せるような情報を、ぼくたちは自分たちの『生』を通じて情報発信する必要があるんだ。だけど、この果てしない宇宙の旅で何となく思ったことがある。それは、存外この宇宙も、何かどうでもいいような一つ事に、御執心しているのかもしれないな――という、なんとも間の抜けた印象で、その直感を得たことでぼくは思わず苦笑した。



 そして遠くに感じる白い膜に意識を凝らした刹那、ぼくは光速とは違う別の力によって移動し、ほんの一瞬だけ、その空間の中に入ることができた。
 黒い風船がぽつぽつと浮かんでいる。そうか。あれは全部、他の宇宙なんだ。
 さらにその先が見える。緑の庭?……庭園みたいだ。
 でもぼくは、直後に現れた女神のような存在に諭され、気付いた時にはもう、宇宙空間に戻されていた。




〝まだ早い。あなたは、まだ早いのです〟



 女神の放った波は、確かにそう意味していた。
 振り返った先には地球が見える。
 肉体がぼくを呼んでいて、魂の糸が引っ張られている。
 この光景とも、しばしお別れだ。
 そう思っている矢先、とうとう糸の収縮が始まった。
 魂が勢いよく地球方面に向けて引き戻され、ぼくは横に流れる宇宙の景色を眺めた。
 綺麗な……とても綺麗な輝きだ。星の輝きと、そこを泳ぐ数多の生命から発せられる、魂の煌めき。
 ああ、でも。ぼくには戻るべき場所があるから。今はちょっと無理だ。
 またここに来よう。宇宙では、こんなにも魂が自由に泳いでいて、その気になれば手を取り合って、どこへだって旅をすることができるんだから。
 すぅっ、と肉体の中に戻っていく感覚のあと、次に目を開けた時は、それがどんな現実であろうとも、ちゃんと真っ直ぐ向き合おうと、ぼくはそう、心に誓った。


     ◇


 ――目を開けた先でぼくを待っていたのは、この死角世界の住人たちによる拍手の出迎えだった。
 てっきり映画館から再開すると思っていたぼくは、思わず面食らってしまい、何が起こっているのかしばらく理解できなかった。でも、すぐに分かった。
 これは送別会なんだ。ぼくが元の現実に還るから、みんなでわざわざ……なんだか照れくさくて、そわそわした気持ちになってしまう。
 両側にハイヴァとネルクノックの住人たちが並んでいて、それが花道のように真っ直ぐに伸びている。影と人型電子基板の複合体は、パレードの音楽隊みたいな衣装に身を包んで、ぼくの来訪を確認するや否や、演奏を始めた。花道の中には当局の人や、駅員さん、アライさん、マスター、映画の青年――この世界で関わった多くの人がいた。その歓迎のアーチを潜り抜けると、いつの間にかぼくは、どこかの駅の中に入っていた。
 石造りの両階段が前方に見え、さらにその上方には時計が埋め込まれている。
 床は色大理石によって敷き詰められており、幾何学的な造りが随所に見られるこの内装は、駅というよりは、宮殿と表現した方がしっくりくる。実際に行ったことはないけれど、どことなく『アントウェルペン中央駅』の造りと似ているような気がした。
 死角世界は生者の心を反映して、景色を具象化させるというが、でもそれだったら、なんでこんな場面になるのだろう? 別にぼくは、ここに特別な思い入れがあるわけでもないのに――
「ここってさ、私が行ってみたかった場所なんだ」
 細く、高い声が、石造りの壁に反響して木霊し、ぼくは両階段の踊り場に現れた『女の子』を見つけた。
「おめでとう。これで君は、ようやく死角世界から現実に旅立つことができるね」
「君は……すまなかった。その、色々と」
「いいの。私はもうとっくに死んだも同然だったから」
「え……そんな、じゃあひょっとして、あの路地裏で」
 ぼくがそう言うと、女の子は笑いながら首を横に振った。
「ううん。違うの。あれのせいじゃない。あのあと私も施設に入ることになったんだけどさ、高校の時に交通事故に遭ったの。それからはずっと昏睡状態。多分、現実にいる私は今も寝たきり。でもね、もう思い残すことはないんだ。これでようやく、私は人として死ぬことができる。上手く言えないけど、なんか、そんな気がするの」
「死は、怖くないのかい?」
「怖いのは〝殺〟の方。死は迎え入れるものだから。うん。きっと大丈夫だよ」
「……そっか。そうだね。ぼくも、君のおかげで生きるきっかけを与えてもらった。だから、ありがとう」
「色々あったけど、私は楽しかったよ。ハイヴァとか、ネルクノックとか。……本当はもう少しだけ、ここにいたいけど、でももう、そろそろ行かなきゃ」
「……うん」
「じゃあ、私は行くね!」

 女の子はぼくに背を向け、少し歩くと、もう一度だけ、くるっと振り返って、ぼくに笑ってみせた。
 くたびれたセミロングなんかじゃなく、これこそが本来の彼女の姿だったのだと信じ切れる、ひだまりのように眩しい、少女の、面持ちで。

「君なら大丈夫だから。きっと。だから頑張って、がんばって生きてね」
「ああ。ありがとう。――さようなら」

 ぼくは彼女を見上げながら、別れの言葉を送った。女の子は、天から差し込む光に連れていかれるかのように、すぅーっと、その身を透過させて、そして魂の残り香を、その残滓を漂わすことなく、綺麗にこの世界から何処かの空間へと旅立っていった。
 僅かな静寂は、しかし次の瞬間に響いたアナウンスによって中断され、ぼくは背中を叩かれたかのように、改札口の奥に視線を走らせた。

『まもなく、死角世界発、現実行きの列車がホームに参ります。ご乗車になられるお客様は、お乗り遅れと心残りのないよう、よろしくお願いいたします』

 それにしても、この世界のアナウンスは毎回余計な文言が多い気がしてならない。
 心残り……か。本当のところ、彼女にもちゃんと別れの挨拶をしたかったけど、いなくなってしまった存在に愚痴をこぼしても仕方のないことだ。ここは潔く、胸を張って現実に還るとしよう。
「待て。切符を持たずに、どこへ行くつもりだ?」
 横からぼくに声をかけてきたのは、ナーディアだった。
 彼は微笑を携えながら近付いてくると、徐に懐から切符を取り出して、それをぼくに差し出した。
 ぼくは切符を受け取ろうとして、そして伸ばした手を途中で止めた。
 不思議だ。これまで彼に抱いていたはずの敵意が、今はちっとも湧いてこない。
「……そうか、お前だったのか。さっき沼で声をかけてくれたのは」
「ふんっ、なんのことかさっぱりだな。そんなことより、試しに左胸に手を当ててみたらどうだ?」
「はあ?」
「いいから、やってみろ」
 言われるがままに、ぼくは胸に手を置いてみた。
 すると、ドクンッ!――っと、今の今まで空っぽだったはずの胸の奥に、確かな実感が蘇っていることに気が付いた。
「どうなってんだ? お前、いつぼくに心臓を返したんだ?」
「ふんっ。そもそも我々は、最初から心臓など抜き取ってはいない」
「えっ?」
「我々がお前から奪ったのは、心臓の存在を自覚するための『実感』だけだ。ハイヴァで見せたのは演出であって、元よりそんなものは我々の中にはない。元々、死んだような人間を寄せ集めてできた集合体だからな。我々は」
 ぼくは、あの石橋を流れていた蝋燭の火、人魂の灯のことを思い浮かべた。この死角世界を訪れ、終着点に至れなかった者たちの残留思念、あるいは潜在的な願望。その具現体こそが、この啓蒙的でいちいち偉そうな態度をとる、ナーディアというお節介な存在の正体だったのだ。
 ぼくは彼の話に苦笑で応じて、現実行きの切符を受け取った。
 その刹那、あのナーディアが妙に神妙な面持ちで切符を見つめていたことに、ぼくは気付いた。今までの彼の印象と、あまりにもギャップが開きすぎていることもあって、かえって見ているこちらが、不安を覚えるほどだった。
「……どうか、したのか?」
「いいのか。本当に」
「いいって、何がだよ」
「現実に待っているのは、どうにもならないパラドクスばかりだぞ。それでもお前は――」
 つくづくお節介な奴だと、ぼくはしみじみ苦笑した。
「ぼくは行くよ。ちゃんと現実に還る。矛盾っていう概念を生きる力に変えて、ぼくは現実と戦う。そう決めたんだ」
「……そうか。分かった。馬で行くことも、車で行くことも、二人で行くことも、三人で行くこともできる。だが、最後の一歩は自分ひとりで歩かなければならない。お前が心門を越えて、新たな境地に行くというのであれば、我々はその背中を見届けるだけだ」
 ぼくが頷くと、ナーディアも頷き返し、もはやこれ以上言葉を交わす必要がないと心得たぼくは、彼から目線を切って、そして改札へと歩を進めた。
「ああそうだ。一つ言い忘れていたことがある」
 ぼくは振り向かずに、そのまま背中越しに彼の言葉を待った。
「奴にも別れの挨拶を言っておけよ。後悔を置き土産にされては、我々も堪らんのでな」
「おい、それってどういう意味……――あれ?」
 振り向くと、そこには誰もいなかった。
 今までのように、どこかに消えたのではない。
 ナーディアという総体は、今この瞬間をもって、死角世界に還元されたのだ。
 不意に、ホームへと近づいてくる列車の振動が、ガタンコトン、というオノマトペと共にぼくの耳朶に響いた。

 死角世界のみんなが手を振っていた。
 ありがとうと言って、ぼくは手を振り返した。
 じゃあね。ぼくは行くよ。
 みんなに見送られながら、ぼくは、改札口のゲートを通った。


     ◇


 ホームに滑り込んでくる列車。
 思えばヨヨギの地下から今に至るまで、ずいぶんと長い旅だった。
 これから待ち構えている現実のことを想像すると、やはり、少し不安だ。
 ナーディアに言ったことは嘘じゃないけど、まだ行動に移して結果を残せたわけじゃない。本当の戦いは、ここから始まるんだ。

「身の中の一際明るし万寿菊」

 プラットフォームを駆け抜けていく車両の騒音の中で、しかしその澄んだ声と気配だけは、しかと感知することができた。
 風によって長い髪をなびかせながら、ぼくの隣に不意打ちの如く出現した白い着物女性。
 なぜ?……そういう疑問が脳裏を横切るよりも先に、彼女がぼくに言った。
「あなたが心残りなんて残すからよ。これが正真正銘、最後の具現化」
「どうして、君がここに?」
「さあ。良く分からないわ。もしかしたら、ナーディアの計らいかもしれないわね」
 そういうことか。ずいぶんと粋なことをしてくれる――と、ぼくはここにいない奴に向かって、胸の内で感謝した。
「あ、せっかくだから、これをあなたにあげるわ」
「え?」
 彼女はその手に持っていた一輪の花を、ぼくに手渡した。
 黄色くて丸い花柱の周りに咲く、紫色の花びら。
 彼女の名前と同じ花を受け取った時、ホームに停車した列車の自動ドアが開いた。
「今度こそお別れだな」
「ええ。でもひょっとしたら、いつかまた、別の場所で会えるかもしれないわ」
「そうなのか?」
「其の心に新たな心門現れし時、我ら死角の民は門を塞ぐ口となろう。されど其の心に門なく、偏に道のみが続くのであれば、無限の道を突き進め。其の歩み止まりし時、それ即ち心門との邂逅なり――これが、ゲートに与えられた最後の知識。あなたの心が別の問答に直面したら、その時はひょっとしたら、また私があなたを案内することになるのかもしれないわね」
「なんだよその少し嫌そうな顔は、ぼくだってこんなでたらめな世界には、もう招待されたくないよ。……ああ、でもまあ」
「なに?」
「矛盾を突き進んで行くうちに、多分、またここに来るんだろうな」
「そうね。気長に待っているわ」
「ああ、そうしてくれると助かる。……じゃあ、ぼくは現実に還るよ」
 皮肉っぽくシオンに笑って見せ、ぼくは車両の中に入った。
 そしてくるりと反転し、あらためて彼女を見た。
 その表情には、笑顔が咲いていた。とても綺麗なその笑顔が、なぜかその時のぼくには、母さんの面影と重なって見えたんだ。
 母さん。そういえばぼくは、途中下車について、まだ何も言えてなかったね。今のぼくなら、ちゃんと応えられるような気がするよ。だから、その時まで、父さんと妹と、三人で待っててほしい。必ず、必ず〝ぼく〟が、みんなに会いに行くから。
「頑張ってね。いつかまた、どこかで会いましょう」
「ああ。いつかまた。……ありがとう」
 発車メロディーがホームに木霊すると、車内とホームに境界線を設けるかのように、自動ドアは閉じられた。列車はまもなく発進し、プラットフォームに佇むシオンから、どんどん離れていく。ぼくは手を上げたり、振ったり、別れの時に使うようなジェスチャーでもしようかと思ったけど、シオンが物静かにぼくを見送ってくれた意図を察し、ほんの少し動かした手を、すぐに下げた。そうだ。彼女はぼくの出発を見届けているんだ。これは『別れ』じゃない。だからぼくたちは、『さよなら』を言わなかったんだ。
 豆粒のように小さくなっていくシオンも、いよいよ景色に埋もれて見えなくなってしまった。ぼくは乗車扉によりかかったまま視線を変えて、進行方向に広がる死角世界の街並みを眺めた。どこにもない、どこかにありそうな都市。そしてその中に隠れていた宇宙。ぼくはまた、この世界を訪れることができるのだろうか?
 抜け殻を発ち、現実行きの列車に乗車したばかりのぼくには、まだまだ先のことなど分からない。きっと、この世界観の果てには、もっともっと深い宇宙の神秘みたいなことが沢山眠っているのだろう。でも今のぼくには、多分、それはまだ遠い世界で、理解しようにも色々と実力不足なんだと思う。
 でもそれでいい。ぼくは何よりもまず、現実と戦わなければならないんだから。
 どうにもならない理不尽や、世界のもたらす不条理。パラドクスの誘惑や昏い鎖が、必ずぼくの心を破壊しにやってくるだろう。それはとても怖いことだ。いくらその反対側に幸福や喜びがあると分かっていても、人はやはり、マイナスに引っ張られやすい生き物だから。
 だけど、その渦を耐え抜いて中点を見極め続けて、ホメオスタシスとパラドクスを、矛盾の力で制御することができた暁には、多分その先で、再びこの世界の神秘と出会えるような気がする。


 必要とあらば、案内人の方から勝手に来るさ。
 ぼくはその時まで、がむしゃらになって生きるだけだ――。

エピローグ

「……っ!?」
 ぼくは、一瞬ここがどこなのか分からなかった。
 煤けたタイルに、黄色い点字ブロック。瓦礫が山のように積もっている線路。壊れた照明がチカチカと光っていて、そしてぼくは、他に誰もいない、廃墟同然と化したホームで棒立ちしていた。
「ここって……もしかしてヨヨギ駅か?」
 ついさっきまで、ぼくは確かに列車の中で揺られていたはず。
 だけど……思えば、列車がトンネルに入った辺りからの記憶が、かなり曖昧になっている。
 ぼくは無事、元の現実に還ることができたのだろうか?
 それとも、今まで見ていた景色は全部、ただの白昼夢だったのか?
 頭が混乱して、どうにも落ち着かない。
「時間は、あれからどれくらい経ったんだ」
 ぼくはポケットに入っているスマホを取ろうとして――そして、はっ、となった。
 その手には、確かに紫色の花が握られていた。彼女から貰った紫苑の花。
 やはり夢じゃなかった。……でも、そうか。そうじゃないんだ。
 あれが夢かどうかなんて関係ないんだ。
 だって人は、虚構と現実の区別なんて付けられないんだから。死角世界もこのヨヨギも、言ってしまえば全て幻。一番大事なのは、今のぼくがどう在りたいのか。そして、どういう気持ちで現実に臨みたいのか。それだけで十分なんだ。
 スマートフォンを見ると、時刻はまだ正午を少し回った程度だった。
(随分と濃密な数分間だったな)
 心の中で皮肉を唱え、ぼくはヨヨギのホームを跡にした。
 ぼくは、スマホのライトと足元を照らす僅かな常夜灯の明りだけを頼りに、今にも崩れてきそうな地下道を歩き続けた。崩落の危険を促すビラを横切り、破けた規制線の先に、久々に感じる日光の輝きが差し込んでいた。
 ぼくは階段を一歩一歩踏みしめ、地上を目指した。徐々に太陽の気配が強くなる。この地下から抜け出た時、ぼくはいよいよ、現実で生きていくことになる。まずは何をしよう。最初の一歩は肝心だ。なにせ今までのぼくは、自分の意思で何かを選択したことがなかったのだから。今から決めることは、遺言も何も関係ない、抜け殻を脱したことで会得した、紛れもないぼく自身の意思だ。

 階段を登り切り、全身で陽光を浴び、そしてその果てしない空の青さと広がりを、どこまでも感じ取った時、ぼくは、ぼく自身の行動を、自分の望むことを、他の誰でもない、ぼくが望む〝ぼく〟のために決めた!


「うん。まずはとりあえず、苦いコーヒーでも飲むとしよう」



                                 了

世界の死角 -Blind spots in the world-

世界の死角 -Blind spots in the world-

時は2025年。後に厄災と呼ばれる規模で発生した首都直下型地震によって、家族を失ってしまった『ぼく』は、震災時のショックで『生の実感』を喪失してしまう。 震災から10年後、遺族として【トーキョー】を訪れていた彼は、ひょんなことから自身が被災した【ヨヨギ駅】の地下に降りていく。 ホームに佇むのは、真っ白な着物をまとった女性。そして瓦礫の山をすり抜けてくる電車――。 〝現実の理不尽。世界の不条理。この今の社会、生き辛さを感じている人すべてに伝えたい。 その答えは、ひょっとしたら、あなたの『世界の死角』にあるかもしれない、ということを。〟

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-07-14

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. プロローグ
  2. 第一章「邂逅心門」
  3. 第二章「非道誘惑」
  4. 第三章「平等妄念」
  5. 第四章「善悪混濁」
  6. 最終章「矛盾迷宮」
  7. エピローグ