感傷狂
目を閉じていても、開いていても、さしたる違いはなかった。もはやすべてがくだらなく思えた。
目を閉じている時の方が眩しかった。倒錯しているのは私ではなく、世界の方だと捉えていた。
目に映るすべてが憎たらしかった。その宿命的な憎悪の最奥には愛があった。それは片鱗にすぎなかったが、小さければ小さいほど私には愛しかった。無、限りなく無に近い何か、無への漸近、私はこの三つしか愛せなかった。すべての母たる無。私は無であり、母であり、そしてすべてだった。
暗闇に郷愁があるのではなく、暗闇が郷愁そのものだった。
つまらない人間になることと、人間というものはことごとくつまらないと断定することのどちらが美しいだろうか。前者は単独性において美しく、後者の美しさは全体性に因る。
私は単独性を撰んだ。
────自分の世界で窒息するか、他人の世界で窒息するか、撰べ。
私は自分を撰んだ。自分のつまらなさだけを信じたかった。
生活は人間本性を隠蔽する。私はもう生活のつまらなさを否定しなかった。生活はその平凡性において美しかった。半直線的な生き方にも美学はあった。それを否定するのは心苦しかった。最終的に、忘れないことが贖罪となった。
私は感傷狂だった。いや、私そのものが感傷だった。私と感傷の区別がもうついていなかった。すべての感傷を生きたかった。そして実際に生き尽くした。
やがて感傷に厭き、私は一度死んだ。そうして、すべてを死に尽くしたかった。
愛することだけが残っている。
感傷狂