虎百合

以前「チグリジアの花」として公開していたものを、加筆修正行いました。

 大丈夫、大丈夫。
とんとんと胸を叩く。強く握りしめた拳で、そっと置くように。母親が赤子をあやすように。そうすれば私の心は穏やかに、波を鎮める。
この日は、失恋記念日。

 楽しかった筈の職場での飲み会。想いを密かに寄せていた彼の口から出た恋愛話のおかげで、私の心は先に家へと帰ってしまったようだった。ぽっかり穴の空いた胸は痛み、制御する間もなく涙が滲みだす。けれど、私の涙は乾燥した冬の空気にあっという間に乾かされ、流れることなく姿を消した。たとえ赤くなった目元を指摘されたとしても、今日ならばお酒のせいにできる。それなのに、私はなぜ彼と一緒に帰っているのだろう。二人きりでないことが唯一の救いである。うまいこと先輩を間に挟んで隠れた。
「へえ、そうなんですか。」
冬の空気とおなじように乾いた笑いが痛い。私はそれ以上の言葉を口にできなかった。胸に空いた穴に冷たい空気は沁みてしまうから。初めからこの恋が実ることは想定していなかった。よくある年上に対する憧れのようなものだと感じていたからだ。彼との先のことを私は全く想像がつかなかった。大抵想像のつかない人とは上手くいかなかったから。傍で仕事が出来ていれば良かった。しかし、それでも好きな人に好きな人がいる事実は心にくるものがある。失恋って、心臓がひとりでに歩いて帰ってしまうんだな。
ぐるぐるに巻いたマフラーに顔を埋めて、少しでも皆の目に触れないようにした。とは言っても暗いし、肝心の彼は私のことを見ていない。見ていない、その事実から逃げ出したくなって、一歩後ろに下がる。最低限の挨拶を済まして別れれば、速足で夜道を突っ切った。静かな道に響く自分の足音がいやにうるさい。夜道に私の心臓の音が響いているようだった。下を向いたままの独りの私をどうか、このまま、溶かして欲しい。

 いつの間にか眠っていた私は、カーテンの隙間から漏れる光で目を覚ました。頭と胸が酷く痛む。これで今日も仕事なのだから参ってしまう。重怠い体を気合だけで起こして、時計を見るために顔を横へと向けた。
「お姉さん、おはよう。」
あぁ、夢を見ているのか。
なんとも色の白い少女だった。太陽の光に透けて尚のこと白い。
「うん、おはよう。」
反射で挨拶を返してしまった。夢ならばいい。しかし、現実だったら?見覚えのない人間が、一人暮らしの自分の部屋にいる事は恐ろしいことではないか。
「どうやって入ったの?」
「気付いたらここにいたの。お姉さん、あまり驚いていないみたいね。」
いや、驚いている。起きたら見覚えのない人が自分の部屋にいて、当然のように挨拶をしてくるのだから驚くに決まっている。けれど何故か恐怖心は抱かなかった。子供だからだろうか。女の子だからだろうか。私の中で明確な答えは浮かびに上がらず、困ったなと頬を掻くだけだ。
「とても綺麗な声ね。」
「ふふ、ありがとう。」
「ねえ、これは夢?」
「夢じゃないよ。」
愛らしい笑い声と共に、少女は私の方をコツンと小さな拳で小突いてきた。弱い力で小突かれた肩は痛みを感じることはなかった。夢かどうかはやはり分からない。昨日の失恋のダメージが大きい私は最早現実でもいいかと思い始める。一人で居たくなかった。
「名前は何て言うの?」
「昔はあったと思うのね。親が付けてくれた大切な名前が。でも、どうしても思い出せないの。わたしの過去はどこかへ行ってしまったみたい。」
寂しい笑顔だった。どこか大人びた子供らしからぬ表情に、私も苦しくなる。
「スズはどこから来たの?」
「お姉さんのずっと近く、だったような気がする…スズ?」
少女は小さく首を傾げる。名前だよと私が告げれば、嬉しそうに笑った。純真無垢な笑顔を見せたスズに安心する。そうして何度も〈スズ〉と繰り返し、握りしめた小さな拳で胸をトントンと叩く。しばらくその光景を見ていたが、そういえば今何時だ。
「私はこのまま仕事に行くけど、スズはどうするの?」
時計の針が示す時刻は、朝食を諦めざるを得ない。バタバタと準備を済ませて、勢いよく家を飛び出した私に続くように、スズも小走りで家を出てくる。
「邪魔はしないでよ。」
そんな心配は杞憂だった。私以外には見えていないようだったし、スズも私の言いつけを守り、慌ただしくフロアを駆け回る私を見ていた。普段と変わらず仕事をする中で気づいたことがある。やはり、これは夢ではないと云うこと。人に触れる感触も、苛々とした感情も、腰の痛みも、どれもこれもリアルだった。皆に見えていないという点から、スズは私が作り出した幻想なのか、はたまた幽霊の類なのかは定かでないが、私に何等かの異常が起こっていることは明白だ。よっぽど昨日のことがショックだったのだろうか。

 スズとの不思議な生活が始まって、数か月経ったころ。
「お姉さんは、あの人の事が好きなのね。」
窓の外を眺めながら、ぽそりと呟いた。寂しげな表情は、先の事も知っていると物語っている。
「まだそう見える?」
「いい人はたくさんいるよ。」
「それはよく分かってる。分かってて捨てられてないんだから。」
少し乱暴にスズの頭を撫でる。幼い子供でさえ気づくほど、私の想いは零れているらしい。経験値のある大人であれば尚更。もしかしたら、相手にも気づかれているのかもしれない。しかし、たとえ気づかれていたとしても、口に出されないうちは、気づかれていないことと同義なのだ。だから、大丈夫。大丈夫。スズとそんな会話をしてからも、私は何も変わらず仕事をする。彼との関わり方も変わらない。ただただ時間だけが過ぎていった。
 スズとの出会いと同じく、突然変化は起こった。仕事中、ふと手首に違和感を覚える。左手首に僅かな膨らみが確認できる。1㎝程の大きさの膨らみは、ぷにぷにと柔らかく、痛みはない。水が入っているような感触とまた違う。
「まあ、痛みもないし。」
放っておけば、数日でなくなるだろうとすぐに興味は失せた。しかし、どうだろう。数日経っても膨らみは無くならず、日に日に大きくなっているように感じる。気が付けば小さな芽が一つ。私はいつの間にプランターにでもなったというのか。じんじんと痺れる感覚にうんざりとする。訳の分からないことは一つで十分だ。けれど、力が入りにくいだとか、動かないだとか、日常に支障を来す様子はなく、視覚的な異常さだけが目立つだけであった。ゆっくり、確実に芽は成長していく。1か月もすれば手のひらと変わらぬ高さに成長していた。スズと同様この異様な植物は、私にだけ見えているようだ。私はどんどんおかしくなっていく。
「これは、どうしたものかな。」
植物をぶらぶらとさせているのも、邪魔になってきた頃。服に付いたゴミを取るのと同じテンションで、植物の根元を掴み、一気に引き抜いた。なんとも呆気なく抜き去られた。痛くも痒くもない。血の一滴も溢れない。残ったのは手首にぽつりと開く小さな穴だ。
「ねえ、スズ。抜いちゃった。」
引き抜いたそれをぷらぷらとさせながら、後ろを振り向くもスズからの返事はなかった。最近彼女は、私の傍から姿を消すようになっていた。元々どこから来たのか分からないし、私の幻想だと思っていたので、気にすることなく、手に持ったそれをゴミ箱へ放り捨てた。私は植物の存在を、再び芽吹くまで思い出すことはなかった。

それは、じっとりとした夏の日のこと。仕事もだいぶ任されるようになって、期待もされるようになって、毎日緊張したような日々が続いていた。左手首に膨らみを発見する。あぁ、またか。芽吹いたのち、処理をすればいい。何も問題はなかったのだから。
「お姉さん、ちゃんと引っこ抜いてね。そんなの生えてたら変だもん。」
「分かってる。抜けるくらいになったらね。」
度々現れるスズは、引っこ抜いてねと必ず言う。スズの存在自体が謎のままなのに、手首の芽を変だと言われるのがなんだか可笑しくて小さく笑う。そして、抜けるくらい成長した芽を私はもう何十回と抜いては「ごめんね。」とゴミ箱へ放っていった。生えてくる感覚も狭まっている。十回を超えた辺りからチリっとした痛みを伴うようになってきた。痛みも回数を追う毎に強くなってきて、最近では引き抜くことが億劫になってきてしまった。そもそも、痛みを今まで感じなかったことがおかしい。根付いたものを力任せに抜いているのだから、多少の痛みがあって当然だったはずなのだ。私は穴の開いた手首をぼーっと見つめる。
「スズ。」
「お姉さん、時計の針が見えるよ。」
「とけいのはり?」
「チクタク、ちくたくって見えるの。」
会話もチンプンカンプンで、噛み合わないことが増えていった。虚空を見つめる目が、私と交わったことも大分昔だ。小さな指が、見えない秒針を追うように円を描く。時が流れるまま、薄暗い部屋でスズも、私もおかしくなっていく。
会社での過大評価と、手首の痛みとで、疲弊した毎日はハイスピードで憂鬱になっていった。さらに悪いことは続いていくものだ。手首から出血が見られるようになった。朝露のようにぷっくりと、目を引き抜いた穴から赤が滲む。次いで、成長するのにも痛みが生じる。なかなか凝固せず、絆創膏をしていてもじんわりと赤が滲む。もう、引き抜かなくても負担は変わらない気がして、私は夏の暑さが落ち着いてきた頃、引き抜くのをやめた。
「来月から異動してもらえる?」
「異動、ですか。」
「急で申し訳ないんだけど。」
「次異動するなら私だと思ってたので、大丈夫ですよ。」
まだ、ここでやりたい事が残っている。人が足りないことも分かっている。それにもう決定事項なのも分かっている。私がここで何を言おうとも。嫌だ、嫌だと叫んでいる心とは正反対に、口からは取り繕った言葉がするすると飛び出して、私の道を決めていく。何が大丈夫なのか教えてほしい。
「スズ、いる?」
「はい。」
「私、折角もういいやって諦めてたのに、また一緒に働くことになっちゃった。大丈夫かな?」
「だいじょうぶだよ、だいじょうぶ。」
拳で胸を軽く叩いているスズを眺めていると、涙が自然と溢れてくる。スズはどこを見ているのだろう。返事はするけれど、私を見ていないし、虚ろな目をして一日床に座っている。
「ねえ、引っこ抜いてよ。」
思い出したかのように、時折はっきりと言う。

 私が消えかかっている。
そう感じ始めたのは、夏がスタートラインを一歩超えた辺りだった。つい先ほどまで言葉を交わしていたはずの同僚や先輩から、所在の確認を頻繁にされるようになった。私は今までと変わらず仕事をしていたというのに、どういうことかと初めは首を傾げていた。イレギュラーなことが立て続けに起きていた私には、さほど衝撃のない現実だ。受け入れるのは早かった。
「えっと…名前…。」
次第に名前さえ忘れられていった。悲しいだとか、辛い気持ちはこの頃になると感じなくなって、あぁ、そうかと容易に受け入れることができていた。それもこれも全て、私が育ててきたこの子のせい。
私も近いうち、スズと同じように居なくなるんだろうと漠然と感じる。生温い風が肌に纏わりつくのは、なんとなく不快だった。私はまだにんげん。
「あれ?」
あぁ、またか。
「最近いい事あった?」
続けて私の名前を呼んだのは、思いを寄せていた彼だ。振り向いた彼と目が合う。息をふっと吹き返したような気分だ。
「あっ…ありました。」
「いいじゃん。」
高鳴る胸。体の中心から、指の先、頭の先まで血液が送り出される。それはもちろん、手首に居るこの子へも送り出される。手首が熱い。見なくとも分かる。みるみる蕾は膨らんでいるのだろう。意識が遠のく。もう、開花するのだろう。
「あの。」
「ん?」
すでに作業に戻っている彼の視線は、私から逸らされて。もう一度、その目を見せてほしい。私に微塵も特別な気持ちを持っていないその横顔。一瞬息を吹き返した私の心を、もはや止めようだなんて考えるわけがない。
「少し前からなんですけど。」
うん、と返事をする声は、いつものように優しかった。視界にちらりと映ったあの子の花弁が一枚、また一枚と顔を見せてくる。
「好きだったんです。」
ありがとうございました。
最後の言葉は音にならなかったと思う。きっと聞こえていない。勢いよく振り向いた彼の表情は驚いていた。私の意識はそこで途絶えた。


 一輪の花が床に落ちていた。三枚の花弁が特徴的な黄色の花だ。中心のまだら模様が目を引く。
〈好きだったんです。〉
確かにそう聞こえた。振り向いた先には誰もおらず、花だけがぽつんと落ちている。誰かと話していた気がするが、思い出そうとすると、靄がかかったように邪魔をしてくる。入口に落ちた花を拾い上げて、背もたれに身を預けた。
「ねえ。」
背後から呼ばれる。なんだ、まだいたじゃないか。しかし、振り向いた先にいたのは思っていた人とは違った。再び思い出した顔に靄がかかる。鈴のような声をした女の子が、真っすぐに自分を見つめていた。
「その花は、チグリジアっていうの。」
言葉を待たずに、少女は続けた。
「あの子はね、喋れない、反応もろくに出来ない、名前さえ忘れてしまった私のことを、最後まで想っていてくれたの。最期だってね、仕事終わりに何時間もかけて、駆け付けてくれたっていうのよ。」
少しずつ少女の声は、若い女性のものへ変わり、姿も成長していく。
「大切だったわ。可愛くて仕方なかった。十年以上なにも言えなかったけどね。」
あっという間に老婆の姿へと変わった。優し気に微笑むその姿に、懐かしさを覚える。
「あの子の想い、覚えていてね。」
その言葉を残して、老婆は姿を消した。あの子が誰か思い出せないが、懐かしさや温かく感じるこの記憶はきっとあの子に対するものだろう。そう信じることにしよう。いつか、あの子を思い出せる日が来るのだろうか。手にしたチグリジアは、ほんの少し温かく感じた。

虎百合

無理はしてはいけないよ。

虎百合

鈴の転がる音がした。 思えばそれは始まりの音ではなく、悲鳴だったのかもしれない。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-07-10

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