割拠
1-1.私の右手の薬指の、ほんのり爪半月を覆う上皮の裏に地獄がある。地獄があるのだという。それは取るに足らない軽度の地獄で、重罪人にはまた別の、おそるべき地獄が用意されているそうだ。よその地獄のありかは知らない。ただ私は私のこのつつましい地獄を、一世の拠りどころに仕立ててみたい。
1-2.それが知れたからといって私の冴えない日々が革命されるような嵐は吹き荒れず、今も箸など折って暇をつぶしている。箸供養へ渡るはずだった知らない誰かの箸をパキポキ折っている。これを自前の火鉢式バーナーで焼く。洗浄済であろうが使い古しは独特の性格を宿し、それぞれなりの臭気を漂わせる。
1-3.すると持ち主の姿がありありと立ち上がってくる。おそらくこの箸はこんな飯を持ち主にほおばらせてきたのだろう、しかるに同氏はこんな近況を過ごしたのだろう、その半生は、風采は、手癖は、身代はうんぬんと、勝手な憶測を働かせ逐一をノートに記録する、世にもいやしい邪の字の暇つぶし。
1-4.暇つぶしが高じて始めたブログに当の記録を載せてみたところ、どんな悪趣味にも興味を示す好事家はいるらしく、記事には二、三ほど反応がつくようなった。そのうち最も私の関心を引いたのが、後に私の爪に秘められた地獄を見出すこととなった女である。女も、同じサービスでブログを運営していた。
1-5.女は雑貨屋を営んでいるらしかった。とはいえその記事内容は食べものの話ばかりで、まともに商売する気があるのだかないのだか、広報の気配などいっこうに伺えない。私の悪趣味へのコメントもいいかげんだ。献立が味気ないの、とてもその箸が馴染むほどの風格はなさそうのと勝手な息を吐いている。
1-6.ある日私は酔狂まかせに女の店を訪ねてみることにした。素性は明かさず、ただの客としてだ。女は無愛想に団子をつまんでいた。いらっしゃいませの一言もない。店内はやたらと茶色いガラクタばかりに見せかけて、ひょっこり掘り出しものが潜んでいる気がする。そう錯覚させてこその商いなのだろう。
1-7.だから、ふと目についた木像を何気なく手に取ろうとした瞬間、触れないでくださいと咎められたときには体が跳ねた。背後から斬りかかられたも同然の不意打ちだ。何の粗相を仕出かしてしまったのか、どんな間違いを犯してしまったのか、高速で千思万考しようとした頭はすぐさま真っ白になった。
1-8.「ごめんなさい。あの」「手。消毒してからにしてもらえますか」合点はいったが、いますこし客商売らしい愛想があってもよさそうなものだ。ブログによこす文章はまだ可愛げがあるのに。顔つきも固かった。急いで書いた漢字のような荒い目鼻立ちのなかで、眉根のまるみだけが憎たらしいほど幼い。
1-9.どうぞと言い捨て消毒液を差し出してくる。おそるおそる受け取り、すいませんとこちらが詫びを重ねてもなおつれない女を見て、だんだん、それなりの感情が湧いてきた。そんなに剣突く食わされるような真似はしてないんじゃないか。ましてや自分の方は団子までつまんでいたじゃないか。
1-10.「きれいな手ですね」と言ってみたのは私の方だ。向こうには悪意も敵意もなかったろうけれども、かすかであれ火花の散りを感じて、なにか切り込まずにはいられなくなったのだった。こんなものは小動物にありがちな単なる臆病の裏返しで、向ける言葉はなんでもよかった。
1-11.とはいえ、一度口にした以上は意味合いを成形させなければならない。「指先が、ほら。言われませんか? とてもきれい」女は笑いも戸惑いもしない。たたしずやかに呼吸が深まっていく。その間も私は褒めそやし続ける。からっぽの言葉並びが矢継ぎ早に宙に浮く。こんなところ来なければよかった。
1-12.目線を絶え間なくあらぬ方向へ漂わさずにはいられない。「ちょっとごめんなさいね」女がスマホを手に取った。電話がかかってきたようだ。まがりなりにも接客中であるのに構わず通話し始める。それとも客とは見なされてなかったのか。私はますます目線を迷わせながら、女の様子を盗み見ていた。
1-13.きっと彼女は元来が無愛想なのだろう。私への応対にはまだ彼女一流の愛嬌を埋め込んでいたのかもしれない。そう斟酌してやりたいほど、電話先への声は憎々しげだった。面貌もいよいよ凶悪だ。袖がめくれ、右手首があらわになっていた。尺骨が浮き出ている。よほど激情的に機器を握っているのか。
1-14.さらに電話が鳴った。私のものではない。どうやら店の固定電話に着信しているようだ。ただでさえ客の立場を持て余していたところへ、間の悪いことこの上ない。黙って去るのもやむなしと転回しかけた私の上着の裾を女が掴んだ。音の出所を突くように指差したきり、また通話へと居直ってしまう。
1-15.代わりに出ろとでもいうのか?
1-16.着信は四コール目に入った。まだ私には在勤時代の習性が根強く残っている。とても放置しておけない。瞬息に深呼吸を済まし、手を延ばした。「はい。ビナヤカです」店の名前は覚えていた。女のハンドルネームでもあった。これで間違っていたとしても私の理非を糺せはしないだろう。
1-17.電話内容は何てことない、配送業者からの配達遅延を報じる連絡であった。さきほど本来の配達員が事故に遭ってしまい、代わりに自分が向かうこととなったが予定より二十分ほど遅れる、荷物は無事であるとのことだった。はい、はい、と相槌するたび、何てことなさへの安堵が深まってゆく。
1-18.勝手に受け答えしていいはずもないのに、代わりの者同士が応対していると思うとやにわにおかしくなり、わかりました、お気をつけてと猫なで声をやって、電話は切ってしまった。ちょうどぴったり、女の通話も終わったようだ。「ごめんなさい。出てもらっちゃって、ありがとう。何の話でしたっけ」
1-19.「話? あ、いや。その、私の…私がしてた話のことですよね、私の方は、別に」うまく言葉が紡げない。なにせ、別に、何の話もしてはいなかったのだから。「あの、配達員さんが遅れるそうです。二十分くらい」「エッ。随分だなあ」「わかりましたって答えちゃいましたけど」「へえ、ありがとう」
1-20.「なんだか、大変そうですね」電話前の戯言をなかったことに解消して、新たな上っ面の挨拶を重ねた。「大変? 何がですか?」問いただされると困る。何を考えているわけでもなく、確たる意志に基づいて案出された言葉であるわけもないのだ。「そちらの電話、とか…」「聞こえてました?」
1-21.「いいえ。でも、なんだか、強く握ってらしたみたいだから」「あっ。あぁなるほど。よく見てますね」「ごめんなさい」「お客さんからだったんですけどね。買った商品に瑕疵があるとかなんとかいって。でもこの店責めるんじゃなくて、品を作った人を貶めるみたいな言い方するから。ぼろくそにね」
1-22.「クレームですか?」「でもクレームっぽくはしないの。あなたが悪いんじゃないだけどね、とか、善悪の分別ついてます面して。電話だから面なんてわかんないけど」「悪いひとではないんですね」「そうそう」「やだな」「そうでしょ?」汚いと思った。そんなやり口は汚い。その汚さは知っている。
1-23.その向きの手続きならきわめて正確にトレースできる。私はその誰かのよこしまを、かつて私に確かにあった一面に重ね、卑しんでやった。「嫌いなんですよね。いや、ちょっと違うか。嫌なんだな。いっそ悪いやつだったら、っていうのも違うけど」「悪いやつって言ってしまえないのが」「そうそう」
1-24.「この感情どこに向けたらいいんだよみたいな…」「なりますよね!」重たげだった彼女の声がはじけた。「こういう人間は行方不明になっちゃえばいい」「行方不明?」「だって対処に困るから。悪人ならね、業の深さに応じて天誅下れえって、あっさり呪えるけど。でも悪人てほどじゃないんじゃね」
1-25.「言い切れないから」「うん、嫌いだってだけじゃ、そうはいかないから。でももやもやする。とりあえずあたしの視界からはフレームアウトしてほしいよ」「厳しいですね…。皆、割とそんなもんじゃないですか。あの、私もたぶんそういうとこ、あるので」「だから嫌なんです。あたしにだってある」
1-26.「それでも?」「だからです」わかるような気もするし、断然わからないような気もする。なぶられながら撫でられてるような心地もする。「誰も…」「え?」「誰も知らないどこかに閉じ込められるの。どうかな。人目には触れるのに、誰にもちっとも気にかけてもらえないところがいいな」
1-27.「山奥とか、廃墟とか?」「もっと、ずっとつまらないところがいい」「つまらないところ…」「たとえば、こんなところ」彼女は自分の右手の端っこを示して言った。「たとえばね」空気をまるで震わせぬ埋葬的な声音。あたりの輪郭まで暈し背景に斑消え溶けこむうすい笑み。
1-28.「不気味じゃないですか?」「そうですね。実際、ちょっと嫌かも」「じゃあ、あの、じゃあ、私のここだと、どうですか」彼女はいったん笑みを絶やし、そこを射すくめ、呼吸浅く「あげる」とつぶやいた。一呼吸おいて、今度は輪郭の明朗な描画で笑った。「あなたの右手薬指の爪には地獄がある」
1-29.私の右手の薬指の爪には地獄がある。見えないからには爪の内部にあたるのか。それはいくらなんでも怖すぎる。内と、外の、はざまぐらいがいい。「このあたり…。でも、あんまり大きいのは、ちょっと。ここ、なんていうんだろ、この皮…甘皮? この裏に隠れるくらい小さい?」
1-30.彼女はさっきより顔を崩し、そうだねと含み笑いした勢いを余らせて、とうとう吹き出した。「小さい小さい。砂粒の半分より小さいよ」険のある面差しに変わりはないのに、今しがた知り合った他人相手に地獄を手配しているその笑顔は実に可愛い。 /『割拠』1
2-1.思いがけない奇縁にめぐまれ転がり込んできた使い古しの箸もそろそろストックが尽きようとしている。もともと箸燃やしにこだわるつもりはない。この邪の字の遊びはレシート風情でも果たせるのだ。そう思いつき、近所の品揃えが幅広いドラッグストアのゴミ捨て場を夜な夜な当たってみることにした。
2-2.通行人もまさか私の目当てなど推し量れようはずもなく、割合呑気に物色するつもりでいた。しかし立場の逆転は想定していなかった。街路を挟み、住宅地の方のごみ収集所で男がなにやら袋を漁っている。変態かもしれない。密室の変態には同腹の理解も示してやりたいが、野をさすらう変態は厄介だ。
2-3.町が寝静まりきったといえるほどの深夜ではないにせよ夜間ではある。立ち去るか、どうか、判断にまごついている一瞬が隙となって、振り向いた男と目が合った。「あぁ、恥ずかしい。すいません。見られちゃいましたね」堂々とした振る舞いがよくなじんでいる体から発せられた、通りのいい声だった。
2-4.大して恥ずかしそうにも見えない。「聞いてください。あの、姉が、間違って捨てちゃったものがあって。それでちょっと」「手伝いましょうか?」だが私の方はいつも、いつでも調子はずれのことを言う。「大丈夫ですよ」彼の方はいたって毅然としている。「探してるのは何ですか? 指輪とか?」
2-5.「いえ、そんな高価なものじゃないんで」なんでも、彼の姉なる人物が、泥酔した勢いで自身の所持するチケット何枚かをゴミにまぎれて出してしまったらしい。どうやらそう怪しい人物でもないようだ。少なくとも私よりは怪しくないだろう。身なり一つとっても夜中の割には整っていた。
2-6.「ごめんなさい。夜にこんなゴミ漁りみたいな、いや実際漁ってますけど。怖がらせちゃいましたよね」「いえ、そんな」とっさに肯定も否定もしかねて、また私はよくわからない受け答えをしている。「そもそも夜のうちにゴミ出しちゃいけませんもんね」「一度おうちへ持ち帰ってみるのはどうですか」
2.7「ごもっともです。では」「あ、どうも。よろしくお願いします」「え、あ、はい。よろしくお願いします」お互いよく意味のわからない空っぽの挨拶を交わして、その場を去った。街電灯の白色が夜道の森厳をずたずたに切り裂き、視界の隅々にまで無音が満ちている。今夜は目的を達成できずじまいだ。
2-8.手ぶらで夜道を徘徊しながら、今からでもあの場へ戻れば彼の息遣いが残る何かを得られるかもしれないと思い至ってみると、薄寒い腹の底に熱が通ったような感覚がした。しかし結局私はおとなしく帰路をたどった。後悔を予感しようと一歩踏み出しえない、おおよその局面でいつも私はこうなのだ。
2-9.今夜の一幕を簡略化してブログに書いてみたところ、久しぶりにビナヤカからコメントがついた。『早く燃やしたいですね』箸を指してのことだろうか。彼女はどんな顔でその文を打ったのだろう。『お楽しみに』と返しておいて、それから戯れに、ほんの気まぐれに、男の住まいを推察してみた。
2-11.これは彼への興味というより、私の尻尾をつかまれかけた意趣返しにその素性をたぐってやろうとする試みで、このくらいの背徳は夜籠もりの道楽にはちょうどいい。…三十路前後の健康そうな男、やや筋肉質、ゆるめのサイドパートショート。機敏な関節。芯の通った立ち姿。聞き取りやすい声。
2-12.あんな場面でも堂々として、歩きかた一つとっても自信が満ち満ちているようであったが、やや軽はずみな調子もあり、数々の険難を克服してきて得た誉れの結実というよりは、まだ大きな挫折を知らないがための溌剌といった感じがする。または、あえていくらか向こう見ずでいるのかもしれない。
2-13.大手企業の会社員ならばこんな意気を保てるのはよほど若い間だけだろう。これがベンチャーとなるとしっくりくる。どうあれ収入は低くなさそうで、その実入りをしっかり身の回りに使っている印象があった。なのに、ごみ収集の設備がないマンションを選んで住んでいるとは思えない。
2-14.姉とともに実家住まいしていると見なした方がまだ自然な気がする。たとえば介護を要する親の面倒を姉弟で見ていたなら…。また、ゴミ袋をいったん持ち帰るという当たり前の選択肢を彼が思いつかなかったとは信じがたい。あの収集所と住まいとはある程度距離が離れているのかもしれない。
2-15.あるいはマンションの高めの階に部屋があるなら、持ち帰りをためらったのも頷ける。私への応対から鑑みて、いかにも体面には気を払っていそうであるし、ご近所付き合いも必要以上にこなしているだろう。案外居住歴は長くないかもしれない…。こんな調子で、私は彼の住処にあたりをつけていった。
2-16.ある日、男と再会した。家探しなどするまでもなく、ふと立ち寄ったコンビニで、彼の方から声をかけてきたのだった。「やっぱりこの辺りなんですね」「えぇ。そちらも…。今夜はお弁当ですか」「いやあ、本当は料理したいんですが。自分の家じゃないとしにくいもんですね。全然調理器具もなくて」
2-17.憶測は大外れだった。この近辺に住んでいる彼の姉がアルコール依存症の一歩手前らしく、それを心配した母からの要請で、月に何度か仕事終わりに様子を身に来ているのだそうだ。「でも、結構いい街ですよね。暮らしやすそう」治安はいいですよと言いかけて、とどまった。嫌味になりかねない。
2-18.「駅前以外にもそこそこお店ありますしね。私はあんまり、入らないけど」「そうですか。実際住んだら割とそんなもんなのかな」「結局毎日、同じようなとこ行ったり来たりです」「ああ、姉も同じようなこと言ってました」「知り合いもいないし」「知り合い、ほしいですか?」
2-19.「あ、でも最近、雑貨屋さんとちょっと話すようになって」「へえ、この辺で? いいですね。雑貨好きなんですよ」「あれはこの辺じゃないか…。バスだと一本で行けますけど」場所を伝えると、あぁあのお店ですかという。「お隣が昔ながらの不動産屋のとこでしょう。知ってます知ってます」
2-20.「ちょっと変わったとこですよね」「僕は入ったことないんです。変わってるんですか?」「お店の人がね、…」あれ以来、ビナヤカには二三日にいっぺんは顔を出している。いつ行っても彼女は気怠げで、まるで商売っ気がないのをいいことに、こちらも話したり黙ったり、好きに過ごしていた。
2-21.彼女のような分別が厳しめの人を前にすると私は不必要に怯え委縮してしまうのが常なのだが、ビナヤカに限っては、あぁ見えてネット上では私の悪趣味に付き合う俗なところもあるのだと知れている分、むやみな緊張が解け、割合気安く、気取らず話せるのだった。まだ、私の素性は明かしていない。
2-22.この人とも話しやすい。前回も今回も、たまたま夜更けに鉢合ったばかりに、彼には化粧っ気のない姿を晒してしまっている。かえって、それがよかったのかもしれない。私が自責の念に駆られそうな落ち度なしに、ただ偶然晒されることとなった無防備な姿。おかげで下手な見栄を張らずに済んでいる。
2-23.「お茶菓子もね、くれるんだけど、私に配膳させるんです。客にですよ」「はは、サービスいいんだか悪いんだか」「決まってお団子。ヘンな形の。しかもあんまり美味しくない」「へーえ。そこ、ちょっと気になりますね」早すぎず遅すぎない、風鈴の鳴りめいたリズムですらすら会話が進んでいく。
2-24.私はひと時の会話に面白さなんて求めない。右足を踏み出せば左足が追って出る、その程度の、並大抵の成行きさえかなえば心地いい。男の口ぶりには節々に私との仲を紡いでいこうとする向きが見え隠れしていたが、一定の間合いから立ち入ってこない節度があって、私の警戒心は易々ほどけていった。
2-25.しかしいかにも見すぼらしい風体でようやく凡庸の会話をやりくりしているだけの、こんなつまらなそうな女と関わろうとする、その腹はいっこうに読めなかった。「長話させてすみませんね」「いえいえ。明日もお仕事ですか?」私は暗に、こちらは仕事なんてないぞという事情を含ませるよう言った。
2-26.彼の方でも察してくれたのか、訊き返してはこなかった。実は朝ちょっと早いのだといった意味のことを述べ、おやすみなさいお気をつけてと定番の挨拶を交わし、その場はあっさり別れた。相変わらず自身に満ち満ちた足取りの後姿を見送りながら、しばらく、例の悪趣味は休んでしまおうと思った。
2-27.翌日、またビナヤカを訪ねた。出会いが出会いだったから、無愛想に見せかけて実は誰にでも気安いたちなのかと思われきや、彼女なりに親しむ相手は選り好みするらしく、やはりおおよそ人間嫌いではあるようだった。私とは、巷に並みいるならず者、痴れ者、不埒者への罵りで話が弾んだ。
2-28.道端へ痰をはきつける中年。相手を選んで舌打ちかます恥知らず。呑み屋の前で大塊になるスーツたち。若い女にばかりお節介焼こうとする似非紳士。電車の座席で足を広げる若い男。その彼女。会社員をこきおろす自由人。自由人をこきおろす会社員。どうにかドサクサにまぎれようとする卑劣漢。…
2-29.「ていっても、みなさん一人一人、言い分はあるはずなんだよね。聞けば庇ってあげたくもなるような事情とかもあったりして」「フン。フン。だから嫌なんだよ。外に出てこなきゃいいのに。雨にも負けろよ。風にも負けろ」「靴を捨てろ」「服を焼け」「言いすぎじゃない?」「のっかってたじゃん」
2-30.「そんでさ。私だってきっと、同じように誰かを不快にさせてるんだと思うとね」「いいんだよ。その人たちはその人たちで、勝手に怒ったり呪ったりしてるよ」「よくなくない? それ」「いーの。いいんだよ」ビナはたまに、笑い話の最中だろうと冷え冷えした目つきをする。「いいんだよ」
2-31.話題を変えようと、私は先日の男とのやりとりを聞かせた。ゴミ捨て場での一幕の方は伏せて。「だから、もしかしたら近々、その人が来るかも」「お客さんか。まあ、ありがたいなあ」「ありがたいんだったら愛想良くしないと」「やだよ。無理に笑うと相手の寿命が縮む気がするんだよ」「自分のは」
2-32.出会いの日以来、地獄の話はしていない。まさか私があんな軽口を真に受けてとっておきの拠りどころにしているとは、ビナも信じていないだろう。まだ、誰にも知られていない。誰にも知られぬまま、この数週間で、私はもう、何人も、何人も、地獄に落としてしまった。 /『割拠』2
3-1.何も私は壁から壁へと毎日うろうろしているだけのフーテンではない。週に二日はボランティア活動をしている。高齢者の世話役と呼ぶにも大げさな、ほとんど話相手を務めるだけのお気楽な役向きだ。彼らは自治体に援助してもらえるほどには困窮していないが、民間サービスを頼れるほどの余裕もない。
3-2.身寄りはあってもその縁は希薄で、なのに一人では問題事に取り組む体力も気力もない。治療を要するような病気はないのに身体の調子がなんとなくずっと悪い私のような手合いからすれば、誰もに不幸と見なされる折紙付きの社会弱者よりも、ただじんわり弱っていく彼らの味方でありたかったのだった。
3-3.それに、この活動をしているとなんだか許されたような気分になった。大したことない務めであれ、ありがとうありがとうと感謝される。感謝されてようやく、かろうじて生きていける。何にもおびえず息ができる。息を吸うために息を吐き、息を吐くために息を吸っているだけの暮らしに体温が行き届く。
3-4.奉仕精神はさほどない。あるにはあるが、真面目な職員の求める水準にはちっとも達していない。私が所属している団体は、孤人と称されるような単独高齢者世帯の広がりを地域が解決すべき最優先課題と見なし、孤人となる二歩三歩手前で食い止めようという理念を掲げ、コミュニティの設計をしている。
3-5.なんでも、有限責任事業組合として発生した前組織が解体されてから、頭目のみ挿げ替えて再起したのだそうだ。今現在は寄付金と助成金でやりくりしているものの、遠からず事業型NPOとして展開していく絵図があるらしく、幹部が立ち回る気配の節々に一大プロジェクトめいた重みを感じることもある。
3-6.私の役柄にしてみてもお気楽なのは今のうちだけだろう。この手の組織の中心となる働き手は子育てを終えた年配の有閑世代で、とくに地域コミュニティでの表裏を熟知したおばさま方が多い。ただ、勤め先がない若年層の独身女という身上は、それはそれである一定の期待を賭けられるものらしかった。
3-7.というより、どんな身柄を扱おうと手ごろな期待を割り当ててやれるだけの器量が組織運営の管理者には求められるのだろう。団体の頭目は私より一回り年嵩の兄弟で、二人とも髪が短く声が大きい。髭面の兄の方が代表として対外的な社会活動の交渉などを一手に引き受けているそうだがよく知らない。
3-8.私が関わるのは人材のあれこれを調整している弟の方だ。事務局長という肩書ながら本業は作曲家であるらしい。運営にあたり私財をなげうってもいるという噂がある。人当たりがよく、大丈夫が口癖で、何かと融通が利いた。活動が重荷にならないよう、窮屈な組織にさせないよう、常に気を配っている。
3-9.勉強会やミーティングには出ても出なくてもいい。締め付けを厭う私にはありがたい緩さだ。メッセンジャーアプリのグループ会話だけは見逃さないようにしていた。誰がどういった用向きを充てられているか公開および記録されるわけだが、これで済むのも活動規模が小さい今だけかもしれない。
3-10.毎週日曜日に作曲家が派遣先の手配をしていく。私は希望を通して、週に二度とも一人のおばあさんを担当させてもらっていた。こんな勝手を呑んでもらっているのは私だけかもしれず、それもいつまで通用するやら心もとない。正直なところ、今さら他の用向きなど振られても気が引けるのだけれど。
3-11.おばあさんの住んでいるマンションはあからさまに古びていて、どこを見ても白が白でない。狭いエレベーターにはこの建物そのものの体臭が染みついている。部屋に入ったところでどんな姿勢も合わないような圧迫感が悩ましい。それでも当人は気に入ってるようで、よく建物の自慢をしていた。
3-12.「ただ古っちいおうちはねえ、だめよ。くら、くら、しちゃって。かび臭い掃きだめみたいなとこじゃ、死ねないわよ。あんなねえ、ベロみたいな階段は、もういや」「そんなところお住まいだったんですか?」「いろいろあるわよお。おねさん、お化け屋敷にも、豪邸にも住んだわよ」
3-13.「はい、椅子のがたつき、直りましたよ」「あらあ、ありがとう。いつもいつも、ありがとう」「他にも困ってることあったら言ってくださいね」「お姉さんにはお礼をしなくちゃいけないね」「いいえ、そんな」「あなたは、いい人はいるの?」「あぁ、いえ。その、嬉しいですけど、構わないです」
3-14.つくづく、私には私の言葉の意味がわからない。はいかいいえで答えられる質問なのに、勝手にその背景を読み取ろうとして、会話の行く末まで先回りして、どう答えれば相手を不快がらせないか、礼を失しないか、結局は考えあぐね、かえって調子はずれの応答を放り投げてしまう。
3-15.「そうなの。本当にねえ、おねさんにも息子がいるのだけどね」私の言葉を聞いてか聞かずか、おねさんは家族の話をし始めた。もうじき還暦に達する息子は妻と別れ一人さみしく暮らしている、彼の息子も三十路を過ぎてなお独身生活から抜け出す気配がない、身内としては心配が募るばかりである…。
3-16.「おねさんはね、ほら、趣味もあるし、どうとでもなるから。でも男の人って、本当、一人になっちゃうのね。息子はもう、いいのよ。でも孫の方はね、やる気次第じゃない、そんなの」「あの、じゃあ私、よければ、お孫さんに紹介しましょうか。その、独り身の」まただ。またやってしまった。
3-17.また私は、脈絡の成形のためだけにあられもないことをのたまって、後悔の種を撒いてはあくせく栽培している。頭にはビナを思い浮かべていた。せめて我が身を差し出すならまだよかったろう。しかし一度拒否めいた反応を示したからには、私はその私を…この場においては…通さねばならない。
3-18.「どなたかいるの?」「そうですね、いるといえば、いるような」おねさんは私をしばらく見つめて、「やっぱり、だめね」とそっぽを向いた。「あの子たち、おねさんが世話焼こうとすると怒るのよ。自分に合う相手なんて自分じゃわかんないもんなんだから、ねえ、身内に任せておけばいいのにねえ」
3-19.私は人身御供さながらの因業に手を染めず済んだ顛末にほっとしながら、おねさんはこちらの軽率を見透かしたうえで気兼ねしてくれたのではないかと直感した。しかしまた一方で私は、ビナがお孫さんに紹介される、その未来図をめいっぱい希望的に思い描いてもみた。良いのか悪いのかはわからない。
3-20.「あら。あら。時計ったら怖いわ」おねさんは予定が押し迫ってるという。今日はマンションの上階で飼い鳥を見せ合う会があるのだそうだ。「へえ、鳥? 鳥なんて飼っていたんですか」「そうねえ。飼いたいのだけどねえ」不穏気なことをいう。聞けば、鳥など一尾たりとも飼っていないらしい。
3-21.飼ってはいないが、会には参加したい。初めて会の話をもちかけられたとき、鳥なら自分も飼っているとつい応じてしまったそうだ。いかにも、私にも起こり得そうな"つい"だ。しかし私とは"つい"の色がかなり違うだろう。たとえそこへと嵌るピースの形が同じでも、色が違うなら全体図は変わる。
3-22.「だから毎回、集まりの前に文鳥を借りているの。下の階の、若い美容師さんからね。あの人ったら、文鳥ですもの、犬じゃないんだから、あれなんていったかしら、毛をね、はさみで」「トリミング?」「そう、そのトリミング? あれ、あれ、鳥? ホホホ、なんだっていうのもう」
3-23.「文鳥相手でもトリミングってするものなんですか?」「いらないんじゃないかしら。あの子たち、羽繕いばっかりしてるから。なのにあの人、ハサミで整えるのよ。ところどころ。ほんの1㎜もないくらい。でも、そのせいか、たしかに端正ね。姿がいいの。おねさん、前も会で褒められちゃった」
3-24.ニコニコして誇らしそうだ。私が同じ立場ならこうはなれない。飼ってもいない飼い鳥を借り、それを仲間に打ち明けないまま会へ参加して、しゃあしゃあと賛辞を頂戴する…。私であれば恐々とするばかりで、誇らしさはおろか平常心さえ保てず、失態を重ねた挙句の狂態を晒しのけるに違いない。
3-25.一見たおやかな老婦人に見えて、おねさんはなかなか太々しくしたたかなのだ。けれど振る舞いの一つ一つが肌身によく馴染んでいて、いっこうに不健全な感じがしない。私より五十年は長い人生でどれだけの業を積み重ねてきたものだろう。暗くなるからと、おねさんはあまり過去を語りたがらない。
3-26.美容師はそのか細い腕にキャリーバッグを提げてやってきた。勝手知った調子で部屋にずかずか入り込んでくる。おばあちゃーん、という呼びかけは弾んでいるのにわざわざ笑顔はつくっておらず、それが却って男のひとに特有の、信頼を寄せている相手への親しみを証しているようだった。
3-27.「鍵空いてるじゃん。また怒られちゃうよ。はいこれ、おばあちゃんに。あげる。こっちは文鳥の餌だから間違えないで。ね」「はい、はい。ありがとう。いつもいつも、ありがとう」その言葉並びには聞き覚えがある。私はちょっとだけ嫉妬心に駆られて、腰を上げてしまった。「あれ?」「はい?」
3-28.「ええと? ケースワーカーの方ですか?」「いえ、私は、ボランティアで…」「へえ! すごいな、なんか。偉いですね。立派だなあ。どうぞあれ、一緒に食べてください」「どうも。いただきます」「…あの。鍵、気を付けてくださいね」「え」私が訪れたとき、ドアは開放されていた。「すいません」
3-29.たしかにストッパーで留められていたが、あの後外れてしまったのか。それで私が鍵を閉め忘れたという現場が出来上がった。ただ、ここでそんな退屈な事実を説明しても仕方ない。「うっかりしてました。気を付けます」「はは、真面目! でも本当にね。うん。はい、それじゃっ」私には笑顔だった。
3-30.おねさんは私のことをこの人には話していないとみえる。彼女には会の集まりもあるし、こんな若い人との交流もある。身内とも、そう疎遠らしくはない。孤人の心配がないとなると、私はいらないんじゃないだろうか? だとすれば、私を必要としない彼女を、私は必要としていられるだろうか?
3-31.高齢層は社会のお荷物だという僻見がある。いや年長者の知識や知恵や経験談はありがたくかけがえないものだという反論がある。いずれも役に立つか立たないかの物差しで人を見定めているわけだが、そんなもので存在が審判されてなるものかと私が抗いたくなるのは、とりもなおさず私のためだ。
3-32.それでも、私の存在が認められるのは、世の中の都合に適した人員としてのみなのだとしか見なせない。私は役に立たないと、生きていられない。そして、その人員としての一大事は、思いのほか早く訪れた。 /『割拠』3
4-1.何を最も恐怖するか。死。親しいものの死。暴力。不可知。未来。裏切り。病。欠損。災害。人によって千差万別だろうけれども、私にとっては、バレることだ。他人を騙す意図で嘘をついてきた覚えはほとんどない。なのに、どうでもいい、裁きに値しないような嘘を日々こつこつついていて、愚かしい。
4-2.嘘はうんざりだ。いつかバレる。その瞬間はもちろん、それがまたどんな事情に結びついて有形無形の別問題に化けていくものか、ちょっと想像してみただけで恐怖に打ち震える。想像しえない可能性はもっと恐ろしい。私は呼び出しを嫌う。後ろめたい覚えがなくても、何かがバレた気がするから。
4-3.とはいえ今回、所属している団体から呼び出されたときには、「担当先の隣人の方が話を聞きたいらしいんだけど」という文言からきっと例の文鳥の件だろうと見当をつけてしまえた。それならばまだ他人事扱いできる余地がある、かろうじて落ち着いていられる…。そうして、安堵した自分を恥じもした。
4-4.おねさんの住まいからほど近い、こちらは新築のマンションで、夜にもなればファサード一面がピンライトで照らされる。その小洒落ぶった装置も、まだ明るい昼日中にあっては滑稽だ。団体の事務所は二階にあった。代表の居室でもあるらしい。リビングがちょっとした仕事場のように仕立てられている。
4-5.NPO団体は事務所を構えようにもよっぽど実績のない限り銀行から融資が下りにくい。ましてや小規模であれば拠点が住居を兼ねている例は珍しくもないのだと、話好きの職員が以前ぼやいていた。代表である兄の姿は見えない。今日私を呼び出したのは弟の方だ。彼と一対一で向き合うのは初めてだった。
4-6.「なんか久しぶりじゃない? 元気してた?」「おかげさまで」「ちゃんと食べてる?」「食べてますよ」「恋愛は? どう、楽しんでる?」この人は彼氏だの結婚だのといった男女関係のお題目をあいさつ代わりにする。昔はこの手の放言が嫌で、怒りとも呆れともしれない悪感情がその都度うずまいた。
4-7.しかし彼らには、つまるところ単に、そこへ配置すべき別の話題がないのだ。少なくとも私に対しては…。そう思い至ってからは聞き流せるようになった。下心があるわけでもなく、プライベートの事情を掘り出してやろうと目論んでいるわけでもない。意味のある質問ではない、空虚なうわべのやりとり。
4-8.会話にはつなぎがいる、が何を言うべきか定まらない。会話相手は女で独身で…といった大振りの情報から導き出された手近な話題というだけで、質問された側が受け取めるほど内容に意味はないし、質問者の意図もない。だから、悪気などありようはずもない。応答は突飛でさえなければなんでもいい。
4-9.私自身似たような不埒は数多く働いてきているはずだ。苛立ってはいられない。ただ、どっと疲弊する。おねさん相手ならこうはならないのに。「あぁごめん、こういうの、よくないんだったね。でも皆、恋愛の話好きだよねえ。アハハハ。顔が怖いよ。怒ってる?」「いいえ」怒ってる。
4-10.一方的に言葉を被るばかりの受け手そのものであったはずの私が、顔が怖いよの一言で、あたかもこの場の主犯格に仕立て上げられた…その転換をいとも気軽にしおおせた手口に怒りはじめている。「ご用件は?」「本当にごめんね?」いよいよ胸の修羅がうずく。「気にしませんから」小さい嘘。
4-11.「きみのとこでちょっとした騒ぎがあってね」大方の予想通りではあったが、事件は一歩進んでいた。例の美容師が文鳥の風切羽をワンポイント染めたらしい。自然由来の無害な成分ではあったとはいうが、怪しいものだ。染料なんて不純物のないヘナ100%であってすら無害とは言い切れないのに。
4-12.鳥には詳しくないが、考えてみれば水鳥加水分解ケラチンなどは羽毛を原料としているわけだから、短毛とはいえ文鳥のそれだってケラチンは多分に含んでいるのだろう。ヘナならローソニアには反応するはずだった。かつては散々取り扱ってきた品とはいえ、私自身は動物相手に試してみたことはない。
4-13.または私の知らない、美容師独自のルートで調達した逸品があるのかもしれない。だが寄り合いでは、愛玩の度が過ぎている、私物化にもほどがある、ほぼ虐待ではないかと難詰されてしまった。それも、あくまで柔和に、体裁よく詰め寄られたのだという。おねさんは涙ぐんでいたそうだ。当たり前だ。
4-14.硬い骨身に柔い指腹を押し付けたって、執拗に圧したなら痛ませる。だいたいが、おねさんが難詰されるのは本来筋違いなのだ。その流れで文鳥が借りものであるとも明かされてしまった。美容師に連絡がいき、会の参加者の一人と言い争いになった。感情先行の言い争いの常で話は変にこじれていった。
4-15.「でね、話が読めないんだけど、証人がほしいんだって。うちに連絡が来た」「そうなんですか…」「きみは? 聞いてたの?」心臓が一度大きく波打って、体温が失われる。自責を問われるような過失はないはずなのに、血という血が冷え冷えする。「ええと…。その鳥が美容師さんのってとこまでは」
4-16.「どう、対処してもらえる?」つまりは向こうの言い分を真っ当に取り合ったりせず問題を穏便に収めてくれとおおせなわけだ。「やってみます」「ありがとう!悪いね。本当は、俺が行くべきなのかもしれないけど」一方では人材育成の好機と見てもいるのだろう。この人は先々を見据えてことを運ぶ。
4-17.トラブル対処の実地経験を積ませるにあたり今回くらいの問題はちょうどいいのだろう。会社と大して変わらないなと、かえって、どこか安心した。「私の裁量で立ち回っていいんですか」「大丈夫大丈夫。信頼してるよ。大変だけど、ね、頑張って。こういうのあるんだよなあ。今度ゴハンおごるから」
4-18.「私なんか全然。局長さんの方が」「はは、局長とか呼んでくれるんだ」「ご立派じゃないですか。その、本業の方のお仕事だけしてれば、その、してるだけで、いいはずなのに」「みんな自分のことで手一杯よね。あれはあれで、大人だよなあ。でもおれは、元ができた大人じゃないからさ」「…大人」
4-19.「うん。自分に身近じゃない問題に取り組もうとしてこそ社会化された大人ってもんだと思うんだよ。ほら、おれ、まともに勤めてきてないから。社会人?て何?みたいな。あれ、何の話だっけ? 誰が立派って? うん、みんな偉い。おれも偉い! 偉いよね?」「めっちゃ偉いですよ」「だよねえ!」
4-20.何のかんの言っても私はこの人を嫌えない。たしかに立派な人ではあるのだ。たとえ理念に掲げた社会貢献が表向きに過ぎなかったとしても、その実現が道半ばで途絶えたとしても、それでも尊敬すべき人ではあるのだ。こんな真人間を相手どり嫌えないなどとぬかして尊敬しない私の方が欠陥品なのだ。
4-21.「大丈夫? 今日なんか沈んでない?」「いえ…」「そ。悩みあるなら聞くよ?」こんな何気ない一言で気を悪くする私の方が…。だって、打ち明ける許可を与えるといった言い草だ。気になって聞きたいならそう言えばいいのに。こちらに責任を負わすような定型句にどう応じたものか言葉が紡げない。
4-22.悩みならある。だからって聞かせたくはない。そもそも悩みといえるほどには熟していない。いいえ悩みってほどじゃないんですうと伝えればいいのだろう。ところがそうなると二の句が継がれてしまう。わかるよそういうの。悩みって言うのはね。あるいは身の上話を問わず語りでおっぱじめかねない。
4-23.予想される行方のことごとくが面倒だ。面倒くさい。黙っていたい。言いたくなったら言ってね、であれば単に行き届いた配慮として呑み込めたろうに。そうあれこれ考えるにつけ、なんて私は嫌なやつなのだろうと落ち込んでくる。彼は彼なりの篤志に基づき、厚意を向けてくれているのには違いない。
4-24.それを無碍にするばかりか迷惑がって、手前勝手な批評まで下して、つくづく性根が腐っている。あげく、こんな自分を忌み嫌いながらなお、そのあたりの機微に疎いらしい手合いよりはまだ上等の精神にあると内心では得意ぶっている始末なのだからたちが悪い。恥を知ったつもりの獣。
4-25.だいたいが、この程度を失言と見なすのなら、私など二度と口を開けやしない。ちょっとした言い回しのしくじり、言い違い、そんなつもりはなかったのに相手を傷つけてしまった、配慮が足りなかった不始末など、やらかせる限りやらかしてきた。他の誰よりも許容しなくてはならないはずの私だ。
4-26.この人を咎める権利など塵芥ほどもあるものか。だが一方で、こうもおもんみる。…そんなに私は悪いだろうか? そう直感してしまうのは仕方ないのではないか? 直感までは制御しえないのだから。だから、このうっとうしさは内面世界に閉じこめておき、せめて表向きは笑顔で言う。「大丈夫です」
4-27.たったこれだけの、誰にとってもどうでもいい、安い、おざなりの一声を吐き出すだけで、私はもう、息も絶え絶えだ。今すぐ床に溶けてしまいたい。面従腹背とでも、腹黒とでも、信用ならんとでも、なんとでもいうがいい。どうにか息をし続けるために、私は私にできる取引を、命がけでやっている。
4-28.「きみも大変だね」大変? 大変か。大変なわけがない。病根ともいえた職はとっくに辞した。おかげで時間はある。両親は健在。大病とも障害とも無縁、心的外傷もなし、借金の経験もなし、人から裏切られた経験だってない。容姿に劣等感はあるが、きちんと身なりを整えれば粋がれる日もある。
4-29.人並みの趣味嗜好と、人には明かせない秘密の趣味嗜好がある。特技と呼べるものは三つ四つ、コミュニケーション能力だって、私が憂えているほどには、世間の水準より低くないだろう。私はあらゆる面で恵まれていた。誰と比べても、私の苦悶は、不遇は、大したことがない。物語にならない。
4-30.誰に弱音を吐いたところで窘めるように説教されてしまうこと請け合いのありきたり。または通り一遍の励ましを。ありふれた苦悩にはありふれた激励がふさわしい。十年遅いのだ。これが十代なら物語になった。十年遅い。そのくらいはしっかり了解している。大変なわけがない。よその誰と比べても。
4-31.それでも、私は私を持て余している。大変だ。つらい。苦しい。嫌だ。うんざりする。甘ったれの自覚はある。だからって私は望んで温室に育ったわけではないし、ありのままこうなっただけなのに、打たれ弱いの、苦労知らずのと責められても、ただ立つ瀬がなくなるだけで、ひたすら困ってしまう。
4-32.私が私の苦悩を表に出せば、人は、救いの手を差し伸べるべきかどうか、世間の正しさや個人の理念に照らし合わせて、判定を下そうとする。私にはそれがやりきれない。だから、いっそ、救う側にまわることにしたのだ。照準を合わされてしまわぬように、こちらの陣地へ亡命をはかったのだ。
4-33.「そろそろ連中も帰ってくるかな。外、雨降ってきたみたいだけど」「あ。全然気づきませんでした」「傘持ってっていいよ」「お構いなく。駅近いですし」「濡れちゃうよ?」「途中で買うので」「コンビニなんか駅前までないよ? いいよ、ほらほら持ってきなって」「すいません」「気をつけてね」
4-34.建物を出てまもなく雨は止んだ。結局は活躍の機に恵まれず、ただ所在なげに私の手の運動を追うほかないこの傘の方をいたわしく思う。 /『割拠』4
5-1.「こんにちは、本当にお団子食べてるんですね」想定はしてみていたのに、実際に男の来店を目の当たりにすると、私がようやく親しみつつあったこの場には異物という感じがした。「これが歓喜団ですか」「わかりますか」なんてこと! このうえ早くも当たり前みたいにビナと会話し始めている。
5-2.「調べてきました。美味しくないって話ですけど…」「美味しくはないですよ」「一口いただいても?」「どうぞ」「かんきだん? そんな名前なの、これ」「そう、ビナヤカって店名にも覚えがあって」「仏教に詳しいんですか?」「いや、たまたま。聞きかじりで」「ビナヤカに意味なんてあるの?」
5-3.「そりゃあるよ」「ガネーシャはご存じ?」「首の上だけ象の…?」「そうそう、ヒンドゥーの神様。シヴァ神が妻の…えっと」「パールバティー」「そう、パールバティーの息子と諍いになって、勢い余って彼の首を刎ねちゃった。妻は大激怒、世界を滅ぼそうとまでする。シヴァは大慌て」「へーえ」
5-4.「で、息子を生き返らせると約束して、子象の頭にすげかえたっていう」「何その話。狂ってない?」「神話だよ」「神話なんて割とこんなものなので」「だいたい象だって首刎ねられたら息子と同じことじゃないのかな。象の頭だけで生き返るって、変な話! 第一、シヴァの子供でもあるんでしょう?」
5-5.「いや、たしか、パールバティーの垢から作られた人形に生命を吹き込んだって話だったような…」男が確認を求めるような視線をうろつかせたが、ビナは口を挟まず黙っていた。「まあいいや。そのガネーシャが日本へ伝来してくるにあたって、密教を通じて歓喜天と呼ばれるようになりましたって話」
5-6.「思い出した。七福神の大黒様も元はシヴァだ」「そうそう、同じ感じ。ビナヤカは歓喜天のことで、歓喜天信仰ではお供え物に特注のお団子を捧げる。それが歓喜団。本当に美味しくないですね」「美味しくないでしょう」「話は合ってました?」「あたしもうまく説明できないからなあ。説も多いし…」
5-7.「男女愛を推奨してるんですっけ」「ちょっと違う。像だけ見るとそんな感じだけど」ビナはあの日私が接触しかけた木像を指差した。立ち姿の象と象とが抱き合い、…というより絡まり合い、ほとんど一体となっている。たしかに淫靡な印象だった。「ああ、欲望願望、なんでもまるまるっていう?」
5-8.「ウーン。違うなあ。なんていうのかなあ。推奨、推奨…。違うなあ。自分で調べれば?」「あはは、投げやり」「はあ、調べてみます。ちなみにこの像はおいくら?」「エッ!」「エッて」「そんなこと言われるなんて」「ここ本当にお店なの」「売るつもりで置いといたわけじゃないから」
5-9.「商売っ気なさすぎるでしょ」「でもガネーシャってインドじゃ、あれですよね、商売繁盛を願って、看板やら商標やら、あらゆるデザインに使われてるでしょう。店の名前にするにもぴったりだ」「これ、本当に買う?」「いえ、ちょっと値段が気になっただけで」「あ、私はちょっと欲しいかも」
5-10.「エー。何用で」「なんとなく」「人形とか好きなタイプ?」「人形じゃないでしょ? そう言われると嫌になってきた」「人形嫌いか」「嫌いっていうか…おそれはばかる?」「なに?」「人形は…見つめてると…ずっと目を見合わせてると、向こうも私を見つめてるんだって思えてくる」「あぁ」
5-11.「その視界がひっくり返る瞬間があってね。私は人形の目を通して、人形を見つめる私自身を見つめてる。人形のなかに私が閉じ込められてる感じ。また私の視界に戻ると、あぁこの人形の中にも私がいるんだなあって思えてくるんだ。それが」「怖い?」「…おそれはばかる」「"私"は置きざり?」
5-12.「わからない」「なんだか不気味だ」「だから、人形って言われると身構えちゃって」「それじゃあ、人形の方に手を加えて見るのはどうだろう」「それは普通に怖い」「ちょっと。人形の話に限るならいいけど、この木像にはやめてくださいね」手を加えると言われて、文鳥の件が思い返された。
5-13.いったい二人はどれだけ場慣れしているのだろう。自己紹介はおろか挨拶すら省きっぱなしのまま、するする会話が紡がれていく。話題にこだわりはないようだ。二人がまわす大縄跳びに飛び込むつもりで昨日の経緯の要点を聞かせると、それぞれなりに好奇の色を浮かべていた。
5-14.「ボランティア活動かあ、ちょっと意外」「ボランティアってほどじゃないんだよ。お年寄りの話相手してるだけ」「それ、ちゃんとまともな…? NPO法人とか社団福祉法人になってるような」「そのへんは、まあ、ちゃんと。あれ、お詳しい?」「いや、全然、人並みの知識しか」
5-15.「私は自分が入るまで全然実情とか知らなかったから」「あたしもちょっと関わったことあるよ。そこは障害者支援団体だったけど」「僕は資金難のNPOに疑似私募債で一枚噛んだことがあって」「なんだ、じゃあ、私が一番詳しくないかもってくらいだ」「話相手してるだけで証人とか、関係なくない?」
5-16.「あの美容師さんに嫌われちゃってるのかも」やはり玄関の鍵の件は弁明しておくべきだったのだろうか。軽率で信用ならない印象を与えてしまった気はする。「その美容師が悪い。どういう了見してんだ」「悪いってほどですかね。おばあさんの勝手に巻き込まれちゃっただけとも言えるわけでしょう」
5-17.「いやいや、おばあさんの出来心も美容師の虐待疑惑も、大したことないじゃない。ごめんなさいで済む話だよ。なのに第三者噛ませてややこしくするような真似してさ。そこがいかんよ」「いかんですか」「いかんねえ。もう、行かなくてもいいんじゃない?」「明日約束してる」「すっぽかしちゃえ」
5-18.「といっても、証人なんて強張った言葉をあてがうくらいだから、相当こじれてるんじゃないですか。外側からの情報だけだとわからないような」「庇うんだ」「その人を知らないので。また聞きのまた聞きみたいなものだし、その情報に信用が置けるかは疑ってかからないと」「まわりくどいなあ」
5-19.「どうせわからないなら、なるべく善い方に考えてやりたいじゃないですか」「美容師なんかよりさあ」「聞いてました?」「おばあさんのケアの方が大事じゃない?」「美容師の話は店主さんがし始めたんじゃないですか」「そう、私もケアの方を考えたい」「弱ったな。僕がおかしいのか」
5-20.相談までするつもりではなかったが、二人は親切心からか、好奇心からか、あるいは道徳観念、規範意識、美意識などを織り交ぜたものか、やけに親身に付き合ってくれた。「でも、別にそんな、大ごとじゃないから。きっと大丈夫だから」「これから大ごとになるかもよ? いきなりその鳥が死んだり」
5-21.「なんてことを…」「ありえる話だなあ。小鳥なんて繊細なもんだし」「危ないよね」「たしかに染料に含まれてる化学薬品は大概有害だから危ないよ。ほぼ無害なのもあるけど…」一般的な酸化染毛剤は、毛髪内に過酸化水素を浸透させ、染料を酸化させる作用により発色する。
5-22.さらに酸化剤の効果でメラニンを脱色させもさせるのだが、小動物にはアレルギーが起きやすい。だからペット用には、酸化剤が含まれない酸性染毛料を採用することが多い。酸性染料は毛髪に浸透することなく、ケラチンタンパクとイオン結合して染着させる。生体へのダメージは少ない。
5-23.化学染料を用いない自然由来の筆頭がヘナカラーだが、100%天然を謳っていようとも、実際には短時間で染まるようアゾ染料を混ぜた商品が巷には多く出回っている。いずれにしても人間以上のリスクは付きまとうはずだ…といった説明を二人に聞かせた。思いのほか、真剣に聞き入っている様子だった。
5-24.「詳しいんだ」「全然! でも染料だけの問題でもないし、染め付けてる間の小動物のストレスとか考えたら、やっぱりよくないんだろうね。手先の技術的にはすごいのかもしれないけど…」「仕事で学んだの?」「うん、食品の部門の方が売り上げ強かったから、私はあの、あれだけど」「あれって?」
5-25.ビナは意地悪しているつもりはないのだろうが、こうして人を追い詰めるところがある。「私がちょっと学んだところで会社には貢献できてなかったし、それにそもそも、知識もちょっとずれてたのかも。技術屋とか販売担当とかとね、なんかね、いつもろくに会話にならなかったから」
5-26.ずれていたのは知識ばかりではないはずだった。こうしている今だって、ずれは感じる。ずれに気づかないふりをして、話の流れに身を任せ、口を滑らせ続けている。「真面目なんだ。休日には勉強会とか?」「いーえ。あ、でも原料の栽培には興味もてたから、出張にねじ込ませてもらったりはして」
5-27.「どこ?」「ラジャスタンてとこ。インド。インド旅行って普通、学生のときに行くもんじゃない? それが会社の金で行けちゃえるんだからね」「いいな、インド。僕もまた行きたい」「結局近代的な工場だけ見学して、栽培の光景は見れなかったけど。ま、あれはあれである意味人生観変わったかも」
5-28.「ラジャスタンならあたしも行ったよ。このヴィナーヤカ像はあのあたりの地域で仕入れたんだ」「これヴィナーヤカ像っていうの?」「ビナヤカもヴィナーヤカも同じだよ」「ラジャスタンっていうのは?」「インドの北西部の…でっかい州。そこの中央にソジャットっていうヘナの名産地があるの」
5-29.「へえ、本場なんだ」「でも私が行ったのは春だったから」「春だとだめ?」「そこは年間通して乾燥してて、加えて猛暑っていう風土なんだけど。毎年決まった一か月間だけ雨が降って。もともと一日の寒暖差が激しくて、でね、この雨季の後…」男は小刻みに瞳を瞬かせながら話を聞いている。
5-30.まるでクラシックなコンピュータがピコピコ発光しながら学習していくみたいに。こうして彼は広範な知識を蓄えていくのだろう。"聞きかじり"か。なるほど、かじられている。口を開くごとに私が吸収されている。私が吸収されていく。みるみる呑み込まれていく。
5-31.「そんな難しい話じゃないと思うんだけどなあ」ビナが話を戻して、男が受け継いだ。「同感です。話を難しくさせようとする人がいるだけで」「そっか、問題はそっちか」「会の主催者なり発言権のある人を捕まえて素直に事情を第三者視点から説明すれば、わりと穏当に収まるんじゃないですか」
5-32.「私の苦手分野だ」「あたしもだ。めんどくさ」「じゃあほっぽっちゃいますか。当事者は大変だけど、ちょっと大変なだけです。これから三人で海でも行きますか」「いいね」「美味い帆立が食べられる港を知ってます」「やっぱり私一人で考えなきゃダメかな?」「店主さんだったらどう動きます?」
5-33.「あたし? だったら? その問題の人に、美容師の店でもなんでも教えちゃうよ」「こわ」「関係ないやつがしゃしゃるからこじれるんだよ。当事者同士で殺しあえよ」「彼らは同じマンションの住人なわけですけど、部屋じゃダメなんですか?」「ダメ」「ダメですか」「お兄さんならわかるでしょ」
5-34.「剣呑ですね」私にはよくわからなかった。当事者二人を引き合わせる案には賛成だ。男の提案した根回しの穏当策ではかえって事態をかき回しかねない。どれだけ台本を練っていったところで、私の話を聞いた相手の反応に返す言葉はアドリブになるのだ。彼の考えは正当だが、私には妥当でなかった。
5-35.しかしまた、私がビナの案を採ってしまいたい理由の説明を彼にするのはきっと苦労する。うまく伝えられる自信がない。不快にさせてしまいかねない。そんな瑣事に苛立つような人でないとしても、そんな瑣事に余計な配慮を計らって言葉を濁す、私という人間のつまらなさは見抜かれてしまいそうだ。
5-36.やがて別の客が来て、いいかげん私たちは退店することにした。申し訳ばかりに、私はミニチュアのゴンドラを、男は絵筆のようなものを買っていた。外は明るく、どこか不穏げな重たい暗さのある店内の空気をまとわせた身からすれば恥知らずな能天気さだが、一瞬後にはその我が身が恥ずかしくなる。
5-37.「バス停は…。いいや。ちょっと歩こうよ」私は男の目を見つめないよう心がけた。代わりに、なんの包装もされていない剥き出しのゴンドラの内部に自分が居座っている映像を思い浮かべ、私のゴーストを匿わせた。彼の身はこの空の下を分け隔てなく照射する光線によく馴染んでいる。 /『割拠』5
6-1.まず、その人の姿を思い浮かべる。外骨格、皮膚の質感、肉づき、目鼻立ちとその運動、歯並び、髪型、血の流れ、内臓のビジュアルさえも余さず捉まえる。さらにはファッション、パーソナルカラー、声音、におい。生い立ち、血筋、トラウマ。出身地。手癖足癖、口癖のたぐい。興味関心の傾向。性癖。
6-2.細大の別なく、思いつく限り片っ端から入力していく。いくらか不正確な情報が入り混じろうと構わない。どんな料理であれ多少レシピを違えようが目当ての品はできあがるのだ。しだいにうっすら像がむすばれてくる。それは私の中で呼吸しはじめ、自律的に動き、喋り、立ち振る舞うようにまでなれる。
6-3.だが空想の産物であるそれにはまだ、場所がない。そこで、アドレスを与えてやる。爪半月を覆う上皮の裏。一説によれば、爪は端<つま>を語源とするらしい。ビナは格好のアドレスをあてがってくれた。私の端。私と世界を隔てるぎりぎりの境界線。外に面した内の牢獄。誰にも見えないその裏側。
6-4.こうして、かれ…またはかのじょは、我が極小の地獄に落とされることとなる。この地獄には、針の山も血の池もない。黒縄もないし、熱風も火炎も、刀の雨もなく、獄卒もいない。ただ何もない白い空間に立たされ、私の、ある心の声だけが雨音のようにしたたる、その音楽を聴き続ける。
6-5.こんないかさま呪術のたわむれをまさか明かせようはずもないが、ふと口にしてみたくなった。健全な語句で飾り立て、いかようにも解釈できるよう婉曲的に伝えてみると、「秘密の庭か。僕にもあるよ」と男は言った。「聖域っていうの? アジールの方が近いか。僕にとってはレジリエンスの一環だね」
6-6.「自分だけの?」「うん。そこは再開発を逃れた区画にある駐車場を兼ねた空き地でね、パーキングなんていうんじゃないな。いつも同じ車が停めてある…。そこで、ボーッとするんだ。本を持ってって、でも読まないみたいな。よそにもあるよ。要は人間から、人間由来の因果から遠ざかれればいいから」
6-7.私のそれは聖域どころではないが、秘密の庭という表現はなかなか気に入った。「秘密なのに教えちゃっていいの?」「そこなんだよ」彼は笑って、「たとえば自宅にさ、隠し扉欲しいじゃない。絶対」「絶対欲しいよ」「でも友達呼んだら、実はね…って、教えちゃうじゃない。絶対」「絶対教える」
6-8.私も笑った。「秘密は苦手だな。だから僕には打ち明け話とか、しない方がいい」「今日かなり話しちゃったけど」「面白いお店だったね。お団子本当に美味しくなかったなあ」「もらっておいて!」「店主さんとはもう長いお付き合い?」「全然。まだ二ヵ月くらいかな」
6-9.私はビナとの馴れ初めを、爪のくだりだけは省いて語った。「人の悪口で盛り上がったんだ」「悪口というか…」「ごめんごめん。その人を貶したいんじゃなくて、批点を一度あらわにしきって、それを誰かと共有することで溜飲を下げたいんだよね」身も蓋もない。こちらの方があらわにされてしまった。
6-10.「クレーマーね…。たしかに悪い人じゃないんだろうな」「本人は多分、誰より常識人のつもりなんだよ」「道徳的正当化ってやつかな。彼なりの道徳感とか常識に依拠する正義心からやってる。そのためなら何か非道徳な真似を働いてもよくなる」「それだと、この場合とは順序が逆じゃない?」
6-11.「認知的不協和の方が近いか」「ぽんぽん出てくる。心理学でもやってたの?」「きみは何を?」「人口地理学を少々…」「それってどんな?」「人口移動についての統計調査とか…その時々の法令がある地域にどう影響及ぼしたとか…」「面白そう。今度ゆっくり聞かせてほしいな」「面白くないよ」
6-12.「心理学は聞きかじり。僕はマーケティングの分野で触れただけ。人口移動かあ、そっちの方がずっと面白そうだけどなあ」「面白くないって」「あっ。それで高齢者相手のボランティアをしてるのか」「え? いや、なんで?」「いや、いいんだ」「認知的不協和って?」
6-13.「認知的不協和理論。感情と状況の不一致を解消させるために整合性を確保しようとする心の働きだよ。矛盾したような行動にもっともらしい理由をこじつけて正当化するとか」整合性。こじつけ。正当化。「だいたい傍から聞けば、言い訳くさくなるようなね。人は辻褄を合わせたがるものでしょう」
6-14.言い訳。辻褄合わせ。「広告業界なんかじゃ徹底してるよね。どちらかといえば認知バイアスだけど。自分を納得させようとする心理的メカニズムを手綱にして…」自分を納得させようとする。「…クレームは相手を責めてしまう道徳的な葛藤を引き起こすから。あ、道徳不活性化なんてのもあったな」
6-15.そんなものだろうか。名づけられてしまってるものだろうか。ビナなら、ちょっと違うと遮って、持論を展開してくれそうなところだ。私には、違和感はあるのにうまく返せない。「興味ねーって顔してる」「ううん。でも、ごめんなさい。ちょっと疲れちゃって」「エッ。具合悪い?」「いや、…」
6-16.うそではなかった。ひと時に会話を多くしすぎたせいか、頭痛の兆しがある。パンクしそうになる手前の警報だった。とはいえ、具合の悪さを訴えたいほどでもない。「いいえ、そんな。心配してもらうほどじゃ」「聞き方が悪かった。長く付き合わせすぎちゃったね。バス停までは一人で行ける?」
6-17.疲れも、頭痛も、話への興味も、あるといえばあるし、ないといえばない。何を言ってもうそになりそうだった。知らない町。知らない道。知らない人が行き交っている。ここはどこなのだろう。「もうちょっと話したい」私がそう絞り出すと、男は端末を操作して、近場のカフェへ案内してくれた。
6-18.病気でもないのに調子を崩す、わずかに頭痛がするとかかすかに吐き気がするとかいった不調が頻繁にあるのだと、よく冷えたアイスティーを飲み調子を取り戻した私は、ありのままを述べてみた。「いっそ具合悪いって言いきれるほど悪ければいいのにーって、思っちゃう。そんなわけないのにね」
6-19.「不定愁訴?」「近いかも」近いだろうか。やはり、名前を与えられると遠ざかってしまうような気がする。本音からすれば、不定愁訴にすら至らないほど半端な苦しみなのだと訴えたい。しかも、至る至らないでいえば、たまには至る。至ってほしいときには至らない。その煮えきらない半端さ。
6-20.「べつに、具合悪いって言っていいんじゃないの?」「うーん…なんか…なんか、言えないんだよ。その程度で甘えるなよって、顰蹙買う気がして。誰も何も言わないけど、でも、なんかね?」言葉にはしえなかったが、なかば私は、言葉にしにくいからこそ伝わるという型の曖昧な共感を期待していた。
6-21.言葉尻にせいいっぱいの心根を閉じこめてそそのかしたつもりだった。ぱかっと開放すれば感動を呼ぶ仕掛けの…。しかし男は、こちらの意が読み取れない…いや、何言ってるんだこいつ、くらいの本音がすけてみえるような呼吸を一つ二つ置き、そうなんだの一言だけで場を繕った。
6-22.「とりあえず無理はしない方がいいよ」「うん。今度からはもうちょっと口にしてみる」「AかBか、選ばなくちゃいけない場面は多いから」どこまでわかっているのか、核心をついたようなことを言う。「例の動物愛護の人も美容師さんも、似たようなものなんじゃない?」なるほど、このひとは…。
6-23.このひとは共感を経ずして、きわめてロジカルに、私の認識に辿り着いたのだ。視覚に頼らずとも数値のみの離散データから映像を再現できるみたいに。「だからって、私はどうしたらいいんだろうって、余計悩んじゃうな」「どうしたい、だったらある?」「ない」「それもそっか」
6-24.「本当、どうでもいいような小さいトラブルなのに、もっとずっと厄介な問題いっぱいあるはずなのに、単に面倒ごと押し付けられたって気がしてきた」「組織によって方策が違うってのも面白いもんだね」男はちょっと考えこむ素振りを見せてからゆっくり呟いた。「そこって、"ビオトープ"?」
6-25.ぎょっとした。まさか、知られているつもりで話してはいなかった。私は即座に今日一日の自らの語り口を点検した。知っている人が聞いたとき、事実との齟齬は生じていないだろうか? 無礼は? 失言は? 白々しい誇張や小さい嘘はなかったろうか? 背筋が凍りついてから、上半身が燃えたつ。
6-26.私の地獄が荒れていく!
6-27.「やっぱり。仕事柄、あのあたりの地域事情には詳しいんだ。僕は直接知ってるわけじゃないけど…。挑戦的な団体名だなあって印象深くて」「知ってるのは名前だけ?」「今度、お祭りみたいなイベント主催するんでしょう?」初耳だった。私は自分に割り振られた務め以外の情報には疎かった。
6-28.「まだまだ企画段階なのかな。広告物のためにイラストレーターだかデザイナーだか募集してたはずだけど」作曲家だけあってイベントごとには通じているのだろう。ちょっとしたフェスのような画を思い浮かべてみたものの、実際にはショーやパーティーの類かもしれない。「みんな楽しそう」「え?」
6-29.「ありがとう。これから行ってみる」「あ、うん。行ってらっしゃい?」レールから外れおおせてようやく、男の素顔を見た気になれた。七五三の面影を今でも残して、こめかみの奥に影を一筋差しただけの、複雑な厚みのない面立ち。私が思っていたよりずっと若そうだ。私の素顔は見られたろうか。
6-30.私の母は、子育てに入れ込むほど子供に対して将来恩着せがましくなりかねないという懸念から、何ごとにも干渉せず、自己実現や遊び、稽古事、勉強などひっくるめて、家庭外の世界を重んじる教育をとっていた。父の方は敢えてそうしたわけでもなかったようだが、やはり適度に放任してくれていた。
6-31.おかげで過度な期待による窮屈な思春期を強いられることもなく、私はのびのび育った。だから、今の私のふつつかは全て、私自身に責任が求められる。親からの愛が強すぎた、愛されなかった、歪んでいた、そもそも親がいなかったなど、そうした家庭環境にあった方々とはくすぶりを分かち合えない。
6-32.そのくせ家庭環境に満足して育ったのだろう人びとも、化物じみて見える。白い世界にも黒い世界にも私の居場所はない。私はこの祝福からかけ離れた半生を通じて、逃げ足で前進するすべは心得ていた。/『割拠』6
7-1.休憩がいる。いっちょまえに会話をこなしすぎた。人間由来の因果と男は表現していた。あちらへ向かう前に、一休みして気分を落ち着けなければ、ろくに仕事にならない。なにしろここから先は人間由来の因果が盛りだくさんだ。喫茶店に入り、ゆっくり時間をかけて、コーヒーを二杯飲んだ。
7-2.コーヒーを飲むより他は何もしなかったし、何も考えなかった。花瓶についた小さな染みやその上を踊る何種類かの花びらの揺らぎをぼんやり眺めていた。一杯目はブレンドを、二杯目はティピカという耳慣れない銘柄を飲んだ。どこのどんな豆なのか店員に尋ねかけて、やめた。自分で調べればいい。
7-3.会計する間際、どうして会計しなければならないのだろうという疑問が頭をよぎった。このままただ店を出てもいいのではないか。追ってきた人を引き連れて、そうでない人も引き連れて、人々は寄せ集まり、ひとつの塊となって、地平の彼方まで転がって行ったら、二度とここへは戻ってこない。
7-4.「ブルーマウンテンもティピカ種なんですよ」店員の声が離脱しかけの私を我に返した。そうなんですか、と応えながら、私には何もわかっていない。口内でたじろぐ舌がコーヒーの残味を感じ取った。何をわかってなかろうと味わいはできるのだから不思議だ。一人で店を出て、一人で道を歩いて行った。
7-5.白が白でないマンションはその曖昧さで、たまには私の調子を鎮めてくれる。部屋に入るなりおねさんは台湾茶を淹れてくれた。息子から頂戴したのだという茶壷はぷっくりしたフォルムがかわいらしく、見ていて飽きない。私は茶杯に手を付けず、ほとんど黙っていたが、彼女の方も黙ってくれていた。
7-6.初夏の風がそよいでいる。網戸も閉めず開け放たれきった窓からは、生ぬるい、だらしない風が部屋への出入りをためらって、たまにカーテンの厚地を撫でては、すっと引いていく。外からは三階あたりにまで背を伸ばした山桃の葉と葉の擦れ合う音に重なって、男の子たちの遊んでいる声が聞こえてくる。
7-7.反響音が複雑で、遠い彼方からかすぐ近くからか判別できない。はたまた遠くには遠くの男の子たちが、近くには近くの男の子たちがいるのかもしれない。この建物が何百人もの男の子たちに囲まれている画を描いてみるとしっくりきた。遊んでいる子もいれば、ただ黙ってじっとしている子もいる。
7-8.さらに彼らを囲む何千人もの男の子たちが集まって、さらに彼らを囲む何万人もの、さらに…と繰り返すうち、この地域を除く全国から、男の子は消え去ってしまった。全男の子はこの地域に流入し、この地域で大人になる。彼らに個別の人格はなく、男の子、元男の子としてしか見なされない。
7-9.廊下からリズム感の欠如した足音がする。壁越しにテレビのスポーツ実況と芸人の笑い声。たまにピアノの音色。うっすらとキンヒバリが鳴いている。ぱちきり、と家鳴りがした。部屋の隅にあるワイヤーシェルフに写真が立てかけてある。いかにも人の好さそうな恰幅のいい男性。例の息子さんだろうか。
7-10.今日は疲れた。今日に限らない。ずっと疲れている。今夜は何を食べようか。なるべくお手軽な、漢字の少ない食べ物がいい。何も食べなくてもいいかもしれない。ややぬるまった茶を口に含めてみると、今この場にいる自分が呼び起こされた。おねさんが私を見て、風が美味しいねえとほほ笑んだ。
7-11.「おねさんのところじゃね、このくらいの季節から、あいの風っていってね。これで、なんでも海岸に寄ってくるんだよ。巻貝だの流木だの、縄だの竿だの、異国の旗だの、鯨だの、鹿の角だの…」「海の近くで育ったんですか」「いいんや。若いころ一時期いただけよ。悪い男にひっかかってね」
7-12.彼女の茶杯を手に取る動作に合わせて私も茶をすすり、今度はしっかり味わった。苦みに透明感がある。口の中に張った膜が洗い落とされるようで心地いい。「あれはねえ、悪いことしたんだろうね。夜中に、急に、怖かったねえ」ところどころ話が呑み込みにくいものの、私は黙って聞いていた。
7-13.「あれねえ、たぶん、盗みでも働いてたんだね。その時は何もわからんかったけど、邪魔しちゃったんだろうね。足を叩かれて、動けないのよ。踝あたりをガーンて。自分でそうしといて、連れてきた女が動かないから、あの人、リヤカーに載せてね。それで夜通し、そのまま行き始めてねえ…」
7-14.「揺れもひどいし、痛いし、怖いし、あんあん泣いて吐いて、大変どころじゃなかったわよ。あれが地獄だねえ。怖かったねえ」そういう地獄もあるのか。リヤカーの上を領土とする移動式の地獄に乗ってやってきた…。「朝になって、もう知らない土地でしょ。そこで降ろされて、もう行けっていうの」
7-15.「行けないわよ。ここがどこかわからないんだから。足も痛んで…。そしたらまた進みだしてね、眠らずに、全然よ、寝ないでずっと運んでね。何日も…。そうして上京して来たの。誘拐されてきたみたいなものよ。あれからずっとこっち。今でもたまに、ここはどこなんだろって思っちゃう」
7-16.彼女の年齢から逆算するとおおよそ昭和30年代なかば頃の話だろう。当時農村では余剰労働力が増大し始めていた一方、大都市圏においては労働力の需要が拡大していた。人口学的に見れば多産少死から少産少死への転換期で、大都市圏への急激な人口流出に歯止めのかかる前夜にあたる。
7-17.このあたりの基本は何度も扱った。学修しながら私は度々、移動していく人たちの姿を思い描いてみていた。産業の振興、医療技術の進歩、新生家族像の広がり、それにともなう住宅開発、ときの政策と、人口移動は大きな視点から原因が語られるが、人々の実態は人間一人ひとりの寄せ集まりのはずだ。
7-18.だから一人ひとりがそれなりの物語を背負っている。こんな人もいただろう、あんな人もいただろうと、私は時空の隔たりを無視しきって彼らを応援したものだ。その私によってかたどられたゴーストの列におねさんもいたことになる。しかし泣きながらリヤカーに乗せられて来た例は想像の埒外だった。
7-19.「美味しいです、お茶。本当に」「そう! これお気に入りなの。台湾茶にもいろいろあるんだって。息子からは何回聞いても、全然、わからないんだけどね」「わからない…」ふいにこの人を支えたいという一念がふつふつ湧き上がり、背中一帯を覆っていた亡者のような重みがずるりと滑り落ちた。
7-20.その勢いにまかせ私は前のめりに言い切った。「おねさんは何も悪くない」勢い余って茶を絨毯にこぼしてしまい、私が慌ててハンカチを取り出すと、その拍子にまた小さく飛沫が散った。おねさんは布巾を私に手渡して、誰も何も悪くないんだけどねえと呟いた。「あら、絨毯と同じ色。よかったわ」
7-21.そうは見えなかった。花葉色の一隅が暗くにじんでいた。「この先も文鳥は預かるんですか」「あの子はね、このくらいの季節に羽根が生え替わるんだよ。いっきにきれいになるの。ファサー!って、ホホホ、音が鳴るわけじゃないけど、オホホホ。鳴ってもいいわよねえ。換羽期ね。私は大好き」
7-22.布巾で絨毯から水分を吸いだし、間を置かず湿らせたハンカチでかるく叩くと、たしかに染みは残らなそうだった。けれどどんなに痕跡を抹消したところで、この絨毯に茶がこぼされたことを私は覚えている。「悪くない、悪くない」おねさんが歌うように繰り返した。私の耳に染みこませるように。
7-23.こう奮い立ってみると、白は白であれ、黒は黒であれと思い切りたくもなってくる。ビオトープの事務所があるいけ好かないマンションのエントランスを慕わしく感じたのは初めてだ。階段を昇り始めたところで向かいから降りてきた男性とぶつかりそうになった。彼は端末の画面しか見ていなかった。
7-24.とはいえ私にはここの住人ではないという事情の負い目がある。すいません、と意味もなく謝って身を端に寄せたが、何が気に食わなかったのか、すれ違いざまに舌打ちをされた。私はほんの一呼吸だけひるんでからその後姿を目に焼き付け、その身柄のシルエットをおさえ、私の地獄に落としてやった。
7-25.舌打ちはもしかすると、私に対してではなく、端末画面上の何かに向けてであったかもしれない。だとしても他人の前では控えるべきだろう。ただもし私に向けたものであったなら、私も我が身を省みなければならない。手荷物、姿勢、挙動…人を不愉快にさせる要素がどこかしらにあったのだ。
7-26.当人以外には推定し得ない可能性だってありうる。たとえば、彼にとって因縁の深い人物に私の背格好が似ていて…その人物は彼の家族にあだなしていて…ちょうどこの階段にまつわる事件があって…と、こう条件を重ねていけば、彼を憎まずに済むルートもいつかは探り当てられる。
7-27.だが私はそれらの訳合いを踏まえてなお、彼をたたりたいと思った。
7-28.感情の瞬間を大事にしたかった。彼の本性がどうであれ、本心がなんであれ、あの瞬間における私の知ったことではない。あの瞬間、舌打ちをしたかったのはむしろ私の方だ。舌打ちごときに権利など求められようはずもないが、状況を鑑みればまだ私の方がその役向きには妥当だったろう。
7-29.それでも、私はすいませんと一声かけた。結果がこの仕打ちだ。彼はすれ違った相手が強面の巨漢であったとしても舌打ちしたのだろうか? 彼は自前の不快感を露出させる判断をあの瞬間、その理性で下したのだろうか? 何者かである目の前の見知らぬ人物を何者かに同定して?
7-30.私は私なりにあの瞬間、正しいと信じられる振る舞いをした。しかし結局はこうして相手を呪っている。世の人からすれば私は、嫌なやつだ。『誰も、何も悪くないんだけどねえ』それはそうかもしれない。だとしても私は呪う。呪わずにはいられない。醜いものだ。善人からはほど遠い。
7-31.こんなつまらない、些細で、ちっぽけな、誰にとってもどうでもいい小事件ひとつでもう、それなりにふくらみのけていた私の一日は壊れかけている。この程度の不遇は受け入れて、些事にかかずらわず、地道に日々を歩んでいけばいい。わかっている。わかっていたって、嫌なものは嫌なのだ。
7-32.受け入れたくないものは受け入れたくない。つらいものはつらい。たった、たったこれしきのことで? そうだ。誰にも理解されなくて、もうたくさんだ。それでもこれが、これこそが私の日々だ。誰のどんな悲劇にもかなわない。誰のどんな不幸にも太刀打ちできない。
7-33.天国の住人は地獄をどう認識しているのだろう。地獄で苦しみに悶えている人たちの惨状を知っているのか。知っていて、相応の報いだと割り切っている? それとも、彼らもどうか救われますようになどと祈っている? 連中は心優しき善人揃いなのだ、まさか、看過しようはずがあるものか。
7-34.そもそも慈悲深き仏だか慈しみ深き何某だかが、その救われない地獄を設置しているのだ、はなから織り込み済の秩序なのだろう。その正しさは予め確保されている。祈りも呪いもあったもんじゃない。ただ、秩序に背くか、秩序の隙間をくぐりぬける寝業師になら、祈れるし、呪えるのかもしれない。
7-35.私は救われたい。実は、彼らまで救ってみたい。でも今はまだ、私は私の愛し方すら知らない。 /『割拠』7
8-1.大方の予想通り、男の言っていたお祭りみたいなイベントとは小規模のフェスだった。大げさな呼び方しないでくれよと作曲家は肩をすくめてみせたが、聞けばステージがあり、楽曲演奏をはじめとした演し物があり、客席のまわりには飲食物が並ぶ。私の認識ではそれは、小規模なフェスだ。
8-2.当初は区営の体育館だか活動センターだかを貸し切ってというプランもあったらしい。これは交渉時点で頓挫したようだ。会場施設が定まらなければ企画も進まない。仮のつもりで設定した会場で企画を練ってみていたところ、本当にそこで開催する運びになってしまい、いささか当惑しているという。
8-3.「団地の庭だよ。古い団地。空き部屋も多いし、住人は高齢者が多いから、ちょうどいいといえばちょうどいいんだけどさ。でも俺は仮のつもりだったから、まだ大々的には知らせてなかったんだよ。というより、本当に開催するのかって、今でも現実味がない。するのかな?」
8-4.「いいじゃないですか」「問題山積み。年配の方々には刺激が強すぎるし、遊びきる元気もない、…って値踏みしてやらないのも違うかなあってね。思ってね。それにどちらかといえば、ステイクホルダーを巻き込もうみたいな期待の方が強い。ちょっとでも誰かが活動に関心をもってくれればいいな」
8-5.この手の取り組みには複雑化した目論見が何層にもひしめいているはずだが、あえて建前に限った口振りで、彼は説明を切り上げた。「まあそういうわけだから、ね、なにかアイデアがあったら言ってよ。なんでもいいから」「なんでもですか」「そうそう、面白いお祭りでもあったら教えて」
8-6.「私の田舎の神社では、昔、粥占といって、煮た米粒の具合で農作物の豊凶を占ってたんですって」「いいね。そういういかにも伝統的な行事って大事だよ」「粥をかきまわすでしょう。皆に粥を振る舞った後、その棒で女の尻を叩いたっていうんです」「最高だな」「あれ、信じてない?」「本当なの?」
8-7.「枕草子にも載ってるんですよ」「今だったら大ひんしゅくだ」「もうやってませんし。子作りの願掛けだったみたいですね」「当時は真剣だった。というより、切実だったんだろうな」作曲家は話の合間にフンフン鼻歌を歌って、見るからに機嫌がいい。殊更に機嫌よく振る舞っているのかもしれない。
8-8.いつにも増して重苦しげに登場した私に、今日は軽口の一つもたたかず、大振りながら配慮の行き届いたもてなしをしてくれた。「コーヒー飲む?」「今日はちょっと、飲みすぎてしまって」今日一日どれだけ茶のたぐいを飲んだかを軸に、笑い話のように朝から今に至るまでの経緯を端折って聞かせた。
8-9.しかし途中で嗚咽を予感し、言葉に詰まった。あと少しでも喉を震わせると涙があふれる、その表面張力めいたギリギリを維持しながら押し黙っていると、彼の方からお祭り企画の話を切り出してくれたのだった。「参考になるよ。ありがとう」「女の尻を棒で叩く話がですか?」
8-10.たまにこちらの方から軽口をたたいてさえいる。前回までの悪感情は捨て置いて、すっかり心を許している自分に気がついた。私もちょろいものだ。「いじめないでくれよ。本当に、参考にさせてはもらうから。白状すると、なにもかも手探りでさ、大変なんだ」「私にできることがあれば…」
8-11.言ってしまった。「それそれ。開催にあたって、地元の町内会と足並みをそろえる必要があるんだけど、いやまあ本当はないんだけど、そこが難しいところなんだけど…。つまり、僕らの活動をよく思わない人もいる、…というのはわかるでしょ。僕らをなのか活動をなのか、ね、そういうの」
8-12.たどたどしい口ぶりから察するに、文鳥保護の件で騒いでいる女性が当の町内会の一員であるようだった。四人の実子を擁するその婦人はPTAの役員を長く務めており、この地域では蔑ろにできない立場にある。とはいえ向こうの反対は法的根拠に基づいているわけでもなく、押し切ってしまえもする。
8-13.しかし懸念が整理されないまま強行すれば必ず遺恨が残る。この手の遺恨は地域社会にとって大きな障害となる…。「私、知らずに大役負わされてたんですね」「大丈夫、気負わないでいいから。ね、大丈夫だから」何が大丈夫なのだろう。こんな采配を振るわれて、気負わずにはいられない。
8-14.おそらくは、少人数で運営を工面している都合上、その誰もが大役を担わされている。私だけが特命を負っているわけじゃない。それどころか、いっとう与し易い問題ごとをあてがってくれたまでありうる。ある程度の事情は察してやれる。だからといって、どれだけ言い繕えようと、本心は本心だ。
8-15.面倒くさい。これが偽らざる、正直な感想だった。いつも四方八方のまなざしが、私を大人に仕立てようとする。たしかに私には、恥知らずにも、立派な大人でありたいという、あいまいな自己実現欲求がある。あいまいである分には、それは私にとって、この社会に居座り続けるための命綱となる。
8-16.ところがどれだけ小さい歩幅小さい呼吸を心がけ小さく生きていようと、このあいまいさはいとも容易くおびやかされてしまう。すると一転、私の治安を保証してくれていたこの命綱は私を縊りたがってやまない凶器となる。一人でいる分にはあいまいをあいまいのままにしていられるのに。
8-17.「じゃあ、その婦人の説得したらいいんですね」「うん? うん。そうだね。でも大事なのは納得だよ。地域社会には合意形成という課題が古今東西問わずつきまとうんだけどさ。ね、この前こんな本を読んだんだ」机上の一冊を指し示す。『説得したい男たち 納得したい女たち』とあった。
8-18.「要約すると、理屈とか妥当性とかで、説得したがるでしょ。男…というか、ホモソーシャルでは。でもいくら理にかなってても納得できないって、世の中多いよ。この手の男はろくに女を口説けない。口説ける男は、女を説得しようとしない、納得させるのが抜群に上手い」
8-19.男、女と二分する思考法は気に食わないが、こと合意形成という課題にあてはめてみれば、なるほど納得の方に重点を置いてみるべきなのかもしれない。テレビでよく見る反対運動と説明会がいい例だ。いくら偉い人たちがメリットやデータを並べ立てても、地域住民の感情は逆撫でされるばかりだった。
8-20.「今日は天気がいいね」「暑くなってきましたね」「ねえ、この前の傘、持ってきた?」「え?」あの、要らないと断ったのに、なかば押し付けられた傘を? 返すべきだったのか。それは、そうか。あの傘はどうしたろう。どうしたかすら覚えてないなど、とても言えない。
8-21.「いま、理不尽だなーって感じたんじゃない」「え、いや、その」「あんときいらないっつってたもんな」「すいません」「捨てちゃった?」「捨ててない…と思います、たぶん」「冗談冗談。いやでも、たぶんかア」鷹揚そうに笑顔を向けてはいるが、内心呆れているだろうか。
8-22.「いいんだ、全然、実は。傘は、大丈夫。ただ、今の気持ち覚えておいてよ。今の、ゴミゴミした気持ち。覚えておいてみて」彼はそれ以上の言葉を足さなかった。今日の不調な私に配慮して容赦したのかもしれないし、なにか本当に、高等な哲理をさずけたつもりなのかもしれない。
8-23.その夜、私はブログに長々と…過去最長となる記事を書いた。どうせネット上だからと好き放題のやり放題、まるで事実に即さない、うそっぱちの内容を書き綴ってやった。事実を記せばビナに私の正体が知れる。このスペースはもはや、私の日常とは別の位相にあった。
8-24.すでに箸のストックも尽きていたが、デタラメの内容をいつもの体裁で書いやった。その素性は今日階段ですれ違った痴れ者にしてやった。翌日にはコメントがついていた。ビナヤカだった。その書き込みによれば、由緒正しい武家式礼儀作法の家元でも、お箸を炙る遊びはあったのだという。
8-25.『客人をもてなした後、こっそりその使用済みの箸を炙る。客人に正しい作法が身についていたなら箸には夾雑物が残らないはずで、どれだけ行儀が達者であったか採点していたそうです。最悪ですね』なるほど私のいえた義理ではないが、悪趣味もいいところだ。最悪だ。
8-26.だがこの手の戯れは、当人に実状を知られない限り、善悪よりは美意識の範疇ともいえそうだ。当人はおろか完全に外部へと漏らさない一人遊びならなおさらだろう。とまで考えて、やはりビナには、このブログの正体を打ち明けまいと決心した。ノートに記録するまででとどめておくべきだったのだ。
8-27.一度思い立ってみると勢いづいて、ブログはそのまま閉鎖した。さくさく手続きを済ませてから、傍からはあの書き込みをきっかけに閉鎖させてしまったようにしか見えない無遠慮に気づき、彼女に悪いことをしたと省みもしたが、事実そうでもあるから複雑な心境だった。
8-28.例の婦人と一戦交える件について、できればビナたちに相談しておきたかったものの、こうなっては店には行きづらい。結局私はほとんど無為無策の丸腰で挑むこととなった。しておくべきシミュレートのことごとくを放棄して、時間と足の進みに任せ、気づけば目当ての部屋の前に立っていた。
8-29.おねさんの住むマンションの最上階、その廊下から街並みを眺めてみた。六階からの眺望は都市圏にあっては半端な印象が拭えない。高いことには高いのだが、視界にはこの建物をはるかに凌ぐ高層マンションが三本か四本、数えようによっては五本六本、恥ずかしげもなく直立し、街を切り裂いている。
8-30.高層マンションの壁も小型ビルの屋上も建売住宅の寄棟屋根もみんな同じ色をしている。このマンションと似たようなものだ。路地には子どもの集まりが見えた。おねさんの部屋から聞こえた無限の男の子たちの遊び声の正体を私は今目撃しているのかもしれない。彼らの地面には色があった。
8-31.街並みの鼠色に紛れて瞬く緋色。ちらちら震えている様子が遠目にも伺える。火だ。あれは火だ。幼い頃私は火を飼いたかった。いつでも呼び出せるミニチュアの炎を欲していた。爪に火を点すという表現を知ってからは、最小の炎についてたびたび夢想していた。
8-32.ようやくミニチュアの炎と出会えた。私からはほんの粒にしか見えない世界最小の炎を囲んで、子供たちは縦横に弾んでいた。彼らはきっとああして、祭りをしている。いともたやすく世界をことほいでいる。私や私を取り巻く大人たちがどれだけ身を砕いたところで、あの最小の祭りには敵いやしない。
8-33.私は指を瞳の前に構え、あの愛しい炎を爪にのせかけて、とっさに目を閉じた。そうして色のない世界へと向き直り、倒れかかる体の重み任せに強くインターフォンを押した。 /『割拠』8
9-1.「まぁ、まぁ。聞いてますよ。お上がりになって」「いえ、そんな…その、すみません。失礼します」そうか、玄関先で話しては向こうの方に却って迷惑なのか。いい年をして、これしきの行儀にも通じていない不明を恥じた。「お邪魔します」「暑くなってきたわね。アイスティーでいいかしら」
9-2.思いのほか歓待されてしまい、却って戸惑った。婦人は所帯の苦労が顔に刻まれない性質なのか、無理した若作りの印象もなく、どこか照れを帯びたような目の揺れがみずみずしい。「ちょうど今、下の子供達を塾に行かせてね。ここからが私の時間なの。上の子達はいつも遅いから」「お忙しいところ…」
9-3.「一人でゆっくり過ごせる時間は五分くらい。でもね、この五分くらいっていうのが、ね、いちばん贅沢なんですよ」「ちょっとわかります」「ほんと?」私のような暇人にわかろうはずもない神妙の境地なのかもしれなかった。でも、本当だ。何にも勝る贅沢な五分間を、私は知っている気がする。
9-4.「いいえ、若いのに、ダメダメ、もっと時間は盛大に使わないと! 遊んで食べて休んで寝て、あームダな時間過ごしたって後悔するの、そっちの方がよっぽど贅沢なんだから。ちょっとそれ取ってくださる。ううん、そっち。どうもありがとう」「今日は、文鳥の会の件でお伺いしました」「はい、はい」
9-5.婦人は私から手渡されたシュガーポットの蓋を開けると、ひとつ大げさな声をあげてみせて、ヤアネエモウなどと独り言をつぶやきながら、右へ左へ動き回っていた。部屋を調えるともに、これから引き出される感情を整理しているかのようだ。いわばこの人ならではのチューニングであるらしかった。
9-6.婦人は一度動きを止め、「アタシはね、何も、癇癪起こしてなんかいません。あのね、本人が来ればいいっていうのよ。別の人をよこして、それで、ねえ。おかしいっていうのよ。おかしいと思わない?」と一息に言い放ってから、ようやく椅子にかけた。口調に反して椅子の引き方は穏やかだった。
9-7.「おっしゃる通りかとは存じますが…」「やだ、堅苦しいのね! 変にかしこまっちゃって。あなたが悪いんじゃないのに、なんだかゴメンナサイね」「こういうのは当事者じゃない方が…というのもありますし…」こんな私のもたもたした口ぶりからでも、婦人は何やら察するものがあったらしい。
9-8.「アラ」と一瞬考え込んでから、「なんだか、食い違いがあるみたい」そう首を傾げてみせた。「本人が来ればいいっていうのは、その…会のことの方よ」まくしたてるようなテンポから一転して重苦しい声音だった。「ですから、美容師さんが」「いえ、いいえ。そう、そうね、あなた知らされてないの」
9-9.意味深な表現だった。反応の出方を伺ってるわけでもあるまいが、こうしたハイもイイエもそぐわない宙ぶらりんの迂言にはたじろいでしまう。しかし私が困り果てるまでもなく婦人は言葉を継いだ。「あのお部屋の住人は、うちの会に来てるおばあさんじゃないでしょう」「え?」
9-10.瞬時には意味が咀嚼しきれなかった。文法を整理し意味するところが再編成されきる前に、次々と弁は連ねられていった。「だから、マンション内の集まりなんだから、お部屋の人が来るべきだってアタシは言うの。ね、そうでしょう。現にこうやって問題が起きてるんだから。前から言ってたのよ」
9-11.「ちょっと、よくわかりません」「妹さんだかなんだかって話だったかしら…。でもゴメンナサイ、これも噂だわ。よく知らないのに、ダメね。アタシよく言ってるのよ、ママさん方って噂大好きなもんだから、いつもはたしなめてるの。知りもしない人を語っちゃダメよって。アタシもいけないわね」
9-12.おねさんは、おねさんじゃない…? 妹? 呆気にとられる一方で、精神のどこか覚めたところでは、馬鹿げた思いつきが明滅してした。おねさんは自分のことをおねさんと呼ぶ。だから私もそれに倣っていた。しかしあれは、つまり、実のところ、そのまま、お姉さんを指していたのではないか。
9-13.これまで彼女自身の話をしていると思われた発言は、なべて彼女のお姉さんを主語としていたのではなかったか。私一人が勘違いをして、いもしない人物像を、ありもしない世界に結んでいたのではないか。これは果たして、馬鹿げた思いつきに過ぎないのか。それとも私一人が馬鹿者であったのか…。
9-14.「だからね、当事者よ。当事者ね」ぐるぐる考え込んでいる間に来客があった。例の美容師のようだった。漏れ聞こえてくる声から察するに、婦人は私を招き入れた調子と同じように応対していたが、美容師の方はやや喧嘩腰で、どうにも玄関から動かない様子だった。
9-15.婦人も気を悪くしたのか、向こうがこれまでに重ねてきたらしい不徳をいくつかあげつらい、なかば強引にドアを閉めてしまった。「一緒にお話したかったのだけど…」という名残惜しげな呟きにはゾッ、とした。今でさえ心境おっつかないのに、そのデッドロックはどれだけの過負荷をもたらすか。
9-16.「今日はすみませんでした。当事者、当事者ですね。また伺います」一気呵成にまくしたて、私はその場から逃げた。今日この時この部屋に辿り着くため積み上げられた土台をまったく台無しにして、逃亡した。ドアの鍵はかけられていなかった。軽易なはずのその意味すら今は推し量りがたい。
9-17.エレベーターなど待っていられない。走るでもなく歩くでもない、重くも軽くもない、気持ちのわるい速度で階段を駆け下りた。四階と三階の踊り場にさしかかる際に体勢を崩した。転倒こそしなかったが、荷物がぶちまけられた。「大丈夫? ですか?」私のバッグを拾い上げて、美容師が言った。
9-18.「あれえ、この前の」「どうも。大丈夫。大丈夫です」最悪だ。考えるまでもなく、急いで降りれば先に出た美容師と鉢合うことくらい察せられたはずなのに、どうしてこうも抜かるのか。「どうぞ。気をつけてね。上の階から? 他にも担当してるの?」「その……」
9-19.ただでさえ機転の利かない私が、小芝居打ってそれらしく場を繕えようはずもない。その程度の判断はできた。自分も婦人の部屋に居たのだと白状した。「あのオバチャンな、もうちょっと話わかるかと思ったんだけど」なんらの感動もなかった。ただ美容師は私を味方と判断したようだった。
9-20.「話が噛み合わないの。謝り行ったつもりなのにケンカみたいになっちゃった。なんでだろね?」なるほど、もしかするとこの美容師も、おねさんの人物を取り違えているのかもしれない。私とは得ている情報に格差がある、そう思うとたちどころに気分が落ち着いてきた。我ながら俗なことだ。
9-21.だが俗な自分を発見すると安心する、見失いかけていた現在位置をあきらかにできる。私にはそういう向きがあった。美容師は愚痴を並べ立てていた。意外にも汚くない言葉並び。だが筋が通っているのかはわからない。私は彼の演説を聞き流しながら、目線をそこいらに遊泳させていた。
9-22.踊り場からは先ほどの子どもたちの集まりが、上階から眺めるよりはずっと近く見えた。もう火は焚かれていない。男の子の一人が集まりを離れ、近場に佇んでいた母親のもとへ駆け寄った。男の子は何やら地団太を踏んでいる。母親は先を急かされた勢いで、通りすがりの青年と肩をぶつけてしまった。
9-23.「あ」いかにも軽そうな身体がよろめいた。転倒まではしていない。だが青年が去りぎわ何らかの毒を吐いたと、親子の小さい震えから見てとれた。「ひどい」「え?」おそらくあの青年は目の前の女性が倒れ込んだなら、負傷したなら、折悪しく川にでも転げ落ちたなら、小悪を達成させなかったろう。
9-24.彼女のささやかなつんのめりを見やり無事が確認されてから、つまり理性による判断を働かせてから、彼は悪を発したのだ。私はこの前階段ですれ違った男を思い出していた。あの男にもこの男にも言い分があるだろう。彼らにだって弱い人間を虐めようとする邪悪が巣食っているわけでは、きっとない。
9-25.だから、許しがたいのだ。彼だって今日、なにか痛恨の厄に見舞われたのかもしれない。あんなこと、こんなこと、私には情状酌量の余地などいくらでも思いつく。だからこそ許しがたいのだ。「ごめん、ひどいって、あれ、俺?」「いえ、別件で…」至極簡明に、今しがた目撃した光景を話してみた。
9-26.ついでにこの前階段で舌打ちされた小事件も。「へー。怖かった?」怖かった? しっくりこない。怖さはある。憎さもある。理不尽だとも、忌まわしいとも思う。だがどんな表現であれ、私そのものと不可分であったはずの当感情は、適切妥当な言葉で言い当てられた途端に私から切り離されてしまう。
9-27.「ろくなやつじゃないね。そういうやつ」「そのときは、こっちも悪かったから…」「誰か、ちゃんと教えてやんなかったのかなって思うよ」また一方で私には、こんな風に人を責め立てる度胸がない。”そういうやつ”にかかずらうなと言う人がある。自分が損する、傷つく、磨り減らされるばかりだと。
9-28.しかし、じゃあ”そういうやつ”は誰によって救われるのか、ちょっとは勘案してくれたろうか。”そういうやつ”はいつかどこかの私でもある。優しい世界へは仲間入りさせてもらえず、線引きの向こう側で世を呪って、そうしていつかよその誰かが救ってくれると、よくも呑気に信じたものだ。
9-29.「そこまで言わなくても…」「だからちょっと、教えてくる」「何を」「ひとのみち」美容師は颯爽と青年を追いかけていった。まさか暴力は振るわないだろうけれども、口論ですらかなわない。自分を由来に何一ついさかわれてほしくない。私が頼んだわけでもないのに私のせいだ。胸が冷え冷えする。
9-30.しかし杞憂だった。美容師は青年の前をするりと横切ってしまった。ただポケットから何かが落ちた。美容師が過ぎ去るのを待ってから彼はそれを拾い上げ、わざとらしく辺りを見渡してから小走りで美容師に追いつき、落とし物を手渡した。美容師は大仰に肩を叩き、握手までしている。
9-31.美容師の、弾力にあふれた調子っぱずれの声がここまで聞こえた。「ありがとう! ありがとう!」そうして足取りかるく、ニコニコして戻ってきた。ヘラヘラではない。揚々とした意気がある。「教えてきたよ。ひとのみち」「びっくりさせないでください。ケンカするのかなって、怖かった…」
9-32.「善意をね」「あれ、財布を拾わせたんですか」「うん。善意を知れば、ちょっとは変わる気がするんだよね。善意って気持ちいいもんだよって」「でも、わざとだった。ヤラセじゃないですか」「いいじゃん。あの野郎のなかで、通行人、っていう人が、すこしでも親しく見えるようになれたらさ」
9-33.彼の寝わざめいた取り組みを認めたくはない。ごたくは理解できる。目的は実際に達成されたのだろう。あの男…"そういうやつ"であった"あの野郎"はたしかにこれから、少しは変わるかもしれない。あの男が善き方向へと傾くのなら、私が認めようが認めなかろうが、こちらの理屈は空振るばかりだ。
9-34.なるほど、これが納得させられる男か。理屈頼りの説得など試みず道徳を体得させたのだ。せいぜいが正当やら不当やらと常識論を軸に説き伏せようと義憤に振り回されるが関の山の私は見据えるべき目標点を違えていた。相手に非を認めさせ、反省させ、悔やませることが本来の目的ではない。
9-35.ただひたすら呪い散らかすばかりの内面世界に閉じこもっていた私にはまず到達できない。こういう交渉のしかたがあるのだと学べはした。しかし、だからなんだっていうのだ。爪がざわめく。あれだけ鼠色に見えた街も下から眺めてみれば、その繊維はことごとく色づいている。
9-36.私が人と接するにあたっては、こうはならない。美容師には善意を教えてやろうとするという強い意志があった。あの青年を”そういうやつ”と決め込んで動いた。私には、彼を何者とも見定められなかった。何者かでない相手と接するのはおそろしい。自分自身が何者でもありたくないのに。
9-37.「どうしたの? 大丈夫?」「大丈夫、大丈夫です」何が大丈夫だ。私の感情、模様、輪郭線は、私が私を見定めようとすればするほど、ドンドン私の正体から引き剥がされていく。 /『割拠』9
10-1.ビナとは顔を合わせづらく、おねさんに会う勇気ももてない。婦人との一件を団体にどう報告したものか、一人では考えを整理しきれない。なけなしの正気を組み立て直そうにもブログは閉鎖した。誰かに話を聞いてもらいたいが、誰とも向き合いたくはない。話などしたくもないし、聞きたくもない。
10-2.自身との見つめ合いは何より自身を追い詰める。近所に悪場所の一つでも備えておけば駆け込めたろうに、私は自分の部屋だけを自堕落の拠点としていたから、自らを匿わせてやれない。行方不明になれない。そうして酒を呑んだ。くぴくぴ喉を鳴らして体内に溶かし入れ、血流の方にさ迷ってもらった。
10-3.目を覚ましてみたら朝で、数秒後には夜だった。今は昼夜もわからない。スマホが鳴っていた。おそらくは何時間も前から鳴っていた。出てみると声がしたから通話を切った。また鳴った。出る、切る、鳴る、何度か繰り返して、やがて静かになった。どうしてもう鳴らないのか、むしゃくしゃしてきた。
10-4.画面上の日時が目に入った。なんてことはない、飲みつぶれてただ丸一日くたびれていただけだった。カーテンを開ければ覚醒したての理性が襲いかかってくる。私は破滅もできない。いつでも小さな不幸些細な失態瑣末な不始末を大事に大事に磨き上げて、一級の退廃に仕立てているつもりでいる。
10-5.私はあまりに私そのものが色濃く篭るこの部屋から脱したくなり、あてもなくうろうろした。目的が定まらずじっとしてもいられなければ、どうしたってうろうろとする。気がつけば公園に、気がつけば三叉路に、ふら、ふらとたゆたって、覚えのある景色に行きついた。ビナヤカの付近に漂着していた。
10-6.ビナへの負い目は私一人が勝手に頓着しているもので、彼女からすれば知ったことではない。だからこそ何をすべきか定まらず尚も私は辺りをうろうろした。うろうろしながら店舗を眺めてみた。ここの店構えときたらコンセプト不明の雑貨屋のくせをして変にお行儀よく、店頭に物があふれてはいない。
10-7.そのぶん店内にはぎっしり品物が敷き詰められているから、中に入らないと店員の姿はまず見えない。いつ来ても同じ店構えをしている。ところが今日に限っては、ガラス戸の中央に手書きの貼り紙がある。私は意味もなく足音をひそめ、おそるおそる近寄って読んでみた。『ゴンドラ入荷しました』
10-8.そんなバカなことがあってたまるか。しかし何度見直してもそう書いてある。ブランコを漕ぎながら片手で書いたみたいな脳天気なインク線が紙にのたうっている。「バカなんだ」口にしてみたが言い切れなかった。喉の奥深くが震えた。吐く息ばかりがむせ返った。ぼろぼろに泣いた。
10-9.どうにか落ち着こうとしていた只中をビナに発見されて、なし崩しに店内へと招かれた。「ほら小さいの買ってくれたからさ、ホンモノ見せたらびっくりして笑うかなって。でもあたしの方がびっくりしちゃったね」ほとんど真顔で言う。もし本当に、私の部屋にそんなものが置かれたらどうなるだろう。
10-10.いや置くどころかまず搬入すらかなわない、手入れは、掃除は、許可は……と考えはじめそうな理性の出しゃばりに先んじて、まずその巨大な容れものが部屋に常置された日々を思い浮かべてやった。それは鉄壁の拠り所となる。聖域となる。揺りかごとなる。墓場となる。巣となる。繭となる。…
10-11.「買う」「バカじゃないの」入荷したと貼り出してはいるが、仕入れの手配が整っただけでこの場にあるわけでもなく、実際の引き渡しには数週間かかるという。即座に売れるだなんて思わないじゃん、とビナは呆れ気味に言い捨て、わざわざ目を合わせてため息ついて、ちょっと笑った。また泣いた。
10-12.「ま、さすがに無茶だよ。マンション暮らしの女が買うものじゃないからね。ちょっと考え直しなよ」後先の考えなしに買うと宣いのけたものの、こう諭されて少なからずほっとしている自分もいた。「あ、お茶」「お構いなく」「あたしが飲みたいんだ」「私に手配しろっていうの。これでも客だよ」
10-13.「買わないなら客じゃないし」となんだか皮肉なことを言う。手元にはくず餅があった。「今日は団子じゃないんだ」「さっきお客さんがくれたんだ。食べなよ」「え。自分で食べなよ」「なに押し付け合っちゃって」「くれた人に悪いね」甘味に合う飲みものが欲しくなり、茶は自分で淹れた。
10-14.「好きなんだ。移動目的じゃない乗りもの。遊園地が一番いい。でも行かせてもらえなくってね。代わりによく絵に描いてた」「絵なんか描くんだ。じゃあこれも?」売りものと私物の別もない店内にはいくらかの額縁絵が飾られている。値札はついていない。「いや、飾ってあるのは画家のだよ」
10-15.「最近も描いてるの?」「実は、誘われててさ。悩んでる」ビナは数枚の書類を出して説明してくれた。ビオトープに興味を示していた彼はあの場の口先にとどまらずお祭り企画にかなり意欲的で、勤め先の会社を通した協賛というわけにはいかないが、一個人として協力するつもりでいるようだ。
10-16.自前の消息筋を伝いプロフェッショナルに呼びかけるなどしている。その一環として、ビナの付き合いにも頼ってきた。「絵っていうか、正確にはデザインか。そんなん絶対本業のやつに任せた方がいいんだけど、なんだね、予算がないんだろうね」「なんか珍しいね」「何が」「悩むって」
10-17.「そりゃあ、悩むよ。人間、人間だもの。え、悩むでしょ?」「まあね」「いい女は、いつでも人生の岐路に立ってるからね」なるほど、私はいい女ではない。だがそれはそれで、不思議と合点がいった。私はいつでも人生の岐路に立っていない。いつもどこかを漂流し、そしてどこかへ漂着するだけだ。
10-18.「見たいな、絵」「イヤ」社交辞令ではない。他人に地獄の地権を贈呈するような女の絵を、私は心から見てみたいと希った。だがビナにはビナなりのためらう事情があるのだろう。踏み込みの間合いはわきまえなければならない。「ごめんね。でもいつか見せるよ」似合わない顔をさせてしまった。
10-19.「例のおばあさんね、本物じゃなかったよ」「怪談?」切り出し方こそ拙かったが、割あい整然と、あの日のいきさつを述べてしまえた。「まあ、いいんじゃない。別に。その人はその人なんだから」よく聞くような言い回しをあてがわれ、思いがけず恥じ入った。彼女は驚きも、考え込みもしていない。
10-20.こんな、ごくありふれた言葉で解決してしまう程度のことだとあしらわれた気がした。「目の前で話してる相手がいる。それがその人のすべてでしょ」ごもっともだ。当たり前に過ぎて口に出すのもためらわれる当たり前を、ビナはわざわざ差向けてくれた。だが私の扱う正体は実像でなく虚像の方だ。
10-21.私のなかに飼いならされる虚像…。そのための秘地をくれたのは、ビナ、お前じゃないか。これでは私はもう、此岸と彼岸の両岸を上手に行き来しかねて、今にも溺れてしまう。言葉にならない。かといって、取り乱すほどでもない。どうにか不穏な間をあけず、そうだね、と一言だけを絞り出した。
10-21.私のなかに飼いならされる虚像…。そのための秘地をくれたのは、ビナ、お前じゃないか。これでは私はもう、此岸と彼岸の両岸を上手に行き来しかねて、今にも溺れてしまう。言葉にならない。かといって、取り乱すほどでもない。どうにか不穏な間をあけず、そうだね、とたった一言絞り出した。
10-22.ちょうどよく男がやってきた。「来すぎ」「なんだ、食べてくれてるじゃないですか。吉野の本葛ですからね。あの団子とは比べものにならないでしょう」「ならないね」私の知らないところで、二人はうまくやっているらしい。男は背を向けたままの私の頭越しにビナとずいぶん気安い会話をしている。
10-23.「調べましたよ。歓喜天。人々の欲望だの願いをガンガン満たしていくんですね。仏教なんて節欲とか禁欲とかばっかりだと思ってました」「そういうもんかね」「このお店だって、取り扱う商品で欲を充足させて客に安寧を授ける…みたいな意気込みがあるのかな」「違う違う、んな企みないよ」
10-24.「でも店の名前でしょ、ちょっとは意味込められてるもんじゃないの」「あるけど。言わないんだよ、こういうのは。恥ずかしいじゃないか」ハンドルネームにまでしているのに?「おや、失礼」男はようやく私に気付いて会釈した。「ちょうど、この前してた話の続きを聞かせてもらってたんだ」
10-25.私の代わりにビナが説明した。「なんかね、例のおばあさん、本当はその部屋にいないはずの人なんだって」「へえ。怖い話は好きですよ」おざなりな言葉尻を引き取って、今一度顛末を話し聞かせた。「たまげた。事情がまるで変わってくる」こう大げさに扱われると、それはそれで穏やかでない。
10-26.「やっぱり早く報告しないといけないかな」それでも、要勘案の判を押され俎上に載せてもらえた方がずっと安心する。「そりゃそうでしょう。ああ、尻込みしてるのか」している。「フーン。じゃあ一緒に行こう」「いいの?」「局長さんとも会っておきたいから。まだ対面はできてなかったんだ」
10-27.アレヨアレヨと事態が展開する。状況に運ばれてゆく。「今日は車なんだ。行こう」達者な口車だなと思った。運転しながら彼は展望を語った。こうした取組みに関与することでCSRの意義を自分なりに問い直してみたいの、コンフリクトマネジメント能力を試すのだのと、面接みたいなことを言う。
10-28.自分の行くすえを見通して、ごりっぱなことだ。「すごく前向き」私は何の飾り気もないすっぴんの、ごく素直な感想をつぶやいた。「よく言われる。でもさ、褒められてるようで、なんかバカにされてるみたいだとも思うよ。そんなつもりはないんだろうけど。べつに、人並に落ち込んだりもするしね」
10-29.私の顔つきには酒と涙の気配がまだ漂っているのだろう。あなたがその気なら相談に乗りますよという含みを妙にちらつかせた言い回しだった。「落ち込むのも上手そう」「学生時代は、嫌なことがあると貯金箱にお金を入れてたよ。専用の貯金箱に。買い物でストレス解消するよりかずっと建設的だろ」
10-30.「そんな冷静な落ち込みかた、いけすかないな」「仕方ない。だって冷静なんだから」暗い部屋で冷静に落ち込みながら貯金箱に小銭を落とすこの男の若い後ろ姿を想像してみると、すこし笑えた。「このお金で買ったものは必ず特別になる。積年の怨念が込められてるお金だからさ」「暗いのに前向き」
10-31.「マーケティングでも言うじゃない、商品にストーリーをもたせろって。実際、付加価値としてはてき面に効果あったな」「へえ、何につかったの?」「教えない」「は?」「またいつかね」「嘘でしょ? 自分から話し始めておいて? マジ?」「マジとか言うんだ」「あなたちゃんと友達いる?」
10-32.「きみ」友達。友達か。なるほどそうかもしれない。私はこの縁に当て込んでいる。何を? 行くすえを? だが私は、この心やすいような間柄すらいずれ失ってしまうだろう。手放すわけではない。ただゆっくり遠ざかってゆくのだ。状況の海を漂流しているだけで、どんな島からも遠ざかってゆく。
10-33.「じゃあ教えてよ。ほら、前に、秘密は苦手って」「どんな過去もちゃんと今の僕の血肉になってる。つまり、今の僕自身が答えそのものなんだよな」「なにわけのわからないこと言ってるの? ねえ、ねえ、何に使ったの」「さ、気を引き締めていこう」「待って、待ってってば。私こんなだから」
10-34.化粧の不始末はおろか部屋着同然の見すぼらしい格好で、いくらなんでも上役に会いにはいけない。どうせ遠くもないからと私のマンションに車を寄せてもらった。部屋に戻っても物憂い気分には見舞われなかった。薄暗さを保とうと考えなしに日の光を遮っている安もののカーテンの無神経が愛らしい。
10-35.生地をめくってみた。これまでたくさんの光を一身に受けとめてきた裏地は、このとき初めて持ち主に仕事ぶりを見られて、申し訳ないように埃をちらつかせた。すこしだけ掃除をした。 /『割拠』10
11-1.男はさぞや友好的に、高材疾足、頼もしい風雲児の風情で力添えしているものかと決め込んでいたが、二人で事務所に着いてみると事務局長は露骨に嫌な顔をした。ぽっと出の彼はまだまだ部外者でしかない。その立場に遮二無二立ち回られてはかえってやりにくいとは、当たり前といえば当たり前だ。
11-2.「ステイクホルダーを巻き込んでいくと以前おっしゃられていましたし…」「そりゃあそう。でもほら物事には順序があるから」「今回のイベントの主役は高齢者の方々ですよね」「主役といえば全員がそう。演者も裏方も観客も、垣根のないのが理想だから」局長はいちいち私の方を向いて答える。
11-3.「理想より目標立てましょう。メールにも記した通り、この企画弱いですよ。求心力がないし、目的変数の設定が不明確で、解決案は問題の後追いです。ハッキリいって、場当たり的ですよね」「そらそうですが…年配の方々は扱いが難しい。病気だってあるし、昨日今日の記憶すら覚束なかったりする」
11-4.「若い人相手に通じる理屈が通じない」「そう、そう。それに場当たりっつったって、計画時点じゃ作り込まないって、ステージの基本でもある。テレビみたいなパッケージングされた舞台じゃない。もっとナマの、不合理な、余白だらけの方が、当事者感覚をもってもらえる…と我々は期待しています」
11-5.「なるほど」男は一度呑み込んで、緊張をゆるめた。「提供するんじゃなく、経験してもらうんですね」「そうそう!」局長はようやく彼と目を合わせた。これを打ち解ける契機として、二人は何気ない世間話を経由してから、また本題に戻った。「そしてね、これからの触れ合いにつなげてもらいたい」
11-6.「高齢者の方々には、その、行政のお世話になられている方もいらっしゃるわけでしょう」生活保護という語句を濁して男は間合いを詰める。「でも我々は、そこに至る前に手を打ちたいんですよ」「あれも大変みたいですね」「不正受給もある、当人だけの責任問題でない、公だけに任せられない」
11-7.「矛盾してませんか」「そういう対立を現実にすり合わせてくのが大人ってもんです。ピボットコードでいうと…」「それ聞き慣れないですね。音楽理論ですか?」物怖じしない。押し引きのバランスがいい。ところどころに世間話で収穫した言質を嫌味なく織り交ぜて、甲論乙駁を噛み合わせている。
11-8.まるで折り目正しい社交ダンスだ。手足が跳ねても上手に拾う。「じゃあそれを実際の計画に落とし込まないと。もったいないですよ」「無理無理」私は私の思いをそう即座に口にできやしない。よくもまあ誰も彼もかるがる口を開けるものだと感心する。正しく伝わらない誤解も恐れずに。
11-9.何を言ってみても必ず時限装置仕立ての後悔が私にはつきまとう。その場面ごとに適した妥当な言葉並びを即時手配していく能力も足りないし、またいちいち要らない気兼ねもしてしまう。それはまっとうな社会生活を捨てた世捨て人気分の今でも変わらない。我が身可愛さの臆病はむしろ悪化している。
11-10.私は呆と突っ立っていた。居場所がない。そうかと見ると私を引き合いに出してくる。「彼女、頼りになるでしょう」難なくおねさんの件は片付いてしまった。よくあると言えるほどありふれていないが、ありうる話として処理された。男が事前に不正受給の話題をさせていたのは布石だったのだろう。
11-11.「別に犯罪ってほどでもないですし。お姉さんが住まわれているはずの部屋に、妹さんが居座っているだけですからね。身分を詐称してなにか利益を得ようとしたわけでもないわけでしょう」「なんであれ名簿にある名前はお姉さんの方だから、そこは把握しておきたいな。今はどこにいるんだろう」
11-12.「任せてください。HRMは請け負いますよ。町内会の方もね」まいったな、と局長はわざとらしく頭をかいた。私に向ける自信たっぷりな態度はどこへやら、口調も表情も一定せず、構えかたを決めかねている。やんわりとはいえやり込められてる姿は新鮮だった。事務所を出ると男は大きく伸びをした。
11-13.「うまくいったね」「どっちが?」「どっち? あぁうん、どちらもだね」「私もう、いらないんじゃないかしら」「きみのおかげだろ?」どこが、と言いかけて、問えば私の価値を保護するような答えを引き出してしまうに違いないその仕掛けがたまらなく下劣に感じられ、口を閉ざした。
11-14.「ま、課題は多いよ。法令上の対応も甘いし。そっち方面に明るい行政書士でも紹介したかったけど、あの分だと撥ねられちゃうだろうな」何が楽しいのやら、うきうきしている。乗っ取りでも企てているかのように。いつも自分のなすべきことが見えない私とは星が違う。当然、異星人は私の方だ。
11-15.「でもな、隙が多い割にはハンパなんだよな。もどかしい。どうせだったら思いきり弾けてみたらいいのに。高齢者ったってさ、今どきの70代はウッドストックの熱狂を知ってるような世代だよ。新人類だって初期高齢者だ。なにか、いらない遠慮を感じる」「どうしたらいいの」「不合理さが足りない」
11-16.不合理。理に基づかない無分別。利にそぐわないでたらめさ。感情の逃げ道。正しさのラインから外れた賭けの対象、常識の補集合、まばゆい無菌世界から駆逐されるばかりの形なさない雑菌のむらがり…。それなら知っている。それになら愛着がある。「あのね」とこわごわ切り出してみた。
11-17.「ゴンドラ買っちゃった」「うん、この前買ってたね」「違うの。ほら、観覧車のゴンドラ。本物の!」ビナから貰った参考写真を見せると、男はのけぞって笑った。「それだよ」男は是非イベントに持ち込もうと唆す。「絶対やろう。わけわかんねえもん」「わけわかんねえもんとか言うんだ」
11-18.しかし先ほどの話し合いでは人材手配の調整をする任に与っていなかったか。そう指摘すると、「たしかに、まず本分の方を全うしなきゃな。実はここの町内会にはパイプができてる。業者代わりの頼れる人員も、今リスト化してるから後で交渉の担当を割り振ろう。あと、おばあさんの方は…」
11-19.すらすらと向くべき向きを示す。「ありがとう。なんだか整理がついた気がする」これなら私でも、おねさんにまた会いに行ける。そう思えた。ところが彼は、「一緒に行こうか?」と甘言を付け足す。「どうして?」「いや、失礼。失言だったか」「何が失礼なの?」思いがけず声音がとがった。
11-20.見当はつく。彼は歩行器になってくれているつもりなのだ。か弱く愚かな頼りない子供じみた私に寄り添って。まったく、間違っていない。事実頼ってきた。まったく、正解の道筋を踏んでいる。だから失言ではないのだろう。しかし彼が私をどう見ているのか、ただそれだけは問い詰めておきたかった。
11-21.「そういうつもりじゃなかった」「そういうつもりって?」私自身まだ捉えきれていない私の心情を先回りして差し押さえ、その具合を勝手に斟酌して言葉を濁しているのならば、私の苦悩は中絶されたも同然だ。彼は音がずっしり残る短い息を吐いてみせた。なにか、決定的なことを言うつもりなのだ。
11-22.「だって、もどかしいんだよ」足を止め向き直った。「いちいち、大した問題でもないのにまごついて。順序立てて動き出せばすぐにでも解消するのに…。じれったいんだ。別に、君相手に限らない。あのお祭り運営も、会社でも。僕には道が見えてるからそれをこなすだけ。一つ一つやれば済むんだ」
11-23.努めて冷静に猛っていた。話し相手との間に齟齬が生じたなら、足を止め向き直り問題点の核心を一気呵成にぶちまける。それがこの人に見えている道なのか。「カンタンな話だろ。でも君は、一人でおばあさんのとこ行って、ちゃんと役目を果たせるの? というか、今の時点での役目を把握してる?」
11-24.ここで私が何を言い返そうと、そのじたばたした抗いはどこまでも小奇麗に回収されて、最後には一つの合意を結ばれてしまうのだろう。すると互いになにか乗り越えたような気になる。ちょっとだけ理解し合えたような気になる。そうやって頼もしさを育んで、この人は道義を実現してきたのだ。
11-25.りっぱだとは認める。憧れさえしてしまえる。正しいのだろう。誠実なのだろう。瑕疵がない、問題がない、相克がない、完全に調和のとれた世界での当たりまえ。正当性に包囲されきったそこではあらゆる言い逃れの余地がなく、どんな異分子が介入しようとも正しさの構成要素に組み込まれてしまう。
11-26.天国の住人は、地獄の住人を好くでもなく嫌うでもなく、ただ彼らにとっての当たりまえをちらつかせ、たまに、気まぐれに呼びかける。鬼さんこちら、手の鳴る方へ。のこのこ吸い寄せられてみれば、緻密な理法の規範に圧倒され、私らしさを忍ばせる隙間を見失い、次第にすっかり従わされる。
11-27.それが折りよい瞬間もある。それだけは堪忍ならない瞬間もある。どの瞬間の私も私であるはずなのに、応答を口にしてみたその瞬間だけを切り取られて、現実世界の私は品評されるのだ。私のなかの私はこんなにもうるさく乱雑であるが、彼のなかにいるのはノイズが削ぎ落とされたコンパクトな私だ。
11-28.つじつま合わせに追われて泣くことも許されないその私を、かなうならばさらい返してしまいたい。こう考えにふけっている間も彼の弁は続いていた。「なんだかな。僕はどこまでも滑稽だな」「ごめんなさい」胸中には無限の言葉が吹き荒れているのに、口から出るのはつまらない定型句だけだった。
11-29.「謝らないでくれよ」声音は穏やかだが眉はひそめられている。「僕も悪かったよ」それから彼の釈明が始まった。選び抜かれた言葉並びは通りがよく、理路整然として、あっという間に自身の正しくなさを駆逐していく。その難しいような理屈をあまり働かない頭でぼんやりと、なんとなく聞いていた。
11-30.「そうだな、店主さんを引き合いにしてみよう」その一言は聞き漏らせなかった。「こういうこと、普段なら言わないよ。ただ今だけは話の流れで口にするわけだけど。あの人、右手の指がうまく動かないんじゃないかな?」「え?」何の話をしている?「そういう話、聞いてきてない?」「聞いてない」
11-31.聞いてはいないが、そう言われると思い当たる節はあった。いや、たくさんある。「まるきりじゃない。親指人差し指は利く。串は使ってたしね。でもほら、箸は使わないでしょう。団子ばかりつまんでて。障害者支援のNPOに関わったことがあるというのも、あれ、支援される側だったのかもしれない」
11-32.出会いのあのときスマホを強く握っていたのは、震える指で必死に支えていたからなのか。字も上手くない。絵描きの道は絶っている。そして、もし彼女の右手が、右手の端っこが機能していないとなると、それは私にとって…。「歓喜天にしてみてもさ。信仰によるが、あれは障害除去の神様だよ」
11-33.「じゃあ、願掛け?」「多分そのつもりなんだろう。彼女には旦那さんがいる。本当の店主は彼の方なのかも。住まいを兼ねた店の奥で、あるいはあの建物の二階で、歓喜天像の世話をしている。願掛けのためにはひっきりなしに油をかけなくちゃならないみたいだ。更にお決まりの団子を供えるとか」
11-34.いったい何の話を私たちはしているのだろう。「そんな生活だから店番は妻に任せてる。それじゃ商売が成り立たないから、ネットで通信販売を請け負ってる。知ってる? あのお店ブログあるんだよ。今どきSNSも使わず、ろくに広報できてないブログやってるくらいだから、旦那さんは年配なのかな」
11-35.もう、ぐちゃぐちゃだ。「以上すべて、本人に確認をとったわけじゃない、僕の勝手な憶測。得られる情報だけで、整合性がとれるよう点と点を線にこじつけてね。あまり褒められたもんじゃないが、つまり、いま僕が言いたいのはね、こんな風に、………」そうだ、これこそ私がやってきたことだ。
11-36.人口地理学の地図上で。箸を焼いた香りのただ中で。地獄を秘した爪の裏の領域で。人と触れ合う遍く時間において私は人の営みを想像してきた。それは知りもしない人々の像を私のなかに住まわせることだ。『目の前で話してる相手がいる。それがその人のすべてでしょ』ああ、まったく、その通りだ。
11-37.そして、ずっとくすぶっていた違和感が明らかになった。ビナは、ビナヤカじゃない! /『割拠』11
12-1.当日タイムスケジュールの組み立て、会場まわりの導線確保および案内板の手配、食品衛生管理の見直し、警備代わりの見回り計画、予算配分と検算、連絡網や備品リストの更新、消防上の安全確認、役所手続き……こなさなければならない仕事は無数にあったはずだが、私には何も割り振られなかった。
12-2.するとかえって要所要所の不全が目につき、身軽を取柄にその穴埋めにかかるとたちまち用務に追われ出して忙しくなった。この忙しさは私向きだった。何から手を付けてもよいのだから迷いようがない。もとより何につけ瑕疵が目につきやすい性質だ。傍からの補いにとどまる役は実に適していた。
12-3.適材適所を仕切りのけた事務局長は本分である作曲活動に勤しんでいた。文化は強いよとのん気に言う。なんだって自前で調達できる限りは予算に組み込まれない。彼は協力者にも持ち前の能力や強みを最大限発揮してもらうよう働きかけていた。支援される側の高齢者ですら客扱いせずにいる。
12-4.老人には人生経験に根差した強みが必ずあり、弱みを補う適切なサポートさえ添えられれば大いに力になるとの方針だ。また、会場となる団地には中東やアジア出身の居住者が多い。本邦の慣習に不慣れな彼らは世知に長けた高齢者と好相性だろうという見込みで、催しへの参加を殊更強く呼びかけた。
12-5.彼らには出身各国の料理を提供してもらう。保健所への届出は通していない。ただ各々の部屋を訪ねた客に私的な飯を振る舞っているだけという体裁をとる構えだ。金銭のやりとりさえなければそれは友人をもてなす付き合いと変わらないんじゃないかと、なんだかスレスレな、危ういような言を聞いた。
12-6.やるべきことに追われ、ひたすらこなしている間は気が休まった。歯車でいられる限り私は名指されない。機構の仕掛けが狂わぬようただ部分の役目さえ果たしていればいい。だが生きた人というのはおおよそ、物言わぬ歯車ではないらしい。だからどうしても噛み合わせの不具合が生じる。
12-7.「ちょっと、こんなのどうして通り道に置くの。邪魔でしょう。せめて壁に寄せてよね」たかだかこれしきの物言いで痛めつけられてしまう私の方が、世に不適合な逸脱者であるのは確かなのだろう。まったく皆が皆それぞれの善や理に基づいて生きているはずなのに、あまりにしきりに背き合う。
12-8.些事も些事だ。…打撲傷を負ったというスタッフのために救急箱を調達し、当初は彼がうずくまる壁際に置いてやろうとした。だがその身がいつ横たえられたるかもわからないからと、周囲を取り巻く人員に手渡そうとした。しかしどの人もたまたま居合わせた風ですましている。誰も目を合わせない。
12-9.唯一けが人に呼びかけ介抱している人にしてみても両手がふさがり余裕はなさそうで、到底受け取って貰えそうになかった。私は私ですぐ戻ると言い残したきりの現場が気がかりで悠長にしていられず、そして急いできたくせにこう立ち竦んでいる間の時間軸のちぐはぐが、もはや一秒も堪えがたかった。
12-10.人の行き交う通路に置くのは憚られたが、もたついただけ障りが生じるのも自明であるし、ここに置いておきますねと私にしては振り絞った声で宣言してその場を去った。ところがそもそも彼が打撲傷を負ったという情報には伝達経路のどこかに遺漏があり、事実としてはただ昼酒が祟ったものらしい。
12-11.救急箱は無用だったどころか、どうしてそこにあるのか、明確な意図のもと配置されているのか、うかつに手出しできないものとされたまましばらく放ったらかされていたようで、やがて一部始終に立ち合っていた学生が何の気なしに当事者として私の名を挙げた。なんか、あの人が置いてましたよ。……
12-12.後から見ればさぞや奇異に映るのか知れないが私からすれば一つ一つの判断は正常といえた。とはいえこんな些細でつまらない事情を長々弁明するような理由付けはないし、だいたい自身を除いては、そんなことはどうでもいいと一蹴して然るべき遁辞でしかない。どうでもいい、どうでもいいことだ。
12-13.本来なら取り沙汰されるようなことでもない。論った側も、文法上は難詰であったものの、実際はどうでもいいのだろう。こちらの反応を待たず意識はもう別に方へ向いている。数分も経てば忘れるに違いない。私の地獄だけが騒然としている。私の端っこに閉じこめていた絶叫が今にも漏れてしまう。
12-14.結局のところ、物言う歯車たちがひしめくメカニズムのさなかにあって、私は異物である自分を自覚せざるを得なくなる。「書類より先ってお願いしたよね。できないなら別に構いませんから言ってくださいね」そうして物言わぬ歯車であろうとしながら内には他の誰より騒がしい絶叫をしのばせている。
12-15.「絶対あちらさんは車で来るから。常識的に考えたらそうでしょう。ね?」物言う歯車たちはそれでも各々なりの善やら理やらに基づいているだけあって、決して勢い任せの切っ先を向けはしない。ただうっすらと圧する。私にはその柔らかな圧を受け流せるしなやかさはない。精一杯やり過ごすだけだ。
12-16.あんなふりやこんなふりをしてやり過ごして、それから、こっそり地獄に落としていった。地獄、地獄、地獄…。私には信念もない、意気地もない、およそ真っ当な気概の装いでは我が身を護れないが、この魔法がある。この掟破りでどうにか正常異常の勘定をやりくりできる。ようやく人と渡り合える。
12-17.何も敵方を出し抜き世人の頭上を羽ばたこうなどと夢見てはいないのだから、可愛いものだと許してほしい。その時々さえ持ちこたえてしまえば地を這い進むくらいはかなうのだ。それでいい。場が拓く。日々が過ぎてゆく。もう、それでいい。十分だ。やるだけやっている。できすぎなくらいだ。
12-18.そうしてイベント当日を迎えてみれば、期待していたほど盛況でもなく、恐れていたほど閑散でもなく、会場にはまばらに人影が動いたり止まったりしていた。ただし参加人数の実際はひと目では伺えない。会場の本丸は団地の中庭であるが、本棟住民の住まいや空き部屋をも利用している。
12-19.受付で配布しているバッチを身につけた参加者はそれらの部屋に好きに出入りできる。開催時だけ教室を開放する文化祭の要領だ。いくらかは当日限りの手習い塾、ワークショップのようなスペースも設けられていた。俳句、切り絵、オランダ語、漢詩、古地図、占い、投扇興など、統一感はない。
12-20.もちろん教材は不揃いで、来訪者にまともに教えられる者もごく少数だったが、大半は茶飲み話に興じられればそれで良いものらしかった。普段ほとんど縁のない住民同士の交流も実現しているようだ。達成されるべき目的意識の不明確さがかえって新鮮で、ふくよかな雰囲気ができあがりつつある。
12-21.明日もやってるのかな、と見知らぬ若者が言った。感慨深い一言だった。それが思いがけず嬉しく、寂しく、わだかまりかけたいろいろの感情を発散させる調子で、しばらくうろうろとした。私はおねさん…と呼ばれていた女性…に招待状を送っていた。事務的な案内と、わずかなメッセージを添えて。
12-22.しかし彼女は見つからない。代わりにいつぞやの町内会の婦人の姿があった。中庭の中央…ねらいはかったかのように中心の座標を陣取って、数人と輪を囲み話している。意外にもあれから婦人は協力的だった。とくに地域住民の反対意見を取りなすよう働きかけていた。今も何か口添えしているのか。
12-23.そう思い呑気に眺めていると目が合った。あのときはごめんなさいね、今度の文鳥の会にはぜひご姉妹お二人ともいらしてねと愛想をくれてから声を潜めて、外国の方たちが怖がられてるみたいねと耳打ちしてくれた。もとより成り行きが懸念されてはいた。だが誠実を欠かない根回しは難しかった。
12-24.成り行き任せがもたらす現場感が運営の方針であるからこの手の問題が浮上するのは織り込み済みだったが、渉内で片づけようと動くには難題かと思われ、私の方では報告にとどめておいた。すでに他にもいくらかの苦情が集まっている。いずれも言いがかりとはいえない。耳の痛い意見の方が多い。
12-25.のん気に馬鹿騒ぎするくらいなら金をくれという文句はあけすけながらごもっともで、なかには具体的な窮状の訴えもあった。家族を介護するため職場への勤続が維持できずみるみる貧困に…とまとめられれば知った風に扱いたくもなるが、踏み込んでみればそこには看過し得ないなまの人の営みがある。
12-26.傷害、虐待、借金苦、精神障害、自死、犯罪への加担、…いずれも私たちの手には余る。しかるべき機関、サービスへ誘導して終いと割り切らねばならない。私の所属する団体はあくまで、そうした難局にまだ陥ってはいない人々を相手に、手前の段階で地盤固めを図る取組みを本分としているのだから。
12-27.だから…真正の困窮者についてはほとんど知らんぷりするようでも仕方がない。そう自分に言い聞かせて最低限の勤めを全うする。やるべきことをこなす。余計なことはしない。のん気な馬鹿騒ぎだって必要なんだ、のん気は幸せだ、そのくらいの幸せを守ろう、と団体の代表は言い回っていた。
12-28.昼飯にはマクルーバという中東料理をいただいた。バスマティ米が野菜、羊肉とともに炊き上げられた末ひっくり返された格好で提供される。カルダモンやシナモンのスパイスがゆたかに香り食欲をそそった。数年前ヨルダンから移り住んだというその住人の部屋は盛況で、廊下にまで人があふれていた。
12-29.居間には6人ほどの客がダイニングソフレに食器を並べて和気あいあいと飲み食いしている。雰囲気は好もしかったが場に混じるには気後れして、少量を…といってもたっぷり二人前に近い量を紙皿に盛り付けてもらい、外で食べることにした。中庭に戻ってみるとちょうど、例のゴンドラが届いた。
12-30.私が先導するまでもなく、はじめからそう設計されていたかのようにモニュメントの裏手へ配置された。タレットを模した鉄製の円柱と並ぶとなんだか親子じみて見える。いざ実物を目の当たりにすると実に大きい。近づいてみれば錆や汚れや落書きや塗装の剥がれやらの不備が目立った。
12-31.いびつな留め金が飛び出して汚らしくもある。中高校生が写真を撮るのにも構わず、小学生はくぐり抜けたり揺すったりやりたい放題だ。「私のゴンドラ」口にしてみると笑ってしまう。あれはなんと、私のゴンドラなのだ。こんなものを一体どう持ち帰ればいいのやら見当もつかない。途方に暮れる。
12-32.日陰では大小の男たちが気随気儘な風体でそれぞれの言語を叫びながら相撲を取っていた。ステージからは炭坑節のブーガルーアレンジが聴こえる。一仕事終えた配達員が踊りに誘われて肩を振った。もう、どうなろうと知ったことか。これから先はもう、どうにでもなってしまえばいい。 /『割拠』12
13-1.花火を打ち上げたがった代表の提案には許可が下りなかった。子どものような思いつきを口にする人なのだ。それを弟である局長がいつもなだめている。局長自身も世間並には威厳からかけ離れたあどけなさを地に残してはいるが、たびたび大人の対応を求められ続けてきた歴史が垣間見えていたわしい。
13-2.火気の使用については企画段階でも反対の声が多かった。しかし長たる代表がやりたがりの立場なだけあり結局はナアナアで済まされた。結果、子どもたちに芋に焼かせようと数人の老人が焚き木を用意しているが、誰も敢えて止めはしない。新聞紙から炎がちろちろと立ち上がり、ほどなく消えた。
13-3.薄もやがかった煙と胸をくすぐる香りがたちこめた。この匂いは、と自前の悪趣味を働かせようとして、やめた。代わりに、あの男が怨念の貯金で何を買ったものか雑念を巡らせた。積年のと表現するほどの期間募らせてきた怨念の成果。ないに等しい小金か、とびきり大金かのどちらかがいいと思った。
13-4.たとえば、家がいい。怨念は日々とめどなく押し寄せて、莫大な額になっているといい。彼の姉が住んでいるというマンションがいい。彼のあまねく怨念は姉に因果が結ばれていて、元凶である彼女が、この貯金をはたいて買った居どころに住まわせられているといい。そんな彼であったならいい。
13-5.本棟三階北角の部屋ではいつぞやの美容師が無料で腕前を披露している。限られた設備と時間のなかで、散髪というよりは簡便なヘアメイクや美容相談に徹しているようだ。私が覗いてみたときにはシワ取りの指南をしていた。これについては昔取った杵柄で、私も知識と情報ではまだ渡り合えるはずだ。
13-6.ただ彼が得意とするのは抜本的な解決より見せかけの術で、やれ明るい表情に勝る美容はないの、やれ写真ならこの角度がいいのと、理屈に頼らない助言の数々は実用性抜群で流石の手並みだった。職分ならではの軽快な話術もあって受けがよい。本業の方はうまくいってない気がする。そういうものだ。
13-7.その二つ隣の部屋にアトリエが構えられていた。もともと似たような運用がされており、居住者が亡くなってから持て余されていたところを、後始末を引き受ける条件でこの日まで団体が借り受けたものらしい。飾られているキャンバスは一枚のみで、さぞや搬入にも手こずったであろう大物だった。
13-8.100号だとかいうサイズにあたるだろうか。幅だけなら私のゴンドラに匹敵する。それが端にではなく部屋の真ん中に、入口に対しては横向きに屹立していた。作業台らしき卓上は片づけられていたが、シートが敷かれたままの床には絵筆が転がってもいる。描き手が途中で飽きて失踪したかのようだ。
13-9.正面に回り込んでみてすぐ、目の前に到来した世界に引きずり込まれた。どこまでもか弱い彩色はキャンバスに差し込むあらゆる光に負けてしまい、描線は今にも揺れ動きだしそうに震え、粗っぽく塗りたくられたかに見えた暗闇ですら、目を凝らせば執念みなぎる筆先の無限のつらなりであると知れる。
13-10.どの色もどの線も押しのけ合わず、隣の線色よりもよりか弱く、より負けてしまうよう志向することで条理にあらがい、その不調和によって本来統合されるはずの鈴なりの小宇宙がもちこたえ、空間を果てしなく広いものにしている。画面の奥には百花繚乱というにはあまりにゆかしい無限の花びら。
13-11.アオカケスの羽根に似た青のくすみ、空気にさらされ慣れない嬰児めいた薄桃のあわい、琥珀をぶっ壊した鋭角からこぼれる赤黄のきざし、枯れかけの蘭じみた紫のかすれ、それらは提灯の、あるいはランタンの光だ。人影の群れが花びらに見まがう色とりどりの光を提げてしたたるように行進してゆく。
13-12.人影は世界をまるごと弱らせる暗がりからどうにか逃れたいかのようでいて、その魔物と同化すべく夜行しているようでもある。暗闇にはあまりに細かい、微塵の光が散りばめられている。大量の粒子が一つの世界を構成しているというより、光の粒の一つ一つに楽園が閉じこめられているかのような…。
13-13.「よくわからんでしょう」部屋の西側で静かに壁と溶け合っていたスーツ姿が言った。顔に見覚えはない。しかし知っている気がした。「いや私の絵じゃない。画材を手配しただけなんですがね、何もこんなズサンに扱わんでもいいのにねえ」彼の視線の先にある何本かの筆はいずれもボロボロだった。
13-14.とはいえ見すぼらしいのは柄の一部、末端がいびつに窪んでいるにすぎない。歯で何度も齧ったような跡だ。絵筆を口で咥えてこの線描を描きつけたのなら、なるほどこの類まれな弱々しさもうなずける。「まったくわからない。油彩でやる必要があるのかね。コリンスキーが台なしですよ、台なし」
13-15.ぶつくさ続ける彼を一瞥すると、いや個人的な感想ですがねと言い繕った。その、己が正当性は翻さないまま対峙のみ避けようとする立ち回りから、二つの確信を得た。このスーツはあの店に出入りしている客だか業者だかで、いつぞやの電話の主に違いない。そしてこの絵は彼女が描いたものだ。
13-16.そのつもりで見回してみればここはあの店の別館さながらだ。なんの意味があるのか、人形やら銅鑼やら古布の端切れやら木工細工やら、店に飾ってあった雑貨が店より丁重に並べられてもいる。もう一度絵と向かい合ってみた。じっくり見つめていると自分も人影の一つにされてしまいそうで恐ろしい。
13-17.これがビナの、感覚器官の手前にある世界…。「こっちからも鑑賞できますよ」と促されキャンバスの裏面にまわりこんでみると、たしかに染みが絵になっている。だがスーツは皮肉のつもりで当てつけたものらしい。「麻布の処理が甘いから裏に染みちゃうんですね。それに筆を乗せてごまかしてる」
13-18.表からは花みたいな光を提げていた重たい人影たちが、こちらからは花壇を踏み荒らす聖人のように見えた。私にとっては表より慕わしい。「こういうのが一番みっともない。染みたら染みたでいいんですよ。どうせ素人なんだから失敗したって恥じることないんです。堂々とね。半端が一番いけない」
13-19.そうですか、とだけ応じ、さて浸らせてもらおうと一歩退いて深呼吸してみたその時、窓からの景色に黒混じりの灰色がよぎった。外を覗いてみると、先ほど芋を焼いていた辺りから煙がふくらんでいる。消火器は予め用意されていたはずだ。ホースの出と長さも確認している。火の手は上がっていない。
13-20.慌てることはない、子どもたちは笑い声とも悲鳴ともとれる金切り声で騒いでいるが、まず些細なボヤで済むだろう。だが私のゴンドラの中に少女がこもったままでいるのは気にかかった。風の向きは一定せず、煙の流れはたまにそちらへ揺れる。出られるなら出ているはずだ。「わあ、危ないなあ」
13-21.わざとらしい独り言をまくしたてる隣のスーツに構ってはいられない。肌の浅黒い外国人の男が少女を助け出そうと、扉と格闘している。手足の伸びがいい。「こんなところで子どもに火なんて使わせて何考えてんだろうね。ほら、女の子が閉じこめられてる。あちゃあ、あんな勢いづいちゃ逆効果だよ」
13-22.たしかに少女はその剣幕に怯えてか、むしろ扉を開けられないよう必死に抑えていた。「どうしてわかんないかねえ」にわかに人が集まってきたが、どうにもホースから水が出ないようで、かるいパニックに陥っていた。「ああもう、あれじゃ意味ないよ。何やってんだろうね。わかる人呼ばないと」
13-23.消火器はもともと設置されていたものが古めだからと、運営が持参してきた新品がステージまわりを避けて自転車置き場の端に配してあるのに、地上の誰も気づいていない。「ダメだね、ダメだ。早く消防車だって呼ばないと。こういうのは小さく済まそうとして大ごとになるんだから。いい加減だなあ」
13-24.うっとうしいばかりのスーツの戯言は、少なくともところどころは頷いてやりたい、私の本音の鏡写しでもある。だから憎めない。だからこそ憎らしい。引っ張られてなるものか。やるべきことをやるだけだ。窓から身を乗り出す。消火器、自転車置場、と叫んだが、喧騒に紛れて届かない。
13-25.スーツも発声してくれたが何を気取っているのか叫びにあたらない平常の声なものだからやはり届かない。状況に追われて行動のふりをしているだけだ。この期に及んで、そうなのだ。私にはよくわかる。睨みつけようとしかけて滑った目線が人形を、さらにそれを嫌って逸らした先に銅鑼を捉えた。
13-26.金属製の小型の銅鑼。それ、こっちへ、とスーツに呼びかけると流石に意を汲み取って、窓際へ移動してくれた。移動してくれたきり立ち竦んでいる。何か呟いてもいるが聞き取れない。銅鑼の枠型にかけられたバチと私を交互にせわしく伺って、そして外へと意識をやったきり、もう目もくれない。
13-27.代わりに打てとでもいうのか?
13-28.一秒で深呼吸してバチを手に取った。握った瞬間、これまでさぞや、あるかないかの、かろうじて微音を響かせる程度の力で叩かれてきたのだろうと思いを馳せた。持ち主がこれを持つ意図とその歴史に則ったつもりのささやかな音を儀礼的に一つ鳴らしてみせてから、気を改め、体勢を正した。
13-29 .そのとき、間の抜けた轟きが耳から身体を抜けて、昂りかけていた体温が鎮まった。いったい何をしているんだろうと放心した。こんな奇態な真似などしないでもいいだろう、こうまごついている間にも誰かがなんとかする、余計な働きかけをして不首尾を招くよりはじっとしていた方がましだ。
13-30.そもそも目に見える火の手はあがっていないのだ。だが万一の事態は危惧される。少女はまだ私のゴンドラから出てはいない。ということは…いや、それどころでは…。物怖じして一歩引いてみたところで体がずるりとよろめいた。絵筆か雑巾でも踏みつけたか。倒れる。いや、倒れていない。
13-31.スーツの野太い両腕が私の半身を支えてくれていた。「おお、大丈夫?」「大丈夫、大丈夫です」意味のない返事。いや、これでいいのか。気が動転してわからない。動転の勢い任せに円盤を叩いた。無遠慮をきわめた音符にならない音がばらまかれる。土埃に暈され気味のいくらかの顔が上を向いた。
13-32.私は目当ての消火器を指差しながら、何度も何度も叫んだ。「助けて! 助けて! 助けて! 助けて!」 /『割拠』13
14-1.晴れ模様にまぎれてこっそり降り出した雨に、しばらくは誰も気づかないふりをした。息を殺して空気と一体化しながらただ一度の思いきりで飛び込む大縄跳びの要領で静かな降雨を達成した末、縄に当たれば全てがご破産となる成行きまでなぞって、誰かが傘を差すやいなやこの雨は土砂降りとなった。
14-2.ものの数分で小雨となったが、遠雷の気配も手伝って、祭りは撤収の運びとなった。男衆を中心に大小の器物を濡れながら片付けていく動きは活気に満ち、開催中に劣らずにぎやかで、その渦中に巻き込まれない全員をさみしくさせるものがあった。多くの参加者が好んで後始末を引き受けていた。
14-3.失火はあの後まもなくホースから放たれた水で難なく鎮火され、結局は消火器など必要とされなかった。一瞬だけ煙の強まったのは、還暦間近の男性が私物の本を十数冊投入した結果だと聞いた。一部のインクの成分がたまたま悪さしたものとみえ、火の気が勢いづいていなかったのも道理だと知れた。
14-4.さんざん野焼きしてきたんだ、案配はわきまえてる、あんなもんで騒ぐなというのが彼の主張だった。その是非以前に、運営の管理不徹底は疑い得ない。責任が問われて然るべきはずだが、なにぶん延焼はなくボヤにも至らなかったこと。雷雨とそれに伴う撤収のざわめきでうやむやになったこと。
14-5.被害損害のなかったこと。誰もが他の誰かに追求を任せたことで、大事としては扱われなかった。とるにたらない、事故にも数えられないお騒がせ。むしろ半狂乱で窓から助けてと連呼する女のほうが目立って取り沙汰された。なにしろあれからすぐ、数人の青年が私のいた部屋に駆け込んできたのだ。
14-6.叫び疲れてへたりこんでいた私と、まがりなりにも急場のつもりでいたらしいスーツの熱っぽくはだけた姿はいささか示唆的だったようで、真っ先にかけつけた美容師などはほとんど殴りかかる勢いを示した。遅れてきた男たちが慌てて止めなければ暴力沙汰に進展していたかもしれない。
14-7.誤解が晴れてからもスーツは独り言をぐちぐち続け、それがまた美容師の癇に障るらしく、悶着はしつこく続いていた。はからずもアトリエには野次馬客が押し寄せ、何人かはキャンバスの絵を鑑賞している。はあとかほおとか言い言いする老若男女のむらがりにはよく見れば描き手もまじっていた。
14-8.蚊でも払うようにかるく左手を上げて、よっ、と挨拶する口の形の愛想のなさ。あの口で筆を構えたなら。首すじの筋肉をふるわせたなら。姿がいい。間近で見てみたい。そう思った。手前には私がおねさんと呼んでいた女性がちんまり佇んでいた。こちらは目が合うなりまっすぐな愛想をくれる。
14-9.「素敵なお手紙ありがとう」私は出来合いの招待状に一言、きれいなものを見せますと書きつけていた。予定も想定もなく、ただこの人にきれいなものを見せてやりたいと掻き立てられた切実がねじれて文法が化けただけの、空鉄砲の宣言だった。「でもねえ絵はね、ちょっとわからないのよねえ」
14-10.それでもにこにこして楽しそうだ。「今日は…」「おねさんね、もう目が悪いのね」彼女は今も、おねさんという名を一人称のように扱う。「大抵はもう老眼だからね」と今の今までスーツと言い合いしていた美容師が継いだ。「老眼なんて、おしゃれじゃないわね。花眼っていうのよ」「かがん?」
14-11.「今の若い人は知らないかしら。年取ると、目がね、悪くなって、ぼやけちゃうでしょう。そうするとねえ何でもきれいに見えちゃうの。何でもね。それが、お花みたいなの。いいでしょう? 羨ましいねえ何でもお花に見えてねえ」ずるい。それは、この世の化粧の果ての果て、とびっきりの裏技だ。
14-12.右も左も見たくないものばかり。でも、見て見ぬふりしては咎められる。はじめからぼやけていたなら、ましてそれが花に例えられたなら、なんて素敵なことだろう。それでも、私は見たいものだけを、自分にとって都合いい真実だけを抜き取ってこの世を見る。私自身がそう見られているように。
14-13.「でも、きれいね。ありがとうねえ」こうしていつもと違った空間で相対してみれば、彼女はその柔和な微笑みとあまり釣り合わないような、皮下にほてりを宿した大胆な肩幅をしている。骨張りも目立つ。背筋は曲がり気味だが背たけもある。ひょっとすると彼女は彼女ですらなかったのかもしれない。
14-14.おねさんでもなく、彼女でもないかもしれないその人に、美容師は紳士然と手を延べ、ごく自然なモーションで腕を絡めてそのまま連れ出し去っていった。私はなにかエレガントなタイトルでもつけてあげられそうな二人の後ろ姿を、黙って、努めて何も考えず、無題の潔癖をとうとんで見送った。
14-15.出入り口では、今度はビナがスーツと揉めている。「そんな文句言うほどじゃないでしょうが」「そうそう、文句じゃない。ただね、お礼くらいあってもいいんじゃないかなって話をしてる」ビナは顔をしかめてはいるが、どこか子どもの奔放に困らされている親のような、毒気へのためらいがあった。
14-16.「別にね、助けたっていうのは大げさだけど。ありがとうくらい言わなきゃ。周りの反応も変わってくるでしょ? ボクだってね、まだ腕しびれててね。しかも寝不足。今日は結構大事な荷物を車に載せてるのに、これでハンドル切り損ねたりしたら、誰が責任とれるのって」「それは自分じゃないかな」
14-17.「いやね、別にいいんだよ。いいんだけど、そこまでやって、誤解されてさ、あらぬ嫌疑までかけられちゃったんだから。繰り返すけど、ボクに感謝しろってわけじゃないよ、ただボクがこういうことを言わなくちゃならない状況自体がおかしいんじゃない、って、もうまず言わせないで欲しいんだな」
14-18.私への苦情を延々まくしたてるようでいて、その実、自身の事情だけを演説しているのだと思うと、かえって反応に困った。「ウンザリだろ。この人、こうなんだ」と横からビナがいなしたが、「あ、またボクをバカにして」とスーツは応酬し、バカにしたようにして庇った彼女の心配りに気づかない。
14-19.急調子の発言の合間を縫い、すいませんでした、ありがとうございましたと述べかけたところ、ふいに現れた局長の謝辞に遮られ機を逸してしまった。「どうも、この度はご迷惑おかけしたようで」「いやいや別に怒ってるわけじゃありません。火事にもならず、皆さん無事でよかった。何よりですよ」
14-20.「話は伺いました。うん、そうだね。助けてもらったんなら、ちゃんと感謝しないといけないよ」局長は厳粛かつ理解ある教育者の視線を私に向けた。「このコもね、こうなんです」「意地っ張りだ。娘に似てます」二人は笑い合い、自嘲仕立ての尾籠な冗談を二三交わして、場を和ませたつもりでいる。
14-21.いよいよ今ここにおける自分の役割がわからない。このまま姿を消してしまおうか、よからぬ思いつきに気を取られた隙に、局長は別れの挨拶を済ませていた。「あとこれね。皆に配ってるんだ。今度は返してね。じゃ気を付けて」そう言って局長は傘を差し出してきた。受け取ろうとした手がもつれた。
14-22「貸してなんて…」つい漏れた私のぼやきを聞き取って、「え?」と局長は露骨に声を尖らせた。「言いたいことがあるなら聞くよ」「いえ…」ボヤ騒ぎは私のせいではない。だが騒ぎを騒ぎせしめた一旦を担ってはいる。祭りは期待以上の賑わいを実現したのに、もう次回へつながらないかもしれない…
14-23.睨まれるくらいの謂れはある。責任の一切を負う立場の代表を擁さなければならない局長は、感情を表立たせこそしないが、内心では責めたてたいのだろう。銅鑼を叩いたというのも具合が悪かった。外国人によからぬ偏見をもっていた一部の住民が、急にアジア女が自前の楽器で騒乱し始めたと思い込み、薬でもやってるんじゃないかと笑ってついた悪気のない悪態が小さな噂となって、すぐ撤回されたとはいえ少々の禍根は生じたものと考えられた。やはり余計な真似だった、するのでなかったと後悔し、すぐにでも一同に謝りたかったが、目の前で私に由来した諍いを始められると、次々展開されゆく新規の誤解を解いていくのに必死で、後手に回った。矢継ぎ早に王手を仕掛けられたようなもので、指したい一手を許されないまま局面は進んでいった。また、駆けつけた者たちのなかには東南系と思しき男もいた。余計な真似をしたという謝罪をすれば、なんとなくタイ製を思わせるこの銅鑼を悪者にするようで、それがいらぬ気遣い、邪推による妄想だとわかってはいても、どうにもはばかられた。一方で、外国人が怖がられているという情報から、ゴンドラで繰り広げられていた小さな修羅場も看過できなかった。あのまま放っておけば思い違い掛け違いが重なって、いらない確執の種が撒かれそうでもあった。私の行動は小さな事情、情報、情況が編まれた末のものだった。だがその行動原理も堂々言い切れるほどには整えられていない。迷いがなければ体勢を崩しもしなかった。スーツの言い分はもっともだ。助けてくれたには違いない。私はあの時、たしかに倒れかけた。だが別段、倒れたところで怪我一つ負わなかったろう。身体が浮いたならまだしも半身がよろめいただけだ。それでも感謝の一言くらいは、もちろん普段なら伝えている。ただあの緊急的な場面では後回しになっただけだ。そしてあっけなく火が始末された安堵もつかのま、美容師が飛び込んで来、大丈夫かと叫んだ大声にひるんで、大丈夫ですと答えた声の震えを事後の痛手からなる怯えと早合点した彼がスーツに飛びかかってからは、礼を言うどころではなかった。たしかに私は余計な真似をした。しかしそれならばスーツだって余計な真似をしてくれた。悶着の火種を刺激しないようあえて蒸し返すこともあるまいと、自分なりに配慮したつもりもある。大したことでもないとするのがこの場合の世間的な正解なのだろうと踏んだ。そうして、あのよろめき自体をなかったことにした。礼一つに執着されるとは想定していなかった。ことの起きる手前、短い時間に抱いた彼への印象も、今回の心理の材料となっていた。あれだけ幼稚な失言ばかり並べ立てておいて、よくも訓導者顔ができるものだ。だからといって、恩人には変わりない。善行は善行だ。それはわかる。認めている。局長だってそうだ。ぐるぐる考え込んでいるうちに事態は変わる。幕が下りる。場面が終わる。二人はとっくに部屋を去っている。局長はスーツの失敬を知らない。さも当然とばかり私の方を非常識だとたしなめる態度をとった。不正解を取り続ける私に、正解を教え導く態度をとった。二人の了見が一致したことでこの場の正しさは定められ、私は不躾を躾けられる立場に置かれた。傘。今受け取らされたこの傘はあの時と変わらない無個性のビニール傘で、同じ哀れさをはらんでいる。送り手は自らの信じる徳義に基づいた実践をしたが、受け手にとっては向こうの物語に付き合わされた格好となり、結局のところ意味が結実しない。そうとなればまさか私に責められようはずもない。彼は彼にとっての当たり前を、そのときの正しさを示しただけだ。あの瞬間。はじめに銅鑼を叩きかけたあの瞬間、私は、自分を見失い行動を思いとどまった。万一の事故が発生した際ゴンドラをめぐる責任がどうふりかかるものか、傍観者に徹するか助勢に加担するかで変わってくるか、利害の勘定を試みかけた。その一瞬のためらいがきっかけとなり体勢を崩した。そんな物語、誰にとっても知ったことではない。中途で打算を打ち切ったことを、私は知っている。だが誰にとっても知ったことではない。わかっている。ああ、これが…。これが、これが…。
14-24.ああこれが、これが私の地獄だ!
誰にもわかってもらえない、誰とも分かち合えない、それでも私は私なりに意を尽くして、動いたり話したり黙ったりしているのだ、いつでも何についても私は言い訳まみれだ、その時々なりの理由があって抑えているだけで、いくら黙ってたって、無限の言い訳まみれなんだ。間違いだらけの私のすべても、私のなかでだけは、私の言い訳の中でだけは間違ってないんだ、誰か、誰か知ってくれ。これが私の地獄だ! 見てくれ! 見つけてくれ! 地獄だ! これが私の地獄だ! 何も炎の鉄室に閉じ込めたりはしない、串刺しもしない、切り刻みもしない、痛苦で苛んだりなどするものか、ただこのやましい絶叫を聞いてもらうだけだ、今にも消え入りそうなか細い叫びをじっくり聞き取ってもらうだけだ、このどうしようもなく無様な、醜く、貧しく、いやしい、外に出ない声! 延々ひたすら聞いてくれ、延々締まりなくいつまでも続く世にもつまらない弁明の全部をあまさず聞いてくれたなら、それは長い、あまりにも長い弁明で、ある事柄については生い立ちから説明されもするだろう、ある事柄についてはいつのものだかも思い出せない小さな挿話の数々がとりとめなく語られもするだろう、そのあまりに冗長な解説を一から十まで、百まで、千、万、億まで通して呑み込んでくれたなら、ちょっとは、ちょっとはわかってもらえるだろう。私はいつもいつも私の実体化を仕損じているだけで、私は、私になり損ねなかった私は、必ずわかってもらえるはずなんだ、そんなに、悪くないだろう、そんなに、おかしくないだろう、誰かが、どこかでちゃんと、見抜いてくれさえすれば…。だから私は、そのためのどこかを提供しよう、きてくれ、いてくれ、ここだ、この地獄で待ってる、誰か、誰か、誰か…。
14-25.「言いたいことがあるなら言いなよって、いやな言い回しだよな」
慰めよりは罵りに近いイントネーションでビナは呟き、片手でパイプ椅子をガリガリひきずって私の前に置いた挙句座りはせず、部屋のなかを退屈そうに歩いたり止まったりしている。「言わないんだから言いたくないんだろ。もうさ、逆だよね」うなだれた私に何を問うでもなく彼女はあっけらかんとして、いつもと変わりない。緩みも皺ばみもしない頬がりりしい。床に散らばった絵筆や棚上の人形を拾ってはすぐにまた置き、たまに自分も腰を下ろす。かと思えばまた立って、こんな狭い空間をあてもなく右往左往している。「お祭り、いろいろ見て回ったよ。いい日だね。外人も老人もガキも笑ってる。あたしは外人も老人もガキも好きじゃないけど、それでも、いいなって思ったよ。文化祭みたいだったね。文化祭って最悪だよな。けど、今日は、ちょっと楽しかった。さっき、外でジジイとオッサンが相撲やってるとこにサッカーボールが転がってきてさ。そしたら立ち合いそっちのけで、連中裸で玉転がしし始めてさ。ちょっとしたら全員体痛めてうずくまってた。いいなって思ったよ。なあにが当事者感覚だっつってね、ほらあいつら、知ったふうな能書き垂れてくだらない焚き付けしてきやがって、まったく乗るんじゃなかったってくさってたのに、あぁいいなって思っちゃった」窓の下を眺めて話す彼女につられて外に視線をやった。雨は止んだように見える。夕暮れの光線が薄墨に倦みかけた壁をなだめるように差しつつある。「ああいう雰囲気ね。明るくて穏やかで晴れがましくって…。昔なら嫌気差してる。なのにね、こうして丸くなるんだな。いろいろ許せるようになっちゃった。いい天気ですね、なんて意味ない挨拶交わしてさ。その途端曇りだしたから笑い合っちゃったりしてさ。珍しい飯食わせてもらって、こっちも教えたりして。そして大失敗。お互い皿を押し付け合って、でも完食してさ。ウッカリ友達増えちゃったよ。あたしがあたしじゃなくなるみたい。敵扱いしてた連中が敵じゃなくなってく。でも素直にそう思ったんだ」ふいに見やった時計のなかなか進まない秒針ほどの間をおいて、心から申し訳なさそうにビナは言った。「あの人もね」
14-26.そして、私もなのだろう。足を止めこちらを見据える彼女に向けて、だしぬけに口を開いた。決して言葉を選ばぬよう心がけて。
「私ね、今でも、嫌いなやつばっかりだよ」「うん」「どいつもこいつも、くたばっちまえって思ってる」「うん」「でも誰にも不幸になってほしくない」「うん」「幸せになってもらいたい」「うん」「死ね」「うん」「ゴミ、クソ、クソ、カス、全部、クソだ。全員、死んじまえばいい。どいつも、こいつも、泣き叫んで鼻水垂らして、謝ってくれよ。わけもわからず謝れよ。許さない。一人ひとりアタマ下げさせて、何が悪いか十も百もあげつらって、ぼろくそに罵ってやる。ただ生きてるだけで、私の前に姿現してるだけで、何が悪いかどれだけ悪いか、なに一つ自覚してないやつらに突き付けてやる。そのぐらいいくらだってしてやれる」「うん」「どうでもいい」「うん」「全部、どうでもいい」「うん」「私の悩みが一番、どうでもいい。知ってる。あの人も、どの人も、大変だ。私の悩みは悩みじゃない。甘ったれ。不幸から程遠い。大丈夫なんだ。大丈夫なんだよ。叫べない。頼れない。知ってるから。でも、みんな、そういうものでしょう、ねえ、そうじゃないの」「うん」「私だって、一人ひとりに泣きながら謝りたい。私の何が悪いか全部打ち明けて。私にどれだけ責めどころがあるか、誰よりよく知ってる。どんなに他人から褒められたって、慰められたって関係ないよ。私だけが知ってる私の醜さがある。全部打ち明ける。百も千も洗いざらい。そしたら罵られて、そしたら暴れて、憎み抜いて、やっぱり死ねって叫んで、叫びまくって、それで、それで、私は、聞いてもらいたい。どれだけ私が、本当は、みんなのこと愛してるか、愛せてしまえるか。あなたがたがどれだけ尊いか、尊敬に値するか、いくらでも言祝いであげられる。空想で好きになろうとしたこともあったし、嫌ってやったこともあった。だめ。目の前にいる人を大事にできない。私はいつも私私私で、目の前にいる相手が見えなくって、いつも後で、ことが過ぎた後で、自分の中でしか誰かの正解と向き合えない」「それがあんたの三千世界だよ」ビナは微笑みもせず甘くささやく。「あんたの中にいろんなあんたが陣取りしてる。皆の中にもいろんなあんたが陣取りしてる。自分も、誰も、彼も、どいつもこいつも、それぞれの三千世界に好きなだけ割拠して、ぎゃあぎゃあわめいてる。そういうもんだ。好き勝手はびこって、のさばって、そうして都合よく、祝福したり、忌んだりしてさ、やりくりするんだ。あるあんたは呪う、あるあんたは愛す。知らないよ。誰も知らない。正解も不正解もないんじゃない。あるよ。大丈夫だ。まだ呪ってやれるだろ。大丈夫だ。あんたは十分、大丈夫じゃないよ」
14-27.昼間、企画当初の図面よりはるか小さく設えられたステージの前に人影はまばらだったが、一曲だけは盛り上がりを見せていた。今はもう撤去されたはずのそのあたりから、誰かが笛で、玩具箱が飛び弾むようだったあの演奏を目指して、時おりつまりながら、同じ曲を奏でている。やがて打楽器も加わり、楽音が熱を帯びて、祭りの終わりを知らせていた。「あの絵…」「うん」「どうやって描いたの」彼女はゆったりイーゼルに身を寄せた。どうやってだろうな、と独りごちてしばらく黙りこみ、キャンバスの裏側へまわって、染みで彩られた絵を撫でた。その動きは私の方から見えはしなかったが、おそらく撫でた。「あたしはさあ、口下手だからさ。だから絵はね、好きとか得意とかっていうより、ちょうどよかった。余計なこと口にしないでいいからね。言葉は後からついてくる」そう言って、自分の描いた絵を、か弱く、小さく、うっすら、撫でるか撫でないかのしたたる加減で撫でているに違いなかった。「口下手には思えない」私の指摘に彼女は、ちょっと努力したんだ、と気まずそうに顔を背けて笑った。外には薄い雨が降ったまま、夕雲のはざまをくぐって陽射しも現れ始めた。申し訳なげに遠くからとどろく雷にまじって、ドン、ドンとどこかから打ち上げ花火の快音まで響いてくる。うるさいのか静かなのかもわからない。音楽は止んだ。ただ楽器の単音が、音楽になろうとしない、もどかしいような拍子で鳴っていた。
14-28.「あのね」「うん」
雨の一滴一滴を翻弄してきたばかりのぬるい風が部屋にのたうつ。火にやっつけられた麻ひも、紙、インク、膠、木材、食材、紙皿、割り箸の残り香が漂う。乾きかけの汗が肌に染みて二の腕はひんやり冷たい。ここはいい。壁の黄ばんだ白はそれでも白で、曖昧だけれど、何も言わない。いつでもどこでも人を溺れさせずにいなかった言葉の海が、みるみる干上がっていく。黙りこくった私を彼女は優しく待って、待って、待ったまま右手をとって、そっと作業台に載せた。自分の左手首に私の指を絡ませて、またのんびり待って、手元の道具箱を片手で開けた。チューブのボンドを水に溶く。いくらかの色材を取り出し調色する。床や机や衣服や素肌にオイルがこぼれる。あちこちよごす。口で筆をくわえる。私の端っこに毛先をあてがう。かすかな震え。毛束のくすぐり。ちょっとした手術のようでもあり、儀式のようでもある。雲のなびきの気まぐれで転がりこんできた光線にさらされ、中空に舞いっぱなしの埃がきらきらまたたく。目もくらむ明るい夜空。見とれた隙に私の爪へ色々の小粒がまぶされる。筆の毛先が揺らぐたびたちまち華やいでいく。虹のまんなかを小さじですくい取っては塗りつける歓喜のたわむれ。ありもしない記憶のゆくえがとろけて消えた。
でたらめだ。甘皮を詰める処理すら怠って、油を拭き取りもせず水で薄めたボンド液をベースコートに、ありあわせの顔料をネイルボリッシュに仕立て、なお果敢にあがいている。吐息ひとつ漏らそうとしない絵描きの代わりにそうっと汗をぬぐってやったところで、玄関から団体職員が二人連れ立ち声をかけてきた。あの、そろそろ…。彼女は見向きもせず、ちょっと待ってろ、と言い捨てた。殺気にあてられ彼らは去っていったが、それは私あての指図だったのかもしれない。彼女は立ち上がりカッターを手にとって、キャンバスに切り込みを入れた。縦横無尽に一線一線切り裂いて、絵の名残をかすかに残す麻布の小片を、さらに鋏で細かく散り散りにしていく。極小に切り取られた絵のかけらの山をよく吟味して、その一つをピンセットでつまみ私の爪に配置しかけては戻し、吟味を繰り返した。左手一本の作業はおそろしく鈍かったが、もたつくほどにいとおしくなる時間に浸りきり、この祝祭を眺めていた。いくら彩りあぐねてくれたってかまわない。あれからもう何時間も経っている。何日も。もう何年もこの部屋で、二人は同じ時間を過ごしている。雨は止み、また降り、いつか晴れ間が広がり、朝が訪れ、夜が逃げ、夕闇が溶け、秋が終わり、鶫が喘ぎ、枯れ葉がさんざめき、老い、若返り、死に、蘇り、もうここで、どれだけ明滅したかわからない。おろしたての歴史そのものであるこの時間は何よりとうとい。私たちの今がここに兆される。
葉擦れがまだらの光を軋ますように、色の粒子が踊って見える。表面の細工が十分に乾いてからさらにトップコートをのせていく。皮膜形成はアクリルラッカーに、アルキド樹脂はペンキに期待して、可塑剤にあたるものはなかったが、なんでもいい。乾いたトップコートの上からさらにラメ代わりの絵のかけらを重ねたり、ボンド液や塗料をのせたり好き放題している。薄く積まれていった塗りは下地の発色を透かせてみせて、居つきかけていた色から名前を奪っている。暗く重たい地底で芽吹こうはずもない種が奇跡の花を咲かそうと、これだけ色彩を持て余しはしないだろう。ここはいい。きれいなところを見つけてやれた。薬指の関節をわずかに折り曲げ、爪の曲面に傾斜をつけてみると、なおさらきれいに見える。一番きれいに見える角度はどれかしら。垂直、水平、右回転、左回転、ダッチアングル、煽り、引き、ぐるりと旋回。正面の定まらない魔法仕掛けが面白く、いつまでも試してしまえる。
きっと、この爪の裏側からは、羨ましいくらい、もっと、ずっと、きれいに見える。 /『割拠』完
割拠
爪の裏に地獄を設定した女の話にかこつけて、僕が「人心」とまとめあげている主題をごった煮にした話。
Twitter上でこつこつ投稿、1年3ヵ月かけて書ききった。
採用しなかったエピソードの文が合計1万字近くあり、単なるメモはその倍以上、資料はさらにその何倍も。
メモの文は初っ端から「重商主義による土地の奪い合いを省みて」から始まる。わけわからないな。
Twitter上でやってたのは、修養のため140字のリズムを染み込ませたかったのと字数制限による語彙選択の格闘したかったのと、あとは架空の人物の日記みたいな体裁にしたかったことなど…自分なりの企図あって。
フォロワー数少ないからできるみたいなルサンチマンもあった。
まさかこんな時間かかるとは思わなかったけれどちゃんと完結させられた達成感すさまじい。
長文後書き、書きたかったけどいらないよな、と思いつつだらだら書いてみる。
書こうと決めた動機付けとしてはまず、自分の中に棲む女が27歳にまで育った。
がその先へ進まない。
ここいらで出口を与えてやってみることにした。
この話の主人公は僕自身とは全くの別人だけれど、僕の中に棲む27歳の女がこんな感じなのだ。
次に、地獄というテーマに興味があった。
一般的には悪状況を突き詰めた最悪の極致を地獄だ地獄だと呼んでもてはやしてるけれど、誰もが即そう見なしてやれる最悪というのは味方や理解や慰めを期待できる。
一方でちょっとした傷つきとか些細な悪感情って誰からもなめられるし全然理解寄せてもらえない。
僕には、最悪の極致よりもそっちの方が自分の表現したい地獄に近いと思われた。
この地獄には呪いと醜さがつきもの。
それをどうやって祝福してやれるか、どうやって美しさで凌駕してやれるか、いろいろ考えてったあげくこういう話になった。
他者のまなざしを地獄とするサルトルの理論は一部取り入れもしたかったけれど途中から否定してやりたくなった。
三千世界のくだりは空海を下敷きにしてる。
人を情報で見てちゃいかんよねっていう。
人を知るっていうのはその人と同じ時間を、同じ経験を共有すること。
祝祭。
でもそれだけじゃ自分の味にならないから、最後で論法をぐちゃぐちゃにさせてやった。
うまくいったかな。
全編拙さまみれでも、最後は気に入ってる。