Aの33

 自分のアパートに帰宅したときには、すでに夜の9時半を過ぎていた。俺はそのとき嫌な事を思い出して気分が悪くなった。

 明日は英語の小テスト。

 何ひとつ準備も対策も立てていない俺は、急いで机の上に教材を広げた。

( 大丈夫。自分を信じて進むだけ。ウィ、アー、ザ、ワールド……。ウィ、アー、ザ、チルドレン……。俺には出来る )

 自分にそう言い聞かせ、さっそく勉強に取り掛かった。

 10分ほど勉強して俺は大事なことを思い出した。

 ハイネマン男爵にビンタを食らわせたあと、俺は謝罪もせずにそのままハチローを放置している。このままだと怒った男爵が俺やクラウゼンさんをクビにしてしまうかもしれない。

( やっぱり男爵に謝らないとな…… )

 そう思ったので、すぐに寝室に入ってGT3を起動した。そしてアイマスクを装着した。

 ・ ・ ・11

 俺はゾフィー・ハイネマンとかいう変な少女と話した物置部屋に戻っていた。

 あの少女はもう居なくなっている。

 1階に降りた俺はすぐに厨房に入った。そのとき、奥のほうに立っているクラウゼンさんの後ろ姿を見て俺はすっかり安心した。

( 良かった…… )

 俺はすぐに声をかけようとしたが、クラウゼンさんがとつぜん焜炉の前でうずくまった。

「クラウゼンさん! 大丈夫ですか?」

 急いで駆けつけると、クラウゼンさんは焜炉の蓋を開けて顔を近づけている。

「どうしたんですか?」

「うーん。この焜炉はもうダメかもしれん。この前よりもっとひどくなってる」

「直せますか?」

「いや、これはもう無理だな。実は今までに5回以上は修理してる。さすがにもう限界だろう……」

 俺も焜炉を見たが、どの辺が故障しているのかよく分からない。

「何年くらい使ってるんですか?」

「分からん。私がここに来た時からあるし。たしか先代も分からないと言ってたね」

「先代?」

「男爵様のお父上だよ。もうお亡くなりになられた」

 クラウゼンさんは水道で手を洗い、大きくため息をついて近くのイスに座った。

 俺はじっと待っていたが、なかなか言い出さないので俺のほうから言った。

「焜炉、買い替えたほうがいいんじゃないですか?」

「ああ。そうだよ」

 やけに返答が早い。どうやら俺が言い出すのを待っていたらしい。

「焜炉って高そうですよね」

「当然だよ。最近の相場はよく分からんが、私たちの給料10年分合わせても足りんよ……」

 それは言いすぎだろと思いながら、その焜炉を見ると分からなくなる。家電量販店に売っているような見た目じゃないし、この時代に焜炉1つ作る手間と時間がどの程度なのか俺には分からない。

「俺、ハイネマン男爵に交渉してみましょうか? こういうの、正料理人の役目だと思いますし……」

 するとクラウゼンさんの表情が緩んだ。

「おお、それは助かるな」

 クラウゼンさんは椅子から立ち上がって俺の肩をぽんと叩いた。

「頼むよ。ハチロー」

 そう言われて悪い気はしない。こういう時でもないと自分が役に立てる場は無いような気がする。

( あのくそがきを上手く説得できるかな )

 俺は調理場の外に出たあと、階段から2階に上がり絢爛豪華な廊下の上を進んでいった。

 見張りをしている執事はいなかったので俺は気にせず男爵の部屋のドアを開けた。

 ◇11

 部屋の左側の方からピアノの音が聞こえてくる。でも何かおかしい。

( 壊れてる? )

 ピアノのような音と言うべきかもしれない。俺が知っているピアノの音よりもだいぶ軽い。ポン、ポン、ポンと跳ねるような音が部屋全体に響いている。

 演奏自体はとても上手い。

 部屋の奥に進んでいくと、音の正体が分かってきた。

 それはピアノじゃないけど、似ているところもある。木材をそのまま組み立てて作ったような細長い箱が三本の脚に支えられている。

 フランシスは俺に気づくと、演奏を続けたままこっちに笑顔を向けた。

 俺は曲の終わりまでじっと演奏を聞いた。

「ハチロー。どうだった?」

「すごく良かったよ」

 どこかで聞いたことのある音楽。モーツァルトか、それともバッハあたりか。

 俺に褒められ、フランシスはご満悦だった。

「やった。これなら陛下に聞かせても大丈夫だと思う」

「陛下?」

「フリードリヒ大王だよ」

 プロイセン国王のフリードリヒ2世のことを言っているらしい。

「ハチローはピアノ弾ける?」

「いや、俺は弾けないよ。……ていうか、これピアノなの?」

「そうだよ。ハチローはピアノも知らないの?」

「黒いピアノなら知ってるよ」

「なにそれ。腐ってるの?」

 フランシスはそう言ってくすくす笑っている。

( 今はフリードリヒ2世の時代か…… )

 俺はピアノよりそっちが気になる。

「陛下の前で演奏するの?」

「うん……」

 この少年が国王の前で。

 俺にはあまり実感が沸いてこない。

 貴族の身分についてよく知らないけど、男爵という階級は公爵や伯爵などよりもずっと下のイメージがある。そんなに簡単に国王に会える身分だとは思えない。

( そういえば )

 俺は大事なことを思い出した。

「ごめん。叩いて悪かった……」

「許さないよ」

 彼はそう言いながら俺をじっと睨んだ。

 俺は困惑した。

 上機嫌な様子を見て、すっかり許してくれたのだと思えば。そうではないらしい。意外と根に持つタイプかもしれない。

「どうしたら許してもらえるの?」

「この部屋に来て僕のピアノを毎日聴いて。……それから、ハチローのお菓子が食べたい」

「分かった。……でも条件がある」

 俺は自分の立場もわきまえず、勝負に出た。

「クラウゼンさんを今後も副料理人として雇ってほしい。俺はあの人がいないと困る。あの人をクビにするなら俺もここを辞めるよ」

「……」

 フランシスは俺から目を背けてピアノの楽譜を片づけ始めた。楽譜を1つ1つ折り畳んでいく。黙っていても、俺の懇願を無視しているようには見えない。自分の中でどうすべきか葛藤しているように見える。

 フランシスは答えた。

「分かったよ」

 俺はほとんど何の苦労もせず男爵の説得に成功した。

 すっかり自信を得た俺はさらに2つ目の交渉に入ろうとした。しかし男爵はピアノから離れて、今度は窓際に置いてある大きなキャンバスのほうに歩いて行った。

 ◇11

 男爵は画材を手に持って、描きかけの絵にさらに手を加えていく。

( 絵は飽きたって言ってたくせに )

 男爵の絵を後ろから見ていると思わず口がにやける。

 ピアノの演奏は非常に上手かったが、絵の方は悲惨だった。誰かの似顔絵かもしれない。ナスビのような顔をした女性が俺のほうを見ている。

 彼が画材を置くのを見はからって俺は声をかけた。

「個性的な絵だね……」

 男爵は俺に笑顔を向けた。

「良いでしょう」

 皮肉で言ったつもりなのに、彼にはそう聞こえていないらしい。

 俺は聞いてみた。

「誰の絵なの?」

「夫人の絵だよ……」

 男爵はそう言いながら満足そうに画材を1つ1つ選別している。俺には誰の事か全くわからない。

「夫人?」

 俺がそう言うと、男爵は少し不機嫌そうな顔をした。

「ハイネマン夫人だよ。僕の妻」

「えっ」

 こいつ、この歳にしてすでに妻を持っている。

 俺の中に複雑な感情が芽生えたが、いちど冷静になって本題を思い出した。

「昨日夫人と喧嘩しちゃってさ。謝っても許してくれないから、お詫びにこの絵を贈ろうと思うんだ」

「……そうなんだね。ところで、フランシスに1つお願いがあるんだけど、いいかな?」

 男爵は画材から手を放して俺を見た。

「なに? 言ってよ」

 俺は遠慮せずに言った。

「実は、調理場の焜炉が壊れちゃったみたいで。もう修理も出来ないらしくてさ。できれば買い替えたいんだけど、いいかな?」

「……うん。良いよ。買いなよ」

 男爵の返事があまりにも軽いので、俺は少し困惑した。

 男爵はまた画材をいじりながら俺に聞いた。

「焜炉は古いの?」

「うん。かなり古いらしいよ」

 どうやら男爵はこの家の調理場に入ったことが無いらしい。

 それからお互いの会話がしばらく止まった。

 男爵は相変わらず楽しそうに画材をいじっている。

 俺は交渉を再開した。

「フランシス。焜炉を買うお金が必要なんだけど、用意してもらえる?」

 すると男爵は首を横に振った。

「……無理だよ」

「なんで?」

 そう聞くと男爵はいちど俺を見たが、すぐに目をそむけた。

「だって僕お金持ってないもん」

「え?」

 かなりややこしい事になってきている。

 俺は不屈の精神で交渉を続けた。

「フランシスは欲しい物があった時どうするの? 買い物はしないの?」

「買い物はするよ。欲しい物があるときはリヒャルトに頼んでる。そしたらお金をくれるよ」

「リヒャルト?」

「執事長だよ。ハチローも毎日会ってるでしょ? 白ひげの腰曲がった人」

「なるほど……」

 俺はそんなやつは知らないが、とにかく話を進めることにした。

「執事長の部屋はどこにあるの?」

「1階の正面入り口の近くにあるよ」

 情報を手に入れた俺は男爵に一礼して部屋の外に出た。


【作者紹介】金城盛一郎、1995年生まれ、那覇市出身

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  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-07-05

Copyrighted
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