Aの26
建物の裏口から中に入り、廊下を歩いていたとき倉庫から出てきたクラウゼンさんと鉢合わせになった。
「ハチロー。どこにいた?」
「あ、ごめんなさい。街の外に……」
「おい。こんな時に何してるんだ。もう調理を始めないと夕食が間に合わないぞ?」
クラウゼンさんはそう言いながらため息をついている。
俺が2か月のあいだ調理場に現れず、無断欠勤していた事については何も言ってこない。
「ほら、はやく調理場に行くぞ」
クラウゼンさんがそう言うので、俺も後ろからついて行った。
調理場のテーブルにはすでに調理器具や食材などが用意されている。
「いつも使う物はもう用意しておいたよ」
「ありがとうございます……」
俺はそう言ったが、クラウゼンさんは俺を疑うような目で見ている。
「なにボーっとしてる。はやく指示を出してもらわんと始められんぞ」
「えっ?」
「ハチロー。おまえ外で飲んでやがったな? 自分が正料理人だって事も忘れたか?」
俺は今では正料理人になっているらしい。
「……」
何をどうすればいいのか分からない。今まではクラウゼンさんが指示するものを作ればよかった。
( どの料理を作るか。どんなメニューやコースにするか。すべて自分で考えないといけない )
俺はいま、正料理人という仕事の難易度を知った。
考えることが多すぎて全くやる気が起こらない。クラウゼンさんの指示に従って料理を作るほうが何倍も楽しいと思える。
「誰が俺を正料理人にしたんですか? ハイネマンさんですか」
「そうだよ。当主のハイネマン男爵様だよ。ハチローの料理をとても気に入っておられる」
俺は調理場の外に出た。
「ハチローどこへ行く」
クラウゼンさんの声を無視して廊下を進み続けた。
( どこにいる…… )
しばらく廊下を進んでいくと階段が見えた。
2階の絨毯が敷かれた廊下をずかずか歩いて行くと、一人の執事に見つかった。
「ちょっと、何してるの?」
「どいて」
俺は若い執事を押しのけて部屋のドアを開けた。加減したつもりなのに、執事は思いのほかよろけて廊下の彫刻に衝突した。彫刻の首が折れた。
俺は気にせず部屋の中に入った。
◇11
部屋の中で、少年が椅子に座って絵を描いている。大きな白いキャンパスに黒い線を何本も描きこんでいる。
少年は描くのをやめて俺を見た。
髪は金髪で、透き通るような肌は白くとても美しい。そして青い瞳。どこかで見たような気もする。
近くにいた淑女が俺を見て声をあげた。
「ちょっと、何ですか。あなた! 男爵様はいま稽古中ですよ。出てお行きなさい!」
「先生。良いんですよ、彼は僕のお兄さまです……」
少年は俺のところまでやって来て、俺の胸元に顔をうずめた。そこまで体格が小さいわけでも無い。おろらく15歳前後くらいか。その顔と声のせいで実際よりも幼く見えてしまう。
俺もその淑女も何が何だか分からず、その場に立ち尽くしている。やがて少年がじろりと淑女のほうを睨んだ。
「先生。ハチローに失礼なこと言ったよね。あんた嫌いだよ」
「えっ?」
淑女ではなく、俺のほうが思わず声をあげてしまった。
淑女は深々と頭を下げた。
「申し訳ございません。男爵様。どうかお許しを……」
「いいから。はやく出て行って。もう絵を描くのは飽きた。ハチローと遊びたい」
そう言われ、淑女は口惜しそうに部屋を退出した。
少年は鉛筆を放り投げた。
「ハチロー。お茶にしない?」
俺は何も答えず、少年をじっと見た。
「あ、お茶は嫌い? それなら買い物は? あ、それとも……」
俺は話をさえぎった。
「クラウゼンさんを正料理人に戻してくれませんか?」
「え……やだよ」
俺は頭を下げた。
「男爵様。お願いします。クラウゼンさんを正料理人に戻して下さい。お願いします」
少年は舌打ちして思いきり壁を蹴った。
「その呼び方やめてよ。フランシスって呼んで!」
「フランシス。頼む。クラウゼンさんを……」
「やだよ。僕はハチローの料理が好き。ハチローも好き。あんなボロ雑巾みたいなくそ老人は後で追い出してやる」
気付いたとき、少年は床に倒れて俺を見上げていた。
彼の頬が赤く腫れあがっている。
フランシスが泣きわめくと誰かが部屋に入ってきた。
「男爵様っ!」
執事は急いでフランシスのそばに駆け寄り膝をついた。
「男爵様っ、どうなさいました?」
「なんでぇっ!……なんでぇっ!」
そう言っているフランシスの顔は、自分の涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっている。
執事が俺に目を向けた。
【作者紹介】金城盛一郎、1995年生まれ、那覇市出身
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