ライト
一
言うまでもなく、東京都美術館で開催されている『スコットランド国立美術館 THE GREATS 美の巨匠たち』展の見所は美術史にその名を燦々と輝かせる画家達の表現を間近で鑑賞できる点にある。
正直に言えば、本展全体について美術史上の区分に従って構成された各フロアに、名画を中心としたスコットランド国立美術館の収蔵作品が展示されているに止まると消極的に評価できる面があるのを筆者は否定しない。
しかしながら当時の人々の間においては勿論、何世紀も跨いだ現在においてもなおその技術が類を見ない着想と構図の中で生き、額縁の内側で絵画独自の世界が生まれていると心から信じられる人為の到達点と感じて止まない名画はそれを視座とした絵画表現の可能性を語らせる。絵画表現の発展の歩みが実際にそうだったかについては種々様々な資料に基づいて多角的な議論を尽くすべきなのだろうが、夢中になって奪われた時間を取り戻さんとばかりに口を動かす鑑賞者の主張内容が似たり寄ったりなものになってしまうだけの力があの作品たちに宿っているのを筆者はここで断言したい。異口同音な感想とそれに対する意見の賛否を目の前に集めてこそ、名画と評される一枚はスポットライトを浴びて輝くのだから。
それは否定し切れない共感から生まれた絵画鑑賞のガイドライン。その導線に従って進み、其処彼処に現れる絵画の「現実」の多様さに巻き込まれる疲労感は心地よいだけでない、ネジが緩んだ世界の隙間から吹き込んで来る息吹の予感に満ちている。
二
人間讃歌を謳うルネサンスが果たした形象に基づく感動をより求めて、描くモチーフが歪になるのも厭わなかったマニエリスム。その代表的な画家であるエル・グレコが描いた『祝福するキリスト(「世界の救い主」)』に対面して覚える感情の起伏は奇妙さと切り離せないと即断してしまう。
陶器の様な青白さを見せる肌色に、痩せこけて、その頭蓋骨の湾曲ぶりすら露わにする救世主が真顔で表現しているものは優しさという他ない。左手を球体に乗せる仕草で象徴される超越の現れ以上に全てを受け止める容れ物としての空白と動きの無さに、その揺るがない瞳の問いかけにどこまでも魅了される。宗教画という強固な枠組みの内側にあってこそ際立つ、近くて遠い存在の差異。大仰な舞台設定などそこには要らないのだと知る。
他方で明暗あるドラマチックな仮定の元で尽くされる超絶技巧が徹底的に浮き彫りにするリアリティをもってして、筆者が好きなバロック期の絵画表現の特徴であると結論づけるがその代表といえるディエゴ・ベラスケスの『卵を料理する老婆』でも、またペーテル・パウル・ルーベンスの『頭部習作(聖アンブロジウス)』でも画家それぞれが模索する絵画の理想に向けた追求のベクトルは、強い説得力をもって鑑賞者に働きかけてくる。それによって信じ込まされる絵画世界の只中にあって、私たち鑑賞者は画面のどこにも描かれていない息遣いや衣擦れといった「もの」にまで現実感覚を拡げられてしまう。だからこそバロック期の絵画表現として描かれた物語は過ぎ去った時間に古びれる事なく、今もなお続いている。鑑賞する側がイメージという虚構に自発的に飛び込み、勢いそのままにどこまでも沈んで溺れてゆける。
三
三菱一号館美術館で開催された『コンスタブル展』でも感じたように、『美の巨匠たち』展で鑑賞できたジョン・コンスタブルが描く風景画『テダムの谷』の画面には外界の生命を描き切ろうとする画家の意思が隅々にまで及んでいて、額縁を破壊せんとばかりの情報過多としてこの目に飛び込んでくる。なのに時間をかけて見れば見るほどにその過剰さは薄れていき、画家が切り取ったその瞬間の記録として馴染んでいって、最後には満ち足りた気持ちとセットになって印象深い記憶として収められていく。
かかる境地にまで至ると単体で見れば淡く消え行きそうな光景のゆらめきに、情感たっぷりの時間を味わえるはずのジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー氏の『トンブリッジ、ソマー・ヒル』の表現が実に物足りなくなる。同時代にあってライバルと目された画家二人の、それぞれの表現の相性の悪さは半端じゃないと心から思ってしまう。
映画やアニメ等においても想定されるカメラ位置が体現する抽象的な人物の内側に収まり、そこに重なろうとする個々の鑑賞者の欲望に熱せられて感情的要素を織り込める風景画というジャンルに眠る発展可能性を両極端な画家の名画で広げていく試みと考察に対する興味は尽きない。
四
決して売れっ子の画家ではなかったからポール・ゴーガンがタヒチで出会い、心酔して絵筆に乗せていったプリミティブな色彩表現に対して新規性に基づく市場評価への期待が無かったとは思わない。『三人のタヒチ人』の中心を成す男女の数と立ち位置又はその関係性を想像させる視線の合わなさに加えて、二人の女性が手にするものの対比(実りある重さといつか枯れる美しさ)は間違いなく観る側の関心に働きかける画家が施した工夫だろう。
しかしながら、それでもかかる一枚に覚える情動の源は三人の男女が生きているその「世界」の原色ぶりにあると筆者は思う。現実に存在しただろう、タヒチのある風景を鷲深みにしてその内心に取り込み、思うままにかき混ぜて発色した固有の原風景は写実の地平を力強く踏みにじり、目眩を覚える程の匂いと程よく汗ばむ体温ばかりを伝えてくる。
望むままに描けばいい、と安直に述べたくなる表現主義ないし象徴主義の核心は各作品を分析して打ち立てることができる評価軸からその絵筆を逃しつつ、観る側が好き勝手に発する言葉を遡らせて各々を衝動的な感覚に舞い戻らせる、その為の全体的な完成度を人知れず達成できるだけの強いヴィジョンを持ち続ける点にあると考える。かかるヴィジョンは実際にはとてもコンセプチュアルなものだったり、誰にでも描けそうなぐらいに簡素化された筆致だったりと様々な形を取るのだろうが、いずれにしろ「その人にしか描けない」という個性として観る側に訴えかけてくるレベルにまで至ると筆者は想像する。その個性も、人によってはこつこつと学び実践してきた理論の滋味に裏打ちされたものであったり又は天性の身体感覚に支えられた「世界」の表現であったりして異なる出自がひしめくカオスな土俵となり、表現主義ないし象徴主義の突出した勝負所と大衆性を獲得するのだと考える。
五
画家が懸命に描いたものに対して当然に興味を抱かない鑑賞者の冷たい目に晒されても、決して失われない確信と勢いをその額縁内に湛える。観る側の焦点を信じ切った身の捧げ方を窺わせて、その視線だけは遠い未来の先を見据えている。
幼い手によって成された切り絵の如き不整合さをモチーフに託し、何だろうと不思議に思う者の意識と興味に乗っかって朧げな形が段々と輪郭を得ていくナビ派に属する画家、エドゥアール・ヴュイヤールの『仕事場の二人のお針子』は正解となる「絵」に辿り着く道だけが示されないから、次第にお針子が身に付ける衣服とその手で縫われる生地とが等価性を獲得し、双方を識別する意味を見出せなくなる。その結果として『仕事場の二人のお針子』は労働の絵というより布地の色味と意匠の関係に注目したい一枚としてアンリ・マティスのそれと並び、筆者が好きな表現としてお気に入りのラインナップに加えられる。
ここから先に待っているだろう、抽象絵画の表現がときに激しくその存在意義を問い、ひいては立体的にも暴れ回って破壊せんとする額縁内にあって探求されている表現の「自由」は人の認識というフックに掛けられ、表現するものとそれを観る者との間を揺れ動いている。
ここで守られるべき線引きは、自由を求める進歩的表現のやり過ぎを抑制する何某かのストッパーとして機能しているだろう。かかる機能がある事自体を消極的に評価する意見には十分に耳を傾けつつも、表現方法の一つである「絵画」そのものを瓦解させ、二度と戻せない所まで踏み込むやり方に向ける疑念を払拭できない一鑑賞者としては人の認識に関する知識経験に腰掛けた議論を好んでしまう。
絵を描く時に用いる道具とそれらに働きかける人の営為があり、その結果としての表現作品を鑑賞して思いを抱き、思考を触発された者が言葉にし又は行動することで生まれる意味内容がある。それらが独特なやり方で各人の「世界」を編んでいき、決して他人が知り得ないはずのその形を情報として伝達することを可能にして、一般的な理解という土台の上で固有の「世界」同士の接触というあり得ない奇跡を演出する。集約された情報を統合するだけだったはずの観測地点から始まってしまったこの「私」が見つけてしまい、感動してしまう事実の数々に納得して付与できる見方ないし考え方の枠組みは、こうして制約であると同時に発展可能性の素材となる。勿論、かかる枠組みを絵画の額縁と同視する短絡を行うつもりはない。けれども一つの信念として、そこに書かれていないものを物理的に担保する要素を決して見失ってはならないとここに記すことを自分に許す。
限りある、偏った「世界」でいい。そこでこそ燃やせる表現の明かりは立ち上る煙と共に天上の瞬きを教え、見えない暗がりに潜んだ意思あるざわめきと出逢いをきっともたらしてくれる。
五
調べれば、決して順風満帆とは言い難い人生を送った画家たちの人生の節目として並べられる各作品の顔つきないし景色の記録から、生活の糧として描かれ売買の対象となった商品としての器からはみ出るを見つけるのは容易い。ただそれを指で掬い、その感触を伝える事の難しさに悶える言葉の身の丈と、自身の分からなさに格闘する。この瞬間に閃くものの輝きが発見困難であると同時に無常の喜びになってくれる。
この挑戦をあの名画を前にして行えるのだから、『美の巨匠たち』展を勧めない理由が筆者にはない。
ライト