おとなふかみもすきずき

二度なかず

 バイパス道路といったら聞こえばかりはたいそう立派だが、住宅の少ない山の真ん中を切り開いたのが実情である。
 昼夜を問わず車通りの多い片側三車線、アスファルトの舗装は、そこかしこにひび割れが見える。車中から周辺を見回すと、広大な駐車場を有した遊興施設の背景に、もっと広大な田畑と野山と雑木林とが広がって、高台に建つ数軒の家々は瓦屋根ばかり、どれも、古くからの地主の表札なのだという。
 運転席から流れ出る父親のうんちくを聞き流して、亜衣子は結局、制服じゃなくてよかったと思った。道を外れたが最後、名も知らぬ草がぼうぼうのこんな場所では、あっという間に蚊やあぶの餌食になってしまう。履いたジーンズの腿がむずむずとして、亜衣子はなんとなくさすった。虫刺されの膝では新学期のプリーツスカートがみっともない。
 そも、今日を含めてもあと三日は春休みなのだから、制服なんて着る必要はなかった。出がけに母親から渋い顔をされてしぶしぶ着替えずとも、そんなことは亜衣子だって知っている。けれども、では母親のほうはどれほど知っているかといえば。
 休日に私服で同級生に鉢合わせる――彼や彼女らは朝の帯番組で見かけたファッション特集を思い出し、SNSで話題の着こなし術と亜衣子とを見比べる――。
 助手席に預けて揺られる背中がじとりと気持ち悪さを増す。政治より株価よりなにより、級友の目こそ世界を揺るがす一大ファクター、それが中学生。恐慌を避けるためなら適当な理由で休日に制服を着るほうが、ほんとうはなんでもないのだ。
(だから仕方ない)
 フロントガラスの先へ目的地が見え、亜衣子の口元から溜息が漏れる。正直、もう少し誰に見られても構わない感じになってほしい。だけど仕方ない、なにしろ亜衣子には未曾有の危機だから。このあたり、死に体の前髪を三日後までに助けてくれる場所はほかに無いのだ。駅前のビルの上層階に入った眺めのいい店は、とうに予約が埋まっていて急患の滑り込む隙もない。
 薄く汚れた助手席の窓、うっすら映る影を頼りに亜衣子は額を撫でつける。つくづく、嵐の日に前髪なんか触るものじゃなかった。今朝の自分にため息が止まらない。納屋の荷物が崩れ落ちた音にびくりとして、手元が狂ってこのありさま。最近ずいぶんと風が強いからあれほど、気を付けておいてって言ったのに。四年前に新築した母屋でさえ屋根の飛びそうな、台風みたいな轟音の風がこのところ何日も続いている。今日だってそのくせ、妙に空の色だけは清々しいから亜衣子は妙な心地がする。
「じゃ、息子のほうによろしくな」
「いいから。仕事行きなよ」
 路肩で車を降り、父親にはそっけなく手を振る。踵を返したところでびゅうと風が、山から吹き下ろして、格好の付かないおかっぱみたいな髪をぐしゃぐしゃに撫ぜていった。あれほど苦労して寝癖を直したことを思えば、まるで自分以外のなにもかもが自分の世界を滅ぼしにやってきたような、すさんだ気分が亜衣子の胸中を支配した。
 誰に見られたら、彼に見られたら、お店の人に見られたら。せめて誰とも会わないうちにと、陰鬱な気持ちでドアを押す。向こう側へとするりと開いた店の扉は、ふた昔前のトレンドをがっちりと掴んで離さずに、白いペンキの端々が剥げていた。チリリン、とレトロな鐘が鳴る。傍にはトリコロールの看板がくるくる、くるくると回っている。

 入り口脇のカウンターで亜衣子が名前を告げると、女性スタッフが名簿らしきものをぺらりとめくる。指の先にはラメ入りのきらきらとした、薄いグリーンの春らしいネイルチップが綺麗だ。見たことのない顔に亜衣子は少しだけほっとした。なにしろ亜衣子が二歳の頃から連れて来られている床屋だ。顔見知りのおばちゃんに、あらまあ大きくなってとコロコロ笑われるのが常で、その常こそ亜衣子には避けたくてたまらないものだ。
 コートのボタンを外しながら、新しく人が入るなんて珍しいな、と亜衣子は思う。こんな片田舎のさびれた床屋に、と付け加えるのを忘れない。店舗の古さはともかく腕はいいんだぞ、と父親は言うけれど、ここの店長と亜衣子の父とは四十年来の付き合いだそうだから、はいそうですかと鵜呑みにはできなかった。
「担当は永合(ながい)ですね」
「あ、はっ……い」
 声をかけられたとき亜衣子は、ぼんやりと外の風の音を聞きながら、帳簿をめくる指先とささくれだらけの自分の手とを見比べることに夢中だった。返答が裏返ったのを誤魔化すよう、前髪を撫でつける。スタッフのほうは気にしたふうもなく、亜衣子へ待合スペースを勧めた。
「お荷物お預かりしますね。少しお待ちいただくと思いますが……」
「大丈夫です、ぜんぜん」
 促されるままにコートを脱ぎ、座面の低いソファへ腰を下ろす。亜衣子よりも年長らしきソファは軋む音すら立てずに深々と沈み込んで、途中でようやく止まった。背後の大きな出窓は風に煽られ、がたがたと小刻みに揺れていた。補強とか色々、大丈夫なんだろうか。帰宅までに店が吹き飛ばないかどうかに亜衣子は不安を覚える。
 バーバー永合は、今日のバイパス道路がおおよそ道路とは呼べなかった頃から店を構える床屋だった。一説によれば、道路建設のための立ち退きでずいぶんな額をふんだくって、現在の場所に店を建て直したのだとか。真偽はともあれ昔の話、件のバイパスだって近年はひび割れが目立つ。ところどころの錆びた看板を前にしてつい、あーあ古い床屋だなあ、と思ってしまうのは、なにも、亜衣子が現代っ子だからというわけではないはずだ。
 待合スペースにはつぶれた三人掛けソファのほかに、ガラス製のローテーブルが一つ。上に雑誌が散らばって、せっかくの透明な素材感が活かされていない。並んだタイトルはファッション誌のほかに旅行ガイド、ビジネス雑誌、下世話な見出しの週刊誌、読み古された風体の漫画などなど。取り留めのなさがいかにも田舎の床屋だ、と亜衣子は思う。田舎の床屋の例をほかに知らないし、都会的なサロンの実例も見たことはないけれど。
 癖でポケットを探ろうとして亜衣子は、あ、と小さく声に出した。コートごと、入れたままのスマートフォンまで預けてしまったのだ。一度コートを取ってもらおうかと先ほど受付にいたスタッフを探してみるけれど、奥へ入ってしまったのか見当たらない。見知ったおばちゃんが電話に出ているのに気付いた亜衣子は、中途半端に手を掲げ――二秒ほど迷ってから、雑誌の山へと手を下ろした。見栄を張った指先が、興味もない紙の山々を分け入ってゆく。

 上にも下にも不格好にならない対象年齢の雑誌を手に取って、亜衣子はソファへ、より深く腰掛け直した。広告だらけのページを飛ばし飛ばし顔を上げると、店内の様子がよく見える。男性の美容師が一人、たったいま接客を終えたところだった。
 鏡越しに客と目を合わせてにかっと笑う横顔があり、胸元のネームプレートに「永合」と手書きされている。目じりに寄った皺のくぼみに、亜衣子は表参道の木陰を見る。
 永合、というのは『バーバー永合』の店長の息子である。
 息子といっても、店長のほうは一昨年に腰を痛めて以来、昔なじみの常連相手にしかハサミを振るわないから、最近では「永合」と言ったらもっぱら、この息子のほうを指した。歳は三十代半ば、そこそこ。店長がずいぶんと若い時の子どもだという。亜衣子も、記憶にないほどの幼い頃は何度か遊んでもらったと聞く。
 ひととおりの片付けを終えた永合が亜衣子に気が付き、ふと首を傾げた。
「あれ、亜衣子ちゃん。二時からだったよね?」
 ちらりと壁の時計を見れば、短針はやっと「1」に辿り着こうかという頃だ。亜衣子はかっと顔が熱くなるのが分かり、とっさに前髪を二度、三度ほど手で梳いた。
「すみません父が、送ってくからって聞かなくて。仕事に合わせてむりやり」
「あはは、心配だねお父さん。おれは全然いいけど、少し待ってもらっちゃうな」
 カット用の椅子が五、六席ほどの店内も、大人の男性の足では数歩で寄ってこられてしまう。撫でつけていた前髪をそのまま、無駄な抵抗と知りつつも亜衣子は手で押さえた。どうせ小一時間もすれば、六つの椅子の一つへ収まっててるてる坊主のようになり、両手の自由も利かず、絶望的な前髪を鏡面へと晒すことになるのに。
「ごめんね。実は一時からも予約が入ってて」
「いいんです。春休みヒマだし」
「そう?」
 こういうとき父親なら、あるいは店長なら、おばちゃんなら、すかさず「クラスの子とデートとか、ないの?」なんて気品の欠片もない、ジョークのつもりの何かを飛ばしてくる。田舎はずけずけと子どもを町の持ち物よばわりして理想像を押し付けるものだ。まっすぐな髪が子どもらしいだとか。他方、クラスでは、前髪が短すぎるのはださいだとか。亜衣子には、永合がそれをしないというだけで、彼のことがすいぶん都会的に感じられた。
「永合くーん、ちょっといい?」
「はーいただいま」
 永合が店内を振り返る。ふわりと、香水と整髪料のまじった香りがする。すらりと高い背丈に、くっきりとした目鼻立ち、真っ黒な髪の毛先を無造作に遊ばせていても、担任の天然パーマとは違う。
 少し前まで、永合は東京――亜衣子には原宿も渋谷も表参道も同じなので詳細が分からなかった――のサロンに勤めていたらしい。ふらりと実家へ戻って床屋の店先に立つようになったのは一年ほど前のことだ。ちょうど、店長がぎっくり腰の二回目をやった時期とも重なるので、亜衣子も、父親が「これでアイツも安泰だなあ」としきりに言っていたのを覚えていた。
「じゃあ亜衣子ちゃん、ゆっくりしててね」
 あいまいに頷く亜衣子は、少なくとも永合に関しては信用している。受け売りによれば彼が来てから店の売上は上々ともいうし。地元タウン誌にも『話題のサロン』として取り上げられていた。「あそこだって雑誌に載るくらいなんだから」とは今朝の母親のセリフで、結局、亜衣子を決定的に宥めたセリフでもあった。
「そうだ。外、まだ風強かった?」
「え? あ、びゅんびゅんしてます」
「そっか。うん、頑張らないとな」
 永合の後ろ姿に、今度は亜衣子が首を傾げる。売上で店の建て替えでもするつもりなんだろうか、とぼんやり、窓枠の軋みを聞きながら思った。腰掛けたソファはうんともすんともいわない。

 予約の客が姿を現したのは、一時から五分と少し遅れてのことだった。
 ちりりん、とドアベルが鳴ったので亜衣子はそちらを見、すぐ、ぱっと手近な雑誌を掴んで顔の前へ掲げた。何も後ろめたいことなどないのに、身を隠さなくちゃいけない気分になる。そのくせ怖いもの見たさ、おそるおそる雑誌をずらして、亜衣子になど目もくれず受付に立った彼女を観察する。
 ぎょっとするほど量のある、とても長い黒髪だ。
 髪の毛そのものが、まるで躍動する生き物さながら。よく言えば、ふわふわの、あけすけに言えばぼさぼさの。体積だけでヒト一人分はありそうな、それが小柄な女性の腰よりも下まで――膝裏が見えるかどうかの位置までも伸びている。「ロング料金……」と亜衣子は口の中で呟いた。外は強風とはいえ、いったいどれほど振り乱せば、こんなボリューム満点のヘアスタイルが作れてしまうのか。その存在感といったら、目にした側が申し訳なさを覚えてしまう。
 女性客はいかにも重そうな髪を引き摺る格好で、これまた重そうな口をわずかに開き「しい」と声に出した。
「一時から」
 俯き加減でぽそぽそと囁くような喋り方をする。遅れてきたわりに悪びれる気配もなくて、亜衣子は少しだけ眉をひそめた。
(しい)様……(しい)那津子(なつこ)様ですね。お荷物お預かりいたします、奥へどうぞ」
 亜衣子はそこでようやく「しい」というのが彼女の名だと気が付いた。
 椎と名乗った女性は、白いロングのカーディガンと、財布に紐を付けたような小ぶりのショルダーバッグをスタッフへと預けた。上着を脱いでもさらにまた白く、丸襟のブラウスは染みも翳りもない糊の利いたオフホワイト、くるぶしまで丈のあるワイドパンツは白雲のごとき柔らかさだ。やぼったく長すぎる前髪で目つきはまったく分からないけれど、耳に掛けた隙間から除く頬が雪のように透けて、亜衣子はヘンにぎくりとした。唯一、ローヒールのパンプスだけが赤く、なぜだか、夏祭りで履いた下駄の鼻緒を思い起こさせる。
 亜衣子は彼女から目を離せず、ページをめくるフリで誤魔化しながらちらちらと姿を追い掛ける。ぶあつい髪の壁に阻まれているおかげだろうか、じっと他人の背中を見るなんてことが今日は平気だった。
「椎様、よろしくお願いします」
 永合の呼びかけに椎はにこりともせず、並んだ座席の一番入り口側へと促されて腰を下ろした。亜衣子の腰掛けたスペースからもよく見える場所だ。
「上座」
 椎は何か、ぽつりと声に出した様子だったが亜衣子にはよく聞き取れなかった。
「すみません、おれが下っ端なばかりに」
「稼ぎ頭だろう」
「新入りは新入りですよ。風のうわさで何を聞かれたか分かりませんが」
「う、わ」
 声を上げたのは、いましがた店を出ようとしていた客だ。セットされたばかりのストレートヘアが無残にも乱されている。店内の人は誰もが驚いてそちらを振り向いた。山からの風がひと際強く、びゅうん、と店の北側へ吹き付け、摺りガラスのはめ込まれたドアを開けた人間ごと煽ったのだ。
 亜衣子がちらと振り向くと、背後の大きな出窓から外の荒れ狂う様子が見える。バイパス通りを流れる車両こそなんでもなさそうな顔だが、周辺の田畑や野山や雑木林は、元の形が分からないほど風に押したり引いたりされてしまって、うねって、これで台風じゃないのが不思議なくらいだった。
「いやあ、外すごいな」
 一方、永合は結構なんでもないことのように呟くだけで、椎の長い髪を梳かしている。座れば床につきそうなほど長く、しかし永合が器用なのか、髪は一本たりともフローリングを撫でてはいなかった。
 椎にいたっては外界などどこ吹く風といった様子。にこりともぴくりともしない冷ややかな上まぶたが、ブラッシングでわずかに前髪から覗いていた。
「ご予約はトリートメントとカット、でしたね。長さの希望とかありました?」
「なるべく長く、そのまま」
「あー、軽く揃えるイメージですかね。いまは結構ばらつきがあるんで……失礼」
 永合は一言断ってから髪を一ふさ持ち上げて、自分は軽く屈んだ。
 亜衣子はソファに身を預けて永合と椎の様子を窺う。窓が終始がたがたとうるさいためだろうか、背中や足の端から妙なざわつきが首のほうへとのぼってくる。
「揃えるっていっても、これくらいは切ることになっちゃいますけど」
 椎の表情が歪む。厚ぼったい前髪越しにもあからさまで、鋭い横顔から亜衣子はさっと目を逸らしてしまう。永合はといえば、これくらい、と測ってみせた手をそのままに鏡越しの椎と目を合わせている。
「傷みのある箇所だけ切ってくれればいい」
「ええ。ですから、それが頑張ってもこれくらいなんですよ」
「……もう少し短くは済まないのか」
「残念ながら」
 ぎちぎちと椎の下まぶたに力が入ったのが分かり、亜衣子は肩から背中までが冷たい何かでぞくぞくとした。
 会話は途切れ途切れにしか聞こえてこない。けれど、少なくとも雲行きの良くないことだけは察せられる。どこかに助けを求めたくなって、さっと店内を見回した。ところが床屋のスタッフは誰も、新人から顔なじみまで誰もが、まるで永合と椎の不穏な気配に取り合わない。
 始め、亜衣子はスタッフたちが無視しているのだと思って――それにしてはなんだか、おかしいことに気が付いた。受付の彼女などいましがた確かに店内をぐるりと見ていたのに、その視線はまるで、永合と椎の席をまるごと素通りして何もそこにいないみたいに見える。
 亜衣子は雑誌の端をぎゅうと握りしめた。気味悪い汗が手首からひじへ伝う感触はあったが、拭おうにもまるで金縛りのように身体がぎこちなくなって、背後からがたがたと窓枠を揺さぶる風だけが聞こえてきていた。恐ろしくて、店内の物音に耳を澄ます。永合は目じりの笑いじわと口元の笑みを絶やさなかった。椎のほうはぶつぶつと低い声をその場に落とすばかりで、やはりよく聴こえなかった。
「全体的に傷みは目立ちますんで、ほんとうを言えばもっと切らせていただきたいんですけどね」
「だから、とり……」
「トリートメント補修でなんでも元通りってわけには。木の皮も、すっかり這いじゃったら前と同じにはならないですよね。似たようなもんなんで」
「……」
「本気で長さを保つなら、もう少し定期的なケアが理想ですよ。けどそこは、椎様に限って、ちょくちょく来られるのは至難でしょうから」
「三寸も切れと?」
「一寸だと伸びるまですぐ、ですよ。来月にも降りて来ていただかないと」
 椎の目が見開かれる。かっと大きく、こぼれそうなほどに眼球が飛び出て、こめかみの血管が、びきびきと音でも立てそうに浮き出ていた。亜衣子は心臓の奥からぶるりと、震えを伴ってこみあげた何かが口から出ていきそうになるのを、ぐうっと喉元で飲み込んだ。手にした雑誌がぐしゃりと鳴る。音にはっとしてページをめくる。あわてて膝の上に目を落とすと、俯いたつむじの上に針のような視線が刺さり、鋭い痛みの錯覚に頭が割れるような耳鳴りを覚えた。
(見られてる)
 見られている。
 顔を上げられない。
 つむじが痛い。
 初夏の甘辛MIXコーデの特集を食い入るように見つめてからどれくらい経っただろう。ふいに身体が楽になり、亜衣子はぱち、ぱち、と恐々まぶたを動かした。紙面にはぽとりと冷や汗が染みを作っていたけれど、骨があちこち軋む感触を覚えつつ顔を上げると、急な悪寒に襲われてからほんの二分も経っていない。解放されて初めて亜衣子はそれが悪寒だったことに気が付いた。
 相変わらず、店内の人は皆素知らぬ顔して当たり前に時が流れている。
「長い方がいいと言われている」
 椎も寸分違わぬ――来店時の冷ややかな表情のままに鏡を見ており、永合もまたその傍らに立ちながら、とても人の手には負えない量の髪をそれでもブラシで梳いていた。
「へー。そりゃあまた誰に」
「馬鹿にしているのか」
「えっとんでもない! 純粋に訊ねてるんですよ」
「それは髪結いに要りようか?」
「必要なことしかお聞きしません」
「は。よく言ったもの」
「お店にいてくださる限りはお客様です。外に出てのことは、踏み込まないのが僕のルールですから」
「……ほう」
 そこから椎はしばし黙って、じっと髪をけずられてだけいた。表情からは薄い冷笑のようなものが消え、かといって、やわらぐでもなく、ただぼうっと鏡の中の自身を見つめ返しているようだった。
 亜衣子は今度こそ雑誌を読むふりを決して中断すまいとして、2week着回し対決の見開きを舐め回しながら二人の気配に耳を(そばだ)てた。
「人の顔など忘れたよ」
「昔のことなんですね」
「昔も昔。どれほど長くともこの髪に、土の付くことはなかった……。先をくるくると振り回して遊ぶ子どもが、いくらでもいた頃には」
「それは、ずいぶん叱られたんじゃ」
「さて、人の事情はなんとも。つむじ風に気を付けなさいと、親の声が飛ぶのはよく聞いたが」
 かたかたと出窓が音を立てている。紙をめくった動作が想像よりも店内に響いて、亜衣子は背筋がひやりとした。視線の刺さってくる様子はない。
「それらしい、と幾度も言われたよ。長い方が箔の付くものだとな。分からんでもない、なにしろカミというくらいだ。どっちが先かは定かじゃあないが、そんなのはいいんだろう」
「はあ」
「願掛けだの縁起だのと。どうせ、少し整えたところで気付くわけもなし」
「ああー……言った人はあんま気にしてないやつを、真に受けちゃって引き摺るパターンですか」
「度が過ぎるぞ」
「いえ、すみません。真面目だなって」
「性格ではない。生まれつきよ」
 外からは空気の悲鳴じみた声が、びゅうんびゅうんとひっきりなしに聞こえている。亜衣子は振り返らなかった。紙面ではお悩みコーナーが、おとといのネットニュースと変わり映えしない話題で占められている。
「椎様はどうされたいんです?」
 ひと際大きく強く北側で風が吹いた。それから一瞬ぱたりと静かになったから、亜衣子は、永合がなんてことのない声で言うのを、よく耳で捉えることができた。
「ご事情は色々ありますよね。あんまり僕は、それを根掘り葉掘りはしません。だから、椎様がほんとうにどうしたいのかは、椎様から言ってもらうしかないんです。注文通りできなかったときは僕の責任ですが……そもそもの注文がミスってた場合、それはお客様のせいってことになるんで」
 ぱちりと、椎のまつ毛が瞬くのを亜衣子は聞いた気がした。思わず顔を上げてしまう。刺さるはずの視線は彼女自身の毛先へ向いている。
「客の注文が世間に違うとしても、か」
「それはもちろん。僕は世間様の注文を受けているわけじゃない」
 永合の目じりの片方にだけ皺が寄った。
「外の誰かのことは分かりません。ここにいる間だけがお客様で、お客様はカ」
「いい」
 椎が右手を持ち上げて話を遮る。亜衣子はつい身構えてしまったが、窓の外はいくらか静まった風が流れ始めるだけで、喉元から何かがせり上がってくることはなかった。
「分かった。任せる」
「光栄です。それで、ご注文は?」
「二度も言わせるな」
 ふ、と椎は鼻を軽く鳴らして目を伏せ、それから
「傷んだ分だけだ」
「かしこまりました」
と、あとは三〇分あまりで床が見えなくなってしまった。

 白いロングのカーディガンが、裾を軽やかにはためかせていた。パンプスはヒールの低いエナメルで、神社の鳥居にもそっくりの、目の覚める朱色。会計に立つ彼女の背中を、亜衣子はゆっくりと目で上へ追っていく。薄い背中からうなじまで辿り着くと、白い服の襟から上でいっそう白く、雪解けのうなじが晒されている。
 惜しげもないベリーショート。カット前を知る人なら、誰もが呆気に取られてしまうだろう。現に、小銭の数を数えながらも、カウンターに立つ店員の目線があちこち落ち着かない。
 あれほど在った髪はわずかに頭部の周りだけを残して床へ散らばっていた。永合ともう一人、二人がかりの掃き掃除でもなかなか片付かないようだ。
 襟足から頭頂部にかけての穏やかな丸みが、コシのある髪質と相まって、ふわりと空気を含むシルエットになっている。やや長めに残された前髪は自然にサイドへと流され、切れ長の瞳がよく見えながらも、どこか謎めいた印象を残す。
(なんだろう、なんだか――)
 亜衣子は息を呑んだ。
 口の中がからからに渇く。喉のあたりが熱くひりつく。視界がちかちかとする。
 首元で楽しげに遊ぶ毛の先に、雑誌で見たのともテレビで眺めるのとも違う、都会の木漏れ日のような、同級生の一様な前髪とも違う、雑木林の枝葉のような、瑞々しさがあって、飲み込まれそうに、ただ立ち尽くす心持ちになる。
 待合スペースのソファに春の身をどこまでも沈めながら、心はさながら、納涼祭の夜に迷い出た鳥居の前にいて――。
「今日はありがとうございました」
 は、と亜衣子は我に返る。モップの柄を握る永合が、帰り際の椎へとかけた声だった。
「またいらしてくださいね」
「ふ、これだけ軽いとなあ。当面先になりそうだ」
「はは。せめて僕が生きているうちに頼みますよ」
 永合も冴えない冗談を言うのか、亜衣子は目を丸くする。その上、椎がぐいと永合に顔を近づけてまじまじと覗き込むから亜衣子はいっそう目を丸くした。椎は永合の、髪から頭から足から、何から何までじろじろと眺め回している。
「おまえ、どれにでもそうなのか」
 椎が何事かをぽそりと言った。
「と、言うと?」
「じき食われるぞ」
 半歩ほどの距離しかないのに、二人が何を話すのか亜衣子にはまるで聞こえてこない。
「その見目でこの振舞い、あちらこちらまで聞こえている」
「買いかぶりですよ」
「山向こうの蜘蛛にでも知れてみろ、食いでのある男に目がない。特に、手首の骨が好いそうだからな」
 気になって身を乗り出した亜衣子は、店の奥の鏡に映って、椎の目元が一寸だけ和らいだのを見てしまった。
「大事にしろ。いい腕だ」
 低めのかかとが床を鳴らす。やらわかな裾は霧散するように。亜衣子は瞬きを繰り返す。振り向いた口元の真っ赤な艶紅が、鳥居と同じ色だと気付くのに夢中で、茫然としたうちに彼女がドアベルの先、どこへ行ったのか、目で追いもせず。
「――い――ちゃん、亜衣子ちゃん」
 ふと気付くと、永合がしゃがみ込んで亜衣子を見ていた。
「待たせすぎちゃったね。すぐ案内するよ」
「いえ。ぜんぜん……」
 亜衣子は時計を見上げる。短針はやっと「2」に辿り着くかどうかの頃である。
「さ、こちら手前の席にどうぞ。今日は全体的に整える感じだったかな」
 ぱちぱちと、すぐ近くでまつ毛の音がした。亜衣子は自分の姿を鏡の中によく確かめ、それから永合を振り返って注文を付けた。
「前髪、もう少し短くできますか?」

(了)
某賞への応募作
エブリスタにて2021.12.2投稿済

おとなふかみもすきずき

おとなふかみもすきずき

昔の流行をそのままの、さびれた店構えの床屋を訪れた亜衣子。前髪を切り過ぎずに済んでいたら、わざわざ、こんな店には来なかったのに。 亜衣子が憂鬱な気持ちで順番を待っていると、おそろしく髪の長い女が来店する。ほんの少しだけ切ってくれと要求する彼女に、店長の息子・永合は「それが本当にあなたのご注文ですか」と問いかける。 少し不思議な床屋でのお話。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-06-27

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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