6600ボルトの友情
「電線を綱渡りして、日本一周するんだ。」
金田がまたワケのわからん事を言い出した。学校で唯一の友人がこんな奇想野郎だと思うと、なんだか悲しくなった。
「アホか。そんなのできるかよ。」
金田は妙な笑みを浮かべて思わせぶりに首を振った。
「できるさ。できるように考えてある。まぁ、ちょっと聞いてくれや。」
そういって語りだされた計画は荒唐無稽もいいところで、話の途中で突っ込むのを何度も抑えた。大演説を終えると、誇らしげな顔をして、俺に尋ねた。
「どうだ?」
答えは言うまでもないこと。
「アホかおまえ。」
夏休み。惰眠を貪るのにも疲れ、何か面白いものでもないかとテレビを点け—飲みかけたお茶を吹きこぼした。
金田がいた。金田が電線綱渡りを敢行していた。大きなリュックを背負い、奇妙な形のバランス棒—巨大なS字フックのような鉄棒だった—を手に電線を歩んでいた。
地方局のアナウンサーが興奮した様子で状況を伝えている。
「本当にやるやつがいるかよ…。」
呆気にとられて画面を眺めていると、後ろから母親がやってきた。
「これ、金田君?」
「そう、ちょっと前に言ってたんだよ『電線を綱わたって日本一周する』って。」
「実際にやっちゃうなんて、すごい行動力ねぇ。」
「あいつバカだから。」
『少し出てくる』と玄関に向かう母親の声を背に受けながら、俺はひたすら画面に見入っていた。—馬鹿げてる、正気の沙汰じゃない、何らかの法に触れてるんじゃないか?—しかし、これまでに見たことの無いような真剣な顔をして歩みを進めるその姿に、不本意ながら敬意さえも覚えた。
金田の蛮行がテレビで放映されるや否や、地方局とは思えないような拡散力を以って全国区に伝播した。SNSでの目撃情報、話題に敏感な配信者を嚆矢に、全国放送のテレビ局までもがこぞって彼を取り上げた。
ツイッターを見れば、電線の上でポーズを決めた彼とのツーショットや、器用に食事をとる姿がタイムラインに流れた。インスタグラマーが彼にちょっかいをかけて大炎上し、ワイドショーではハゲて眼鏡をかけたおっさんらが、若者による権力への反抗だのなんだとのたまっていた。ネットの隅っこでは、『迷惑行為じゃないか?』、『彼が落ちた時、だれが責任をとるんだ?』なぞと陰険な議論を交わしていたが、世間の皆々は金田の歴史的奇行を応援し、そして見守っていた。
彼の旅が半分を超えようとする頃には、その存在は海外にも伝わり、日米の外交官間では彼を題にとったジョークが流行した。SNSを中心にキャラクター化され、ファンアートが描かれた。めざとい業者が売り出したグッズは瞬く間に完売し、転売屋たちが暴れまわった。資本家たちが彼についての賭けを行い、彼の歩く電線の下には大量の護衛車が配備された。天皇陛下がゴール地で彼を迎えるなんて噂すら流れた。
どこもかしこも金田金田、しょうもない日陰のほら吹きが一躍、全国のアイドルとなってしまった。
彼の行く先には出店が立ち並び、事情を知っているかも怪しい中国人たちがパチモンのグッズをさばいている。
上を見やると、青い空を両断するように引かれた一本の糸、その上を人影が往く。すっかり日に焼けて、髪もヒゲも伸び放題。まるでどこかの原始人みたいだった。
爆発のような歓声に迎えられる彼の姿をみて、胸の中に何かが芽吹いた。それは俺の鬱屈を養分にすくすくと生長し、やがてドス黒い花を咲かせた。
—負けてられるか!
ホームセンターで買ってきた縄を車庫の両壁に渡して、簡素な電線もどきを作製した。金田の動きを思い描き、その動きをなぞるようにして足をかける—あえなくすっ転んだ。腰をしたたかに打ち付け、三時間ほど悶えた。痛みの治まってきた所で再挑戦。日が暮れるまで練習を続け、何とか縄の上に立つことができた。しかし達成感はない。こんな亀みたいな歩みでは、金田に追いつくことはできない。夕食を手短に済ませ、ふたたび練習に打ちこんだ。
人生で初めての努力だった。いつも人のしていることを見ているだけ。斜に構え、批評家気取りの視線を投げかけるのが常だった。何が俺を突き動かすのか?——嫉妬?いや、それだけじゃない。怒り、自尊心、承認欲求…憧憬。
中学から五年の付き合いだ。金田とは肩を並べて歩きたい。同格でありたい。なんなら俺のほうが優れてありたい。処理しきれないほどの感情の濁流が、有無を言わせず俺を情熱へ駆り立てた。
わずかな睡眠と、最低限の食事の時間を除いた全てを特訓に注ぎ込んだ。
四度目の夜明けを迎えた時、俺は縄上を、蛇のような自在さで動き回ることができた。泥のように眠り、目覚めたときには、もうひと夜あけていた。
食料、水分とその他もろもろをリュックに詰め込む。テレビでは相変わらず金田が映っている。旅の行程も残すところ三分の一となり、観客たちの熱狂はいよいよ高まりを見せていた。
俺はテレビの電源を切り、家を出た。
開始地点は決まっていた。金田が出発したであろう場所。電柱によじ登り、金田とは逆の方向へと足を踏み出した。
電線は思った以上に張りが弱く、危うく一歩目から振り落とされるところだった。心を落ち着け、腰に力を入れて姿勢を安定させる。大きく深呼吸してから、足を前へと進めた。
まもなく俺の綱渡りも世間の知る所となったが、その反応は冷たかった。パクリ、折角の盛り上がりに水を差すな、おまえなんて誰も応援しない。四六時中、下八方から罵詈雑言を浴びせかけられたが、そんなものは俺を突き動かす炎を前にチリも同然だった。もはや二十一世紀の英雄となった金田を思うと、それだけで心が奮った。
前方に屋台の立ち並んでいるのが見えて、金田との対峙が目前であることを知らせた。下のほうで誰かが叫ぶ。
「目的はなんだ?サル真似野郎!」
目的?俺の目的は戦うことだ。金田と、これまでの自分と、俺の生きるこの世界と!誰が何と言おうが知ったことか、俺のことは、俺だけが分かっていればいい!
—しかし金田よ。おまえは、どう思うだろうな?
視線を上げた先に、金田はいた。
「おい嘘だろ…、藤木か?」
金田は目を丸めて呟いた。口元は喜びにほころんでいた。
「お前の活躍を見てたら、居ても立ってもいられなくなってな。すごい人気じゃないか。」
「ほんとにな。少し戸惑ってる。」
照れくさそうに笑う金田に、思わず笑みがこぼれた。
「ただの空想家が、ナポレオンになっちまった。それに反して、俺は日々を怠惰に過ごすだけ。なんだか情けなくなってさ。一生このまま、何に心を燃やすでもなく死んでいくのか?ってさ。だから、ここにきて、お前と対峙している。この道は一方通行だ、通ることが出来るのは、二人に一人だぜ!」
啖呵を切るなり、金田に突進。俺の振り下ろした棒を金田が受けて、二人押し合う形となる。
「藤木ぃ!何も言わねぇぞ!」
金田が勢いよく押し返し、今度は俺が受ける側になる——強く足元を踏みしめ、足場を揺らす。金田のよろけたすきを縫って押し弾き、二歩後退する。
互いの視線が衝突し、火花が散った。
「ヤァーーーッ!」
こんどは金田が鬨の声を上げて突っ込んできた。俺は足を踏み鳴らし、電線を揺らす。金田はバランスを崩し、その場に立ちすくんだ。
—汚ねぇぞ!—下からヤジが飛んできて、その声を皮切りに、観客たちの感情が爆裂、無数の声がにわか雨のごとく響き渡った。嵐のような熱狂のなか、俺と金田は居合の決闘が如く、精神を研ぎ澄ましていた。
カラスが何やら叫びながら周囲を舞い始め、戦いの再開を促した。
「またどこかであったら、美味いものでも食いに行こうぜ。」
カラスがひときわ高く嘶き、観衆の声が途切れたその瞬間が合図だった。
『ヤァーーーーーッ!』
俺と金田は同時に雄たけびを上げ、相突進する。打ち下ろされた棒を受け、体制を崩さんと右へ左へ揺さぶりをかける。手元に注意が言っているのを確認し、勢い強く足払いを仕掛ける—刹那!金田の身体が視界の情報へと飛びあがり、俺の足は宙を切った。その埋め合わせのためにしゃがみ込んだのが決め手だった。空中からの
一撃が俺の頭を捉えた—脳天をぶち抜く破壊的衝撃!世界が震撼し、あらゆる色彩が目の前を通り過ぎた。
揺れる視界の中心に金田は立っている。俺は何か言おうとしたが、口がうまく動かない。それでも不器用な笑顔を作り、手をバンザイと広げ—電線から崩れ落ちた。
清々しい敗北感の中、太陽を背に段々と小さくなっていく影をただ見つめ続けた。ありがとう、わが友よ、さようなら、さようなら…。
鈍い大地の衝撃が全てを暗幕のうちに閉ざし、俺の物語の閉幕を告げた。
6600ボルトの友情