お告げ

 兵右衛門(ひょうえもん)は畑仕事を終えると家に帰り、玄関先でクタクタに疲れた体を横たえた。
(ちょっと休んだら、飯を食おう)
 しかし兵右衛門はいつの間にか眠っていた。
 足元に黒い影がいてハッとし、お前は誰だと兵右衛門は問う。影は、
「この先に、松乃湯(まつのゆ)という湯屋がある。そこへ行け」
 と言う。
「松乃湯?」
 兵右衛門は尋ねるが、影はいつの間にか消えていた。
 そこで目が覚めた。
(妙に生々しいゆめだった)
 兵右衛門は玄関先で寝てしまったことに驚きつつ、布団を敷いて再び寝直した。今度は夢を見なかった。

 翌朝、兵右衛門は松乃湯に向かうことにした。
(なんのお告げかわからんが、行けと言うなら行ってみるか)
 桶に手ぬぐい、着替えというかんたんな荷物を持ち、道道で「松乃湯はどこか」と尋ねながら歩いた。
 煙突が見え始めた。
 兵右衛門は煙突を目指した。
「ここか」
 暖簾に松乃湯とあった。
 兵右衛門が暖簾をくぐると、番頭が「らっしゃい」とだるそうに応えた。
「大人ひとり」
 兵右衛門が言うと、番頭は「あいよ」と言って大判の布を渡す。「500円」。
「いや、手ぬぐいあるからいらんよ」兵右衛門は言うが、番頭は返事をしない。何度か話しかけるが、番頭は急に耳が聞こえなくなったようだ。しかたがないから兵右衛門はお金を払い、大判の布を持って男湯の暖簾をくぐる。
 脱衣場にはひとがいて、年寄りが多かった。
 狭くも広くもなく、変哲もない湯屋だ。
 体を洗い、湯に浸かる。
(ああ。天国だ)
 すべてのつかれがとれたような、体のこわばりがすべて緩むような、そんな感覚に兵右衛門は感嘆した。
(あの影は、おれにつかれをとれと言っておったのだろうか)
 なぜそんなお告げをするのか。よくわからぬが、湯の気持ちよさに、どうでもよくなってきた。
 その日の夜、兵右衛門はとてもよく眠れた。

 次の日、兵右衛門は、畑仕事仲間の密柑(みつかん)に影のお告げの話をした。密柑は、へえ、そんな親切な影があるかといたく関心したようだった。
「それはおめの知り合いでねえのすか」
「うん。知り合いではないんだ」
「ほうか。おでの夢枕にも立っでくんねかな」
 仕事が終わり、密柑と別れると、兵右衛門は家に帰る。

 その夜、兵右衛門が寝ていると、再び影が足元に立った。
(また、あの夢か)
「次に、右と左で悩むことがあったら、右を選びなさい」
(右と左で? 一体、どういう状況だろう)
 兵右衛門は、ひとつ質問をしてやろうと考え体を動かそうとした。しかし体は動かず、声は出なかった。
(ああ。なるほど)
 金縛りだった。
 そのうち影はすっと消えた。

 兵右衛門がいつものように畑仕事をしていると、密柑が話しかけてきた。
「なあ、うちに柿が生ってたんだが、あんたぁどれがいいね」
(密柑はどこの出身なんだろう)
 兵右衛門はいつも疑問に思っているが、尋ねたことは一度もなかった。
「柿が? そうか。ありがとう」
(あっ)
 密柑は柿を右手と左手にひとつずつ持っていた。足元には籠があり、たくさんの柿が入っていた。
(ははあ……)
「じゃあ、右をおくれ」
「あいよ」
 兵右衛門は密柑から柿を受け取った。

 翌日、密柑が謝ってきた。
「すまねがったな、渋かったろう、あの柿さ」
 兵右衛門は驚いた。
「いや、甘くてうまかったよ」
 今度は密柑が驚いた。
「ほうか。や、そんならいがった」
(ふうん。甘い柿は、影のお告げのおかげか……)
 今まで信心などしたことのなかった兵右衛門であったが、どうやら影の言うことは聞いておいたほうがいいようだ、と思った。

「密柑には気をつけろ」
 ある日、影はいつものように足元に立つとそう言った。
(え? あの密柑……?)
 あんな気さくなにんげん、何を気をつけることがあるのか? 影はいよいよおかしなことを言うようになったか、と兵右衛門は訝しく思った。
(それにしても、寒くなってきたな)
 秋が深まり、人々が冬支度をし始めるころだった。家には隙間風が吹き込み、兵右衛門の体を冷やした。

「兵右衛門、兵右衛門」
 密柑が慌てたようにかけてきた。
「どうした、そんなに走って」
「ちょっと大変なんだ。うちに来てくんねえか」
(なんだか、密柑は喋り方がその都度変わるようだな)
「密柑の家に?」
「話はあとだ」
 兵右衛門はいったん仕事の手を止めると、密柑のあとをついて行った。
「家はここだ」
「ははあ」
 ふだんの密柑の振る舞い方からは信じられないほど、立派な建物が目の前にあった。
(お屋敷じゃないか)
「ほんとに密柑の家か?」
「どういう意味だ? ここはちゃんと、おれと妹のうちだ」
「はあ」
「さ、入れ」
 兵右衛門は門をくぐり、家に入ると、さらに驚いた。
(なんだか、ずいぶん豪華なようだが)
「さ、ここさ座ってくれ」
「それで、何が大変なんだ」
 兵右衛門は質問をする。密柑は座敷の下座に座り、兵右衛門に座れと促す。
「うん、うちには妹がいるんだが、そろそろ嫁がねえといけねえ歳なんだ」
「嫁ぐ? それが大変なのか」
「うちには金がねえからな、早いとこ片づいてたほくれたほうが助かる」
「金がない? いや、絶対嘘だろ。こんなとこに住んでんのに。それに片づくってのもな」
 兵右衛門はあたりを見回す。床の間には掛け軸が飾られていた。
「ほんとうだ。この家は、ご先祖さんが残してくれただけだ。あと、妹のためにも、うちにいるより誰かの家にいたほうが、いいもんが食えるんだ」
「そんでも……」
「そんで頼みがあんだ。うちのを貰ってくれねえか」
「いやいや。貰うって物じゃねんだから。それに、うちに来たって、結局貧しいんだから」
「ほんでも、妹のほうはあんたをいいと言っている」
「会ったことないよ。おれのこと、どこで見ていた?」
「物陰から、いっつも観察しよる」
「こわいよ」
「じゃあ、ここに呼ぶから」
「じゃあってなんだよ」
「おい、シヅや。シヅ」
「あい」
 ふすまがそっと開く。若い娘が、きれいな着物姿で三つ指をついていた。
(ははあ)
 確かに若くてきれいだが、少し若すぎるなと兵右衛門は思う。色が白く、病弱そうにも見えた。
「うちのはよ」
 密柑が語りだす。
「むかしから体が弱くて、なかなか貰い手がいねんだ。そんなんで元気な子どもを産めるのかと、みな心配になるらしいんだわ。でも、大事な妹だ、幸せになってほしいじゃねえか」
(まあ、兄としては当然そうだろうな)
「しかしなあ。急にそんなこと言われても」
「決めらんねよな。すまね。だが、少し考えてくれ。なんなら、一度、こいつを家に置いてくれ」
「どういうことだ」
「いったん一緒に暮らしてみるんだ。なに、だめとなったら突っ返してくれればいい」
「大事に思っているんだか大事に思っていないんだかわかんねえ扱いだな」
「うちの妹にとっても、お試し期間があったら安心だべよ」
「だけどなあ……」
 話の内容にも、密柑の喋り方にも今ひとつ納得しきれないまま、しかし兵右衛門は、シヅとしばらく暮らしてみることにした。

 兵右衛門が起きると、シヅはすでに起きていて、朝食の支度をしていた。
(なんか……家の雰囲気も変わったか……?)
 兵右衛門は自分の家を見回す。家の中は光が射し込んで明るく、隙間風も吹いていないような気がした。
「あ、おはようございます」
 シヅが気づいた。
「うん、おはよう」
 二人は机を挟んで、向かい合った。
(なんだか照れるな)
 兵右衛門はシヅの顔を見られなかった。

 朝食が済むとシヅは台所に立ち、片付けをする。兵右衛門は仕事に出る。
「じゃ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
(ほんとうに、一緒になっていいもんだろうか。密柑の頼みではあるが……)
 シヅは家の仕事をよくやってくれていた。兵右衛門は、助かる一方、シヅにとってこれが一番いいのかどうかと考えていた。
 次の日も、また次の日も、シヅはくるくるとよく働いた。
 兵右衛門は二人の暮らしに慣れてきた。こういうのも悪くない。

 夜、影が足元に立った。
「久しぶりだな」
 兵右衛門は相変わらず金縛りに遭っていた。
(なんだか、ずいぶん懐かしいようだな)
「密柑には気をつけろ」
 影は再び同じことを言う。
(気をつけろと言ったってな)
 シヅとのことを言っているのか、どうか。
 なんとかして会話する術はないかともがいたが、やはり声はでなかった。

 翌朝、目が覚めると家は伽藍堂(がらんどう)で、以前の隙間風の吹き込む家に戻っていた。
(シヅ……?)
 シヅがいないだけでなく、家の中のものがなくなっていた。残っているのは、兵右衛門の寝ていた布団だけだった。
 兵右衛門は起き出して、家のすべてを点検する。
(文机もなくなっているか……?)
 畑仕事の道具は納屋にあり、(すき)(くわ)などの道具類は無事だった。
(まあ、仕事はできるってわけだ)
 畑へ出る。
 いつまでたっても密柑はやってこなかった。
(盗人だったのか……? うちには何もないというのに)
 金目のものはほとんどなく、ただ暮らすのに少し不便になった。
(しかし……)
 兵右衛門は、シヅの「行ってらっしゃい」という声を思い出すのだった。
(なんだか、いよいよ寒さが厳しくなってきたな)
 兵右衛門は、冷えた手に、はぁと息を吹きかけた。

「だから気をつけろと言ったのに」
 影は足元でふてくされている。
(そんなこと言われても。あんたがもう少し、具体的に言ったらよかったろ)
「それができない事情があるんだ」
(なんだ? 心の声が聞こえるのか……?)
「しょうがないな。今のおまえに言ってもわからんだろうが、一応、説明しといてやろう。
 あいつらはトザマだ」
(外様……?)
「そして地球人であるおまえを、痛い目に遭わせたかった」
(おれ、なんかしたか……?)
「おまえじゃなくて、おまえの子孫がな、今後、ひどいことをするんだ」
(……?)
「あいつらは、だから過去に遡って、先祖に復讐を試みた」
(おれはなにもしてないだろ)
「そうだ。まだ、なにもしていない」
(そんなの……)
「でも、今後ひどいことをするのは決まっているんだ」
(だけどなあ……)
「納得いかないよな。密柑とシヅも、その点で意見がわかれた。だからシヅは、おまえをそこまで追い詰めなくていい方法を考えたんだ。もともとの計画だったら、どうなっていたか」
(殺されていたかもしれないのか)
「殺されるくらいで済めばいいほうだ」
(……)
「今後のことは、おまえで考えろ。密柑たちはもうここへは来ないだろう」
(どこへ行ったんだ……?)
「戻ったのさ。元いた場所へ。私もそう暇じゃないから、このへんで去る」
(あんたは一体……?)
「私か? 名乗るほどのものでもないさ」
(そういうのいいから……)
「まあ、あえていうなら、そうだな。未来の……」
 ブツッ、という音がして、影は急に消滅した。
 兵右衛門は驚いてあたりを見回す。
 影はどこにもいなかった。
(これ……夢じゃなかったのか……?)
 あの影は一体なんだったのか。
 兵右衛門は不思議に思いながら、しかしそのうち忘れてしまった。
 朝に見た夢のように。


 

お告げ

お告げ

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • ミステリー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-06-23

CC BY
原著作者の表示の条件で、作品の改変や二次創作などの自由な利用を許可します。

CC BY