四季

「おーい、陸ー! 早く来いよー!」
「やっくん、まってよー」
 夏の日差しが照りつける中、ぼくは汗だくになって走っていた。
「うわっ」
 あまりに慌てたせいか、何もないところで思いきり転ぶ。
「いてて」
 見事に正面から倒れてしまった。手を地面につき、自分の体を起こす。自分の手のひらと膝を見ると、少し擦りむいていた。ひりひりと痛む。
 きょう履いてきたのが半ズボンでよかった、と思う。ズボンの膝を汚さずに済んだ。ぼくが服を汚して帰ると、お母さんはいつも文句を言った。汚れが落ちないじゃない。そんなに汚すなら、自分で洗いなさいよ。
 服についた汚れを手で払うと、顔を上げ、やっくんを探す。やっくんは、もうずいぶんと先へいってしまっていた。

 小学校の夏休み。きょうはプールの日だった。
 ぼくとやっくんはクラスメイトだ。家も近所なのでよく遊んでいた。
 ぼくはクラスメイトから、さえない、パッとしない、地味、とよく言われていた。
 一方、やっくんはクラスの人気者だった。運動神経もあり、勉強もできた。友達は多く、やっくんのまわりにはいつもひとが集まっていた。

 ある日、下校中にぼくが家まで石を蹴って帰ろうとしていると、やっくんに声をかけられた。
「なあ陸くん。きみ、陸くんだろ? 夏休みさ、一緒にプール行こう」
 ぼくは驚いた。これまで、友達と呼べるひとがいなかった。だから、ひどく慌てた。
「え? え?」
「なあ陸、おまえ、春ちゃんのこと好きだろ」
 ぼくは驚いて、やっくんを見た。
 え、二言目から急に?
 やっくんは木の枝をぼくに向けていた。
「え? え? なんで?」
「カマかけたんだよ。あれ? 陸、耳が赤いぞ」
「あ、あ、暑いんだよ」
「ははは。陸はおもしろいな」
 やっくんはそう言うと、再び前を見て歩きだした。
 ぼくはムキになって反論しようとする。
 やっくんはどんどん歩いていく。
 ぼくは慌てて小走りになる。
 待ってよ、やっくん。
「ぼくは、そんなんじゃ、ないんだ」
「え、なに? それよりおまえ、いつまで石蹴ってんの?」
 さっきまで冷やかしていたやっくんは、もうそんな話など忘れたかのようだった。
 石は家まで蹴るよ、とぼくは答える。
 やっくんはまた、陸はおもしろいな、と言って笑った。

 やっくんは、地球という星からヒロミ・ヤナギサワ星に移住してきた地球人だった。
 やっくんは初めからやっくんだったから、本名をぼくは知らない。家の都合で転校が多いらしい。
 転校するたびに付き合う友人が変わるから、そのうち誰とでも仲良くなる術を身につけたと、やっくんはそんなふうに言っていた。

「陸、遅いぞ。プール逃げちゃうだろ」
 やっくんは、横断歩道の手前でぼくを待っていた。縁石の上に乗っている。
「プ、プールは逃げないよ……。ふう、暑い……」
「なんだよ、ヒロミ・ヤナギサワ星じゃプールは逃げないのかよ」
「ええ? 地球ではプールって逃げるの?」
「んなわけねーだろ。バーカ」
「ええー……。バカって言ったほうがバカなんだ……」
「あれ? なにおまえ、怪我してんの?」
 やっくんは、ぼくの膝を見て言った。
「ああ、これ。べつに痛くはないんだ。まあプールは入れないかもだけど」
「なにやってんだよ、せっかくのプールなのに。もったいねえなぁ」
 はは、だよね。ぼくは情けなく笑う。
 
 ぼくは先生に言って、見学をさせてもらった。プールサイドの床はとても熱くて、足の裏が焼けそうだった。先生がたまに水を撒いてくれるので、ようやくのことで座っていられるのだった。
 プールにいるやっくんは、やっぱり人気者だ。男子も女子もやっくんを囲み、ひとかたまりになって目の前を何度か流れていった。
(ほんとうに楽しそうだな)
 ぼくは、やっくんのことを実のお兄ちゃんのように思っていた。それでも、人気者のやっくんを見ていると、たまに胸の中がもやもやした。
「おおーい、陸!」
 やっくんはぼくに向かって手を振った。屈託なく笑う。世界を信じ切っている、そんな顔だった。
 ばたばたと音がして、水面にしぶきが立った。
 ん?
 いつもどこか大人びているやっくんにしては、珍しくはしゃいでいるな、とぼくは思った。よっぽどプールが楽しいんだな。
 やっくんを取り囲んでいるクラスメイトたちの不穏な様子には、そのときのぼくは気づかなかった。
 ぼくは笑いかえし、手を振った。
「プール、楽しそうだね、やっくん」
 雲が太陽を隠した。
 日差しが遮られ、あたりが薄暗くなった。
 ぼくは立ち上がり、プールに近づく。
 やっくんに話しかけた。
「ねえ、ぼくも入りたい」
「え? なに言ってんだよ。
 おまえはだめだよ。
 膝、怪我してんだろ」
 その瞬間、蝉の鳴き声が、いっそう激しさを増した。
 ああ、そうだね。
 ぼくは、だめだよ。
 そして、やっくんは、人気者だ。
 だから、ぼくはさ、

 ……く。
 ……陸、陸。

 遠くから声が聞こえる。

 なんだよ……聞こえてるよ……。

「陸。おい陸。起きろって」
「うわっ」
「うわっ、じゃないよ」
「あれ? ここは?」
 ぼくはあたりを見回した。
「保健室だよ。覚えてないのか? おまえ溺れたんだよ」
 溺れた……?
 よく覚えていない。だけど、保健室のベッドに寝ているということは、そうなんだろう。
 頭がひどく痛かった。
 やっくんは隣に座って、本を読んでいたようだ。手に文庫本を持っている。
「死んだかと思ってびっくりしたぞ。いきなり飛び込むんだもんな。
 飛び込みは危険だって、先生があれほど言っていたのに」
「あ……」
 そうだ。
 プールサイドで見学していたぼくは、立ち上がってプールに近づき、飛び込んだ。
 夢だと思っていた。
 なぜそんなことをしたのか。自分でもわからない。頭がぼんやりとしていて……。
 思い出すのは、やっくんのまわりにクラスメイトが群がっている様子だった。
 みんなの、楽しそうな笑顔。
 顔、顔、顔。
「やっくんは、プールでも人気者だったなあ」
 やっくんの表情が、さっと翳った。ぼくから視線を外す。
 それがなぜなのか、ぼくにはわからなかった。
「まあ、な。おれは陸とは違うさ」
 やっくんは窓からの景色を眺めていた。窓の外の景色よりも、さらに遠くを見ているような、そんな顔をしていた。
「あ、あとな。おれ、転校するから」
 やっくんは思い出したように言った。
 え?
 転校?
 ぼくは、なにを言えばいいかわからなかった。やっくんが、いなくなる……?
 やっくんは、布団の上から、ぼくの胸のあたりをぽんと叩く。
「陸はどじだから心配だよ。ま、元気でやれよ」
「ええー。ぼくは、どじなんかじゃないよ……」
 陸はどじだよ。やっくんは再び、ぼくをぽんぽんと軽く叩いた。



 暦の上では秋だけれど、まだまだ暑い日が続いていた。
 やっくんがいなくなったあとの学校は、正直つまらなかった。誰とも話さないまま一日が終わる。休み時間は机に突っ伏して、寝たフリをしていた。そうしていると誰からも話しかけられないし、ひとりでいてもさほど目立たなかった。なにより、伏せっていると人目が気にならなくなるから楽なのだ。

 そんなある日、下校中に春ちゃんが話しかけてきた。
「ねえ、陸くん。やっくんがいなくなって、寂しいでしょ」
 急になんだろう、と思った。やっくんが転校したのはもう先月のことだ。話題にするには遅い。それに春ちゃんとは、今までろくに話したこともない。ずいぶん馴れ馴れしいな。
「うん。寂しいよ」
 ぼくは立ち止まらずにそう答えた。少し冷たく見えたろうか、と気になった。
 横断歩道にさしかかる。信号は青。渡ろうとした、そのとき。
 春ちゃんが、ぼくの腕をつかんだ。
「だったら」
 ぼくは驚いて振り返る。春ちゃんは、ぼくの目を、まっすぐに見つめていた。
「一緒に帰ろう」
 有無を言わせない言い方だった。
 やっくんがいなくて寂しいと、なんで春ちゃんと一緒に帰るのかわからない。
 わからないけれども、その日からぼくは、春ちゃんと下校することになった。

「陸くん」
 春ちゃんは、学校にいるときも話しかけてくるようになった。
 ぼくはたじろいでしまう。まわりの目が気になる。
「……あ。なに」
「きょうのテスト、どうだった?」
「あ……うん、少し、難しかったかな……」
「きょうの給食、冷凍みかんだって。あげようか? 好きでしょう?」
「え、悪いよ……」
「きらい?」
「べつに、きらいじゃないけど」
「じゃあ、あげるね」
 その日、ぼくは春ちゃんから冷凍みかんを受け取った。

 毎年、クリスマスの時期になると、学校にはサンタクロースがやってくる。
 もちろん本物じゃない。さすがにぼくにもわかる。けれど、先生たちが一生懸命なので、ぼくは極力、楽しそうに振る舞うことにしていた。
 クリスマス会の日には、プレゼント交換会がある。生徒たちが家から交換するものを持ってくる。用意するのは親たちだった。「家庭の事情がある子もいるんだから」とPTAからは苦情が出ており、クリスマス会を中止させようという動きもあるらしい。担任の先生は、事情がある子でもクリスマス会に参加できるよう、プレゼントを自分で用意しているようだった。それは、どこからかお金がでているのか、個人的なポケットマネーなのか、ぼくにはわからない。おそらく後者だろう。
「なあ、プレゼントなにかな」
 クラスメイトが騒いでいる。
「おれ、ム○キングカードがいいな」
「じゃあおれ鬼滅の○の日輪刀」
「おいおい、そんなの振り回すなよ」
 わいわい。がやがや。
「はいはい、じゃあクリスマス会、始めますよ」
 ぼくたちは机を教室の後ろへ運ぶと椅子を円に並べ、みんなは思い思いに座り始めた。
 気づくと、ぼくの隣に春ちゃんが座っていた。
 先生は真ん中に立つ。サンタクロースの格好をして、少し恥ずかしそうな、だけど嬉しそうな、そんな調子で「メリークリスマス!」と言った。
「プレゼントを手渡していきますから、これを次々と隣のひとに回していってくださいね。じゃあ、音楽スタート」

 ――さあ、あなたから、メリークリスマス♪
 ――わたしから、メリークリスマス♪

 右から左へプレゼントを回していく。春ちゃんから受け取り、それを隣の子へ渡す。
「音楽、ストップ」
 ピタッ。
 全員の動きが止まった。
「さあ、今、手に持っているのが、自分のプレゼントですよ。今、開けてもいいし、家に持って帰ってからでも」
「わー、なんだろう!」
 幸太というクラスメイトが、さっそくプレゼントを開けはじめる。
「これこれ、幸太くんはぜっかちですねえ」
 先生はにこにことそれを眺めていた。まわりのクラスメイトも同じように眺めた。
「……うわっ!」
 ボトリ、と幸太くんは、プレゼントを落とした。
 いやな匂いが、ぼくの鼻を刺激した。
「……きゃあっ!」
 女子が叫んだ。
「なにこれ、猫の……死骸……?」
 誰かがそう言うと、教室じゅうがパニックに陥った。

 クリスマス会は、翌年からやらないことになったらしい、と噂で聞いた。
 あれから犯人探しみたいになったけれど、結局うやむやになった。担任の先生はその後、しばらく休暇をとっていたが、そのうち辞めてしまった。今は違う先生が臨時で担任をしている。

 ぼくらはもうすぐ学年が上がる。二年生から三年生になるときにはクラス替えがある。仲のいい友達もいないぼくには、誰と離れようが関係がなかった。

 下校中、春ちゃんはいつも通り横にいて、ぼくと同じ歩幅で歩いていた。真っ赤なコートを着ている。
「なんか、きょうは少し暖かいね」
 春ちゃんは空を見上げた。
「うん」
 ぼくもつられて空を見上げる。よく晴れていた。確かにきょうは暖かい。
「ねえ、陸くん」
「なに」
「やっくんね、ここにいた頃、ずっといじめられてたの。知ってた?」
「……え?」
 春ちゃんは、いたずらっぽく笑った。ぼくは一瞬、だじろぐ。
「え? いや、なに言ってんの。やっくんは人気者だったじゃない」
「あいつらさ、やり方がせこいから、先生にバレないようにやってたんだよね」
 そんなばかな。記憶の中のやっくんは、いつも明るくて。ぼくの前を歩いていて。勉強も、運動もできる、クラスの人気者だった。
「転校生って、目立つからね。しかも地球人」
「地球人だと、なにかだめなの?」
「ええ、だめよ。彼らが私たちのこと、なんて言っているか知ってる?
 〈トザマ〉って言ってるのよ」
「ト……?」
「だから私たち、ほんとうは地球人のこと、そんなによく思っていないの。陸くんは……年令のわりに幼いところあるから、わかんないかもだけど」
「……? うん、ちょっと、わかんないかも……」
「まあいいわ。それから、プールの日のこと、覚えている?」
「え? いつ」
「あの日よ。忘れたとは言わせないわ。
 だって陸くん、やっくんのこと、殺そうとしたでしょう?」
 ぼくは立ち止まり、春ちゃんを見た。
 春ちゃんはこちらを見て笑っている。近づいてきて、両手でぼくの顔を包み込むようにした。寒いのに手袋もしていない。
 春ちゃんの手は、おそろしく冷たかった。
 ぼくは、動けなかった。
 春ちゃんは、ぼくの目をじっと覗き込んでいた。
「私、見てたの。あの日、飛び込もうとする直前の、陸くんの顔。やっくんを見て、すごい顔してた」
 プールサイドの、足が焼けそうな熱さをな熱さを思い出した。
「そのあとでしょ、飛び込んだの。
 やっくんに向かって。襲いかかろうと。
 だけど陸くんは、そのまま溺れてしまった」
 そう。やっくんの足を掴んで、水の中に引きずり込もうとして、それで……。
「それで、溺れちゃったんだよね」
 にこり。春ちゃんは、どこか楽しそうだった。
 ぼくは、すべてを見透かされている気がした。
「だから私、陸くんのこと、気になってたんだよね」
 だから気になった?
 なんで?
 聞こうとして、やめた。
 わからないことをわからないままにしておくのが、ぼくの生きる術だった。
 わからなくていい。知らなくていい。
「だからこそ陸くんに、プレゼントしたかったんだけどな」
「プレゼント? 誕生日なら、まだ……」
「ううん、違うの」
 実はね。
 春ちゃんは、恍惚としたような表情になって、言った。
「クリスマスの日、あれ用意したの、私なの」
 ぼくは息を呑んだ。
 知りたくなんて、なかった。
「あの猫の死骸ね。私が包んだプレゼントなの」
 ああ。
 ぼくは、体から力が抜けていくのを感じた。
「あーあ、よりによって幸太なんかに渡るなんてね。陸くんに直接渡すんだったわ。残念」
 うふふ。
 春ちゃんは、笑っていた。
 小学生離れした、とても綺麗な顔だった。

 なぜ?
 どうして、そんなことを?
 あの猫は、死んでいたの?
 それとも、春ちゃんが……?

 ビーッ。ビーッ。
 頭の中に、警告音が鳴り響いた。
 危険を知らせる音。
 これ以上、考えちゃいけない。そういう音。

「あの猫ねえ、猫に見えるけど、キャット・ピープルらしいのよね」
 返事をしようとして、声が出なかった。
 横断歩道の手前。
 信号は赤。
「私ね、なんかこう、うずくのよね」
 信号はまだ赤。
 早く。
 早く青になってくれ。
「陸くんには、なんだか親近感がわくっていうか」
 春ちゃんはぼくの腕を掴み、ぐいと引っ張る。
「ひっ……」
「ねえ、あなたもそうでしょう?」
 奇妙に口角を上げて、笑った。
「……ち、」
「ち?」
「違う……!
 ぼくは……!
 そんなんじゃ、ない!」
 雲が太陽を隠した。
 一瞬、あたりが薄暗くなる。

 ――どんっ。

 ぼくは気づくと、春ちゃんを突き飛ばしていた。
 勢いで春ちゃんはよろめく。
「あ」
 春ちゃんは驚いて、目を丸くした。
 赤いコートが、ふわりと舞う。
 車が来る。
「あ」
 轢かれる。
 ぼくは、春ちゃんのコートの裾を掴もうと、手を伸ばす。
 間に合え。
 早く。
 春ちゃん、手を伸ばして。ぼくを掴んで。
 車が来る。
 早く、手を。

「春ちゃん!」

四季

四季

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • サスペンス
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-06-18

CC BY
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