前夜

 ひさびさに、石川から連絡があった。
「明日死のうとおもうんだ」、そう書かれてあった。
 きょう遊ぼうよ、とぼくは提案した、ぼくらは駅前で待ち合わせをすることにし、ぼくはシャワーを浴びて着替え、そして駅へ向かったのだった。
「お待たせ」
 石川はすでにベンチで待機していた。石膏のようにざらついた表情をしていた、そいつはかれの、荒く塗りたくられた知性の澱のようなものも連想させ、くわえて、眸に光がないのもまた、その石膏の印象をつよめていたのかもしれなかった。しかし、こんな雰囲気は死ぬまえならば、珍しくもないものなのかもしれなかった。
「どこ行く?」
 とぼくが朗らかなこえをふりしぼっていうと、
「どこでもいいよ。青津の行きたいところへ」
 と呻くようにいう。
「石川の前夜祭なんだからさ、」
 とまったくおもしろくない冗談をいって、
「石川が行きたいところに行こうよ」
「そうだな、」
 とかんがえこむ顔をする。
「海かな」
 ぼくらはバスに乗って、海へむかった。

  *

「前から言ってたね、俺は自殺する予定なんだって」
「うん」
「明日決行するわけね。きっかけはあるの?」
「きっかけなんてない。ただ緩やかにすべり落ちてきて、臨界点を突破しただけ」
 十代の頃から、石川は幾度かヒキコモリのようなものをやっていて、それは永くても一年を超えるくらいで陽の下にもどったのだけれども、ある時、かれはぼくに教えてくれたのだった。引きこもっていた頃、「果たして自殺は赦されるか」という主題と格闘したかれ、その数学と仏語の堪能な、微に入り細を穿つ思考力を駆使して、「赦されるのだ」というこたえを引き摺りだしたのだと。
 ぼくは自殺、好きじゃなかった。どんなに生きるのがくるしくても、いやだからこそせいいっぱい生を生き抜くひとの可憐さ、切なさを抱き締めていたかったから。自殺、ただそいつだけが、かの林立した可憐の花畑からきりはなされる行為なのだと想っていた。しかしながら、あるいはこれ、ぼくの願望にすぎないともいえるのだった。
 しかしかれがそうかんがえたんなら、ぼくはかれの思想を否定・断罪することばをなにひとつもてない。ぼくはじぶんのかんがえに、自信なんてないのだ。ぼくができること、そいつはただ、かれが死に対峙するまで一緒にいることだけ。しかしぼくには期待があったのだ、気晴らしにこうやって一緒にいたら、かれにも生きる気が湧くのではないかと。こいつは一種傲慢な、そして憐れな希望的観測にすぎないのだった。
「石川」
「なに?」
「…なんでもないよ」
「うん」
「海、見えたね」
「ほんとうだ」
 といって、のっぺりとニヒルな眼差しを、陽に照らされ青く光り耀く海へむけた。
「鉱石みたいだ。美しい」
「死ぬまえに美しいものをみるのはいいことだ」
「そうだね」
 ぼくらはバスを降りた。
 …ぼくらはひとけのない海岸を並んで散歩した。
「どうしても死ぬんだね?」
「うん」
 かれ、ちからなく海へ視線を投げ、そのまなざしは海の燦爛たるおもてをみごとに滑り、散乱し、そうして、往き場のないままに漂うよう、まるで宇宙を浮遊する、集まり星になれなかった星屑さながら。
「自分で考えて、そう結論付けたんだ」
 そうであるならば、とぼくは想った。
 かれのそれを否定する権利なんて、ぼくにはないんだ。かれの自死をとめたいぼくの感情はわがエゴにすぎず、それはくるしめと要求しているのと同意であり、しかし、くるしんででも生きて欲しいという喉元を込み上げるぼくのエゴイスティックな欲望、果たして出していいものかぼくには決定づけることができない。しかしながらこのエゴは悲願ですらあるようで、ぼくにはこの前夜の記憶、いまでも頭から離れることはない。

  *

 かれは翌日、実家の部屋で、首を吊って死んだ。

  *

 おしえてくれ。
 法的なそれなんかじゃない、親友の自死をとめなかったぼくの、道徳的罪状を。
 ぼくは涙をながしながら、ただ、かれに死んで欲しくなかったと想った、その感情をしか真実として、ぼくの眼前に立ちあらわすことはなかったのだった。
 自殺してはいけない。
 ぼくはそうかんがえるためにあらゆる思考・読書・執筆をとおして、そいつ、自己に戒めとして課したつもりだ、その意欲にはおそらくや、命の欲する、生きたいという切なる声があったのだと想う。ぼくの魂・知性・言葉を世の中からはみ出させた、あるいはドロップアウトさせた、ありとある知的活動は、ほとんどすべてがそれに還元されたといえるかもしれない、いわく、人間性の肯定、生の肯定というもの。しかしそのすべてに絶対的なものはなく、真実なぞあるわけがなく、もし真実があるとするならば──かれが死のうが死ぬまいが、世界は在りつづけるというニヒルなうす暗い仄かに腐臭のする後ずさった現実だけであり、そんなわが戒めなぞというもの、ただ、個人的なシソウというものにすぎまい。届くかは判らない、判らないまま、ぼく、文章を書きつづけている。
 ぼくは、かれに死んで欲しくなかった。死んで欲しくなかった。この叫びだけが、友達を恋う素直で正直な声として、その感情だけが真実の形状をもってぼくのまえをめくるめき、棚引くように夜天で光っては行き交い、光を喪い暗鬱に永久の夜の底でよこたわり、またふたたび、畳みこまれるように去来する。痛い。ぼくには現実が、神経に痛い。ぼくに生けるもの、醜くしたたかにも生き残ったものとしての義務があるとするならば──そのくるしみに耐えつづけること、ただこれであった。

前夜

前夜

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-06-17

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