名前のない猫

名前のない猫

 吾輩は猫ではない。名前はある。
 ユニバーサル婚が法制化される前から吾輩と妻はパートナーの関係であったが、3年前にエドガー区が世界で初めてユニバーサル婚を公式に認めるようになったその日に区役所に連れていかれ、我々は正式に夫婦となった。
 妻の同僚は、妻が独り身でペットを飼っているだけだと思っていたようだが、実は吾輩がカナタであり、地球産の猫種ではなかったことに驚き、吾輩に対して猫なで声を向けることはなくなった。そして私が人語を解し、人語を話すことができると知った途端、いや、正確には吾輩がペットの猫ではなく、トザマで、しかもオスだと認識した途端に、抱きかかえることをしなくなった。吾輩としては別に地球人のメスにハグされなくても一向に寂しくなどないし、そのたびに妻に睨まれることもなくなったわけで、待遇は改善されたというべきだろう。

 吾輩はイスカミルの民の末裔で、地球に来てからは25世代目になる。猫種に似ているが、交配はできない。人類となら一応可能だが、それは十分な医療サポートがあって初めてできることで、地球人類の医学レベルではまだ不可能である。故に、イスカミルの民は、猫の中にまぎれて、長年地球で暮らしてきた。ヒロミ人やネムール人のようにここ最近になって乗り込んできたようなニワカとは違うのだ。イスカミルの民は、かれこれ6000年以上はこの星の人類の育成に携わっており、ことあるごとにヒントや試練を与え、ここまで地球人を発展させてきた。もちろんそれは吾輩の功績ということではなく、イスカミルの民の総意によるものであるが、一端を担っているという点では、吾輩もその栄誉の一部であると自負はしている。

 人類がようやく宇宙対応の文明を持つに至り、我々イスカミルの民は、満を持してGU〈銀河共同体〉に、商用惑星申請を行った。無事に通れば、晴れて地球はGU参加のいち惑星として、銀河テクノロジー(ギャラテック)の恩恵を受けられるようになるのだ。ギャラテック製品はとてもよい。よいのだが、地球への持ち込みは規制されていて、ごくわずかしか持ち込むことができない。正式な商用惑星ともなれば。大々的にギャラテックを持ち込んで売ることができるから、吾輩のような銀河商人にはいい時代になるだろう。現時点では、まだ地球人は試用段階というところで、GUのいち員としてやっていけるかどうかを試されている段階である。今の所は、メンタルにやや難有りというところで、とくに排他的な姿勢が問題視されている。いわゆる「トザマファクト」であるが、これもいずれ開国して、自分たちの本来のGU内でのポジション(科学力、政治力、軍事力の全てで最下層であること)を正しく理解すれば、自ずと消え去る程度のものだと、吾輩は思っている。これは、吾輩が住み着いている島国の住民が、地元にいるときは島外人を差別しているが、ひと度海外へ出れば、自分は本来は地球人の中でも最下層に属するアジアンピープルだということを自覚して、うつになるという現象を見ればわかる。知能が低く、精神的な成熟度がまだまだ低いのだが、そもそも猿ベースの人類であるので、限界はある。やはり猫型でないと、人類本来のパフォーマンスは叩き出せないのだ。キャットピープルはGUでも上位層に多いのだからな。

「ルート?」
 ミキの声がした。吾輩を呼んでいるらしい。
「どうした?」
「ああ、いた。あのさ、離婚したいんだけど」
 よく聞こえなかった。日本語は難しい。
「なんて?」
「リコンしたいんだけど、いいよね」
「ちょっと何言ってるかわかんない」
 離婚というのは、あの離婚のことだろうか? 吾輩はついにバツイチというものになるのか。なるのか? なぜだ。
「ごめん、ちょっと急すぎて、話が見えない。離婚って、なんで?」
「やっぱ理由いる?」
「有給を取るって話じゃないし、一応理由を聞かせてもらえるとうれしいが、ていうかなんで? なんで今? 急に?」
「理由は、他に好きな人ができたってことでいいのかな」
「いいのかな、って、曖昧な感じなの? どういう話になってんの?」
 ミキは、平然としている。女という生き物はこういうときに図太いと聞くが、本当にそうだったのか。なんと恐ろしい。吾輩としては、この惑星での寄生先であるミキと別れたのでは、生活基盤がなくなってしまう。母星にはいまさら親戚縁者もいないし、本当にまるで捨て猫みたいになってしまうではないか。
「まあ言葉で伝えるより、見てもらった方がいいかな」
 ミキは冷静な顔で、低いトーンのまま言った。「リーフ、入ってきてよ」
 ガチャっとリビングの扉が開くと、一頭のホワイトタイガーが現れた。
「どうもこんにちはルートさん」
 白虎はバリトンの効いた低音イケボで吾輩の名前を呼んだ。白髪のマッチョなキャットピープルだなんて、吾輩とは正反対の輩の登場に、返す言葉がなかった。
「ごめんなさいルートさん、ボクは最近まで貴方のことを知らなかったんです。知らないままミキさんを愛してしまったんです。本当にごめんなさい。そしてさようなら」
「待って待って。食べるのは待って」
「食べないですよ」
 話し合いが終わる前に食料にされたのではたまらない。吾輩のキュートなボディでは、このストロングの塊のようなホワイトタイガーならひと飲みに違いない。オードブルにもなりゃしない。
「ということなの。ほんとうにごめんなさい」
 ミキが神妙な顔で最後通牒を突きつけてきた。吾輩困った。
 実のところ、吾輩はNTR属性ないし、こんな女とはもう関わり合いになりたくないし、まじでこの虎怖いし、おとなしいうちに逃げ出したいところではあるんだが、離婚となるとそうもいかない。財産分与とか養育費の折衝とかいろいろあんだろ。資産もないし子どももいないけどさ! こんな出会いがしらにフールーのサブスク解除するみたいにリコンリコン言われても全然ピントこないよ吾輩。まじで。
「ええーと吾輩いつまでここにいていいのかな?」
「ASAPでお願いします」
「いやまって、なんの準備もしてないけど」
「準備いるの? この家にあんたの私物一切ないけど?」
 ああ、まあ確かに、吾輩ここに転がり込んで、ずっとエサもらってゴロゴロ(喉もゴロゴロ)してただけだから、別に資産的なものはない。タワーはミキが備え付けたものだし、おもちゃ的なものはすでに処分されていた。ぐぬぬ。すでに詰んでいたのか無念。抵抗するだけ無駄なようだ。
「わかった。出ていく」
「わかってくれてよかったわ。抵抗されたら彼の晩ごはんになるか、保健所行きになるところよ」
 保健所に連れて行かれたところで、トザマとわかれば解放されるだけだが、このアマ……。
「最後に、ひとつ聞かせてくれないか」
「なに?」
「吾輩、何が悪かったのかな」
「何も悪くないよ」
「え、じゃあ、なんで」
「あたしが悪いだけ。ごめんね。さよなら」
 あーもう。取り付く島がねえわ。この女。俺は諦めて家を出て、とりあえず集会場に向かった。しばらく誰かの家に居候させてもらうしかない。それか、いっそリセットをかけてしまうか。

 ミキの部屋を追い出されるように出て、吾輩はキャットピープルの集まる集会場に向かった。一見スナックのように見えるこの店は、店主がキャットピープルの協力者であり、元地球人のマンスレイブだ。マンスレイブとは我々キャットピープルのお世話をするために、地球人としての権利を放棄して、忠誠を尽くした猫の民の下僕である。
「あら、ルートちゃんいらっしゃい。久しぶりかな?」
「ああ、3年ぶりぐらいかな」
「どうしてたの?」
「しばらく結婚してたんだが、ついさっき離婚した」
「あらあらご愁傷様」
 化粧の濃いマンスレイブが吾輩にマタタビ酒を出してくれる。ちびりと一口飲むと、キューッと胃袋が熱くなる。タマらん。
「どうするの? 行くとこあんの? うちくる?」
 店主は毎度そうやってキャットピープルを連れ帰ってイタズラをするんだ。ホイホイついていってもろくなことはない。
「遠慮しとくよ。今回はリセットかな」
「あら、じゃあまたしばらく来られないわね」
「ああ。それもあって顔を出したのさ」
「育ったらまた来てね」
「もちろんさ」
 キャットピープルにマタタビ酒を出す店なんて他に知らない。どうせまた来ることになるだろう。店主は次のリセット箱の場所を仲間に問い合わせてくれて、吾輩に地図を寄越した。吾輩はそれを受けとると、酒を飲み干してなけなしのコインを支払い、店を出た。

 少し雨が降ってきて、小走りで箱の場所へと向かった。ガード下に設置された箱には先客がいた。吾輩は箱の前に立って赤くて丸いリセットボタンを強く押し込んだ。走査線が左右に振れながら吾輩のデータをスキャンしていく。スキャンされた部分はナノレベルで分解されて、箱の中に子猫として転送されていく。これでもう吾輩はルートではない。すべてを捨てて、新しいキャットピープルとして生まれ変わった。あとはこの箱で、新たな宿主が現れるのを待つだけだ。こんども丸の内OLがいいのだが、どうだろうか。
「やあ」
 先客の猫が声をかけてきた。愛嬌のある顔をしている。
「ども。長いの?」
「あ、いえ、ついさっき来たところです」
「ああ、そうなんだ。吾輩はさっきまでルートって名前だった。よろしく」
「あ、自分はヨギといいます。いえ、呼ばれてました」
 我々はややこしいシステムに少し笑った。こちらに向かう足音が聞こえた。
 新しい宿主か、それとも3匹目の猫か。大きな影が見えた。優しい地球人ならいいがどうだろう。
 吾輩は新しい猫である。名前はまだない。

名前のない猫

名前のない猫

  • 小説
  • 短編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-06-14

Public Domain
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