舟を出して、と彼女は言った。
 ここから逃げたいの。
 逃げて、そして、生きたいの――。


          ※


「ここはどこ」
 彼女は眠そうな目をこすりながら、そっとつぶやいた。
「どこでもない、または、どこでもありうる」
「そんなこと。それよりミルチ、ご飯作ってよ。お腹すいた」
「いいよ。なにがいい」
「なんでもいいわ。例えばオムレツとか」
 彼女はいつも、なんでもいいと言ったあと、具体的なことを言う。
 なんでもよくないじゃないか、と僕が言うと彼女は、
「ひとは自分に対して嘘をつくのよ」
 と、悪びれもせずに言うのだった。

 キッチンにはいろんな道具があって、でも彼女は一切、料理を作らない。はなから作る気はないのに、なぜだか道具だけは揃っている。そのことについて「なぜ」なんて問うのは、彼女にとって、生きる意味を問うのと同じくらい無意味だろう。
 すべての工程を終えて僕は、彼女を呼ぶ。
 ホットミルクをテーブルに置いたころ、寝室から出てきた彼女は当たり前みたいに「おはよう」と言う。
 食事を終え、
「あ、そうだ。エリ」
 と僕は思い出す。
「きのうさ、あの子にあったよ」
 僕は彼女の友人の名前を思い出そうとする。
「どうだった」
 彼女は気のない様子で問う。
「元気そうだった」
「そう。よかった」
 ぶっきらぼうだが冷たいわけじゃなく、彼女は友人のことをとても大事に思っている。
 ホットミルクを飲み干した彼女は、立ち上がってマグカップをシンクに置く。そのままバスルームに向かい、シャワーを浴びる。
 僕はその間、食器を洗い、テーブルを片付ける。
 寝室のベッドを整えると、熱いコーヒーを淹れる。
 ここにはすべてが揃っている。
「でもあの子、」
 彼女はいつの間にか、冷蔵庫のそばにいて、片手にコップを持っている。
 頭を拭いてからにすれば、といっても、今すぐ飲みたいと言って、コップに牛乳を注ぐ。
「あの子ってたしか、誘拐されたんじゃないの」
 この星にはカナタ(宇宙人)がいる。
「そうだね。でも、あの子は無事だった」
 そして僕らもまた、”カナタ”だった。
「そう。怪我してなきゃいいけど」
 ここで生きるためには、こうするしかなかった。
「大丈夫。だってあれは、完璧な作戦だった」
 僕らは、考えたんだ。
「地球人を傷つけない、そんなさ」
 そんな生き方を、僕らは選んだ。
「地球人を傷つけたくないなんて。ミルチは優しすぎるのよ。これは褒め言葉じゃないわ」
「でもエリ、君もここまでついてきてくれたじゃないか」
「あんたがあまりにも、珍しかったからよ」
 おかげで僕らは、追われることになった。
「裏切り者、と言われるのにね」
「そうね。私も稀有なトザマなの」


          ※


 遠く遥か彼方、僕らは地球へ来た。
 宇宙船の中から眺める地球は、青く輝いて、とても美しかった。
 僕も彼女も、そんな地球が大好きで、何度か旅行に来ていた。
 研究者らの不穏な動きに僕らも気づいていたが、彼らを止めるには、僕らは無力すぎた。
 僕らは地球にいて、略取された地球人が命を落とさないよう、できる限り力を尽くした。
 違法薬物を打たれたら、それを相殺する薬を地球人に注射した。

 だけど、こういう暮らしは長くは続かないと、僕らはきっとわかっていた。

「ねえ、またタイムトラベルしましょうよ。あの舟を出してよ」
 腰に手をあて、彼女は牛乳を飲み干した。
「きょうは雨だからあぶないよ」
「そんなの、迷信じゃない」
「そういうのが大事なんだよ」
「まあ、でも」
 彼女は牛乳を飲み干したコップをシンクに置くと、濡れた頭を拭いた。床にぽたぽたとしずくが落ちる。
「結局のところ、不自由であることは、安全でもあるのよね」
 僕らは地球にいて、でも誰からも見えていなかった。


 ブゥゥゥウウウゥゥン………。
 ウウゥゥゥウウウゥゥ……ンンン。

 何かの音がした。
 僕は確認をしに、音のするほうへ向かった。
 廊下の壁に、ひと一人通れるくらいの、大きな穴が開いていた。
 僕は驚いた。
 シェルターは頑丈で、簡単にどうにかできるものではない。
 穴はきれいな円形で、どう考えても自然に開いたものでもない。
 つまり誰かが開けた。
 一体、誰が?

 僕は彼女に危険を知らせようと、リビングへ戻る。
 彼女はパソコンの前に座り、ヘッドホンをつけて音楽を聴いているようだった。
 そばへ行き、肩を叩こうとして、僕は彼女が見ているものを見た。

 彼女は、僕の右腕を乱暴に掴むと、引きずり込むようにしてパソコンのカメラに僕を映した。
「ほら、ここにいるわ」
「これは、エリ……?」
 パソコンの画面には、研究者連中の顔が並んでいた。
「ミルチは、優しすぎるのよ」
 そう、彼女はずっと。
「ずっと監視していたのに」
 なのに僕は気づかなかった。
「繋がっていたのか。やつらと」
 僕は激しく抵抗した。エリはぱっと腕を離すと、
「でも、あなたも戻らないといけないわ」
「だめだ。あんな連中といたら、だめなんだ」
「だが、もう遅い」
 パソコンから聞こえる音声は、冷たく言い放った。
 

 そのとき、壁の穴から"彼"が入ってきた。
 そして僕は、"彼"に連れ去られた。


          ※


「そんなチカラいっぱい掴まないでくれよ」
 何もない、真っ白な部屋に、ぽつんとひとつテーブルがあった。
 テーブルには"彼"が淹れたコーヒーが置かれていた。
 僕は不平を漏らすと、目の前の顔を見た。
 そこには自分の顔があった。
 "彼"は5年後の僕だった。
「あの状況じゃ、しかたないさ。あと数分遅かったら、連中に連れ去られていたんだ」
 僕は腕をさすりながら、
「それは助かったよ。ありがとう。でもまさか、あんなふうに穴を開けるなんて……」
「ちょっと強引だったけど、そうでもしないと。玄関からまともに入ろうったって、君らは中に入れてくれなかったろう」
「完全に、二人の舟だったから、あの場所は」
「そんなにか。でも息苦しいだろう」
「そんなことはなかったよ」
 自分自身との会話なのに、たまに意見が食い違う。5年も経つと、考えも変わるのだろうか。
「僕はこれから、どうなるのかな」
「少なくとも5年後には、自分を救出しているさ」
 僕は、コーヒーを一口飲んだ。

 あのとき、シェルターの壁の向こうからやってきたのは"彼"だった。彼女は研究者連中と繋がっていて、僕の身柄を引き渡そうと試みていた。彼女は機会をずっと伺っていた。僕はずっと気がつかなかった。
「本当に気づいていなかった?」
 "彼"は僕に問うた。
 僕は答えなかった。

 僕は彼女のことを思い出していた。

 ここから逃げたいの、と彼女は言った。

 何度も繰り返しているの、
 私があなたを裏切って、
 あなたは救い出されて、
 その後、私は……。
 無限とも思えるこの連鎖を、
 終わらせたいの。

 だから舟を出して。


 僕にはそれができなかった。
 その日は、雨が降っていたから……。
 

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-06-09

CC BY
原著作者の表示の条件で、作品の改変や二次創作などの自由な利用を許可します。

CC BY