アブダクション・デイ
目を覚ますとそこは真っ白で何もない部屋で、わたしはベッドに寝かされていた。服は着ていた。わたしの服だ。今朝、出社するときに着ていたものだ。ベッドは真っ白で、シーツなどはなく、やわらかいスポンジとゴムの中間のような素材で覆われていた。いや、覆われているかどうかまではわからな。芯まで同じ素材なのかもしれない。
足を床に下ろすとき、靴を履いたままだということに気づいた。バッグは持っていなかった。中には財布もスマホもあったのに。部屋は白く見えるが、灯りなどはなく、間接照明という感じでもなく、壁と天井がうっすらと光っているような感覚があった。半透明の白いアクリル板で囲った部屋を日向に置いたらきっとこんな感じになるだろう。
壁には継ぎ目もなく、出入り口は見当たらなかった。床にもなにもなく、通風孔も見当たらない。なんとかく息苦しくなってきたが、それはたぶん精神的なものだろう。このままここに居続けたら、精神の均衡を保つのは難しかったように思うが、独りの時間は長くなかった。壁をすり抜けるように立って歩く猫が現れた。顔は猫だが、これは猫ではないかもしれない。
「おめざめですね」
「ここは?」
「質問はこちらの話が全部済んでからでお願いします」
「あ、はい」
「ここはハイロン・ヤンギザウ星の研究所です。あなたの言語ではヒロミ・ヤナギサワと発音した方が聞こえやすいかもしれません」
「はい」
「あなたはランダムに抽選で選出される、交換留学生として派遣されました」
「はい?」
「毎年一定数を貴方の惑星とわたしの惑星で人員を交換して、お互いの資質や文化を研究し、交流を深める準備をしましょうという計画です。ご協力ありがとうございます」
「そんなものに参加した覚えがないのだけど」
そんな計画があること自体知らされていない。わたしが知らないだけだろうか。
「そうですね。この計画は政府同士で極秘で行われているものですから」
「わたしに何をする気ですか」
「それはお話できません」
「怖い」
「ご安心ください。痛いことや苦しいことはありません。いくつか体験していただいて、感想をお聞かせいただければ、その後は記憶を飛ばして、元の生活に戻っていただきます」
「記憶を?」
「はいそうです。守秘義務があるんですが、あなたの惑星の人類は守秘義務を守る文化が希薄なので、記憶を操作させてもらうことになっています」
ひどい言いようだが、実際のとこと「内緒だからね」「誰にも言わないでね」と前置きをして、ペラペラと他人の秘密をあることないこと暴露してしまうことは、誰にでもある。誰にでもあるような守秘意識の低い惑星人、それが地球人なのである。
「仕方ないですね」
「ご理解いただきありがとうございます。ではさっそく始めさせていただきます」
なにをされるのか不安しかないが、いまはこのカナタの言葉を信じるしかない。ハイロンの研究者が指を鳴らすと、彼が訪れたのと同じように、別のハイロン人が壁から現れた。丸いトレーを持ってわたしの前まで来ると立ち止まった。トレーの裏側から足が伸びて床に突き刺さり、そのままテーブルになった。
「これを食べてください」
「はい」
トレーの上には皿があって、上に何か塊が乗っている。食べろということは食べ物なのだろうが、食べ物を食わせる実験ということでいいのだろうか。地球人には有害なものを試そうとはしていないか。躊躇していると、ハイロンの研究者が続けた。
「安心してください。このあと三〇品ほど体験していただくので、毒は入っていません。健康な状態で食べてもらうものがテストの前提になっています。さあどうぞ」
それを信じる根拠はないのだが、いずれにしてもこの何もない部屋から脱出することもできそうにないし、食べる以外の選択肢はわたしにはないようだ。
おそるおそる指で摘んでみる。少し温かい。千切ろうと思ったが、もう少し弾力があって硬いので、思い切って齧ってみた。サクサクとザクザクの中間ぐらいの噛みごたえ。この触感は悪くない。いや、だいぶいい。そして味は、ポテトと肉の中間といったところか。近いのはビーフコロッケ? そんな感じだった。スナック菓子としてもいいし、砕いてスクランブルエッグに混ぜるのでもいいのではないか。
「おいしいですか?」
「はい、これは好きな味です」
「なるほど」ハイロンの研究者は、手元の端末に何か入力した。
「また食べたいと思いますか?」
「そうですね。これはもっと食べたいです」
「わかりました。今回は他のものをテストしたいのでダメですが、流通がはじまったら贈りましょう」
「名前とかあるんですか?」
「名前は……ウマリンチョですね。ホイゾボムの沼地に生息する植物と動物の中間的な存在の生物ウマルの実の果肉に相当します。地球の生態系とは少し異なるので、説明が難しいですが」
カナタやトザマと呼ばれる宇宙人が地球に来ていることは知っていたが、異星の生物や食材の輸入は禁止されているので、こんなふうに異星のものを口にしたことはない。わたしは今異星人にアブダクションされているはずだが、意外にこれはラッキーだったのではないだろうか。
その後も同じ調子で、いくつもの食材を食べさせられた。どれも地球の食べ物にどこか似ていて、美味しかった。調理方法がいいのかもしれない。
「ご協力ありがとうございました。アンケートの結果は今後の商品開発に活用させていただきます。ではこれを見てください」
ハイロンの研究者はペンのようなものをわたしに見せた。
***
鳥の声で目が覚めると、わたしは玄関で倒れていた。昨日はどうしたんだろう。会社の帰りにイケメンの後輩に飲みに誘われて、居酒屋からバーに行ったのは覚えている。ちょっとテンション上げ過ぎちゃったかな。その後の記憶がない。バッグに財布は入っている。居酒屋で払って残りが五〇〇〇円ぐらいだったはず。そのれがそのまま残っているから、後輩クンが払ってくれたのかな。スマホを見ると、バーで並んで撮っている画像があった。わたしの目の焦点があってない。あちゃー。だいぶ飲んだなこれは。記憶がないわけだよ。電話でお礼とかしとこうかな、と思ったが、電話帳に記録がなかった。そういえば名前なんだっけ?
シャワーを浴びてテレビをつける。見慣れないアナウンサーがレジャー施設の紹介をしていた。そういえば今日は土曜日だった。チャンネルを変えると、カナタの紹介番組があった。ヒロミ・ヤナギサワ星系にあるホイゾボム星の生物が出てきた。ものすごく不気味な外観で、植物とも動物とも言い切れない、謎感がひどかった。現地ではその生物の身体に生えてくるイボをむしって食べるそうだが、わたしには絶対に無理だった。ヒロミ星人は地球のポテトに似ていると言っていたが、そんなわけがない。絶対に無理だと思った。同じ地球の食材でも昆虫とか無理だし、やっぱ見た目は大事よね。
だらだらと週末を過ごすが、月曜日は容赦なくやってくる。わたしはいつもどおり憂鬱だったけれど、後輩くんにお金返したりするのを口実に会えるから、それを楽しみに満員電車に揺られて出社した。
オフィスに入って、わたしの席につくと軽く違和感があった。
右端? だったっけ。左にはセンパイお局のK子さんがいる。これは間違いない。右側に、なにかあったような。いや、ない。ないと思う。後輩くん、の席は、どこだったかな。隣だったと思ったけど、隣はないし、そういえば空き席がない。
おかしいな。ホワイトボードの表にも、名前がない。AもKもOもTも全部後輩の名前ではない。あれ、隣の課だっけ? なんで名前がわかんないのかな。
「センパイ、金曜日に飲みに行ったんですが」
わたしはバーの写真を見せた。
「え、なにイケメンじゃん。なんで誘ってくれなかったの? ずるい」
「あれ? これ……」
後輩の名前がどうしても思い出せない。
「あーど忘れヤバい。社内っていうか課の人ですよ」
「いや、見たことないけど」
「えー。いや、まあ確かに知らない」
「いくらなんでも飲みすぎじゃない?」
「ですね。気をつけます」
「心配だから、今後は必ず私を誘うこと! イケメンがいるときは絶対だよ」
「はーい」
腑に落ちないが、何がおかしいかもわからない。わたしは考えることをやめた。画像は次に探したときは見つからなかった。どこかのフォルダの隙間に落ちてしまったのかもしれない。なんてね。
***
私の名前はジ・テイル・ペン。ハイロンの食品研究者だ。ハイロンと地球との食文化の交流の是非について研究している。地球侵攻軍の技術将校でもある。
「主任、画像消しておきました」
「ああ、すまんね。一枚残ってたみたいで」
「気をつけてくださいね」
「それで、原因はわかったのか?」
「はい、おそらく死因はアコニチンによる臓器不全ですね」
「アコニチンなんて、なんで入ってたんだ」
「スパイスに使用した植物に含まれていたようです」
「地球の天然素材だから大丈夫だと思ったんだが、そんなこともないんだなあ」
「この星の科学レベルでは、有毒な食材を完全には排除できないようです。人体実験で有害か無害かを長年かけて経験則でジャッジしているという調査結果があります」
「以後気をつけよう」
今回の交換実験では、三十人中五人が死亡した。この程度なら地球側からクレームが来ることはないだろう。死亡者は地球側が細工をして、痕跡を消しているし、全くもんだいはない。とりあえずウマリンチョは正体さえ隠しておけば十分に売れそうだ。トリカブト入りの十三味スパイスは、地球では流通させられない。本星に戻そう。こんなに美味いのになあ。
アブダクション・デイ