雨と闘う者

 狭い暗い悲しい路地裏で、雨と闘う男を見かけた。その男は断じてふざけてなどなく、真摯にしかし半ばやけくそ気味に次から次へと襲いかかってくる雨に、小さな拳や小さな蹴りを見舞っていた。男は時折何かを口にしたが、その言葉は雨音に紛れて上手く聞き取れなかった。
 篠突く雨は、死体のような路地裏をさらに陰湿に染めていた。辺りに充満する異臭はねっとりとした気配を帯びて、私の鼻腔をつく。なぜこんな場所に迷い込んだのだったか。私は私に問いかける。目の前の男は、依然として闘い続けている。半ば踊るような半ば気が狂ったようなその姿は、私の心の生き写しに思えてならない。だからこんな場所で、こんな男を見守っているのか。
 朝の天気予報では晴れだと、気象予報士がしたり顔で言っていた。しかし昼の一時を回った頃、急に雲行きが怪しくなった。駅ビル内の洒落た西洋料理店で昼食をとっていた私は、窓の外と恋人の顔を交互に観察しながら、つまらない、と思っていた。メインディッシュを食べ終えた恋人は、苦しそうな見え見えの演技をして、別れてほしい、と告げた。そして腕時計を見やり、じゃあ、仕事があるから、と言い残し、店を出ていった。ほんの小一時間で、七年間の恋愛は幕を閉じた。始まりは熱っぽく、終わりは呆気ないものだ。それから狭い暗い悲しい路地裏まで、どうやって辿り着いたのだったか。記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっている。
 出し抜けに、男が雄叫びを上げた。それは雨音にも物怖じせず、私の鼓膜にびりびり届いた。よく見ると、男は涙を流していた。苦痛そうに顔をゆがめて。私は、はっとする。本当は思いきり泣くために雨と闘っているのだ。そう思うなり、私は男に向かって声を張り上げた。頑張れ! 負けるな! と。男はがむしゃらに泣き続けた。私も泣いた。地面に倒れ、わあわあ喚いた。駄々っ子のように手足をじたばたさせた。コンビニのビニール袋が片足に引っかかっても男は雨と闘い、しとどに濡れた無様な恰好で私も雨と闘った。その間、野良犬と雨合羽を着たお年寄りがのそのそと通り過ぎていった。
 雨は、夕方には止んだ。雲間から黄金色の西日が覗く頃には、私も男も、自分の然るべき場所へ向かって歩き始めていた。男とはまたどこかで会うかもしれないが、でも、きっとお互い分からないだろう。その頃には、私達はうんと変わってしまっているだろうから。

雨と闘う者

雨と闘う者

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-12-18

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