前のめり
論じる対象に対して、可能な限りの議論を尽くした哲学を主題とした論述の中にレトリックが用いられるのを筆者は好ましく思う。
なぜならかかるレトリックが卓抜であれば、表現されるイメージによって議論対象のアウトラインは一挙に成される。この外縁に沿って行える大まか理解は、再び入り込む議論の只中にあってより詳細な検討を行い又は手付かずの部分の発見をする等の助けをくれる。内なる論理と外縁としてのイメージの挟撃によって育まれる議論の高まりが、言葉をもって理解する人の「世界」の多面性や刷新を図るにまで至る可能性だってある。
にもかかわらず哲学的論考においてレトリックが批判されるべきだとすれば、それは対象に向けて行われるひと回り、ふた回りと捻った表現が果たしてしまう過剰さにあると考える。論理的主張が行う確かさを超える程のレトリックは「そう信じるべき」という宗教の教義に近付く印象が拭えない。その記述を追っていて一読者としてそこに参加できない疎外感を味わうことが少なくない。望まない説教に響く心を持ち合わせていない捻くれ者だと自覚する筆者は、だから哲学的主題を論じる文章中に強すぎるレトリックを見かけると物凄く身構えてしまう。上手くその論述と向き合えなくなる。そうして残念な気持ちになって、最後には反省できる読後感を拾い集める、その作業に没頭する他なくなる。
一見して意味不明。目の前にある表現をそう評するにも、鑑賞者は意味に満ちた「世界」の側に立つ者として表現作品に向かい合うことから始めなければならない。なぜなら訳が分からない、という為にも論理が必要だから。だからそれを知ろうとする論理的なアプローチを自分に許さなければならない。
表現行為の結果として目の前に存在するそれを語り尽くす為に、でなく表現されたそれに接する情報処理システムとしての「私」が外界を知る為に使える論理や想像その他のものを機能させ、了解した過程を遡ることで追えるもの。私(わたくし)という内的世界の形成に寄与する意思主体としての土壌に触れられる(と想像できる)きっかけを得て、対象を支持する「私」の表現を見つめ直す。何のためにそんな事を言おうとするのか、何のためにそれを言いたいと思ったのか、それを言った事で「私」は何を思ったのか。そしてまた「私」は、何を言いたいと思うのか。
生存に向けて統一を希求する意識作用の恩恵を否定することなく、意識作用が働くこの肉体的事実をもって知り得る「外」との循環の融通を「想像して」図る。そのために過ごす自分勝手な時間。具体的な作品からイメージする表現者一般の姿を追い続ける集中と試み。
以前、どこかで記したシュルレアリスムの範疇に属する写真表現に対する苦手意識は、特に後期において豊かさを自称する「無意識」の側から意識が走らせる論理の、例えば屠殺場の存在のような社会が都合良く見ていない欺瞞を告発するスタンスを前面に押し出していると解する他ない、表現作品としての評価軸を自ら率先して打ち立てている。そういう縮こまり方を積極的に行っている。もっと正確に言えば、私以外の誰も理解できないという究極の形で実現し得るオリジナリティの幻想に惑わされることなく、表現する側が意識して行わざるを得ない「一人でも多くの人に届くように」と願い、求める「評価される」ということ。そこに内在する難しさに嫌でも直面してしまう、だから抱いてしまうものだと認識する。
評価されるという理解の果てに待っているのが「飽きた」とか「マンネリ」といった鑑賞者の反応だとすれば、そこから逃れる為に表現者が創意工夫をするのは決して悪くない。作品に込めるメッセージの刺激を強くして少しでも長くその印象が残るよう仕向けたり又は敢えて論理的に解釈可能な表現を示唆しながら、かかる解釈自体に対する批判めいたお巫山戯を施して「評論」という営み自体を表現の射程に収めることにも十分な意味があると筆者は考える。
しかしながらその鑑賞の時間においては内心の動きが少ないのもまた事実で、設定された土俵の上で今か今かとと待ち構えている論争の予感に関心が引っ張られる。何だったらその挑発には乗らず、一歩引いた場所から設定された土俵自体に対する評価を鑑賞者は行える。そうなると作品鑑賞の方は自らの論評を根拠づける二次的、三次的な資料の収集に向けた事務処理になっていたりする。そこで感じる申し訳なさに何とも言えない気分に陥り、次の作品に向けて足早に立ち去る、その判断及び行動によって簡単に片付けられた機会喪失の勿体無さに引き摺られる素人な心情がある。
しかし作為によって生まれる表現作品は「何もしない」という無作為の行為によっても生まれるのだから、行為の痕跡を一切見せずに表現それ自体を成り立たせるべきという理想には賛成の意を表するも、そうはいかない実際からもまた目を背ける訳にはいかないのでないか。
では、と思い出してみる。時代的背景の文脈に浮かび、その表現意図を露わにする各作品を歴史資料として眺めながらも時に訪れた、理性的に立ち止まってしまう瞬間にあったものは何だろう。
その時に覚えた感動によって深く打ち込まれた筆者の主観的事実を今も支えているものは、またこれからもそういう瞬間がきっと訪れると憶断しているこの感覚を支えるものは、何なのだろう。
シュルレアリスムを代表するマン・レイが撮った「りんごとネジ」に認められる自然と人工の交差。その交点で主張される認識上の線引きを指腹でなぞり、追っていく第一次世界大戦といった大きな畝りの只中にあってその一枚の写真作品が傾ける実りの在り方。歪な形で、置かれた場所の木目の表面に濃い影を落としているのに全体的なユーモアは失われていない。
河野徹が写した「初冬」と見比べて、隣に展示される「逆光」は装飾的効果を意識した意図的な作品で「如何にもだなぁ」という意地悪い感想を抱いたっていい。そう判断しているのに、筆者はこの一枚がとても好きだ。
解放された玄関を通り、現実に来訪したその人物を捉える視界に覆い被さる植物の意匠が見失った遠近感と、強く表された明暗というコントラスト。あたかもノートの上で定規と分度器が理性的にも感覚的にも用いられた様なその瞬間の印象を「芸」と評するのは失礼にあたるだろうか。けれど計算を尽くして撮った結果としての写真作品が見せてくるその表現は、撮影者も置いてけぼりにした自律を達成していると思えて止まない。それを表した者も、それを見る者も等しく取り扱い、振り回してあるいは楽しませてそれぞれの感想を求めてくる。
「逆光」を前にして思う、ほんの数本分でいい、そういう手の離れ方をもって関係性を跨ぐ作品を「表現それ自体が成り立っている」と評することは許されるだろうか。
上記したものを含め、東京都写真美術館で開催中の『アヴァンガルド勃興 近代日本の前衛写真』にて鑑賞できた素晴らしい作品群の中で筆者が最も衝撃を受け、そして一生忘れないだろうと述懐したソシエテ・イルフ所属の写真家、許斐儀一郎(このみ・ぎいちろう)。「古い」という言葉を逆さにして名乗る前衛的な団体において、戦時下にあっても新しい表現を目指したという。
不勉強ながら本展で初めて知ったこの写真家の作品は正にシンプルイズベスト。題名不詳のままに続く各表現に用いられ又は捉えられる対象は空き瓶に貝殻、不揃いに積み上げられたレンガに棒付きキャンディーの様な形に組まれた小さな謎の物体などであり、それらを配置したロケーションの元で撮影している。しかしながら、そこで達成されているものは凄まじい。
無駄な努力と知って以下に言葉を紡げば、許斐儀一郎の写真表現は「何だろう?」という疑問を先端にして筆者の様な理屈っぽい鑑賞者の重い口をきっと開く。近しいイメージを次々に喚起させては、その正誤を決して明らかにしない。だから幾らでも語れるし、語るのを止めてじっと見てられる。
なんだ、巷に溢れる多様な解釈を許す作品ってやつだろう?そんなのどこにでもあるじゃないか。大したものじゃない。
と、上記した一文に刺激されて口を出す筆者の天邪鬼な部分が発する言葉に応答すれば、許斐儀一郎の写真表現が喚び起こすのはそんな生易しいものじゃないと筆者は思う。なぜなら氏の表現を意味で捉えれば間違いなくズレる。そう感じてズレを正そうとしてもまたズレる。これをずっと繰り返せる、だからそこに正誤はない。そう言える。
確かにこの点をもってその写真表現は多様な解釈を許すと言えはする。しかしながらポイントにしたいのは氏の表現の旨み。どういうものかを主観的に味わって、一般的に論じようとした時に生じるこの「絶望」感なのだ。
「何か一つでも違っていれば、きっとそうだったかもしれない可能性に満ちた」それ。人の「世界」の意味を逃れるヌルッとしたこの感触。語れたという一応の満足すら得られない、そういう振られ方。
冒頭に記したレトリックの危険を冒して、異星人との邂逅そのものと表現したっていい。奇妙にシンプルで、だからこそ余計に評したくなる想像に満ちた最高の前のめり。時代や社会状況を前にして刹那的になるのでなく、蹴躓くぐらいに走り抜けようと試みたその足踏みは賞賛に値すると筆者は考える。
前衛とはかくも意図的に、そして念入りに実行され、そして偶然の如く成立したものだったのかと実感する。そうして知る、この軌跡を手放すのはとても惜しい事なのだと。
毛嫌いなんてしている暇はない。
彼らから見習えるのは、そういう姿勢なのだと既に教えられたのだから。
越境はこうして果たされる、と胸を張っている自信はない。でもここに何かしらのヒントは見つけてみたい。表現と評価の関係性を巻き込む大きな言葉の樹影が育まれるように。
前のめり