七恵と僕のスケッチ ~『あなたがここにいてほしい』から、その冬。

 「うおあー」
 七恵(ななえ)が両手を広げる。
 その小さなてのひらでまるで何かを包みこもうとするみたいに。
 「海だぁ」
 四歳の七恵の目の前いっぱいに広がるのは、穏やかに凪ぐ相模湾。
 潮風に目を細めると、七恵はなんだか感慨深そうに言った。
 「ナナ、生まれて初めての海だなー」
 切り立った崖の向こうには、光り輝く大きな海原が広がっている。
 七恵の記憶の中に残る上ではたぶん初めての、海だ。
 七恵とは初めての冬のお泊り。午前中は由比ガ浜を走って江の島の水族館に行った。七恵はおおはしゃぎだ。もともとビデオショップで沖縄の波照間島で撮影した海ガメのDVDを観て、
 「ナナさー、海行ってないなー。パパ、そう言えばナナね、海行ったことなかった」
 って言うから、冬の旅行は海に行くことに決めたのだ。行き先は迷わず、小田原方面にした。ルートはやっぱり昔、美幸が僕とめぐったコースだ。そのとき、七恵はいない。なにしろ大学の卒業旅行で行ったところだ。
 「本当は、ボラボラ島に行きたかったんだけどなあ」
 水着まで新調していた美幸は何度も、そうやってこぼしていた。そう言えばあれも、年の瀬迫るこのくらいの時期だった。本当はタヒチに行きたかったけど、予算の関係と、これから迫る結婚の準備でそれどころじゃなかったのだ。
 結局タヒチは二人の生活が落ち着いてから行こうと言うことになった。でもその約束も、就職後の僕の仕事が忙しくてお流れになってしまった。
 そのうち、七恵が産まれた。そしたら、今度は七恵が大きくなってからにしようと、美幸が言い出したのだ。
 「だってナナにとってタヒチが、生まれて初めての海になるかも知れないでしょ」
 まだ幼い七恵の水着選びにも、美幸は念を入れていた。その約束も、やっぱり、美幸があんなことになってついに果たせずにいてしまったんだけど。
 ここへ来るのは、実は二回目。その卒業旅行のときが一度、そして二度目は美幸が亡くなる前だ。
 「どこでもいい。死ぬ前に海がみたいな」
 亡くなる直前に、美幸が言っていたのを僕は思い出す。もしかしたら、記憶のどこかにずっと引っ掛かってはいたんだろう。タヒチに七恵を連れて行きたがっていた。
 あの日もこんな凪ぎの海の昼下がりだった。無理やりに休みをとって、僕はこっそり、美幸を病院から連れ出した。七恵は実家に預けていた。思えばあれが、二人きりで過ごした最期のデートだった。
 美幸も調子がよくて伊豆まで足を伸ばして、日帰りの温泉にまで入ったのだ。
 もちろんそれが、亡くなる前の小康状態だと言うことはなんとなく分かってはいた。自分の父親を看取った経験から美幸にも分かっていた。身体が一気に命の残り火を燃やし、最期の抵抗をするのだ。それでもその数日、無表情だった美幸に、以前のとおりの微笑みが戻っていたのはうれしかった。

 「ナナ、おんせんも初めてだよ!」
 七恵と泊まったのはその崖の中腹の斜面にしがみつくように広がる、小さな温泉町だ。そこは押し詰まった坂の多い土地で、どうにか電車が走っている感じで、旅館から歩くと、こぢんまりとした単線の駅が、かわいらしかった。
 木造のその駅は白壁が美しく、まだまだ新しい建物だ。美幸と来た時も、トイレを借りにそのささやかなロータリーに車を乗り入れた。
 道に従って駅を歩くと、海へ出る道になっている。
 坂の向こうにはいっぱいに、半円形の相模湾が輝いている。透明度の高い冬の陽を受けて、目もくらむような銀色だ。その小さな浦からあふれだそうとするみたいに。あの日も、そこは誰も文句のつけようがないくらい、晴れ渡った冬の空だった。
 「ここは?」
 と、駅を見つけた七恵が訊ねた。
 「根府川」
 「ねぶかわ?」
 そう、根府川だ。美幸と過ごした最期の日、ふと立ち寄った小さな駅。不思議とこんなちょっとしたことが、一番、頭に引っ掛かってくる。あれから、君のふとした表情やなにげなくかわした冗談めいた会話が一番、心に響くようになったように。思い出なんかどれも、全然、ドラマチックじゃなくて。それでも僕たちのどこかにひっそりと息づいて、そこで待っていてくれるのだ。
 そんなことに気づいてから、僕はときどき、美幸を探す旅に出た。七恵と二人、気が向いたときに。そこで美幸に出会えたときに思う、君はまだまだこの世界に息づいている。そしてたぶん、こうやって七恵にまだまだいっぱい、色んな化学変化を与えてくれるだろう。
 もうあの夏のように、美幸は七恵の中に現れたりはしない。
 でも、それでいいのだ。
 だって、僕たちはいつでもずっと一緒でいられるから。
 今だってこうして。
 僕たちは色々な場所でまた、つながることができる。

 七恵はもじもじしながら首を傾げている。たぶん、駅が小さいのが不思議なのだろう。七恵の印象では、駅と言うのはもっと人がいて、巨大な建物なのだ。東京にいたときも、今棲んでいる安曇野に来てからも。
 「パパ、ねぶかわ? そこ?」
 僕は答えた。
 「そう、根府川。ママと来た場所」
 「おぉう、ママ、いた?」
 「いたよ。七恵が立ってるところ」
 「ほんと!? いまナナの立ってるとこ!?」
 そう。
 そして、ここにも。七恵の、ママがいた場所があったんだ。

七恵と僕のスケッチ ~『あなたがここにいてほしい』から、その冬。

えっと、掌編第4弾は書きなれたキャラクターを使って書いてみようと言うことで、彼らのその後を書いてみました。いや、決して使いまわしじゃないですよ?(怪しいな)シーズンが年末と言うことで、『あなたがここにいてほしい』を読んでくれた方にもそうでない方にも、年の瀬の小さな温泉町の雰囲気を楽しんで頂けたら幸いです。ありがとうございました。

七恵と僕のスケッチ ~『あなたがここにいてほしい』から、その冬。

掌編小説第4弾は、拙作『あなたがここにいてほしい』から。主人公の僕、北原和義と七恵ちゃんの親娘に登場してもらいました。今作はあれからすぐ、その冬。年の瀬の小田原、相模湾。根府川(ねぶかわ)という海沿いの斜面にある小さな駅に訪れた二人を描いてみました。

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更新日
登録日
2012-12-18

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