幻の楽園(十四)再会II 遠い記憶~エピローグ Paradise of the illusion
幻の楽園(十四)再会II 遠い記憶~エピローグ Paradise of the illusion
よく晴れた、四月の終わりの週末の午後。
春の日差しが降り注ぎ暖かい。心地よい南風が吹いてくる。耳元で風の音が時折聴こえる。
穏やかな午後だった。
川崎慶は、海岸のベンチに座って海を見ていた。
ここは、海岸に沿って整備された公園だ。砂浜と公園の間に、遊歩道が1km殆ど続いている。
海岸に訪れた人々は、ベンチに座って海を眺めたりして気ままに時を過ごす。
時々、ウォーキングやジョギングをする地元の住民とすれ違う。
海岸の砂浜に、沢山の家族連れが穏やかな時間を過ごす。
海辺の波打ち際で子供の歓声がきこえる。
引いては返す波に、濡れない様に子供が行ったり来たりして燥いでいる。
青い空。白い雲。穏やかな波の音。時折、微風が吹いてきて潮の香りがする。北側には、芝生の広場と
椰子が並んでいる風景。
ここは、心が安らぐ場所だ。
海面が満ちてきて太陽の光で輝いている。
彼は、水平線を飽きる事なく眺めていた。
*
そんな、穏やかな時間の延長線上に細やかに驚きのある出来事が起きた。
遊歩道を西からゆっくり歩いてきた女性が、彼の斜め前で立ち止まり彼を見た。
彼は気にも留めず水平線を見ていた。
「川崎君......。川崎君でしょ?」
何処か懐かしさのある彼女の声に、彼は彼女の方を仰ぎ見た。
見た瞬間、軽い驚きを隠せなかった。
そこにいたのは南沢遥だったからだ。
彼女が微笑してこちらを見ている。
もう別れて長い月日が経っている。
幾分、年齢を重ねて大人の女性を身にまとってはいるが。
笑顔は、あの頃のままだ。
あの頃のままの彼女だ。
まるで、時間が逆戻りした感覚だった。
*
「遥......」
「こんな所で、逢うなんて予想外ね」
彼女は微笑した。
彼は気を取り直した。
立ち上がって彼女を見た。
あの頃から比べれば、少し大人の雰囲気を漂わせている。けれど、幼さが残る端正な面影は変わらない。
「偶然だね。変わらないね。君は昔のままだよ」
「貴方も変わらないわ。元気?」
「うん元気だよ。君は?」
「元気よ」
そう言って彼女は再び微笑した。
笑顔も変わらない。あの頃のままだ。
「ここへはよく来るんだ」
「私は始めて来たのよ」
「へぇ。そうなんだ」
「こんなところで出逢うなんて、ほんと偶然」
「そうだね。ひとりで来たの?」
「今日は、この辺に用事があって来たのよ。帰り道に寄りたくなって来たの。いい雰囲気の公園ね」
「時間ある?よかったらコーヒー飲まない。駐車場の自販機で熱いコーヒーを買ってくるよ」
「いいわ。私もコーヒー飲みたいところだったの」
何故か、あんな酷い別れ方をしたのに。
二人は仲の良かった頃に戻ったような雰囲気になった。
二人は駐車場に行くと、自販機で熱いコーヒーを買った。
硬貨を入れると、紙コップが落ちてその中へコーヒーが注ぎ込まれる。
二人は、ブラックコーヒーを選んだ。
コーヒーカップを持って、先程のベンチまで、歩いてきて座った。
*
「結婚は?」
慶は、わかっていたけど知らないふりをして遥に聞いた。
「あなたの知っている人。手紙に書いてあった人」
「えっ誰?」
「神田隆一さん」
「そうか、隆一とそのまま結婚したんだ。そうだったんだ。よかった。あいつも、君のこと好きだったんだ。三人が出逢った頃から何となく気がついてた」
「そうなの?」
「うん。何となくね。けど、君と付き合ってる時から気がついてたから聞かずにそっとしておいた」
「貴方は結婚したの」
「僕は、まだ独りだよ」
「素敵な人くらいいるでしょ?」
「友達ならいるけどね」
「親密な?」
「距離感はある」
「寄せては返す波の様に?」
「まあ、そんな感じ。子供は?」
「女の子がひとり」
「あぁ。夏に隆一とショッピングモールで偶然に出逢ってね。その時、娘さんに会ったよ」
「あら、そうなの?」
「隆一が声をかけてきて。振り向いたら二人で立っていて......」
「娘と仲がいいのよ。まるで恋人同士みたいに」
「あの頃のきみにそっくり」
「そうかなぁ。女の子はお父さんに似るて言うけど」
「一瞬、きみじゃないのかと思ったくらいだ」
遥は、静かに微笑した。
「可愛いでしょ」
「素直に、君だと思った。何故?歳を重ねてもあの頃のままなんだと不思議だった」
遥は、楽しそうに微笑している。
「貴方らしいわ」
「いくつ?」
「大学生。もう卒業するのよ」
遥は、遠い水平線を見て淡々と言った。
「そうか、あの頃の君と同い年か。そう言う訳か」
「そうよ。そう言う訳よ」
遥は、復唱して微笑した。
二人は、ベンチに座り。海を眺めながら過ごした。
時々、熱いコーヒーを飲む。
コーヒーの香りが、頬をかすめる。
穏やかな波の音が聞こえる。静かな時間だった。
「幸せ?」
慶が言いかけた言葉を遮るように遥が言った。
「幸せなんて言わないで」
「あ、いや。幸せそうに見えたから」
「わからないわ。ほら、あの波打ち際で過ごしてる家族連れみたいに幸せって事かな?」
「幸せそうだよ」
「あれは、恋人の様な雰囲気とは違う幸せよ」
「あの頃が懐かしいな」
「そうね。あの頃の、貴方は素敵だった」
「そうかな」
「貴方は素敵な人よ。でも、私達は一緒になれなかったの。そうなる運命だったのよ」
「そうだね。残念だけどうまくいかなかった」
「私はあの頃を、忘れないわ。貴方の事も」
「僕も忘れないよ」
二人の会話が途切れた。
穏やかな波の音と、波打ち際の人々の歓声が聞こえる。時折、吹いてくる南風が耳元で囁いて潮の香りを残して去っていく。
「隆一は、元気なのか?」
「元気みたいよ」
「元気みたいて?家族なんだろ」
「去年、離婚したのよ」
「えっ?」
慶は、突然の事で驚いた。どう返せばいいのか戸惑う程に。
口を半開きにしたまま彼女を見た。
「やだ、そんな顔で見ないで」
「だって子供もいるのに…」
「まあ、色々と彼の家の事で事情があってね。子供も大学を卒業するし。就職も決まって一人暮らし始めるし。もう、いいかな。て思ったの」
「生活とかはどうしてるの」
「元々、公務員を辞めずに勤めているし。今はマンションで一人暮らしなの。時々、部屋に娘が泊まりに来るくらいかな」
「そうだったんだ。余計な事を聞いてごめん」
「いいのよ。家族みんなで決めた事なの」
遥は、穏やかに笑った。
*
二人はコーヒーを飲んだ後、しばらく並んで海岸の遊歩道を歩いた。
「せっかくだし、夕食を一緒に食べない?私、お腹空いちゃった」
彼女は、僕を見て微笑する。
幾分、年齢を重ねて素敵な大人の女性を身にまとってはいるが。
笑顔は、やはりあの頃のままだ。
二つ返事で慶は応えた。
「いいよ」
「この辺で美味しいところないかしら」
「海岸の向こうの入江にマリーナがある」
「うん」
「そのマリーナの小さい丘にイタリア料理のレストランがある」
「そうなの?」
「パスタやピザのメニューも多いし。新鮮な食材で有名なレストラン」
「美味しそう」
「海が一望できるし」
「素敵。いいわ。そこにいきましょう」
彼女は、歳を重ねても何処か品があって無防備な仕草は変わらない。
彼女の微笑は、僕の気持ちを捕らえて離さない。
二人は、そのイタリア料理のレストランで食事をする事にした。
*
二人は、並んで歩いた。海岸の遊歩道を東の端まで歩いて行き。更に防風林の道を抜けて防波堤に囲まれたマリーナに出た。
マリーナには、ヨットが沢山停泊している。
時折、ヨットが穏やかに揺れている。堤防の端の向こう側に水平線が見える。
午後の太陽に反射する光が水平線で輝く。
「素敵な景色ね」
彼女が嬉しそうにマリーナの風景を眺めた。
「シーズンには、ヨット未経験者を集ってクルージングも開催されるんだよ。一度、参加して乗ったことがある」
「素敵」
「風がなくて、途中までクルージングだったけどね。海なのに湖のように静かだった」
「風は吹いてきたの?」
「後半に、風と波が出てきたから幌をあげてセーリングもしたよ」
「そうなんだ」
「気持ちいいよ」
「乗ってみたいわ」
「途中、船酔いしてしまった若い女性がいてね。昼食の時間、レストランの外のベンチで寝ててクルースタッフが介抱していた」
「船酔いしてもヨットに乗りたかったのかしら」
「そのクルースタッフと女性がね。その後、親しくなって結婚したんだ」
「えっ、そうなの?」
「まあ、不幸中の幸いてやつさ」
慶の言葉に、遥は楽しそうに笑った。
「貴方らしい言い回しね」
「そう?そうかな」
二人はマリーナの敷地を楽しむように歩いた。
しばらく歩くと、マリーナの向かい側の雑木林から小高い丘が見えてきた。
「ほら、あそこだよ」
慶が丘の上を指差した方向を彼女は見た。
小高い丘の崖にコンクリートの建物が見える。海側はテラスになっているのがわかる。
そのテラスの手摺りからブルーと白が交差するビーチパラソルが並んで見えた。
*
二人は、小高い丘に続く道を歩いてレストランに入った。
空調の効いたコンクリートの壁の広い空間と、二階へ続く階段があった。一階の大きなガラス張りの窓の向こう側に水平線がみえる。空と海。二色の濃淡のブルーが窓を二分していた。水平線の光の輝きは更に広がりをみせている。海側の席は、全て食事をしている人がいた。
二人は、二階へと上がった。
二階も大きなガラス張りの窓があった。その窓の向こう側はテラス席になっている。
テラス席の手摺りの向こう側に水平線が見える。
テラスに均等に並んだ席が三つあった。テーブルの横に、ブルーと白の交差するビーチパラソルが立てられている。
二階は、室内に初老の男性と女性が食事をしている席以外は空いていた。
二人は、テラスへ出た。潮の香りを乗せた南風が、穏やかに吹いてくる。マリーナの向こう側にパームツリーが風に揺れているのがわかる。潮騒が遠くに聞こえる。
二人は、左側の隅の席に座った。
「風が気持ちいい」
居心地良さそうに遥が言った。
「今日は、天気もいいし、見晴らしは最高だと思ったんだ」
「見て、空と海が二つの綺麗なブルーで分かれてる」
「ここは、お気に入りの場所なんだ」
「いつも来るの?」
「年に何回かな。この辺に来る時は必ず寄る」
「知らなかったわ」
スタッフが氷の入ったミネラルウォーターのカラフェとグラスを二つ持って注文を取りに来た。
二人で取り分けるように、マルガリータのピザと鶏肉のトマト煮込みを一品づつ選んだ。
後は、スープとシーフードサラダのついたパスタをそれぞれ選んだ。
慶は、白ワインのボンゴレビアンコ。
遥は、鱈子パスタを注文した。
後は、食後にティラミスとカプチーノを追加した。
*
食事は、どれも美味しく時間をかけて二人は楽しんだ。
あの頃の恋人同士に戻った様に楽しい時間だった。
最後に、食後のティラミスとカプチーノがテーブルに来た。
遥は、ティラミスを一口食べてカプチーノを少し飲んだ。
それから、慶に視線を向けた。
「ねぇ。これ見て」
慶は、彼女を見た。彼女は、微笑して首元のネックレスを持って見せた。何処かで見覚えのあるネックレスだった。
「それ、クリスマスの時にプレゼントした…」
「別れた時、貴方を思い出させるものは全て捨てようとしたの。写真、プレゼントしてくれた物。手紙、一緒に聞いたCDも」
「うん」
「けれど、何故かこのネックレスだけは捨てられなかった」
「うん」
「ねぇ。覚えてる?」
「ネックレスをプレゼントした日?」
「そう。レストランでディナーを予約して」
「うん」
「窓を見てたら雪が降り始めて」
「そうそう。レストランを出る頃には、街が雪で真っ白になってて」
「街がホワイトクリスマスになってた」
「君の息が白かった」
「あら、あなたも白かったわ」
「そうだね。そうだった」
二人は、柔らかに微笑した。
「手を繋いで、街を歩いて。貴方の部屋にいったわ」
「そうだった。寒い夜だった」
「あなたの部屋は、暖かかった」
「楽しかったね」
「貴方は、優しかった」
「君の寝顔は穏やかだった」
僕は、妙に照れ臭くなって誤魔化すようにそう言った。
「そうだったかしら?」
「優しい寝顔だった」
「やだ、ずっと見てたの?」
「眠くなるまで随分と見ていた」
「今になって恥ずかしくなってきたわ」
「懐かしいな」
「遠い記憶。私の大切な記憶よ」
「捨てられなくてよかった」
「ほんとは、全て捨てるつもりだったけど」
「うん」
「捨てられなかった」
「大切に持っていてくれてありがとう」
「いいの?」
「持っていてくれて嬉しいよ」
「わかった。これからも大切に持ってる」
「君は、今でも素敵だよ」
「ありがとう。貴方も素敵」
「ねぇ。遥」
「なに」
一瞬の間をおいて僕は答えた。
「いや、なんでもない」
僕は、彼女に「もう一度、やり直そう」と、衝動的に言おうとした。
喉元まで出かかっているその言葉を、理性が押し込むように留めた。
二人で過ごした時間に、何度となく言うタイミングが訪れたけれども言えなかった。
支払いは、遥が割り勘を希望した。それを制して慶が全て支払った。
*
二人は、レストランを出て駐車場へ歩いた。
椰子の向こうの白い建物の壁は西陽でオレンジ色に染まりつつある。
もう、黄昏の時間に差し掛かろうとしていた。
「あー美味しかった。ごちそうさま」
「よかった」
「今日は、車で来たの。川崎君も車で来たの?」
「うん」
「どんな車に乗ってるの」
「え?」
「私は白いバンなの、普遍的な家族の為の白い自動車。離婚する時、隆一さんからもらったのよ」
「ふーん。そうか」
「その素っ気ない受け応え。昔と少しも変わらない」
「あぁ、そうだな。癖なんだよ」
「懐かしい……」
「そうだな」
「で?貴方は?」
「えっ?2シータの赤のオープンカー」
「えぇ?赤のオープンカー?」
「うん。屋根がね、折り畳みの幌なんだ」
「周りの人に見られちゃうじゃないの」
「最初は、恥ずかしかったけどね。もう慣れたよ」
「それがさぁ。買った次の日に屋根を切り裂かれて車上荒らしにあったんだよ。幸い書類はその辺に散乱してて全て回収したけどね」
「嘘。ほんとに」
「その日は、女性と初デートのドライブだった」
「あら、ついてない」
「警察署で半日以上も事情聴取と鑑識に付き合わされた」
「鑑識?」
「指紋とったり。幌周りの撮影とかね。書類にして保管すると担当の警察官は言っていた。犯人が別件で逮捕された時に余罪がないか記録に残して置くのだろう」
「ドラマみたい」
「お陰で、初デートはキャンセル。以来、彼女のご機嫌を損ねてしまい別れた」
「可哀想」
「結局、警察署を後にしてディラーまで乗って行って幌の修理を頼んだ」
「楽しい一日が台無しね」
「幌は受注生産だから時間がかかる」
「その間どうしてたの?」
「待たされる間、切れた所を布のガムテープを両面に張り付けて、これで我慢してくださいと言われた」
「えぇ。雨漏り大丈夫だったの?」
「不思議に漏らなかった」
「マンガのポンコツ車みたい」
「幌つけた時の方が恥ずかしかったよ」
遥は、面白そうに笑った。
二人は、駐車場をゆっくり歩いた。
彼の車の所で、二人は立ち止まった。
「素敵なオープンカーね」
「クラッシックな雰囲気が気に入ってる」
「素敵」
「カーブを曲がる時、尻を振る」
「えっ?」
「あ、僕が尻を振るわけではない。車の後輪がスライドしたような感覚が楽しい」
彼の言葉に、二人は楽しそうに微笑んだ。
「乗っているだけで楽しい車だ。初夏か、秋の涼しい頃にオープンで走ると更に快適で心地よい」
「素敵ね」
「大抵の女性は、最初そう言う」
「乗ってみたいわ」
「必ず乗ると、髪が風で乱れるから屋根を閉めてよ。と、文句を言いだす」
彼女は、彼の言葉に愉快そうに笑った。
それから、彼女は、反対方向に向いて指を刺した。
「私の車は、あそこにある白のバンよ」
彼は、彼女の指差す方向を見た。
遥の乗っていた車は、家族の為の普遍的な白いファミリーバンだった。
「娘が生まれて、買い替えて、同じ車種を三台乗り継いでいるの」
「なるほど、幸せそうな家族の為の普遍的な白バンだね」
「離婚して、隆一さんがくれたの。ひとりになっても使い勝手がいいのよ」
「買い物の荷物が沢山乗りそうだね」
「家族が全員集合の時は声がかかるの。私はいつも運転手なのよ」
二人は、また楽しそうに笑った。
笑い声が途切れると、一瞬の間だけ二人はお互いの視線を受け止めて見た。
「川崎君、元気でいてね」
「南沢さん?南沢さんでいいのかな」
「そうね。南沢に戻りました」
遥の言葉に、慶は静かに笑った。
「そうか、そうだった。元気でね」
「さようなら」
そう言って遥は、慶の瞳を覗き込むように見た。
僕は、その真っ直ぐな綺麗な瞳を見つめられずに、ふと、視線を外して水平線の彼方の夕陽を見た。
「二度目のさようならは、いいよ」
二人は、また微笑した。
「ねぇ。お互いに車に乗ったらさ。最後にあの真ん中のスペースに一度止めて海を眺めようよ」
「わかった」
「じゃあ」
「ああ」
二人は止めてあるそれぞれの車に乗った。
慶は、シートに座ると幌をオープンにした。
それからバックミラーで遥の車を見た。
遥の乗った白いバンは、
真ん中のスペースへ徐行して近づくと海の見える方向へ停車した。
慶は、それを見届けて車のエンジンを始動した。サイドブレーキを外すとクラッチを繋いで弧を描く様に旋回して彼女の白いバンの隣のスペースに停車した。
サイドブレーキをかけると、彼女の方を見た。
二人の視線が合うと微笑した。
「ねぇ。しばらくこうしていて海を眺めようよ」
「いいよ」
遥が、FMのオンエアーしている曲が車内に流れ始めた。
僕は、それに応える様に彼女に言った。
「何処のFM?」
「Ocean Bay FM」
慶は、ラジオをつけてOcean Bay FMにチューニングした。
二人は、車で音楽を聴いた。
*
Welcome to Ocean Bay FM. Free music selection program. Please enjoy the fleeting time of the day.
Welcome to the afternoon lounge. Ocean Bay FM.
さて、午後の私のプログラムも終わりが近づいてきました。首都高速はC1エリアで1kmの渋滞が発生している模様です。
運転中の皆様は、安全運転でお帰りください。
お相手は、七海 理央奈でした。
最後の曲は......。
松田聖子 Sweet Memories
see you next week byby.
*
" なつかしい痛みだわ
ずっと前に忘れていた
でもあなたを見たとき
時間だけ後戻りしたの"
"幸せと聞かないで
嘘つくのは上手じゃない
友達ならいるけど
あんなには燃え上がれなくて"
" あの頃は若過ぎて
悪戯に傷つけあった二人
色褪せた哀しみも今は
遠い記憶sweet memories"
"失った夢だけが
美しく見えるのは何故かしら
過ぎ去った優しさも今は
甘い記憶sweet memories"
*
「君の好きな曲だ」
「今でもこの曲、聴くのよ」
「永遠に色褪せない。いい曲だ」
彼女は、微笑した。
「あの頃、二人でドライブした時にこのFM局よく聴いたわ」
「今も聴いてるよ」
「私もよ。二人で聞いた頃が懐かしいわ」
「今となっては、あの頃が美しく懐かしい」
二人は、嬉しそうに微笑した。
*
色々な出来事や情景の記憶が溢れてくる。
車や部屋やあのカフェでも聞いたね。
君と一緒に。
今でも、時々チューニングして聞く。
一瞬、立ち止まり懐かしく思うんだ。
喜びも怒りも、悲しみや情け無さも、そして楽しかった事も、過ぎ去った全てのことを愛おしく思えるんだ。
二人のラストシーンには相応しい。
目の前の海は、穏やかに黄昏の時間だ。
曲の終わるタイミングで遥が言った。
「さあ、帰らなきゃ」
「あっ。ちょっと待って」
慶はそう言うと、エンジンを始動して一旦、前に出た後に旋回してから遥の車の向きとは逆に駐車スペースに入った。
二人の運転席が重なる位置に来ると停止した。
僕は、運転席の遥をみた。
遥は、僕の方を見ながら微笑してサイドのウインドガラスを全て開けて下ろした。
「どうしたの?」
「......」
慶は、何も応えず身を乗り出して右手を彼女に伸ばした。
彼女も窓越しに身を乗り出す様に手を出した。
二人の指先が触れ合った。それから確かめ合う様に手を繋いだ。彼女の柔らかい掌から温かな体温が伝わってきた。
僕たちは、しばらくそのままでいた。
彼女は、美しく微笑した。
時が止まったように感じる。
「あの時は、すまなかった」
「なに?」
「君に、酷いことを言って傷つけてしまった」
「いいのよ。もう」
「すまない」
「もういいの。そんな昔のことは、何処かへ捨ててきちゃったから。気にしなくてもいいの」
「そうなのか」
「そうよ。もう、お互いに許しあえるでしょ?」
彼女は、僕を見て微笑した。
「そうだね」
僕も、それに応えて微笑した。
見つめ合った視線の先の彼女の瞳が一瞬だけ淋しさの表情を見せた。
「元気でいてね」
「幸せでいてほしい」
「ありがとう」
「じゃあ、またね」
「あぁ。またね」
多分、二度と逢うことはないのに。
何故か二人は、「またね」そう言った。
彼女は、僕の手を離して車の中に手を引っ込めてサイドガラスを再び閉めた。
バンのサイドガラスに車に乗った僕が写っている。その向こう側で、彼女は、バイバイと手を振る仕草をして一雫だけの涙を流した。
涙の雫が頬をつたって口元へ流れていくのがはっきり見える。
それから、涙を拭いもせずに彼女は前を向いて車を静かに発進させた。
徐行しながら遥は、もう一度だけあの頃と変わらない笑顔で彼に手を振った。
慶も軽く手を振った。
慶は、彼女の白いバンが駐車場を出て見えなくなるまで見送った。
*
彼女は、凛としていて清く正しく美しかった。
時の流れと共に強さを身につけた様に感じた。
それは、結婚し家庭を持ち子供を出産し育てる過程で身につけたのだろう。独身の僕にはわからないが、きっとそれは愛なんだろう。
彼女の心の傷を癒やしたのは、長い時を共に過ごした家族だったのかもしれない。
*
彼女のバンが見えなくなると、彼はエンジンを始動させた。
エンジンを始動した時、車が身震いするような瞬間がたまらない。
彼は、停止したまま排気音を聞いていた。
あたたかな脈打つような穏やかな音を静かにうつむいて聴いていた。
視界のが少しぼやけて見えた。
太腿あたりのデニムの布地に、水滴が一雫だけ落ちて滲んだ。
雨か?いや、今日は晴れわたっている。
ハッとして慌てて気を取り直した。彼は、何か決意したように真っ直ぐ前を見た。
どうしたんだ。しっかりしなきゃね。
淋しさの気持ちを何処かへ追い払うような決意だった。
しばらくして、サイドブレーキを外すし車のギアをクラッチで繋ぐと、彼は駐車場を後にした。
彼は国道に入ると、西に向かって車を加速した。
前を向いた視線の先に、黄昏の空にオレンジ色の夕陽が見える。
前を見ている彼の髪は風に靡いている。
サングラスをかけた彼の顔は、オレンジ色に染まっている。
彼の赤いオープンカーは、夕陽に向かって走り去り。やがて見えなくなった。
*
エピローグ
幸せになれる幻の楽園を、僕は探し続けていたのかもしれない。
永遠に続くと思えた若い時間は、あっとゆう間に過ぎ去ってしまった。
探しても、僕の思う楽園なんて無かった。
幻だったんだ。
いや、そうじゃない。
探し続ける時間の過程に楽園はあったのかもしれない。
僕は、その事に気がつかないだけだったんだ。
僕は、随分と年月を重ねてやっと気がついたんだ。今ままで来た道を振り返り想う。
これからも、いろいろな事に出逢うだろう。
永遠なんて意味はない。
色々な一瞬を記憶にかえて。
記憶の欠片を心の中に。
終着点まで。
僕は前を向いて、時を歩いて行く。
*
引用 松田聖子 Sweet Memories
Songwriting 松本隆 大村雅朗
幻の楽園(十四)再会II 遠い記憶~エピローグ Paradise of the illusion