スイッチ屋と死にたがり少女-第四話-
左に右折してごらん
右に左折してごらん
前に後退してごらん
後ろに前進してごらん
できるかい?
できるかもね
だって
ワライながらナクことはできるから
※
うだるような暑さは相変わらず続いていて、セミの鳴き声も永遠に続くかのようだった。部屋ではクーラーをかけていたけれど、そのセミの鳴き声が外の暑さを彷彿とさせた。
スイッチ屋はテーブルでノートパソコンを弄りながら時折スーツをバサバサとさせて自分に風を送っていた。それならそのスーツ自体を脱いでしまえば良いのにとも思うが、彼にはそんな考えはないようだ。ちなみに今日は一袋100円のいもけんぴをポリポリと食べている。
私はと言えば、今日は珍しくパソコンではなく文庫本を睨みつけていた。「今日は」と言うより「近頃は」と言った方が正しいかもしれない。普段から本を読まないわけじゃないけれど、机に向かってここまで真剣に字を追っているのは久々かもしれなかった。
「いもけんぴ、食うか?」
「いい。いらない」
活字から目を離さず、私はしっかりと断った。
読んでいるのはシェイクスピアの戯曲『テンペスト』だ。シェイクスピアが単独で作った最後の作品とも言われている。ブックカバーをしているのでスイッチ屋は私が何を読んでいるか知らない。何故読んでいるかも知らない。
そのまま昼過ぎまで二人の間に会話はなかったが、やがてスイッチ屋がガサゴソといもけんぴの袋をクリップで閉めたのが視界の端で見えた。ノートパソコンの電源も落としている。
「弘香、今から俺出かけるから」
慌ててそう言ったスイッチ屋に私は答える。
「分かった。行ってらっしゃい」
※
階段を降りる足音が完全に消えるまで私は息を潜めて待った。ぎこちないその音が消えると、私は長く息を吐く。さっきまで読んでいた文庫本に一応栞を挟んで机に放る。窓から駅方面に歩き出したスイッチ屋を確認する。私はあの男が出かけるこの瞬間を待っていたのだ。
これまで何度もスイッチ屋の不在中に自殺を試みたのだが、ことごとく失敗してきた。絶対に入ってこられないであろう風呂やトイレなどでも見つかってしまったので一時は盗聴や盗撮を疑っていたのだが、スイッチ屋が出かけた際に部屋を粗方捜索してもそれらしい装置などは見つからなかった。これが数日前のことである。
そもそも湯船にお湯をためて潜った数秒後とかトイレのソケットに濡らした手を近づけた瞬間とか、とにかくそんなタイミングで「弘香!何してんだ!!ふざけんな!!」なんて叫びながら現れる芸当、どうしてできるのか。盗聴盗撮装置が仮にあったとしても不可能なのではないだろうか。でもこれには絶対何かしらタネがある。
要するに、私はどんな形であれいつまでもこんなわけのわからない男に見張られているのは癪だったのだ。そろそろ原因を明らかにして、すべてを片付けてしまいたかった。
いつものジャージではなく、白Tシャツと黒いパーカー、ジーンズという服装に速攻で着替えた。こうすると一応は普通に外を出歩ける程度にはなる。いつもスーパーなどに買い物に行く時の格好だ。洗面所の鏡の前に立ち、肩過ぎまで伸びた髪ゴムで適当に結ぶ。一応、出かける旨をメモに書いてテーブルの上に置いた。
「さて、私も出かけようかな」
一応そう呟いて玄関先にいつもおいてあるシンプルな柄物のエコバッグを手にする。外に出る前に部屋を見回したが、特に変わった様子はなかった。
※
スイッチ屋が振り返っても大丈夫なように一応帽子も着用してきた。これくらいでカモフラージュできるわけないのは分かっているので、とりあえずの処置である。もちろん、この夏の激しい陽射しを防ぐ目的もある。外に出れば、セミの鳴き声はより大きく聞こえ、歩けば、アスファルトの照り返しが厳しい。買い物以外に外に出る機会があまりないので、私にとってこの暑さは少し厳しい。
スイッチ屋は私の10数m先を弾むように歩いていた。これはスイッチ屋の歩くときの癖のようなものなので、特に変わった点ではないけれど。
道沿いは住宅が立ち並んでいるが密集地帯と言うほどではなく、たまにどこの誰が管理しているか分からない畑や田んぼ、空き地などがある。空き地では夏休みを謳歌している子どもたちがはしゃいでいる。小学生くらいだろうか。よくこんな暑い中で走り回れると思う。ただえさえ、普段外にあまり出ない性質なのであの元気さは到底理解できなかった。
しばらく歩くと少し大きな通りに出る。道は駅に近くなるほど大きく広くなって、車の通りや人通りもある程度増えてくる。この暑さだから、それほど人がいるわけでもないけれど、たまに旅行帰りらしい家族連れが仲良さそうに歩いていたりする。
私は尾行の専門家でもないし、精々勘付かれないするには距離を取ることしかできない。しかし、スイッチ屋はあちこちで人とすれ違うたびに立ち止まってその人に話しかけているのだ。確かにスイッチ屋が黙りこくって歩いている姿をあまり想像できないのも事実だった。
八百屋のおじさんに、買い物中の主婦、かき氷を買い食いしている男子中学生たち、ティッシュ配りをしている化粧の濃い女性など、声をかける相手は節操がない。尾行しにくいことこの上ないのに加えて、他人様に迷惑をかけているのが気になるので何だかハラハラする。一体何を話しているのかは距離的に聞き取れない。もう少し近寄って話を聞ければいいのかもしれないが、そこまで近づいたら尾行がばれてしまう。
スイッチ屋が声をかけた人物のうちの何人かは彼と顔見知りのようで、八百屋のおじさんにビニール袋にいくつか野菜を入れて貰っていたし、男子中学生とは一緒にかき氷を食べながら談笑していた。初対面と思しき人たちも、最初はいきなり声をかけられて不審そうにするのだが、そう時間もかからずその表情を柔らかいものにしていた。そうやって人とふれあう様子がスイッチ屋らしいと私は思った。
やがてスイッチ屋は一つの店に立ち寄った。その暖簾をサッと上げて店の中へと笑顔で入っていくスイッチ屋を私は物陰から無表情で見つめた。
スイッチ屋が入っていったのは鶴亀堂だ。あの時以来鶴亀堂のまんじゅうは口にしていないのに、味はいまだに覚えている。
そんなに時間も経たないうちにスイッチ屋は、やはりと言うか案の定と言うか、とにかくたくさんのまんじゅうが入った袋を持って出てきた。スイッチ屋の口がモゴモゴと動きながら綻んでいるのを見るに、既にそのまんじゅうのうちの一つがスイッチ屋の口の中で咀嚼されているようだ。
スイッチ屋の後を追って一人の若い女性が出てきた。少しウェーブがかった栗色の髪を項のところに緑色のシュシュで結ってある。白いブラウスに七分丈で紺色のスパッツを履いて抹茶色の前掛けをしていた。色合いは似ているが、シノさんの前掛けとは違うもののようだ。
二人は店先で短く言葉を交わすと、スイッチ屋はまんじゅうを頬張りながら去って行った。女性は手を大きく振ってそれを見送る。スイッチ屋が少し先の曲がり角を曲がったのを見計らって、私はその女性に駆け寄った。
「すいません」
「はい、いらっしゃい!」
近くで見ると痩せていて、目元には皺があり疲れが見えている。それでも女性は満面の笑みを浮かべていた。先程は遠くて見えなかったが、胸元には“亀谷紗知”と書かれたネームプレートが見える。シノさんの親族だと分かって、私は一瞬だけ呼吸を詰めた。
しかし声をかけたは良いが、正直何をどう尋ねようか悩む。私は反射的に声をかけてしまったことを少しだけ後悔していた。
「えーっと……あの、さっきの人って……」
「さっきの人?ああ、あの方はうちのお得意さんですよ」
ようやく絞り出した言葉に、もしかしてお知り合いですか?と尋ねられて少し動揺する。
「えっと、まあ……」
結局、うやむやに頷くと女性は胸の前で手をポンと一つ打ち、顔を輝かせた。
「そうでしたか。じゃあ、きっと貴女もうちのおばあちゃんと仲良くしてくれていた方のお一人なんですね」
「え?」
おばあちゃんとは言わずもがな、シノさんのことだろう。私はドキリとした。
「“喪に服す暇があるならまんじゅうを皆さんに売ってください。でも鶴亀の印はちゃんと表に。”これが先日亡くなった鶴亀堂の前店主の亀谷シノ……私のおばあちゃんの遺言なんです」
変わっているでしょう?と笑う紗知さんに私は曖昧な笑みで返した。
「貴女も“皆さん”のうちの一人だったんですね。ありがたいことだわ」
心の中で何かがストンと落ちた気がした。どこか暗いところに落ちるのではなくて、本来あるべき場所に戻ったような。私は咽喉からまた声を絞り出す。
「そう、ですか」
紗知さんは小さく頷いた。
「ありがとう」
見つめた先にあった目じりの皺が優しかった。
別れ際、スイッチ屋と同じようにまんじゅうを大量に袋で持たされそうになったが、スイッチ屋を追わねばならないので、申し訳ないが丁重にお断りした。紗知さんは少ししょんぼりとした表情をしたが、「おばあちゃんの味を出せてるか分からないのだけれど、よかったらこれだけでも」と言いながら袋からまんじゅうを一つだけ取り出した。
まんじゅうには遺言通り、鶴と亀が仲良く寄り添った焼印が表に押されていた。私はそれをしっかり見てから、紗知さんにお礼を言って受け取った。
「良かったらまた来てくださいね!お待ちしてます!」
紗知さんはそう手を振っていた。私も大きく手を振り返してみる。紗知さんの笑顔はシノさんの笑顔と似ている気がした。
※
見失ってしまったスイッチ屋は案外簡単に見つかった。
駅前の通りから少しはずれ、線路沿いを歩き始めると前方をスイッチ屋が歩いているのが見えた。線路は東西に延びており、線路を挟んで南側はデパートや大きなビルが多い繁華街、北側は比較的静かな住宅街となっている。ちなみに私たちの住んでいるアパートがあるのは北側の区域だ。私がいるのも線路の北側で、スイッチ屋は線路を挟んで南側にいる。遠くて後ろ姿しか見えないが線路沿いを西に向かって進んでいる。
エコバッグに入れてきた携帯を取り出すと、既に時刻は夕方4時を回っていた。赤色に染まった空は入道雲も相まって相変わらず綺麗ではあったが、どうにも西日が厳しい。暑くてひどく汗をかいている。この炎天下を歩き回っていたから当然と言えば当然だ。
少し行儀は悪いが、歩いている途中にあった自販機でウーロン茶のペットボトルを購入し、先ほど貰った鶴亀堂のまんじゅうを歩きながら食べる。優しい味がするのは相変わらずだが、何となくシノさんの作ったまんじゅうとは違う気がする。これはこれで良い感じで甘さが口に広がる。ついでにペットボトルを首筋に当てるとヒンヤリとして生きかえった心地がした。
まんじゅうを食べつつ早歩き気味に進んでスイッチ屋との距離を詰めていると、踏切に差しかかった。スイッチ屋がそこで立ち止まったので、近くにあった電柱の陰に身を顰める。もうスイッチ屋の表情が見える程度には辛うじて近づけていたので、そっと顔を出して様子を窺う。スイッチ屋は踏切のすぐ傍らにある標識に無造作に寄りかかって腕を組んだ。まだまんじゅうで口がモゴモゴしていたが、袋の中身は相当減っているようだ。一瞬私の存在に気付いたのかと肝を冷やしたが、そうではないらしい。
スイッチ屋は何かを待っているようだった。踏切の先、線路の向こうに視線を向けたまま微動だにしない。あまり身動きするとスイッチ屋の視界に入ってしまうため、私も下手に動けなかった。
踏切が2,3回カンカンと音を立てて開閉してその間に数人がそこを通ったのだが、スイッチ屋は動かなかった。しかしちょうど4回目が開いた時、スイッチ屋はうつむきがちだった顔をハッと上げた。
スイッチ屋の視線の先、ちょうど踏切前に男子高校生が立っている。なんで高校生だと分かったのかと言えば、その男子が着ていたジャージと持っていた鞄が私が在学中の高校指定のものだったからだ。背中の部分に学校名が印字されている。確か今学校は夏休みの部活動期間中だったような気がする。きっと部活帰りなのだろう。ひどく疲れきった顔をしていた。
「おーい!」
スイッチ屋がその子に向かって大きく叫んだ。男子学生はびくっと体を震わせて踏切の先を見た。奇妙なのは、その目が大きく見開かれ忙しなく泳いでいるところだ。
「よお!!学校帰りかー?!」
「……ひっ」
男子学生は声にならない悲鳴を短く上げた。何だか様子がおかしい。泳いでいると思っていた目が踏切と線路を交互に見ていることに気付いた。その中で時々一瞬だけスイッチ屋に目線を向けるタイミングがある。
男子学生の目元には隈があった。目は落ちくぼんで、顔はやつれている。私はまるで鏡を見ているかのような気分になった。
「最近あっついよなー!」
その間にもスイッチ屋は線路を挟んでしゃべり続けている。実に奇妙な絵面だが、幸い人は来なかった。いきなり声をかけられた男子学生は困惑したようにその場でウロウロと視線を彷徨わせた。
「一応さ、まだ7月だぜ?これから更に暑くなるって考えると、なんかとんでもないよな!でもさ、暑いときってうまいもん食べたくならねえ?夏と言ったら色々あるじゃん?たとえば、そうめん、スイカ、かき氷、冷奴……どれも捨て難いよな!あと、祭りで売ってるちょっと濃い味のやきそば、わたあめ、お好み焼きとかは特に“ああ、夏が来た!!”って感じするよな!」
軽い調子で当たり障りのない話をする。そのくせ、渡ってこれるはずのこっちには線路を越えては来ない。奇妙な絵面だが不思議としっくりくるような感じもする。
カンカンカンカン……
やがて踏切が鳴り出した。遠くから電車が近づいてくる音も聞こえる。男子学生ははっきりと踏切に目線を向けた。怯えたような表情の中で諦めのような決意のようなものが見えて、やっぱり、と私は確信した。やっぱり私は鏡を見ていたのだ、と。
バーが降りてくるタイミングで男子学生の足が僅かに線路に向かって踏み出されるのを私は見逃さなかった。それとほとんど同時にスイッチ屋が更に声をかける。手には先ほど鶴亀堂でもらっていた袋を掲げている。
「そうだ!今ちょうど俺まんじゅう持ってんだ!せっかくだしアンタも一緒に食べねえ?かなり美味しいからさ!だから……」
スイッチ屋の台詞の途中で大きな音を立てて電車が通った。男子学生の足は線路手前で止まっていて、踏切のバーが彼の体の前すれすれに降りていた。私はいつの間にか強張っていた体からゆっくりと力を抜いた。
「――!」
男子学生は数秒身じろぎもしなかったが、口だけが微かに動いた。電車の音でそれはかき消されてしまったけれど、私には彼が何と言ったのか分かった気がした。
電車が通り過ぎていくのが、長く感じられた。実際はそんなに長い時間ではないのだけれど。何故だか私は、この電車が通り過ぎたらスイッチ屋はいなくなってしまっているんじゃないかという不安に駆られた。どうしてそんなことを思ったのか分からないが、恐怖に近い不安、もっと言えば予感と言えば良いのか。体から滲んだ汗が変に冷たく感じた。早くこの時間が過ぎてしまえば良いと願いながら、私はその電車が行ってしまうのを待った。
もちろん、心配は杞憂に終わった。電車が通った後もスイッチ屋は線路の向こう側にいて、裏のなさそうな笑みを浮かべている。よくよく考えてみれば、バカげた不安だったと思う。
スイッチ屋は踏切が上がると線路を越えてこちら側に駆け寄ってきた。少し乗り出し気味だった体を引っ込める。
「ほれ!味はお墨付きだ!」
スイッチ屋がまんじゅうを半ば押し付けるように渡した。
「ありがとう」
本当に小さな声だったが、男子学生はそう言った。スイッチ屋の笑みがより深まる。
「ホント、人間ってつくづく変わっているよなあ?」
え……?
突然、すぐ傍で声がした。声のする方に振り返った私は信じられない光景を見ていた。
「馬鹿ばかりだよ、相変わらず。なあ?」
黒猫だ。黒猫がしゃべっている。
周辺を見回しても相変わらず人通りはない。こんな近距離から話しかけてくるとしたら、この猫しか位置的にありえなかった。というか、猫が話しかけてくること自体がありえないのだけれど。
すぐそばにある民家のブロック塀の上で猫が毛づくろいをしている。艶やかな真っ黒い毛は綺麗に整えられており飼い猫を思わせるが、首輪はついていない。尻尾の先が白いことを除いて、全身は本当に真っ黒だ。毛づくろいをしながらこっちを見下げている。大きな目は鮮やかで深い青だ。表情はないが、声だけ聴くと笑っているようだ。
「オマエ、なーに物珍しそうに見てるんだあ?」
「え?」
「そんな目でじろじろ見るなんて、失礼だろ。言葉は分かるな?オマエに言ってんだぜ?」
猫に礼儀を説かれるなんて……。いや、それは今問題ではない。私は頭がおかしくなってしまったのだろうか?でも猫の口元は動いているし……。
「本当に、あなたがしゃべってるの?」
我ながらバカな質問だと思うが、仕方ない。
「けっ!愚問だなあ。この世界で起こっている諸々に比べたら、オレがしゃべることなんか取るに足りないことだろ?」
猫は鼻歌でも歌いだしそうな調子で言った。そう断言されてしまうと反応に困る。固まっていると、最近の人間は相槌を打つことさえもできないのか、と呆れられた。口調といい、座っている位置といい、完全に上から目線だ。少し腹が立ったが、猫の言うことにも一理あるような気がしたので頷く。
勝手に部屋に上がり込む男といい、喋る猫といい、この夏は何か変な運でも回ってきているらしい。今更、猫がしゃべったくらいで驚く方がおかしいんじゃないかとさえ思えてくる。本当にこの暑さで頭がやられてしまったのかもしれない。
私は色々と諦めて、ため息を吐いた。目の前で起こっていることをとりあえず受け入れないと、今は先に進めない。
何故か猫は面白くないと言わんばかりに鼻を鳴らした。
「ところでだ、オマエがうろつくとオレとしちゃあ色々面倒なんだ。オレの仕事が増える。さっさと部屋に戻れ」
「どういうこと?」
「言葉通りの意味さ。正直な話、この天気で干からびて腐りたいなら、好きにすりゃあ良いと思うけどな。まあ、生憎オレはオマエを放って置くわけにゃあいかない事情もある。そういうわけだから、悪趣味な散歩をしているところ悪いんだが、好奇心旺盛な死にたがり屋に付き合ってやれるほどオレはお人好しな猫じゃない。だから、“さっさと部屋に戻れ”って言った」
まあ、あれだな、その点、と猫は続けた。
「アレは哀れだよなあ。アレは全部拾おうとする。だから自分のものは落としてばかりいるんだ」
猫がスイッチ屋に向けて視線を逸らしたので、私も同じようにした。スイッチ屋と先ほどの男子高校生が互いに笑い合ってまんじゅうを口にしている。何をあんなに楽しそうに話をしているのだろう。
「アレってスイッチ屋のこと?」
「スイッチ屋ぁ……?ああ、そうだったな。確か今回はそんなふざけた名乗りだったな」
猫は呆れかえるような口調でそう言うと塀の上で伸びをした。心底どうでもいいという言葉はこういうときに使うんだと思う。
「毎回毎回、奇妙な名前を持ち出してくるセンスには感服するね。前回は確かひょっとこ侍だったっけか」
「貴方、スイッチ屋のこと知っているの?」
驚いて尋ねると、猫はヤレヤレと言う風に首を左右に振った。
「いや、知らないことだらけさ、オレもオマエも、アレも世界も」
私が尋ねると猫は目を細めてこちらを見た。言っている意味がよく分からない。
「名前には大して意味がない。たとえば、オレはオマエの名前を知っているがオマエとは初対面だ。オマエは今いる場所が“世界”という場所だって知っている。だけどオマエは世界のすべてを知っているわけじゃあない。同じことさ。少なくとも、辞書で引いた語義をそのまま美味しくいただくことはオレには無理だね」
尻尾の先端の白さがユラリと揺れた。一瞬、私はスイッチ屋たちの方へ振り向いて、携帯で時間を確認した。男子学生とスイッチ屋もちょうど話を終えて別れるところのようだ。幸い、二人ともこちらに歩いてくる様子はない。
誰もいなくなった踏切の前に私は佇んだ。踏切の向こうでビル群が赤く光り輝いているのが見える。夕日を反射しているので、少し眩しい。
踏切近くまで続く塀を伝って、猫は私の傍まで来ていた。でも決してその塀からは降りてこない。ただ私をじっと見つめる視線だけを感じた。
夕日が綺麗だと思った。まるでスイッチ屋と出会った、あの日のように。
そうして立っている目の前を、電車が二本通り過ぎて行った。その度に目の前の踏切は私と線路を完全に隔てていた。
セミの鳴き声や近くの駅前の賑やかさ、電車の通る音、駅員のアナウンスが耳を打った。端から見たら、踏切前に立ち続ける私はどんな風に見えるだろうか。滑稽に見えるだろうか。それとも、そもそも誰の目にも映らないだろうか。
「ねえ、どうしてスイッチ屋はあんなことするんだろう」
私は猫に尋ねる。
「あんなことってどんなことだ?」
「どうして、人の邪魔ばかりするんだろう?」
私が考えていた問いを口にすると、猫のため息が聞こえた。
「じゃあ尋ねるが、オマエはどうして空気を吸って吐いている?」
「……それは、」
「アレの行動も妙なくらいに馬鹿げちゃいるが、オレからすればオマエが息をしていることの方が大いに疑問だね。息を止めない限りオマエの目的は果たされない。そうだろ?」
カンカンカンカン……
また、踏切の音が鳴った。風が吹いて、雲が流れる。
「そうだね」
私は猫に言葉を投げた。
電車が大勢の人を乗せて目の前を通り過ぎていくのをじっと見ていた。
※
私はクルリと踵を返して猫に向き直る。塀の上に座っていた猫は耳をピクっと動かして、立ち上がる。
「貴方の名前は?」
「はあ、随分とおかしなことを訊くなあ。さっきオレが言ったことオマエ聞いてたかあ?聞いてなかったな?」
猫は呆れた口調で言った。
「聞いてたけど、やっぱり名前は要ると思う。特に人の名前は。名前を知らなかったら、その人のことなんて呼べば良いのか分からないから」
「へえ、オマエそういうこと言うのか。なるほどなあ」
猫はまたどうでも良さそうに返事をして言った。いきなりヒラリと塀から地面に降りてきて、私を見上げる。また心なしか笑っているように見える。
「オレは名無しだ」
「名無しくん、ね」
「はあ?違うだろ。オレは名前がないって意味で……」
「名無し、今日うちで一緒に夕飯食べない?」
不思議だ。名無し相手だと言葉がスルリと出てくる。人とは話しづらいのに、猫とは話しやすいなんて少し可笑しい気もしたけれど。
名無しがそっぽ向いて歩き出したので、私も傍らに続く。猫が鬱陶しそうな様子でこちらを振り仰いだ。沈みかけの赤い太陽で照らされた景色の中に青い目は綺麗に輝いていた。
「悪趣味な散歩はもう良いのか?だったら早く部屋に戻れ」
「だから一緒に帰ろう。名無し、今日の夕ご飯は焼魚だよ?焼き鮭だよ?」
「……そこまで言うなら別に行ってやらんこともないけど、その呼び方やめろ」
抱き上げようとすると、スルリと腕から逃げて毛を逆立てて唸った。触られたくないらしい。でも一つ一つの動作がなんとなく可愛く見える。
「その代わりアレには言うなよ。オレが喋ったって」
「なんで?」
「アレは怒ると面倒だからだ。面倒事は避けるに限る」
名無しが喋ると何故スイッチ屋が怒るのかはよく分からないが、スイッチ屋が怒ると面倒なのは同意である。怒らなくても面倒ではあるけれど。
「じゃあ、スイッチ屋にはなんて説明すればいいの?」
「説明なんていらないだろう。余計なことは言うな。言葉は重ねれば重ねるほど、重みがなくなるからな」
名無しはそう言い捨てると尻尾を揺らしながら、私の少し前を夕焼けに向かって進んでいった。
※
「俺、この猫嫌いだわ」
家に帰ると既にスイッチ屋が帰宅していた。私が帰宅すると起動していたであろうパソコンをそっと閉じる。一応カモフラージュついでに、切れかけていた洗剤やらシャンプーやらを買って帰っているので、特に怪しまれてはいないようだ。しかし結局スイッチ屋のことは分からずじまいで、今日の成果は喋る猫という不思議な存在が増えただけである。
例のごとく、スイッチ屋はバライティパックの一口チーズケーキをモリモリ食べている。そこに名無しがテーブルの上に流れるような動作で乗り、スイッチ屋が開けておいた子袋からチーズケーキを咥えると素早くカーテンレールの上に登ってしまった。その時言ったのが先ほどの台詞である。
「いけ好かねえ野郎だな」
スイッチ屋が見上げた先には、これ見よがしにチーズケーキを頬張る名無しの姿。先の白い尻尾を揺らめかせ、心なしか得意げにも見える。スイッチ屋が自分の天パをガシガシと掻き回した。
「見下すようなことしやがって……弘香、この黒猫、どこで拾ってきたんだ?」
拾ってきたという言葉をスイッチ屋が発した瞬間、名無しは小さく唸り声をあげた。スイッチ屋が名無しに向かって舌を出す。
「買い物のときにちょっと、ね。だからしばらく家にいてもらうことにした」
いまいち説明不足感が否めないが、スイッチ屋は肩を竦めただけだった。飼うことにした、もNGワードな気がしたので避けておく。名無しはカーテンレールの上が気に入ったのか、前足をペロペロ舐めながら寛いでいる。
「そうか……」
スイッチ屋は眼鏡の奥の目を少し見開くと、少しその目を泳がせつつそう呟いた。その声は優しく、そして何故だかなんとなく寂しそうだった。
その後の夕食で、スイッチ屋と名無しが熾烈な焼き魚争奪戦を繰り広げたことと「今度は刺身くらい用意するんだな」とスイッチ屋に気づかれないように名無しが小声で言ったのは、また別のお話である。
スイッチ屋と死にたがり少女-第四話-
12/18 第四話全UPしました。ご意見ご感想、誤字脱字変な日本語指摘などなど何でもお願いします!