幻想悲曲 第一幕三場
エノイッサが修道院に帰り着いたのは、この街が寝入ってすぐの人のように息遣いも密やかに、そのあるがままの静けさを取り戻したようなそんな夜更けであった。教養の無い尼僧ではあったが、南中しかかった月の位置を見て、おそらく日付の変わらぬ頃に違いないと推した。今の静かなまどろみが一段落すると、やがて常ならぬ者達が街を徘徊し出すだろう―浮浪者や、例えば、他人の財産を横取りしようという悪漢、秘めた慕情に身を焦がされた恋人たち―欲情の虜になってしまった彼らは、なんとかその片割れを探し出そうと骨折りながら、天にも昇るような自身の空想と共に街を彷徨する。もしくは、政敵から身を隠さねばならぬ伝令、どんな怨恨を持っているか分からない殺人者、といった手合いたち。何かの特別な事情でもない限り、幽鬼のようなこれらの人種とは、本来、係わり合いになるべき人間などいない。それはエノイッサのような考えなしの、でくのぼうの尼僧にしたって同じこと…… そうだ、そもそもあのような裁判さえなければ、こんな夜更けに出歩くことなど無いわけだ。そんなものだから彼女は自らの寝床である修道院の姿が暗闇より段々と目の当たりになってきた時には、それはとりわけ安堵を感じたのである。それは、甘美な全身の脱力を伴っていた。安堵と気だるさとは似たようなもので、彼女はそれをこの時強く感じたのだったが、だからこそこの脱力を克服するために、もう修道院が間近に迫ってきた時には、自らの気力を最後にもう一度奮い立たせねばならなかった。そうして修道院の中庭へと足早に踏み入った。彼女は、回廊を通って小さな勝手口から建物の中に入り込んだ。修道院内部は灯が消えているので、目を慣らすためにしばらく立ち止まって待たなければならない。するとやがて、どこから来ているのかは判然としない光によって、歩くべき廊下の輪郭がくっきりと縁取られてくるのである。寄宿棟へと続く廊下を歩くのは、そこで寝起きしている尼僧にとっては造作も無いことであるが、彼女は念のために、壁に手を付けながら歩くのであった。
自室に帰るには、一度修道院長の部屋の前を通らなければならなかったが、エノイッサはこの若い修道院長がとにかく嫌いなのであった。名前をジャンヌといったが、この上無く色呆けした女で、職務の他は年中男のことしか頭にないような、そんな尼僧である。もっとも年齢は、二十八くらいと、そのような性質をも考慮に入れられるようなものではあったが。だからその為にこの若い修道院長を責めることはできないだろう…… しかし、それにしても彼女の場合は度が過ぎていた。この部屋の前を通ると、いつも奇妙な独り言が聞えてくるのである。本当に、中で何をしているかは知らないけれども! エノイッサは通りがかりに、汚物を避けるような心持をした。だがそこには、色情狂の生態を観察してみたいという好奇心のようなものも、若干は混じっていたのである。(ほら、今日も聞えてきた!)エノイッサは、嘲弄によって軽蔑する、あの忌々しさによって顔をしかめた。(馬鹿みたい……! あの淫売! まさかとは思うけれど、男を連れ込んだりしていてね! でも、こんなことを考えるのはよそう……)エノイッサの頭には、修道院長の顔が浮かぶのであった。金髪で、色白で、妙に艶めかしくって、好色な人間がよくそうであるように、口元には薄ら笑いを浮べて。すべてそうした欲情のもたらす瑞々しさ、魅力といったものが、こちらを酔わそうとしているかのように錯覚される。だけど実際、好色な人間にそんなつもりはあるのか? いや、そうではない、それはおそらく―その外見的な性質は彼らにあっても予期せぬ、自然と培われてしまったやむを得ぬものであったに違いない。いよいよ憎たらしさが募ってくると、エノイッサは、その扉に向かって唾をひっかけてやろうとも思う。だが、そんなことも煩わしいといった具合に、感情の温度を恣意的に下げようと試みるのであった。だから一度、部屋の扉に向けて舌打ちを鳴らしただけで、その場は通り過ぎてしまった。ひょっとして、今の舌打ち、聞えていたかしら―こんな懸念を抱きながら。しかしそれにしてもエノイッサは、修道院長に対するこの嫌悪の中に、一抹の不安が含まれていることも感じていた。それはいわゆる、人間とてもそれから逃れられる例外ではない、得たいの知れない動物的本能に対する恐怖だったのかもしれない。自分も将来その歳がくれば、こうしたものに身を焦がされおびやかされるのではないか、と考えれば恐ろしかった。いったいそれは必要だろうか? 情欲とは、被造物であれば誰しもが甘んじて受けなければならないこの隷属的生活に押しつぶされた魂に一時の魔酔による安寧をもたらす為に我々の精神が作り出すかりそめの快楽ではないのだろうか? それはある種の陥穽かもしれない―エノイッサは偏屈にもこう考えていたから、そういったものには触れないようにと―自らが毒されてしまう危険をも感じ取っていたので―好奇心に突き動かされながらそれと接触をしてしまった後にも、意識的に思考のうちから排除してしまおうとするのである。
年頃の娘の奔放さとは、多くの人の預かり知るところである。それは、例がいささか行過ぎたのかもしれないが、修道院長の件が思い起こさせる通りのものだ。だが断っておかねばならないのは、ここは尼僧院なわけであり、ここに住む娘たちは誰しもがそうした性質をよく持っているということ―もっとも、その奔放さはジャンヌよりかはいくらかましなものではあったけれども―つまりは俗趣味な世間話といったような形として。自らの生活の中に何らの楽しみをも見出すことの出来ないでいる娘たちが、こうしたものに傾倒していったとしてなんら不思議なことではないし、エノイッサにしても、それは当然のことであると考えていた。彼女らの崇拝していたのは、ダンテの書いた愛の荘厳さよりむしろ、ボッカチオの書いたようなおかしな色恋沙汰である。とはいえ、修道院長とはその度合いはかけ離れていたので、彼女らもまた、エノイッサほどではないにしろ、ジャンヌのことを何か厄介者でも見るような目で見ていた。だがエノイッサは、修道院長を覗く同僚たちの眼差しの中には、時に、温厚な理解と羨望の色が輝くのを見たものである。ジャンヌの奔放さを疎ましく思い、それと同時にまた羨ましがるそうした一部の尼僧たちを見て、妙な微笑ましさに駆られたこともある。ざっと修道院全体がこんな具合で、皮肉の好きなエノイッサの弁を借りてみると、《清貧の裏ではきっちりとその代償が支払われている》。つまり、他のどんな娘たちもそうであるように、尼僧らも、例外的な幾人かの人物を除けば、自分たちにとって自由な時間が訪れた場合には、世の中のどんなくだらない話にも一喜一憂したものだった。だが、もうやめにしよう。この話をこれ以上続けるのはやめにしておこう。こうした事柄に関して少しやかましく書いたのは、一つ、人が尼僧院に対して抱いているかもしれない清貧という幻想めいた印象―そこには一片の真実もあろうが、少なくともこの物語においては無縁なものなので―を払拭してもらうためと、もう一つは、こういったどこにでもあるような女だらけの住処の馬鹿馬鹿しい内情について、二度と筆を執ることのないようにするためである。
このような次第であったから、エノイッサは、階段を登って、自分の寝室からもう目と鼻の先まで来た折、まるで彼女が通りかかるのを待ち構えていたように、物陰から御喋り好きの仲間がひょいひょいと数人現れたのを見て、うんざりしたのである。この廊下の片側には尼僧達の寝室がずらりと並んでいたが、その扉は一つ余すところなく取り払われている。というのは、若い精力に好奇心などが加われば、どれだけそれと無縁な人であっても、時折は変わった性嗜好―この場合は女色―へと導かれてしまうことがしばしば見受けられるから。扉は、密室でそのようなことが行われないためにと、つまりは監督の利便性のために外されているのである。だからこの廊下からは、どんな小さな物音でも部屋の中まで反響してしまうのだった。若い物好きな尼僧たちは、寝床に伏せながらもエノイッサの足音が聞えてくるのを、それはそれは心待ちにしていたのだ。彼女から何か話の種になるようなものをあずかれはしないかと、今こうして廊下までわざわざ出向いてきたのは僅か四、五人ほどではあったにせよ、部屋の中では尼僧たちが未だ眠らないで、ここでどのようなやりとり行われるのか、耳をそばだてているに違いないのだ。そうしたことの全てをエノイッサは承知していた。少し年上の尼僧がエノイッサに駆け寄るやいなやこう言った、
「おかえり…… ねえ、どうだった?」
「どうだった…… とは、なんのこと? 私、知らないわ……」
「ああ、エノイッサ、あなたは意地が悪いわね。でも私には分かっている、あなたがそんな風だって、分かっているわ…… いつものことよ。それにしても、決まってるじゃない! 私が聞いているのは、ベルグハルト・ヒュンフゲシュマックのことよ……」
「とても男前の方だったんでしょう? 私、ミサで一度見かけたことがあるもの!」
こう言ったのは、また別の尼僧である。彼女は頬に手を当てて、何やらうっとりしているらしかったが、廊下を挟んで部屋の反対側にある窓から差し込む月明かりだけでは、その顔色まで窺い知ることは出来ない。しかし、エノイッサは、暗闇の中でこの女が顔を赤らめたと感じるのである。こういう年頃の性質が、忌々しくも愛らしくも思えるのは事実なのだが。
「男前? あいつが、男前ですって?」
エノイッサは呆れたふうに鼻をふんと鳴らしてからこう言った。彼女はまた、軽蔑による薄ら笑いを禁じ得なかった。すると、先に話し掛けてきた尼僧が、
「こら、変な想像はやめにしなさい…… 私ぜんぶ分かったわよ!」
と言い、ヒュンフゲシュマックのことを「男前」などと評したその娘の袖を引っ張って注意をした。と、今度はまた別の尼僧が言った、
「私は、そんなことより、裁判の方に興味があります。一体あれは、どんなですの…… だって、エノイッサ…… あなた、今までだって何も教えてくれなかったじゃない。ねえ、今日という今日は何か話して聞かせてよ」
すると、また別の尼僧が、
「ねえ、エノイッサ、黙ってないで。何でも良いから聞かせてよ。だって私たち、そのためにこうして今まで、ずっと起きてあなたの帰りを待っていたんですから」
と、言った。このような矢継ぎ早の質問は、エノイッサの意地悪な性質を却って煽る結果となってしまった。ふてくされたような彼女は、二言三言くらいなら何か適当に答えて、その好奇心を軽くあしらってやろうかとも思っていたが、そんな気も失せてしまったのである。それに、そうすれば却って際限の無いおしゃべりに巻き込まれるかもしれない。かといって、ここを通り抜けようとしても、尼僧たちが廊下いっぱいに拡がっているから、立ち止まる外はないのだけれど。暗闇の中で、皆が皆、まるで贈り物を受け取る時の少女みたいに、待ち侘びているのだった。息を潜めて、エノイッサの口からそれが零れ落ちるのを、今か今かと。お喋り者が静かになるのは、こんな時だけ! 自らの好奇心を満たすためには黙りこくって、こちらの挙動に注視するのだ。その沈黙が、御喋り者にとって、どれだけの労力を要するだろう! しかしそんなことを誰一人顧みてみないのである。エノイッサはこうしたことを考えて、口の辺に嘲弄すら浮かびそうであった。窓から差し込む僅かな光に、きらりと瞳を閃かせている者もいる―エノイッサはもう我慢ならなかった。尼僧達の間に割り入って、無理やりここを通り抜けようとした。一人が、すれ違いに彼女の袖を捕まえて言った、
「あら、どこへ行くの? まだなにも聞いてないじゃないのよ!」
「離してよ、私、あなたたちが喜ぶような話は何一つしてあげることが出来ないから」
エノイッサはこう答えて、その手をいささか乱暴に振り解いた。そうしてすたすたと歩いていった。
「まあ…… おばかさん! 痛いじゃないのよ! …… ああ、エノイッサ、あなたはなんて気立てがいいのだろうね!」
「ほんと、ほんとにそう!」
背後からこのような批難が聞えてきたが、聞えないふりをして、立ち止まらずに自室までたどり着いた。三人ほどはまだあきらめきれないのか、なんとここまで彼女をつけてきていた。だが今度はやや控えめに、入り口のところからこちらの様子を伺うのみだ(部屋に扉がついていないのは前述した通りである)。そこは恐ろしく狭い部屋で、四歩も歩けば、入り口から奥の壁まで歩きついてしまうほどだった。部屋は、とても質素な造りで、入り口を挟んで廊下に面した壁の両側に小さな寝台が二つ、部屋の奥のほうに丸い卓が一つ、その上には福音書が置かれていたが、他に椅子が二つ、家具と呼べるようなものはおよそこれだけである。寝台の脇には、汚れた衣服を入れる籠のようなものが置かれている。断っておかねばならないのは、この部屋は角部屋ということである。だから、部屋の奥―つまり机の置かれたところだけではなく、寝台の脇にも窓が取り付けてあった。窓が二つ、この点だけが他の寝室とは違っていた。よって、この部屋は今日のような月夜の晩にはごく明るく、中でエノイッサが何をしているのか、入り口からでもよく窺い知ることが出来たのである。帰ってきてすぐ、エノイッサは自ら被り物を乱暴に引き剥がすと、それを床に放り投げた。尼僧にしてはすこし長めの髪の毛をくしゃくしゃにもみしだいて汗を払い落とすと、そのまま寝台の上にどかりと倒れ込んでしまった。
「…… エノイッサ?」
入り口の方から声が聞えてきたが、彼女は身動きしないで黙っていた。
「あんまり私たちに意地悪すると、修道院長に言いつけて、あなたの日課を増やしてもらうわよ!」
同じ声が言うと、他の一人が、
「まあ、おばかさん! そしたら怒られるのは、こんな時間まで起きてる私たちの方よ!」
と、諧謔で相槌を打ち、からからと笑った。エノイッサはこれについて、声の主はわざとへりくだったような言い方をして、こちらから話を引き出そうとしているのだな、と思った。
しばらく笑い声が聞えてきたが、それも止むとついに音がしなくなった。エノイッサは耳をそばだてて、衣擦れの音―すなわち、尼僧らが立ち去ろうとする音が聞こえ始めるのを待っていたのだった。しかし元より、そんな期待はすべくもないと分かっている―誰も立ち去ろうとしないのだから! エノイサは寝たままで言った、
「…… あっちへ行って! 知らない、私、なんにも知らない!」
すると、相手の一人が肩をすくめたかもしれないのが、見てはいないがその衣擦れの音で分かった。
「行きましょう」
と言って、一人が去った。続いてもう一つ遠ざかる足音が聞えた。彼女たちにしては珍しく、不満足な結果にして、その去り際にぶつくさ文句も言わなかったのは、エノイッサに対する憤りや憎たらしさといったものよりはむしろ、彼女の徹底して不機嫌に振舞おうとする態度への呆れからきたものと思われた。そしてまたおそらく、これが一番主な原因であろうが―もう夜遅いから、彼女らにしてもエノイッサの不機嫌に付き合う気力を既に持ち合わせていなかったに違いない。入り口に立っていた最後の一人が、
「ごめんね。でもエノイッサ、あなたも悪いのよ」
と言い、行ってしまった。エノイッサは、ついに一人きりになったわけである。(ああ、あなたたちは何も知らないんだわ!) 彼女は遠ざかる足音を耳で追いながら身を起こした。誰も居なくなってしまった入り口を、まるでまだ誰かがそこに立っているみたいにじろじろと睨み付けた。(何も知らないから、そうして面白おかしく、平然としていられるのよ! 私の経験してきたことを、あなた達も経験すれば、きっとそんなこと言えなくなるはずだわ! 結局、他人事なんだ…… ええ、みんな! どうして、どうして…… 他人事なの? モーラ(同僚の一人である)なんて、一年前に広場で処刑があった時、隠れて見物に行って、あまりの恐ろしさに卒倒して…… あっはっは…… あなた、運ばれて帰って来たじゃない! ええ、恐ろしいでしょう? 恐ろしいのよ、人が苦しむということは…… なのにあなた、またあんなことを言って…… ええ、忌々しい! あなたたちにとって、あれは楽しみなの? 人が苦しんだり死んだりすることが…… 楽しみなのかしら? いや、でも実際そうなのかもしれないわね! 楽しいもの! 人についてあれやこれや言うことは…… 楽しいんだわ! ああ、馬鹿みたい! みんな馬鹿げている! 私だって…… だけど、仕方ない、あなたたちがそう思うのは仕方ない。許してあげる! だって実際、楽しいんだから……! そうよ、そうなのよ。ああ、だけどこんなこと、どうでもいい…… それにしても暑い、暑苦しいくらいだ……!)事実、部屋の中は妙に蒸し暑かった。そのせいか分からないけれども、エノイッサは先ほどからぎちぎちと頭の隅が痛むのを感じていた。そんな中で、なんとかして眠りにつき、すべてを忘れ去ってしまおうと必死に意識を振り解いていたが、腕や胸から汗がにじみ出るのを感じると、いよいよ耐え切れない。彼女は突然跳ね起きて、寝台の傍にある窓の側に腰かけた。涼しい風が入り込んでくると、袖をまくり、胸をはだけてしばらく目を瞑っていたが、やがて再び寝台の上に横になった。風が、ひんやりとした感触を伴って汗をさらっていくのだった。そうしてひと時は、心地よさによって他の陰鬱な気分に覆いをかけていることもできたが、やがてその感覚も落ち着いてくると、そのために却って自らの陰鬱な気分がよりはっきりと悟られてくるのである。大海は、一面が真っ青な薄幕によって海底を覆っているが故に、我々はそこに閃く怪物の黒い影を、決して見逃すことはない。このように、エノイッサの胸に潜む暗い想念も、風の心地よい愛撫によって、一層際立ってくるみたいだった。もっとも、新しい空気によって頭痛や胸苦しさといったものは幾分かおさまり、これまでとは違ってある程度落ち着いた気分によって、その想念と向き合う事も出来たわけだけれども。(私は去った…… 確かに去ったのよ。ああいったこととは、もう金輪際おさらばってわけ。でも何かしら、一体、この胸騒ぎはどうして…… ああ、もうこんなことは考えないことね……)そうしてしばらくは静かに横になっていたが、数分経つと彼女は身体を起こして、自らの膝を見るともなしにじっと見つめるのだった。肩を大きく上下さして、呼吸が乱れてくるのを必死で落ち着けようとしているかのよう。すると驚いたことに、先程より苦しみの度合いが増しているように感じられるのである。だが一体、寝台の上で何を苦しむ必要があるというのだろう? もう何も心配事はないのだ…… 彼女はもうこれ以上、苦しむ人間を見る必要は無いのだから。(ああ、今ごろ…… 今ごろ、どんな恐ろしいことがあそこで行われているんだろう!)一時でも心が平穏を取り戻せばここぞとばかり、まるで推し量ったかのように、血管の中で何かが暴れるような具合でそれらがうごめき出すのだった。(ベルグハルト・ヒュンフゲシュマック! あなたは今、一体どのような苦悶をその身に受けているのか!? 私、地獄の責め苦だってそれよりはいくらかましなような気がして…… それに…… ああ、ナッソン! 友人になりたい、あなた、私にそう言ったわね。それなのに…… ああ、ヒュンフゲシュマック、ナッソン…… どちらにとっても、これは望まざることなんだ。あの宮殿では、二人ともが望まないことを、望まないままに強いられているんだ……! ならば、ならば……) エノイッサはなにか予感のようなひらめきを覚えて、大きく身震いを起こした。(どうして、私はあそこを去ったの? どうしてのこのことここに帰って来られなんかしたのだろう!? どうして、苦しんでいる二人がいるというのに、見捨てるような真似をして来たのか……)彼女にはいまや、自分がここで寝台に身を埋めようとしていることが何かとてつもなく恐ろしい、罪なことのように感じられてならないのだった。だが、あそこにあのまま居たとして、それで彼女にいったい何が出来たろう?(だけど、何も出来やしないじゃないの。ただ突っ立って、虚ろで呆けた石みたいに…… それが一体なんになるというの? ああ、馬鹿馬鹿しい! 何もならないし、所詮は他人事じゃない。そうよ、神様がなんとかしてくれる。こんなの、取るに足りない問題よ、ええ、そうよ…… いやいや、取るに足らないって、そんなわけがない! どうして私は、あれを見過ごさなければならなかったんだろうか?) エノイッサの顔は、みるみるうちに引き攣っていき、瞳からはなんのためかも分からない涙があふれてくるのだった。(今や、二人にとってはすべてが望まざることなんだ。取るに足らないなんてことはないわ、だって、それが彼らのすべてなんですもの。ああ、そんな二人が苦しむ姿を、どうして私は見過ごさなければならないのか…… いや、見過ごしてきたのか…… 恐い? 恐いから? 二人が苦しむところを見ることが、私はそれが恐いっていうのか?) エノイッサははっとしたように見上げた。(いやいや、違うわ、もっとなにか別の…… もし、彼らを助け出そうとすれば、私も魔女の嫌疑をかけられて…… そう、そうね、それだわ! 私はそれを恐れているんだわ! 彼らを助け出す…… つまり、ヒュンフゲシュマックをあそこから連れ去って…… そうすれば、ヒュンフゲシュマックだって苦痛から逃れられるし、ナッソンだって……) エノイッサは突然、暗闇の中でにやりと笑みを浮べたのだった。(馬鹿な! そんなこと出来やしない、私には! いや、私だけじゃない……! 誰だって出来るもんか! そんなこと…… これは全部空想よ…… そうだわ、私がこれについてこうあれこれと考えるのは、気になって気になって仕方がないのは、絶対に、私には、そんなことが決して出来やしないと、他ならぬ私自身が確信しているからなんだわ! 寝台の上に座っているから、こう呑気にあれこれ考えていられるのよ…… 彼らを助け出すだなんて、そんなことができる奴なんてこの世にいるのか? ああ、全部空想なんだわ、これは空想なのよ…… ああ、だけど果たして、こんな空想の考えが、あの時私の頭の中にひとかけらでも…… ええ、ひとかけらでも! あったろうか……?) 真っ赤な思念の燃え滓は、灰色の憂鬱である―エノイッサは寝台の上に横になると歯ぎしりをした。(ああ、なんとかしてヒュンフゲシュマックを…… それにナッソンも…… 救うことが出来たらいいのに! それが出来たら、どんなにいいことだろう……)しばらくはそのままじっとしていたが、やがて瞳を閉じると、燃えかすのように消耗した精神を、まどろみの重圧が押しつぶすに任せた。いつとも知れず、彼女の意識は薄れていったのである……
果たしてどれ程の間そうして眠っていたのだろうか。エノイッサは、部屋の外から聞こえてくる足音―忍ぶような、か細く消えてゆきそうな足音を耳にして、突如目を覚まされたのだった。まるで嘆きをまき散らすような控えめさをはらんだ足音―聞くものがそれに触れればたちまち壊れてしまうかと思われる程の弱々しさがそこから流れ出すその足音は、やがて彼女の寝ている部屋に入ってくると、寝台のそばまでやってきた。ただ、それはまた先ほどの姉妹の誰か―物好きな連中の片割れ、不機嫌なこちらの態度によってではその低俗な好奇心を消しつくされなかった何者かが、一人だけ抜け駆けして自分の様子を見に来たのかとも、エノイッサには思われたのであった。だがそのような予想に反して、足音は寝台の上に横たわる彼女のことなど見向きもせずに素通りしてしまった。こちらには他にもっと執心していることがあると、寝台の上で寝息を発てているお前などに構っている暇はないと、それはまるで蔑んでいるかのようにも思われて、段階的に遠ざかる足音はそうした冷たい響きを発てたのだった。エノイッサは身をもたげた。すると半ば覚醒された意識が、部屋の奥の方の隅、卓の所にたたずむ人影を捉えたのであったが、それが誰であるか判然とするかせぬかのうちに、彼女は唇を開いてこう言ったのである。
「マリア?」
それは、エノイッサの目にしている人影とは、彼女と同じこの部屋で寝起きを共にするマリアという尼僧に違いなかった。エノイッサとは対照的に雪のような白い肌に、じっと何かを見つめ続けるような鋭く尖った瞳、赤い真っすぐな唇がいつも思案気に結ばれているその美しい顔を求めるかのように、彼女は瞳を注いだ。
「ああ、マリア……」
瞳が慣れてくると、窓から差し込む月明かりが影の輪郭に反射をもたらしてゆくのだったが、そうして浮かび上がってきた顔の形、闇の中に描かれてゆく表情を見て、エノイッサははっとしたのだった。彼女のよく見知った尼僧マリアの美しい顔は常ならぬ不安に慄き、何かの精神的苦痛によって押さえつけられたことを表すかのように醜く歪んでいて、そこには絶望のようなものが影を落としていた。
「エノイッサ…… ああ、あなた、起きてたの」
さっとこちらを見やったマリアは、動揺したかのように呟いた。彼女はまるで取り繕うかのように微笑して、
「私はきっと、あなたが寝ているものだと思って……」
と、たどたどしく付け加えたのである。エノイッサは寝台から起き上がって言った、
「まあ、まあ。どうしたの? あなた、顔色が悪いわよ」
「なんでもないのよ……」
そう言うとマリアはなんだかそわそわと落ち着かない様子で、あたりをうろうろとし始めたのである。
「ああ…… でも、エノイッサ…… こんなこと、こんなことってあるだろうか!?」
突然彼女はエノイッサを真っすぐに見据えて叫ぶように言った。するとエノイッサは、
「マリア、私には分かるよ! あなた、また行って来たのね? あそこへ…… あの宮殿へ、あの牢獄へ! だからこんなに遅くまで…… そんな顔して」
と、危険な行為に及ぶ相手を責めるかのようにして言ったのだったが、すると、マリアは挑むような眼差しでそれに応えたのである。
「ええ、そうよ…… 悪い? だって、私が行かなくては…… いったい誰が、あの方々の心の支えとなることができるだろう?」
「悪いことなんてないわ! だけど、あなた……」
エノイッサは、遠慮深そうに口にするのだった。
「あなたまで捕まったらどうするの? 私は、それを想像してぞっとすることがある。ああ、あそこにあなたがいると思っただけで…… それに、それはあなただけではない! 何もあなただけではない! 私だって…… 魔女と呼ばれて投獄された方々のことが哀れでならない。彼らを哀れに思っているのは、何もあなただけではないわ、マリア……」
「だったら…… エノイッサ、だったら!」
マリアはこう言ってちょっとエノイッサを見つめるふうだったが、しかしすぐに視線を落としてしまった。そしてぽつりと呟いた、
「いや、なんでもないのよ……」
彼女はなんだかもどかしそうに、苛々したふうである。エノイッサはマリアから離れて、再び寝台の上に座った。二人はしばらく黙っていたが、やがてエノイッサが言い始めた。
「私も今日、あそこにいたのよ、魔女裁判があったから。ベルグハルト・ヒュンフゲシュマックという人をね、連れて行ったの、わたし……」
彼女は何か悪いことでもしたみたいに言うのだった、
「あなた、その様子じゃ、どうやら何も知らなかったのね、マリア。司祭パウロが、ついさっきまであそこに居たのよ。いいえ、ひょっとすると今も…… 本当に、よく見つからずに済んだことね! マリア、あなたがあそこで、宮殿の牢獄で、魔女たちと語らっていたなんてことが知れたら、あなたまで捕らえられるかも知れない…… その後どうなるかは、分かるわよね?」
エノイッサはちょっと横目にマリアの方を見やったが、彼女は何やら考え事でもするかのように顔を俯けていた。エノイッサは自分の言葉が聞かれていないのではないかと、気が気で無かった。
「だって、マリア…… あそこにいたのなら聞えていたでしょう? 私はすぐ帰って来たのだけれど、二階の部屋では……」
すると、暗いこの部屋の中にあっても、マリアの白い肌がより一層蒼ざめたように感じられたのである。
「また一人…… また一人」
と、彼女は言った。
「なんと哀れな…… でもあなた、すぐに帰ってきたって、一体どうして帰って来たりなんかしたの? エノイッサ…… あそこにあなたがいなければ、誰も…… 彼は、たった一人で拷問の苦痛と戦わなくてはならないのよ」
「ええ、ええ……! そんなこと、分かっている! だけど、私だって辛いんだから! 魔女に優しい言葉をかけたら、私だってどうなるやら分かったものじゃないし…… いったい私が、あそこを立ち去ってはならないとでもいうのかしら? それに…… 私があそこにいて一体なんになるというの? あなたまさか、私があのままあそこに弁護人として立っていることに、何かしらの意義があるって言うんじゃないでしょうね?」
エノイッサはこう言ったのであったが、マリアは、聞く耳を持たないといったふうに、それを遮ったのだった。
「可哀相に! その方、今はただ一人きりなんだわ! それじゃあなた、一目散に逃げて帰ってきたのね? 恐くて恐くてたまらなかったから…… そうなのね?」
刹那、エノイッサは、自分がベルグハルトを置き去りに、部屋を出てきた時のことを追想して、思わずはっとせずにはいられないのであった。しかしそこには若干の反抗心もあったようである。彼女は、
「ええ、そうよ…… 悪い?」
と、身震いしながら呟いたのである。マリアは答えた、
「いいえ、悪いことなんてないわ」
そこでエノイッサが、「それにね、マリア……」と続けた、相手の様子をしきりと伺いながら。
「あいつは、被告のベルグハルト・ヒュンフゲシュマックは、そりゃもう、とんでもない破廉恥漢なのよ…… 私、たくさん罵られたわ。あの人、《弁護人はいらない》と、はっきりそう言ったの」
「《弁護人はいらない》…… 本当にそう仰ったのね?」
「ええ……」
マリアは急に黙り込んでしまったのだったが、それがエノイッサを妙に苛々とさせた。やにわに彼女はエノイッサをさっと見上げて、「そうね、実際……」と言った、
「苦しむ人を見るのが辛くて、辛くて、逃げ出したくてたまらないって時に、当の本人から《お前はいらない》なんて言われたら…… 誰だって、言葉に飛びついてすぐさま逃げ出すに決まっているわね」
唐突なマリアの言葉に対して、エノイッサはびくりとしたのだった。
「どうしてそんなことを言うの?」
彼女は震えながら聞いた。するとマリアが言った、
「…… エノイッサ、だけど、あなたは違うんでしょ、違うっていうんでしょ! 何かしら、そんな素振りを見せて…… 自分まで魔女だと疑われるのが恐かったから、帰ってきたのよね? 私たち尼僧は、誰にも見放されてしまった方々の、最後の味方なんだものね。あなただってそうなんだから。優しい優しいエノイッサ…… あなたがそんなこと…… そうした方を見るのが息苦しくなって帰ってきたなんてこと、あるわけがないものね」
「ええ、ひょっとしたら……」
エノイッサは声を潜めて、厳かに言った。彼女の瞳は、暗闇の中で月光を浴びて、何やら不敵に光った。
「それにしても、私たちが彼を哀れもうなんて、そんな必要はまったくないのかもしれない。だって、ベルグハルト・ヒュンフゲシュマックは魔女なんですもの……」
「魔女…… 魔女ですって!?」
マリアが言葉を嘲ったのだった。
「そんなの嘘っぱちよ! …… ねえ、あなた、本気でそんなこと考えているんじゃないでしょうね? 私、もう何度もあなたに言って聞かしたじゃないか。そうだ、良いものを見せてあげる……」
するとマリアは懐から何やら小さな紙片を取り出して、掲げてみせた。
「それは何?」
「さあ、なんでしょうね。いいわ…… これがなんなのか、あなた、よく聞いておきなさい」
エノイッサが分ったことには、どうやらその小さな紙片には、細かい文字でびっしりと何かが書きつけられているらしい。月明かりの下で、マリアはそれの朗読を始めたのだった。
「…… 《さようなら、愛しい娘ヴェロニカ。本当にさようなら。私は何の罪も無く投獄され、何の罪もなく拷問を受け、そして何の罪もなく死なねばならない。魔女の獄につながれた者は、誰であろうと魔女になるしかない。さもなければ拷問を受け続け、ついには―ああ、神よ哀れみたまえ―思いつく限りの自供をするしかないのだ。私の体験した出来事をお前に伝えたい。》……」
ここまで読むと、マリアはぱたりと朗読を止め、手紙を持ってないほうの手で、瞳から落ちる涙を拭ったのだった。エノイッサが言った、
「マリア、それは…… マリア!」
それは、どうやら魔女として牢獄に捕らえられている男が家族に宛てた手紙らしい……
「ああ、それがなんだか分ったわ…… 分ったから、あなた…… 泣きながら無理に読まなくたってもいいのよ」
「全然そんなことないわ!」
マリアは怒ったふうに言いつけた。
「全然無理なんてしてないわ! 少したまらなくなっただけなのよ…… だけど読まなきゃ。ああ、どうしても…… これを読んで、あなたに聞かせなければだめなのよ」
彼女はあくまで頑ならしい。気付けをするかのように、一度深く息を吸って、吐いて、再び始めたのだった。
「…… 《初めて拷問を受けた時、義兄弟のブラウン博士、ケッツェンデルフェル博士、それにあと二人、見知らぬ博士がいた。ブラウン博士が私に尋ねた、「同胞よ、あなたは何故にここに来たのか」。私は答えた、「偽りと不運によって」すると彼は言った、「聞きたまえ。あなたは魔女だ。進んで自供してくれまいか。もししないなら、承認と拷問裏を連れてくることになるが」。私は言った、私は言った、「私は魔女などではない。これについては、全く噓偽りはない。たとえ千人の証人がいようと、私にやましいところは全くない。喜んでその言い分を聞こうじゃないか」。すると、司教顧問官の息子が連れてこられた。彼は私を目撃したという。そこで私は彼に誓いを行わせ、法に則って取り調べるよう要求したが、ブラウン博士はそれを拒絶した。次に顧問間のゲオルク・ハーン博士が連れて来られ、息子と同じことを言った。次に来たのはヘプフェン・エルゼだった。彼女は私がハウプツモルヴァルトで踊っているのを見たというが、それが真実だと彼女に誓わせることは、一同に拒否されてしまった。私は言った―「私は神を拒んだことなどないし、今後もそんなことをするつもりはない―慈悲深い神が、私にそんなことをさせ給うはずがない。そんなことをするくらいなら、寧ろどんな苦しみにも耐えてみせる」。するとそこにもう一人―いと高き天にまします神よ、お慈悲を―拷問官がやって来た。私は両手を縛り上げられ、親指締めをかけられた。爪からもどこからも血が迸り、そのためにこの四週間というもの、私は手が不自由なままだ。それはこの手紙の文字を見れば判るだろう。それから私は衣服をはぎ取られ、両手を背中で縛られ、梯子の上に吊り上げられた。天地の終わりかと思うほどの激痛だった。私は八回も吊り上げられては落とされた。甚だしい苦痛だった。……》」
「やめて…… マリア!」
「いいえ! 聞きなさい! あなたは聞かなければいけない! …… 私たちは、自分たちのしていることが一体どういうことなのか、覚えておく必要があるのだからね…… 《私はブラウン博士に言った、「あなたが無実で気高い私をこれほど酷い目にあわせていることを、神がお許しになるように」。彼は答えた、「お前は悪党だ」。これは六月三十日のことで、神様のお陰で私は拷問に耐えることができた。最後に拷問官が私を独房に連れて行く時、彼はこう言った、「旦那、お願いします、噓でも何でもいいから、どうか自白してください、何かでっちあげでもいいですから。さもないと、これからの拷問にはとても耐えられないでしょう。たとえ耐えられたとしても、逃げられるわけではありません。たとえ伯爵さまでもだめなんです。自分が魔女だと言うまで、次から次へと拷問が続くんです。自白するまでは」と彼は言った。「奴らはあなたを放しはしません。どの裁判をご覧になってもお判りでしょう。誰だってお構いなしなんです」。それからゲオルグ・ハーンが来て、次のように言った。「委員たちから聞いたところによると、領主司教はあなたを見せしめにして人々に恐怖を与えることを欲しておられるそうだ」。あまりの苦境に、私は一日の猶予と司祭との面会を求めた。司祭は私との面会を拒んだが、猶予だけは許された。ああ、愛しい娘よ、その時の、そして現在の酷い有様を判っておくれ。私は魔女でもなんでもないのに、これまで神を拒んだことなどないのに、今初めてそれをしなければならないのだ。昼も夜も、私は考え抜いた。そしてついに、新しい考えを思いついた。恐れる必要はない。だが司祭に相談することを許されなかったのだから、自分自身で何かを考え出し、それを言うしかない。たとえ本当は何もやっていなかったとしても、ただ口先だけでおもいつくままに言えばよかろう。そしてその後でそれが噓だったこと、無理矢理に言わされたものだったことを司祭に告解しよう…… こうして私は、次のような内容を自供した。だがそれは全くのでたらめだ。愛しい娘よ、だからこれから書く内容は、この激しい苦痛、厳しい拷問を逃れるために自供したものだ。その苦痛はとてもそれ以上耐えられるものではなかったのだ。…… 》」
そこから、ユニウスの自供内容が続いた。しかしそれは、あまりにも非現実的で散漫とした、整合性の無い、支離滅裂なものであるから、たとえこの場でマリアが実際に声に出して読んでいたにせよ、わざわざここに詳述すべきものではない。だが、簡単にその概要を記しておくと、「女の姿をした悪霊にそそのかされて、悪魔の洗礼を受けることになった」、「魔女の集会でヴェルゼブブに出会った」、「女色魔と性交をした」などといったようなことである。読んでいる途中、マリアの頬を伝っていた涙が落ちて、紙片の上に弾ける音が聞こえた。
「ああ、こんなことを言わせたのは誰だろうか? 彼に言わせたのは、いったい誰だろうか!? ねえ、エノイッサ…… そうじゃないかしら。こんな荒唐無稽な、馬鹿げたこと…… ああ、身体をぼろぼろにされて、望みも絶たれてしまったから、彼は自分で自分を処刑台に送り出したのだ……! あっは! 最後の望み、いわれの無い苦痛から身を救うために…… エノイッサ、どう? 魂は死んでしまった! 彼が自分のことを魔女だなんて、そんな出鱈目なことを言ったのは、魂が死んでしまったからなんだわ。殺したのは、他ならぬ……」
マリアは、びくりと発作的な痙攣を起こして叫んだ。
「…… しかし、これがいったい! 魔女だろうか!? ええ、エノイッサ!? これが果たして…… 恐ろしい魔女の話す言葉だろうか!?」
「しっ…… マリア、他に聞えたらどうするの……」
エノイッサは相手の方へと性急に近寄って、言葉を遮ろうとするのだった。まるで、自身の体躯によってその声が飛散するのを防ごうとでもしているみたいに。するとマリアは、あざけるふうな瞳によって、挑戦的にエノイッサを睨みつけたのである。その鋭い視線が、月明かりの下に閃いて見えた。マリアはふっと、何やら意味ありげな吐息をついて、「…… 続けるわ」と、言った。
「…… 《それから私は、〔魔女集会で〕誰を目撃したかを答えさせられた。知らない人ばかりでした、と私は答えた。「この古狸め。喉を締め上げてやろうか。言うんだ―顧問官がそこにいただろう」。そこで私はいましたと答えた。「それから他には」。知らない人ばかりでした、と言うと彼は「通りのすべてをこいつに歩かせろ。市場から初めて、次々に全部の通りを引き回すんだ」と命じた。こうして、そこに住む人々の名を言うはめになった。ある長い通りに出たが、そこに住む人を誰も知らなかった。だが、そこでは無理に八人の名を挙げさせられた。それからツィンケンベルト通りに出た。ここでも一人の名を挙げた。それからゲオルクトールに通ずる上流の橋に出た。その向こうにも、こちらにも知っている人はいなかった。「城の中にだれか知っている者はいないか―誰でもいい、怖がらずに言え」と言われた。このようにして彼らは通りごとにひっきりなしにたずねたが、私はそれ以上答えることは出来ず、またそのつもりもなかった。そこで彼らは私を拷問間に渡し、衣服を剥いで体毛を剃り、拷問にかけろ、と命じた。「この下賎の者はもう一人、中心地の方に知り合いがいる。毎日一緒にいた奴なのに、その者の名を言わない」。これは市長のディートマイエルのことだ。そこで私は彼の名も告げた。それから私の犯した罪を告白するよう言われた。私は何もしていませんと答えた。…… 「この悪党を吊るし上げろ!」と言うので、私は、子供たちを殺そうとしたがそれはやめて馬を殺した、と答えた。だがそんなことでは許してはもらえなかった。そこで聖餅を盗んで埋めた、と言った。それでようやく私は解放された。さあ、かわいい娘よ、これが私の行動と自白の全てだ。この自白のために私は死ななくてはならない。だがこれはすべて真っ赤な噓であり、でっちあげなのだ。神よ、私をお助けください。私が耐え忍んだ拷問の上に、さらにまた新たな拷問を付け加えてやると脅され、無理に自白させられたのです。彼らは何か言うまで決して拷問をやめることはない。どんなに信仰深い人間でも、魔女にされてしまうのだ。たとえ伯爵でも逃げることは出来ない。もし神様が真実を明るみにだしてくださらないなら、私たちの親族は皆、焼かれてしまうだろう。天の神様は私が何も知らないということをご存知のはずだ。私は無実のまま、殉教者として死ぬのだ。かわいい娘よ、この手紙は誰にもみつからないようにしなさい。さもなければ、私はもっと酷い拷問にかけられ、看守は首をはねられるだろう。こんなことは厳しく禁じられているのだから…… これだけのことを書くのに、数日もかかってしまった。私の手は不具になってしまったのだ。全く酷い状態だ…… さようなら、おまえの父、ヨハネ・ユニウスはもはやおまえと会うことはないだろう。》……」
マリアの唇は役目を終えた。彼女はエノイッサの方に目を向けていた―まるで余韻をみせびらかすみたいに、じっと黙ったまま、もの問いたげな眼差しを注いで。その後の静寂は恐るべきもので、一見、エノイッサもマリアも恣意的に息を潜めて、互いの様子を探っているかにも思われた。だがよく凝らしてみると、穏やかならぬ二人の呼吸が、暗闇の中でもはっきりと認められるのである。自分の作っている沈黙、あるいは、いつまで経ってもうんともすんとも言わないエノイッサに対して痺れを切らしたのか、マリアが口を開いたのである。
「エノイッサ…… あなた、どう思う?」
「どう、とは一体どういう意味?」
「あなた、これを聞いてなんとも思わないの? この手紙を読んで…… 〈どういう意味〉ですって、馬鹿にしているの?」
「いいえ、馬鹿はあなたよ」
エノイッサは言った、
「本当に、私が何も感じてないとでも思っているのかしら? 彼の裁判に立ち会ったのは他でもない、この私。私よ! 忘れもしないわ! 分かってるでしょう? 私がそのことでどれだけ苦しんでいるか…… あなただって知っているはずだわ! それなのに…… あなたったら、まるで当てつけるみたいにして……」
「違う。だけどエノイッサ…… それじゃあなた、裁判に立ち会ったのが自分でなければ、こんなこと、一人の人間が殺されようとしていること、どうだって良いっていうのね?」
「そんなこと、一言も言ってないじゃない!」
エノイッサは、心得ずして自分の声が高くなったことにはっとして気付き、自制するのだった。
「じゃあ何よ、マリア。私がそれに関してあれやこれや感じたからといって、それでいったいどうなるというの? あなたは私に何を望んでいるの? 哀れみ? 呵責? あっは! 私がそんなものを感じれば、彼が牢から出て、再び幸せになることが出来るとでもいうの? 私がその手紙を読んで涙を催せば、彼を今すぐに、あそこから救い出すことが出来るとでもいうのね、あなたは?」
しかしマリアは何も言わなかった。その沈黙を見て、エノイッサは勝ち誇ったように言った、
「ほらみなさい…… 出来るもんですか! なんにもならないわ! 私たちの涙に価値なんてない! マリア、それで一体どうしようという訳? 彼の身を案じることによって、あなたは一体何をするというの?」
だがマリアは答えなかった。性悪なエノイッサは、相手を追い詰めようとして、三度口を開いた。
「救ってみなさいよ! 今すぐ! あそこから! 彼を! 私には出来ないわ! だから今、こうして歯軋りをしているんじゃない…… マリア、私たちがどう思おうが、そんなこと、なんの役にも立たないわ。悔しいでしょう? でも仕方ないじゃない。私たちに一体何が出来るというの? もし、律法なんぞなんでもないというのなら、今すぐに、ええ今すぐに、ヨハンネス・ユニウスをあそこから救い出してみなさいよ」
するとマリアが不意に呟いた、
「彼を思うことによって何ができるかというと、私はそれで彼を救うことが出来ると思っているわ」
エノイッサはマリアの奇想とも言える答えに、嘲りをも通り越して怒りすら覚えたのだった。
「あなた、どうしてそんなことを言うの? 答えに詰まって、口からでまかせを言っているだけなんでしょう。ええ、そうなんだわ……」
「いいえ…… ああ! エノイッサ! 私、あなたの言うことをよく聞いたけれど…… あなたもやっぱり苦しんでいるのね…… ああ、苦しんでいるんだ、エノイッサ、あなたは苦しいんだ! 私、これほど…… これほどあなたのために憐れみを覚えたことは無い」
エノイッサがおそるおそる目を凝らしてみると、マリアは横目に、何やら哀れむふうな瞳で、もとより軽蔑の色さえ混じっているようなそれで、じっとこちらを見つめているのだった。エノイッサが答えた、
「やめてよ! どうしてそんなことを言うの…… ああ、あなたに何がわかるというのだろう、マリア。私のように、あの裁判に立ち会ったことがあなたにあるかしら? きっと無いはずだわ、だから、あなたにはなんにも分らないんだ…… なんにも。私とあなたとじゃ全然違う。恐ろしいわ、あれは…… ねえ、どうしてあなたはそんな目で私を見るの? ええ? おかしいのかしら? おかしいのね、私が! おかしくておかしくて、たまらないんでしょう! だから私が滑稽で、哀れなんだわ! そもそも、あなたには全く関係が無いことだわ、こんなこと…… 自分から牢獄に行くようなことさえしなけりゃ、あなたは全くの部外者なのよ…… それで、魔女たちと話して、あなたには何が出来たのよ? 彼らを救うことが出来たの? …… あなたは自分から首を突っ込んで、人がこんなに苦しむのを見て、面白がってでもいるのかしら…… そうよ、きっとそうに違いないわね」
言ってしまうと、エノイッサは寝台にふてくされたように横たわった。するとマリアが言った、
「どうして…… どうしてそんなことを言うの?」
そして彼女は、手にしていた手紙を卓の上に置くと、寝台の上で丸くなっているエノイッサの傍に寄って、すぐ隣に腰掛けた。
「エノイッサ。ああ、私に、あなたの苦しみを取り除いてあげることが出来たらね」
「そう、あなたはそう言うけれど、それだって、単なる物好きから来てるんだわ……」
そう言ってエノイッサは顔を上げて、マリアを睨みつけたのだった。するとマリアが言った、
「だって…… あなたが苦しかったら、そりゃ私だって苦しいわ。だから、あの方々が苦しんでいれば、その…… 私だって苦しいの」
彼女は先ほどとは全然変わっていない、何やら哀れむふうな瞳をしてこちらを見つめてくるのであったが、それが何よりもエノイッサには我慢がならないのである。
「マリア、あなたはどうしてそう、自ら好んで苦しい場所に行こうとするのかしらね。なんにもならないのに」
「エノイッサ、だって私は…… そんなことより、私にとっては、自分の知らないところで苦しむ方がいると考えることほど辛い瞬間は、この世に無いのだから。まるでのどをかきむしりたくなるくらいの苦しみよ。それならいっそ……」
マリアは、ふと言葉を飲んだのである。
「いっそ、何よ」
「いいえ! でも、ねえ、考えてもみて。誰にも見捨てられ、一人孤独のままで苦悩しながら静かに消え行く時を待たねばならない…… ああ、ちょうど、今のあの方々のように! 私は、そのような方々から目を反らして、遠のいていく時には、それは本当に恐ろしい気持ちに捉われる…… なぜだかは分らないけれど。この世の誰かが、何かのために犠牲になって…… いったい、果たして、それは本当に、そうでなければならないのか?」
マリアの根本的な問いかけ―決然とした口調で行われたそれは、狭いこの部屋に厳かな反響をもたらしたのであるが、問いかけの情熱的な調子とは打って変わって、応答は無言のみなのであった。幾重にも金色の音の輪を広げてみせる晩鐘のように響き渡った音は一つまた一つと、自らがそれを望みでもするかのように虚を叩きながら、そして吸い込まれていくのであった。そして、エノイッサもすぐにそれに答えるようなことはしなかった。
「…… ねえエノイッサ、聞いてる?」
「聞いてるよ」
彼女は答えたが、しかしマリアは黙ったのである。エノイッサの返事が不躾なものだったので、相手がきっと自分の話を聞いているはずがないとでも思ったからだろうか? エノイッサが言った、
「あなたがなんと思おうが、それは…… あなたがそうした方々を救おうだなんて、そんなこと、律法がゆるさない。だから、私もあなたもこうして…… それは、そうでなければならないのよ」
彼女は暗闇の中で薄ら笑いをした、マリアを嘲るふうに。しかしマリアは、
「ねえ、あなた。あなたは本当にそんなことを思っているの? それはそうでなければならないだなんて…… 本当に? 私は悲しい。あなたがそんなことを思っているだなんて、そんなふうに言うだなんて……」
と、言うとやにわにエノイッサの手を取って言うのだった。
「いいえ、きっとあなただって私と同じように…… そうよ、だって私には分かるもの。エノイッサ…… きっとあなたはそんなふうに思ったりしない。あなたは残酷を憎むもの…… そんなの嘘よ、嘘っぱちよ。それはまたいつものあなたの悪い癖……」
彼女の瞳には何やら熱っぽい輝きが灯り、口調にはエノイッサに対する静かな期待―性急に舌を運ばさずにはおれないあの熱狂的な確信が満ちていた。
「悪い癖よ、エノイッサ。あなたは自分で言うような人間ではない。あなたに罪はない…… いや、あるけれど…… それだって、全然大したことがないんだから。今、それを教えてあげる。それで、あなたの苦しみが減ずるようなことがあれば、私だって少しは……」
そう言って彼女は立ち上がると、卓の方へ歩いていって、そこに置かれていた福音書を取り上げたのだった。月明かりの下で熱心に頁をめくっていたが、とある箇所を開いてはたと手を止めると、それをそのままエノイッサに突きつけたのである。
「読んで、エノイッサ…… ここに書かれてあることを。声に出して」
エノイッサは訝しげに福音書を受け取った。月明かりの下では、思うように視力が働かないが、目が慣れてくると、彼女は声に出さずにそれを読み始めた。窓から月明かりのさす寝台の上には、そのくらいの明るさがあったのである。ちょっと読んで、エノイッサは、それが、そこにあるのが、四つの福音書の中でもヨハネ伝のみに記されたあの有名な一節であるということに気がついたのである。
「マリア…… これは一体?」
と、彼女は思わず呟いた。しかしマリアは、
「いいから読んで」
と、言った。(読めばいいのね! 読んだら…… 分かるというのね?) エノイッサは、そう問いかける眼差しを、じっと相手に注ぐのだった。…… しかし、いったいここに、何が書かれてあるというのだろう? つまり、もう何度も読んだことのある言葉に、何が期待できるというのだろうか…… こうした場合、特に人には良くあることだが、エノイッサの胸中には若干の不安、乃至は憂慮といったものが生まれたのであった。それは、他者にそそのかされてその既知の言葉を読むという行為自体が、自分の思想を脅かすのではないかという、こうした場合において誰しもが抱く不安である。そのために、彼女の精神は再び頑な武装を始めた…… そして次の瞬間には、彼女はもう、これを読むことに何の不安も感じてはいないと、少なくとも自分ではそうした気になっていた。一体何を不安がることがあろうか? だってここに、自分の知らないことは、何一つとして書かれていないのだから。そう、何一つとして…… エノイッサの瞳は挑戦的にきらめいた。彼女は、マリアの言いたいことを汲み取るというよりはむしろ、自分にこれを読ます相手の真意を探り出してやろうとして、福音書の一節を口に上らせ始めたらしかった。
《人々はおのおの家へ帰っていった。イエスはオリーブ山へいかれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、ご自分のところにやってきたので、座って教えはじめられた……》
するとエノイッサは読むのを止めて、マリアの方を向いて聞いた。
「マリア…… こんなことが一体何になるというの?」
だが、マリアも頑な性質で、じっとこちらを見返して言うのだった。
「私の言う通りにして」
それでもエノイッサは、相手に対する不信、もしくは反抗心に駆られていたのか、瞳を福音書の上に落としたまま、無言で表情を強張らせていて、それ以上何もしようとはしないのだった。視線だけは文字の上を這っているかのようである。すると、その顔を覗き込んでいたマリアが、「いいわ、一緒に読みましょう」と言い、先導した。
《そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が》
すると、エノイッサがおずおずと、続けて読んだのだった。
《そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が》
そして、二人の声が融けあった。
《…… 姦通の現場で捕らえられた女を連れてきて、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしている時に捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたは、どうお考えになりますか」 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである……》
ここでエノイッサはまた朗読を止めた。なぜなら…… この一節の持つ性格の中に、なにかマリアの精神の断片といったような、ほのめかしを、つまりパロディを、それとなく予感したからである。だって、似ている…… あまりにも似過ぎているほど! つまり、こうした問いかけ―目の前にいるこいつは、罪びとだろうか? 裁かれるべきなのであろうか、それとも、救われるべきなのであろうか? こいつを見て、私は、いったいどうするべきなのであろうか―一見、この一節に含まれているかに思われる、こうした問いかけのすべてが、一体これが、自分自身の現在の状況と、どう違うと言うのだろう?
「マリア…… これじゃまるで、私のことを言っているようじゃない……」
エノイッサには、何もかもがそのままそっくりに感じられたのである。それで、彼女はマリアの方を見やったが、相手は尚もじっとこちらを見つめたままなのであった。月光を浴びてきらきらと光るマリアの瞳には、悲しい、何やら物憂げな色が見え隠れしていて、それがさっと影を落とした時に、エノイッサはどきりとしたのである。(ああ…… なんという目で私を見るのかしら…… まるで罪人を哀れんでいるような…… 罪人…… この私が罪人だっていうのか)しかし実はマリアは全然そんなことを考えてはいなかったらしいのである。彼女はあくまでも、エノイッサの苦しみを減じようとして、単にそれだけのこと考えて、福音書にあるこの一節を引き合いにしたに過ぎないようであった。しかしエノイッサは鼻で笑った。マリアは独りで朗読を再開したのだった。
《イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた》
マリアの声は次第に熱を帯びてゆき、まるで陶酔をしているかのようなのであった。暗闇で文字を追うためによる眩暈が、意識を朦朧とさせているのかと思われるほどに―
《しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた》
彼女はちらとエノイッサを見やった。マリアの熱っぽい瞳は涙を溜めたようにきらきらと光っていて、唇は感激に慄いているかのように思われた。読まなければならない、私はあなたのためにこれを読んで聞かせねばならない、と、表情はそう物語っているようにも見えた。しかし、頑ななエノイッサには、相手のそうしたもののすべてが、何から何まで癪なことに感じられたのである。(馬鹿じゃないのか、こいつは) 彼女は、体がぎゅっとなるのを感じた。しかし、その一節にある福音書の感動的な部分を予期して、またこうも感じるのである、(いよいよだわ…… 福音書の中で最も謎の多い言葉の一つ…… ああ、速く読んでよ、さっさと…… 速く!)
マリアは、言葉に全てを委ねるかのように、大きく息を吸い込むと、静かに、だが重々しく言った、
《「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」》
それまで火にあぶられていた氷は、とある極点に達した瞬間一気に溶け落ちる、ちょうどそうしたように、エノイッサは、自らの体が解放されるような、熱気に満ちた悦びを覚えたのだった。マリアが続けた……
《これを聞いた者は、年長者から始まって、一人、また一人と、立ち去ってしまい、イエス一人と、真ん中にいた女が残った……》
しかしここで、エノイッサの胸中に、とても特殊な働きが起こったのだった。というのは、それは、熱狂の後しばしば人の心を覆い尽くしてしまう、あの冷徹な洞察力、乃至は虚無といったものである。即ち、エノイッサはそれまでの、感銘に素直に身を委ねていた忘我状態から抜け出して、さっと我に返ったかのようなのだった。というより、彼女があたかも冷徹な第三者の瞳を獲得したかのように、精神はこの空間より隔絶されて、対象を、その鋭利さによって切り刻み始めたのである。自分自身さえも。(ああ…… もう何遍も読んだわ、この箇所なら!) しかしそこには、むらむらとした、反抗的な、若干の悪意も混ざっていたようである…… エノイッサは、じっと相手を睨みつけた。そして、部屋の中にも、それとなく意識を向けてみるのだった。寝台、窓、卓、椅子…… これはいったいなんだろう!? なぜ友人が目の前で聖書を朗読しているのか? 精神の働きは容赦が無かった。エノイッサにはすべてが、この瞬間滑稽なものに思えてきたのである。(ああ……! なによ、あなた、マリア…… あっは! 本当にくだらない)
《イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた……》
(ああ! 速く読んでちょうだい! 速く…… もううんざりだ…… 私はもう、そんな言葉に心を動かされることはないから)
《…… 「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」》
マリアはおしまいまで読んでしまった。彼女はそれと同時に、自分の行為の結果を見るのが待ちきれないかのように、自分の持つ今この瞬間の感銘と同様の感情をエノイッサに期待してか、さっと顔を上げてエノイッサの表情を伺ったのだった。しかし、そうしてマリアが期待するものとは裏腹に、相手は、憎々しげな、あるいは侮蔑を孕んだとでもいうべき瞳をして、じっと彼女を睨みつけていたのである! これはマリアにとって驚くべきことであったらしく、彼女は恐れ入ったのか、肩をびくりと震わせたのである。
「それで…… 一体、何よ? ええ、マリア?」
エノイッサは胸の内に溜まった毒を吐き出そうとでもするかのように言った。
「こんなこと、ありきたりだわ! こんな教訓が、何になるというの? 罪を犯したことのない人間などいるはずがないのだから…… 知ってるわ、そんなこと! それで、今のこれに当てはめて…… 私たちが、魔女を裁くことが、当を得ていないとでも言うんでしょう、あなたは! そうね…… 私はとりわけ、ファリサイびととでも言ったところかしら? 律法に盲目的に跪いて…… ねえ? マリア、あなたのこの喩えは中々当を得ていると思うわよ! 実際、その通りなんだから……」
「違うよ、エノイッサ!」
マリアは言った、瞳に涙を浮べて。彼女のその涙が、他ならぬ自己愛の証左だと見て取ったエノイッサは、嘲りの笑みを唇に浮べた。するとその時マリアが、
「ああ! 本当になんとか、なんとかしてあなたをその苦しみから救い出してあげることができたらね」
と、呟いたのである。
「エノイッサ…… 誤解しないでちょうだいね…… 私はあなたをこらしめようとか、戒めようとかいうつもりで、これを読んだのではないのよ…… 誤解よ。私は、あなたの苦しみを減じようとして、ただそれだけを願って…… だけど、ええ、その通り…… あなたが、ここに出てくるファリサイびとで、魔女が姦通の女だという考えは、そりゃ当たってるわ……」
「…… やっぱり、私の思った通りだわ! ねえ、マリア、もうやめましょうよ…… こんなこと」
「ねえ、最後まで聞いてよ! あなたがそうやって苦しむのを、私、もう見てられないの…… あなたは、自分で自分のことをずたずたにしているんだから…… 私は、他ならぬあなたのために、あなただけのために、これを読んで聞かせたのよ…… エノイッサ、魔女ではなく、あなたのためよ……」
「でたらめだわ」
エノイッサは言った。
「ここに何が書かれてあるというの……? あなたの読んだこの一節に、書かれてあるのは…… ええ、そうよ…… 私は罪びとに違いないわね! 確かに、私は欺いた! そう、あなたは、そう言うんでしょう? たとえ律法に従っていたとしても、罪は罪だってね! そんな私を見て…… あなたは、なぜかは知らないけれど…… 主の言葉によって、心を入れ替えさせよう、だなんて…… だけど、それはあなたの考える通りに、なんだから! あなたはそうして、主の言葉を引いているつもりかも知れないけれど、それだって、あなたの勝手なのよ! ええ、もしあなたの言うことが本当だとして! 私が罪びとで、今、私があなたから、ありがたいお言葉を賜ったからといって…… そんなもので、いったい私の罪が浄められるものかしらね!」
しかしマリアは言ったのだった、
「…… いいえエノイッサ…… あなたの罪は許されているわ…… 今、まさにこの瞬間、あなたの罪は浄められている…… イエスは、この一節で、はっきりとそう仰っている」
エノイッサは言葉を聞いた瞬間、にやりと不敵な笑みを浮べたのだった。マリアの言葉は、彼女にとって、ある種腹立たしい響きを孕んでいたから。(許されている……? 許されているだって?) エノイッサにしてみれば、自分の行ったことに、一体何のやましいことがあったろう? 実はそれは、罪でもなんでもないのではないか? ただ、自身で罪だと思うから、罪に感じられているだけなのである…… それは、確かにそうに違いない。だから…… 許されている、とはなんのつもりだ? 一体、自分は、誰に許しを請わなければならないというのか?
「ええ…… でも…… そうね、確かに私は欺いた! あの方々を、地獄に送る手伝いをしたのよ! 人殺しってところかしら…… あっは! じゃあ私も地獄行きかしらね! それで私には、その覚悟があるわ…… 一生、苦しむ覚悟だって…… だから別に私、あなたなんかに許してもらわなくたって……」
「エノイッサ…… あなた、なにか勘違いをしているわ…… いやそれは何もあなただけじゃないんだけど…… この一節に書かれてある物語を、まったく誤解している…… 私ね、そう思うの。だって、もしその通りなら…… あなたたちがこの一節について持っている考えと同じものを私も持っているとしたら…… 私、あなたにわざわざこれを読んで聞かせるようなことをしただろうか?」
しかし、エノイッサはなにやら訝しげな面持ちで、マリアをじろじろと眺めているだけなのだった。
「エノイッサ、あなたたちの解釈によると、こう…… 主は、〈罪を犯したことのない者などいないのだから、あなた方にこの女を裁く権利は無い〉と、ここで戒めているというのね……? そうして〈姦通の女〉がその機知に富んだ言葉によって放免されたことに、この一節の美しさがあると思っているのだわ。でもね、私は違うと思うの。この一節が強く私たちの心を打つのは、彼女が救われたという事実、決してそのためだけではないと思うの。だって、エノイッサ…… それは、少し考えてみれば誰だって不思議に思うことではないかしら? …… そう、これは不思議なのよ。この部分は…… 本当に、不思議なの」
そしてマリアは、再び聖書を引用した、
《これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい……》
「エノイッサ、ここよ! この部分なの! この一節において最も重要な部分は、女が放免されたことでも、主が女をお許しなさったことでもなくて…… この、誰一人として女を裁くことなく、本当に一人残らずここから立ち去ってしまった、この事実に他ならないの! ああ、そしてこれはとても謎に満ちたことなんだわ…… 彼らは裁く権限を持たないと悟ったから女を裁かなかったのではなく、直接的にせよ間接的にせよ女を裁けたにも関わらずそうしなかったの…… 私の言いたいこと、分かるわね?」
しかしエノイッサは無言でいるのだった。それでおそらくマリアは焦れったそうに言葉を継ごうとしたのだったが、それは彼女自身もあまり利口なものでないと感じたらしく、唇の間から漏れ出たのは、声音にならない程の吐息でしかなかった。マリアはそれきり瞳を伏せってしまった。それはどうやら、考えをまとめるための瞑想のようだった。しばらくしてから、彼女は瞳を閉じたままで呟いた、
「ねえ、エノイッサ。私、彼らは本当に辛かったと思うのよ」
「あなた…… 彼らって、誰のことを言っているの?」
エノイッサはいらいらとした様子を隠そうともせずに呟いた。
「ファリサイびとよ」
マリアは言った、
「ええ。私は、彼らが本当に苦しんでいたんだと思う。それはちょうど、今のあなたのように……」
「私のように?」
「そう」
そしてマリアは諳んじた、
《これを聞いた者は、年長者から始まって一人また一人と、立ち去ってしまい…… 》
「そうよ、エノイッサ! 一人、また一人…… ああ、聞こえる、聞こえるわ! 私には、彼らの立ち去るその足音が聞こえる! ここに、一体どれだけの葛藤があったことだろう!? エノイッサ、ここに書かれてあるのは、まさしくあなたのことじゃないの…… 全く同じよ! あなたと、彼らと…… だって…… 彼らが立ち去るまでに、一体どれだけ苦しんだと思う? 最初に立ち去った年長者でさえ、それは辛かったろうと思うわ。彼らは、主と姦通の女とを、しばらく呆然の呈で見ていたに違いない…… そして立ち去ったの。それから一人、また一人…… その足音を辿っていた、最後までここに残っていた方の気持ちを、あなたなら理解できるでしょう……? エノイッサ、それはまさしくあなたのことなんだから。自分の罪の意識と、律法の意識とに板挟みにされて苛まれながら、呆然としている…… 主を見て、女を見て、なす術もなく立ち尽くしているの。ここに書かれてあるのは、まさしくあなたのことよ」
マリアは言った。
「あっは! 罪の意識ですって? マリア、あなたは……」
エノイッサが、取り繕ったような諧謔調で問うた。
「ファリサイ人である彼が、律法を犯していたとでもいうの……」
すると、マリアは、
《あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい》
と、再び聖書を朗読したのだった。
「彼らが律法を犯していたですって…… エノイッサ! あっは! そんなこと、決してあり得ないわ…… 決して! それはあなただって同じでしょう? そうよ…… じゃあ、聞くけれど…… ねえ、あなた、そもそもあなたはどうしてそれほど罪の意識に苛まれているの? あなた、エノイッサ…… 何も律法を犯したわけではないのでしょう? じゃ、どうしてそれほど苦しんでいるの?」
しかしエノイッサは何も答えないのだった。彼女はなんだかもどかしそうに、何やら言いたげな様子でちらちらと相手を見やっていたが、突然、
「じゃあ、あなたは」
と、きっと見据えて聞き返した、
「苦しくないっていうの? あなたは……」
すると、マリアは答えたのだった。
「それはさっき言ったじゃない。喉をかきむしりたくなるくらい、私は苦しい」
そしてまた、こう付け足した、
「おそらく、あなたと同じ理由で。それから…… 多分彼もそうだったのよ。たぶん、私たちとおんなじよ……」
その語尾は次第に細くなっていって、糸が切れるようにぷつりと途切れた。それからマリアはしばらく黙っていた。彼女はいまだ瞳を伏せたままで。エノイッサは、相手が何か他にまだ言いやしないかというふうに貪るような目つきをしてしばらくじっと伺っていた。しかしマリアは何も言わない。するとエノイッサの心は次第に、何かとてつもなく恐ろしい、不安な感情に支配されていくのだった。彼女はぶるぶると身を小刻みに震わせてゆき、顔面を蒼白にすると、びくりと悪寒に襲われでもしたかのように病的な痙攣を起こして、声音こそ高くはなかったが、叫ぶような調子で呟いたのである。
「じゃあどうして! どうして私たちは苦しいの?」
言葉を聞いてマリアは、反射的にさっと顔を上げた。彼女は、月明かりの下で小刻みに肩を震わせながら何かの苦悶に顔を歪めているエノイッサを認めると、
「さあ。どうしてでしょうね」
と、低い声で呟いた。
「今のあなたと同じよ…… 主に言われた律法学者やファリサイ人たちが立ち去ったのは…… 何か大罪を犯していて言い訳できなかったからだとか、主に反論できなかったからだとか、何かしらの理由で女を訴えられなかったからだとか、主にうまく言いくるめられてしまったからだとか…… そんなことじゃなくって…… 主が《律法》ではなく、《罪》という言葉をお使いになった理由が、あなたに分かる? この言葉で、主は彼らに罪を自覚させたの、それは知っての通り。彼らは律法を犯していないにも関わらず、自らの内に罪を見い出したんだ…… 罪は自覚して初めて、罪となるから。あなた、エノイッサ…… 今のあなたならこの苦しみを、彼らの苦しみを理解できるでしょう? …… そうよ、ねえ、主に罪を自覚させられた人間たちの中で、一体誰の頭の中に、女の姦通の罪に対する考えがあったかしら? 私、断言してもいいけれど、そんなもの、この時には誰にとったって、もはやどうでもいいものだったに違いない…… 彼らが見ていたのは、女のそれではなくて、自身の内ですっくと頭を擡げた罪…… そうよ、エノイッサ。彼らは苦しくなって、逃げ出したんだ。彼らは自分たちの罪から逃げ出したんだ」
マリアはエノイッサから体を離して、じっとその顔を覗き込みながら言った。
「そして主は…… それをお許しになったの。彼らが立ち去ることを許したの…… よく聞いて、主の言葉」
《わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない》
「ファリサイ派や律法学者の人々は立ち去った。そして、主は姦通の女に《行きなさい》と言った…… つまり、立ち去らせたの。ああ、あなたに分かる? エノイッサ…… 主が、《行きなさい、わたしもあなたを罪に定めない》と言われたのは、姦通の女だけでなく、それは、ファリサイ派の人々や律法学者たちに対してでもあったのだわ、私はそう思うの。そう、主の言われた、《あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい》というのと、《わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない》というのは、言った相手が違うだけで、全く同じ意味なの! そう、それはこういう意味だった…… 《お前たちは罪を犯している。だが、私はお前たちに石を投げない》…… ここで許されたのは姦通の女だけではない。主はね、律法学者やファリサイ派の人々も罪に定められなかった…… 主は…… お許しになったの! 彼らが立ち去ることを許したの! 彼らが姦通の女を裁くことができなければ、それは自ら罪を犯していると認めているようなものなのに! 主は、彼らを放免されたの…… これよ、これなの! エノイッサ、女だけではなく、ファリサイ派や律法学者の人々が一人残らず許されたということにこそ、この一節の神秘があるのよ! ねえ、あなたは許されているのよ。他ならぬ、その罪の自覚によって。主は、今この瞬間、あなたを許されている。主はあなたの呵責を理解して、あなたをあそこから放免されたんだわ。あなたが立ち去ることを許したの。だけどたとえば、罪を自覚出来ない者は、この《姦通の女》に込められた、根本的な意味を理解することができないでしょう。なぜなら、自らの罪を自覚してこそ初めて、《あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい》という言葉が、訓戒のそれから赦免のそれに転じて聞こえるのだから! だから、エノイッサ、これが赦免の言葉に聞こえた瞬間、あなたの罪は許されているというの。他ならぬ罪の自覚こそ、ただそれのみが、根本的な、贖罪の道なんだ。ただそれのみが、赦免を受けるに値する、唯一なのだから。エノイッサ、どうかしら。あなたには主のこの言葉が、赦免のそれに聞こえる?」
「聞こえる…… 聞こえるけれど…… マリア」
エノイッサは相変わらず何かに怯えたような呈で、身震いをおこしながら相手に問うたのであった。
「じゃあ、罪って何よ? 私たちの罪って…… 一体何よ? ええ、マリア!」
しかし、相手は答えない。エノイッサは唇をとがらせて言った、
「…… それじゃあんまりだ! マリア…… あなた、私の心を軽くするつもりでそんなことを言ったのかもしれないけれど…… 逆よ、逆! 私、そんなことを聞かされたら、辛くってたまらない……! 許されることがどれだけ苦しいか、あなたに分かる……? ねえ、マリア! あんまりだわ!」
エノイッサのそれは急に、ぞっとするようにか細い声音となったのだった。彼女はわなわなと震えながら、虚空を見据えて、
「私には見える…… はっきりと見える…… 彼らが立ち去るのを見ていた主は、きっと、それは残忍な、薄笑いを浮かべていたに違いない…… それでもし、あなたの言う通り、私があそこを立ち去ることを主が許していたというのなら…… やっぱり、主はそんな私を見て、不敵に笑っていたのよ」
エノイッサは、まるで何かに憑かれでもしたかのように舌を制することが出来ないのだった。まるで見知らぬ誰かが―それは、実際そうであるならば悪魔の所業に違いないと感じられるのだったが―自分の舌を借りて話しているかのようで、彼女は、自分の考えることを述べているには違いなかったけれども、実はそんなこと、彼女にしても今まで思ってもみなかったことで、一体自分がどうしてそのようなことを口走っているのか理解できなかった。また、そんな自分をマリアが不安げに見ていることを感じていた。「エノイッサ」と、相手が呼びかけるのを耳にしもしたが、止まらなかった、
「主は喜んでいるわ! 私たちを許して…… 笑っている! 私たちを苦しみの中に放り込んで、その火の中でのたうちまわる私たちを見て…… 笑っている!」
そして彼女は急に、マリアの体に抱きついたのであった。体をぶるぶると震わせながら、何やら恐ろしげな引き攣った表情をして。
「あなたは、マリア…… あなただったら、そんなことを言われてうれしいの? だけど、それほどいいことだろうか…… お前を許しているだなんて、もしもね、私がそんなこと言われたら、私、恐ろしくてたまらない! 許しを許しとして、潔く受け入れることがあなたにできるの…… ? 彼らが立ち去ったのだって…… ひょっとすると…… ああ、だけどこんなこと、どうだっていい! 教えてよ! 私たちの罪って、何かしら? どうして私たちはこれほど苦しまなければならないのか? こんなに苦しいのなら、いっそ、裁かれてしまった方が良かったわね! それを知ってて、主は私たちを許すことによって、苦しみの中に、私たちを放り込んでいる! ああ、マリア…… あなたの言う通り、私と彼らとが同じなら、彼らもそこを立ち去ることによって、凄まじい苦しみを覚えるようになったに違いない!」
エノイッサの唇から突如として迸りはじめた言葉に、マリアは驚いたらしかった。彼女は自分の腕の中で震えているエノイッサをじっと見た。哀れな尼僧エノイッサは、瞳に涙を溜めて、しかしその涙たちは少なく、頬へ落ちる前に乾くから、それで彼女はまた新しい涙を溜めて、そうしたことを繰り返しながら、じっと相手の表情を伺っているのだった。なにやらへらへらと、引き攣ったような笑みを浮かべながら。突然、彼女は言った、
「助けてよ…… 助けて! マリア」
「さっきから言っているじゃない…… それが私に出来たら、どんなにいいだろうって」
マリアは一瞬眉をしかめてから答えた、
「…… 私だって、あなたと同じだから…… だけど、よく分かった。立ち去ったらどういうことになるかっていうのが、あなたを見てよく分かったの…… ああ、でも私は酷いやつね! だって、こんなこと言ったら、あなたは私のこと、友人を見捨てるようなひどい奴だって言うんでしょう? 実際今、こうやってあなたのことを突き放そうとしているんだから、私ったら! だけど私は、あなたの為にいったい何をすることができるかしら? 福音書を読んだのに…… 一体私が何をしてあげたら、あなたのその苦しみはなくなるってわけ?」
エノイッサは答えないのだった。
「もしあなたがそれから解放されるというのなら、私、今すぐに指の一本くらいは捧げたっていい!」
マリアが言うと、エノイッサは癇癪気味にしゃくりあげながら、
「指の一本でどうしろというのよ…… ばか! たとえあなたの持ってる指全部合わせたって……」
エノイッサは、極めて大真面目にこんなことを言ってのけたらしかった。
「それに、もしあなたの指が私の特効薬になるとして! …… それなら私、今度はあなたの犠牲に救われたというその事実に、苦しめられることになる……」
マリアが横目にちらりと見やって答えた、
「…… それは…… エノイッサ、大丈夫よ、あなたなら…… けど! 私には無理よ! ごめんだわ! あなたみたいな人間じゃないからね、私は!」
それから、マリアはちょっと咳払いした後で続けた、
「私にはとても…… 苦しんでいる人の目の前から立ち去るなんてこと、とても出来やしないから!」
「じゃあどうするというの?」
「どうする…… どうする、ですって? 苦しんでいる人が目の前にいて、あなたは、どうする、なんて聞くのね!」
と言って、突然、マリアは低い声で笑い始めたのだった。彼女はおかしそうに、ちらりと一瞬こちらを見やった後、瞳を伏せて。普通、相手にそんなことをされたら腹を立てて当然である…… それがたとえ、優しい尼僧であっても。だが、いったいマリアの言っていることに、何か間違いがあるだろうか? 実際、マリアの言っていることが独り合点であるというなら―事実おそらくそうであると、エノイッサは、それとなくではあるけれども、思っていたのだが―何か言い返すこともできたはずである…… だがエノイッサは、そうしたことをしなかった。彼女は顔を真っ赤にして、わなわなと頬を震わせ始めたのだった。なにやら嘲弄するように笑い続けながら、いつまで経ってもこちらの問いに答えようとしない相手に、エノイッサはもう我慢ならなくなって、
「ずいぶんと変なことを言うじゃないの…… マリア、それじゃ是非とも教えて頂きたいわ! 別に知りたいとも思わないんだけどね…… ええ、本当よ! そんなこと、あるわけがないから!」
しゃがれたような声で言った、
「あなたは、どうするの? 何が出来るの? どうやって苦しんでいるあの方々を助け出すというのかしら? あなたにそれが出来るとでもいうのかしら……」
しかしマリアは答えようとはしない。
「あなたの言うことはぜんぶ幻想よ! ええ、幻想ばかりだわ。幻想ほど強く胸を打つものは無いから、それだからあなた、そんな馬鹿げた考えに囚われているんだ! 幻想、ぜんぶ幻想よ! ああおかしい!」
おかしいと言いながら、しかし彼女はちっとも笑わないのである。
「あなたがそう思うなら別にいいわ、だけど私は大真面目よ…… 本当よ!」
と、マリアはやっと笑うのをやめて、真っすぐにエノイッサを見据えて答えた、
「私は、魔女を助け出す。私は…… 何がなんでも、あの暗い牢獄からヨハンネス・ユニウスを救い出すのよ」
エノイッサは、相手が何かしらそんなふうなことを言うに違いないとはそれとなく予期していたにもかかわらず、一瞬、相手が何を言ったのか分からなかった。よくあることだが、実際にそのような飛びぬけた発想を耳にしてみると、空いた口が塞がらないのである。それを考えること自体よりむしろ、それを口にするということの方が、何かしら馬鹿げたことに思われるからだ。彼女は引き攣った笑みを浮かべて、ただ一言、
「馬鹿じゃないの、あなた」
とだけ言うことが出来た。するとマリアがきらりと光る眼差しでもってこちらを睥睨し、
「エノイッサ…… あなたならそう言うだろうって、思っていたわ」
と、言ったのだった。エノイッサは、奇妙な腹立たしい感情に捕らわれた。しばし無言の後、彼女は言った、
「噓よ」
「いいえ、噓ではないわ」
「いや、マリア…… あなた…… また何かしら格好付けようとして、そんなことを言ってるんだ! …… それは、いつものあなたの格好付けよ!」
すると、マリアの顔がさっと引き攣ったのを、エノイッサは見逃さなかった。
「でも…… あなた! そんなことをして一体どうするというの? きっと、あなたまで捕まって火あぶりにされるわ。それでもいいの?」
エノイッサがそう聞くと、
「いや…… よくはないけど……」
と、マリアがぼそっと呟いた。
「そらみなさい!」
エノイッサが呆れたように言った、
「それに…… そんなこと…… 不可能だわ! 一体どうやって、彼をあそこから救い出すというの? 牢番だっているし、彼の体だってもうぼろぼろなのでしょう……? 歩くことだってできないに違いない…… それで、もし助けられたとして…… それで一体どうするというのよ? そんな体で逃げられる場所なんて、この街のどこにもありはしないわよ」
マリアはしばらく何か思案するように瞳を伏せていたが、
「いいえ、私はやる」
と、やがて口を開いた。
「…… 土曜の晩のミサに、人々が街中から姿を消すミサの暗い夜中に、あの人を助け出す…… 牢番さんは協力してくれるって言ったわ。心優しいあの人、本当にそう言ってくれたの。それが終わったら、馬を雇って、彼を街の外まで連れ出すつもりなのよ」
マリアは大胆にも告白したのだった。それは、何かの苦しみにとらわれでもしたかのような、か細い震えるような声で。一言一言を慎重に選び出し、そしてそれらを喉から引き摺り出す度に、拷問にも似た苦しみを引き起こされているのだとこちらに思わせる、そんな調子だった。最後に、ほとんどためらいがちで、
「…… エノイッサ、これはあなたにも言うつもりはなかったんだけどね」
と、彼女は言葉を結んだ。
「土曜の晩って、今夜のことじゃないか」
エノイッサは仰天したのだった。彼女は始終―それは、そんなことを聞かされた今にあってさえそうなのだが―マリアがそれほどまでに思い詰めて、そんな危険な行為に及ぼうなどとは、思ってもみなかったのである。しかし、もし彼女の言うことが真実だというのなら、エノイッサは目の前にいる、このよく見知った小柄な尼僧に対してある種の不気味さを覚えるのだった。何よりもエノイッサの心を震え上がらせたのは、マリアの考える牢破りの危険な冒険性などではなく、相手が自分の知らないところで、ここまで追いつめられ、自らとんでもない計画を発案し突き詰めるまでに至り、誰にも言わず、そして時がくれば粛々としてそれを実行するかもしれないということ、むしろここにあった。エノイッサは、友人のマリアについて、自ら知り及ばぬところの一端を見せつけられた気がするのである。その為、彼女は、相手が自分の見知った人間とはまるで全然違うように感じられてくるし、また、同室で寝起きする間柄でもある友人を、これほど遠い存在に思えたこともかつて無かった。しかし……
「うそ…… うそよね? だってあなたにそんなことが出来るはずがないから……」
マリアが果たして真実を言っているものだろうか? 彼女は本当にそんなことをするのだろうか? 口からでまかせではないのか? また、これは彼女のいつもの格好付けだろう…… いや、それはともかく、それほどまでに危険を顧みず、むしろ進んで危険を冒そうとする人間が、世の中にいったいいるものだろうか? 誰しもがそうしたことを望みうるにも関わらず、誰しもがそうしたことをできないはずだ…… それができたら、どんなにいいことだろうに! エノイッサの心中は、さっと不信の色によって塗られたのである。
「ああ、どうしたというの…… マリア! 気でも狂ったのね! でなければ、そんなこと口走るわけがないから! あなた、そんなことすれば殺されるわよ……」
「そうよ。だから、ねえ、エノイッサ……」
突然マリアはエノイッサの手を取って、優しく指を絡ませたのだった。そして、驚いている相手に、じっと眼差しを注いだ。どうやらその瞳は、涙で潤っているようなのだった。マリアはそうしてしばらく、遠慮がちにエノイッサの両手を愛撫し続けていたが、やがて、彼女はため息のような深い吐息を吐くと背後の向こうにある卓を指差して、なおもじっとエノイッサの表情を見つめたままで、
「もし、私が捕まって帰ってくることがなかったら、あの手紙をヴェロニカに…… ユニウスの娘に届けて欲しいのよ」
と、言った。その瞬間、エノイッサの頭の中で、例えるとするならば金属を打ち付けたような音が鳴り響いたのである。彼女ははっとしたように、相手の表情と、自分の指に絡んでいる相手の白く細長い指とを交互に見やりながら、
「本当に…… 本当? 本当なのね? いいや、私は信じないわよ! あなたがそんなこと言ったって…… マリア…… だけど、どうして、あなたはこんなことをするの? どうして、あなたでなければいけないの?」
と震える声で聞いたのだった。彼女はまた、マリアのぴんと張りつめた腕によって自身の視線をそこへと誘われた相手の背後にある卓の上に釘付けとなり、途切れ途切れの言葉で言ったのだった、
「やめて…… やめて。別に、あなたでなくてもいいじゃない! あなたでなくても……」
「だって、他に誰もいないじゃないの。誰も、哀れなあの方を助けない、あなたですら…… だから、私がやるのよ…… こんな悪夢は、もうこりごりだから」
するとエノイッサは、マリアの指をぎゅっと握りしめたのだった。
「どうして? マリア…… ああ、あなただって分かりきっているだろうに…… 私には、そんなことできやしないわよ…… ねえ、何も、自分からわざわざ死にに行くような真似、するものかしらね! 私はあなたほど強くないから…… マリア……」
マリアは、エノイッサの言葉を聞きながら、まるでそれを忌みて聞かないと決め込んでしまったかのように、次第に顔を俯せていった。だからエノイッサは、相手の表情を下から、あるいは横から覗き込もうと努めながら、ぐっと身を乗り出し、弱々しい懇願する声で、囁きかける。
「ねえ、やめようよ…… 私たちは、ここで黙って見てようよ…… もしこれが本当に間違ったことなら、きっと、後の世の人が改めてくれるから…… だから、私たちは……」
すると途端にマリアがさっと顔を上げて、
「それよ、それなんだわ!」
と、真正面からエノイッサを見返して言葉を遮ったのである。
「あなた…… 目の前で残酷なことが行われていて、そして私たちはそれをおかしいと感じていて…… 隠さなくったって分かるよ! ええ、あなたがそう感じているって、私は知っている、知っているんだから! …… それなのにどうして、黙って見過ごそうとするの? あなたのようなやつが大勢いるから、悪いことは悪いままで放っておかれるんじゃないの……? 私たちはどうしてこんな被り物を被っているのかしら。それは、私たちには義務があるからなんだわ…… 主が、かつてそうされたように…… もう一度、姦通の女を思い起こしてみて……! 主は、あそこで訴えられたじゃない…… そして、人間の良心が律法に先立つものであるようなことを、仰った…… ああ、でも、もうこれについてくどくど言うことはやめよう! 私がこんなこと言ったって、どうせ世迷い言にしか聞こえないでしょうからね! あなたはどうせ、格好付けだなんて、言うんでしょう? 私のいつもの恰好付けだ、って! ええ、馬鹿よ、私は馬鹿! 馬鹿で結構! でも、そうしなければならないのよ…… 主のように…… 魔女裁判に利用されるものなんて…… 私は、人を滅ぼすことしか考えないような律法を、律法だなんて思わないから! それに……」
マリアは先ほどから、顔に赤い斑点を作って、病的な震えを起こしながら話していた。部屋の暑気は相変わらずなのに、そうしてぶるぶる震えているのを見ると、それは内的な悪寒によって引き起こされたものであると傍目にも分かるのであった。しかしそれはいったいなんだろう? それは単に熱狂によるものなのだろうか? しかし、マリアが顔を奇妙に強ばらせているのを見ると、それ以外にも、ある種特殊な想念が、彼女の体をおびやかしていたに違いないのである。
「それに、あなたの言ったように、いつかこの悪夢だって終わる時がくるかもしれないけれど…… それがいったいなんになるだろう!? ええ? なんにもならないわ! ねえ、エノイッサ! 苦しんでいるのよ、今! あの方々は…… あの暗い狭い牢獄で、いずれ来る死を待ちながら、苦しんでいる…… 今よ、今! 今、彼を救えなければ全く意味がないじゃないか……」
マリアはそう言うと、再び顔を俯けてしまった。途端にエノイッサは、はっとした。
「お願いよ…… 後生だから、マリア…… やめてよ…… そんなこと言わないで」
エノイッサはこう言って、マリアの手を力任せに引っ張った。マリアは驚いたように、
「なにするのよ、やめて、痛いわ!」
「いいえ、やめないわ! あなたが考えを改めるまで……」
「ほんとにやめてってば! 痛い、痛い!」
「ねえ、マリア、やめましょうよ……」
エノイッサは引っ張る力を強め続け、マリアは苦痛に身をよじった。とうとう耐え切れなくなったのか、マリアはひときわ大きく、
「ああ!」
と、怒気を含んだ声を上げて、大きくその身を引いたのである。エノイッサの手を無理に振り解くと、彼女は大きく後ずさった。そして上気したままの顔で、怒ったような、半ば軽蔑するような瞳で以て、じっと相手を見下ろしたのだった。彼女の息づかいは荒く、肩を上下させるほどで、吐息の中にはむき出しにされた敵意が混ざっていた。エノイッサにしても、彼女は寝台の上に座ったままで、顎を突き出して相手の軽蔑を超えうる軽蔑をその瞳にたたえんとしているかのような表情を作りながら、マリアをまっすぐに見返していた。そうしてしばらく、二人はものも言わずに睨み合ったのである。
実はもうとっくに朝の時刻だった。やがて、いつとも知れず、エノイッサは毛布をすっぽりと被ってしまうと、間もなく寝息を発て始めたのだった。しばらくすると、部屋にある二つの窓より、最初の弱々しい、だが暖かい光が差し込んできた。それまでおそらく半刻ほどもなかったのであるが、マリアは何やら思案げに頭を傾けて、ずっと立ったまま同じ場所に佇んでいた。窓から入り込む白い光を見やると、まぶしそうにちょっと顔を顰めてから、彼女は動き始めた。卓の上にある魔女の手紙を手に取ると、忍び足でエノイッサの眠るところに行き、そっと静かに上から覗き込んだ。そうして耳を澄ましながら、相手が深い眠りに落ちているかどうか、じっと伺ったのである。時が良いと判断したのか、マリアはおそるおそる顔にあるところの布団を指で摘んで、ゆっくりとそれを除けたのだった。エノイッサは眠っていた。手を顔の横に置いて。口を半ば開いたその寝顔に、意想外な子供らしささえ感じて、マリアはすこし驚いたのだった。そして、濡れたような黒色をしたエノイッサの体毛、水浴みから体を起こした烏の羽毛のような、とりわけ睫毛の、そこに届くまでに無限に屈折した陽の光を浴びてきらきら光るのに心奪われたのだった。光はそこで最後の反射をして、弱々しい、だが鋭い嘆きのような輝きをマリアの瞳にぶつけてくる。しかしよく見ると、それは本当に濡れているのだと気付いた―エノイッサの目の下のところ、布団の上に、彼女の泣き濡らした跡が、まだ消えないままに残っていたので。(ああ、あなた…… 泣いていたのね! …… 泣いていたのね!)途端にマリアの顔はくしゃっと歪み、彼女は自分がしゃくりあげそうになるのを感じて、必死にそれをこらえなければならなかった。(ああ、あなた、眠っているあなた…… 私が今、こうして見つめているだなんて、あなたには思いもよらないでしょうね!)そして一瞬、(やめようかな?)という考えが、ふと彼女の脳裡を過ったのである! 一体、それ以上に何を望みうるだろうか―今すぐに、エノイッサを起こして、泣いて謝りながら、自分の心が頑だったことを認めて、和解することだってできるはずである…… また、自分の行おうとしていることと、視線の先で寝ているエノイッサと、自分にとっていったいどちらが大事なんだろう? いったい自分は、彼女をこのままにしていっていいものだろうか―目の前で苦しんでいる人間がいるのに、どうして迷う必要があるのだろうか?
マリアは突然身をかがめて、エノイッサの髪に接吻をしたのだった。そして規則的な寝息を発てている、その吐息のかかる手のところに魔女の手紙をこっそり置くと、再び布団を被せて、静かに部屋を出て行った。にわかに力強くなり始めた、東側の窓より差し込む陽光を背に受けながら
幻想悲曲 第一幕三場