Acid House Dream
クトゥルフっぽい話が書きたかった。ゆっくり気力尽きる前に更新してきます。
ホラーは薄いと思います。オクスリ成分多めです。
プロローグ:行方不明者
「ホンットありえねー。紺の奴」
ディナーのピーク時間を過ぎ、人がまばらになり始めたファミレスで、都麦の本音がとうとう爆発した。
「まあまあ」
半分ほど飲み干されたジョッキをゴンゴンと机に打ち付ける都麦をなだめるように、向かいで穂高が苦笑する。
「まあまあ~じゃねーよ。ライブすっぽかしたんだぞ。大罪だ大罪」
「そりゃ大罪だけど」
弁護の言葉を探して、穂高は好青年のお手本のような口元をひん曲げた。
「……大罪だな」
都麦は無造作に見せかけてしっかりとセットを施した金髪を掻きむしり、ぬるくなったジョッキの中身を飲み干す。
彼ら大学生バンド――「GROOVE10」は三人組のグループだ。
ギターの来島都麦、ドラムの稲場穂高、ベースの巣立紺によるポップロックを中心とした音楽は、巷で徐々に評判を伸ばしていた。
――が、ベースを欠いた本日のライブは、終始盛り上がりに欠ける代物だった。
「でもさ、大学でも見ないし心配だよ。連絡も取れないし。流石にもう一度家の様子見てこない?」
「そうだな。明日行くか。はーあ、全くさっきも変なのに絡まれるし、厄日だ厄日」
「……あれ何だったんだろうね」
穂高はテーブルの端に無造作に置かれた一枚のCDを見遣る。
ライブハウスを出てすぐの出来事だ。
都麦も穂高も沈んでいた。
険悪になるほど浅い付き合いではなかったが、お互いぶつけ合ってもしょうがない不満を腹の中に抱えていた。
「君たち〜!」
不釣り合いなほど能天気な声が投げかけられた。
「君たちさ~、グルテンの来島君と稲場君でしょ〜?いや〜良いライブだったよ!」
仮面のような笑顔をした男は明るい声色でニコニコと近づいてくる。
「……誰」
「見てたよ〜今日もアガッたね〜巣立君が居なかったのは残念だったけど」
ファン……?と穂高が小声で訝しんだ。
「あの、出待ちとか遠慮してんスけど」
「でそんな君たちにプレゼントがあるんだ〜」
無愛想に言う都麦にも構わず、男はズケズケとさらに距離を詰めてくる。
聞く耳を持たない男に穂高は退き都麦は眉を顰めた。
「警察呼ぶぞ!失せやがれ!」
ポケットを探る男に凄むと、彼の貼り付けたような笑みがスッと消え、ピタリと止まった。
「……」
数秒続いた沈黙の中、男がもそもそと呟いた。
「……そう……なら、これをあげよう……」
都麦が反応する前に、幽霊のような動きで穂高に何かを差し出した。
男が去るまで二人は言葉が出せなかった。穂高の手には、真新しい一枚のCDが残されていた。
「なんだったんだろうねあの人」
「売人だよ」
穂高は?を浮かべた顔でウーロンハイに口をつけた。彼には瞬時に理解できるほど縁近い言葉ではなかった。
「ほら、ドラッグ。危険薬物。そういうの誘ってくる奴がいるんだよ。流石に見たのは初めてだけどな」
都麦は男が白い錠剤のようなものを出そうとしていたのを見逃さなかった。
「へえ怖いねえ、本当に居るんだヤクの売人って」
「ああいうのとは絶対口効くなよ。警察呼ぶって叫びゃ逃げてくから。あと別のグループの集まりに一人で行くのもダメだ。断りきれなくなるかもしれないし」
「心配性」
穂高は不服そうに唇を尖らした。
「お前ボーッとしてるから巻き込まれそうなんだよ。現にこんなもの受け取っちまうし」
嫌そうに視線を送ったテーブルの隅に、例のモノがある。
何も印刷されてない白面に油性ペンで『RANGEA』とだけ走り書きされている。その他は普通のCDだ。
穂高はちびちびとグラスを煽りながら何の変哲もないそれを見つめていた。
「どうしようっかこれ」
「捨てろよ。怪しすぎる」
「うーん僕の家プレーヤーないしな」
「何だよそのあったら聞く見たいな言い方は」
「曲っぽくない?『RANGEA』は曲名か、作曲者かな……」
「お前なあ……」
都麦が溜息を吐くと、彼は上機嫌に笑った。
「ごめん冗談。CDって何ゴミだっけ」
「不燃?お前結構酔ってるだろ。明日は紺の家行くし、もう解散にしようぜ」
次の朝、彼のアパートはやはり留守だった。郵便受けにはチラシが何枚も溜まり、人の気配もない。
「中で死んでるとかないよな?」
「やめてよツムちゃん。管理人に聞いたら開けてもらえるかな」
一階の一番手前に、管理人室の表札がかかっていた。
出てきたのは五十手前くらいの女性で、事情を話すと彼女立ち会いの元に部屋に入れてくれることになった。
紺は管理人とも仲が良く、二人のこともしょっちゅう話していたらしい。
一通り部屋を見回ったが、紺の姿はどこにもない。
「管理人さん、最近あいつのこと見ましたか?」
「ここ数日見ないのよねぇ。でもほら、紺ちゃんの帰りって夜中とか朝でしょ?クラブとか行って――元気ねぇもう!だからたまたま会わないだけかと思って」
都麦は何故かバシンと管理人に背中を叩かれた。クラブと聞いて、家以外に彼の行きそうな場所を思い浮かべる。
紺が夜遊び好きなのは確かで、度々ミュージッククラブで女の子と踊ってる話は本人から聞いている。
どこか適当な女の家に転がり込んでいるだとか、ありそうな話だ。
だがライブをすっぽかすほど不誠実な奴でもない、と高校からの付き合いで彼を理解しているつもりだった。
「ツムちゃん!」
穂高が勢いよく洋間の戸を開けて叫んだ。
「――とにかく来て!」
蒼白した彼の様子は只事ではなかった。彼が探していた寝室らしき部屋にはベッドと椅子、譜面台と彼のベースが置かれ、ベッド脇にはローテーブルとコンポがあった。
そしてコンポの中に、一枚のCDが残されていた。
「どうしてこれがここにあんだよ……!」
『RANGEA』
見覚えのある文字列。それだけが走り書きされたCDが、無音でなお威圧感を放っていた。
夢を見ましょう
「ああ――お母さんが、いますよ…………」
うっとりとその男は言う。皮膚のくすんだ指が震えながら虚空を撫でる。
窓から差し込む陽光すら過ぎた刺激になる男の為に、全ての窓が閉め切られた一室。手の届く距離の先は、あらゆる影形が飲まれそうな闇が広がる。
そんな中でも確かに彼は何かを視ていた。
どこかを視ながら語り掛ける。車椅子の車輪が床をギイと鳴らした。
「見えませんか……?」
そこには何もない。
彼が言うことは、幻である。
虚構である。
偽りである。
「きっと……あなたにも見れますよ……素敵な、素敵な夢が…………」
叶わぬ夢に過ぎないのである。
Club.RAINFALL
彼の部屋から得られたものは、怪しい記録媒体一枚だけだった。
知り合いにも片っ端から電話し、大学のグループチャットにも尋ねて失踪した仲間の行き先を探った。返ってくるのは同じ答えだ。
『数日前から姿を見ない』、『心当たりもない』
あちこち聞き回って戻った都麦の部屋には件のCDが二枚、そして疲れ切った沈黙が続いていた。
「捜索届出すのって友人じゃダメみたい」
「そうか……」
「親族か恋人だって。ご両親、飛行機の距離じゃなかったっけ」
「あいつ彼女もいなかったよな」
「……聞いてみよっか、これ」
口火を切ったのは穂高だった。
「どうして?」
「手がかりがあるとしたらこれしかないじゃん?SNSも三日前から途切れてるし、知り合いからも情報ゼロ。これを聞いて居なくなったって可能性、ないかな一%くらい」
「確かにな」
現状残された唯一の手がかりになりえそうな物品。本来ならもっと早い段階でその発想に至るべきだったかもしれない。だがそれの検分に都麦はどことなく消極的だった。
そもそも一枚のCDを受け取ったくらいで人がどこかへ消えるのだろうか――そんな正常性バイアスが語るもっともらしい講釈に肩入れしてても仕方がない。
紺のCDをプレーヤーに入れ再生ボタンを押す。読み込みを待ちながら二人してスピーカーの前に座る。ほどなくして、プレーヤーのデジタル表示が時を刻み始めた。
緩やかなベースの音色から繋げられていく旋律。
重ねられる音。
彼らの時が止まり、やがて意識の全てがそこに向く。
すぐに彼らは理解した。はっきりと空間をそこに感じる完成度の高い楽曲だと。
聞くほどに心地の良い音の流れの中、都麦はある光景を感じた。
静謐な空間。照明を落としたステージのような場所に一人の奏者が立っていた。重なる音は肌を伝い、奏者を彩る光やスモークになる。都麦はまるで自分がその奏者になったかのような想像をした。
時間にして五分もないダンスミュージックだ。
都麦が初めに考えたのは、行方不明の彼がこれを聴いて何を思ったかということだった。少なくとも、都麦自身はこの楽曲に――この曲を作った人間に興味がわいた。
同じ曲を隣で聴いていた穂高もこの僅かな時の内に惹きつけられたのは同じようで、処理落ちを起こした機械のように瞬きもせずにスピーカーの一点を見つめている。
「穂高」
「……」
「おいって、穂高!」
「え……あっ、っと。何?」
背中を軽く叩いたことでようやく反応を取り戻す。
「聴き入りすぎだろ」
「はは、ごめんって……いやなんていうか、すごかったね。手がかりにはなってないけど」
「いや。これ見てくれ」
都麦のスマホの検索窓にはあの文字――『RANGEA』と打ち込まれていた。検索トップにあるのはあるクラブの公式サイトだ。画面半分を占める内装写真をスクロールすると、出演者情報の見出しが現れる。シンプルな日本語のフォントの後ろに、装飾的な英字フォントで目当ての文字列が表示されていた。
「クラブ「レインフォール」。出演DJランジア。場所が隣駅から10分。これは……」
「紺なら行く、かもだろ」
穂高は恐る恐る頷いた。一縷だが、唯一の手がかりだ。時刻はすぐそこに夜が迫る十八時過ぎ。今夜行こう、と決まれば行動は早かった。
ライブハウスを俗に「箱」というのだと知った時、六方を壁に囲まれたあの空間を想像して一人納得していた。だがそれも真新しいギターを背に肩肘を張らせて出入りしていたヒヨコのような頃の話で、今では単に見たままの話ではないと確信している。
あれは箱庭だ。
オーナー、スタッフ、出演者、観客……様々な人間が入り乱れ、騒ぎ、昂り――機材、内装、照明、様々な演出により一つの小世界が生まれる。『箱』の一つ一つに世界があり、場所が変わればその様相も全く別の物へと変化する。
だから今でも、いつもと違う『箱』へ行くときは未知への恐怖か期待なのか、背骨の震える感覚がする。――今回は少し違う意味でも。
「思ったより地味だな……」
街灯やネオン看板の少ない、路地裏のような通りにそこはあった。
黒い外壁にスモークのかかったガラス扉。オープンプレートと、奥から感じる微かな重低音の振動がなければ人の存在すら疑うような店構えだ。
小さな青いネオンと「RainFall」の文字看板だけがその存在を主張していた。
重いガラス扉をゆっくりと押し開けると受付があり、その横に地下へ続く階段が伸びている。
入場料を払い簡単な持ち物検査が終わると、終始にやにやとしていた受付の男に入場ブレスレットとチケットを渡される。
「チケットはドリンク引き換え券になります。ドリンクブースは会場入り口左です」
「どうも」
会場は石造りの階段の下にあるらしい。
「危険な場所かもしれない。警戒してこうぜ」
「OK。飲み物食べ物NG、それから目立たないように二手に分かれて聞き込みだね」
防音扉を開けると、湿度と熱をはらんだ空気に迎えられる。エメラルドグリーンの照明が光り、ベースソロの重低音が響き渡っていた。
外観で想像したよりも会場は広く、五百人位入りそうな空間だ。ステージ側の客席ブースでは、客たちが踊っているのか、拳を振り上げているのか、蛍光ブレスレットの光が激しく揺れている。入り口側はバーカウンターとテーブルが並び、カップを片手に笑いあったり身体を揺らす者たちで溢れていた。
穂高と分かれ、手始めにカウンターへ向かうと白髪交じりの店員がささやかな一礼をする。
「どうも。何か飲みますか?」
「いいえ。ちょっと聞きたいんだけど、最近この男を見ませんでした?友達なんだけど、ここに来たかもしれなくて」
店員はしげしげと写真と俺を見比べ、曖昧に微笑んだ。
「ううん……そうですね。毎晩色々なお客さんが来るもので」
「そうかありがとう」
知らないというより、客の事を話す訳にもいかず上手くかわされたような返答だった。
スタッフより常連客の方がいいだろうか。周辺のテーブルへ足を向ける。
ふと隅のソファに一人でゆったりと座る人影を目に留めた。緑がかった照明の中でも主張を崩さない赤毛の毛先をくるくると遊び、頬杖をついたままステージを見つめている。
「隣いいかい?」
声をかけると、そいつは間延びした声でいいよ、と返す。振り向いたそいつは、線の細く、一瞬性別を間違いそうになる端正な顔つきの男だった。
「で、何?僕に声かけるなんて」
「邪魔して悪い。聞きたいことがあるんだ。あんたここはよく来るのか」
「よく来るのか、って?そっちこそここは初めて?」
彼は怪訝な顔でテーブルの端をつつく。発言の意図を図りかねて一瞬言葉が詰まった。
「……?ああ、初めて来た」
「なーんだ。恐れ知らずなファンじゃなかったの。ああゴメンね?ここ座んなよ。僕はビンカ。ここの歌手だよ」
ビンカと名乗った男は、テーブルに置かれたステンレスボトルを開けて一気に傾けた。言われた通り指差された隣の座面に腰掛ける。
「あと一時間早かったら僕の歌も聞かせてあげられたんだけど。残念だな」
「あんた演者側か。悪い、歌を楽しみに来たんじゃないんだ」
「なに、出会い?酒?どっちもここじゃいまいちだと思うけど」
「どっちも違うかな。最近こいつをここで見た覚えは?」
写真を出すとビンカは無遠慮に身を乗り出してスマホを覗き込んだ。
「人探し?へー」
三人で肩を組み、バックステージを背景に撮った記念写真だ。一番手前の紺を指差し彼は首を傾げた。
「こいつ?ンー……ゴメン知らない。他あたってよ」
ビンカは短く刈り上げた後ろ髪を撫でながら言った。
「そうかありがとう。そうだ、歌手ならランジアってここにいるよな?」
「お、ランジアのファン?妬けるな。流石は教祖様」
その名を聞くや彼は自分の座面へと舞い戻り、再びリラックスした姿勢へ移る。。
「教祖?」
「はは。あだ名あだ名。ここでランジアの音楽聴いてると、なんか、救われた気分になるんだよね……」
彼の指が聖歌のオルガンでも弾くような動きでひじ掛けを這う。控えめなラメで飾る目蓋を伏せ、ソファにしなだれる彼はステージ上手の舞台裏に密かに視線を送っている様だった。
ステージでは演奏を終えたベーシストが、ありがとうとマイクを切る。終わってしまったステージの音楽に代わり、店内スピーカーから陽気なダンスミュージックが流れ始めた。
「彼、もうすぐ出てくるよ」
ビンカは言った。照明が徐々に弱まり、一度非常灯を除いて会場は暗闇に包まれた。それからステージ端を起点にじわりじわりとライトブルーの光が灯っていく。
フロアが期待にさんざめく。花の開花のように静かなライトアップが徐々にステージ中央へ歩むその姿を描き出していった。
その出で立ちは何とも奇妙なものだった。夏の序章のような気温には似つかわしくない長袖のカーディガンに、フード付きのマフラーで顔を覆い巻いている。深く被ったフードの奥はスポットライトの影となり、ぽっかり空いた暗黒のようだ。体格で若めの男性ということだけはわかるが、それ以外は予想だにしなかった外見に面食らう。
あれがランジアーー?
軽い挨拶のように会場をぐるりと見まわしたランジアは指揮者のように右手を掲げた。彼がその手を伏せれば店内に流れるBGMが消える。
それがスタートの合図だと直感的に理解した。
ランジアは伏せた右手を徐々に上げ、それと同時にボリュームを戻していった。サビに向かって上り詰めていくBメロに乗り、最高点到達の瞬間ーーガラリと箱庭が色を変えた。
歓声が上がった。流れ出したその旋律がCDに焼き付けられていたあの曲だと理解する前に、スピーカーから放たれる重厚な音圧に思わず震える。
小さな世界の支配者となったランジアは右腕を大きく振りかざして観客を煽る。スポットライトと同じ色の、無数の光が彼に操られるように回る。
ステージの前も、後ろも、会場全体がランジアに釘付けだった。
これじゃしばらくここで話を聞くのは無理そうだ。穂高は上手く何か聞きだせているだろうか。
鳴り続ける音楽の中、周囲へ意識が向いたその時。重い音を鼓膜が捉えた。
音のした曖昧な方角へ目を向ける。誰もがステージに身体を向けて一体となる空間に一人、黒髪の男がその逆方向へ向かっていた。
男の向かう先、人々の足の間に転がる人影がある。
「――穂高?」
ブルーグレーのスウェットパーカー。見覚えのある服装に嫌な汗が首を伝った。
入り口で都麦と分かれたものの、本音を言えばこうした社交場は不慣れだ。だが大切な友人の為、少しでも情報を得なければ。腹を決めて聞き込みを開始する。流石にステージ最前列でものを尋ねるわけにはいかない。まずは後列から会場の観察に移った。
端の方には踊りつかれて一休みしているグループがまばらに固まっている。その一団に狙いを定めて近づく。
ステージでは演者がスラップベースを掻き鳴らし、またフロアが沸きだした。
「すみません。ちょっと話を聞いていいですか?」
「何?何?わッ、結構イケメン君じゃん。一人?」
「ちょマジだしナンパ?」
女性の二人組に声をかけると、彼女たちはケラケラと小突きあい、愉快そうなトーンではしゃいだ。
「ねーねーここ初めての人?」
「一緒に踊る?」
「あはは……遠慮します」
甲高い声で話す彼女らは見たところ二十代前半で、一人は黒ワンピースの小柄な女性、もう一人はワンレンショートでボーイッシュな女性だった。
「ええと……この人をここで見かけたことありませんか?」
「ええー?どうだっけ?」
「でも知らない人居たら分かるくない?見覚えないわー」
「うちら毎日来てるわけじゃないしさー。ごめんねー」
黒ワンピの女性が眉をハの字にして両手を合わせる。
「いえ、いきなりごめんなさい」
「ごめんなさいだって!かわいー!」
黒ワンピの女性がケタケタ笑う。こういう女性には愛想笑いをするしかなくなるので、あまり得意とは言えない。
「せっかくだし楽しもーよ。今ステージに居る人凄いんだ」
「えっ……?」
ワンレンの女性が出し抜けに肩を抱く。
「ほらネイルカッコよくない?さっきのソロ超絶キュンきたんだけど」
ステージを振り返りながら跳ねる黒ワンピースに、ワンレンが大げさに頷く。
「それ。今まで聞いた中でサイコーに中毒っていうかー」
「マジそれー」
がっちりと動きを封じられ、しばらく話に付き合うしかないと諦めざるをえなかった。
「ネイル、ってあの人?」
広いステージにスポットライトだけを背負い、ダークグリーンのベースを握る黒髪の男。飾り気のない白シャツにジーンズ姿で、肩にかかりそうなくせ毛を結わえている。こんなにも大勢の人間に囲まれているというのにその視線は楽器にのみ向けられており、眼光は酷く沈んでいた。しかし彼から紡がれるフレーズの数々は小気味よく、会場の客を酔わせていた。
褒めちぎられるだけあって上手い。リズムにブレがなく、同じバンドの、行方不明中のベーシストと比べても技術的にはあの男の方が上だろうと感じる。
「そ!あの人とランジア様がここのツートップって感じ」
「オーナーの息子なのよ。オーナーは最近顔出さないみたいなんだけど」
あの晩例のCDを渡してきた男とランジアには何かしらの繋がりがあると、そう考えていいだろう。そしておそらくランジアが中心となるこのクラブも……。
ならもう少しそちらの情報も聞いておいて損はないだろう。
「あの、ランジアについてもう少し聞きたいんですけど」
「ランジア様ならこの後よ!」
「聴くのが一番早いって。前行こうよ前っ」
「え、ちょっと――!」
抵抗する間もなく二人がかりで両腕を引かれて連れられたのは、袖から現れたターンテーブルの真正面だ。
照明が落とされた。ぽつりぽつりと灯っていく青白い光と共に、その人――ランジアが現れた。
顔をマフラーで隠した不思議な外見に驚く間もなく、やがて始まる彼の音楽にまた言葉を奪われる。
あのCDを聞いたあの時、自分の中にある何かと似た感覚を想起させられた。知ったフレーズじゃない。知ったコードでもない。今まで演奏してきたどの曲と似ているわけでもないのに、覚えのある感情が湧く。それが何かわからなかった。
そしてその感情は、隔てるもののない僅か数メートルの距離でもう一度対峙することにより、さらなる克明な像を描こうとしていた。
例えばライブハウスでその日最後の一曲を演奏しているときのような心地良さ。一瞬で過ぎていく一小節を惜しみながら祈るわがままな願い。
永遠に、ずっとこの瞬間に居たい。ずっと。都麦や紺と……。
――そうでしょう。君もこの中においでよ。
真っ黒な顔の奥の済んだ瞳と目が合って、彼が笑った気がした。その瞬間、視界が白く弾け飛んだ。
「穂高――おい穂高!」
彼は額を床につけ、うずくまるように倒れこんでいた。辛うじて起き上がる動作を見せるが、目の焦点は合っておらず、力なく四肢を震わせるだけだ。
「君、知り合いか」
先に駆け付け穂高を介抱していた男が尋ねる。頷くと男は立ち上がった。
「こっちだ。休憩室がある」
「あ……はい!」
穂高に肩を貸したが数歩でよろめいてしまった。男は無言で反対側を支え、案内をしてくれた。
その助けに感謝するよりも、彼以外の人間が一切倒れる人間に反応を示さなかったのが不気味だった。
「すいません。運ぶの手伝ってもらって」
「俺からもすいません……」
座敷に横たえた穂高が弱弱しく言った。
「気分は?」
沈んだ眼をした目蓋の重そうな男だ。言葉も淡々としており、こんな状況でなければ不機嫌なのかと疑ってしまう。
案内されたのは楽屋のような一室で、ロッカーや鏡のない壁には古いポスターやタペストリーが飾られていた。
「ここに来たらだいぶ平気になりました」
「歩けるようになったら今日はもう帰れ」
男は腕組みをしてロッカーに寄りかかる。そこへバタバタっという足音と共に乱暴に扉が開かれた。
「ちょっと大丈夫!?」
「ビンカ?」
やってきたのはついさっき知り合ったばかりの赤毛の男だった。
「真っ青な顔してどっか行くから……そっちはアンタの連れ?気分でも悪くなった?」
「ああ。急に倒れたからこの人に案内してもらったんだ」
ビンカは男を視認するや、苦手な虫でも見たような顔になった。
「ネイル……居たんだ」
「ビンカ。また客席にいたのか」
「悪い?自分の出番終わったらどこ行こうと勝手でしょ」
男の淡白な口調は変わらなかった。穂高はやり取りを聞きながら、黒髪の男を指して「さっきベース弾いてた人だ」と耳打ちした。ネイルと言うらしい。
「そっか。あんたさっきのステージの……。なあ、こんな時になんだけど、この男を最近見かけなかったか?バンド仲間でさ。しばらく姿を見ないんだ」
「バンド……?」
ネイルは写真を一瞥し、都麦、穂高と順に顔を見遣ると、重そうな目を伏せた。
「君ら、人探しに来たのか」
ほんの少し、彼は頭痛を堪えるかのような険しい表情を見せた。
「こんな男はここにいない。さっさと帰るんだな」
あっさりと告げ、ネイルは踵を返す。すれ違い様押し殺したような呟きが耳を掠めた。
――後悔しないうちに。
「……?」
「ビンカ、回復したら出口までこいつら見送れ」
「は?何で僕が」
文句の終わらぬうちに扉は閉まった。
今のは何だ?聞き違い?空耳?
男の言葉が脳を巡る。
後悔とは何だ。このクラブには何がある――?
「ツムちゃん」
思考から連れ戻すように腕が引かれた。
「穂高……もう立ち上がって平気か?」
「平気。帰ろう、ちょっとテンション上がりすぎただけみたい」
緩慢に起き上がった彼は、人好きのする笑みをビンカに投げかけた。
「どうも、迷惑かけました。さっきの――ネイルさんにもよろしく伝えてください」
「気を付けなよ」
ビンカは言いつけ通り外まで見送りについてきた。
中とは別種の不快な湿度に迎えられ、細い月明かりの下へ戻る。心許ない薄暗さだ。
店が完全に見えなくなるまで歩き続けた。
「穂高、本当に大丈夫か?どうして倒れた?」
「わかんない。女の子に前に引っ張られてあの音聞いてたらなんか……意識飛んだっていうか」
「変な電波食らったか……?」
「それ言うなら音波じゃん。で、何かわかった?」
「どいつも知らねえってさ」
「……きっと嘘だ」
彼の語気は確信を得ていた。彼はポケットを探り、その確信の証拠を目の前に差し出した。
「それ……紺のピックか?」
穂高の指先がつまむしずく型の薄いセルロイド樹脂は、彼らのベーシスト一押しのブランドのものだ。余白に彼のサインまで入ってる。
「紺がマメで良かったよね」
「マメっていうかそういう趣味だろ。隙あらばファンの子にサイン入りピック渡そうとするんだ。ーーじゃなくて、これどこにあった?」
「座敷の下。もぐりこんでたから見つからなかったんだと思う。確実にあの部屋に居たんだ」
「じゃあ――」
突如、ピイ――と鳥か笛のような音色が鼓膜を震わす。けして大きな音ではないが、意識を持っていくのには十分すぎる異質な響き。生温かい風に乗り、歪んだ低音も響きだす。闇の中でいくつかの影がうごめく。その二つの音色は不気味なユニゾンを奏でながら徐々に近づいてくるようだった。
「ツムちゃん聞こえる……?」
「聞こえてる。どこから鳴ってるんだ?」
夜闇の中の影が近づき、それが数人の人間であることがわかる。だがその動きは風に揺れる草か、出来の悪い機械のように非人間的だ。揺れるように歩行するその一団は、ただ無表情に歩みを進める。異様な雰囲気に後ずさると、その一団は一斉に俺たちを見つけたようだった。
そこにあるのは虚空が宿っているかのような眼。狙いを定めたかのように彼らは再び動き出す。直感の危険信号に弾かれたように叫んだ。
「まずい――何かヤバイ!逃げるぞ!」
地面を蹴ったはずの脚は、絡めとられたように動かなかった。
ひび割れたアスファルトの隙間から、誰も知ることのない地面の底から、恐らくそいつはやってきた。
闇より黒く、月よりかぐわしい芳香を放ち、両方の脚を締め上げる茎。ストロー程の太さのそれは見る間に腿まで這う様に成長し、赤黒い葉脈を持つ葉をつける。茎は地面から生え出ていて、引きちぎらなければ動くことも叶わない。
それは植物のようで、人間の知る植物ではなかった。
Acid House Dream