僕のジュリエット

二十六。


  1
 ユキヒコは、アキヒトのことを時々、「僕のジュリエット」と呼んだ。
「なら君は、僕のロミオだね」
 とアキヒトが返すと、
「そうだよ」
 そう恥ずかしげもなく、ユキヒコは頷くのだった。
 仄めかされた恋愛の雰囲気を、単なる友人どうしのそれらしく冗談めかせる為のニュアンスの作為はもちろん、微笑の合図さえもふたりの関係は必要としないのだった。

 かれ等は恋人どうしではなくて、寄宿舎の傍の薔薇園をいかにもただの親友らしく散歩したり、寮の相部屋でビル・エヴァンスのUNDERCURRENTをひとつのイヤホンで聴いたり、言葉数すくない会話を夜もすがら愉しみ相手の吐息に酔ってみたり、雨の夜ふと双の指がふれあった刹那たがいにそれを離さないでいたり、そんなふうにしてうら若き一季節をいっしょに過ごしていたのだった。
 つまりふたりの関係はあくまで友人のそれに過ぎず、しかしそれはもっとも甘美な関係だったのかもしれなかった。

「僕は女性役なの?」
 と気になっていたことを、アキヒトがある日訊いてみると、
「そういうわけじゃないよ」
 とユキヒコは答える。
 雨音のたえない日曜の午後だった。なんとなしにけだるかった。
 きょうも空は真白に蔽われていて、透きとおったさみしいしずくはアスファルトの鍵盤へ墜落し、白く光る飛沫と硬質な短調をあたりいったいへ散らしまわっていた。
 ふたりはとりわけ似ているわけではなかったが、いうなれば雨音に耳を澄ませすぎてしまう気質が、双方の共通点なのだった。この相似はふたりを少年らしいあまやかな感傷へ連れていき、おたがいが相手の耳を自分よりすぐれた美しいものだとして尊敬しあっていた。
 かれ等は自分たちだけが、空の透明な涙を識っているものだと信じ込んでいた。
「じゃあなんでユキヒコがロミオなのさ」
 アキヒトが訊くと、
「僕のほうが、」
 と花のような唇をひらく。
 オーディオの選局が切り替わった。
 モーツァルト。レクイエム、涙の日。
 雨音にすと編み込まれる、白の翳うつろう面紗に秘められた、かの向こうがわから降りそそぐ天上の金属音。それ等の織りなす、ぞっとさむけをもよおす死装束の真白なたなびき。…
 かれ等は暫く、時が過ぎるままにする。
 ユキヒコの瞼の肉はみょうにうすく、あらゆる光から眼を護るに適さない。ユキヒコは一種の過敏症で瞼をかゆがり腫らしてしまって、きょうその美貌をややそこなわせている。かれには瞳をおおう瞼がうとましいのだ。
 かれの瞼はおもたげに垂れ、あたかも微睡んでいるかのよう。
 ユキヒコは猫のように睡たげなまなざしで世界へ視線をなげ、ときに猫のようにきゃしゃな躰を世界から跳躍させる。…誤って墜落するのはいつだろうか?
 くろぐろとした睫毛が落とす翳の下には、月のような瞳がきんと硬く燦いている。アキヒトにはいつも、それが遠いのだった。
 …音楽が終わった。
 古いオーディオは引き攣ったような音を立て、沈黙した。
「…僕のほうが、」
 とふたたび言いなおす。
「君よりも早く死ねるからね」
「古風なカップルみたいなことをいうね」
「しかも死ぬのは君の腕のなかだ」
「なら僕は損じゃないか、とり残される側だ」
 と笑ってみると、かれの蒼白の頬に身をよじるような思いをし、その石膏のように粉っぽい仏頂面に神経刺すような真冬の風景画をみて、アキヒトの躰はふるふると顫え、とめどなく涙が落ちてくるのだった。

    *

 ユキヒコは死に、アキヒトは残った。
 純潔にみえるのは、いつも死者の追憶のほうだ。

    *

 卒業にともない長い寮生活を終え、アキヒトは東京の大学に通うため独り暮らしの部屋を借りた。
 しんと静かな台所で、かれは空白を腕に抱きながら、「僕のロミオはどこへ行ったんだい」とつぶやいた。

  2

 死者は昇り、はや地上から喪われた。
 遥か彼方の地で、喪失したもの等は、それへの供物としてきんと硬くひかっていた。
 銀の月燦り、白を基調とし風になびく衣のように象牙色・真珠色へと陰影をうつろわせる天空がひろがり、吹雪舞い、音さえ立たぬ、白雪ふりつもる底のつめたさ、ときおりちらと姿をみせ霧消する狼の影、そのしずかな風景画は全体が青みがかっており、あらゆる輪郭線はかき消え茫洋な夢に融けていて、アキヒトはその幻影が、目も眩むばかりに烈しき感覚を喚び起すのを識った。

    *

 東京の大学はかれには退屈だった。重くのしかかる倦怠はかれを色っぽい眼差しのゆったりとした美青年へプロデュースをし、かの喪失が与えた空白はかれをあたかも知的で陰影ぶかい悩める男にみせかけたのだった。
 これ等は近代の欧羅巴において、ともすれば賛美められがちな悪徳であったはずである。
 ある少女たちは、アキヒトのことを蔭のある美男だと噂していた。
 あんなさみしげな男にウェルテルを演じてほしいと、独文科の女学生はしごくまじめに語りあった。あのメランコリックな横顔はレイモン・ラディゲの生まれかわりの証拠であると、仏文科の女学生は「私そんなの信じてないわ」というような調子で囁きあった。そして英文科の沈鬱な女学生はかれこそロミオにふさわしいと、熱っぽく意図しない皮肉をとばすのだった。
 つまりかれの雰囲気には悲劇の蔭きざす暗さがあったのであり、それが文学にかぶれたうら若き少女等になにかしら甘美なものを夢みせたのかもしれなかった。

    *

 かれははじめ仏文科にいた。象徴詩を研究しようとおもっていた。
 が、大学で詩や小説、戯曲を勉強する自分にすぐさま幻滅したので、二年で宗教学科へ転科した。浮世ばなれし孤独なかれの雰囲気は、いかにも神秘の希求にふさわしいそれだと噂するものもあった。しかし宗教学にもすぐにあき果てた。かれはなんにもつづかなかった。なんにも為たくなかった。やがてファンたちもアキヒトの怠惰に幻滅し、熱は徐々に冷めて往った。そしてファンなるものは誰もいなくなった。
 男子学生のなかで、もはや詩人になりそうだといまだに期待をかけるものもいた。しかしかれはなんにも書く気はなかった。なんにも成る気はなかった。そもそもあらゆる期待がかれには鬱陶しかった。他者の期待は自分を思うがままにコントロールしようとする自己本位な感情であると感じ、それに反感をもっていた。
 かれにはあらゆる意欲が欠けていたのだった。
 学校は休みがち、煙草の量は増えてゆく、食事も面倒なので不健全に痩せていく、いまここの精神状態から逃げだすためだけに、酒・ジャズ・サイケデリックロックを浴びるように享ける。「神経のせいだ」、フランソワーズ・サガンの小説の台詞を模し、みずからへいいわけする。かれの躰は悪徳のシャワーにうす汚れていった。堕落した自分に酔うあさましさを自覚しながら、その酩酊をよしとしていた。
 いつの時代の青年にも往々みられる、倦怠、尊大な幻想、ほどほどの堕落。それ等が大学一年生のアキヒトの特徴なのだった。
 かれはただ死こそ高貴であるという観念に引きずられていた。
 ある種の死に美をみいだす、それはときに恐ろしい感覚を与えることがあるのである。生が、死に含まれるのだ。生のそれを、弧をえがく点の運動とし、やがて生誕と死が結びつく連想をして、その壮麗な円を死と見做すようになるのである。その円が月さながら凄まじい燦きを放つとき、彼等は、美しくない生を拒むようになる。生きている自分は醜いと僻むのである。そのように生きるくらいなら、はやばやと美しい死を遂げ、ただ自尊心を極まで回復したくなるのだ。
 彼は、生きていたく、なかったのだ。


  3
 その日アキヒトはかれには珍しく映画を観た。
 『マイ・プライベート・アイダホ』。
 かれはいやしき共感をもってその名画をこころから愉しんだ。リヴァー・フェニックス演じるマイクはいかにも憐みを享けるべき純粋な美青年であって、とびきり可愛らしかった。観終わると満足げにベッドに倒れこみ、好きなシーンを脳裏で描きかれ等のイノセンスを気ままに弄った。存分に憐憫をそそぎこみわが心の動きに酔いしれた。
 かれ等の不幸は手折られた花のそれのように可憐だった。
 しかしかれにはひとつ解らないことがあったのだった。なぜマイクは自分を棄てた母親に逢おうとしたのだろう? いったいそれがなんになるだろう? みずからの誕生の根源と邂逅したいのであれば、かれは墓場にわが身を横臥え、土のように睡眠すればそれで好かった筈だ。

    *

 外に出た。雨が降っていた、無関心にはしり去るような音を立てて。
 それがいったいなんだ? とかれは心でひとりごちた。これは心中の会話における口癖だった。会話の相手はいつもユキヒコだった、あるいはかれはユキヒコに酷似していた。アキヒトはいつのまにか夭折した親友の幻影を甦らせ脳裏で再構築していて、大学で話相手もいなかったのでたえずかれに話しかけていたのだった。
『きょうも雨だね』
『雨の音は好きだよ』
『僕もそうだ』
『都に雨の降るごとく、』とユキヒコは、ヴェルレエヌの詩句を口ずさむ。
 こういうところが、アキヒトは好きだ。
『わが心にも涙降る』
『それがなんだっていうんだ?』
 (笑い合う)
 …アキヒトは一人歩きながら含み笑いをした。その笑いには自己への嘲笑が混じっていた。なぜといいこの突き放すような口癖は、かれの生の処世術を集約しているようにおもわれたから。
 かれは虚無主義のポーズを取りながら、内心怯え斜にかまえた様子で世間と握手をし、一見全てを突き放しているようで実質妥協という、もっとも安全な友好関係をそれ等と結んでいたのだった。それでいて、生活上の義務の悉くはかれに軽蔑されていたのだった。かれはもっとも傷つきにくい生き方をしている強かな男だった。

   *

 かれは留年し、ふたたび転科した。二度めの二年では演劇学を勉強することにした。むろんそれもまたかれには退屈だった、というより、退屈だとかれはおもいたいのだった。講義の時間は気ままに脳裏でユキヒコの幻影を想い描き、時間を潰した。勉学に励む学生をさめた眼付で見遣った。実利的なことを熱っぽく議論する学生たちはかれのおもうままな軽蔑の対象だった。学生運動なんてその最たるものだった。かれはそれ等が現れたとき、無関心そうな顔の奥でむしろ嬉々とするのだった。
 かれじしん、そういったところがみずからの欠点であることくらいは自覚していた。が、どうにもアキヒトは自己に生きづらさを与える、魂に睡るイノセンスを棄て切れないでいるのだった。
 無垢で傷つきやすい自己を清らかでピュアなものとして、かれはそれを心のどこかで劇しく愛していたのである。ユキヒコの夭折は、僕等に共通する繊細な純潔性は、生存には向かないという事実を証明したのだとかれは認識していた。それはいかにも甘美で、ぽっと陶酔させるような感覚である。
 そんなイノセンスは幻ではないか、その不安こそかれを現実の痛みへひきもどし、しかるべき苦痛をくるしませることを助けたのだった。そのせつなだけ、かれはきちんと学校へ通う気になった。
 魂の無垢性は、醜い自己・きたならしい現実への嫌悪を生むであろう。すると穢れから免れているもう一方の自己、つまりイノセントな自己の存在を確認させるようにかれにはおもわれた。
 だが、そんな清らかな魂が真に自己に秘められているかの厳密な判断は、かれにいつも留保され、それの為の精確な分析の予定はいつも先延ばしされたのだった。
 かれはデカダンをうわべだけなぞり、価値や有用性という言葉を誰よりも侮りながら、むしろ誰よりも信仰していたのだった。かれはただある種の死にそれ等の究極を見た。そのほかを虚空の闇へ投げ棄てた、ただなげやりな無精さによって。

 その頃、アキヒトへひそかに想いを寄せる奇矯な少女がいた。アミという学生で、留年したアキヒトの同級、かれの一つ年下だった。
 彼女はアキヒトに反し、リアリストだった。たとい文学上のそれであっても、反逆とは市民のより善い便利な生活の為に為されるものだと信じていた。絶望は、観念的な悩みばかりにいそしむ青年の処世的態度に過ぎないと軽蔑していた。しかしそんなリアリズムが、かれの退廃的な生活態度に、なんらかの意味があるのではないかと推測させたのかもしれなかった。かれのデカダンスは、じつは能動的な反逆の為のそれではないかしらと彼女は忖度した。こういった錯覚は、アミがさまざまな意味でかれの遠いところにいるからこそ産み落とされたものかもしれない。
 アミは自分がなぜアキヒトを好きなのか、よく理解していなかった。
 ただ時折だけみせる無邪気そうな笑顔をアキヒトの本質であるとみなしていたという、あまりにも素朴な感覚によるのかもしれなかった。その笑顔をみたときの胸がきゅっと締め付けられる感じ、この感覚が嘘であるとはどうにもおもわれなかった。面倒そうな、か弱い青年。この先入観を覆すものは後になっても何もなかったけれど、どうにもこの炎えあがる恋は、せめて告白せずにはいられないくらい、つよい感情なのだった。

   *

 勇気をだして、アミはかれを呼びだした。
「好きです。付き合ってくれませんか」、ストレートにそう伝えた。
 アキヒトはなぜかふだんどおり憂鬱な顔をしたままだった。
 感情がアミにはいまいち読みとれなかった。私に愛されるというのが、そこまで憂鬱なのだろうか。しかし嫌ではなかった、かれは跳びあがるほど喜んでいたのだった。前述したアキヒトの個性から解るとおり、かれはむしろ自己愛がつよすぎるくらいなのだから。
 このかもしだされた憂鬱な雰囲気は、かれの意図した印象効果であったのだった。かれは呼びだされた時から、次の行動を企画していたのだ。
「どうしてそんな顔するの?」
 アミがおそるおそる訊くと、
「僕はね、」
 といまかいまかと待ち望んでいた語りをはじめる。真剣な面持ちだ。瞳は暗鬱に翳り、視線は負い目があるように逸らされている。
「罪を犯しているんだ」
 急に懺悔がはじまった。アミは唖然とした。
 それは次のような話だった。


  4

 ユキヒコの死を手助けしたのは、アキヒトだったのである。夏の終わり、元来病弱だったユキヒコは、心身ともに衰弱していたのだった。とても自力では自殺できないくらいに。
「何によって死ぬつもりなの?」
 と訊くと、
「迷惑を最小限にしたいな」
 都合のいいことを、ユキヒコは言う。
「どうしても死ぬつもりなんだね?」
「生きる意味なんてないよ。苦しいだけさ。僕が生きることは僕以外にも悪だよ」
「…そうであるなら、」
 とアキヒトは、震える声で言った。
「僕が、自殺を助けるよ」
「それはありがたい。ただ、捕まらないように気をつけてくれ」
 ふっとため息をつく。
「生きていれば幸せになれるなんて、」
 ユキヒコは言い放った。
「まったくの嘘だ。天上の嗚咽、地上の悲惨に四六時中耳をかたむけていれば、僕等には幸福になる資格なんてないと自覚する筈なんだ。幸せは、おめでたい人間の特権だ」

    *

 ユキヒコは森で死ぬことにした。
 いい考えだね、とアキヒトは言った。それは単に、森で友人の自殺を見とどけることに感傷的なものを想起したからに過ぎなかった。かれは自殺を扶助することの重大さをいまいち解っていないのだった。
 かれの大切にする世界はユキヒコと共にある生活のなかにしかなかった。そのなかで享受する芸術・かれとの対話のほかの教師をなにひとつ持たなかった。学校、かれ等にとってそこはとるにたらなかった。その認識はかれ等を不幸にし、被害妄想的に疎外者へ追いやった。

    *

 孤立と不幸に酔い痴れていた。うら若き美少年等は、憂鬱な森のおくふかくで横臥わり、身をよせあっている。静かだ。たがいの心臓の音がきこえるくらいに。もしユキヒコの鎖骨をゆびさきでなぞれば、すと肌の擦りあう音が森いっぱいに響きわたるだろうか。
 鬱蒼としげる木々は、彫刻された額縁さながら。陽は木々の隙間から幽かに射しこむ。橙いろに照らされた情景は仄暗い。風が吹く。葉がかさかさと不穏な音を立てる。真白のアネモネのような自殺未遂者と、後ろめたげな眼をした自殺扶助者の関係性が、おそらくやこの絵画の主なるモチーフなのだった。
 寮でいっしょになってはや二年過ぎ、漸く真にふたりきりになれた気分だ。ユキヒコは何十錠もの睡眠薬を飲んでいる。その錠剤のしろさはアキヒトにみょうな恐怖をあたえたが、無心なようすでユキヒコはそれを口にした。
 自殺扶助者は未遂者が歩けなくなったらおぶって、発見されにくい深いところまで導いたのだった。いうなればかれがしたのは、それくらいだった。列車なんて一人で使えるに決まっていた。アキヒトは親友の自殺の支援よりも、自分が疑われないアリバイを作るほうに必死になっていた。ばかみたいだ、かれにもそうおもわれた。かれはユキヒコの死に加担したという罪悪を、欲望として秘かに背負いたかっただけなのかもしれなかった。
 アキヒトはユキヒコの、きゃしゃなしろい手にふれた。指紋が付かないよう、純白のレザーの手袋で。
 ユキヒコはそれを拒まなかった。
「朦朧としてきたよ」
 睡たげな声でいう。あたかも陽だまりで微睡む猫だ。深刻な雰囲気がない。
 アキヒコは言うべき言葉をずっとかんがえている。言いたい観念はただひとつ、しかしどう話すかを頭の中でこねくりまわしている。
「お別れだね」
 ちからなく未遂者は囁いた。
「ねえ、」
 アキヒトは、すこしばかりの勇気をふりしぼった。
 かれは眼を閉ざしている。すでに殆どうごかない。その、水晶さながらぞっとするほど美しい蒼白の顔に、アキヒトは囁いた。
「…僕は、君が好きだ」
 言い終えたが、返事はない。
 ユキヒコは既に死んでいた。
 死のむっと薫る蒼褪めた唇に、かれは接吻しようとした。が、唾液の付着が不安でそれをすることができないのだった。
 かれはその場からしずかに離れた。
 アキヒトはユキヒコに恋していた、そしてユキヒコは自分に恋してはいないことをアキヒトは知っていた。
 …

  5
 事の顛末を語り終えたとき、かれは涙をながしていた。自分は、自殺扶助の罪に問われる可能性がたかいだろう。だから自信をもって君の好意に応えることができないんだ。青年が泣きながら罪を告白する様はじつに涙をさそうもので、それはおおくのひとびとの憐憫をもよおす情景であったかもしれない。
 しかしアミは、かれを憐れんだりしなかった。なにか冷め果てたような気持で、終始自己憐憫しながら語られたアキヒトの自殺扶助の話を聴いていたのだった。
「そんなの、」
 と女学生はかわいた声で言った。
「黙ってればいいだけじゃない。随分前だし、たいして悪いことしてないよ。だってその友達は死にたかったんでしょう?」
「そうだけど…」
 アミはかれの煮え切らない態度に、苛立ってきた。
 そもそも彼女は、アキヒトの罪悪の有無なんか訊いていなかった。ただ好意を伝え、私たちが恋人関係になれるかどうか、それを訊いた筈だった。訊かれてもない過去の罪を告白し、反応を窺うということは、一般的な考えでいうと、かれは自己を肯定されたがっており、救われることを希んでいるのだろう。
 が、それだけでなく、かれに懺悔をさせたその意欲すべてが、あまりにも閉鎖的なエゴイズムではないかと、アミには感じられたのだった。誰かにいいたくて堪らなかった自慢話を聴かされるのを強いられたような心地さえしたのだ。
「そう、了解しました」
 アミは事務的な調子でいう。
「じゃあ、貴方がその過去を乗り越えるまで、私は何もしません」
 アキヒトは愕きに打たれた。かれは、アミは自分に泣きついて、私が貴方を支えるわと言ってもいいくらいに想定していたのだ。
 淡白なアミの反応に、アキヒトは拍子抜けした。
「じゃあね」
 アミは去った。愚かな男は呆然と立ちすくんだ。

    *

 やがてアキヒトは、線路に身を投げ死んだ。ジュリエットがロミオの死につづくのは、やや時差があったのだった。しかしそれだけであった。かれは着実に、すこぶる丁寧に自殺をなし遂げた。教授や学生たちはかれの繊細さを想い、憂いた。そう、いかにも孤独で生きづらそうな青年だった。悲劇であった。

 しかしアミはそうは考えなかった。
 かなしんでも仕様がないものを哀しめるのが、あたかも撰ばれし繊細さの証拠であると認識し、ありもしない罪を嬉々とみずから希んで背負い、見栄に操られわざわざ聴き手に女を選んで懺悔したがり、くるしむ必然のない苦痛にこのんで悶え、遂に自殺したアキヒトのことが、彼女のようにドライなリアリストには、もはや滑稽にさえおもわれたのだった。
 アミからすれば、かれに発見されるのはイノセンスなんかでなく虚栄とエゴイズム、そして病的な臆病さであった。くわえて、自力で生きる気が一切ないようにおもわれた。
 かれのような男は、弱さまでみずからの感傷的な虚栄を満たす為にもちい、それのみではあき足らず、架空の罪まで構築し、わが虚栄に捧げ、二十歳を超えても尚、リアリズムより自己憐憫を優先させてしまうのね。
 もし男であるかぎり感傷的な虚栄からは逃れられないのであれば、権力や経済力を得るにいたるまでの涙ぐましい苦労を語らせる、やや退屈にかたむきがちな成功者の虚栄のほうが、よっぽどアミにはこのましい。なぜって獲得したものだから。
 彼等が志向したようなある種の悲劇ごのみ、それは疎外感を有す自己を正当でピュアなものだとかんがえたがる心情が、その幻想の引き起こす欲望を満たす究極の形のラストを感受し、それを美しいと認識すること、そしてそれを美しいと認識し得る自己を愛することによって、自己憐憫と結びついた一種の自己肯定をしたいという心の動きが欲する趣味であるというかんがえをアミは持っていた。それはまごうことなく、自分にも在るものであった。女はそれを突き放していた。
 弱さこそ人間の性質において、最も無個性なものである、女はそうかんがえていたのだった。私の弱さと、アキヒトのそれはそっくりだ。その弱さを慈しむことは、ときにそうでない人間を憎み軽蔑する孤独な傲慢さへ彼等を導き、その心の動きによって、さらに生きるのが苦しくなるようにおもう。弱さ、アミいわくそれは権力だとかそういうものではない、理想・欲望の実現を諦め閉じこもることをさせるそれのことだ、そこから脱したいというのは、生物の自然な運動であるように女にはおもわれていた。
 わが弱さに抵抗することを止めた人間は、心のどこかに欺瞞がカラクリのように施されているのではないか。
 べつに、彼女は強さ・弱さに優劣を見ない、生きづらい人間が劣っているなんてそんなことはないとかんがえている、ときに逃げても好い、ただ、「本当にそう生きたいの?」と訝っているのである。女は死んだ男たちよりよっぽどニヒリストだった。
 アミは、生きづらさを抱える、いわば社会秩序と折り合いのわるい人間が、生き抜く為に試行錯誤して独自の秩序を構築し、それへの貞節の為にわが弱さに抵抗する過程、そこにこそその人間固有の美しさが生まれるというふうにかんがえていた。それがアミの人間の趣味であった。
 彼女からすれば、この終わりはもはや喜劇のそれにふさわしいとまでおもわれた。女は、喉元をふっと昇る乾いた笑いに、からからと身をふるわせた。

僕のジュリエット

僕のジュリエット

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-05-18

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