思い出の中で
東京から新幹線で2時間、電車に乗り継いで一時間、そこからバスに揺られること30分。ゴルデンウィークを利用した帰省で、行きからすでに体への疲労が溜まっている。
東京の商社に勤める金谷明宏は、入社4年目。大学進学のために上京してから実に八年ぶりに初めて地元に帰ってきた。長くバスの席に身を任せていた体で、フラフラになりながらバス停を下りる。ここから実家まで徒歩五分。出発したときと比べると重く感じるキャリーケースをズルズル引きずりながら、のんびりした、どちらかといえば重い足取りで歩いていく。中学高校と陸上の短距離で鍛えた足腰は、今は見る影もなく衰えてしまった。
社会人になって4年目。上司の圧力や周りからの期待、自分自身のギャップに押しつぶされて、擦れきった心をどうにかするため、半ば逃げるように地元に帰ってきた。誰にも何も言われないのに、そのはずなのに、まとわりつく罪悪感がある。
その日は朝早い段階で東京を出たので、今はちょうど正午。晩春になって強くなってきた太陽が背中を刺す。新築された住宅地、改装されたスーパーマーケット。上京するときと比べて、何重にも脱皮した故郷を眺めながら、実家についた。
家に入ると母が出迎える。そのまま導かれるままに、ダイニングテーブルにつく。来る途中で何も食べていなかったので、母親が用意してくれていた焼きそばにありつく。久々の母の食事だというのにわずか5分で流し込み、荷ほどきするために部屋に戻る。母親の口撃を交わすためにも、足早に階段を登った。それでもまだうるさくて「散歩に行ってくる」といって家から飛び出した。
どこに行くあてもなく、幹線道路沿いにぼーっと歩く。でも無意識に歩く中で、なんだか不思議な既視感に襲われた。何だったか、いつかこの道を通っていたような。
そんなデジャブに襲われかけていたその時、左側から、強い風が吹く。こっちを向いて、と訴えるように、それでいて優しく、包み込むような。つい促されて左側を見る。
そこにに広がっていたのは、見渡す限りの青田。そしてそこを貫く一本のあぜ道。その先に立っている建物は9年間通った小学校と併設する中学校の校舎が待ち受ける。なぜ、忘れていたのだろうか。と自分が少し馬鹿らしくなる。散歩で無意識に選んだのは、9年間通い続けた通学路だった。
緑一面の稲の葉を、優しく風が撫でる。さざ波を立てる海面みたいに、可視化された風の波がこちらからあちらへと、周期的に伝わっていく。田んぼの水面は輝く太陽の光を反射して、ザラメのように光っている。
中高で陸上をしていたとき、休みの日はずっとこの一本道で短距離の練習をしていた。この道で走っていると、自然と一つに、溶け込んでいくように思えて、ここで走るのがすごく好きだった。上京して、大学で陸上をやめてから、走ることへの憧憬はとうになくなっていた。社会人になって働いていくうちに、仕事に忙殺されて自分の趣味のことを考える余裕なんて微塵もなくなって。
でも、目の前に広がる風景は、すべてを受け入れて、洗い流す。
ふと、走りたくなった。もう戻らない思い出を求めるように、足が、一歩づつ前へと動き出す。
最初は、感覚を確かめるように、軽く、ゆっくりと、久々に踏むこのあぜ道の土の感触は、何も変わってはいなかった。次第に、スピードが早くなる。前に遮るものなんてなにもない。背中に風を感じて、それに押されるがまま、足が動く、あの頃と同じように、ひたすら進む方向だけを考えて、腕を振り、胸を張って。だんだん、息が切れ始めた。この広い空の青を全部吸い込んでも勝てないほど、呼吸は激しい。それでも、走る。気が済むまで、満足するまで、走って、走って、走って。
何も考えすに、友達と遊びで走っていた小学生時代。部活に、勉強に、恋に、何気ない日々に一喜一憂しながらこの道を歩いた中学生時代。何でも周りに追いつこうと必死になって練習していた高校時代。それぞれの姿が重なって、風と、自然と、ここで一つになる。
いつか、遠くにあるはずだった小学校の校舎が目の前にあった。さっき目の前に広がっていた水田から、山の麓にある校舎まで大体500メートルくらい。全力で走ったおかげで、息は絶え絶え、しばらく運動していなかったから足もガタガタ震えている。でも、こんなにいい天気の日に、外でこんなにいい汗をかいたのは久々で、体を爽快感が駆け巡る。
呼吸を整えて、ゆっくりと、振り返る。すると、水面と遠くに見える住宅街の窓ガラスが、太陽を反射して煌めく。
空の青と、稲の緑。お互いはっきりした色なのに、どうしてこんなに混ざると美しいんだろう。昔からそんな疑問を持っていた。
でも、何も変わらない景色を目にして、今ようやく、少しだけだが分かったかもしれない。
これから東京に帰って、いつもどおりの日々にまた戻る。けれどこのまま、この自然みたいに、自分に素直で、ありのままでいよう。
そんなノスタルジックな気持ちに身を浸し、来たあぜ道を、今度はゆっくり、でも、確かな足取りで、前を向いて、歩き始めた。
思い出の中で