タイム・トゥ・ヘブン(天国に行く日)
ジトジト雨が降っていた。
湾岸沿いの、よろめくように曲がった低いコンクリ堤防を地面目線で歩く。
じんわりとした大気は風がないからで、重ったるい波がゆるゆると寄せている。
沖はよどんだ空にまぎれて見えず、破れたスダレのような雨脚が低く海面を舐めていた。
少し雨粒が大きくなったようで、ジタジタ傘を叩く。
「ね、押したでしょ?」
半笑いで聞いてくる。
「押してないよ」
「うそ、押した」
「押して、な・い」
「押したもん」
「ホント、押してないって」
「押しましたねぇ~」
「押してないって言ってるだろっ」
ちょっと語尾が荒くなる。
「だって、押したんですよ。きゃははは」
美姫(みき)は引っ越してからも相変わらずこうだ。
自己主張だけが強くて人の気持ちが読めない。
距離感もおかしくて、ずかずか踏み込んでくるかと思えば、突然、「あんた、誰?」的な態度を取ったりする。
勝手に気分が乗れば小型犬並みにギャンキャン、ハッハしてうっとおしいし、打ち上げ花火の音なんかに反応して、奇声を上げて興奮したりする。
「美姫(みき)。あいつ、アタマのネジがズレまくってるよな」
クラスの定番の見解だったけど、高1にもなると健常の子は精神的に大人になっていて、ことさら避けたり、イジったり、もちろんイジメたりもしない。
男女とも距離を置いて当たらず触らず、軽く浅いかかわりで難を逃れている。
もちろん、ラインやちょっとした裏ネタからも除外だ。
そういえば、こんなこともあった。
「湊人(みなと)。付き合ってあげます。あたし、キレイだから。い~でしょ、うれしい?」
「は?」
(コイツ、突然なに言ってる?)
驚愕であごが完璧に外れた気がした。
(なんだってんだ、その根拠の全くない自負心は?)
そういえばいつだったか女子の一人が、
「あ、よく見れば美姫ちゃんって、思ったよりキレイかも?」
とよけいな見解を口走ったのだ。
それを額面どおりに真正面から受け止めてしまうのが通常っぽくないところで、謙譲心など薬にしたくてもない。
「い、いや。いい。おれ、女嫌いだから・・・・・・(おまえ、キモイ)」
言うに言えない言葉を飲み込みながら自然に顔をそむけてしまう。
「あ~、素直になればいいんです。あたしが好きにしてあげます。湊人は男子でもマシなほうですよね~」
(はぁ? 余計なお世話。おまえの見解なんか聞いてねぇし、なんでおれがターゲットなんだ? それにそのざぁ~とらしい敬語。も~サイアク)
確か美姫(みき)が言い寄ってきたその日も、今日みたいな暗ったい雨模様だった。
水っぽく湿った大気を掻き分けるように、傘をたたんで走り出す。
つまり、彼女からダッシュで逃げたのだった。
「湊人(みなと)ぉ。ネジずれまくりとつるんでんだってぇ?」
クラスの松井直己(まついなおき)が聞いてくる。
部活が一緒なので、けっこう気心は知れているやつだ。
(っちゃぁ、もう知れ渡ったか・・・・・・)
気が重くなる。
「いや、一方的粘着ね。なんか知らんが気に入られちゃってさ、登下校も待ち構えてんだぜ。キモくて発狂しそうだよ」
「コワイよなぁ。おまえ、そういう女ってイロ仕掛けで来るから気をつけろ」
「え・・・・・・」
一瞬で絶句した。
なんか背中がぞわぞわする。
「まさか。おれだって選ぶ権利ある」
「そんなの通用する相手かよ。今の世の中な、女がヤラレちゃいましたって言やぁ、男がなにを言ってもダメ。痴漢だって、勘違いや冤罪だってあるのにさ。女の証言が最優先なんだぜ」
「そりゃ、女の筋力が弱いことをいいことに、いろいろヤっちゃうバカ男がいかに多いかってコトだろ。法律で守ってやんなきゃ不公平じゃん」
「あ~っ、湊人は裁判官になりゃいいワ。とにかく自分の身は自分で守れって事。今の男はな、下半身を制御できねえと貧乏くじ引くんだよ」
「うん、そ~だな。ま、だいじょぶだ。おれ愛がねえとセーヨクわかねぇし。だけど、おれたちすんげぇ話してんな。これが純真でイタイケな高校1年生の会話かよ」
「バ~カ、そういう世の中なんだよ。あっ・・・・・・」
直己が硬直する。
「こっち。そこ曲がれっ」
素早く指示して同時に走っていた。
「いや、驚いたな」
息を切らしながら彼が吐き捨てる。
「ホント、湊人、おまえ手篭めにされねぇようにな」
「無駄な運動しちゃて喉乾かね? すぐだから、うち寄ってけよ」
「あ、いいね。おまえんち初めてだ」
直己は興味津々でついてきた。
海抜25メートルの丘の中腹。
ガルバリウム張りの3階建てデザイナーズ住宅が見えてくる。
「おお~、でかくてイイうちじゃん。おれんちの分譲建売とはワケが違うな」
「いや、海風の当たりが強くてさ。ムダにでかいのも考えものだよ」
常々、親たちが言っているセリフを口にする。
3階がおれの部屋だから、家庭用エレベータで案内した。
物珍しそうに見回していた直己(なおき)は、壁の作り付け物入れに関心を持ったようだ。
「え? これ。エレベータん中にも収納?」
「うん。地震や台風とかの災害用だよ。閉じ込められたら困るじゃん。水とか食い物とか簡易トイレとかがしまってある。施工会社のセキュリティと契約してあるけどイザとなったら絶対すぐには来られないから」
説明すると大いに納得したようで、ケタケタ笑い出した。
「あはは。う~ん、おまえんちスゲー。気に入った。ガッコも近いし」
おれたちは部屋の冷蔵庫からそれぞれに勝手な飲み物を出して海を見ながら飲んだ。
「あ~、オーシャンビューはやっぱいいな。ガキのころはちらっと見えんだけど今はぜんぜん。ここは前が公園だから家建たねぇもんなぁ」
「直(なお)は海好きなの?」
「いや、好きっつうか、見えねえより見えたほうがいいってコト」
「だよなぁ。おまえが好きなのは海じゃなくて、窓際の席の栞(しおり)だもんな」
図星を指してやるとゲホッとむせた。
「っちょ、なんだよっ。なに言ってんのっ」
顔が赤くなっている。
「まだ告ってもいねぇんだから・・・・・・放っといてくれる?」
結局、その後、直己(なおき)は栞(しおり)に思いを伝えたようだった。
いつもペアでいるようになり、彼女の呼び方も「松井くん」から「直」に代わって行った。
運よく両思いだったらしい。
彼が幸せになっていくのとは裏腹に、おれは不幸になった。
美姫(みき)のせいだった。
当初こそ、周りは付きまとわれているおれに同情し、男女とも、人の気持ちに無頓着な彼女を気味悪がっていたのだが、時間がたつうちに次第にそれが当たり前になってしまったのだ。
そして、たまに美姫が他人モードに入って、離れていたりすると、
「あれっ? ネジいねぇじゃん。ど~した?」
とか、
「ね? 彼女は? 寂しいでしょ?」
「優しくしてやれよぉ。冷てぇな、湊人(みなと)は・・・・・・」
などと、美姫に同情的になって行き、ついには担任まで、
「西園寺(さいおんじ)くん、金胡(かねこ)さんをよろしくね。いろいろ考えたんだけど、やっぱりあのコ、療育が必要なのよ。きみは万事に卒がないから、金胡(かねこ)さんを感化できると思う。先生の指導も大事だけど、やっぱり同年代の影響ほど大きなものはないわ。ねっ、お願い、先生に協力してね」
と、お世話係りに任命しようとしてきたのだ。
もちろん、鳥肌が立った。
「えっ? ちょっと、なに言ってんの? 女子が適任でしょ。おれは男、ネジずれまくりは女っ。で、ともに思春期。意味わかるよね、ねっ、ね?」
直己の話じゃないが、暗に下半身をチラつかせて断ったのだけど、返ってきたのは半分当たっている失笑と無責任な懇願だった。
「ま~たぁ。西園寺(さいおんじ)が美姫なんかに手ぇ出すわけねぇじゃん。おれが保障する」
「そ、湊人(みなと)がコーフンするとしたら結婚届っていう紙にだけだぜ」
「どうせ美姫ちゃんはわたしたちの言うことなんか聞かないし。西園寺くんがうまくやってくれたら、クラスのみんな、ホント助かるもの。ね、あのヒトをマトモにしてあげて」
「はぁ? 冗談でしょ。おれを人身御供にする気? おまえらだけ難を逃れようなんて調子よすぎだろっ」
と、抵抗したものの、担任は職業柄生徒たちをけっこう見ていて、前々からおれが適任と白羽の矢を立てていたらしい。
確かに美姫はおれの言うことなら、ある程度は聞くことが多かった。
自分から「付き合ってあげます」とホザいた手前、嫌われるのはイヤだったようだ。
担任の計画ではおれが男子ということはしっかり考慮されていて、結局、松井直己(まついなおき)と三浦栞(みうらしおり)、金胡美姫(かねこみき)、そしておれの4人グループで実験的に療育開始となったのだ。
確かにこの人選はかなり的を得たもので、松井は我慢強いし、三浦は優しさと同情心があり、おれは曲がったことがキライだったから、世間で言う、いわゆるよく出来た子たちの集団だった。
美姫(みき)を囲むように席替えしての授業、移動も4人いっしょ、学校の行き返りはどこかの皇族並みに、800メートルほど離れたもより駅まで同行する。
そこから美姫は小田原方面に帰り、直己と栞は大磯方向に、おれは自宅に向かって450メートルくらい戻るのだ。
部活は彼女の朗読部の終了に合わせる徹底ぶりだ。
最初は、
(ええっ、そこまでするのぉ?)
と、ぶっ飛んだのだが、再三来ていたピンポン・ダッシュと落書きの苦情がピタリと止んだところを見ると、美姫は登下校時でも小学生並みの問題児だったのだ。
おれたちの私立校は県内でも決してホメられた偏差値ではないが、それにしてもひどすぎる。
「担任も悩んだんだろ~な」
「見直しちゃった。先生のこと。ちょっと面倒だけどお世話係決めて正解だよね」
直己(なおき)と栞(しおり)は素直に感嘆していたけど、おれは腹が立つだけだった。
「程度低すぎ。アイツ、小学校からやり直せよ。ガッコもガッコだよ。金のためにあんなヤツ入れやがって、こっちは迷惑だ」
それでも最初はこれといった問題はなかった。
物珍しさと、かまってくれる級友が出来た喜びだろうか、美姫(みき)はみんなの言うことをよく聞いて素直だったからだ。
だが、しばらくすると特有の我がままというか、グズリが出てきた。
おれと直己(なおき)を独占したいのだろう。
栞(しおり)を排斥しはじめたのだ。
それも髪を引っ張ったり、つねったり、執拗に無視するなどの子供っぽい嫌がらせだ。
(ったく。ガキでもやんね~ワ)
おれは遠慮なく「グループ解消するぞ」と脅したし、直己は真剣に叱ったし、栞も一生懸命に諭したから、やがてそれは影を潜めたけど、今度はどこかのお笑い番組で見たのだろうか「膝カックン」を仕掛けるようになった。
後ろから忍び寄って「膝カックン」と叫びながら、膝で相手の後ろ膝を突く、あの遊びだ。
これはもろに仕掛けると後ろに転んで尾てい骨を打つなど危険を伴うから、通常の子は手加減するのだが、美姫にはそんな思いやりなどない。
栞は後ろに立たれまいとゴルゴ13並に用心し、直己とおれは彼女の気を他の遊びに逸らそうとしたのだが、一旦ハマってしまうと膠着してしまう性格らしく、中々功を奏さなかった。
ある風の強い下校時だった。
湾岸の堤防下の道路をいつものように歩いていた。
もちろん、道路は頻繁ではないものの、車も通ればバイク・自転車・人も普通に行き来する。
学校から言われたとおりの2列縦隊でたまたま、ほんのつかの間だったが栞が前に出た。
時折、右側の堤防を越えて波飛沫が来るから、それを避けるためだったと思う。
美姫はそのチャンスを逃さなかった。
トロいくせに、なぜか自分の興味に集中している時は素早いのだ。
「カック~ンッ」
嬉々として絶叫した。
油断があった直己とおれはハッとして手を差し伸べたが、すでに栞は転んでいてゴツッと痛そうな音がした。
「あ・・・・・・痛ぁ・・・・・・」
とっさに身をよじった彼女は横様に肘を打っていて、そのあたりの皮膚がギザギザに擦り切れ血がにじんでいる。
「大丈夫か? ちくしょう。キチガイが」
直己の声は完全に怒り心頭だ。
美姫は自分の仕掛けたいたずらの成功に心底酔っていて、ギャアキャア狂声を上げながら堤防上に逃げて行った。
高1にもなる女子が「ごめんなさい」でもなければ「大丈夫?」でもない。
「へーき。ごめん。・・・・・・びっくりさせちゃって」
栞のほうが気を使っていて、ワザと元気に返事しながらミニタオルを取り出している。
「湊人(みなと)。もう、ガマンできね~ワ。お世話係はおまえひとりでやれ。担任に言うっ」
直己(なおき)が唸るように怒鳴って、おれの持っていた栞(しおり)の鞄を引ったくった。
無理もない、おれだってカノがいたら同じことを言ったろう。
今までガマンし続けた直己は偉い。
素直にうなずいたが、栞はびっくりしたようだった。
「え? うそっ。ここまでやったんだよ。ここでやめたら、あのヒト元に戻っちゃう。だめ、続けよっ」
「イヤだね。おまえに怪我させられて黙ってられるかよ。アイツはあのまま社会に出て、社会から療育してもらえばいいじゃん。おれたちがバカ見ることはねえのっ。わかる? おまえが心配なんだよ。痛かっただろ。おれがかわりになりゃよかった」
いつになく饒舌な直己のじゃまをしないよう、そっと2人から離れて見上げると、当の美姫(みき)はまだ堤防上にいる。
「おい、もう降りろ。その先は波がでかいぞ」
声をかけたのに聞いているんだかいないんだか、こっちを見もしない。
さっきのことなどとっくに忘れて、また新しい興味に引き付けられているのだろう。
(ったく、聞き分けのない赤ん坊には手を焼くぜ)
と、ため息しか出ないが、ふと、脅かしてやろうといたずら心がわく。
(膝カックンがいいな。仕掛けられた人の気持ちが解るだろうし、懲戒にもなる)
そっと堤防上に上がる。
もちろん、本気で掛ける気はないので、彼女の右膝だけにターゲットを絞る。
これなら体はグラつくだけだから危険はない。
それでも臆病者の美姫はキイキイ怖がるだろうから、効果は十分にあるはずだ。
堤防から見ると海はかなり荒れていて風も強い。
「膝カック~ンッ」
飛沫で濡れるのがイヤだから、素早く技をかけてサッと逃げた。
カクククッとよろめいた程度の当のご本人は、ギャアキャア、ハッハうれしそうに騒いでいる。
(あんまり、懲戒にはならなかったか)
遊びに付き合ってやったような結果にちょっとガッカリした時、ドドドッドバッシャーッって感じで大波が来た。
堤防で高く跳ね上がってから、鉛色のかたまりになって降り注ぎ、追い越して行った自転車の人が弾みですっ転んだ。
「うっひょぉぉー」
「きゃあぁー」
「おわわわぁっ」
3人とも無意識に美姫なみの狂声をあげていた。
「あ~、冷ってぇ~、ちくしょっ」
「すごかったね、今の波」
「いや~、海はこういうことがあるからなぁ」
11月でも暖かい日でよかった。
これで真冬だったら、インフルかコロナの餌食だ。
おれたちがこれだけ濡れたのだから、美姫は濡れ鼠に違いない。
(え?)
あたりを見回しても姿はない。
「あれ? 金胡(かねこ)さん・・・・・・?」
「美姫は? どうした?」
栞と直己の声にドキッと不安が募る。
道路や堤防をはるかに見渡してもだれもいない。
自転車の人が起き上がって声をかけてきた。
「ね、きみたち。4人いたよね」
結論から言うと、金胡美姫(かねこみき)それっきり消えてしまったのだ。
持っていたカバンさえ見つからない。
自転車の人も一緒になって、
「波にさらわれて海に落ちたのでは? 自分が追い越した時は3人の子は道路にいたけど、1人の女の子は堤防上にいて、危ないなあとは思っていたんですよ」
と証言してくれたけど、落ちる瞬間を見た人はだれもいない。
捜索も徒労に終わっていた。
おれたち3人が目を離した監督不行き届きを責める人はいなかった。
親御さんですらそうだった。
彼女に言う事を聞かせる困難さをだれよりも痛感していたのは、家族だったのだろう。
とにかく実感がわかなくて、明日にでも戻ってくる気が止まらない。
なにかの事件や事故で遺族が「今でも『ただいま』って帰ってくる気がして、そんな声が聞こえたりするんです」と言ったりするけど、おれたちも同様な心境になっていた。
そんな状態で3週間くらいして、混乱していた気持ちもやや落ち着き始めたころだった。
おれはいつも学校からの帰り、南側の公園を抜けて道筋をショート・カットする。
境の50センチくらいの段差をあがって、うちの生垣に抜けると、かなり近いのだ。
直接、3階のベランダにあがれる螺旋階段からふと見ると、だれかが庭にいる。
(え?)
11月末の夕方だから薄暗いものの、なんとなく見知った雰囲気だ。
関心のないそぶりだが、目はしっかりこっちをチラ見しているのがわかる。
「ええ~、美姫ぃ? 美姫じゃん。ど~したんだよ、おまえ」
思わず、声をかけていた。
「なにやってんだよ、急にいなくなって」
言いながら、
(あっ、美姫は引っ越したんだっけ)
と思い当たる。
「今、家どこだよ? 転校先は? またみんなに迷惑かけんなよ」
ついつい、お世話係気分がよみがえってそんな事を言ってしまう。
美姫はテレ臭いらしく3歳児のように体をグネグネしながら、いつもどおり関係ないって態度だ。
以前なら、それがカチンと来たりしたのだが、しばらく離れていたせいか大して気にならない。
「ね、押したでしょ」
いきなり上目遣いでボソッと聞いてくる。
その目がなんとなくワクワクしているのがわかる。
「はぁ? なにを?」
急いで記憶をたどるが、なにも思い当たらない。
「うそ、押した」
「は? だからなにを? おまえ、主語ねぇからわかんねぇよ」
「押したもん」
「だぁかぁらぁ」
「押しましたねぇ~」
ここで、美姫の遊びだと気づく。
大した事でもないことを思わせぶりに繰り返して、いつまでも相手をさせようとするのだ。
「なんだか知らんが、とにかく押してないって言ってるだろっ」
語気が荒くなった。
「だって、押したんですよ。きゃははは」
うんざりた。
いつもこうだ、転校してもちっとも変わっていない。
「おまえなぁ、ヒトにからむクセ直せよっ。それじゃ新しいガッコでもモロ嫌われるだけだぜ。わかってんのかよ」
言いながら詰め寄ると、美姫はこっちを向いたまま器用にスス~ッと下がり、公園との段差を後ろ向きでピョンと飛び降りた。
(え~? アイツ器用な移動法覚えたな)
ちょっと感心したけど、なぜかゾッとした。
「おい、直ぉ~」
隣の席のやつとくっちゃべくってる直己(なおき)に声を掛ける。
「ん?」
彼が振り向く。
その途端、おれはなぜか聞こうとした質問を忘れた。
「あれっ? 今、なに言おうとしたんだっけ? え~と、あっちゃぁ」
「なんだよ、健忘症かよ? 落ち着いて思い出してみ?」
「う~ん、・・・・・・ダメだ。忘れた。ま、大したコトじゃないよ、多分」
適当に流しておれも彼らの話しに加わったけど、奇妙な感覚だけは残ったのだ。
じとじと雨が降っていた。
湾岸沿いのコンクリ堤防を歩く。
じんわりとした大気の中、重ったるい波がゆるゆると寄せている。
いくらか大きくなったような雨粒が、じたじた傘を叩く。
「ね、押したでしょ?」
薄笑いで聞いてくる。
「押してないよ」
「うそ、押した」
「押して、な・い」
ここで目覚めた。
授業中にうとうとしながら、3,4日前の雨の日の夢を見ていたのだ。
そうだ、直己に聞きたかったのは美姫(みき)のことだ。
この間の夕暮れにおれんちの庭で会ってから、彼女は思い出したようにやって来る。
そう、雨の暗ったい黄昏時だ。
でも、そのことを他人に言おうとしても、その都度、おれはその事自体を忘れてしまう。
『弁ぜんと欲してすでに言を忘る』
なぜか、ちょっと前に習った漢詩が浮かんだが、もちろんそんな高尚なものではない。
釈然としない気持ちで家に帰る。
スマフォを取り出したが放り出し、ノーパソを開いても立ち上げる気にもならない。
結局、ベッドに転がって怠惰に天井を見上げ続ける。
小雨が降り出したようで、パラパラと音がしてきた。
なにげなく全面ガラス張りの大窓に目をやる。
「おわぁぁっ?」
瞬間的に跳ね起きていた。
美姫、美姫だった。
ガラス窓に両手のひらと額、胸から下と膝、ついでに鼻柱までくっつけてベタッと張り付いている。
信じられない、マンガでもこんなシーンはまれだ。
ゾワワワ~ッと気色悪すぎて、しばし硬直する。
美姫はおれの仰天ぶりが面白かったらしく、手を打って大爆笑だ。
「ったく、ウゼエな。騒いでねぇで入ってこいよ。雨降ってきたから濡れるぞ」
しばらくしてからやっと声が出た。
「ね、押したでしょ?」
探るような笑いで聞いてくる。
「押してないよ」
「うそ、押した」
「押して、な・い」
「押したもん」
「ホント、押してないって」
「押しましたねぇ~」
「押してないって言ってるだろっ。何回聞くんだよっ」
ツボにはまった美姫(みき)のしつこさにはうんざりする。
こっちはイライラさせられて疲弊するのに、本人にとっては無邪気な遊びのつもりなのだ。
「だって、押したんですよ。きゃははは」
両手を水平に挙げてグルグル回転する。
目が回るだけだろうに、本当にガキっぽい。
おれはベッドの端に腰掛けてそれをぼんやり見ながら、
(あれっ?)
と、思い出す。
そういえば、風の強い下校時だった。
おれは「膝カックン」で栞(しおり)を転ばした美姫に、懲戒のために同じことを仕掛けてやったのだ。
カクククッとなったものの、大した被害のなかった彼女はギャアキャア、ハッハ大喜びをした。
おれはその時、後ろ膝を突いたという感覚なのだが、美姫は押されたと感じたのかもしれない。
「あ~、押したかもな。おまえが堤防の上にいてさぁ、おれが膝カックンした」
「ヒャキキキキヒヒヒ~ィ」
興奮したつんざくような歓声に耳が痛くなる。
「う~~んっ、それ、それですぅ。押した、押した、押したんですぅっ」
20畳の部屋を狂喜乱舞している。
「おまえ、そんなに膝カックンがうれしいのかよ。ガキ過ぎて信じられねぇワ」
「うん、うれしいに決まってます。それって湊人(みなと)が、あたしと初めて遊んでくれたんですよね~。せっかく湊人と付き合ってあげたのに、直(なお)や栞(しおり)ばっか仲良くしてっからぁ」
「ん? ああ、まぁ」
確かにおれは美姫など問題にしていなかった。
決してつながりたい友達ではなかったし、お世話係としての義務を果たすだけの、むしろやっかいな存在だった。
でも、今こうして素直に気持ちを言われると、少し冷淡すぎたかなという感じはする。
「じゃあ、なんでちゃんと言わなかったんだよ。カックンして遊ぼって。おまえ、いつもこうじゃん。猫様なんかはテレパシーで交信してるっつうからいいけど、人間は劣った存在だから言葉で言わねえとわかんね~のっ」
「イェヒャヒャヒャ」
変な笑いでそっぽを向く。
「言葉で言わねえとわかんね~のっ。言葉で言わねえとわかんね~のっ」
おれの言った言葉を繰り返しながら、また、自分の気持ちを察しさせる時の上目遣いだ。
その時、なぜかピンときた。
美姫は多分、自分の心を素直に口にするのが恥ずかしかったのだ。
彼女はおれたちが思っていた以上に、おれたちとつながりたかったのかも。
栞にちょっかいを出して髪を引っ張ったり、つねっをたり、執拗に無視したりしたのも、本心は友達になりたい苛立ちの表明だったのでは?
遅ればせながら、今ならそれを納得できる気がした。
「っちゃぁ。ホントおまえ、やりづらいワ。ほれよっ」
と、言いながら「膝カックン」を軽く仕掛けてやる。
グラッとした美姫は、
「キヒイィィッ」
と、うれしそうな奇声をあげた。
おれたちは部屋を駆け回りながら「膝カックン」を掛け合った。
小学生低学年でもあまりやりそうもない単純な遊びなのに、実際にやってみると、彼女の楽しげな気持ちが伝染してきて想像以上に面白かった。
それ以来、美姫(みき)に対する見方が少し変わった気がする。
多分、他人と楽しく交流した経験の少なさから、こっちが思っている以上に幼くて単純なのだ。
「膝カックン」にあれほど喜ぶのは、子供のころに「膝カックン」を掛けあって遊ぶ友達たちをうらやましく見ていて、おれたちを相手にその追体験をしたかったのだろう。
療育の名の下に、高校生らしい知的水準と精神成熟度のみを要求したおれたちを、美姫は口には出さないけど寂しく思っていたのかもしれない。
しばらく晴天が続いたせいか、彼女は来なかった。
おれはなんとなく天気予報が気になると言うか、曇りや雨の日が心待ちになる心境になっていた。
相変わらず、直己(なおき)や栞(しおり)に美姫の事を聴こうとする瞬間に忘れてしまう健忘症は直っていないものの、もう、そんなことはどうでもよかった。
(あいつが引っ越してガッコかわる前に、もうちょっと友達扱いしてやればよかったかな)
そんな気になっていた。
明日も上天気らしい華やかな夕焼けが西空に広がり、マジック・アワー特有のけだるい空気感に、ベランダから望む海も眠たげに見える。
おれは手すりに寄りかかって暮れなずむ風景を見ていた。
いきなり、後ろ膝にカクッと衝撃がきた。
こんなことをするヤツは決まっている。
ちょっとザワッとしながら振り向くと、やっぱり美姫だった。
「びっくりするじゃん。おまえ、いつ来たんだよっ。今日、晴れてんじゃんか」
言いながら追いかけてやり返してやる。
「キィィ~ギャハハ」
楽しげな声はいつもどおりだ。
でも、美姫はすぐに両手でおれを止めて、
「しちしち、しじゅうくだから」
と、けっこう真面目な顔で言った。
「は?」
また、いつもの謎かけだ。
「なんだよ、その九九」
「って言うか、九九じゃないんですけどね~。あたし、もう来ないから。今日で終わり」
ったく、また身勝手が始まった。
転校先で友達でもできたか、カックンに飽きたのか、わざわざ遊びに来るのが面倒になったのか?
「あっそ。おまえっていつも自分の都合ばかりな。いいよ、今日で終わりっ」
「きゃははは、湊人(みなと)が怒ったぁ。湊人(みなと)はあたしが好きになったんですよぉ~。最初に言ったとおりでしょ、あたしが好きにしてあげますって」
「ええっ? なにバカ言ってんの?」
ありえねぇ言葉に思わず詰め寄ると、後ろ向きのままススス~と下がる。
そして3階のベランダの手すりにピョンと飛び乗った。
まるで義経千本桜の狐忠信だ。
「げっ、ヤベッ、お、おまっ」
あせりまくるおれに美姫は信じられないくらい清冽で純真な笑みを返した。
「しじゅうく日だから。湊人(みなと)のこと忘れませんから。ありがとです」
その瞬間、コマ落としのように視界から消えた。
「わっ、ちょっ、美姫っ」
落ちた。
それしか考えられなかった。
おれは手すりに飛びついて下を見渡した。
だが、そこには12月の冬枯れの庭が静かに広がっているだけだった。
そうだ。
すべてを思い出していた。
美姫は引っ越したのでも転校したのでもない。
風が強くて海が荒れていたあの日。
あの下校時に、突然の大波にさらわれて消えたのだ。
それっきり手がかりはないけど、多分、溺れたに違いない。
生き物の思いは時間の長短はあれ、残るものだと思う。
それに感応する精神性も決して不可思議なことではない。
現におれは彼女としゃべり、「膝カックン」で遊び、友達として受け入れる心境になっていたのだ。
それは美姫がそう仕向けたのか、おれ自身の気持ちが自然にそうなったのかはわからない。
もちろん、彼女が恋愛的に好きなんてことは全否定だけど、友情としてなら充分、ありだと思っている。
美姫の存在が迷惑でしかなかったおれが、こんな気持ちになった誘引には、彼女がもうこの世の者でないことへの同情とある種の安心感、達観は否定できない。
それでも、そうしたことをすべて排したとしても、本物と言える、人としてのつながりが小さな果実のごとく残ったのは事実だった。
四十九日が天へ昇る日なら、おれに向かって最期に礼を言った美姫は、きっとそれらを彼女なりに理解し、受け入れ、納得してくれたのではないのか?
もし、ヘブン(天国)にも学校があるとしたら、彼女は今度こそ、もっと自然で有効な人間関係を築けるに違いない。
おれは弱いため息をついて、再び手すりに寄りかかる。
残照が消えてゆるやかに夜に向かう海が、夢のようなブルー・グレイに染まっている。
夕凪の終わりを告げる最初の西風が、そっと潮の香りと海鳴りを届けてきた。
タイム・トゥ・ヘブン(天国に行く日)