時辰儀に口付け
読んでくれる人ができたから、下書きだけど公開しちゃった
随時更新中ね
ㅤ静寂、途端に鳴り響く銃声。バキュン。私のハートをぶち射抜く音である。
ㅤ不意をつかれた私はやられた、と思った。自分の鼓動の音が耳に届きそうだった。今しがた私は文字に恋をした。
ㅤ両手で抱えている手のひらサイズの文庫本から、文字が飛び出てきた。244ページ、ラストのワンフレーズ君だ。困ったことにワンフレーズ君は私の心臓にキスを一つ落とすと、244ページに戻って行ったのだった。その「君は僕を知るには早すぎたんだよ」という文字にどう責任をとってもらえばいいのでしょう。何度目を擦っても、もう彼は出て来ない。
ㅤそもそも恋をしたのはこのワンフレーズ君ではない。小説の表紙に明朝体で書かれた秋山奏という漢字三文字をじいと見つめた。瞬間、つうと背中をなぞるような衝撃に襲われて、私はすっかり彼に夢中になってしまったのだった。
ㅤ二十六歳。秋山奏。本名は籠田渉。デビュー作は「噤んだ唇の声」で新人賞を受賞。
ㅤ私にキスをしたワンフレーズ君は、彼の中でもマイナーな作品の「愛を問う」の本文ラスト一行だった。メタフィクションチックで、エッセイに近しい作品である。
ㅤ宙を馳せ回る蝶が、人間に一目惚れをして公園に通うというものだ。主に蝶視点で書かれており、蝶が恋した人間は作者そのものだった。蝶を通じて私達読書に語りかけているかのような内容である。彼のファンの中では人気だった。まるで、長々と綴ったラブレターを読んでいるかのような気持ちになるのだ。
ㅤ一目惚れを初めて体験した蝶は、花の蜜を吸うフリをして彼を眺める。蝶の役目を捨てて、私達は毎日同じ花にとまって、公園で一人ベンチで腰掛ける彼に会いに行くのだった。乏しい命の灯火が消えゆく最後、彼の足元で草臥れた羽を畳んだ。花の蜜を一吸いもしなかった私達が、その時唯一彼の落としたアイスクリームを口にした。見上げると、彼は微笑んだ。そして、例のワンフレーズ君にて物語は締められるのであった。
ㅤしかし彼自体マイナー作家なので、この作品が多くの目に渡っていることはなかった。
ㅤ彼を知ったのは二年前だ。近所の室内競技場の駐車場にて三日の間フリーマーケットが行われていた。麒麟児のハンドメイド作品を目当てに、千円札二枚をポケットに入れて家を飛び出した。人生というものは、高いブランド品なんかよりも、たまたま出会ったハンドメイド作品の方が豊かになると知っている。
ㅤ人混みをかき分けて、色々なテントを回る。天使の形をしたグレーのピアス、手編みのセーター、小さい子が手作りしたコースター。学校で育てていたアサガオの蔓を使った、松ぼっくりのリースが可愛かったけれど、一通りテントを回ってから買いに戻ると売り切れてしまっていた。
ㅤ嗚呼、今日の収穫はなしか。肌寒い秋の香りが鼻を掠めて、なんとなく寂しい気持ちになる。仕方ないわよね、一点物だもの。先に買っても良かったのに、勿体ぶった私の自業自得だ。
ㅤ駐車場の脇に並ぶ紅葉の木から、オレンジがはらはらと降って来る。またね、と私に手を振っている。今日目を付けたアクセサリー達も、ソールドアウトの札が代わりに置かれている羽目だ。紅葉達ががまたね、と私の足元に落ちていく。一枚、また一枚。もう一枚……あれ、これはまたねじゃない。
ㅤ黄色く光る、太陽の欠片のような、またねじゃない何かがふわりと紅葉の上に重なった。イチョウだ。紅葉に混ざったイチョウの葉がふわふわと宙を舞っていた。一つ、それを手に取ってじいと見つめる。立ち上がってふと近くのテントの方を向くと、売れ残っている一冊の文庫本に目を惹かれた。
ㅤ小説はあまり読まないけれど、人生経験の為に読むのはアリだと思うタイプで、その本は家に連れて行くこととなった。それは衝動的にして、運命である。
ㅤデビュー作の愛に問うに出会ったその日、彼に恋をすることはなかった。きっとこれも運命であると思う。その二年後、数年ぶりの秋山奏の新作にて私はすっかり恋に落ちたのだ。二年前から着実に引かれたレールの上を走っているような気分で、運命にして必然なのだと納得している。
ㅤ私がこれまでにも秋山奏を愛する理由に、彼が私のすごく近所に住んでいることも含まれる。
ㅤ艶やかな黒髪が太陽光に透けて、綺麗だと思った。その時私はまだ、彼が秋山奏と知らなかったのだが、本能的に惹かれたのだ。近所のコンビニエンスストアへ足を運んでいる最中のことだった。彼はすれ違いざまに、煙草の匂いを艶めかしく漂わせる。中途半端に伸びた髪を雑に結いて、灰色のスウェットで身を包んでいた。片手はポケットへ突っ込み、もう片方の手にはビニール袋があった。
すれ違ったあとも、背中に彼の気配を感じて少し体が強ばる。
ㅤぽとりと、何かが落ちる音がした。神様が微笑んだ玉響かのような運命的なタイミングで、彼のポケットから手のひらサイズの小さなメモ帳が落ちたのだ。私は音につられてそちらを向く。彼は落し物に気づかず、気だるそうに背中を丸めて歩いている。そんな後ろ姿は、自分のいる場所から5メートルほど離れたアパートへ消えていった。
ㅤ私はしゃがんで、そのメモ帳を右手に取ると表紙と裏表紙を交互に睨む。淡い黄色に金色のコスモスが小さく散らばっている、可愛らしいデザインだ。
ㅤ理性が駄目だと言っている。モラルの欠けた人間にならないと幼い頃から決めている。父と母に愚かなことはよしなさいと、バチが当たると教わってきた。しかし私の右手はメモ帳の表紙を開いてしまった。
ㅤ本来、持ち主がわかっているなら中身を確認する必要なんてない。しかし私は、あの鼻に抜ける煙草の匂いとこのファンシーなメモ帳のギャップに、どうしても中を見たいと思ってしまったのだ。
「十日、今日は飼っているハムスターがとうとう檻から自力で抜け出し始めたので割り箸を大量に使って檻を強化した」
「十三日、雑草にはすべて名前があるって話。犯罪者にも、一括りにされている十代・二十代等々の年齢や性別というカテゴリに分類される人間も皆個としての名前がある。俺は小説家じゃなくて籠田渉だ」
「二十日、蜘蛛の雄は雌と交尾したあと他の雄と交尾できないように雌の身体をイジるらしい」
「二十一日、愛する人が記憶から消える忘愛症候群という病気が人間の中で作られたことがある。架空の病気だ。残酷な状況を如何に美しくするかに必死で滑稽である」
ㅤまだまだ読み上げたい気持ちを抑えて、表紙のひらに手を合わせると丁寧にメモ帳を閉じる。ファンシーなお花がきらりと光った。私の心の中を表しているのだと思った。
ㅤ日記のような、しかしファンである私はどこかエッセイに思えてしまうその文章が暴力のようだった。あまりの運命に頭が真っ白になって、直接落し物を届けることすらできなかった。神様、私達のことを見ているんでしょう。
ㅤ籠田渉という名前が特殊で、世界に一人しかいないと思っている訳ではない。同姓同名の可能性も有り得るのだが、彼の文章には癖があるのだ。これといって、明確な点をあげることは難しいが、どこか独特で私はそれが好きだった。
ㅤメモ帳をようやく届けることができたのは、三日後だった。後ろめたさと勿体なさとで中々返すことができなかったのである拾った時以来、中身は見れていない。
ㅤ彼はフィナンシェが好きらしい。小説のあとがきに書いていた。美味しいと話題で人気な近所のスイーツ屋さんのフィナンシェと、メモ帳を紙袋に包んで彼の入っていったアパートの扉の手すりに引っ掛けて、私はそのまま逃げるように家に帰った。ファンメッセージを添えようか迷ったけれど、近所に確実にファンが住んでると知られるのはハイリスクだ。フィナンシェ程度なら、たまたま近所のものを取り寄せたのかなと思ってもらえるだろう。そう私は考えたのである。浅はかながらに。
ㅤ後日の話だ。彼のアパートをたまたま通った際、徐ろに玄関扉に目を向けた。そして、視線が揺るぐことなくそこに固定されたまま、ぴたりと私の動きが止まった。あの日私が引っ掛けた紙袋と同じ物が手すりに、同じように引っ掛けられていたのである。彼はまだ中身を確認していないのか。怪しいから確認することもなく放置しているのだろうか。いやしかし、怪しいとしてもそのままにするだろうか。
ㅤ疑問に思った私は、そっとアパートへ近づく。天使の羽が揺れる音のように、ひそやかに紙袋を手すりから外した。彼が部屋の中にいた時、不審な音に気づかれてしまってはいけない。すごく悪いことをしている気分だった。こんな姿を彼に見られたら、通報されてしまうかもしれない。近所にストーカー気質なファンがいると知って、引っ越してしまうかもしれない。不安がよぎって、ドキドキとした。それでも甘い背徳感は心を侵食して、やめようとは思わない。紙袋を手に持ったまますぐそこの路地裏に隠れた。紙袋はなにかが入っていそうな重さだ。ああ、なんて愚かなの。ああ、どうしましょう。ああ。
ㅤ通行人が路地裏の入口を横切る時、私の愚行を見ていた神様が迎えに来たのかとヒヤヒヤした。いよいよ紙袋を開いて中身を確認すると、私は面食らう。
ㅤ中にはあの日入れたフィナンシェの代わりにフロランタンと、少し癖のある綺麗な字で書かれた紙切れが入っていた。
「美味しいフィナンシェと落し物をどうもありがとうございます。もしかしてどこかでお会いしたことあるんでしょうか。紙袋の中のお菓子は毎日入れ替えているので傷んではいません、気づいてくださった際には遠慮なく食べてください」
ㅤあまりの衝撃に、獲物を見つけたスズメバチのような速さで家へ帰って、紙袋もメッセージもフロランタンも棚に飾った。下手をすればとても不審な私への気遣いが何より嬉しかったの。毎日入れ替えているって、一日外に晒された傷んだお菓子はどうしているの。自分で食べているのかしら、どうしましょう。ああ。そんなのとっても愛おしい。
ㅤこんな出来事、恋に落ちるにはじゅうぶんだ。運命と呼んでしまっていいと思うの。
ㅤ恋に落ちた私がどうしたかって、人様に堂々とお話できるようなことをしていないわ。寧ろ、恥ずべき行為だと思うの。
ㅤフロランタンに更にお返しをするのは、彼と関わる絶好のチャンスだったというのに私ったら、臆病だから逃げてしまった。顔を合わせて直接、手作りのケーキでも、渡すことはできたのに。勿体ない。
ㅤそれなのに神様、私ったらどうしましょう。チラリと路地から私が覗く先は、彼のアパートだ。人様の家と人様の家の間、二つの家庭に挟まれて後ろめたさに拍車がかかった。本当はすぐ側で彼の生活を観察したい所を、私は遠く離れた此処、路地から見守ることに決めた。本能的かつ理性的で、思考がぐちゃぐちゃだ。きっと私は、まだ引き返せると思えられる状況にいたいのである。
ㅤいくつも並ぶ内の一つの扉が開いて、ぴくりと体が反応する。反射的に。じいと扉を見つめたけれど、出てきたのは知らないおばあさんで、彼の部屋じゃないのかと溜息を吐いた。重そうにゴミ袋を二つ抱えていて、見て見ぬふりもできず駆け寄る。そこにはこの人を助ければここにいる理由も作れてしまうという下心があった。なんて愚かなんでしょう。
「手伝います。これはどちらに?」
「わあ、助かります。あそこを曲がるとゴミ捨て場が見えるので、そこまでお願いします」
「わかりました」
ㅤとても上品で、嫋やかなおばあさんだ。白い帽子を被っていて、私の顔を見上げると顔に降りかかる日光に一旦眩しそうにしてから、帽子を取ってお辞儀をした。つられて私も深々とお辞儀をする。
ㅤ彼女の両手からゴミ袋をもらうといい子だねえと隣で笑ってくれた。長生きしてくださいと自分勝手な祈りを心の中でする。笑った姿が、さながらそよ風に揺れる百合の花だ。
ㅤもう八時を回った頃だ。近所の方々のゴミが先に積まれていて、私もその上に彼女のゴミを乗せるとカラス避けの網をかける。ゴミ収集車は恐らく八時十分頃には来てしまうのだろう。
「間に合ってよかったです」
「わざわざありがとうございます。いい香りのするお茶は好きですか?」
「時々飲みます。甘すぎる物を食べる時とか、お口直しのために」
「バタフライピーって知ってますか」
「ああ、青くて綺麗なやつですよね」
「良ければ飲んでいきませんか?今日は暑いので、冷えたチーズケーキも出しますよ」
ㅤ二度ほど大したこともしていないのでと断ったけれど、一緒にお茶をする人が欲しくて、と寂しそうな顔をされてしまっては、誘いに乗るしかなかった。
時辰儀に口付け