ワーゲンバス
休憩の間、僕はずっとアイコスを吸っていた。コンテナを右から左に移す作業を永延繰り返して、出社して二時間が過ぎ、ようやく休憩になったのだけれど、人っ子一人いない。この会社は、僕以外、誰も煙草を吸う人がいないから、吸うときは必然的に、僕は一人になってしまう。
三本目のアイコスを吸おうとしたところで、建物の隅の方から物音がした。見ると、田中が、堂々と作業場を横切ってこっちに近づいてきた。
こんにちは、とあいさつする声は、田中よりも少し高い気がした。
「僕は田中の弟です、兄がいつもお世話になっております」
そうして弟は僕の隣に腰かけた。
「兄はまだそんなことを言っているのですか」
はぁ、とため息をついて、わざとらしく立ち上がり、小石を蹴ると、弟は今にも倒れそうだった。
僕は田中について、そもそも、田中にこんな姿かたちの似た兄弟がいるとはついぞ知らなかったけれど、とりあえず聞いてみると、弟も、兄のことはよくわからないらしかった。
「生まれた時から兄は居ましたから。実在していると断言はできませんけれど」
たぶん僕の兄なのではないでしょうかね、と妙な返事が返ってきて、結局、兄は一体何なのか、知るすべがなかった。
昔は地球を侵略するなんてことは一つも言っていなかったという。
漫画雑誌で見た、地球という星の都市伝説が好きで、読みふけっているうちに、いつか自分も行ってみたいと思うようになって、結局、調査員になった、というところまでが弟が知っていることだった。
「まったく、侵略だなんて困ったもんですよね、みんな手を取り合って生きていかなければならないこの時代に」
「地球のことは結構気に入っているといっていましたよこの間」
弟は手をひらひらさせて、話を遮った。
「僕は兄のことをあまり聞きたくないんです、イメージが崩れてしまいますから」
それにしても、今年はよく大判焼きが取れましたね、大量だ、と弟は言った。
作業場はあんこの煮詰まるにおいで充満していて、フォークリフトに積まれた大判焼きが次から次へと運ばれていく。
大判焼きは次にベルトコンベアに乗せられて、選別のおばさんがいいものと悪いもの、中があんこかクリームかを重さで判断し、仕分けしていく。
「今年は大判焼きが生育するのに適した温度と環境でしたからね」
この間の大雪の時は暇で暇で、なんて言ってるうちに、休憩時間が終わった。みんな作業場に戻り始める。
コンテナを二三個運んでるうちに、さっき分かれた弟が最後に、兄のことは、あんまり信用しない方がいい、侵略なんてユークリス人がしてる暇はないし、兄はたぶん、初めからバカンス気分で地球に来たんですから、と言っていたのがなんとなく気になって、ぼんやりしていると、コンテナが流れていく先の黒い幕の方まで僕は流されていき、気が付いたら、大量の大判焼きの中に吸い込まれていった。
「僕は、どっちかっていうと、アメリカンドック派なんですよね」
奇怪な夢から目を覚ますと、僕はいつの間にか、コンビニの前で、海で遭難したみたいに、大量の大判焼きと一緒に打ち上げられていた。海みたいな黒い影は今でも遥か彼方の水平線のところで穏やかに、髪の毛一本くらいの薄さになって漂っている。
げほっと咳をすると、イカ墨みたいな液体が口から吐き出されて、黒いペンキの入ったバケツをぶちまけたみたいに、薄く広がっていった。
それを見ていたコンビニの店員が、今にも殴りかかってきそうな顔をしていたのを尻目に、ぼんやりとした視界の中で、店先の灰皿の前でタバコを吸う二人のお兄さんに目が行った。
「ああ、大判焼き、甘いからね、中身が餃子みたいなやつだったら、全然いけたかもしれないけれど」
「先輩、絶対酒好きでしょ」
ニコニコしながら、ディスられている大判焼きを、僕は拾い上げた。徐に店の中に入って、アメリカンドック一つください、と注文すると、まるで店員が人が変わったみたいに丁寧に接客してくれ、出来立てのアメリカンドックを一本くれた。くれたというか、売ってくれた。
僕はべちゃべちゃと重油みたいな黒い液体をまき散らしながら、ベンチに座り、木漏れ日の中で大判焼きとアメリカンドックを見比べた。
つまらなそうに、その大判焼きとアメリカンドックを、一口づつ交互にっ食べ進めていく。そうすると、甘い大判焼きとしょっぱいアメリカンドックで口の中が変なことになって、ますます陰鬱な気分になってきた。
別々で食うべきだったと、肩を少し落として息を一つ吐くと、田中が一人、ポツンとブランコに乗って、ぼおっと空を見上げていた。
中学の体育ジャージみたいなズボンと便所サンダルを履いて、ユークリス星の侵略者だと豪語していた田中が、なんだか行き詰ったみたいに、西日で涼しくなった空を見上げているところは、やっぱりどこか宇宙人っぽかった。ETが夜の月を見上げているみたいな。
クラゲみたいな月。ユークリスとは、月のことなのではないか、そう思うくらい、田中はどこか憂鬱そうに月を見上げるもんだから、むかむかしてきて、歩み寄るなり、
「大判焼き、食わん?」
と聞くと、驚くでもなく、きょとんとした目で、
「仕事は」
と聞き返してきた。黄色いヴォルクスワーゲンのバスが表の通りを走っていく。大きく、アメリカンドックと書かれていた。
「仕事もう終わった」
田中、お前はどうして生きてるんだ、と聞くと、さあと答えた。
こうやって乗るのが正解なんだろ、とギコギコ揺られながら大判焼きを食べる田中は、相変わらず半透明な月を眺めながら、浮かんだような目で月を見上げていた。
遠くでアメリカンドック屋さんのにおいがする。
ワーゲンバス