20160203-21年間待った母(再掲示)
僕は、ある日、新車のバイクに乗って旅に出た。それは天気のいい日だった。空はどこまでも青く、遠くの山に降っている雪は、寒そうにこの下界を冷やしている。こんな日にバイクに乗って田舎道を飛ばすのが夢だったんだ。僕は風になっていた。
僕が気持ちよく走っていると、道端にひざまずいている女性がいた。通り過ぎてバックミラーで見ると、彼女はまだ動かない。僕は何かあったのかと思い、バイクを止めて、彼女に声をかけた。
「どうされましたか?」
彼女は警戒するように僕を見てる。
――あれ? どこかで会った気がする。誰だろ……。
「すみません。靴ズレで足が痛くって」
そう言っているが、手を胸の前に組んで、明らかに怖っている。僕はその警戒を解く方法は思いつかない。だが、他に気をやって気持ちをほぐす事はできる。
「よかったら君を靴屋まで届けようか? それとも家?」
彼女は少し考えている。
多分、彼女はこう考えているのだろう。その提案は有難い。だが、この男は信用できるのかと。
――しょうがない。
「波多野和樹21才。1995年1月17日生まれ。O型のやぎ座。身長175cm71kgバスト86Cウェスト……」
途中で、彼女は笑いだしてしまった。
「あははは。分かったわ。あなたの事は信用する。家に連れてって」
そこで不意に、僕の職業意識が顔を出す。
「どうせだったら、あたらしい靴を買った方がいいんじゃないかな。それ、先が尖がっているから外反母趾(がいはんぼし)になるよ。もっと丸い、そうラウンドトゥにしたら?」
彼女は少し考えてから言った。
「そうね。それじゃ悪いけど、どこかの靴屋にお願いするわね。ところで、あなたは何か用事があって走ってたんじゃない? なんだか悪いわ」
「いいや、用事なんてないんだ。ただ走ってただけだから。さあ、行こう」
僕の差し出す手に素直につかまって、ダンデムシートに乗り、僕の腰に手を廻した。かすかに僕の背中に、彼女の胸が当たった。僕は、早まる鼓動にとまどいながらバイクを走らせた。
背中から彼女が言う。
「ねえ、あなたって阪神淡路大震災の時に生まれたんだね」
「そうだね。でも僕には記憶がない。だって、生まれたばかりだったから」
「笑っていい所かしら」
なぜ生年月日を言ったのか、自分でも分からなかった。どうせ大震災の事を言われると分かっているのに。僕は彼女に返事を返さなかった。
僕が高校を卒業した時、葛城(かつらぎ)の父から聞かされた話だが……。
僕はあの時、がれきの中でたった一人で泣いていたそうだ。それを見た葛城夫婦が僕を救ってくれた。自分たちが逃げまどっている時に、他人を助けるなんてあり得ないと思うが、葛城夫婦は突然の幸運に我を忘れたらしい。
夫婦は不妊治療を受けていて、その治療が上手く行かず、子供をあきらめた時だった。それが、目の前に無垢の赤ちゃんが、必死で助けを求め鳴き声を上げていたのだ。天の采配だと思い、それを助けたのは自然の事だった。そして僕は葛城夫婦に育てられ今に至る。
初めてその事を知らされた時は、心臓が凍り付いた。僕は、自分を悲劇から救ってくれた葛城夫婦に感謝しなければならない。しかし、初めに思ったのは、僕を生んでくれた母は? なぜ母を探して救い出してくれなかったのか? さらに僕の妄想は続いた。
まさか、まだ息のある母を殺して、僕を奪ったんじゃないだろうか……。
その思いはどす黒い渦になって、僕の心を支配した。僕は葛城夫婦を疑ってしまった。
そして間もなく僕は家を出た。
高卒で、しかも季節外れの就職活動。おまけに保証人もいなかった僕は、アルバイトしか働き口はなかった。毎日遅くまで働いて、月に13万足らず。辛かった。
しかし、バイトを始めて1年がたった時、オーナーが僕を正社員として受け入れてくれた。それからは、毎日が忙しいが充実した日々を送った。
僕の仕事は靴の職人。人の足の型を取ってひとつひとつ丁寧に仕上げてゆく。値段は高いがそのフィット感にみな納得する。
これから彼女を連れて行くのは、僕の靴を下ろしている靴屋。オーダーメイドじゃないが、人の身体に優しい作りをテーマにしている。値段も手頃だし、きっと彼女も気に入るだろう。
店のおよそ1km手前。信号が赤で、僕はバイクを止めた。その時、彼女の腕が急に強く僕を抱きしめた。
「こんなに大きくなちゃって」
――何を言っているんだ、この人は?
「大切に育てられたのね。よかった」
――そんな話、したっけ?
「親に感謝なさいよ」
――本当の親じゃないけど。
「あなたの事は、天国でずっと見守っていますから」
――えっ、今なんて言ったの?
「さようなら」
そう言うと僕の背中から、彼女の僕を強く抱きしめる力も、重さも感じなくなった。振り向くと、そこには彼女の姿はなかった。ダンデムシートには、ひとひらの花びらが落ちていただけだった。
「お母さん……」
僕の両の目から涙が流れ止まらなかった。
――あれは、お母さんの姿だったのか。僕を心配して会いに来てくれたんだ……。お母さん。ありがとう。
今僕は、なつかしい道を走っている。もう直ぐ着く。僕の家に。葛城の家に。
母さんたちに会ったら直ぐに謝ろう。ごめん、僕が悪かった。僕を育ててくれてありがとう。これからは親孝行するよと。
「母さん。それでね、今日思いがけない人に会ったんだ」
お母さんが嬉しそうに僕に聞く。
「まあ、一体誰?」
「それはね、僕を生んでくれたお母さんだよ」
僕がそう言った時、母は悲鳴のように、許して、許して、と叫んで気絶した。
僕はそれを呆然と見ていた。
が、頭は急激に働いていた。
そして、出した結論は、生みの親は育ての親に殺されたって事だ。葛城の父も僕と目を合わせようとはしない。
僕は復讐の道具にされたんだ。生みの親に。
――酷いよ。お母さん。
僕は、黙って葛城の家を出た。そして、二度と家に近づかなかった。
僕を育ててくれた母の、その後は分からない。
また、生んでくれた母のお墓にも、行く事をやめた。
数年後、僕に恋人が出来た。初めての恋人だ。
僕たちはなんでも話し合った。そして、震災の事も話もした。
彼女は、悲痛な顔で僕の話を最後まで聞いたくれた。そして、僕の手を握って話した。
「和樹。それは多分違うわ」
僕はすがるように彼女を見た。
「あなたの生みのお母さんは、あなたに会いたくて自分が天に召されることを知ってて現れたのよ。そんなお母さんが復讐なんて考える分けないじゃないの。育ててくれたご両親には、大きくなるまで育ててくれてありがとう、って思ったのよ。きっとそうよ。だから、あなたはお母さんたちに会いに行かなくちゃいけない。あなたの生みの親にも会いに行きなさい。ね」
そうだよ。僕のお母さんはきっと優しい人だったんだ。復讐の手段として僕を利用した分けないじゃないか。よかった。僕のお母さんはやっぱり優しい人だったんだ。
そうして僕は、彼女にすがり付いて泣いた。涙が枯れても泣き続けた。
あれから僕は、葛城のお母さんたちとの関係も修復して、僕を生んでくれたお母さんの墓にも、この前会いに行った。
「お母さん。この人が僕の婚約者だよ。さあ、サチ。挨拶して」
お墓に行くのに、思いっきりよそ行きの服装で、時間をたっぷりかけたサチが墓の前に緊張して立つ。
「お母さん。初めまして、私は幸田サチと言います。こんど和樹さんと婚約しました。色々いたらない事があるとは思いますが、今後ともよろしくお願いします」
(終わり)
20160203-21年間待った母(再掲示)