20160915-狐(再掲示)
<前書き>
明治の初め頃、人々は文明開化等と浮かれて、洋服を着て西洋人を気取った者も居りました。しかし、多くの者はまだ洋服ではなくて、和服だったのです。ここ南足柄山もそうで、洋服は駐在の巡査位な物でした。そんな田舎町に起こった奇妙な話を一節。
1
朝から降り出した雪は、今日の夕方にはもう膝くらいに成っていた。前田剛(つよし)は、その雪を掻き分け掻き分け前へ進んでいた。早く行かなくてはと、気ばかりが焦る。
前田富美(ふみ)の家は、剛が務める小学校から一里ほどの距離で、何でもない時には苦に成らないが、今日みたいな吹雪の時は苦労する。息は出来ないし、足が思うように前へ進まない。早く会いたい気持ちばかりが空回りして、剛の体力を否応なしに奪って行った。
やがて、視界は乏しくなり、命の危険を感じるまでに成った。ああ、ここで行き倒れるのか、俺は。と諦め掛けた時だった。吹雪の中、剛に声を掛ける者がいた。
「もし。そこのお人。何処へ行きなさるか? こんな吹雪の夜に」
女は、剛の半てんの袖を引っ張ってそう言った。急に声を掛けれらて驚いて振り返ると、女は蓑を着ていた。そちらの方が数段暖かく見えて剛は少々羨ましく思え、またそんな格好をしているのに堪らなく色っぽく見えて、切なく成った。
剛は、精一杯に強がってこう言った。
「こんなに降られちゃ、もうこれ以上歩けないな」
剛のその声を待っていた様に、女は手をぐいと掴んで直ぐ近くの家に入って行った。こんな所に家はないはずなのに、そう思ったが、距離の感覚がおかしくなったかと思い、不思議とは思わなかった。
雪を払って蓑を脱ぐと女は薄衣一枚で、もう少しの所で胸がはだけそうだった。剛の鼓動は勢い早くなったが、直ぐに囲炉裏に当たれと促された。仕方なく、暖かい囲炉裏に当たっていると、女は熱い粥を持って来たので有り難く馳走に成り、次いで酒までも食らってしまった。次第にうつらうつらして来て、何時の間にか眠ってしまった。
夢の中では、狐が踊り、狸が歌い、あの女が裸で剛に抱き付いていた。気が付くと、剛と女は深く馬ぐわっていた。
現実か、それとも夢の中かも分からない侭、剛は女の身体を貪った。それは、もう深い深い快楽の中で、何度も何度も。
翌朝、思いの外すっきりと目覚めると、女は黙々と朝げの支度をしていた。剛が見ている事に気が付くと顔を赤らめ、おはよう、と言った。
「おはよう。昨夜は馳走に成ったね」
そう剛がそう返すと女は「いいえ、こちらこそ」と言って色っぽい顔をした。その顔に昨日の事を思い出し、ぐっと沸き起こる思いが剛の胸に込み上げた。すると女は剛の手を引いて、布団に包まった。
漸く朝の情事が終わって、剛は飯を食った。揚げの入った赤味噌のお味噌汁。納豆と薄く刻んだ葱。沢庵と金平牛蒡(きんぴらごぼう)。剛は、良く味わってそれをら食した。
家を出る時、剛はお礼を言ったのだが、女は眉を下げ「そんな他人行儀な事は止めてくれ」と嘆いた。済まないと言って女の家を出た。
歩き出すと、剛は直ぐに女の事は頭の隅に追いやって、富美の事を考えた。昨夜は、雪の為に行く事を諦めたが、富美は機嫌を損ねては居ないだろうかと、危惧した。幸い、今朝は目に痛い程、晴れ渡っている。剛は、急いで富美の家を目指した。
速足で富美の家の前まで来たが、何時もと違う事に気が付いた。藁ぶき屋根を見上げると、囲炉裏に火が入って居ない様なのだ。心配して戸を叩くと返事がない。もし、と呼び掛けても返事はなかった。
戸を引いて中を覗くと、富美は土間に倒れていた。直ぐに抱き起して「おい」と声を掛けて揺すったが、富美の頭は力なく垂れさがるだけだった。
口には赤い血を滲ませて、両の目は架空を眺め、しな垂れる両の手は二度と剛を抱き寄せてはくれなかった。富美は深い眠りから二度と目覚める事はなかった。
2
富美の初七日が済み平静を取り戻した頃、剛の玄関に小さな子が訪ねて来た。何やら手紙を大事そうに持っている。剛は、お駄賃を上げて、その手紙を受け取った。急ぎ読んでみると手紙は何時ぞやの女の書いた物で、剛に会いに来いと言う物だった。手紙に染み込んだ僅かな匂いは、あの夜の情事を、まるで昨日あった事の様に思い出させ、剛の鼓動は勢い強まった。直ぐに身支度をすると雪道を駆けだした。
女の家に着くと、剛と女は待ち切れなかった様に抱き合った。もう、剛には心に引っ掛かる事は何もなく、久しぶりの女体に溺れ、思う存分女の身体を味わうのだった。
二度三度と女の身体深くに精を吐き出して、剛は漸く気が収まった。情事の後を楽しむように、女の乳房をなぶって遊んでいると、ある事に気が付いた。よく見ると女の尻には、無数の尾っぽが生えていたのだ。咄嗟に、剛は女の身体を引き剥がし、言った。
「さては物の怪だな。どんな積りか知らないが、俺は決して美味くはないぞ。もし、これを最後に引いたら痛い様にはしないが、もし引かなかったら両の拳でお前を殴る。さあ、どちらが良い?」
剛は、拳を振り上げて今にも振り下そうとしていた。彼にしてみれば、獣と交わった事は酷く屈辱だろう。拳が怒りに震えている。と同時に、この物の怪に食われてしまうのではないかと、内心は怯えていた。そんな彼が取った行動は精一杯強がって見せる事だった。
狐は、そんな剛に身を震わせて言った。
「済みません。余りの快感に、思わず尻尾を出してしまいました。私は、先日あなたに助けて貰った狐です。猟師の罠に掛かって、もう駄目かと諦め掛けた時、あなたは私を救ってくれました。気紛れかも知れませんが、私はその恩に報いる時を待っていたのです。
すると、あの吹雪の晩にあなたは遭難仕掛かって、もう少しで命の灯が消えようとしておりました。そこで、私は貴方をお救いしようと、必死になって術を掛けたのです」
剛は、信じる事しか出来なかった。術がどれ程の物か分からないが、この狐に命を助けられ、一度ならず、二度までも肌を合わせたのだ。恩義に感じるし、多少の情は湧く。
それに、この狐は無数の尻尾がある事から、剛が思うより歳を重ねているらしいが、何度見ても剛好みの顔と身体をしていた。剛は、幾分声を和らげてこう言った。
「おい、狐。雪の晩に命を救って貰った事は、素直に礼を言う。しかし、人間に見せ掛けて俺と情を通じた事は、決して許される物ではない。いいか、良く聞け狐よ。もう、二度とこんな事をするんじゃないぞ」
そう言って、剛は女の家を去った。
数日後、剛がここの前を通ると、家は跡形もなくなり、狐も居なく成っていた。
3
最後に狐と会ってから、七日が経とうとしていた。あれから狐は、何もしては来なかった。あの口ぶりでは、未練があったのではないかと思ったが、あれだけ強く言ったのが効いたのかも知れない。逆にこちらが気になるほどだ。だが、やはりもう二度と関わりたくないのが、正直な所だ。
そして、偶然かも知れないが、富美の死と関わりがあるように思えて、剛の心は何時まで経っても晴れはしなかった。もしも、剛が狐と交わらなかったら富美は死なずにすんだのではないか、いや狐を気まぐれに救わなかったら。そう思うと、気持ちは何処までも沈んでいった。
そんな折、何かの用事があり富美が生前住んでいた家の前を通らなければならなず、剛はつらい気持ちで通り過ぎようとしていた。
その時だった。家の中から富美の笑い声が聞こえたような気がした。不思議に思い、剛は家の様子を伺ったがやはり富美の声だった。剛は、恐る恐る戸を叩いた。
「あら、どうしたの? 不思議そうな顔をして。まるで狐につままれたように」
富美は、元気に生きていた。陽気に今にも踊り出しそうにして。
よく見ると、彼女の足は確かに生えていた。剛は、呆気に取られて、口を暫く閉じる事が出来なかった。
訳も分からず剛に起こった事を話したが、富美は大声で笑った。狐につままれたのだと。
そこまでの力があるなどとは思っていなかった剛は、正直驚いた。もしも、そうだとすると恐ろしい物だと、剛は大きく身震いをした。
きっと、狐は思ったのだろう。愛する富美がいなくなれば、剛が手に入るのと。それで、狐は富美が死ぬ幻覚を、剛に見せたのだ。
危うく罠にはまる所だったと、肝を冷やす剛だった。
その後、剛は富美と結婚して五人の子供をもうけるのだが、最後に生まれた男の子に付けた名前は、狐里と書いて「こり」と言う。富美が付けた名前だったが、まさかとは思うが狐が富美に乗り移ったのでは……。
余り悩むと、持病のしゃっくりが出る。深く考える事はせずに、剛はその後幸せに暮らした。
<後書き>
昔は、こんな話が履いて捨てる程もありましたが、今ではついぞ聞きません。それもこれも、人様が獣の住み家をなくして、皆開発してしまったからでしょう。それは、悲しくもあり、また切なくもあり、しかしそう言う世の中に人は慣れていったのでしょう。
けれど、彼らは今も何とか生きております。我々人間には姿を見せずに、懸命に、そしてひっそりと。
(終わり)
20160915-狐(再掲示)