私のミクロマン ①
序章 緑の世界
──ゴポッ… ゴボゴボッ…ゴボボッ…
見上げる世界は、全てがエメラルドグリーンに染まっていた。
不規則に揺れるひかりの波紋。
ゆらゆらと歪む波紋の中心に、薄ぼんやりと、小さな光の球体が煌めく。
その光源を目指し、無数の泡沫が舞い上がってゆくのを、私は不思議な気持ちで見上げていた。
やがて──周りの景色・感覚・思考さえもが深い霧のさらに奥へと沈みかけた時……意識の片隅で 声(?)が聞こえた。
『──て…れ…… …』
『が…だ、…て…くれ……』
『地球の…が…いる、声…を……てくれ… …』
受信障害を来たしたラジオの様に、ノイズに侵され、プツプツと途切れるその声は、やがて明確なひとつのメッセージをもって問い掛けてくる。
『地球に、危機が、迫っている……我々の、声に、応えてくれ…』
第一章 小さなおじさん
ピピッピピッ! ピピピピピ……
「んっ…ッ」
カーテンの隙間から差し込む日差しが、まぶたを貫通して私の脳裡を刺激する。なぜだか懐かしい夢を見ていた気がした。
カチンッ
目覚ましのアラームが鳴るまで眠ったのは久方ぶりか。いつもは遅くとも、5分前に目覚めるハズなのだが……それに何やら大切な事を頼まれていた気もするも
(誰に?──何を?)
どうにも要領を得ない。淡い記憶を手繰るも、朝霧隠りの如何ともし難いもどかしさだけが残る。
(忘れてる?まさか、【私】に限ってそんな事が……)
「んッん!ふぁっ〜……」
大きな伸びを一つした後、のろのろとベットから降りた。足の下は、本日も寂として声無しである。
「ふぅ、二人とも今頃どうしてんだろ……」
惚けた思考の片隅に、くっきりと両親の顔が浮かんだ。
お母さんは発掘調査員として考古学の教授に同行し、中南米の辺りを転々と。お父さんは外航船の通信士で、家と公海を約4ヶ月交替、ここ暫くは船上の人だ。小さい頃は両親が共に準備期間であった為、家族一緒に暮らすのが当たり前の事だと思っていた。まあ、そんな私も今や高校の2年生だ。甘えが許される年齢は、とうに過ぎているわけで。
シャッ!
カーテンを勢いよく開けると、薄暗い室内に、眩しい朝の太陽光が差し込む。北方は連山の稜線、南方は埠頭の向こうに続く水平線。これが私の生まれ育った町。二階のテラスから見渡す、この町の穏やかな景観が、昔から大好きだった。
高校生活も、残すところあと1年と半年足らず。今の担任から薦められている大学は、此処よりもずっと都会で、その道を進むのならば、もう学友達とも、この景観とも、お別れしなければ為らなくなるのだろう。私は【今】を存分に楽しんだ後、そっとカーテンを交差させた。さて、登校の為には学生服に着替えなくてはならない。この用心深さも、私が大人になった証というワケだ。
しゅるっ…
「ひゃッ!」
それは不意の出来事だった。
まだ仄暗い部屋の中、長押に引っ掛けたハンガーから制服を外し、ベットの脇に移動させようとしたその間際である。杳として知れない物体が、右脚のくるぶし辺りをシュッと掠めた。両の眼を凝らし、おそるおそる千鳥足で床を確認したが、まず、此れと言って正体を示すモノが見つからない。
(い、今……確かに何かしらが……)
直ぐさま頭に浮かんだのは小動物の類いだが、肌に触れた質量と言うか、感触は、もっと軽くて硬い印象を肌に残している。
(……虫?そう言えば、じきにそんな季節だし……このサイズ感で、この素早さとなると……うん?ンン?)
脳が意図的に思考を拒否する。
(いや、スカーフだ!間違いない、制服から垂れ下がったこのスカーフが…こう…くるぶしを掠めたのね?)
カタッ…
「ッ!」
左様な戯れ言をのたまっていた最中、今度はかなり距離を隔てた、低い位置から音が聞こえた。
(こ……今度は、一体なんなのよ?)
音の出所は、一階へ降りる階段の近辺かららしかった。これはもう、勝手知ったる何とやらで、存外に分かるものだ。さておき、先ずはドアの状態なぞを確認してみる。
ガコッガコッ
(うん?完全に閉じてるか……)
どうやら、今しがた部屋の中に居た何かが、部屋の外側に移動した分けでは無い様だ。そもそもウチは古い木造家屋なので、ドアの隙間を気密パッキンテープで対策しており、それは副次的に虫の侵入なぞにも効果を発揮する。ドアが閉まっているという事は、詰まりそういう意味だ。
(まあ、何かしら家の中に居るのは確かなんだけど……)
無論、押し込み強盗なぞも頭を過ぎったが、現状を鑑みるに、その線は薄いだろう。何故か。それは、音の持つ重さだ。
カタカタ…コツ…チャ……コツコツ……
先から聞こえるこの音は、明らかに、小さくて軽い物体が、狭い範囲内で鳴らしている音で間違い無いだろう。今、想像できうるサイズは、先ほど足元に触れた感触と符合する。
(昆虫……軽い……素早い……と、なると……)
計らずも黒々と蠢くその付属肢が脳裏に浮かび上がり 、ぶるるいっと背筋が戦慄いた。多々慮って見たものの、その線が最も濃厚であるのは間違い無い。
(離れた場所に……これって最悪、屋内の何処かで【アレ】が、大繁殖しちゃってる可能性が?)
げんなりと肩を落とせば、ため息のひとつも漏れる。気分の良かった朝の空気が、一転して曇天模様の只中に沈んでしまった。
(困ったな……もう登校の時間が……どうしよう……)
だが、ここで真相を確かめずんば、後々に遺恨を残す未来は火を見るよりも明らかだ。こう、何かしら策は無いものかと思考を巡らせて見る。
(そうだ、たしかベットの下に木刀があった!)
我ながら良い案ときびすを返し、意気揚々とベッドの側まで移動し、身を屈め、両手を突きて這い衝くばったその瞬間だった。来たる先の、とある予感にハタとなり、動作が鈍る。
(そう言えば、この部屋にも【アレ】が……)
とまれ、背筋に多少の悪寒を感じるも、腹這いのまま、その薄暗い二十センチ程の空間に視線を這わせてみた。本来、ベッド下は換気の意味でも、デッドスペースにしておくべきなのだが、あの長物を卒業するまでの期間、なるべく視界に入らない場所に置いておくとなると、ここ以外に選択肢が無かったのだ。一番奥まで蹴り込んだ成果か、向こうの壁に添う形で、ボンヤリと長細い白樫の色味が浮かんで見える。肩口まで潜れば手の届きそうな距離ではあるが、【アレ】がここに潜んでいた場合、最悪の事態に陥るのは確定か。だが、ここは勇気と決断の時でもある。勇気とはそれ即ち、絶望の渦中において試される心の強さなのだ。目を瞑り、えいと隙間に右腕を突っ込む。恐怖をねじ伏せ、奥へ奥へと手の平を泳がせると、程なくして指先にコッンと硬い樫の感触が当たった。
(おっ?……うん、コレだ!)
指の腹で転がし、手の平でガッチリ掴んでから引き抜くと、表面に薄っすらと埃を被った懐かしい姿が現れた。
「うわぁ~……」
この木刀は去年、三年の谷口生徒会長が修学旅行のお土産として、下級生の女子役員達に買ってきて、大変な物議を醸したブツだった。当然、その悪評たるやは散々で、よもやこんな局面で活躍の場が巡って来くるとは、当の本人も露知らずの事だろう。
(じゃあ……うん、取り敢えずパジャマを脱ぐか……シュミーズと……シャツ…脇のボタンを……で、スカーフを通して……スカート……ん?あれ?え?な、なんか……し、留まり難い?………ん…まっ……いいか…で、ソックスを…ん…んっ……カーディガンを……ふうっ……これで良し!鞄を持って……後は……木刀っと)
さて、今のまさか現状で出来うる準備は須く調ったわけだが、如何せんその先を考えると、憂鬱に勝る感情はない。【髪】と【顔】の手入れ……と、要は詰まる所 見て呉れの問題で、如何せんボッサリした出で立ちで、事も無げに登校するに私は流石に若過ぎた。などと考えつつ、洗面台に向かい、顔を洗う自分の後ろ姿を想像してみる。
(う〜…背後、取られるかも……)
暫し、ボンヤリと思考を巡らすも、侵入者が件の【アレ】であった場合、その結果への対応は大多数の人間がそうである様に、モナド論が示すところのお約束であり、それらと鑑みても選択肢など詮ずるが在って無きが如しであり……まあ、要するに、排除の一択しかないワケだ。手にした木刀を翳すと その姿は宛ら歴戦の名刀のように頼もしく、いっそ潰してやるか?なぞと過激な思想に怪しい笑みも口元から漏れる。
まあ、実際やるワケは無いのだが。
(ふぅ~~)
遮光の隙間から射し入る、深深とした青白い朝蔭が、呼気で流れるのを何がなし見ながら、冷静に気持ちの整理をする。よしんば【アレ】が飛び掛かって来たと仮定しても、木刀を使った対応が現状とれる最も有効な手段である事に、疑問の余地なぞない。つけ加えれば、奴等は気配に敏感だ。先手を取るにしても、この長さは有利に働く事だろう。良しと木刀を握り直し、やおら戸に半身を預けつつ、慎重にドアノブを捻ってゆっくりと引く。
カチッ……ギィ…………
開いた戸の僅かな間隙から、目を曝として向こうを窺うも、廊下に不審な物陰は見当たらない。しかし遮蔽物が消えた為か、殊更に階下辺りで響く、あの音が耳に届く様になった。何故だろうか。音を良く聞いて理解ったのは、妙に既視感のある音だという事だった。
(はて?この音、何処かで……)
その時、ふと生徒会会計 【村沢女史】の澄ました顔が脳裏を過ぎった。
彼女は口数も少なく冷静で、頭の回転も早い才女なのだが、自分の意見が通らないと、鉛筆の先端で机の天板をコツコツと小突く悪癖を時折のぞかせる。その素っ気ない態度とは裏腹に、心中かなり強い一家言を固持しているのだろう。と、それはさておき、自然と浮かんだのがソレだった。鉛筆の先で机を小突く あの音か、それに近しい音に聴こえる。
(えっ…じゃあ、強盗って線もアリなの?)
そう考えれば別段、不自然ではない。だって人は、どんな音でも鳴らそうと思えば鳴らすことが可能な生き物なのだから。用心に越した事はない。我が認識を改め、そっと右足を差し出す。
ギシッ
廊下につま先を落とすと、普段は気にも留めぬ床板の軋みが存外に響く事に驚く。強盗をも視野に入れた今、余計に焦ってしまう事実が露見してしまった。とはいえ、こればかしは、古い木造家屋に付き物の宿命と飲むしかない。少しだけ気後れしたが、私は十字架よろしく木刀を胸の前で握り締め、ひやりとする床板に、さらなる歩を進めた。
ギッギッギッ…ギギッ……
猫足で、そろりそろりと廊下の突き当りまで移動し、手摺りから半身を乗り出して、1階側の玄関口を見下ろして見る。幸いか、玄関ドアの小窓から差し込んだ朝日が、框の周囲全体を、靑白く浮かび上がらせていた。
(………)
じっと一渉り見渡すも、取り立て変わった印象は受けない。昨日の記憶と、ぴたり重なる光景だ。帰宅後に揃えた外履きも、綺麗に並んだまま玄関に収まっている。あとは居間・客間・台所・浴室……もしも強盗が潜伏していると仮定した場合、身を隠せるのは此処ら辺りかと。
(音の位置は、近いイメージ……客間より奥は無さそう……)
意を決し、片足を後ろに上げてソックスに指先を引っ掛け、しゅっと脱ぐ。フローリングの床は滑りやすい。いざとなれば素足こそが、もっとも機能的なのだ。
慎重に階段の手すりに身体を預けつつ、えいと右のつま先を踏み降ろす。
キシッ…ギシ……キシシッ…
そろりそろり階段を一歩降りるごと、一階側の視界も相応に開けてゆく。いったん中ごろで歩みを止め、廊下の暗がりや、柱の影なぞを注視してみた。音が鳴っていたと思わしき範囲に人影はもとより、小動物や昆虫の触覚一本すらも見当たらないとは、一体どう言う事なのだろう。
(あの音は、何処から──)
コトッ!
瞬間、全身の毛がザワッと総毛立つ。
意想外にも、件の【音】が鳴ったのは直ぐ足元だ。
「ひゃうっ!?」
自分でも、ひさかた聞いたことの無い変な声が喉の奥から飛び出すのを聞いた。なお不味い事に重心のバランスを崩し、果ては自由落下を待つ次第だ。
「ふっ‥はっ!」
私は本能的に身体をひらりと宙に舞わせた。
足の踏み場を探すよりも、一階まで飛び降りたほうが効率的だと経験上知っていたから。
トッ!
グキッ
ドタタン!
気が付けば、天井を見る形で框に転がっていた。
着地点の玄関マットがズレて滑り、体勢を整えようと上体をひねったのが結果として裏目に出た。
「いっ‥いたたたぁ…」
足首を押さえてみたが、迅速さが功を奏したのか然程の痛みも無い。その代償に肘と膝と臀部を しこたま床に叩き付けてしまった訳だが。
カタッ‥
傷を癒す間もなく頭上から、再びあの【音】が聞こえた。スカートの乱れを正しつつ上半身を起こし、臍を固めて階段を見上げる。
「?」
階段のちょうど中程辺りから、此方を見下ろす視線?と目が合った気がした。
「……?」
急いでわたわたとカバンを手繰り寄せ、取り出した眼鏡を掛けて もう一度見上げてみる。
「……」
頭でも打ったのだろうか?そこには小さなおじさんがすっくと立ち、こちらをじっと見下ろしていた。
全長約10㎝くらいか、頭部はまるでメッキをかけた様に銀ピカに輝き、身体はオレンジ色の半透明、クリスタルブルーの腹巻き?
(──って、何を呑気に妙ちきりんな分析をしているのだ私は?無いっ!あり得無いでしょ?そんな事っ!)
玩具。
そう、これは普通におもちゃの人形だ。およそギミック等が仕込めるサイズでも素材でも無く、【音】の正体がコレでは合点が行かない。のだが。したらば、又ぞろ別の疑問が頭を擡げる事になる。
(じゃ、やっぱり誰か家の中に居る?)
少しばかし、可能性を模索してみた。
(お父さん……は、まだ船の上か……お母さん……やるかなぁ……教授が変人だとか言ってたし、なにかの思考実験の被験者にされてる可能性も……う〜)
尻もちをついたまま、上体をぐるりと左に捻り、視線を玄関先から応接間、廊下、居間、台所、更に奥の勝手口へと、注意深く念を込めて泳がせてみる。明け方の、蒼然たる視界では在るものの、あらまし状況は窺い知れた。結論を述べるなら、目の届く範疇に不審な人影なぞ、やはり一切ない。そう、階段の中ごろから、私をじっと見下ろす、あの【小さなおじさん】の人形以外は━━
『友子、怪我はないか?』
「は?」
私は焦り、咄嗟に両の掌根で、左右のこめかみを押さえていた。
『すまない。どうやら驚かせてしまったようだ。』
「……」
いやはや、相当に強く頭を打ち付けたのやも知れない。じゃないと考えられない現象が今、目の前で起こっている。
『大切な話がある。時間を割いてもらえないだろうか?』
「あ……うん?」
刹那、背中からヌルっとした不快な汗が滲み出し、シュミーズと肌の狭間でジワリと冷たく広がるのを感じた。けれど、正直に言って私の内心はそれどころでは無い。何故なら、その【声】が、外耳を一切介さず、頭の【中】で直に鳴り響いていたからだ。万物には例外なく道理が存在すると信じて久しい自分なのだが、こんな不条理に適う理なぞ持ち合わせて要ようワケも無い。
(おじさんの人形が、頭の中に話し掛けてくる……)
(私は返事を返している……)
(誰がどう見ても、おもちゃの人形に対して……)
これらを鑑みて導き出される結論なぞ凡そ知れている。ただし、その答えは何れにせよ、私にはとても受け入れ難いも
『まずは事の発端だが…』
「あ、待って……」
心とも無く、私は右の手の平を前方に突き出し、拒絶の姿勢を取っていた。
『ん?』
「か、髪…梳かしてくるから……」
『うむ。では戻ってきてから話そう。』
幻覚と対話すると病状が酷くなると聞いた記憶がある。私は理性の利かなくなった頭で、のろのろと立ち上がり、洗面所に向かって歩いた。
ぺたぺたぺた……
素足を伝わる床板の ひんやりとした感触。
ぺた……
それは間違いなく、今が現実であることを告げている。
私のミクロマン ①