ライトアップ
よみ先輩が死んだのは、肌寒い十一月の半ばだった。死因はバイク事故で、大型トラックに高速で突っ込んだとのことだった。もう少しで卒業を控えていたさなかでの死だった。
よみ先輩の葬儀には学校の大勢の生徒が参列していた。その突然の死に、誰もが驚き、悲しんでいた。演劇部の後輩も、互いに身を寄せ合ってはすすり泣く声を漏らしていた。
そんな中で、私はよみ先輩の遺影をまっすぐに見つめながら、涙も流せずにいた。むしろ、私は怒っていたようにさえ思う。無責任だ、と思った。よみ先輩は薄情だと思った。遺影の中のよみ先輩だけが笑っている。他のここにいる誰もが彼女の死を悲しんでいるのに。まるで自分一人だけが特別のようで、自分一人だけが楽しげで。それはあたかも生きていた頃のように。
「関谷ちづるさんですか?」
そんなことを思っていると、私は後ろから声を掛けられた。振り返ると、その人はつい先ほど参列者の前で親族代表の挨拶をしていたよみ先輩のお父さんだった。
「はい」
「ああ、良かった。帰られる前にお話ししたいと思っていたものですから。娘とは仲良くしていただいたみたいで」
よみ先輩のお父さんは、そう言って軽く頭を下げた。大人の人から頭を下げられた経験はあまりないので、どうしたらいいか分からなくて少しあたふたした。
「いえ、私こそよみ先輩にはとてもお世話になりました。よみ先輩はみんなにとって優しい先輩で、憧れの先輩で、それで」
私は言葉を飲み込んで、ふとよみ先輩の遺影を見返した。遺影の中のよみ先輩は、満面の笑顔で、力強くて、悩みなんか何もなさそうだった。
「最後まで何を考えているか分からない先輩でした」
よみ先輩のお父さんが去って行くと、その後でもう一人男性に声を掛けられた。それは演劇部の顧問の河部先生だった。先生はぴっちりとした喪服のスーツで、その着こなしや眼鏡の奥の瞳から真面目さが滲み出ているようだった。
「残念な事故だったな。深澤とは随分仲良くしていたんだろ? よくお前と深澤が話してるところを見たって話を聞いていたよ。お前、最初は無口でろくに人とつるまない奴だったから、それを聞いて安心していたんだ。それがこんなことになるなんてな」
先生は、親身な様子で、私が何も返さないのも意に介さずに喋り続けていた。その間、私は自分にしか聞こえないくらい小さな声で「事故」とだけ、先生の言葉を繰り返した。
事故。なんてつまらない、薄情な言葉だろうと思った。口に出して、その冷たさがよく分かった。よみ先輩の死は事故なんかじゃない。よみ先輩の死は、あれは――自爆だ。
「どうした?」
私が顔を上げると、先生が不思議そうな顔で私を見ていた。
「いいえ、なんでもないんです。なんだか、よみ先輩が死んだなんて今でも信じられなくて。本当に、本当につらい事故でした」
私はわざとらしく先生に笑った。
それから、私は一人になってから、あぁ、と思った。まったく、薄情なのは私の方だ。よみ先輩が死んだのに、泣かずに笑うなんて。
深澤宵見先輩、愛称はひらがなでよみ先輩。彼女は、まさに演劇部のエースともいうべき存在だった。身長が高くてスタイルがよく、真っ直ぐな長い髪が印象的で、何よりその凛とした背格好と立ち振る舞いが、彼女の存在感を際立てていた。
よみ先輩はいつだってはっきりしていて、言うことも的確で、周りの部員からも男女問わず信頼を集めていた。けれども、それは一年で入部したばかりの時の私にとっては、近寄りがたい以外の何ものでもなかった。よみ先輩はいつも遠くでたくさんの人に囲まれている人で、私とは深く関わることのない人だと思っていた。
そんなよみ先輩と私が初めてちゃんと接したのは、夏の演劇コンクールで惜しくも銀賞を取り、全国進出を逃した時だった。
ホールの外で、よみ先輩は数人の女子の後輩に囲まれ、悔し泣きする後輩たちをあやしていた。
「はいはい、もう泣かない。あんたたちには次があるんだから。これからは切り替えて定期公演の準備だよ」
「だって……だって、よみ先輩にはもう次がないじゃないですか。私たち、よみ先輩を全国に連れて行ってあげたかったです」
そう言っておいおいと泣く後輩に、ふっとよみ先輩の笑顔が消えた。
「舐めたこと言ってんじゃないよ!」
急によみ先輩が声を上げたので、周りの後輩たちはびくっと身体を振るわせた。
「あたしはあんたたちにここに連れて来てもらったんじゃないよ。あたしは自分で選んで、精一杯やって、ここまで来たんだ。それはあんたたちだって同じだろ? だから、そのことに何の後悔もない。もちろん結果は残念だったけどね、これでいいんだよ」
よみ先輩がそう言うと、再び後輩たちが泣き出して、うわぁん、ごめんなさぁい、と言ってよみ先輩に縋りついた。その様子を少し離れたところで、壁に寄りかかりながら見ていた私は、熱いんだなぁ、などと他人事のように思っていた。
そんな私の視線に気づいたのか、よみ先輩は後輩たちの間から抜け出して、こちらの方までやって来た。
「あんたもよくやってくれたね、ちづる。ご苦労様」
よみ先輩はさっきの厳しい言葉とは真逆のような、優しい表情で笑いかけて来た。名前、憶えていてくれてたんだ、と私は心の中でひそかに思った。
「はい、こちらこそお疲れ様でした」
「あんまり悔しそうじゃないね?」
「ああ、そうですね。私は所詮友達に誘われて入っただけの、演技に何の思い入れもない、ただの照明係ですから」
「謙遜しなくたっていいよ、それだって大事な――」
よみ先輩は言いかけて、不意に言葉を止め、私の顔をじっと見てきた。
「何ですか?」
「……いや、違うな。あんたは演技に興味がないんじゃない。何にも興味がないんだ」
不意にそんなことを言われて、私は一瞬呆気に取られてしまった。
「失礼なこと言うんですね。これでも真剣にやってたんですよ」
「そうかもしれないね。でも、だからこそだよ。あんたは何にも興味がないから、何に対しても真剣になるしかないんだ」
よみ先輩は、冗談を言うようでもなく、真剣な眼差しでそう言い放った。私はと言えば、何を返したらいいか分からず、口を開けたまま考えあぐねていた。
そうしていると、よみ先輩と同じ三年の先輩が向こうからよみ先輩を呼んだ。よみ先輩はすぐさまそちらを向いて応え、その後で私ににこりと笑いかけた。
「それじゃあ、また」
そう言って、よみ先輩は去って行った。
それじゃあ、また、って。どこまでも一方的な先輩だった。大体、よみ先輩はこれから受験で、三月の定期公演を残して実質引退だというのに、また、というのがあるのだろうか。私はそんなことを思っていた。
これが、私とよみ先輩の関係の始まりだった。
「ちづる!」
移動教室で、私がクラスメイトの女子と一緒に三年の廊下を歩いている時、不意によみ先輩から呼び止められた。私が振り返ると、よみ先輩は教室から顔を出していた。そして、よみ先輩はそこから走り出てこちらにやって来た。
「どうしたの? 珍しいじゃん。三年のところに来るなんて」
「ただの移動教室ですよ」
私が言うと、よみ先輩は隣にいた私のクラスメイトを一瞥して、「なるほど」と一人で納得したようだった。
「まぁいいや。今日、確か部活休みだったよね。また放課後、喫茶店行こうよ」
「はぁ……まぁ、いいですけど。先輩、受験勉強は大丈夫なんですか?」
「大丈夫だって。あたしの成績知ってるでしょ?」
私は「はぁ」とだけ繰り返した。ちなみに、よみ先輩の学業での成績は学年でもトップを争うレベルだった。本当に、何でも持ってる人っているのだなぁ、などと私は勝手に思っていた。
「じゃあ、決まりね。放課後、下駄箱前に集合だから」
よみ先輩はにかっと歯を出して笑った。そうして、風のように去って、教室に戻っていった。
私が「はぁ」と再び溜息をついて横を見ると、隣にいたクラスメイトの女子が目をまん丸くしてこちらを見てた。
「ねえ、ちづる、今の演劇部の深澤先輩だよね? 超カッコいい。ていうか、あんたいつの間に深澤先輩とそんな仲になったの」
「えっと……いつの間にか?」
私は空笑いしながら答えた。
「よみ先輩、変な誤解されてますよ」
私は喫茶店のテーブルを挟んで向かい側に座るよみ先輩に言った。よみ先輩は、窓枠に肘をついて外を見つめながら、手に持ったアイスコーヒーをストローですすっていて、その横顔にかすかに陽光が差してその頬に反射していた。なんだか、よみ先輩はそんな姿でさえ絵になってしまうのがずるいなと思った。
「誤解って?」
「いいえ、別に」
私は手元のティーカップに注がれた紅茶を一口飲んだ後、薄く張ったその表面を見た。それはよどみなく透き通っていて、ぼんやりと私の顔を映していた。
「それより、なんで私なんか誘うんですか? 他にもよみ先輩と一緒に喫茶店に行きたい後輩なんて沢山いますよ」
私が訊くと、よみ先輩はこちらを向いてにやっといやらしげな笑みを浮かべた。
「分かってないね」
「はぁ」
「ちづるはさ、あたしのことなんか全然興味ないでしょ」
「まぁ、言っちゃえばそうですけど」
「そういうとこ。他の子はみんなあたしに興味があって、あたしのこと慕ってて、それは勿論嬉しいことだけど、それって結構肩が凝るんだよ。それより、あたしはあんたみたいな子とお茶がしたいんだよね」
よみ先輩はアイスコーヒーを置いて、真っ直ぐにこちらを見て来る。私はその整った顔立ちと、大きな瞳に吸い込まれるような気がして、思わず目をそらした。
「よみ先輩って変な人ですね」
「よく言われる」
よみ先輩は可笑しそうにからからと笑った。
まだ陽も落ちきっていない放課後、ピアノの音楽の鳴る喫茶店で私たちはそんな風にだらだらと話をした。同じような高校生はこの喫茶店に何組かいるようだった。その誰もが今だけを精一杯楽しんでいるようで、その他には何も興味がないようで、そのことにどこか私は安心していた。
私も、よみ先輩とお茶するのは楽しいですよ。その言葉を言おうとしたけれど、何だか気恥ずかしくて飲み込んだ。
翌日、演劇部の稽古の始まる前に私がひとりストレッチをしていると、同期の女子部員が横に座ってにやにや顔で話しかけて来た。
「ねぇ、ちづる。昨日、よみ先輩と一緒に帰ってたんだって?」
「ああ、うん。何だか流れでそうなって……」
「ちづるってばいつの間によみ先輩と仲良くなってたの? 今まで全然話したりとかしてなかったじゃん」
同期部員女子はどこか楽しそうだった。私は、「やっぱり誤解されてる」と心の中で呟いた。
「いいなぁ、私もよみ先輩と一緒に帰りたい」
淡々とストレッチを続ける私の横で彼女は言った。
「別に、普通に誘えば大丈夫だと思うけど」
「そりゃあ、そうだろうけど。やっぱり一人じゃなかなか言えないよ、演劇部のエースの先輩に一緒に帰りましょうなんて」
その後でお茶したなんて言ったら卒倒されそうだな、と私は思った。けれども、そんなところもいつか人目について、彼女の耳に入るんじゃないだろうかとも思った。目立つというのはそれだけで考えものだ。
「それで、ちづるは何て言って誘ったの?」
「いや、私は向こうから誘われて」
「うそっ! お気に入りじゃん」
「お気に入り……」
私は女子部員の言うことを繰り返した。
「あんまり嬉しそうじゃないね。他の子なら飛んで喜びそうなことなのに。……まぁ、あんたはいつもそんな感じだけど」
「うーん、私が望んでそうなったわけじゃないからなぁ」
「うわっ、ゼイタクー」
そんなことを話しているうちに、稽古の始まりを知らせる二年の先輩の掛け声が響いて、私たちはどちらともなく会話をやめた。
次の週、演劇部が休みだった日に、私は再びよみ先輩に誘われて、一年の昇降口の前で待っていた。けれども、そこやって来たのは、よみ先輩だけではなかった。よみ先輩の隣にいたのは、同じ三年の瀬川霧子先輩だった。
霧子先輩は、よみ先輩と並んで演劇部の二大ヒロインと呼ばれていて、同じように部員からの注目と信頼を集める先輩だった。よみ先輩に負けず劣らずの端正な顔立ちで、身長がすらりと高く、ウェーブのかかったショートヘアがどこか中性的な印象を与えていた。
私はただでさえよみ先輩と並んで歩くのは気が引ける思いがするというのに、霧子先輩まで一体何の用で来るのだろうと思った。けれど、よみ先輩と霧子先輩が親友同士であることは演劇部でも周知の事実であったので、こうなるであろうことは、よくよく考えれば想像ができたことだった。
「こ、こんにちは、霧子先輩」
「こんにちは、関谷さんだよね。……あ、緊張してる? そりゃあ、ほとんど引退したような三年の先輩が二人並んで来たら威圧感あるよね」
霧子先輩はくすりと上品な笑いを見せた。笑ったときの口の下に小さなほくろが目に入って、何だかそこに惹き込まれてしまうような気がして、思わず足が半歩後ずさった。
「馬鹿、引いてんだよ。こいつはこれで緊張するような殊勝なやつじゃないからね」
よみ先輩が肘で霧子先輩を小突いた。
「ふうん、そうなんだ? よみの最近のお気に入りっていうからどんな変人が来るのかと思ったら、案外普通の子だったなと思ったのだけど」
一体よみ先輩は私のことをどのように話しているのだろうと私は思った。それにしても、お気に入りってどういうことだろうかと、私はこの間も聞いたばかりのその言葉を反芻した。私の一体どこに気に入るような要素があるというのだろうか。私は、自分の何がそんなによみ先輩を引き付けているのか、よく分からなかった。
いつもの喫茶店で、よみ先輩と霧子先輩が並んで私の前に座っていた。なんだかテーブルを挟んで別世界が展開されているようで、見る人によってはきっと羨むに違いないと思った。
霧子先輩は店員にコーヒーを注文すると、今度は乗り出すようにしてこちらを見てきた。
「関谷さんってこうして見ると可愛いよね。コンクールでは裏方だったけど、役者はやらないの?」
うっ、と私は喉が詰まるような思いがした。もしかすると、霧子先輩は色んな女子に同じようなことを言っているのかもしれない。私は思わず目をそらしながら言った。
「いえ、私は演技にはあまり興味がなくて」
「へぇ、裏方専門なんだ」
「というか、ただ友達に誘われて演劇部に入っただけで、そんなにこだわりがあるわけではないんです。だから、役者のようなことはやりたい子がやればいいかなって思ってて」
「ふうん。やってみればいいのに、役者。せっかく今度の定期公演はうちらが裏方に回るんだからさ。きっと関谷さんだったら映えると思うよ」
ねぇ? と言って霧子先輩はよみ先輩の方を見た。よみ先輩は窓枠に肘をかけて頬杖をついていて、霧子先輩に話を振られると、いぃっと苦々しそうに口を歪めた。
「やめとけやめとけ。役者ってのはやりたくないやつになんかやらせるもんじゃない」
「あら意外。よみはそういう意味で気に入ってるのだと思っていたのだけど」
「違えよ。役者ってのはさ、本当に演じることに興味があって、それを楽しめるやつがやったらいいんだよ。それこそあたしや霧子みたいにね。こいつはまた特殊」
よみ先輩がいたずらな顔でこちらを一瞥したので、私は少しだけむっとした。
「特殊って何ですか、失礼ですね。大体、そのお気に入りって何なんですか?」
「面白いやつってことだよ」
「私は面白くないです」
「ははは、そりゃよかった」
私たちがそんなやり取りをしていると、くすくすと霧子先輩が笑った。本当に可笑しいという感じで、小刻みに震える肩と一緒にウェーブのかかった髪がかすかに揺れた。
「ふうん、そんな感じなんだ」
ひとしきり笑い終わった霧子先輩は、どこか嬉しそうだった。そんな感じって、どんな感じなのだろう。
「それよりさ。定期公演、ハムレットやるんでしょ?」
霧子先輩が話を切り替えるように言った。
「あ、はい。今年度はシェイクスピアをやろうって先生が」
「げぇ。随分とお堅いのをやるんだね」
よみ先輩がまた苦々しそうな顔をした。
「私はいいと思うよ、ハムレット。言葉は古いけど、内容は意外と現代的で。私たちが悩んでるのと同じように悩んで、私たちが生きてるのと同じように生きてる。こういうのを演劇部がやるの、私はいいなって思う」
霧子先輩が言った。私は、何となく霧子先輩もいつも余裕があって優雅なイメージだったので、こんなことを言うなんて意外だった。
「あんたらしいね」
「そうかもね」
霧子先輩はよみ先輩を横目でちらりと見ながら小さく笑っていた。
外は肌寒く、季節は冬にさしかかってきた十一月の初めの頃だった。私たち演劇部は、もうすぐ来る学園祭の準備で手一杯になっていた。学園祭では、部員が小さいグループに分かれていくつかの短編劇をすることになっていた。そこで、不本意ながら私も端役を務めることになり、慣れない演技の稽古をしどろもどろになりながらでやっていた。
学園祭の準備は連日に渡った。休みの日もあまりなくなったので、自然とよみ先輩や霧子先輩と帰りにお茶をするということもしなくなっていた。そんなある日、顧問の河部先生が用事で来られないため、部活も早めに切り上げることになった。部活の帰りは、大体同じ方向の部員同士でかたまりになって帰る。私も例にもれず部員数人と帰るつもりで一緒に帰るつもりだった。ところが、一年の下駄箱の前で同期の女子部員が小さく声を上げた。
「ねぇ、ちづる」
「えっ?」
「あれ、よみ先輩じゃない?」
言われて昇降口を見ると、確かにそこにはガラス扉の横に寄りかかりながら、誰かを待っている様子のよみ先輩がいた。沈みかけた夕陽が背後から照り返して、よみ先輩のすらりとした身体を暗く陰らせていて、その姿はどこか幽玄な雰囲気さえあった。
よみ先輩がいることが分かると、他の同期女子部員がわぁっと声を上げてよみ先輩の方へ駆け寄った。
「よみ先輩! お久しぶりです!」
「どうしたんですか、こんなところで?」
一年の女子部員たちが口々によみ先輩に話しかけると、よみ先輩も楽し気に言った。
「おぉ、久しぶりだなぁ! お前ら元気にしてたか?」
よみ先輩が部活に出ていた頃、よく目にした光景だった。なんだか懐かしいなぁ、などと他人事のように思っていると、後輩たちとあれこれ話していたよみ先輩が不意に顔を上げ、私がいるのに気づくと、よく響く声を上げた。
「ちづる!」
よみ先輩を取り囲んでいた女子部員たちもつられてこちらを見た。急に周囲からの注目を浴びる。よみ先輩は「ちょいとごめんよ」と女子部員たちの間をかきわけてこちらに来て、私の前に立った。
「お久しぶり、です」
私がよみ先輩の顔を見上げながら言うと、よみ先輩はにかっと歯を出して笑顔を見せ、私の手首を掴んできた。
「悪いけど今日はこいつ借りるよ!」
「えっ?」
よみ先輩は周囲の後輩たちに向かって言った。
「ほら、あんたもさっさと靴履き替えな」
「ちょっと、待ってくださいよ」
手を掴んだままのよみ先輩にせかされるままに私は靴を履き替え、みんなが呆気に取られて、わずかにざわつく中、よみ先輩と二人で校舎を出て行った。
よみ先輩に連れて来られたのは、学校から少し離れたところにある駐車場だった。駐輪場の端にはバイクを置けるスペースもある。よみ先輩はそこに留めてあるバイクの一つの前で立ち止まり、コートのポケットから鍵を取り出した。
「うちの学校ってバイク乗っていいんでしたっけ?」
「駄目だよ」
よみ先輩は平然と言った。
「でも、先生も分かってて何も言わないし、だったら別にいいんじゃない?」
「そういうものですか」
私が呆れているのを他所に、よみ先輩は手慣れた様子でバイクの座席を開けて、ヘルメットを二つ取り出した。
「ちづる、今日はこの後空いてる?」
「まぁ、遅くならないなら」
「じゃあ、うち寄って来なよ。帰りはちゃんと送るからさ」
そう言って、よみ先輩はヘルメットの一つをこちらに差し出した。それから、「寒いからこれ着ときな」と、折り畳みで片手に収まるタイプのダウンジャケットを手渡してきた。私はヘルメットを被り、ダウンを制服の上に着ながら、バイクの二人乗りはしていいんだっけ、などと考えていた。
「よみ先輩、ずっとあそこで待ってるつもりだったんですか?」
バイクを走らせるよみ先輩の後ろに座って、よみ先輩の腰にがっしりと腕を回してしがみつきながら、私は言った。怖いこともさることながら、冷たい空気が容赦なく体に吹きつけて来て凍えそうな思いがした。
「まさか。今日は早上がりだって聞いたから待ってたんだよ。だって、ここんとこずっと休みがなかったじゃん」
「そうですけど……」
風を切って走るバイクは私には初めての経験で、それを何でもないことのように運転するよみ先輩も、どこか別人のように思えた。
「どうして、私なんか待ってるんですか」
よみ先輩につかまりながら、小声で言ったけれども、返事は帰って来なかった。
よみ先輩の家に着いたとき、私はまずその大きさに驚かされた。それは一般的な一軒家の倍の大きさはあり、高い塀に囲われ、大きな窓ガラスの沢山ついた近未来的な外観を持っていた。
「よみ先輩の家ってお金持ちだったんですね」
「まあ、父親が企業の結構偉い人でさ」
よみ先輩は言って、オートロックを操作して門を開けた。中に入ると、家の扉までの通りの脇に綺麗に手入れされた高そうな車が二台留まっていた。企業の偉い人、というのがリアリティを持って感じられてくる。
「でも、たった三人の家族には大きすぎる家だよ」
よみ先輩は振り返ることなく言った。
家の中に入って、よみ先輩がリビングの電気を付けると、驚くほど強い光で部屋が照らされた。これもまた広大な部屋で、空調に合わせて高い天井で大きなプロペラが回っていた。
「今日は他に誰もいないんですか?」
「いつも誰もいないよ。父親は仕事でほとんど家に帰れない。母親は大体どっか出掛けてる。手伝いの人がたまに来るけど、雇い主の高校生の娘なんかいちいち相手しないし」
よみ先輩は柔らかそうなソファーにどさっと座り込み「ちづるも座りなよ」と、自分の隣を叩いた。
「よみ先輩は、お父さんやお母さんと仲が悪いんですか?」
つい、口をついて突っ込んだ質問が出てしまった。けれども、誰もいない大きな家と、よみ先輩の話しぶりから出て来ざるを得ない疑問だった。
「いや、悪くないよ。会えば話をするし、一緒に食事もする。父親も母親も私に期待してくれてるし、何かやりたいと言えば応援してくれる。何も不足のない両親だよ」
よみ先輩のそう言う口調は、言っている内容に反しているように聞こえた。私がソファーの隣に座ると、よみ先輩は肩がくっつくくらいまで身体を寄せて来た。
「ちづるはどう? 親とは仲がいい?」
よみ先輩は首を斜めにかしげて、こちらをじっと見つめながら言った。
「私は……普通ですよ。仲がいいこともあるけど、時々喧嘩もします。特別なことは何もない家族です」
私が隣を見ると、その長いまつ毛の下の瞳と目が合う。まるで至近距離まで顔を寄せているような気がして、背中に冷や汗を感じる。
「普通、か。普通っていうのは尊いことだよ。私は普通が羨ましい。だって、過剰に期待されなければ、過剰に失望されることもない。普通に手に入るものが手に入って、普通に手に入らないものが手に入らない。特別じゃないって、貴重なことだと思う」
「それって……」
「だから、ちづるはそんな感じなのかな。私と違って普通で、普通なことを特別に思ってないから、私にも期待をしないのかな」
よみ先輩が私の手を上から握ってきたので、私はびくっと肩を震わせて硬直した。
「だから、私はこんなに引かれるのかな」
よみ先輩がかすれるような小さな声で言う。それから、よみ先輩は軽く私の肩に頭を乗せてきた。私は身体を強張らせたまま、それを受け入れていた。これは、甘えられているのだろうか? 私の髪の毛の先が、よみ先輩の髪と触れ合った。
「なんてね」
よみ先輩がぱっと手を離して、まるで何もなかったかのように身体を離した。一変して、よみ先輩の顔がいつものいたずらな、にかっと歯を出した笑みに戻る。
よみ先輩は不意にすっくと立ちあがって、数歩前に歩き出した。そして、そこで立ち止まると、片手を胸に、もう片方の手を斜め上に持ち上げ、掌を上に綺麗な指の形をつくった。演劇でよく見る、どこかオーバーな身振り。それは、よみ先輩が演技に入るスイッチのようなものだ。
「生か死か、それが問題だ。どちらがより気高い心だろうか。悲惨な運命の投石と弓矢に耐え忍ぶか、それとも剣を取り押し寄せる困難の波に立ち向い、戦ってすべてを終わらせるか。死は眠りにすぎない。眠ればこの憂いも幾千の痛みも終わる」
よみ先輩は滔々と台詞を語り上げた。私は「ハムレット」と小さく口からこぼした。
「こんな風にやってるの?」
よみ先輩が振り返る。
「私はやらないですけどね」
「裏方だもんね」
「台詞、覚えてたんですね。……好きだったんですか?」
「たまたまだよ。私も少し思うところがあっただけ」
何でもないことのように言う。でも、それがたまたまで暗唱できるものでないことくらい、私にでも分かった。
「思うところって?」
「随分突っ込んでくるね……なんていうのかな、少し似てるのかも。表では強がっていながら、本当は臆病で、気弱で、いつだって迷ってる」
「それは、よみ先輩に似てるってことですか」
よみ先輩の肩がぴくっと震える。私も立ち上がって、数歩先のよみ先輩に近寄った。
「だとしたら、いつものよみ先輩は――」
そうして、今度は私がよみ先輩の手を握る。
「何でもない、何でもないよ」
「何でもなかったら、わざわざ私をここに呼んで、こんな顔見せませんよ」
私がそう言って顔を見上げると、よみ先輩はまるでほころぶような弱々しい笑顔を見せた。それは、私が今まで見てきたどのよみ先輩の笑顔とも違っていた。
「はは」
よみ先輩がわざとらしく言う。
「ちづるには敵わないな」
冷たい夜風にさらされながら、私はひとり沿道に立っていた。目の前でいくつもの車が行き交っている。私はそれを眺めながら、よみ先輩のあの時の顔を思い出していた。
よみ先輩の死があってから、あの顔が私の頭からへばりついて離れなかった。あの時、私が何かしていたら、何か良い言葉を投げかけていたら、未来は変わっていただろうか。そんなことを考えていたけれど、答えなんか出るはずもなかった。
あれから、学園祭の短編劇はなんとか終えることが出来た。よみ先輩の死は演劇部にとってはあまりにも衝撃が大きく、部員の覇気をすっかり奪ってしまった。けれども、学園祭をみんなで成功させることで、少しずつだけれどこれを乗り越えようとしているようだった。
一方、私はあまり部員の仲間と一緒に帰らなくなっていた。何か理由をつけて早上がりしたり、用事がある振りをしてみんなと離れ、帰った後を見計らって一人で帰ることが多くなった。どこかよみ先輩のいない部の中で楽しそうに笑うことが躊躇われたからだ。
そんな帰り道の途中、私の横を音を立てて通り過ぎるバイクがあった。私はなんとも思うことなく見送ったけれど、バイクは少し先で立ち止まって、運転手がバイクに跨ったままこちらに上体を向けた。
私は何事かと思ったけれど、来ているダウンジャケットの下にスカートが見えたので、きっとうちの学校の生徒だと思った。そして、バイクの運転手がヘルメットを脱ぐと、それが誰だかすぐに分かった。
「やっぱり、関谷さんだった」
その声の主、霧子先輩は上体をこちらに向けたまま、にっこりと笑った。その笑顔は、いつだったかよみ先輩と一緒にテーブルを囲んだ時と同じような、穏やかで魅入られてしまうような笑顔だった。
「霧子先輩!」
私は霧子先輩の方へ駆け寄った。彼女と会うのは、よみ先輩の葬儀の時以来だった。
「久しぶり……かな。学園祭、上手くいったらしいね」
「ええ、なんとか。みんな気持ちが整わなくて、大変なこともありましたけど」
「そっか。関谷さんも役者をやったんだっけ?」
「はい、一応。でも、やっぱり私には向かないなって思っちゃいました」
私がふっと笑って言うと、霧子先輩もまた穏やかな笑みを見せてくれた。
「ねえ、ここだと目立つから、後ろ乗りなよ。帰りも送っていくから」
そう言って、霧子先輩は被っていたヘルメットを差し出してきた。
「一緒に行きたいところがあるんだ」
そんな霧子先輩を見て、いつだったかよみ先輩に同じように差し出されたことを思い出した。
「うちの学校、校則違反する人ばっかりなんですね」
私はそう言って笑いながら、ヘルメットを受け取った。
霧子先輩の後ろでバイクに跨りながら、私たちは色々な話をした。部活の様子、私があまりみんなと一緒に帰らなくなったこと、それから、よみ先輩とのこと。
「関谷さんは、よみの両親のこと知ってる?」
霧子先輩が不意に訊いてきた。
「はい。以前によみ先輩の家に行ったときに少し話は聞きました」
「よみの両親、離婚することが決まってたんだって」
「えっ」
「私も前によみから無理矢理聞き出して初めて知ったんだ。あの子、どう見ても様子がおかしかったから。もともと何でくっついてるのか分からないような夫婦だったんだって、父親は仕事で滅多に帰って来ないし、母親は遊び好きでいつも外を出歩いてたって。それでも、お父さんのことは好きだったみたいだけど。中学の頃はまだ結構面倒見てくれてて。でも、母親は昔からよみのことを放ったらかしで、よみも母親のことが嫌いだったみたい。他に男を作っていたのもずっと知っていたんだって」
私は、聞いていて胸が痛くなった。それは私が知らなかったことで、よみ先輩が教えてくれなかったことだった。だからといって、聞いていれば何かが出来たということではないけれど。
私達はしばらくじっと黙った。霧子先輩のバイクでも、その場所に着くまでに二十分は掛かった。夜でも活発に車が行き来している十字路だった。街燈とマンションと車のテールランプの光によって、道路は彩り華やかに照らされていて、霧子先輩がバイクを留めたすぐ近くの電柱の下に、小さく花が添えられているのがすぐに分かった。
「こんな遠くまで、何でよみは一人で来たんだろうね」
霧子先輩は寒そうに自分のジャケットに身をくるめながら白い息を吐いた。私達は黙っていたけれど、行き交う車の音だけが引っ切り無しに鳴り続けた。ただ、よみ先輩はここで死んだんだ、という思いだけが頭の中に残った。
次第に、もうよみ先輩がこの世にいないということが私の中でリアルなこととして感じられてきて、ずっと流れることのなかった涙が流れ落ちてきた。
「霧子先輩、よみ先輩はなんで死んでしまったんでしょう」
「分からない。それは誰にも分からないことだよ」
「私は何もできなかった」
「それは私だって同じ。誰もが何もできなかった。みんながよみのことを見ていたのにね」
私たちが小さく言葉を交わす間、車のエンジンの音がひっきりなしに響き渡っていた。きっと、今、この世界で私たちのことなんて誰も知らず、誰も気にすることなんてないのだろう。そうして、この世界は回り続けていく。よみ先輩を置いてきぼりにしたまま。
「霧子先輩、私はよみ先輩が好きでした。だから、いなくなって欲しくなかった」
私は、はじめて自分の思いを吐き出すことが出来たような気がした。だから、胸が締め付けられると同時に、どこか身体が軽くなるような、荷が降りたような心地がした。
「そう言ってくれる人がいてくれるだけ、あの子は幸せだよ」
霧子先輩は私の手をそっと握ってくれて、私の涙が止まるまでずっとそのままでいてくれた。
「ここでいいです」
私は帰り道、自分の家の近くまで霧子先輩のバイクで送ってもらった。
「大丈夫? 暗いし、家まで送るけど」
「もうすぐそこですから」
私が言うと、霧子先輩はふっと笑顔を浮かべて「そっか」と言った。
「また話そうよ。前に行った喫茶店とかで」
「はい。今度はいっぱい楽しい話がしたいです。学校のこととか、演劇のこととか」
「うん。楽しみにしてる」
そう言うと、霧子先輩はヘルメットを被って去って行った。その姿が夜の闇に見えなくなるまで、私はずっと手を振り続けた。
それから、幾日か経った時のことだった。
「どうしてよみ先輩のこと、止めてくれなかったの?」
その女子部員は私に向かって言った。
「はい?」と、私は素っ頓狂な声を上げた。
放課後、演劇部の始まる前に同期のある女子部員に呼び出された。今までに何度か話したことがあるくらいの、関わりの薄い女子部員だった。
人がいないところがいいというので、近くの空いていた視聴覚室に私たちは入った。するとすぐに、彼女は私の方を向いて言ってきた。
「関谷さん、よみ先輩と仲良かったよね。よく一緒に帰ってたみたいだし」
「まぁ……」
「じゃあ、何か知ってるんでしょ? よみ先輩が死んだ理由。あなたなら止めることが出来たんじゃないの?」
彼女の不躾な言い方に、私は少なからず憤りを覚えた。けれども、私はなるべく事を荒立てないように言った。
「止めるも何も、あれは事故だったって先生も言っていたでしょう」
「でも、それは嘘だってみんな言ってる。よみ先輩は何か悩みを抱えていたんだって。あなたも、よみ先輩と一緒にいたなら何か知ってたんじゃないの?」
「知らないよ。そんな話だって私はじめて聞いたし」
私が言うと、同期女子部員は目をかっと開いて手を振り上げた。
ぱしん、と私の頬が打ち叩かれる音がした。私は一瞬、何が起こったかよく分からなかった。
「すっとぼけないでよ! あんたばっかりずるいんだよ。自分ばっかりよみ先輩に好かれて、訳知り顔で、自分ばっかり傷ついたみたいな顔して。みんなだって傷ついてるのに。ずるい。知ってたならなんで止めてくれなかったの。どうせ知ってても何もしなかったんでしょ」
彼女はまくし立てるように言った。言っていることは支離滅裂で、自分でも何を言っているのか分からないのかもしれない。顔を見ると、目からぼろぼろと大粒の涙を流していた。それを見て、ああ、この人もよみ先輩のことが好きだったのか、と冷静に思った。
それと同時に、ふつふつと胃の底から怒りが沸き上がってくるのを感じた。彼女は一体何を根拠にものを言っているのだろう。私が一体、よみ先輩に何ができたというのだろう。彼女の自分勝手な言い分に憤りが込み上げた。
私が黙っていると、同期女子部員は再び手を振り上げたけれど、それが私に届く前に私が彼女の頬を思い切り叩いた。
「勝手なこと言わないでよ。あんたに何が分かるっていうの。私だってよみ先輩のことが分からないのに、あんたに何が分かるの。私に何ができたかなんて、あんたなんかに分かるわけないでしょ!」
私は冷静に言っているつもりだったけれど、口に出すとそれは怒気を多分に含んでいた。
それからのことは、あまりよく覚えていない。通りがかった演劇部の先輩が物音を聞いて止めに入ってくるまで、お互いに何かを叫びながら、頬を叩き合っていたと思う。
そうして、何人かの増援が入って、部室に無理やり連れて来られた頃には、私も同期女子部員も涙と鼻血と叩かれた跡でぐしゃぐしゃになっていた。
「お前に限ってはそういうことはないと思っていたんだがなぁ」
河部先生が苦笑いしなから言った。
あれから先輩たちにひとしきりなだめられ、説明をさせられ、説教された後、私はやって来た先生に職員室まで連れられて来た。何で私だけ、と私は心の中で不満に思っていた。
「深澤とのことは深くは訊かないよ。きっと色々あるんだろう」
先生はそう前置いた。よみ先輩の名前が出て、私の肩がひとりでにぴくりと動いた。
「だが、あいつは存在がでかかったからな、部にとってもショックは大きかった。今でもそこから抜け出せない部員もいる」
「だからって、私だけあんな風に言われるなんて、納得できません」
言っているうちに、眉根が寄っていくのが自分で分かった。
「まぁ、許してやってくれ。きっと深澤のことを尊敬していたんだろう」
尊敬。私は心の中でその言葉を繰り返した。そうだ、よみ先輩は尊敬されていた。きっと目の前のこの先生もそうだったのだろう。でも、その尊敬されていたよみ先輩とはどんなものだっただろうか。それは、よみ先輩が必死に取り繕っていた外側の部分だけじゃないか。
私もよみ先輩のことが分からない。けれど、私は知っている。よみ先輩の取り繕った面の顔の裏に、あの時私に見せた弱々しい笑顔があることを知っている。
「俺はな、関谷に部の支えになって欲しいんだ。今、表向きは立ち直ったように見えても、まだ部は傷ついている。お前もきっと辛いと思う。だが、深澤が立っていたところに、お前なら立てるんじゃないかと思うんだ」
「先生」
私は、何やら語り立てていた先生の言葉を遮った。
「私、今なら少しだけよみ先輩の気持ちが分かるような気がするんです。よみ先輩が見てきたこと。よみ先輩が傷ついてきたこと。そんなよみ先輩から、私が受け取ってきたものがあるんじゃないかって。私が引き継げることがあるんじゃないかって」
「おお、お前もそう思ってくれるか。俺もお前ならきっとできると信じて――、関谷?」
私は先生の言うことを聞きもせずに踵を返し、職員室の扉の手前まで歩いて行った。そして、振り返る。職員室の全体が見渡せる。河部先生だけがこちらを見ていて、他の人は誰も私に見向きもしていない。
そう、誰もよみ先輩を見ていなかった。誰もがよみ先輩のことを見ているようで、本当には見ていなかった。だから、私は叫ばなければならない。見せつけなければならない。私たちが今、ここにいるってこと。
私は大きく息を吸って、職員室全体に響き渡るように声を出す。
「先生」
職員室にいた先生や生徒たちがこちらを振り向く。何やら不思議そうな顔で、もしくは怪訝な顔でこちらを見ている。
「私は、ずっと自分が何で生きているのか分かりませんでした。何のために生きているのか、私の人生に何の意味があるのか。だから、何も分からないままただ目の前のことだけに心を注いで来ました。そんな私に、よみ先輩は生きる意味を教えてくれました。この世界にも大切なものがあるってこと。失いたくないものがあるってことを」
職員室のみんなが私を見ている。私はもう一度息を吸う。
「でも、それを教えてくれたよみ先輩は死んでしまいました」
私を見ている河部先生の目が大きく見開かれるのが見えた。けれども、私は続けた。
「だから、私も死のうと思います」
がたん、と音を立てて河部先生が立ち上がった。それを見ると、すぐ私は後ろの扉を開け放って職員室を飛び出した。
「待て!」
河部先生が叫ぶ声が聞こえた。私は振り返らずに全力で廊下を走り抜け、階段を駆け上がる。後ろで先生たちが騒ぎ出す声が聞こえる。すれ違う生徒たちは、それを見て「えっ、何?」「何が起こってるの?」と口々に言った。
見せつけければならないのだ。刻み付けなくてはならないのだ、よみ先輩のいなくなった世界に。それが駄目なら、次の瞬間には死んでしまっても構わない。
だんだんと周囲がざわついていくのが分かる。
騒げ。騒げ。もっと騒げ。
雑音の中に、よみ先輩の笑う声が聞こえた。
ライトアップ