僕は多分笑った

僕は多分笑った

よく分からない世界でよく分からない人物が無我夢中に何かに縋ります。多分。

ぼやけた世界


僕の宝物、それは廃墟の地下で見つけた湧き水だ。
僕は目がよく見えない。
道を歩いていたら何かにぶつかって転んだ。立ち上がろうとしたら人に突き飛ばされた。
どこかに落ちた。頭を打った。手は痺れてた。
よくあることだから、そのまま眠ってしまおうと思ってた。

すると匂うじゃないか、水の匂い。僕は目は悪いけど鼻はいいんだ。
手探りで前へ進んでいくと、見つけた。丸く窪んだ箇所から、僅かな水が湧き出ていた。
コンクリートの地面に鉄球が落ちたらしい。割れた地面から溢れる水。
これでもかというくらい両目を見開き、指先に感じる冷たい水の感触を確かめ、僕は多分、笑った。
渡さない。これは絶対、渡さない。



生まれたときから僕の見える世界はぼやけていた。
物心ついた頃には既に僕は地面に這いつくばって生きていた。
手に掴んだものは取り敢えず食べるようにしていた。
枯れた花を頬張り、湿った土を口に含んで水分を補給する。そんな生活が当たり前だった。

一度だけ、両手いっぱいに水を飲んだことがある。優しい友達がこっそり教えてくれたんだ。
僕はあの味を忘れない。そしてあの日も、忘れない。


僕には彼女が全てだった。
彼女は優しかった。僕の手を引いて歩いてくれた。
這うしか脳がなかった僕に、歩き方を教えてくれた。
大人たちは毎日奪い合いを続けている。
自分たちが水を、食料を、居場所を得るために。
僕も同じだ。居場所が欲しくて。生きるために。奪うことしか出来ないのに。
彼女は違う。僕と違う。奪うだけの僕に、何かを与えようとしてくれる。
僕にはない感情。彼女が微笑みかけてくれると、僕は多分笑えた。嬉しくて、嬉しくて。

どうして彼女は優しいんだろう。ああ僕は彼女のために何かしてあげたい。
僕は彼女のお陰で幸せだから、僕は彼女を幸せにしたい。
醜い大人たちの争いが絶えないこの世界で。欲望しかないこの世界で。
彼女はその中にいなかった。
彼女は些細な幸せを楽しむことのできる人間だった。
尊敬した。憧れた。
だから思ったんだ。僕も彼女に幸せを、と。



彼女は僕に優しくしてくれた。ある日僕のために眼鏡をくれた。
「そうだ、身体を拭いてあげるわ」
そう言って彼女は湿った布を持ってきてくれた。
「綺麗にして、眼鏡をかけて、素敵な人になりましょうね」
渡された眼鏡を受け取って、僕は多分笑った。

今日も彼女は僕に幸せを与えてくれる。
彼女は些細な幸せを楽しむことが出来るから。柔らかく微笑むことができるから。
僕もそうなりたい。僕も彼女に幸せを与えたい。
目を閉じる。
彼女が僕に触れる。
僕の顔についた汚れを丁寧に拭き取る。
彼女の手が止まる。
僕は目を開けない。
彼女が息を呑む。
僕は黙って立っている。
彼女がゆっくり、息を吸い込んだ。


「あなた、女の子だったの?」
僕は彼女が何を言っているのか分からない。
「そんな綺麗な顔で、あたしを見ていたの?」
僕は彼女が何を言っているのか分からない。
「目が見えないなんて嘘でしょ?いつもあたしを、嘲笑っていたのね?」
あざわらうって、なんだろう。
彼女は僕を殴った。
僕よりも柔らかくて滑らかな肌の小さな拳で僕を殴った。何度も殴った。
僕よりも綺麗な髪を振り乱して。
僕よりも綺麗な服を着て。
靴を履いて。
僕よりも、醜い顔で。
「嫌い!嫌い!大嫌い!大嫌いよ!いなくなれ!いなくなれ!」
僕は彼女が、何を、言っているのか。



分かったから、黙って出ていった。眼鏡を握りしめたまま。

殴られている間、僕をちょっぴり目を開けた。
ぼやけていたけれど、僕の目の前にあったのは、
僕の知ってる彼女の顔ではなくて、醜い大人たちと同じ顔だった。


僕は大の字になって寝転んだ。
太陽が眩しかった。寝返りを打って背を向けた。
頭がガンガンする。殴られた痛みとは違った痛み。
頭の中を彼女の声が木霊する。
「嫌い!嫌い!大嫌い!大嫌いよ!いなくなれ!いなくなれ!」
彼女は何も悪くない。
僕が悪いんだ。僕が彼女に甘えていたから。
僕が悪いんだ。彼女の気を悪くさせたから。
何が悪かったんだろう。
それが分からないから僕が悪いんだ。
どうして分からないんだろう。
僕は彼女が好きだった。
彼女を醜い大人にしたのは、多分僕だ。
彼女はあんなに優しかったのに。
多分僕が、悪いんだ。



僕は生まれて初めて泣いた。

ぼくのみず



誰も信じれない。
誰も信じれないって思って初めて、ああ僕は彼女を信じていたんだなって気付いた。
僕は知らないことが多すぎる。
だから嫌われた。
だからいなくなれって言われた。
僕はこの水を守る。
いつか彼女にまた会える日まで。
僕は彼女が好きだから、僕は彼女に幸せを与えたい。
髪を結んでいた紐を解いて、眼鏡を首から下げた。
僕が最初に見るものは、彼女の笑顔がいい。



2年経った。あれから2年経った。
僕は変わった。強くなった。
誰にも負けない人間になった。
剣を振り回して人を斬る強い人間になった。
斬る、斬る、斬る。
噴き出る煙に鼻の奥がくらくらする。
食料を手に入れたら廃墟の地下に戻る。
水はまだ残っている。
僕は今でも彼女を想っている。
大切な大切な大切な彼女を。
いつか会えると信じている彼女に思いを馳せて、僕は多分、笑った。

最近街の空気が悪い。嫌な臭いがする。吸いすぎるとくらくらする。
街中に充満しているこの淀んだ空気のせいで、人間は地下に逃げ始めていた。
僕は目を光らせていた。

炎が降ってきた。
空から炎が降ってきた。
廃墟が崩れる。
人々が逃げ惑う。

僕はあの水の場所へ走った。
よかった、誰もいない。
何も崩れていない。
ただ熱い。
なんで熱いんだろう。
喉が渇いた。
そうだ水を飲もう。
美味しい水。
僕の宝物。
胸元で眼鏡がカチャリと音を立てた。

「ぼくの、みず」



僕の水がなかった。



剣を振り上げる。
振り下ろす。
振り上げる。
振り下ろす。
コンクリートの割れ目に向かって。
何度も何度も振り下ろす。
剣が折れた。
両手を差し込む。
コンクリートがめくれた。
爪が剥がれた。
土が現れた。
必死に掘る。
土を掘る。
爪が剥がれた。
土を掘る。
心臓は驚くほど早く動いている。
心臓だけじゃない。
身体全部が脈を打っている。
全身が心臓になったみたいだ。

水、水、水がない。
僕の水。
きっとある。
ほら土が湿ってる。
このまま掘れば。
きっとある。
僕の希望。
ほら何か、何かあるぞ。
土が柔らかくなってきた。
手の感覚が消えた。
頭を突っ込んで打ち付ける。
目の中に土が入ってもコンクリートの破片を飲み込んでも。
僕は頭を打ち付け続けた。


穴が空いた。

風が吹き出す。
綺麗な空気が肺を満たす。
僕は笑っているのかよく分からない声をあげて、ぐりぐりと顔を突っ込んだ。
なんとも言えない達成感で満たされていた。

僕は見た。
真っ青な空を。
白い雲を。
生い茂る木々を。
色鮮やかな花々を。
黒い箱を。
黒い箱を。

僕の首から下が埋まっている場所、そこは黒い、箱だった。
まるで箱の端に小さな穴が空いて、そこから蟻が顔を出しているような。
僕がその蟻のようだ。
いや、そもそも僕は、蟻を知らない。
僕は人間という生物以外の生きている物体を見たことがない。
僕は生まれてから一度も人間しか見たことがない。
僕は生まれてから、一度も僕を認識したことがない。


「ああ、脱獄者だ」
空が言った。
僕は引き抜かれた。
その箱から。
そして箱の表側へ運ばれた。
僕の世界が広がっていた。
「炎を入れるのは飽きたな」
「この前みたいにパチンコ玉を流し込もうぜ」
「芸がないな」
「水が欲しいようだからヤカンで注げばいいさ」
「その前に人数を減らさないと」
大きな手が、箱から何かを取り上げた。
「そーれ切って焼いて加工して逆戻り」
「知らないとは言えこんなものよく食べてるわよね」
僕は震えた。頭の中で警鐘が鳴っている。
なんだ?僕は今、眼鏡をかけなければいけない。
「ばーらばらばら。さーたんとお食べ」
「ほら、ヤカン沸かせて」
まな板の上に、彼女がいた。
息をしていない、彼女がいた。


僕は、腹の底から、笑った。


気がついたら地面に横たわっていた。
血は出ない。
そう、僕らは血が出ない。
僕はただ生きることだけを考えていればよかったのかもしれない。
当たり前の日常に浸かっていればよかったのかもしれない。
必死に生きていても無駄だとか、生きる意味なんてあるのかとか。
そんなこと感じたことはなかったけれども。

世界の仕組みを見てしまった。
見なきゃよかった。
焦がれなきゃよかった。
求めなければよかった。
人を好きに、ならなければよかった。
僕らは無意味な世界でおもちゃとして生かされているだけなのだから。

いや、そんなことないさ。
僕は生きていてよかったよ。
人の優しさを知って、人の悲しみを知って、何かに夢中になって、希望を持って。
それで、よかったんだ。
それで、満足だ。
僕はもう満足だ。
それより喉が渇いた。
水、水が欲しい。
僕が水を欲しがるのって。
そうか、僕は知っていたのか。
だって僕は、涙を流すことが、できる人間じゃないか。


翌日、熱い雨が廃墟に降り注いだ。
僕は多分、笑った。


ーENDー

僕は多分笑った

僕は多分笑った

ぼく、と最初に口にしたのはいつだっただろう。 足は歩くためのものだと知ったのはいつだっただろう。 優しさに気付いたのはいつだろう。 切なさを感じたのはいつだろう。 希望を抱いたのは、そう、僕がそれを信じたから。 信じることを、教えてくれた人が、いたから。 僕の存在理由は、多分。

  • 小説
  • 短編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-12-16

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. ぼやけた世界
  2. ぼくのみず