天上音楽

第Ⅰ楽章 起・漆黒の(くろい)柱

     1
*私たちが暮らすこの世界は、どうやって生じたのでしょう?

 万物は全て「宇宙の(たね)」と称される「(くう)のエネルギー」が「無」に(あらわ)れたことによって膨発し、様々な物質に変化して誕生しました。その変化には(ことわり)があり、其の(ことわり)(のっと)って宇宙(コスモ)エネルギーを淀み無く廻す役割を担った存在も(あらわ)れました――。

 アレンネル、()の者は「生命(いのち)の樹」の管理を(まか)されたケルビム族に属する者の一人で、アレンネルの役割は生命(いのち)の樹に実る「魂の(たね)」を可視化(スキャン)し、魂の深度に見合った「生命(いのち)(うつわ)」に()り分ける事でした――。*

「アレン。ガラドリエル様が僕ら二人をお呼びだ」

「‥‥」

 査問委員会の一員であるケルビムのエルランディエル、敬称エルロンド卿の相談役であるガラドリエルからの呼び出しに、アレンは無垢な瞳を向けて返した。そして小さな溜息を一つ吐き出して、「ナキ‥‥。お前は一体何をしでかしたんだ?」とちょっと不服そうに抗議した。

「それはこっちの台詞だ!」

 アレンと同期で親しい間柄にあるナキは憤慨したように応えた。

*ナキエル、彼の役割は選別された魂を聖櫃(アーク)にきちんと定着させる事でした。職務に就いてまだ暦数の浅い彼らが扱える魂は、同じように錬度の未熟な(オーヴ)に限られていました。そんな中、アレンは視る(スキャン)能力を買われ、ナキたち同期よりも難しい作業に従事していました。

 魂の純度に見合った聖櫃(アーク)に納めないとその肉体は共鳴・共震出来ず、その生命(いのち)は不幸な末路を辿ります。

 ナキはそんな重大な職務を(まか)されている友を誇りに思っていました。其の事をアレン自身に伝えたことは無いけれど‥‥。*

「‥‥、俺は身に覚えが無い‥‥」

 アレンは真摯にぽつり吐露した。

「俺だって無いさっ」

 ナキも真剣に応戦する。

「‥‥‥‥」

「‥‥‥‥」

 二人、(しば)し睨み合いで互いを牽制していたが、諦めたように同時に嘆息し、(ようや)く謁見室に向かうことになった――。




 木の温もりを感じさせる重厚な扉が二人の前に聳え立っていた。

「‥‥」

 見上げた先は遥か彼方、それは壁と言っても過言ではなかった。そしてそれは翼を持つ者でさえ越えられるものではなかった。

 物質世界とは違う(ことわり)の中に()るこの世界では、眼に映る全てが見せ掛け(ホログラム)で出来ている。

 ギイイィィ――。古い木が軋む、それらしい音を響かせて、扉が内側に(ひら)いていった。

「‥‥」

「‥‥」

 顔を見合わせ、二人並んで歩を進める。中は仄暗い光が上の方から射していて、眼前に白亜の大理石が光沢を放っていた。其れは巨像の足の部分で、上から良く響く重低音の声が落ちて来た。

「アレンネル」

「‥‥っはい!」

 アレンは返事と同時に顔を上げたが、巨像の顔は見えなかった。

「‥‥、ナキエル」

 アレンの返事を受け、声は明らかにナキの方へと落ちて来た。

「‥‥はい」

 ナキに至っては視線が重く伸し掛かり、顔を上げることすら出来なかった。

「‥‥そなた(たち)に尋ねたい儀がある」

「‥‥」

 意識が()れたように感じ、ナキもそろそろと顔を上げた。

「まだ断定は出来ないのだが、何やら魂の(たね)がいくつか喪失しているらしいのだ」

「‥‥っえ!?」

 ナキは顔を曇らせ、思わず驚嘆の声を漏らした。

「‥‥それで(みな)に事情を聴いておる」

「‥‥ッガラドリエル様、直々に‥‥?」

 ナキは違和を感じ、思わず聞き返していた。

左様(さよう)

 その言葉と共にガラドリエルの顔が降りて来て、二人の視界一面が硬質な巨像の顔になった。無表情な白い顔からは何も読み取れない。

()られている‥‥)

 その白い(まなこ)の中に極彩色(ごくさいしき)宇宙(うづ)が見え、自身を構成する粒子一つ一つを引き延ばされている感覚に陥った。

「‥‥」

 ナキは其の一瞬の中に永劫を見、ナキの中に()るアレンとの記憶を探られているのだと悟った。

「‥‥ッアレン!?」

 隣で膝を折る友の姿にナキは思わず駆け寄った。蒼白な顔で、肩で息を()いている。

「もう分かった。二人共、下がりなさい」

 そう告げるとガラドリエルは席を立った。

「‥‥っ待って下さいっ! アレンに何をしたんですか?」

 圧倒的な力量の差を見せられたナキではあるが、それでもこの不当な扱いに声を挙げた。

「‥‥何も。胸襟をひらかなかったアレンネルはそれなりの対価を支払ったのだ。私はアレンネルが散り()りにならぬよう加減した」

 振り返って、ナキの質問に真摯に答える姿勢を見せるが、其の声音は明らかに憤慨していた。

「‥‥」

 去り行く雲上人に、ナキは(おのれ)如何(いか)にちっぽけな存在であるか、まざまざと突き付けられ、どうしようもない虚無感に襲われながら、苦しむ友を(かか)え、一歩も動けず途方に暮れてしまった――。




「‥‥動き辛そうだな、ガルド」

 う()を踏んでいるように巨体を持て余している友の姿を目にして、エルロンド卿は呆れたように声を掛けた。

「‥‥、全くだ」

 溜息混じりに呟いて、ガラドリエルは巨像の姿を解いた。

「見栄っ張りにも(ほど)がある」

 背中の翅をひらひらさせて卿の肩に落ち着いたガルドに、エルランディエルは苦笑した。

「この姿じゃ、舐められるだろ」

 エルロンドが差し伸べた(てのひら)に腰掛け、六本足の全てを組んでガルドはプイと顔を背けた。エルロンド卿に(つか)えるガラドリエルは変化(へんげ)自在ではあるが、主に(イナゴ)の姿で(そば)()た。

「‥‥それで、ガルドの見解は?」

 不遜な態度を意にも介さず、にこにこと微笑みを浮かべたままエルロンドは尋ねた。

「‥‥。あれは黒だ。アレンネルは私の侵蝕(スキャン)を跳ね返して、逆に私を覗き視ようとしていた」

「‥‥」

「あのまま放って置くとエネルギーの均衡が崩れるかもしれない‥‥」

 ガルドはエルロンドの()を見て告げた。

大食(ホール)‥‥か?」

「恐らく」

「‥‥‥‥」

「‥‥‥‥」

 エルロンドは未曾有の事態に深く息を()き、「ヒストリエル様とゼキエル様に進言しに行かねばならない」と顔を上げて決意表明した。

「それが賢明だ」

 ガルドは同意すると今度はエルロンドの頭に巻き付き、金輪(リング)(かたど)った。エルロンドの銀糸のような真っ直ぐな髪に金の(リング)がピタリと収まった。

 エルランディエル同様、査問委員である二人は最高位グループであるセラフィムに属する。(こと)に当たって上司にお伺いを立てるのは何処の世界も同じである。

(これは‥‥、我々の存在自体を脅かす戦いになるかもしれない‥‥)

 湧き起こる不安を抑える為、エルロンドは無意識に額の金輪(リング)に触れ、セラフィムとの謁見の場で二人が次元を下げて(あらわ)れるのを待った――。




生命(いのち)の樹に実る魂の(たね)は源初の光そのもの。熟れた果実は(てのひら)を添えるだけで落ちてきます。その純粋なエネルギーを万物は内包しているのです。*

(美しい‥‥)

 可視化(スキャン)作業中のアレンネルは内なる輝きを覗き、見()れてしまうのが(つね)だった。

 乳白色の(なか)に虹色の光の帯が光彩を放ちながら(うごめ)いている‥‥。

(喰イタイ‥‥)

「‥‥っ」

 誰かの声にアレンネルは作業の手を止めた。

(オーブ)ヲ喰イタイ‥‥)

「‥‥っ!?」

 アレンは思わず振り返った。しかし、誰もいない。

(喰エ、喰エ、ソレヲ喰ッテシマエ!!)

「アレン‥‥ッ、アレンッ!?」

 直ぐ隣で自分を呼ぶ友の声に、アレンは我に返った。

「あっ‥‥」

 ゆっくりと声のした方に振り返り、心配する友の顔にぶつかった。

「あっ、あっ‥‥」

 嫌々と(かぶり)を振るが、アレンは自覚した。

「アレン‥‥?」

 驚愕に見開かれたアレンの瞳に、戸惑った表情(かお)のナキ自身が映っている。

「ナキ‥‥(ご免‥‥)」

「えっ‥‥!?」

 アレンが発した最期の言葉をナキは聞き取ることが出来なかった。次の瞬間、アレンの双眸は輝きを失い、アレンを中心に空気が渦を巻き出した。

「‥‥っ!?」

 その渦に弾き飛ばされたナキエルは友が変化(へんげ)してゆく(さま)を只々呆然と見つめていた。

 アレンの眼窩、口腔、外耳道からコール・タールのような(おり)が突出し、その(けが)れに触れそうになった瞬間、ナキエルの体躯(からだ)は上空に引き上げられた。


     2
 エルランディエルは、まるで鬼の相貌をした、(つい)()す風神・雷神像の姿で(あらわ)れた高位二人の取り留めの無い会話に辟易していた。

「直ぐにパワーズの戦士たちを召集しよう」

「勿論スローンズも必要であろう」

「では委員のイヴィエル(パワー族)とダルタニエル(スローン族)に先駆けするか?」

「誰を遣わす?」

「‥‥、やはり委員会を招集するか?」

「其れが手っ取り早いか?」

「しかし、急な呼び出しに、どれだけの者が応じられるか‥‥」

(緊急事態ですよ‥‥、恐らく‥‥)

 先刻から目の前で一向に話が(まと)まらない上司二人の会話に、ガラドリエルまで金輪(リング)の姿を解いて、エルランディエルの肩口でその動向を(はや)る気持ちで見上げていた。

(こと)最早(もはや)一刻の猶予も無いのでは?」

(其の通りだと思います)

「やはり先駆けを遣わそう」

「誰が適任だ?」

 思わずケルビムが名乗りを挙げようとしたその瞬間(とき)、圧倒的な波動(パワー)を放ちながら上空から降臨した光。驚いたガラドリエルは変化(へんげ)が間に合わず、蛇の姿でエルランディエルの首に巻き付いた。そのエルランディエルも源初の光を受け、子供の姿に還されてしまった。

「‥‥、全くお前たちは堂々巡りの会話を()えて選んでおるのか?」

 掌珠のように掬われた二人もまた(つい)()す狛犬に還された。

「私の遣いを(はし)らせたから、(すで)(みな)に周知されておる。ケルビムの謁見の()に私が結界を張ったから、このまま封じ込められると良いのだが‥‥」

 光の姿形(すがたかたち)を捕らえることは叶わないが、その絶対的な存在で誰しもが悟る。最高位セラフィム族に()いて最上位、(ことわり)さえ創り変える存在。

「リュシフェル様っっ!!」

 (みな)一様(いちよう)に驚嘆し、そして平伏(ひれふ)した。




 後ろから両脇を抱えられた状態で、ナキエルは上空に引き上げられた。

「――っ」

 上空には、(すで)に控えていたのかと思わざるを得ない(ほど)の数多の戦士たちが、それはもう階級に関係なく大挙していた。

「‥‥っ、離して下さいっ!!」

 本来なら助けてくれた相手に感謝すべきところだが、事態を把握出来ない状況で拘束され、思わず反発するような言葉を浴びせた。

「お前の拘束を解くわけにはいかない」

 後ろから返ってきた言葉は、興奮したナキエルに水を浴びせるが(ごと)く冷たかった。羽交い絞めにされた状態で、ナキエルは唯一動かせる首を(ひね)って相手の顔を拝んだ。

 其処には驚くほど静謐な瞳があった。漆黒の髪と同じ瞳。その瞳に不安に(おび)えるナキエル自身が映っていた。光を湛えたような(まばゆ)い髪が多い仲間の中で、漆黒の髪を見たのは初めてだった。

「カラス、子供相手に手荒な真似はするなよ」

 ふわりと(あらわ)れた金髪碧眼に黒装束。手には大きな鎌を振り(かざ)している。

(‥‥、こいつら運び屋か‥‥って(こと)はヴァーチューズ? 上級三級の者に対してこの扱いは無礼じゃないか?)

「‥‥子供だと思って舐めてると、あァなる」

 手を緩める気(など)一切無く、そう返すとカラスはチラリと目線を下に送った。

 眼下では(けが)れに取り込まれた戦士たちもいて、(おり)はそうして増幅しているように見えた。

「‥‥あれが、大食(ホール)

「‥‥このままだと、(ゲート)(ひら)いちまう‥‥」

「‥‥」

 カラスの懸念にハビエルは戸惑った。

「‥‥っ待って下さいっ!! アレンは一体どうなってしまったのですかっ?」

 カラスの発言にナキエルの理解が全く追い付かず、思わず声を挙げてしまった。

 カラスは一瞬逡巡し、「‥‥お前の知るアレンはもういない」と残酷な事実を抑揚の無い声で告げた。

「エネルギーを過剰に取り込んで、醜く肥え太った豚に成り下がった」

「‥‥そんな、アレンに限ってそんな事‥‥」

 ナキエルの一縷(いちる)の望みを嘲笑(あざわら)うかのように、醜悪な塊は触手を伸ばし、全てを吞み込もうとしていた。

「‥‥このままじゃ結界が破られるぞ。‥‥ったく、アイツ半端な仕事しやがって‥‥」

(‥‥。最上級の存在をアイツ呼ばわり。俺は知らねェ。絶対聞こえてると思うが‥‥、俺は言ってもねェし、思ってもねェぞ)

 カラスの暴言にハビエルは一人青ざめた。

 その瞬間(とき)――、再び光が(あらわ)れた。

「‥‥っ!?」

 光の波動を受け、(けが)れの中心に空間が拡がり、アレンネルの姿が(おり)から引き剝がされた。

「アレンッッ!!」

 ナキエルの悲痛な叫びに、カラスは思わず躊躇(ためら)った。その一瞬の(すき)が、ナキエルに拘束を解くチャンスを与えた。そしてそのままアレンネルに向かって降下してゆく。

「‥‥アレン」

 動きを止めた(おり)()けてアレンネルの前に降り立つ。翠玉が入っていた眼窩は今や漆黒の(うろ)になっている。

「アレン‥‥、もう()めてくれ。僕がずっとお前の(そば)()るから‥‥」

 ナキエルは苦悶を(にじ)ませ、アレンネルを固く抱き締めた。

(‥‥)

 アレンが一瞬ヒクリと顔を痙攣させ、眼窩からピリピリと小さな黒い火花(スパーク)が這うようにナキエルを侵蝕してゆく。放電する黒い影は身を焦がすように熱く、と同時に刺すように冷たくも感じた。

(君の苦しみや悲しみを僕も引き受ける‥‥)

(――)

 その刹那、(おり)は中心から結晶化し始めた。影のように捉え所の無かった性状が変化し、金属光沢を帯びた漆黒の柱と化した。

《‥‥このままこの空間ごと封印する。(みな)、退避してくれ》

 光から響く指示に各々(おのおの)瞬時従った。こうして結晶化した大食(ブラック・ホール)の処遇について査問委員会は決議に至らなかった。(ごう)を煮やしたリュシフェルは、十二人の査問委員の合議を待たずに大食(ホール)と共に闇に下る決断をした――。

「カラスエル。君は『陽中の(いん)』の存在だ。私と共に降下して、そなたの秘めた能力(ちから)を存分に発揮してもらいたい」

 最上位に毒舌をふるったカラスに対してリュシフェルは()くまで真摯的な態度で声を掛けた。青鈍(あおにび)色の髪は光を纏った姿からは想像出来ない。

「‥‥、私は貴方(あなた)様の期待に応えられるような者ではございません。今の務めを(まっと)うする事で精一杯なのです」

 次元を下げて姿を見せてくれたリュシフェルに対し、カラスは(かたく)なに辞意を示した。

 一方、リュシフェルはカラスの選択を予期していたかのように、恐縮するカラスを楽しげに眺め、(‥‥(タヌキ)め‥‥)「では、お前の選んだ道に祝福を与えよう」そう告げるとカラスの額にキスを落とした。

 少年の姿に還されたカラスは大きな瞳を真ん丸くして光の驚異を呆然と見上げていた。

「‥‥お前がそんなに俺たちの仕事に誇りを持っているとは思わなかった‥‥」

 同じく少年の姿に還されたハビエルがカラスの隣にやって来て、ぽつり呟いた。


     3
 漆黒の柱はいつしか「腐敗の樹」と呼ばれるようになった。何故なら黒い果実(オーヴ)をたわわに実らせたからだ。根を伸ばすように、どろりとした「暗黒の淵(ダーク・マター)」を生じ、まるで生命(いのち)の樹と(つい)()すようであった。

 リュシフェルは柱を中心に(きょ)を構え、「柱の()」と呼ばれるその空間に、天幕で囲った寝台を置き、其処から離れることは無かった。

 共に堕天した仲間もインフラを整備し、新たな街が拡がっていた。

 しかし、大食(ホール)の影響なのか、土地は荒廃し、その閉じた空間に居る者たちまで異形に変えた。その中でリュシフェルだけが光を失わずにいた。

(‥‥退屈だ)

 熟れた果実はその重さで自然落下し淵に還る。その繰り返しを眺めながら、リュシフェルは(おもむろ)にその一つに手を伸ばした。

「‥‥っ!?」

 その瞬間、(オーヴ)は変化し、リュシフェルとよく似た少年の姿になった。だがその眼差しはアレンネルを彷彿とさせる。

貴方(アナタ)ガ私ノ始マリデスカ‥‥?》

 頭に直接響く声。

「‥‥」

 リュシフェルは唇を真一文字に引っ張ったまま渋々小さく小刻みに首を縦に振った。

 その瞬間、少年の表情(かお)がゆるりと安堵したようで、ふわりと華やいで見えた。そしてその(かす)かな変化をリュシフェルは美しいと感じた。

(‥‥、(まい)ったな‥‥)




「ルシファ――――♪」

 子供の(はず)んだ声が「柱の(やかた)」に響き渡る。

(‥‥‥‥)

 リュシフェルはいつもの(ごと)く寝そべって(くつろ)いでいた。その天幕を無遠慮に開け、「ルシファ!! とても綺麗な蝶を捕まえた!」と鼻息荒く瞳を輝かせ飛び込んで来た。

 しかし、「ほら」と自慢()に小さな手を広げると、其処には焦げ(かす)のような残骸だけが残っていた。

「‥‥、大丈夫だよ。サタン」

 そう()げるとリュシフェルはサタンの手をそっと包み込んだ。

(‥‥、やっぱり綺麗だ‥‥)

 (たなごころ)を見通すような清んだ銀青色の瞳を前にして、サタンはどぎまぎしていた。そうして再び手を開くと、「わァ――」青い蝶がひらひら二人の手の中から飛び立った。

 リュシフェルは黒い(オーヴ)から生じた存在を「サタム=ダ=ラク(闇より生まれし子)」と呼んだ。

 サタンは柱の()から一歩も出ないリュシフェルの為、(やかた)の庭に広がる自然の造形をせっせと運んだ。

 しかし、サタンが触れたものはやはり全てが灰に()する。気落ちするサタンに、同じく「大丈夫だよ、サタン」と言って、リュシフェルはサタンの額に自身の額を付き合わせた。

「‥‥、こうすればお前の見た景色が私にも見える」

 そう()げて額を離すと、「有難う、サタン」とサタンの瞳を見て微笑んだ。

「‥‥はいっ!」

 サタンは満足()に胸を張って(こた)えた。

 
 

 

第Ⅱ楽章 承・穢(けが)れの子

     1
「浄化の炎」を管理するパワー族の査問委員として、イヴィエルは一足飛びの越権行為にじりじりと固唾を飲んである(かた)を待っていた。

(‥‥下位に近い我々の話などに耳を傾けて貰えるだろうか‥‥。だが、委員会の決議など待ってはおれぬ‥‥)

 片膝を付いて(こうべ)()れる姿勢で、イヴィエルは委員会の合議を待たずに闇堕ちしたリュシフェルを思った。

「イヴィ‥‥。そなたの苦悶の表情は(われ)の心を搔き乱し、と同時に酷くそそられる‥‥」

 人差し指で顎をくいと持ち上げられ、待ち人である精悍な面差しが直ぐ目の前に迫っていた。柔らかで豊かな金髪が肩にふわりと乗っかっている。

「カスティエル様‥‥」

 (あらわ)れたことに安堵し、イヴィエルの紫水晶(アメジスト)の瞳が(かす)かに揺らめいた――。

「‥‥それで、イヴィが内密に話したい儀とは‥‥、到頭私は愛の告白を聞かせて貰えるのかな?」

 端正な顔立ちを嬉しそうにくしゃっと歪めた(さま)は、まるで幼子(おさなご)のような無垢な愛らしさを宿していた。

 薔薇(バラ)園の中のサロンにアフタヌーンティーまで用意し、カスティエルが一瞬にして創った結界(テリトリー)にイヴィエルは辟易した。

(ウザい‥‥)

 リュシフェルと肩を並べる実力者で()りながら、相手の足許を見るような高位グループに有り勝ちな性質(タチ)をイヴィエルは好ましく思っていなかった。

「これを‥‥、()て頂きたいのです」

 従ってカスティエルのふざけた秋波に完全無視を決め込んで、イヴィエルは(てのひら)から黒い石を出現させ、それをテーブルに置いた。

「ほォ‥‥」

 カスティエルは黒曜石のようなそれを手に取ってまじまじと観察した。鮮やかな碧眼は好奇に爛々(らんらん)と輝いている。

「‥‥それで?」

 カスティエルは全てを承知した上で楽しそうに先を促した。

「‥‥っ、リュシフェル様に取り次ぎをお願いしたいのです」

「‥‥ふむ」

 カスティエルは何か考え事をするようにあさってに目を向けた。その瞬間、イヴィエルは再び眩暈に襲われ、「――」次に眼を開けた時には薔薇(バラ)園は消え去り、眼前に漆黒の柱が聳え立っていた。

「‥‥」

 その奥で、天幕の掛かった寝台に腰掛けたリュシフェルが幼子(おさなご)と額を付き合わせている。

(あんな風に微笑む(かた)だったのか‥‥)

 光を纏った以前の姿では表情を窺い知ることが出来なかったが、今目の前で穏やかに微笑んでいるリュシフェルをイヴィエルは新鮮な心持ちで眺めた。

「何だ、リュー。いつの間に子を(こしら)えたんだ?」

 空気を読まないカスティエルが不躾な質問を投げ掛ける。

「‥‥っ!!」

 こちらに気付いたリュシフェルは羞恥に頬を染めた。

「キャス‥‥。来るなら先に(しら)せろ」

「子守りに夢中で、結界が隙だらけになっているんじゃないか?」

「――」

 何を言っても()が悪いことを悟ったリュシフェルは黙秘した。サタンはリュシフェルの足下にしがみついて、突然の侵入者(ビジター)に警戒心を露わにしている。

 リュシフェルはサタンを落ち着かせるように優しく頭を撫でながら、カスティエルの傍らに佇む、パワー族特有の赤銅色の髪をした人物を注視した。

「‥‥イヴィエル。そなた、ここに何を持ち込んだのだ?」

 リュシフェルの千里眼は健在であった。




「浄化の炎で消し去れなかった(ごう)が顕在化するようになりました」

 三人は円卓を囲み、サタンは丸椅子に座ったリュシフェルの腰に(まと)わり付き、離れようとしなかった。

「‥‥」

 カスティエルの興味は(すで)に石コロよりもリュシフェルに(なつ)く「(けが)れの子」の、柱と同じ(くろ)い頭に(そそ)がれていた。

「――」

 喰い殺さんばかりにじっとりと覗き込んでくる大柄な男に、サタンは精一杯不遜な表情(かお)(つくろ)ってはいたが、リュシフェルがゆったりと羽織った袈裟(けさ)に皺が寄る(ほど)、力強く握り締めていた。リュシフェルはそんなサタンをあやすようにそっと背中に手を回した。

「ふン‥‥」

 カスティエル同様、リュシフェルもその石の破片(かけら)を手に取ってまじまじと眺めた。そして(おもむろ)に両掌で優しく包み込む。しかし、その物性を変化させることは出来なかった。

「――」

 その一連の流れを眺めていたサタンが唐突にその破片(かけら)をリュシフェルの掌から奪い取った。そしてリュシフェルの真似事をするように両掌に包み込む。するとその黒い破片(かけら)が今度は形態(かたち)を変え、ひらひらと舞う蝶の姿になった。

「――っ」

 三人はその光景に絶句した。その中で幼いサタンだけが無邪気に興奮していた。

 サタンが生み出した、影のような其れはひらひらと暫く飛んで、蜻蛉のように儚く消えた。

「サタム=ダ=ラク。この黒い石を美しいものに変えてくれるかい?」

 リュシフェルは言挙(ことあ)げの覚悟を決めた。

「‥‥っはい!!」

 リュシフェルのこの依頼はサタンにとって承認欲求が満たされた唯一の出来事だった。従って(はじ)けるような笑顔を向け、元気一杯の了承しか選択に無かった。


     2
()られている‥‥)

 全ての記録が保管された空間、通称「記憶の城」の管理を(まか)されているドミニオン族の司書官スナイデルは、鏡の結界で仕切られた一方で、鏡像の関係にあるサタム=ダ=ラクの視線を痛いほど感じていた。

 浄化しきれなかった(けが)れを柱の(やかた)で引き受ける代わりに、リュシフェルはサタム=ダ=ラクに記憶の城を利用させる条件を提示した。

 記憶の城は未分化の学生も利用する図書館の(てい)(ゆう)している為、()して(まじ)わらないよう利用時間も厳重に管理された。

(リュシフェル様は一体どういうおつもりなのか‥‥)

 リュシフェルと同じ千里眼の瞳をスナイデルは真っ直ぐ見返した。

 その時、ひらひらと舞う蝶が鏡に映り込んだ。収蔵品全てに付与された呪印(じゅいん)の一種の姿(あらわし)だ。キラキラと虹色に光る鱗粉を撒き散らしながら二人の間を横切った。

「‥‥っ!?」

 こちらで飛び交う蝶をサタム=ダ=ラクは鏡の向こうで捕まえた。(てのひら)に握り込まれた其れは灰となって消えた。

(浄化出来ない(ごう)をも灰に還すというのは(まこと)なんだな‥‥)

 スナイデルは悠長にその(さま)を眺めていたが、サタム=ダ=ラクの()がこちらに伸びて、思わず後ずさった。その咄嗟の行動に、サタム=ダ=ラクは少年らしからぬ(さま)で、ゆったりと表情(かお)を歪めた。その(わら)いは漠然とスナイデルに得体の知れない恐怖を与えた‥‥。



(まるで肥溜(こえだ)めのようだな‥‥)

 柱の()には着々と黒い(かたま)りが蓄積されつつあった。

 リュシフェルの言い付け通り、サタム=ダ=ラクは黒い石を様々な昆虫に変え、その動力を()って昇華させていった。それでも「蝶の(やかた)」と通称が変わる(ほど)に大量の蝶が乱舞していた。

 その頃からサタンは記憶の城か柱の()か、その二箇所を行き来するのみになった。いつしか、リュシフェルの寝台に潜り込んで一緒に休むようになり、リュシフェルも自身が依頼したこと(ゆえ)、サタンの好きにさせた。

 リュシフェルに肥溜(こえだ)めと称された黒い(かたま)りは、腐敗の樹の影響か、かつての大食(ホール)のように侵蝕が可能に変化していった。

 形態変化を獲得した(ごう)は二人が眠る寝台へとその触手を伸ばす。

 その瞬間(とき)。サタンが右()(かざ)し、緋色に染まった()で制した。

 まるで意識が有るように触手が引き下がったところで、リュシフェルが目を覚ました。

「‥‥サタン? どうした? ‥‥、怖い夢でも見たか?」

「‥‥」

 見当違いの優しい言葉に、サタンは(かす)かに口許を緩めると、「‥‥うん」と(こた)えて甘えるように抱き付いた。

 リュシフェルはまるで幼子(おさなご)に戻ったような振る舞いをするサタンの頭を優しく撫でてやった。

 その()、サタンは「地上の世界に行きたい」とリュシフェルに願い出た――。



「‥‥カラス? 珍しいな。君が図書館を訪れるなんて‥‥。‥‥、何か調べものか?」

 スナイデルの自室に、突然ふわりと(あらわ)れた級友に、藍鼠(あいねず)色の髪から瑠璃の瞳を覗かせて尋ねた。

「‥‥、スタイは(けが)れの子を見たか?」

 同じく暗色系の髪をしているカラスは、そういった者に特有の表情の無い面差しで、質問に質問で返した。

「‥‥、見た。けれどあちらも鏡の結界などものともせず、こちらを見通していた‥‥」

 こうして改めて言葉にすると、あの時感じた薄ら寒さが甦った。

「――」

 実直な友人の動揺を感じ取ったように、漆黒の瞳が深い眼差しを向けた。その時。

「茶話会なら俺も()ぜてくれ」

 神妙な部屋の雰囲気を破る明るい口調でもう一人珍客が(あらわ)れた。

「‥‥、ハビエル」

 二人の言葉が重なった。二人とは対照的な金髪碧眼のキラキラした男が乱入し、本当に同窓会と(あい)なった。


     3
*サタム=ダ=ラクが地上の世界に顕現した当時、人間社会は自然の(ことわり)に気付き、それを利用することで栄え、都市国家を形成するまでに至っておりました。

 しかし、生まれたての未熟な社会は(おの)(うつわ)を量り兼ね、世界を支配出来ると傲慢な考えに(かたよ)り、隷属する人々とを区別しました。

 サタム=ダ=ラクが訪れた、この一見賑やかな商業都市バルサは、富と権力、尽きることの無い欲望と嫉妬渦巻く混沌(カオス)な街でした――。*

(ボン)、触れてはいけませんよ」

 色鮮やかな食材、精緻な織物・工芸品が所狭しと並び、市場(マーケット)は活気に満ちていた。初めて見るもの、何より存在の匂いに高揚するサタンを(たしな)めるように、案内人(ガイド)のトラウデルが声を掛けた。

 リュシフェルと共に堕天した元・ヴァーチューズの運び屋であったトラウデルはお目付け役でもある。

「分かってますよ、兄さん(・・・)。それに、ほら‥‥」と手袋をした自身の掌を見せ、「父様(・・)(こしら)えてくれたから、安心でしょう?」と嬉しそうにニカッと笑った。

「‥‥」

 対照的に曖昧な笑みを浮かべたトラウデルは、あどけない振る舞いをする穢れの子をどうしたって信用出来なかった。リュシフェルが何故この得体の知れない存在に自由を与えるのか、その理由を尋ねても困ったように微笑むだけで‥‥。

(あの(かた)にあんな表情(かお)をさせたい訳じゃないのに‥‥)

「‥‥っ!?」

 トラウデルはその瞬間、我が目を疑った。意識がリュシフェルに移った一瞬の(すき)を突いて、サタンはトラウデルの視界(テリトリー)から忽然と姿を消した。

(‥‥くそっっ!! やっぱりアイツは信用ならねェ‥‥!)

 自身の失態に悪態を()くも、その表情(かお)は見る見る青冷めていった。

(俺はどうすれば良い‥‥?)

 計画的とさえ思える出奔に対し、トラウデルは何の手立ても講じられず、市場(マーケット)の喧騒さえ届いていなかった――。



 寝台でいつものように寝そべっていたリュシフェルがゆっくりと瞼を上げた。

(トラウデルが困っている‥‥)

 地上の世界で何かトラブルが起きたことを察知したリュシフェルは、上体(からだ)を起こし、伏し目勝ちに、長い睫の影に隠れた眼球だけをキョロキョロと左右に振動させた――。



 サタム=ダ=ラクが向かったのは、人間社会の片隅にひっそりと存在する堕天使たち(グリゴリ)の巣窟だった。

《ここを取り仕切っている(ヤツ)と話がしたい》

 サタンは広く響き渡るよう念話(テレパス)を用いた。だが、好意的な返事は一切無く、鴨にしか見えない少年を侮って失笑ばかりが聞こえてきた。

 グリゴリの巣窟とはいえ、先程まで見物に勤しんでいたバルサの街と何ら遜色の無い造りで、しかし、注視すると境界特有の交じり合った雑多な様相を呈していた。

 サタンは埒が明かないと踏んで、リュシフェルが用意した手袋を躊躇(ためらい)無く外した。そして片膝を付いて両掌を地に付けた。すると其処から暗黒面(ダーク・マター)が顔を出し、街を侵蝕していった。

 サタンの(てのひら)から拡がる暗黒の淵(ダーク・マター)は境界を越えて、バルサの街までもを黒く塗り潰していった。其処で生きる人々も、グリゴリ自体もそしてその交雑種(キメラ)である異形たちもを分け隔て無く呑み込んでいった。

 サタンの翡翠の瞳は緋色に染まっていた。

大食(ホール)だ‥‥》

大食(ホール)が再び(あらわ)れた‥‥っ!?》

 グリゴリの、耳を(つんざ)くような高音域の叫び(パルス)叫喚(きょうかん)している。

「‥‥っ!?」

 不意に後ろからそっと肩を抱かれ、目を覆われた。

「サタン、もう止めなさい」

 聞き慣れた声に思わず振り返る。

(‥‥父様? けれど髪の色が違う‥‥)

 くらりと眩暈に襲われたサタンは、闇に堕ちてゆく視界にその身を委ねた――。



「カラスエル、有難う。助かった」

「‥‥、貴方の依り代は二度とご免です」

 穏やかに微笑む相手とは対照的に、カラスは憮然と返事した。

(一度誘いを断ってしまった手前、今回は条件付きだったし、渋々受けてしまったが、本当の目的はこっちだった‥‥。何て、いくら千里眼でもそこまでは読めねェよなァ‥‥)

 リュシフェルを受け容れた証のように所々青鈍色に変化した髪を引っ掴みながら、カラスエルはリュシフェルと共鳴(シンクロ)した時の事を思い返していた。

「‥‥っ!?」

 その時何故かカラスの焚魂(エネル)が細かく()れ、感じたことの無い痛みを覚えた。

 共震して覗いてしまったのだ。リュシフェルの深淵には何者も寄せ付けない絶対的な孤独が満ちていたということを‥‥。




「――‥‥」

 目覚めるとそこは見慣れた天蓋だった。

「サタン、お前は約束を(たが)えた」

 感情の()もらない眼差しで、リュシフェルは淡々と述べた。

 サタンは上体(からだ)を起こし、決まり悪そうにそっぽを向いた。そのままだんまりを決め込むサタンに、リュシフェルは一つ深く息を()くと寝台脇に丸椅子を出現させ、そこに深く腰を下ろした。

「‥‥、お前がそういう態度なら、私はお前を結界(ここ)から出す訳にはいかない」

 リュシフェルは変わらず淡々と裁定を(くだ)した。

「‥‥(もと)に戻したのですか?」

 振り返ったサタンは存外平気な表情(かお)で尋ねた。

「‥‥いや、柱の間(ここ)からでは、私の(ちから)は及ばない」

 黙って先を促すサタンの視線に、「お前の干渉は、残念だが、そのままこの淵に沈めるしかなかった」とリュシフェルは事の顛末を隠すことなく伝えた。

「貴方は、何故私が地上に降り立ったのか、何も分かっていない」

 サタンから微弱な振動が放たれていた。

「‥‥、話してくれるのか?」

 リュシフェルは真摯な眼差しでサタンを見つめ返した。

 サタンは苦しげに眉をピクピク(ふる)わせ、「‥‥、穢れの(もと)を絶つ為です」と真剣な眼差しを向けた。

「‥‥、干渉はしないという約束だった(はず)だ」

「ですがっっ‥‥、貴方も(わか)っているのでは‥‥? このままでは深い(ごう)の闇に貴方の光までも喰らい尽くされることを‥‥」

 八の字眉で訴えるサタンをリュシフェルは思わず抱き寄せた。

「サタン、それでも私はお前にそんなことをさせたくないんだ」

「僕は滅びの子なのに?」

 その言葉を受け、リュシフェルはサタンの()を深く見つめ、「そなたの構成要素(生まれ)(なん)であろうとそれに縛られる必要は無い」そう言って昔のように額を付き合わせた。

「父様は(ことわり)に縛られているのに?」

 リュシフェルは「フフ‥‥」と(かす)かに吐息を漏らし、額を離すと「お前にはそう見えるか?」と意味深に微笑んだ。

(‥‥、やっぱり綺麗だ‥‥)

 サタンが、(どうしたってこの人には(かな)わない‥‥)と悟った瞬間だった。

 結局、サタンはリュシフェルの依頼をこなす為、黒い(オーヴ)から弟を生み出した。

「マモウ=タル(不死)」と名付けられた子は、何故か兄とは似つかない、体毛の無い皺々の小人の姿で、双眸と耳だけが異様に目立っていた。

 彼はリュシフェルの依頼をサタンから引き継ぎ、黒い石から(ドラゴン)のような魔獣を生み出した――。

第Ⅲ楽章 転・真理の眼

     1
 薄暗い書庫の一室。禁書目録に列記された書物を中心に読み(あさ)る生徒。金髪碧眼、聡明な眼差し。

(魔を生み出す腐敗の樹。その始まりは、(オーヴ)に魅入られ、(しょく)に憑かれた僕たち自身。魔王ルシファーは追放されたのではなく、(みずか)ら堕天したのか‥‥!? 先生方が教える教義は噓ばかりだ‥‥!)

「(レイチェルッッ)」

 息遣いの振幅の波だけが届く。

「困るよ、レイチェル。勝手に鍵を持ち出して‥‥。スナイデル先生に知れたら、図書委員の僕が怒られるんだからね!!」

 小声で囁くも、その翡翠の瞳は爛々(らんらん)と非難の声を挙げていた。

「悪い悪い、グリフィス。けど、お前は正直に話せば良いさ。‥‥、僕もそうする」

「‥‥っ!!」

 悪びれる様子の無い友の腕を掴んで、グリフィスは強引に書庫から連れ出した。

「君は本当に酷い奴だ。僕に友を裏切れって言うのかっ!?」

「‥‥‥‥」

 いつも穏やかなグリフィスの眼差しが、この時ばかりは痛かった。

「‥‥そうだな。ご免。お前が友を売るような奴じゃないと分かってて利用した。僕は最低な友達だ」

「‥‥レイチェル。僕は君が心配だよ」

 グリフィスは、この真っ直ぐな友人がいつか仲間と道を(たが)えるのではないかという不安を(ぬぐ)うことが出来なかった‥‥。



 司書官スナイデルの自室に、虹色に輝く蝶が何処(どこ)からともなくゆらゆら(あらわ)れた。その小さな侵入者を視界に捕らえるとスナイデルはそっと手の甲を差し出した。

「――」

 蝶はその指先で翅を休め、ひらひらとまるで鱗粉を払うように一、二度翅を動かした。すると時を(さかのぼ)り、黒縁眼鏡を掛けた青虫に変化(へんげ)した。

「スナイデル様。禁書を閲覧した生徒がおります」

「‥‥そうか」

「その者に処罰を与えますか?」

「‥‥う~~ん。ジョナサン、お前はどう思う?」

規則(ルール)を破った者には、それなりの代償を払って頂かないと規律が意味を()さなくなります」

 にょきっと一本腕を伸ばして、眼鏡の角度を整えながらジョナサンは正論を述べた。

「‥‥ご(もっと)もだな」

「では‥‥」

「‥‥(ただ)、禁書を読むなという規則(ルール)があっただろうか?」

「‥‥はァッ!?」

 ジョナサンの衝撃に黒縁眼鏡がぴょこんと跳ねた。

(いや)、鍵を掛けてはいるが、鍵の管理は図書委員に(まか)せているし、見ようと思えば誰でも見られるのではないか?」

(‥‥それは鍵の管理自体が間違っているのでは‥‥)

「‥‥それに私は知りたいという欲求を抑えることは出来ないと思っている‥‥」

「‥‥‥‥」

「あっ、(いや)‥‥。ジョナサンの職務を否定している(わけ)ではなくて‥‥」

 黒縁眼鏡の奥が潤んでいることに気付いたスナイデルは(あせ)った。

 ジョナサンは禁書に住まう「本の虫」たちの集合意識体であり、呪印(じゅいん)を付与されたことによって禁を犯す者がいれば、こうして報告に来てくれる。

「ち、(ちな)みに彼は何に一番興味を持っていた?」

 気を()らそうと話題を変えスナイデルはぎこちない笑みを浮かべた。困った表情(かお)にしか見えないその作り笑いにジョナサンは思わず苦笑した。

(スナイデル様にも表情筋があったんだな‥‥(笑)

「彼が熱心に読み(ふけ)っていたのは、地上の世界について記録された禁書です」

「‥‥成程(なるほど)。‥‥一応この件は学長に(しら)せるとしよう。念の為、ゼスラジエル校長直々に門番へ注意喚起をお願いして貰う方が良いだろう。「境界の門」を(くぐ)ってしまっては、(あと)は便利屋に(まか)せるしかなくなる‥‥」

 ジョナサンは便利屋と聞き、再び黒縁眼鏡をぴょこんと跳ねさせ、蝶の姿に戻るや(いな)や霧散した。

(‥‥‥‥)

 便利屋と差別化された友を想い、スナイデルは目を伏せた。(くだん)の友と同じ暗色系である藍(ねず)色の髪がさらりと表情を覆い隠した。


     2
「なァ、グリフィス。地上の世界ってどんな世界なんだろう‥‥」

 寝転がってぼんやりと空を眺めていたレイチェルがぽつり呟いた。

 其れはいつもの穏やかな昼下がり。いつもの庭園の指定席。二人はいつもここで午後の授業が始まるまでの時間を自由に過ごしていた。

「‥‥」

 グリフィスは読んでいた本からゆっくりと顔を上げた。頬で揺れる黄金(きん)色のウェーブ・ヘアに穏やかな翡翠の瞳には知性の輝き。如何にも優等生という風貌。グリフィスは空を眺め続ける友人の横顔をじっと見つめた。

「其れを語ることは禁じられている」

 味も素っ気も無い型通りの言葉。

「――」

 レイチェルはそっと目を伏せ、自嘲気味に微笑むと、「君さえ黙っていれば、誰にも知られないさ」試すように友を見上げた。

 短く切り揃えた真っ直ぐな金髪に、意志の強そうな(あお)い瞳。優等生というよりも自由少年。その迷いの無い眼差しは他者を惹き付ける。

「‥‥」

 何も答えずにいる友の態度に、業を煮やしたのか、起き上がって、「そもそもおかしいと思わないか? 何故語ることを禁じる? 何故隠すんだ?」そこで一旦言葉を切って、「答えは一つ。其処がもう一つの天国だとしたら‥‥」

「何てことを言うんだ、レイチェル。そんなこと有る(はず)無いだろ」

 グリフィスは思わずレイチェルの言葉に(かぶ)せるように𠮟責した。

「何故そう言い切れる? 何を根拠に君はそう信じているんだ?」

 レイチェルも負けじと食い下がった。

「信じるとか信じないとか、そういう次元の問題じゃないよ。そんなこと‥‥、議論の余地も無いさ。こんなに平和で穏やかな世界が他に一つとしてありはしない」

「あぁ‥‥。何の変化も無い退屈な世界はな‥‥」

「レイチェルッ!!」

 グリフィスの穏やかな翡翠の瞳は、驚愕に見開き、悲しみに揺れていた。

「グリフィエル‥‥。君は本当に現状に満足しているのか? 不変で永遠なんて、こんな残酷なことはないよ」

「君は‥‥、禁書を読んで、頭がいかれちまったんだ‥‥」

「違うっ! 僕が言いたいのは、生命(いのち)の本質は変化であり、其処に善悪など無いということだ」

「善悪を量るのは、僕たちの仕事じゃない」

 グリフィエルはレイチェルの持論の帰結点が()えず、(そら)恐ろしくなってきた。

「そう。僕たちは(ことわり)に縛られているからね」

「‥‥」

生命(いのち)は自由だ。だからこそしなやかで強い。その美しさに僕は参ってしまったんだ‥‥」

 レイチェルの本心にグリフィエルは何故か不意に心が細波を立てた。

「グリフィス‥‥?」

 虚を()かれたようなレイチェルの表情(かお)に、グリフィスは自身の頬を伝う涙に気付いた。真理に触れたような慶びに心が打ち震えている。

(君は‥‥、君は何てことを考えているんだ‥‥)

 グリフィスはレイチェルの意識を変える(すべ)も論破する持論も持ち合わせていないことに気付いた。そんな自分にはレイチェルの秘めた想いを否定することなど出来ないとも思った。そして其の自由な発想を飛ばす彼を羨望の眼差しで見つめた。

(僕はきっと‥‥、君には(かな)わないんだ‥‥)


     3
 厚い雲を抜けると、其処には青い海と緑の大地が拡がっていた――。

「ああ‥‥。グリフィス、やはり本物は違う。キラキラと輝いて、美しいな‥‥」

「ああ‥‥。それに良い匂いだ‥‥。存在の匂いだな‥‥」

 二人が降り立った地上は、丁度草木が芽吹く春の季節だった。柔らかな日射しが降り注ぎ、万物が目醒め、雪解け水がゆっくりと大地を潤し、ふゆる(エネルギー)()ちてゆく‥‥。

 季節の巡りと共に変化する営みを滞り無く促す守護天使(ガーディアンエンジェル)、この時季は春の王の指揮の(もと)、妖精たちは二人の部外者を気に懸ける余裕すら無く、芽吹きの準備に忙しなく奔走していた。それでも二人は妖精たちが飛び交う山深い森の中を避けて、(ひら)けた小高い丘の上を選んだ。

「‥‥」

 彼らは先ず切り立った岩の上に足を着けた。肉体を持たない彼らは重力に引っ張られることも無く、物質の核とも言える宇宙(コスモ)エネルギーに触れるだけだった。しかし、そうすることで彼らはそのものの質感を捉えることが出来た。

「ふふ‥‥」

 思い切って地面にダイブしたレイチェルは、青く光る芝の柔らかさと脈動する大地の温もりに感動していた。触覚という器官は無くとも小さなエネルギー粒子の授受によって感じることが出来た。

「‥‥なァ、レイチェル。僕たち中庭で過ごした時と同じ事してないか?」

 同じく隣に横たわったグリフィスが指摘した。

「‥‥ははは。確かに‥‥」

 レイチェルは同意してひたと空を見上げた。抜けるような青空に綿雲の波が流れている。

(風が吹いている‥‥)

 惑星(ほし)の運動によって生じる変化にレイチェルは大きく眼を見開き、そしてニヤリと口元を緩めると、「では、人間の暮らしとやらを見に行くか?」と提案した。

 その時、《そなた達は何者だ?》と頭の中に声が響いた。

「‥‥っ」

 いつの間にか、小さな蜜蜂の集団に取り囲まれていた。その中心に一匹の女王蜂が深遠なる眼差しで二人を見定めている。

(春の王だ)と悟ったものの、レイチェルはその力量が分からなかった。

(押し通る‥‥?)

 力ずくを意識した瞬間、二人は見えないロープで拘束された。初めて自由を奪われたレイチェルはパニックに陥り、力を暴発させた――。



 (何てことだ‥‥。友を置き去りにしてしまった‥‥。僕は最低だ‥‥)

 実際に呼吸をしている(わけ)ではないのに、心と連動してレイチェルは肩を大きく揺らしていた。経緯に(おのの)き、現状に動揺していた。その時。

(獣の咆哮‥‥!?)

 レイチェルはその悲痛な叫びに(いざな)われるように近付いて行った。

 (ひら)けた丘の上、夕日に染まった人間がぽつり佇んでいる。言葉にならない叫びは彼女の口から発せられているものだった。

(‥‥‥‥)

 その叫び(パルス)はレイチェルの焚魂(エネル)をも(ふる)わせた。レイチェルは彼女に(とら)われたようにノコノコと(あと)をつけた。

 少女は老夫婦と山小屋で暮らしていた。レイチェルはその様子を一定の距離を保ち、透視して観察していた。

 だが、少女はレイチェルの視線を真っ直ぐ見返してきた。

(貴方は何者‥‥?)

*少女の名はマリア・ロセッティ。生まれつきの聾啞者でした。彼女の不幸は、両親が著名な音楽家であった事でした。特に声楽家であった母親は、聾啞で生まれた実の娘を受け容れる事が出来ず、まるで娘の存在を消してしまおうとするが(ごと)く祖父母に預けたきり、一度も会おうとしませんでした。

 これが三人で人里離れた山小屋に暮らしている所以(ゆえん)でありました。*

 レイチェルは翼を広げ、窓辺に佇む少女に近付いて行った。そして少女の額にそっと自身の其れを重ね合わせた。そうすることでレイチェルは彼女の構成要素を可視化(スキャン)した。深度を掘り下げてゆくと彼女の器官の欠陥が視えてくる。その不備(エラー)を正しく機能するよう組み換えてゆく。

(聞こえる‥‥。音が聞こえるわっ!!)

 少女は再び言葉にならない叫びを発露した。驚愕に眼を見開き、そして(むせ)び泣いた。

 少女の気(ちが)()みた嗚咽に驚いて駆け付けた老夫婦は、宥めるように少女を優しく抱き締めた‥‥。

 その時既にレイチェルは便利屋に捕らえられ、その場から忽然と姿を消していた――。



 本来、未分化の学生が査問委員会に召集される事自体が異例の話だが、十二人の委員は二人が無断で降下した件よりも、レイチェルが犯した人間への干渉を問題視した。

 特に人間社会の秩序を保つ役割を担っている下級三級の反発が強く、レイチェルの処遇は中々決まらなかった。

 何より、それぞれの代表に見下ろされる底に居ながら、レイチェルは(かたく)なに少女に(ほどこ)した干渉を解く事を拒んだ――。

「全く‥‥。何という強情者だ」

 地上の世界を統括する下級三級のプリンシパリティ族、そこに属する査問委員の一人、ダロニエルがぼやいた。

 狐色の短髪に、時折金色に輝いて見える薄茶の瞳。恐らく人間社会に()いては、誰もが振り返る美男子。けれど彼らにとって造形とは交渉を有利にさせる為の手段でしかない。

「まるで自由を掲げる戦士のようだね‥‥」

 同じくプリンシパリティ族、査問委員のハザエルが応えた。彼もまた、クルクルとカールした、頬に掛かる金髪を片耳に掛け、大きな(あお)い眼をした美少年だ。

「自由意志は人間だけに与えられた特権です」

 そう(たしな)めたのは、プリンシパリティ族、査問委員、最後の一人、サトリエルだ。伊達眼鏡の奥に光る、理知的な青灰色の瞳。真っ直ぐで細い銀髪を後ろで一つに束ねている。

「自由意志は欲望の(たね)

 ハザエルが呟いた。容姿に反して落ち着いた低い声。

「つまり彼は大食(ホール)に成り兼ねないと‥‥?」

 ダロニエルが尋ねる。

「大食というよりは、高慢の罪ではないでしょうか‥‥?」

 サトリエルが答えた。

「どちらにせよ、我々の手に負えないのでは‥‥?」

 ダロニエルが困ったように再び愚痴る。

「‥‥これは、公にはされていない事だが、浄化出来ない穢れを魔王ルシファーに送っているらしい‥‥」

 ハザエルがその可愛い顔を神妙にさせて囁いた。円卓を囲んでいた二人が息を飲む。

「では‥‥、便利屋を呼びましょうか?」

 サトリエルが眼鏡の中心を押さえながら提案した。



 カラスエルが再びこの地を訪れたのは、リュシフェルの依り代になった時以来だった。

 漆黒の柱を封印する為の結界は以前よりも強固な護りが(ほどこ)されていた。

(まるで侵入者を拒絶するような造りだな‥‥)

「グルルゥ‥‥」

 其の一つである番犬に早々に威嚇され、カラスエルがうんざりしたように思案していると、見知った顔が(あらわ)れた。

「‥‥、大きくなったな‥‥」

 年寄り染みた失言に、カラスエルは羞恥に一つ咳払いを決めた。もうすっかり青年の姿をしたサタム=ダ=ラクが其処に立っていた。

「ケルベロス。この者は大丈夫だ」

 首から三ツ頭を生やした魔獣を手であやしながら宥めた。

「‥‥、父上の元へ案内(あない)しよう」

 カラスエルとその後ろに控えるレイチェルを一瞥し、嘆息気味に告げた。



(闇が深くなっている‥‥)

 (やかた)の回廊から見上げた赤黒い空には、飛竜たちが影のように覆い、(やかた)の遠方に拡がる瘦せ地には、土蜘蛛や土竜たちが跋扈(ばっこ)していた。そして案内された柱の()では、その魔獣たちの赤子が其処彼処(かしこ)でギャアギャア産声を上げていた。

「可愛いだろう? マモンが造り出したんだ」

 誇らしげに照れ笑いを浮かべながら、リュシフェルはカラスエルに話しかけた。

(‥‥? 何で自慢()なんだ‥‥。これが可愛く見えるのは貴方だけですよ‥‥)

「‥‥それで、引き受けて貰えるのですか?」

 カラスエルは親バカともとれるリュシフェルの問い掛けに、()えてコメントを控えて、要件だけを尋ねた。

「‥‥ああ、使い走りをさせていつも済まない。プリンシパリティの査問委員たちに承知したと伝えてくれ」

(‥‥まただ、薄っぺらい笑顔が張り付いてしまった‥‥)

 カラスエルはリュシフェルの深遠を覗いてから、この表情(かお)が噓の笑顔だと確信していた。

(何故光を纏った貴方の深遠が、これ(ほど)までに絶望的なんだ‥‥)

 カラスエルは居たたまれなくなって、リュシフェルの承諾を得ると早々に切り上げた――。

「――さて、レイチェルとやら。そなたは今から私の(とりこ)だ。私の結界内(テリトリー)に居る限り、そなたは自由だ。サタン、この者の住処(すみか)を適当な場所に見繕って貰えまいか?」

「‥‥、分かりました」

 サタンはレイチェルを連れ、下がろうとした。

「待て、サタン」

 声を掛けられ、(きびす)を返す。

「たまにはこうして顔を見せに来てくれ」

「‥‥」

 (しば)し見つめ合って、サタンは無言のまま会釈だけして退室した。

「――」

 玄関まで送ろうとついて来るマモンを一瞥し、尋ねた。

「そのケープはどうしたんだ?」

「‥‥、御主人様(マスター)(こしら)えてくれました」

 嬉しそうに告げるマモンを制止するように手を(かざ)し、サタンはそのままパチンと指を鳴らした。するとカーキ色のフードの付いたケープが、シルクハットとタキシードに変化した。

「‥‥兄上」

 驚いて興奮したようにサタンを見上げるマモン。

「気に入ったか?」

 サタンは薄っぺらい笑顔を其処に貼り付けていた。

 レイチェルは腐敗の樹から生じた二人の遣り取りを奇妙に眺めながら、魔王ルシファーの手に堕ちた自身の行く末を(おもんばか)ることは無かった。

第Ⅳ楽章 結・死と再生

     1
*聴覚を獲得したマリア・ロセッティは、彼女の出自に準ずるが(ごと)く、その才能を開花させました。歌姫(ディーバ)として富と名声を手にした彼女は両親を凌ぐ(ほど)でした。

 女として母として幸福(しあわせ)()ちた一生を()、されど最期の時でさえ、彼女の人生を一変させた天恵(ギフト)との出会いを忘れることはありませんでした――。

 一方、レイチェルが力を暴発させたあの時、間一髪で便利屋に助けられたグリフィエルは、そのまま大人しく(ばく)()き、収監を免れました。とは言え、彼の処遇も中々決まらず、見るに見兼ねたスナイデルが保護観察を申し入れ、グリフィエルはスナイデル付きの司書官助手として天界に籍を置くことが許されたのでした――。

 記憶の城には、「死者の書」と呼ばれる、人間の一生を一冊の本という形態に(あらわ)し、一時的に保管している書庫があります。

 死者の書を開くと、宙に走馬灯のように映像が映し出され、良くも悪くも、現世の人間に記憶されている限り、その回顧録(シネマティック・レコード)は存在し続けます。

 危険思想を(はら)む死者の書は無論禁書扱いですが、人間を知る一助として、その多くが学生にも開放されています。

 例に漏れずグリフィエルも人間を理解する為、()いては人間に干渉したレイチェルの意志を知る為、日がな一日眺めていました‥‥。

 マリア・ロセッティの御霊(みたま)をカラスエルが担当すると保護司であるスナイデルから聞き、グリフィエルはどうしても見届けたいと、境界の門を再び訪れました。

 二人が出奔した当時、未分化の学生が地上の世界に降り立ち、()してや人間に干渉するなど誰も想像出来ませんでした。

 何故なら、人間世界はまだ未熟で、それ(ゆえ)野蛮であると、其れに比して天界の栄光には遠く及ばないと教えていたからです。

 (ことわり)(のっと)って行動する彼らにとって、(ほころ)びを見つけるのは至難の(わざ)でした。疑うことを知らない彼らを尻目に、二人は堂々と境界の門を(くぐ)って出たのでした‥‥。

 肉体が(ほろ)んだ(オーヴ)はヴァーチュー族に付き添われ、この境界の門を(くぐ)り、パワー族が取り仕切る幽世(かくりよ)に導かれます。

 この幽世(かくりよ)は地上の世界(物質世界)と天界(エネルギーの世界)の狭間に存在し、此処で浄化の炎に灼かれ、(けが)れを()がれ、(すい)(きわ)めた(オーヴ)は、再びケルビム族に新たな聖櫃(うつわ)をあてがわれ、現世(うつしよ)へ転生します。

 グリフィエルは、其の過程で生じるマリア・ロセッティの回顧録(シネマティック・レコード)(いち)早く見たくて、境界の門からカラスエルに付き従っていました。

「奇跡を返せと仰せなら、其れは私に天恵(ギフト)を与えて下すった方のみ、お返しするのはあの方だけです」

 審判の場で、マリア・ロセッティは(かたく)なにそう返答するのみで、レイチェルの干渉を宿したまま、パワー族の誰も引き剝がす事が出来ませんでした――。*

 忌々しげにこちらを見遣るパワーズの審問官の一人、彼はカラスエルやハビエル、スナイデルの同期である。

 審問官である彼は、冴え冴えとした月の光を集めたような光沢(つや)のある滑らかな前髪から怜悧な灰白色の瞳を覗かせ、パワーズ実働部隊とは一線を画した様相を呈している。

 カラスエルは何故か彼に学生の頃から目の(かたき)にされ、其の相変わらずのギルネストルの視線に辟易しながら、早々にマリア・ロセッティを連れて幽世(かくりよ)から退散し、魔王の監獄を再び訪れた――。

「ケルベロス。そろそろ私の顔を覚えろ」

 カラスエルは何度訪れても威嚇する番犬に、溜息混じりに悪態を()いた。

「――っ」

 魔獣を初めて目にするマリア・ロセッティはカラスエルの後ろで息を飲んだ。その魔獣を手懐け、自身もすっかり異形となったサタム=ダ=ラクが変わらず出迎えた。

「サタン。その姿でお前の父に会うつもりか?」

「‥‥」

 カラスエルの指摘に、サタンは異形の姿を解いた。男の色香を漂わせる(ほど)に成長を遂げていたが、牡牛のように(つの)(たずさ)え、業火のような()を光らせていた‥‥。

 魔獣の産声で喧騒に満ちていた柱の()は一変して静寂に包まれていた。リュシフェルは柔らかな微笑()みを浮かべ、マリア・ロセッティを迎えた。マリア・ロセッティは魔王ルシファーと渾名(あだな)された目の前の御仁(ごじん)の佇まいに、思わず(こうべ)を垂れた。

「レイチェルに会っておいで。サタン、案内(あない)を頼む」

 リュシフェルのその言葉に頭を上げた彼女は少女の姿に還っていた。

 サタンを先頭に、ぞろぞろ連れ立って柱の()を出ようとしたその時、「カラスエル。そなたに相談したい事がある」とリュシフェルはカラスエルだけを呼び止めた。

「‥‥っ」

 サタンは一瞬顔を(しか)めたが、直ぐさま取り繕い、澄ました顔で扉へと(きびす)を返した。

「私はこの者の保護・監督を任されているですが‥‥」

 カラスエルはあからさまに迷惑そうな顔をした。

「大丈夫だ。此処には彼女に危害を加えるものはいない」

 リュシフェルの満面の笑みを見つめながら、「‥‥」カラスエルは従う他無いのだと悟った。



 サタンが用意したレイチェルの住処(すみか)は貴族の城のように豪奢だった。だが、魔獣たちが(やかた)に取り憑き、(けが)れを撒き散らしていた為、陰惨な雰囲気に包まれていた。その(けが)れの影響を受け、レイチェルもすっかり異形に姿を変えていた。苔のように全身を覆う触手が(うごめ)いて、双眸だけが紅く光っている。

 マリア・ロセッティはレイチェルのその姿を前に対話を諦め、詠唱(うた)を奏で始めた。高く澄んだ音の響きは彼女を中心に波となって周囲に浄化を(もたら)した。(やかた)を覆っていた(けが)れが祓われ、レイチェル自身も以前の姿を取り戻した。マリア・ロセッティは出会った頃のレイチェルの姿を前にして、思わず涙が(こぼ)れた。

「‥‥っずっと‥‥、貴方に‥‥お礼を‥‥伝えたかった‥‥」

 ぽつりぽつりと彼女の心の(うち)が吐露される度、ぽつりぽつりと真珠の涙が頬を伝った。

「‥‥っ感謝など、僕には必要無いが‥‥、君は何故此処へ来たの?」

 レイチェルは彼女が落ち着くのを待って、静かに尋ねた――。



「彼らを引き受けたいと仰るのですか?」

 思ってもみなかった申し出にカラスエルは眉を(ひそ)めた。

「‥‥勿論、彼らが其れを望めば‥‥、だが‥‥」

「‥‥、グリフィエルはともかく‥‥。マリア・ロセッティの魂を輪廻から外すことは出来ません」

 リュシフェルは再びやんわり目元を緩ませ、「そなたはパワーズのイヴィエルに私からの言付けを伝えるだけで良い」とカラスエルにとって好条件を提示した。

「この提案で、そなたの憂いを少しは払拭出来ぬだろうか?」

 こちらへの気遣いに溢れるリュシフェルの眼差しを受けながら、カラスエルは一体何処まで千里眼に見透かされているのだろうかと思い巡らせた。

 結果的に、マリア・ロセッティもグリフィエルもこの地の獄に留まることを選んだ。カラスエルはイヴィエルにリュシフェルの親書を渡し、再びギルネストルと相見(あいまみ)えることは無かった。

 居住を許されたマリア・ロセッティとグリフィエルはレイチェルと共に在った。少女は(けが)れを祓う為、(うた)い続けた。いつしか彼女は音を奏でる(うつわ)竪琴(ハープ)変化(へんげ)した。

 其の音色に()てられ、魔獣は聖獣に変化し、柱の()も其の恩恵を少なからず受け取った。

 音楽を奏でる稀有な存在に、グリゴリが(やかた)を占拠するようになり、レイチェルは彼女を守る為、竪琴(ハープ)を囲う檻となった。竪琴(ハープ)は鳥籠のような檻の中で、それでも愛を囀り続けた。

 グリフィエルはそんな二人を守護する聖獣グリフィンとなり、リュシフェルの野暮用もこなすようになった。結果、カラスエルは本業にシフト出来るようになった訳である。



     2
 リュシフェルの光が尽きようとしていた――。

 目覚めると傍らに柔らかな金髪が視界に入った。彼は両掌に包んだリュシフェルの()を祈るように額に押し当てていた。

「キャス‥‥?」

 寝台脇に(ひざまず)いていたカスティエルは、リュシフェルの呼び掛けに顔を上げた。

「‥‥、酷い顔だな。色男が台無しだ‥‥」

 囁きに(かす)かな笑みを浮かべた。

「それはこっちの台詞だ。‥‥リュー、君は本当に酷い奴だ‥‥」

 対照的に苦しげな表情(かお)を浮かべ、返した。

「キャス‥‥。どうか苦しむな。我々もエネルギー循環の中で変化する存在なのだ」

「お前はまだ其の時(・・・)ではないだろう? 何故こうまでして生き急ぐのだ」

 カスティエルの責めるような問いに、リュシフェルはまるで返事を濁すようにそっと目を閉じた。精気がほぼ失われた其の面差しは、困っているようにも、逆に安らかにも見えた。

(俺が苛めてるみたいじゃないか‥‥)

 静かに横たわるリュシフェルを前に、カスティエルもその口を閉じざるを得なかった‥‥。

 リュシフェルは永遠など望んでいなかった。身の丈以上の力は彼から自由を奪い、彼を孤独の淵に追い遣った。

 アレンネル、ナキエルというかつての仲間を閉じ込め、不用意に穢れの子を顕在化させてしまった。その行為は決して間違いではないと頭では理解出来るのに、心から滲み出る罪の意識を拭い去ることが出来なかった。

《サタン‥‥、此処へ‥‥》

 リュシフェルは発音すら億劫になったのか、念話(テレパス)を使い始めた。

 カスティエルの波動を受け、柱の()と隣接する部屋から二人、待機していた。この部屋はサタンが幼い頃はサタンが、マモンを生じてからはマモンの作業部屋として使っている。

 リュシフェルに呼ばれ、一歩足を踏み入れると光が炸裂(スパーク)し、寝台脇に辿り着く頃には子供の姿に還されていた。それでも牡牛の(つの)と緋色の瞳は変わらなかった。

 リュシフェルはもう片方の()を差し伸べ、サタンはその()を取って(ひざまず)いた。緋色の瞳は怒りに燃えているようにも見える。

《サタン‥‥。どうか自棄にならず、自由に生きて欲しい‥‥。そなたを縛り付けて申し訳なかった‥‥》

 頬に触れるリュシフェルの()から逃れるように、「そんな‥‥、そんなこと‥‥、今更何ですかっ‥‥」嫌々と(かぶり)を振った。

「黙れっ! 小童(こわっぱ)!! (われ)の光で灼き尽くしてやろうか! そなたの自由など、リューが許そうが、(わし)の目の青い(うち)は認められん!!」

 興奮して霹靂を飛ばすカスティエルに、サタンが動じることは無かった。

 ぐったりと睫毛を伏せるリュシフェルの額にそっと口付けるとサタム=ダ=ラクは暗黒の淵(ダーク・マター)に立ち返った。

(私は私の自由意志によって、私の務めを果たす‥‥。見ていて下さい、父さん‥‥)

 サタム=ダ=ラクは柱の()を覆い尽くす(ごう)をゴクリゴクリと虚無が口を(ひら)けた胸に修めてゆき、暗黒の淵深く其の身を沈めていった。ずるずると蛇が這うように(おり)が引き込まれてゆく‥‥。そして――、(くう)のエネルギーから新たな源初の鐘が打ち鳴らされた。其の大音声(だいおんじょう)は何処までも鳴動してゆく‥‥。新たな世界の始まりである――。



     3

 マリアの詠唱(アリア)が聞こえていた――。

(――‥‥?)

 目覚めると見慣れた天蓋。澄んだ空気に違和を感じ、リュシフェルはゆっくりと上体(からだ)を起こした。

(随分長い間眠っていたような気がする‥‥)

御主人様(マスター)っっ!!」

 リュシフェルが目覚めたことに気付いたマモンが寝台脇に駆け寄った。

「‥‥」

 リュシフェルはまだぼんやりとした頭で部屋を見回し、腐敗の樹が小さくなっていることに気付いた。マモンが見守る中、確かめるようにかつての漆黒の柱にゆっくりと近付いて行く‥‥。

(逝ってしまったのだな‥‥)

 結界内(テリトリー)にサタンの意識を捉えられず、リュシフェルの胸を襲ったのは漠然とした寂寞感だった‥‥。

 サタム=ダ=ラクが其の果を(もっ)て禍蛇を祓ったものの、歳月は尽きることの無い(おり)を再び積もらせ、其れが暗黒の淵(ダーク・マター)に取り込まれ、腐敗の樹に果を実らせる(ほど)になった。其の黒い果実(オーヴ)は、胎動してはサタンの相貌を象った‥‥。

御主人様(マスター)‥‥」

 熟れた果実(オーヴ)を二人で眺めながら、マモンは堪らずリュシフェルに声を掛けた。

 リュシフェルはこの期に及んでまだ躊躇っていた。おずおずと伸ばした()は其の土壇場でピタリと止まってしまう。

(‥‥)

 業を煮やした果実(オーヴ)の方からにょきと小さな丸い()を伸ばした。そしてリュシフェルの指をしかと握る。

「‥‥っ!?」

 その瞬間、一気に時を超え、成熟したサタンの姿でリュシフェルを抱え込んだ。

「只今、父さん」

 そう告げると額にキスを落とした。

「‥‥!?」

 余りの展開の早さについてゆけず、リュシフェルは動揺し、頬を染めた。だが、じっと嬉しそうに見つめ続けるサタンの眼差しを受け、「‥‥、お帰り。サタン」と自然に口を()いて出た。その返事に満足したのか、出会った頃の少年の姿に還ると今度はマモンに抱き付いた。

「マモン。父さんの(そば)に居てくれて有難う」

 マモンは見上げていた視線が同じ位の高さになってどぎまぎしたが、「お帰りなさい、兄上」と照れたようにはにかんだ。

*こうしてサタム=ダ=ラクは(みずか)ら死と再生を司る存在と成り、繰り返し、異質なエネルギーを其の身を(もっ)て、新たな源初のエネルギーに変化させ、この世界の均衡を保つ役割を担うことになったのです――。*

天上音楽

天上音楽

天使と悪魔の諸事情(?)を私なりの解釈で物語にしてみました。このお話は骨組みみたいなもので、ここから色々と面白い逸話が生み出せるんじゃないかと思っています。それはまたいつかの機会に‥‥

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • SF
  • 青年向け
更新日
登録日
2022-05-03

Copyrighted
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  1. 第Ⅰ楽章 起・漆黒の(くろい)柱
  2. 第Ⅱ楽章 承・穢(けが)れの子
  3. 第Ⅲ楽章 転・真理の眼
  4. 第Ⅳ楽章 結・死と再生