観賞用通路
「観賞用通路」なる言葉が先に浮かんできた。それに肉付けするように色々考えてみたが、イメージは凝固せずに、ふやふやと抜けていった。
三月が四月に変わろうという時である、つまり年度が変わろうという時でもあった。
老犬のリーチが吐いてしまった。それは季節の変わり目とも年度が改まるのとも関係なく単にリーチが老いていたからだろう。ここのところはずっと、部屋の隅で靄のよう固まってのろのろと餌を食っていた。時間をかけて舐めるように食う姿は弱々しかった。
家人たちは心配し獣医に見せに行こうとしたが、父は難色を示した。「おいさき短い犬に手を尽くしても結局はすぐに死ぬ。長引かせてやるな」とかなんとか、そんな風に引き留められた。何処かで父の言うことも尤もだと思っていた。けれど、行かない夜の内にリーチの容体は急速に悪くなり手を尽くすこともなく、吐くだけ吐いて死んだ。犬みたいに呆気なかった。私は犬みたいに泣き、眠った。
私も母も姉も、父を恨むに恨みきれず、リーチを悼むに悼みきれない気持ちがしこりのように残った。元の正せばなどとは誰も言わなかった。元を正してしまえば、引き留めた父の所為にばかりなるのではなかった。それは、離婚してこんな父を連れてきた母の所為、下手になんでも食べるリーチの所為、父の言うことを押し切ってでも獣医に連れていかなかった私や姉の所為、ととなりかねなかった。いや、こんなことを考えていたのは私だけかもしれない。けれど、誰も言葉として切り出すようなようなことはなかった。
屋外浴場にはうららかな日が差して、湯気の立ち消えていくのをいつまでも眺めることができた。何も特別な景色ではない。屋外浴場といっても、フィットネスクラブの会員用に設けられたささやかなものである。地上四階ではあるが、磨りガラスの壁に遮られているため見晴らしはぼやけているし、屋内のプールやサウナに比べて手狭な敷地だ。細長い湯桶を満たす温水は透明で、効能の類いは恐らくないだろう。それでも、一眼見れば正方形のタイルがどれもひび割れず、清潔に保たれているのが分かる。運動後のリラックスには充分だった。ひと泳ぎ終えた私はアロハ水着のまま縁に腰掛け、足湯をした。
気持ちの良い日だ。
足裏にできたイボの治療は長引いた。サリチル酸なる成分の含まれた絆創膏のようななものをイボのある二箇所に貼り付け、二三日経過したら貼り替える。その度に白くふやけたイボを観察し、気分が悪くなる。何度かは、ピンセットで摘んだドライアイスを押し付けみたり、皮膚科に行ってレーザーをされたりしたが、いつも中途半端なとこらで辞めてしまう。結局、根気がないので手を抜いてしまい、その間にまた症状が進行する。一進一退である。
別段痛みもしないので元は大して気にしていなかったのだが、足を伸ばして湯に浸かりながら誰かに足裏を見られて顔を顰められた気がしてから、私は足裏を湯船の底に付けないと落ち着かなくなった。未だ治る気配なし。
すとん、と銀色のパックが落ちる。渉は虚を突かれたように目を見開いた。確かに脱衣場の物置の上にそれは落ちた。いや、元から置かれていたようにも見える。普段気にすることもない重力の存在が意識に上る。私はパックを落とした手をそのまま宙に浮かせて、彼を眺めた。
銀色のパックの中身は豆のスープである。しかし、ただのスープではない。宇宙食である、一昔前の。私も渉も宇宙食に重さがないないなどと思っていた訳ではない。かと言って重さがあるとも思っていなかった。持ち歩く際には常に重さを感じていた筈だ。しかし、今物置の上でのびているのを見て、やっとその重さに気づいた。なんで、こんなものを持っているのかは上手く説明できない。お土産のつもりで買ったものが、いつの間にか誰にも渡すこともなくお守りのようになってしまった。
犬が日なたの中をくるくる、くるくると回り、疲れたように立ち止まる。ふっと目を逸らした隙に自分の休んでいるのが、その日なたの外であることが分かった。私は軒下に腰を下ろしていたのだが、それで仲間外れにされた気がしたのかもしれない。日なたの境界に視線を向けると、妙な妄想が浮かんだ。この日差しがUFOの如く犬を連れ去って行きはしまいか、私は置いていかれはしまいか。しかし、何時まで経っても犬は寸分も浮き上がりはしなかった。今度は蛇行しながら、こちらに向かってくる。私はそいつを抱き上げ、ゆっくり降ろした。
自室に戻り最初に発見したのは、キノコだった。京都へ行く前日にしたオナニーで飛び出た精液から生えたのでは、という考えがよぎった。部屋の隅で胞子を撒き散らすキノコを見るのは惨めだった。マッチでも投げて燃やしたかったが、空想は空想に留まった。ビニール袋を裏返して手袋のようにはめ、取り除いた。不気味な手触りだった。必要最低限の力で掴んだだけでも、鳥肌が立った。部屋のゴミ箱の中身をキッチンの大きなゴミ箱にまとめて放り、手にこびりついた感触を洗い流すように石鹸を執拗に揉んだ。
私にとって第二の父であるところの父は、第二の老犬のようになっていった。こじつけというより無意識裡に重ね合わさってしまうのだ。よく吠える番犬ではなく、おし黙りながらも睨んでくるような嫌な犬だった。この嫌な犬との共生は、私の生活の底にいつも沈んでいた。
無論、そればかりではなかった。学校が始まるまでの間、私はひどく腹痛に悩まされあ。腹痛とはなんと地味で過酷な時間であろうか。腹痛の過酷さとはつまり、話しようがないところだと思う。人に面白おかしく話す手立てが全く無いのではないか。私は狂気に駆られているのではなかった。色情や自意識に囚われている訳ではなかったから、人から笑われることはなかった。ひたすら腹が痛いのを堪えていても、ただ会話が少なくなるばかりだ。これが頭痛なら騒ぎ声を疎ましく思っただろうが、そんな騒ぎ声は一向にしない。聞こえてくるものと言えば学校のチャイムと選挙カーくらいのもので、そんな間の抜けた音響にやり場のない鬱憤が募った。
父の変貌、それはリーチの死と示し合わせていたかのように見えた。リーチの霊が父に乗り移ったと見るのはそれこそこじつけだろう。死人が動物の姿を借りて現れるならまだしも、死んだ犬が生者の体を借りたのでは、甚だぞっとしない。犬にせよ人にせよ、片一方がもう一方を御しきることが出来なかった、そんな風には見えたかもしれない。
とにかく父は人を怯えさせた。急に黙り、かと思えば饒舌になり、笑いながらこちらを凝視め、普段は目を合わせなかった。
とはいえ、リーチの死とは関係ない。季節の変わり目や年度の節目、ここらが妥当だろう。父のいっぱしの勤め人だ。昇進出来なかったことが響いている、これは謎の解決にしては些か手応えのないものだが、一先ず脳裏の靄は消えた。途端に腹が下品な音を立てた。気分が悪い。
私は間延びした静かな日々そのものの如く横たわり、やがてまた眠った。
長い夢にうなされた。やっと目覚めた時にはまた眠らぬように慌てて冷水を飲み干す。三点倒立でもしようかと思ったが、危ないので止した。やけに頭が疲れているのに、ろくに覚えていることはない。再びコップに水を注ぎながら、過ぎ去っていった想念を何か掴もうとするも、何も分からない。私は便座の上で何度も呼吸を整え、腹に力をいれたり肛門に力を入れたりしたが、何も出てこなかった。
観賞用通路