君について
君のいなくなった家で今も私と奈美は暮らしていますが、早いものでもう奈美は大学生です。あの頃君の腕に抱かれていた赤子とは決して思われません。彼女も大人になり、いつのまにか私の手から離れてしまったようです。いや、私の手にいたことなどなかったのかもしれません。
先週の水曜日のことでした。いつものように私は仕事が休みで、夕食をこしらえているところへ奈美が大学から帰ってきました。彼女はどこかそわそわしていて、落ち着きがありませんでした。私はカレーが焦げ付かないように時折かき混ぜながら、そうする以外は缶ビールを片手に野球中継を見ていました。すると奈美は野球に興味があるわけでもないのに私とテレビの間に立ち尽くし、一、二分はそうしていました。
「ねえ、そこに立つと見えないんだけど?」
「あ、ああ」
彼女は言葉にならない声を発した後、自分の部屋に消えました。そして部屋着になって再びリビングに姿を見せたかと思うと立ち止まり、はいているハーフのジャージを押さえながら顔をゆがめました。
「これ、まえうしろだ。もう、なんで?」
半ば自分に怒っている様子です。ジャージは着古した高校の体操着でしたから、とうに体になじんで前後など間違いようもなさそうですが、奈美といったらその場で脱ぎそうな勢いでウエストのゴム部分に手を当て、また自分の部屋に走って行きました。
その日野球中継をリビングで見る事が出来たのも、奈美がテレビを一切気にしていなかったからでした。
「チャンネル変えていいよ」と、私は一応言いました。
「別にいい」
「そうなの、めずらし」
「んん」
奈美はカレーを頬張ったまま喉で返事をしました。なんだか上の空でした。
「ねえ、今日なんかあった?」
私がそう聞くと、目の前に座る奈美はまるで君がこの家でよくしたような溜息をつきました。私はうろたえました。目の前に座っているのは、君ではなく、奈美です。
「あのさ、なんでそう親ってのはわかるのかな」
奈美は肘をついてスプーンをぶらぶらさせて言いました。彼女のカラーコンタクトをした瞳が私をきつく刺します。
「わかるよ。ずっといっしょに暮してるんだから」
「二十一年ね」
私は頷きながら大きめにカットしたじゃがいもを頬張りました。たしか君と暮らしたのは二年もありませんでした。
「それがさ、聞いてよ。もう本当に面倒なことになったの」
こうしていつも、私は彼女の話を延々と聞くことになるのです。君がいたなら、この役割を引き受けていたのでしょうか。
「このまえ、私、その、男の子に告白されたの」
「えっ、あ、ああ、なるほど」
「なにその顔」
「いやいや、めっそうもない。どうぞ続けて」
「でね、私断ったの」
「なるほど」
「でね、そしたら彼が泣き出して。突然よ。信じらんないでしょ? どこまでナイーブなのってね。で、人目もあるし、恥ずかしいし、べつに金輪際会わないとかじゃないんだしね、なんて言って、まあ、彼も落ち着いてその日は終わったの。でも予想はしてたけどね、彼来ないわけよ、学校に」
「どのくらい?」
「もう二か月になるかな。それでそろそろ試験だし、なんとしてでも来てもらいたいんだけど、電話にも出ないし、片っぱしから知り合いにあたっても音沙汰ないし。なんかさ、私が付き合うの断って人生狂わされたとか思われたらかなわないし。そんなんで恨まれてもね。で、なんとかしたいんだけど、ほんとね、もうどうしていいかわからない」
その言葉を聞いた時はさすがに戦慄が走りました。君がその台詞をよく口にしていたからです。目の前にいる娘が在りし日の君であるとまでは言いませんが、すくなくともそう思えるほど彼女は君に似ているのかもしれません。それが親子のしるしなのだと言ってしまえば聞こえもいいですが、私には到底耐えられません。奈美の憂鬱に君を見たとき、私の動揺は夕食中ずっと収まりませんでした。そして動揺が鎮まったと思った頃、次に私を襲ったのは君を失ったことに対する後悔でした。それは遠く過去から私を締めつけに来ました。結局私は今もなお、当時の君と私について、あれこれと考えをめぐらさずにはいられないのです。
*
君と初めて会ったのは、私が大学時代にアルバイトをしていたガード下の居酒屋でした。
「お客さん? ねえ、大丈夫? 青木さん? ねえ、ちょっと」
私は薄汚いトイレに倒れていた君の肩をゆすりながら声をかけたのです。かばんの中身がトイレの床に散乱していて、名刺に会社名とともに青木洋子という名前が見えました。背後からは「よーこちゃん大丈夫?」などとろれつの回らぬ男たちの声が聞こえて来ます。彼女はすでに倒れているというのに、様子を窺いに来ることもなくのんきなものです。
スーツ姿の女性がなかなか出てこないことに私も厨房の鹿島さんも気づいていましたが、トイレのドアが内側からドスンと鈍く鳴った時はさすがに二人で顔を見合わせ、すぐにドアを叩いて中にいる女性を呼びました。そのときはまだ名前も分からず、大丈夫ですか、と叫びました。鍵は外側にある小さな穴に千枚通しを挿せば開けることができましたが、中にいるのは女性です。開けて入ることはためらわれました。それで客のほうを思い出しても彼女以外の女性はいませんでした。その時初めてこの店には女性がトイレにいる彼女だけだと気がつきました。幸い中から、大丈夫です、と声がして、彼女が自分で内側の鍵を開ける音がしました。扉がほんのすこし開いて、見ると君が倒れていたのです。
「青木さん、だいじょうぶ?」
私はそう言って君を抱えて起こし、背中をさすりました。鹿島さんが水の入っているグラスを手に後ろに立っていたので、私はそれを君に渡すと、すいません、と言いながら君は少し口にしました。君は、向こうで騒ぐ男たちの小便が散ったタイルの上に座り込んだまま、吐き気がおさまるまでしばらく動くこともできませんでした。
吐き気が落ち着いたころ、君は呼んだタクシーが店の前に止まるのを見て立ち上がると、私に近づいてきました。
「どうして私の名前知ってたんです?」
「名刺がバッグから出てしまってて。すいません、勝手に」
「そう」
「汚れてしまった名刺はここのゴミ箱に捨てましたけど、まずかったですか」
「いえ」
そうして君は一瞬眼を私からそらすと、何かを言い淀んだふうでした。
「ん?」
「その、本当にすいませんでした。ごちそうさま」
そういうと、君は札を幾枚か私の手に握らせて店を出て行きました。見送った後、握りしめたその札をレジにしまおうとすると、すっと一枚の紙片が落ちました。それは君の名刺で、裏には走り書きの電話番号がありました。私はその意味を瞬時につかみきれませんでしたが、しばらくしてから唐突に悟るとひどく動揺し、その日はすこしだけ店の客のがなり声が小さく聞こえました。
君の帰り際にショートの髪が揺れて、耳元にのぞいた小さなイヤリングが輝いたのを、私は強く記憶していました。それにあんなことをする女性を忘れるわけがありません。私は若く、君もそうでした。二度目に君が友人を連れて店を訪れたのはすぐに分かりました。君の友人はお手洗いに行くふりをして私に近づいてきて、ちょっと、と酔いのまわった赤ら顔で私を呼びとめました。
「はい」
「君でしょ? 洋子が一目ぼれしたのは」
「は?」
「とぼけんじゃないわよ。さっさと電話してあげなさい。洋子がかわいそうだから。ね。いいこと? 返事。へんじ!」
「あ、はい」
すると君の友人は「いいこいいこ」と言いながら私の髪の毛をぐしゃぐしゃになでまわして、トイレ借りるねーと大声でトイレのドアの向こうに消えたのです。
その頃何を電話で話したのかはあまり覚えていませんが、君があとで言ったことによれば、それはあたかもはじめてアルバイトの面接のために事務所に電話をかけてきた高校生のようだったそうです。私は夏の夜の公衆電話ボックスで汗だくになりながら話をしていました。その汗の量といったら尋常でなく、その理由をすべて熱帯夜のせいにすることにも無理がありました。十円玉が汗で濡れ、電話に投入しても戻ってきたりして、結局料金が間に合わずそのまま電話が切れることもありました。
その中でも、一つだけはっきりと記憶している会話があります。幾度目かの電話でした。
「神田君を私が気に入ったのはね」
そんなふうにして、君は突然話を始めました。
「え?」
「だからね、私があなたを気に入ったのは、名前を下の名前で呼ばずに、きちんと名字で呼んだからよ」
「初めて会ったときですか」
「そう。あの汚いトイレで。あそこって、ちゃんと掃除してるの?」
「もうすこし清潔な出会いのほうがよかったですね」
「私はあまり気にしていないわ。状況はどうだっていいの。あなたは私を洋子ちゃんとは呼ばない。それが大切」
「そうなんですか。まあ。青木さんは年上ですから」
「うふふ」
君はたしかにそう笑ったのです。私にはそれがどうにも魅力的に思われました。
「うふふ、って笑う人、初めてです」
「だって、私いつも会社で洋子ちゃん、ってしか呼ばれないんだもの。それってなんか、とっても子供扱いじゃない? あのおじさんたちはそんなこと全く気にかけてないようだけど。おじさんたちったらね、私の名前を漢字ですら呼ばないのよ」
「感じですら?」
「そう、私の名前をひらがなで、しかも棒線付きでよぶの。よーこちゃん、って」
「かんじ、って文字のことですか」
「あ、そうそう。文字の漢字。発音がまるでひらがなのよーこちゃんなの。それがまた腹立つの。甘ったるい呼び方するんじゃないってね」
「カタカナだったら、オノ・ヨーコみたいですね。響きが」
「まあね。でも私、あの人のこと詳しく知るわけじゃないけど、軸がありそうじゃない? 私には立派にそういうのがあるわけじゃないから、まあ、ひらがな棒線付きよーこが、ふさわしいといえばそうかもしれないね」
「そうは感じませんよ。働く女性の鑑みたいに僕には思えます。これからきっと青木さんのような女性が増えるんですよ。男の組織の中を切り開いていく、あなたのような人が求められてるんです」
「そんなふうに見えてる?」
「はい」
「それなら、私もうまくやれてると言えるのかしら」
「もう十分に。というか、今の、青木さんとしては、らしくない言い方ですね」
「そう?」
君と電話で話した翌日は気分がよくて、大学に顔を出す気にもなりました。そしていつも図書館前でたばこを吸っている森田に呼び止められました。
「神田、おまえきのう『かまたに』んとこの電話ボックスでながなが電話してたけど、彼女かなんかか」
「は」
「そうやっていつもとぼける。おれが『かまたに』に入って、飯食って出てきた時もまだボックスの中にいたけど」
「お前に見られていたとは」
「あんなとこで電話してる時点で、もうみんな見てるよ。ちっとは場所を考えろ」
「たしかに」
森田は手にたばこをもったまま私の顔をじろじろ見て、何かの笑いをこらえていました。
「んだよ。気持ちわるいな」
「そりゃこっちの台詞だ。電話ボックスに入るとあんなに顔の筋肉がゆるむもんかな。にたーって」
森田はそう言ってたばこを灰皿でもみ消すと、私を置いてさっさと裏門へ歩き始めました。
「ちょっとまてよ、森田」
走って追いつくと、森田は落ち込んだ顔をしました。
「おれはお前を友達だと思っていたのに」
「意味わかんねえ」
そうしてまた『かまたに』で昼飯を食うのでした。
君の会社は朝出勤して夕方退社、たまに残業、というリズムだったので、君が帰ってくるころに私はアルバイトに出かけるという、じれったい生活を送っていました。電話は私のバイトが休みのときに、例の『かまたに』前の電話ボックスから飯を食った後で掛けました。私はもう在学六年目で、近所の下宿には森田を除いて私を知る人間などいませんでした。だから、にやけた顔を誰に見られようが気にはなりませんでした。むしろ離れたボックスに行くほうが面倒でした。
それでバイトが休みの日、いつものように電話をしようと『かまたに』から出てみると、電話ボックスの前に君がいました。
「こんばんは」
君は何食わぬ顔で私にあいさつをしました。
「青木さん、こんな治安の悪いところで何してるんですか」
「治安が悪い?」
「この辺にはむさくるしい男子学生しか住んでないんです。街灯の下にこんな美人が立ってたら、襲われかねません」
それを聞いた君は失笑気味でした。まじめに言ってそうだから手に負えないよね、と言ってから続けます。
「神田君が襲うのは問題ないんじゃない?」
「いやいや、あの、何言ってるんですか」
「僕もそう思います」
と森田がいつのまにか背後にいて、私の背中をぐいぐい押して君のほうに私を近づけさせるのでした。
「やめろよ」
「どうも森田です。こいつの数少ない同級生です」
「てか、なんでお前がここにいんだよ」
「悪いか。飯を食いに来たんだ」
「昼もここで食ったろ」
「お前もじゃんか」
「じゃあ森田さん、あなたも六年生?」
そう聞かれて、森田と私は精いっぱい苦笑しました。
「あのう、彼女さん。僕らは小学生じゃないんで、その言い方は何とも。なあ神田」
「ですよ。一応俺たちは大学生で、卒業できないことに傷ついているんです」
「あら、それは失礼」
真夏の『かまたに』はクーラーががんがんに効いていて、私たちのような男子学生にとっては天国でした。けれど君が友人の河野さんをつれて、なぜか森田も一緒に計四人で飯を食うようになると、私たちはまわりの学生に頭を下げて、その時だけ女性たちのために冷房を弱めてもらいました。だからいつのまにか水曜日の夜八時には人が少なくなったのですが、店のおばちゃんはちっとも気を悪くしませんでした。むしろ私にようやく春が来たことを喜び、毎回瓶ビール一本をサービスしてくれました。
いつも私がビールの栓をあけてお冷用の小さなグラスに注いで回りましたが、その日は私が持ち上げようとした瓶を君が取り上げま
した。「青木さんにお酌してもらえるなんて」
と森田が言うと、河野さんが「なんか言い方が気持ち悪い。こいつには注がなくていいから」とグラスに手でふたをしたりしていました。
「それではお疲れさん。かんぱい」
君がそういうと、四つのグラスが鳴りました。そうしてみなビールを口にして、グラスがテーブルに置かれました。君は、そこから次の会話が始まる一瞬の静寂をついて言います。
「あの、今日は私から話があります」
君は皆の顔をみて、最後に私へ視線を合わせました。
「神田君」
「ん、あ、おれ? はい」
私はがたつくビニール張りの丸椅子に姿勢を正しました。河野さんが「なに改まって」と君に笑いながら言いましたが、その言葉は宙に浮いて消え、他に人のいない食堂にはクーラーの低い振動音だけが響いています。
「まあ、森田君もだけど、あなたたち、いつになったら卒業するつもり」
「おっと、それはいったい何の話で?」
森田が茶化し気味にそう言ったのですが、君はまじめでした。
「さっさと卒業してほしいんです。でなければ私は神田君と結婚できません」
全員が息をのみました。私もです。
「もうそんなところまで話が進んでたの?」
河野さんは私を見てそう言いました。
「いや、初耳です」
私はそう言うのがやっとでしたし、隣の森田は目を丸くするばかりで何も言いません。
「いまのは、あれですか、その、プロポーズですか」
私は何と愚かなことを聞いたのだろうと思いますが、当時のあの場面では確認せずにはいられませんでした。
「じゃあ、ほかに何と言えばいいの? 今のを」
「その、そういうことはいくら仲がいいと言っても、みんなの前でしなくてもいいじゃないですか。こんな定食屋でしなくたって」
私はかなり切実に言いました。
「だって。神田君はちゃんと返事をしないじゃない。だからみんなの前で言ったの。場所は関係ない」
「神田は意外とロマンチックなんです。そんなことも知らなくて、青木さん結婚するなんて言ったらだめですよ」
森田は珍しく私の肩を持ちました。
「それくらい知ってるわ。初めて電話で話したとき神田君声が上ずっていたもの。その年で女性と話すのが緊張するって、ねえ。でもね、それを言うなら出会いからしてまったくロマンチックとは言えなかったんだし、これくらいが私たちにはちょうどいいんだと思うわ」
うろたえる私は視線をようやく定めて君を見ましたが、そうするのと同時に、君は私から視線をそらしました。そして自然とメニューを見る素振りでアイスクリームを注文しました。そんなものが『かまたに』にあるのを、私ははじめて知りました。
強烈な冷房の『かまたに』で昼飯を食っていたとき、森田にしては妙に現実的な話をしてきたことがあります。
「結婚したらお前、どこで働くんだ。このままバイトってわけにもいかないだろう」
「バイトを一度もしたことがないお前からそんなことを言われるなんて。俺も落ちたな」
「だって、お前。このままじゃふつうは恥ずかしい状況じゃないか」
「たしかに。彼女、有名どこの総合職、キャリアウーマンってやつだもんな。そんな彼女と学生の俺。奇妙だよ」
「自分で言うなって。で、このまま卒業したらさ、というか出来ればの話でもあるが、お前は学生じゃなくなって無職になるんだ。このままぶらぶらして、食わせてもらうのか」
「バイトしてる」
「バイトだろ? 言っちゃ悪いが、バイトは所詮バイトだよ」
「どうしようかな、ほんとに。てかね、青木さんも唐突なんだよ。俺本当に一度もそんなこと聞いてないし、そんな素振りもなかったんだ。正直戸惑ってる」
「まあ、いつもお前は戸惑ってるがね」
そういうと森田は私の表情に浮かんだ苛立ちを察してか、少しのあいだ口をつぐんでいたました。が、開口一番、にこやかに言いました。
「で、もうキスくらいしたのか」
「うるせえ!」
私が突然声を張り上げたので、飯を食っている全員が箸を口にしたまま私を見ました。うっとうしくなった私は、定食をほとんど残したまま千円札を置くと店を出ました。
結局私は何の返事もしませんでした。君の企みは私に一層返事をしにくくさせただけでしたし、過ぎゆく日数によってやりにくさも増していきました。引き延ばせば引き延ばすほど私は息苦しくなり、君のことなど忘れられたらいいのにと思いました。しかしそれもまた、できませんでした。
私は君のように物事を先へ先へと進めていくことの出来ない人間でした。だから学生生活をずるずる引き延ばして終止符を打てずにいました。そんな私とは違って、君はだれの前であろうとはっきり自分の思いを告げる事の出来る人でした。そこに私は憧れを抱きました。私にないものを君は持っていて、君の美しさはそれによって一層磨きがかかっていました。私は君に永遠に追いつけないと感じるからこそ、君が輝かしく見え、惹かれたのです。しかしその憧れの距離は、皮肉にも私の君への劣後感と一体でした。君の存在は私に重くのしかかりました。心の晴れない原因も君でした。君がはっきり私に迫るほど、私は私自身の優柔不断さに苦しめられ、それでもいつしか君のようになれたらどんなに素晴らしいだろうかと考えはするものの、そこに展望のなさを感じて愕然とするのです。そのように私はどうすることもできずにとどまって、ずるずると、いつものように日々を無為に過ごしていました。
それでもテストは必死で頑張りました。失われかけていた人脈を掘り返すところから始め、ノートを収集し、残り少ない授業に這いつくばって顔を出し、バイトを減らし、テキストを図書館で借りて読みました。
その間は君と会わず、電話もやめました。テスト勉強に忙しいというのは、都合のいい言い訳でした。私はとにかく、すべてを保留にしておきたかったのです。物事を宙に浮かせておくためになら、いくらでも頑張ることができました。どこまでいっても何にも触れられない生き方を実践していたのが、その頃の私でした。
テスト中に一度だけ河野さんと昼食を取りました。『かまたに』ではなく、大通りのマクドナルドでした。その日私は河野さんに呼びつけられていました。
「君が一番知ってると思うけど」
河野さんが君という呼び方をしたのはこれが最初で最後です。
「はい」
「洋子さ、妊娠してるよね。ねえ」
「それは、その……聞いていません」
「聞いていませんって、ねえ。よくまあしらじらと」
河野さんは背もたれに体を勢いよく押しつけると、窓の外に視線をやりました。しばらくその体勢で黙っていました。私は下を向いたままです。
「だから洋子はあんなこと言ったんでしょう。あなた、洋子から電話番号もらったときだってしばらく電話しなかった。そして今度も、連絡を絶ってる。いろいろ言い訳して。でもね、今回ばかりはあなたがこの事態の責任をもたなければならない。そうよね。そのくらいわかるでしょ。まがりなりにも名の通った大学に通ってるんだし、そのくらいの頭はあるはず」
「はい」
そうして私は結婚したのです。夏の試験で卒業が決まった後、君の両親と私の両親にあいさつに行きました。どちらも明らかに渋い顔をしましたが、当たり前のことです。君の両親には殴りかかられる覚悟でしたが、君が事前に話をつけていたのか、通り一遍の短いあいさつで終わりました。ただ、それはそれで殺伐としていて、今後の雲行きを淡く予感させていました。二人の周囲には表立って嫌味を言う人もなければ、かといって表立った祝福をするひともありませんでした。私は父からきちんとした職に就くようたしなめられました。周囲の人間からはありとあらゆる忠告を受けました。君と私はその一つ一つに落ち込みましたが、いつまでも落ち込んだままの私を差し置いて、君は次第に、私には到底できない底力で新たな生活を築き始めました。それに比べ私は学生時代と変わらず下宿から居酒屋へアルバイトに通う日々で、定職を探すこともしませんでした。
しばらくののち、二人が住める部屋を借りて引っ越しました。夏は終わり、もう長袖を着ていました。そのアパートは部屋が一つ多く、なのに家賃はほぼ据え置きでした。部屋数がちょうど二人分のところなら設備のいい部屋もあったのですが、君の気に入ったのは部屋数が多いほうでした。君は生まれてくる子供が大きくなったときのことを想像していたのです。その頃、私はそこまで思いを巡らせることができませんでした。下見で訪れた部屋の真ん中に立った君がそういう話をしてはじめて気づくありさまでした。もう数カ月すれば私の知らない人生がこの世に生まれ落ちようとしていたのに、それが私には分からなかったのです。見た目にも君のおなかはほとんどふくらみを見せていませんでしたから。
そしてそのお腹の子がいまや大学生です。先日彼女がテレビの前で立ち尽くしたその位置は、私の記憶が正しければ、君がこの部屋にはじめて訪れたときに立ち尽くした場所とほぼ同じでした。
それは単なる偶然でもなかったのでしょう。
*
振られて大泣きし挙句姿を消した男の話を聞いた二日後、つまり先週の金曜日、いつものように、奈美は週末を友人の家でお泊まりすると言って、小ぶりのキャリーバッグを引いて家を出ました。私は土日出勤で、週で一番忙しい二日間なものですから、日曜は深夜に帰ると大抵そのままビールを飲んで寝てしまいます。奈美はどういうわけか日曜の夜には友人宅から必ず帰宅していて、律義に私を待っています。彼女は夜更かしをしているふりをしていますが、いつも缶ビールをもってきてくれるのです。それは私の一番幸せな瞬間でした。長い間君のいない時を過ごして、奈美は大人になり、君の代わりをしてくれるようになっています。
けれどこの日曜は違いました。帰宅しても家の中は真っ暗で、アパートに奈美の姿はありませんでした。君だけでなく、奈美もいなかったのです。部屋は閉め切られ、滞留した空気は夕刻に射す西日のせいで加熱し、深夜にもかかわらず息苦しいままでした。それなのに、私の肌にまとわりついた汗は、すぐに冷たくなって乾いていくのでした。
*
君は新しい部屋を借りてすぐ、会社を辞めると言いました。それは相談ではなく通達に近い言い方でした。前例は少なかったかもしれませんが、辞めずとも働き続けられる制度が会社にはありました。それに君の働きぶりは優秀で、その頃は君を認める人もいるという話でした。私はゆっくり考えたほうがいいと言いましたが、彼女は頑なでした。
「働きながらこの子を育てるのは、無理があるわ」
「どうして。せっかく手にした職なのに辞める事ないって。上司がなんか言ったの?」
「いいえ」
「なら……」
「私はこの子とともに生活がしたい」
「それは分かるけど、一度辞めたらもう会社には戻れないんだ。この子が生まれてきてから、どうにも回らないっていうなら辞めることも考えなくちゃいけないだろうけど、僕もいるんだしね、賛成できない」
「もう決めたの」
「『よーこちゃん』って呼ぶ男性社員に我慢ならなくなった?」
「そうならずいぶん前に辞めてる」
「ねえ、せっかくのキャリアなんだしさ」
「もういいの。これから先は子育てに専念したいんです」
もしかすると、彼女の周囲の人間は反対しないかもしれませんでした。河野さんなら反対するでしょうが、君と出会ったときにいた男性職員たちは無条件に喜んで君を会社から追い出しかねませんでした。
それで河野さんに聞いてみると、男性職員といえども若手は別だとのことで、君のことを下の名前で呼ぶことに違和を感じている人もいるらしいのです。その人ならあるいは、女性を子育てに追いやって辞めさせるようなやり方に反対してくれるかもしれないとのことでした。私は、彼女が翻意するためには、会社の内部から君の評価を高めてもらうしかないと考えました。若手社員が君のことを男女の垣根なく評価してくれればと思いました。君には残ってほしい、必要な人間なのだと会社の人間が君に伝える事が一番訴えると思ったのです。それしかないと思いました。その考えを河野さんは幸い理解してくれて、私は彼女を通してその若手の一人と会うことができました。
場所は私の働く居酒屋でした。鹿島さんに無理を言って閉店したあとで簡単な夕食を作ってもらい、河野さんが連れてきた樋口さんという男性と一緒に食べました。彼は髪を後ろになでつけていて胸板が厚く、寸法のしっかり合った灰色のスーツを着ていました。彼は私が君とここで出会ったということも、すでに河野さんから聞いて知っていました。
「しかし、こういっちゃ失礼だが、青木君はきみのような感じの男と結婚するとは思ってなかったよ」
「実は樋口さん、ひそかに好きだったでしょう」
「まあ」
河野さんの横やりに樋口さんもまんざらでないような答えをしたので、私は不安な顔をしたのでしょう。樋口さんは「とはいえ、もうそれも昔の話だよ」とグラスのビールを少しなめてから言いました。河野さんは「本当かしら」などと言っています。
「まあ冗談はさておき、大まかな話は河野君から聞いているよ。青木君が会社を辞めたいと言っていることと、君が考えていることをね」
「ぜひお力をいただきたいと思って」
「彼女は頑張りやだから、きちんと説明すれば上司だって納得してくれる。おじさんたちも大昔の習慣でやってるわけで、仕事ぶりをちゃんと見てくれるようになりさえすれば何のことはない。彼女はできるから。私は君の言っていることに基本、賛成だ」
「そうですか。ありがとうございます」
そして樋口さんは胸の前で手を組んで少し乗り出すと言いました。
「ただし。一つ聞きたいことがある」
「聞きたいこと?」
「神田君。きみはなぜ彼女に辞めてほしくないんだ?」
「それは、辞めてしまうと彼女がせっかく自分の力で得た今の職を永遠に失うことになるからです」
「たしかに。私もそれはもったいないことだと思う。けれど、それだけが本当の理由なのか? 他の理由はないのか?」
「というと」
「神田君は、その、きついことを言うかもしれないが、君は、自分の力で何かしているのかね」
そう言ってから、樋口さんは一瞬視線を外しました。
「初めて会った私にそこまで言われる筋合いはないかもしれない。実際君は反論してもいいと思う。けれど私は反論してほしくない。彼女が仕事を辞めると、実は君自身が困るから辞めてほしくないんじゃないのか? そこはどうなんだい。はっきりさせておかなければならないと私は思っていてね」
その問いとともにテーブルには沈黙が降りました。ちょうどガード上を列車が通過して、轟音がしばらく静寂を緩和しました。列車は上下両方向から通過しました。しかしその音も消えると、再びの沈黙に私は何かを言わねばなりませんでしたが、ついて出る言葉は見つかりませんでした。
「あの、ごめんね、神田君」
沈黙を破ったのは河野さんでした。
「私がね、樋口さんに頼んだの。神田君がしっかりするように言ってって。樋口さんは頼まれてるだけなのよ。初対面の人に言われたほうが効果あるかもって、私思って」
彼女は私と樋口さんの気まずさを取り繕うように早口でまくしたてましたが、樋口さんはため息をついて河野さんを見ました。
「何で言うかな」
「見てられなかったんだもん」
「まあそういうことだ、神田君」
樋口さんは緊張が少しほぐれたのか、失礼、と言ってたばこに火をつけました。食事を終えてずいぶん経っていました。
「こんなふうに聞かれて即答できんということは、なにかの魂胆があってのバイト暮らしというわけでもなさそうだし、結局そう思われても仕方ないんだよ。ね、神田君」
樋口さんは鼻から煙をもうもうと出して、さっきよりは他人事のようにして言いました。
「私は会社で君の奥さんが辞めなくてはならない雰囲気になるのを押しとどめる。それは約束しよう。しかし君にも約束してほしい。しっかりするんだ。ここでバイトをするのもいいが、一度就職活動なりしてみるのもいいと思うがね。本当に彼女が辞めてしまったら、君のバイト代じゃあ、嫁さんと生まれてくる子供はとても養えないのだし」
そういうと樋口さんは「帰ろうか」と言って立ち上がりました。そして私のほうに歩み寄ってくると、まあそう深刻になるな、と肩をぐいぐい揉んだのです。
「すいません、なんだか今日は」
私はそんな言葉しか出ませんでした。
「きみ。謝ることはないよ。そのね、究極言うと君の人生のことだから、俺は、言い方悪いけど、知ったこっちゃない。でもね、ファイトだ」
樋口さんはそう言ってから大きな声で笑うと、ご馳走さんでした、と奥で帳面を付けていた鹿島さんを呼びました。そして本当は私が払うはずの食事代を全部払ってくれました。
帰り際に樋口さんはこう付け加えました。
「今も君は嫁さんのために、こうして河野君を通しではあるが何かできないか手探りでやってるわけだ。大丈夫だよ」
私は樋口さんからおおいに励まされました。ですから、君の意志が固く、樋口さんの努力も水の泡になってしまったとき、私は奮い立ちました。はっきりと私の出番だと思ったのです。彼女はわずかばかりの退職金をもらいますから、しばらくは生活できます。出産のための費用もぎりぎり賄えるでしょう。しかしそれ以上は無理でした。おなかの中の子が生まれてくるときには、私が彼女とその子を支えていなければなりません。それは案外悪くないと思いました。
そう思うようになったのは、エコー検査でお腹の子を見たからでもありました。当時エコー検査は今ほど当たり前ではありませんでしたが、君は会社を辞めた後いろいろな本を読んでそのことを知り、さっそく病院に電話をかけて胎児を見てみることにしたのです。そのときすでに性別も分かるほど成長していて、医者が砂嵐のような画面を指して「これ、これが女の子のしるしですよ」と言った瞬間といったらありません。私は目頭が熱くなり、君は満面の笑みで私と手を握り合いました。
君についていくだけだった私が、今度は君の先を歩んで、君を連れてゆくのです。その腕には女の子が抱かれています。私は自分の仕事で一つの家庭が成立していく様子を思い描き始めました。
そうして私は毎朝仕事探しに出かけるようになりました。はじめの一週間は君が会社に勤めている時期と重なり、一緒に通勤しました。私は駅までの道を君より半歩早目に歩いたりしました。もうすっかり冬で、すぐそこまで年の瀬が迫っていました。
朝はこれまで君が先に起きていました。私は君が布団から出る音を聞きつつも、寒さに負けて布団の中でぐずぐずしたあと起きていました。それをこのころから、私が先に起きるようになったと思います。はじめてそうした時、私は前の晩に早く起きると言っていませんでしたから、君はあわてて布団から飛び出してきて、今日はなにかあったかな、と聞いてきました。
「いや何もないんだけど」
「はあ」
「これからは僕も朝飯をつくろうと思うんだ」
私はストーブに火を入れながら言いました。
「それで早く起きたというの?」
「うん」
君は急に体の力が抜けたようでした。
「ならそうと言ってくれなくちゃ。大切な面接だったかなとか思ったじゃない。もう驚いた。おなかの子に悪いよ」
そして君は新しく買ったCDプレーヤーの電源を入れると、小さめの音でクラシック音楽を流し始めました。
「おなかの子が本当にクラシックを聞いてるの?」
目玉焼きとみそ汁は、私ができる料理の中では最高にレベルの高いものでした。だから時間がかかります。昨晩ひそかに仕込んでいたご飯は、ちゃんと炊けていました。
「いつもは分かってると思う。けど今は私が動揺してるから、この子も慌ててる。集中しては聞けてないでしょうね」
「わかるの? 子供の機嫌が」
「わかるわよ」
「へえ。いいなあ」
君は料理をする私を横目で不安そうに見ながら、積んである育児本をぱらぱらとめくっていました。時間があれば本屋に出向いて気になるものを買っていましたから、どんどん本が増えていました。
「ところでみそ汁はだしをきちんと入れた?」
「だし?」
「みそ汁は本当にみその汁だと思ってない?」
「違うの?」
「違うわよ」
そうして即席の料理教室となったのは今でも記憶に新しく、それは楽しい冬の朝でした。
職探しは思ったよりも難航しました。バブルがはじけて求人も少なくなっていました。毎日外に出てはいましたが、減らしていたバイトをまた増やしました。生活が思ったより切迫していましたし、忘年会で店も人出が必要でした。けれど鹿島さんはそんな私を見て、年を越して新年会のシーズンも終わるころ、アルバイトを減らして私に仕事を決めてくるよう言いました。それで私は、またぐるぐると何もないところを回っていることに気づいて恥ずかしくなりました。
その頃君は本も読みたいものがなくなったのか、それとも単に時間をもてあましていたのか、昼食を河野さんと一緒に取ることが多く、私は時折帰宅して昼食を取る時一人のことがありました。
静かに食事を取りながら部屋を見渡すと、隅々まできれいに片付いていました。窓の外には二人の洗濯物が干してあります。空は晴れてはいますが低く灰色で、弱々しい光しかありません。到底洗濯物の乾く気配はないのですが、私は毎日着る服に困ることなく生活していました。家事は一緒に住み始めて以来私の仕事でしたが、今ではすっかり君の仕事でした。主婦としての君の頑張りが家じゅうにあふれていて、私は子供が生まれてくる前に仕事を見つけねばと焦りました。けれど私のように意味もなく大学時代を延長し、大学を卒業すると同時に結婚し、アルバイト経験しかないという経歴は非常に煙たがられ、必死の弁明も功を奏さず笑い物にもされ、近頃はなぜこの求人に応募したかという問いにも、生活のために働きたいと言うしかないところまで来ていました。
とうとう私は仕事を決めることができず、見かねた鹿島さんが知り合いの勤める大きな飲食店チェーンの仕事を紹介してくれました。私のことは鹿島さんが先方に話を通してくれていて、二週間後には採用でした。私は自分の不甲斐なさに悔しさも込み上げましたが、鹿島さんは、とにかく雇ってくれるんだ、しっかり頑張るんだと私を慰め、励ましてくれました。それは正直にありがたいことでした。なにはともあれ職に就けるのですし、それに自分の至らなさを嘆いている時間も、もうありませんでした。
私は、その仕事にほぼ採用されることを君に黙っていました。君を驚かせようと思っていたのです。正式な採用の知らせを聞いた日、私はバイトが終わると同時に店を出ました。家に帰りつくのはいつも午前一時ころです。
ところがその日、玄関を開けようとして鍵がかかっていました。君は私の帰りを見越して鍵を開けてくれているのが普通でしたが、今日に限って鍵を開け忘れているのだと私は明るく解釈しました。とにかく舞い上がっていたのです。君に一番に仕事が決まったと伝えたかったのです。
しかし鍵を開けたドアの先は暗闇でした。さすがの私も慌てました。君が体調を崩して先に横になっているのだと考えました。躓きながら靴を脱いで寝室に入っても、君はそこにいませんでした。君の姿はどこにもありませんでした。
私はリビングに立ちつくしていました。カーテンは朝開け放たれたままで、視界には干されたままの洗濯物が映りました。私はその洗濯物を取り込み始めました。冷たいアルミサッシを開けると強い風が部屋に吹き込み、カーテンがあおられて大きく舞い上がりました。かごに取り込んだ洗濯物はまだ冷たく、湿り気があって畳んでしまうことができません。アパートの一階にあるコインランドリーで乾燥させなくてはなりませんでした。私は着たままのコートの襟を立て、かごを手に再び外へ出ました。アパートの外階段を下りていると、冷たいものが頬にあたりました。いまにも雪になりそうな雨でした。
コインランドリーに洗濯物を入れてしまうと、私は財布に小銭がないことに気づきました。それで、自販機で温かいコーヒーを買いました。乾燥機が大きな音を立てて回り始めると、私はコーヒーを口にしながら、ようやく河野さんへ連絡をとることに思い至りました。今日も彼女とランチを共にしているはずでした。部屋のある三階まで戻る時間すら惜しく、私は目の前にあったピンク電話に十円を入れると、アドレス帳を繰って電話を掛けました。
深夜二時を回っているというのに、河野さんはすぐ電話に出ました。
「あの、深夜にすいません。その」
「神田君?」
「あ、え、はい。その、洋子が。洋子が、家にいないんです。今日はランチを食べた後、どこに行くとか言ってませんでしたか。なにか、なんでもいいんです。何がしたいとか、どこへいくとか、誰に会うとか、その、探す当てがなくて、何か知り……」
「落ちついて。洋子はここにいますよ」
「本当に?」
「本当。ちゃんといるよ。安心して」
「はあ、そうなんですね。よかった」
私は腰が抜けて、冷たい床に座り込んでしまいました。受話器のコードが伸びきっています。
「きょうは一日どこかで遊んでたんですか? というか、あれ? 河野さん仕事は?」
「いやいや、今日は食事をするだけの予定だったのよ。いつもの店に集合だったんだけど、洋子がね、会社の従業員入口のところに立ってさみしそうにしてたのよ。私が昼休みに出てきたときにね」
「そうなんですか」
私は長くなるなと思いながら立ち上がり、財布の小銭をピンク電話の上に並べて、そのうちの一枚を電話に投入しました。
「それで青白い顔をしてるから、心配になって手を握ったらすごく冷たくて。熱はないようだったけど、おそらく長い間そこに立ってたんだと思う。それでひとまず会社の中に連れて行って、お茶を飲んで温まったの。ストーブの前でね。もちろんみんな顔を知ってるから、あれどうしたの、なんてみんな声をかけて行くんだけど、洋子はいまいち反応しなくて。ああまずいな、何があったんだろうと思ったのよ」
「で、何か言ってましたか」
「それがね、体が温まって血色も戻ると目に涙をためて言うのよ。私のタイムカードって本当に置いてないのね、って」
「それは、どういう意味ですか?」
私は眉間にしわが寄るのを自分で感じました。
「私は本当に会社の人間じゃなくなったんだね、って言うの。彼女それでさみしくなったみたい。私内心ね、あなたが辞めたんでしょう当たり前じゃない、って思ったんだけど、本当に悲しそうだったし、様子もおかしくてそんなこと言えなくて。それに人前で食事できるような感じでもないし、結局私の家に連れて行ったの。落ち着くならと思って」
「洋子がそんな意味不明な事を言うのって、おれ見たことないですよ」
「私も」
「うん」
「その、あんた、また何かした?」
「ちょっと、そんな学生の頃みたいな言い方はよしてくださいよ。おれは昔と比べたらよくやってますよ。自分で言うのもあれだけど、実は今日就職が決まって一番に洋子に伝えようと思ってたんです」
「そう」
「いま洋子はどうしてるんですか」
「ようやく落ち着いて、眠ったとこ」
そこで彼女は少しの沈黙を挟んで、言葉を選ぶように続けました。
「ねえ、彼女さ、本当は会社辞めたくなかったんじゃないの」
「そんな話をしたんですか、洋子が」
「いや、はっきりとは言わないけど。でも彼女会社をやめたこと後悔してるのは、明らかよ」
「ずいぶん話が違うんだけど……」
「ねえ。どうなってるんだろう」
私はまたコインを入れました。そのコインが何枚目かもう分かりませんでした。次第にどちらも黙りこむ時間のほうが多くなっています。
「あのね、思うんだけど」
河野さんが切り出しました。
「私たち、洋子の話をちゃんと聞いてなかったのかもよ。たぶんだけど、私たちが思っている以上に彼女は自分の選択に自信がないみたい」
「そうは見えないけどな」
「そういう風に考えるのが、間違ってるんだよ」
「おれたち、というか主におれが、洋子の気持ちをもっと斟酌してあげていたらよかったと」
「そう」
「いやでもさ、会社辞めると言い出した時もそうだけど、彼女はいつだって言いだしたことを貫くし、それが彼女らしいところだと思うんです。河野さんも知ってるでしょう?」
「そうだけど、うん。でも、ねえ」
「ん?」
「本当にそうなのかな。今日話してて違うような気がしてね」
「またそんな」
「もし自身のなさをかき消すために意固地になってたんだとしたら、どこかで折れてもおかしくはないよね」
コインの数と同じで、私はもう何度黙り込んだか分かりませんでした。
「じゃあ、おれがこれまで見ていた彼女は一体何だったんだろう」
「ん?」
「いや、なんでもないです。今日はとにかく、迷惑掛けてすいませんでした」
電話はそのようにして終わり、君は次の日、昼前に一人で家に帰って来ました。帰ってきた君の表情は昨日と変わらぬ笑顔でしたが、私にはどこか、よそよそしく感じられました。
君はその後も度々いなくなりました。大抵は河野さんの家にいましたが、一度は生まれたばかりの奈美を抱いたまま、霧雨の街を傘もささずにさまよい、見かねた通行人に保護されたこともあります。その頃になると、君はこれまでになした選択のすべてに後悔を感じているようでした。ことあるごとに「私どうしていいかわからない」と付け加えて物事を中途半端に投げ出しました。あるときは君が朝食のみそ汁を作っているときにその発作が起きて、火をつけたまま、うつろな目で奈美を抱いてソファーに座り、窓の外の遠くを眺めていました。私が洗面所から戻った時は鍋が煮えたぎっていました。慌てて火を消して彼女の顔を見ると、そこにはぞっとするほど深い疲労が刻まれていました。君は奈美を生んだことすら後悔しているのかもしれないと思うことも、ひとつやふたつ、ありました。しかし私には最後まで君がそうなった理由が分かりませんでした。間もなく君は実家に引き取られました。私は君の両親からありったけの罵声を浴び、ただひたすら謝り倒すことしかできませんでした。
*
そのころ私が正気でいられたのは、傍らに奈美がいたからだと思います。しかしその奈美も、今日は月曜だというのに、それも日付が変わろうとしているのに、帰ってきません。あの子も帰ってきません。
*
何度か河野さんを通して君と手紙のやり取りをしたことがあります。そこに君の本心は書いてありませんでしたが、察するに、君は世間から求められることを感知しすぎたのでしょう。例えばそれは、子どもができたら母は四六時中側にいて母性を発揮し、仕事からは退くといったことです。そういう「なすべき」とされることを君は自分の意志にしてしまうのです。しかし実際は、君が本当にそうしたいのか、自分でも分からなかったのだと思います。だからいつも不安で、けれどそれを覆い隠すために、わざと潔い人間の格好をして行動していたのだと思います。そしてそれにも限界が来て、君は次第に不安に押し返され始め、心身のバランスを失ったのです。
君には「したくない」という留保がなさすぎたのだと思います。そして私にはそれがありすぎたのです。いまでは勝手ながら、君についてそのような推察をしているのですが、しかし、本当のところはまったくわかりません。まったく、わからないのです。
*
私は君のことを知ろうとしていなかったのだと思います。きちんと向き合えていなかったのでしょう。考えているのは自分のことばかりでした。君に追いつくことしか考えず、君の内実など気にもしませんでした。そしてそれは、今も変わらないのかもしれません。君と同じように奈美も姿を消してしまったからです。また今日も彼女は帰宅しません。
私には奈美の消えた理由が思い当たりません。彼女がどんな友人の家に泊まっているか私は知りませんし、彼女自身の行きそうな場所も思い当たりません。携帯にも出てくれません。今回ばかりは私も探しようがありません。よく考えてみれば、彼女のことも私はよく知らないのです。
奈美は立派に育ちました。突然姿を消すところまで君にそっくりです。
*
奈美が帰ってきたのは水曜日でした。彼女は友人の家に泊まりに行くと嘘をついて、泣き虫男を連れ戻すべく彼の実家に向かったのです。実家にいるという情報は事前に手に入れていたそうで、数日間真夏の太陽のもとで張り込みを続け、男が家から出てきたところを突撃したそうです。彼女は見張っているうちに、彼の事を気にしていることに気が付いたそうです。帰ってきた彼女は日に焼けて、すがすがしい笑顔を取り戻していました。そして恥ずかしそうに私へ言うのでした。
「高校受験に失敗したときさ、お父さん何て言ったか覚えてる? 私すごい泣いて引きこもってたとき」
「えーと」
「これからも人生は続いていって、これと同じたぐいの困難がいくつも待ち構えている。そんな時は落ち着いてじっくり、その困難と向き合いなさい。大変な時ほどだ。そうすればいずれ、何をすればいいか見えてくる」
「へえ。そんなこと言ったか」
「言ったよ? それを思い出したの」
「で、向かい合うためにストーカーして張り込んだと」
「いいじゃん、彼も帰ってきたんだし」
「そらあ、好きな女性に帰ってくるよう家までこられて、挙句やっぱり私も好きですなんて言われたら誰だって帰るよ」
「でしょ」
「まさか。計算づくか?」
「だとしたら」
「えっ」
「うそうそ」
*
そんなことを奈美に言ったなど、私は覚えていませんでした。おそらくその頃必死だったのでしょう。彼女と向かい合おうとする気持ちが前のめり、彼女への励ましと混ざってあのような言葉が出たのだと思います。とはいえそんな、半ば私自身に向けたような言葉でも、それを彼女が記憶し、拠り所としてくれていたことに、私はどことなく安心を感じました。
私は私なりに彼女と向かい合えていたのでしょうか。私は君にできなかったことを、奈美には、ほんの少しだけできたのかもしれません。
君が損なわれたことは、これからも消えることはありません。私が君に向かい合えなかった事実も消えません。ただ、あの頃の君について、私はこれから、そうした事実をそのままに受け止めようと思います。少し時間がかかりすぎましたが、これも過去との向き合い方の一つなのでしょう。
君について