傷痕のプロローグ
恋愛の話です。
一話
そこには暗い、暗い闇が広がっていた。
僕はそこを手探りで進んでいく。
またいつもの夢だ。僕は中々自由に動かせない手足をもどかしく思いながら、前へ進もうとする。
体が異様に小さい気がする。そして僕はこの夢でいつも、何かに怯えている。恐怖の対象、怯える理由は何度この夢を見てもわからない。ただただ僕は視界を埋め尽くす暗闇の中を、歩んでいる。
不意に僕の頬に、冷たい液体が流れた。これもいつものことだ。僕はいつも暗闇の中で、泣きながら歩を進めていく。
僕は本当に涙を流しているのか?闇の中で僕は自問自答する。僕が涙を流している理由はなんだ?そしてなぜ、泣きながら闇の中を歩んでいるのだ?いや、そもそも本当に僕が涙しているのか?
僕は立ち止まる。僕が泣いていないのだとしたら、誰の涙を僕は流しているんだ?
いつもはここで夢は終わる。しかしそこで、いつもの夢ではあり得ないことが起きた。僕の前に突然、大きな鏡が現れたのだ。
不思議と怖くはなかった。だが、少しの威圧感がある。私から逃げてはいけないと、鏡が語りかけてくるようだった。
僕は何かの全ての重みを受け取ったかのような重力を感じる体を引きずって、鏡の前へ行き、それを覗き込む。
だが、そこには何も映っていなかった。
当たり前か。僕は心なしかホッとした。鏡とは、光が反射してはじめて物体を映し出すものだ。この暗闇の中には光がない。したがって、この鏡の中に僕が映ることはない。そう、僕の中に巣食う、得体の知れない何かが映ることも。僕の胸に常にある、止めどなく溢れる悲しみも、何かに対する怒りも。それらを僕は見なくてすむのだ。
しかし、安心したのも束の間、僕の背後から眩い光が差し込んできた。
僕は得体の知れないその光に恐怖を覚えると同時に、何か高揚する気持ちも心の中に湧き上がってきた。
僕はゆっくりと背後を振り返る。
光は、人の形をしていた。そして、その光の光源は二つあった。一つは、僕と同じくらい小さい形をしている光源。もう一つは僕の背丈の三倍はあるであろう、大きい光だった。
その人の形をした光は、ゆっくりと僕に近づいてきた。そして、僕の手のひらを引いていく。まるで愛しい子供の手を引く聖母のような手つきで。
僕には不思議と、その二つの光が女性のように思えた。
二つの光は――彼女たちは――僕を鏡へと向き合わせる。
僕は逃げたくなった。割ってしまったガラス細工が元に戻せなくなるかのように、何か取り返しのつかないことになるような気がしたのだ。
しかし、優しくも力強い彼女らの手は、僕をそこから離そうとはしなかった。
「逃げられないのであれば」
僕は深く息を吸った。そして、覚悟を決める。
僕は身を乗り出して、鏡を覗き込んだ。
鏡の中には、黒い渦が巻いていた。そして、黒い渦はゆっくりと、ゆっくりと消えていく。
もうすぐ、鏡を見ることができる。
そう思ったとき、途方もない大きな音が聞こえてきた。そしてそれを合図に幕が下ろされたかのように、彼女たちの姿は、光は、隠されてしまった。
どうして。
僕がそう思ったとき、自分が光の粒子となって、消えていくのを感じた。
その暗闇に鏡を残したまま、僕は消滅した。
二話
目覚ましの音が静寂を掻き乱した。
僕はその元凶へと手を伸ばし、音を止める。そして、僕はゆっくりと布団から体を起こし洗面所へと向かった。
洗面所の鏡の前に立った。僕は先ほどまで見ていた夢を思い出し、鏡を見つめる。あの鏡に映し出されようとしていたものはなんだったのだろうか。
目の前の鏡は、当たり前のように僕の姿を映し出している。
あの光は、あの鏡は、一体何だったのだろうか?僕は考えながら顔を洗う。そして、顔をタオルで拭き終わった後、まじまじと自分の顔を見つめる。
なぜ僕は同じ夢を頻繁に見るのだろう?そしてなぜ、僕はいつも泣いていているのだろう?なぜ、僕が涙を流しているにもかかわらず、誰が泣いているのだろうと思うのだろう……。
疑問を頭の中で反芻しながら歯を磨いていく。鏡の中の自分は、光の反射に従って僕の動きを忠実に再現している。しかし、この姿は本当の僕の姿ではない。鏡に映る自分と本当の自分は違うものだ。
まるで画家が風景を描いているようだ。画家は景色をキャンパスに描いていく。その画家の作風にもよるが、忠実にその景色を描くと仮定しよう。作家は絵にリアリティを求め、下書きを描き、その上に絵の具で色を塗っていく。画家はそのキャンパスに、水を他の容器に移し替えるように、景色そのものを写したい。だが、いくらその絵に近い絵を描いたとしても、景色そのものを完璧に、そのままの姿は描くことはできない。そこにはもどかしさがある。
僕は鏡を見るときはいつも、そんなもどかしさを胸に抱いていた。それはどこか悲しく、胸をかきむしりたくなるような衝動に駆られるものだった。
僕は鏡を見つめ続ける。今鏡が映し出しているのは、黒い髪と黒い目を持つ、二十九歳の男だった。
だが、僕はそれを見て、「違う」と叫びたくなった。違うのだ、ここにいる僕は、僕であって僕じゃない。そう声を上げたくなるような衝動に駆られた。
では、何が違うんだ?何が僕であって僕ではないのか?人に聞くまでもなく、鏡を見てこのような衝動に駆られるのはあまり無い経験だろう。では、何が僕にそうさせているのか?
その答えはすぐに胸の中に浮き上がってきた。それは、僕の記憶の欠如だ。
僕は歯磨きをするために、歯ブラシに歯磨き粉をそっとつける。そしてゆっくりと優しく、歯を磨いていく。
歯を磨きながら考え続ける。日々生活している間ずっと、喉に小骨が刺さってしまったかのような不快感が、違和感が僕の胸の中にはあった。
僕には、とある期間の記憶がないのだ。
歯を磨き終え、口を水でゆすぐ。そしてふと部屋にかけてある時計を見上げる。
時計の針は七時を指している。僕は洗面所を離れ、台所に行き牛乳を一杯飲んだ。そしてその後、鞄の中の荷物の確認をする。鞄の中には財布、キーケース、ハンカチ、ポケットティッシュ、スケジュール帳が入っていた。指をさして確認した僕は、昨日の夜に入れ忘れていたものを思い出した。本を入れることを忘れていたのだ。昨日は仕事で疲れていて、そこまで頭が回っていなかった。
僕は寝室の本棚の前へ行き、本棚を眺める。本棚には古典文学から現代の詩集まで、さまざまな本が並んでいた。しかし、その本棚にはドイツ文学とフランス文学の本が多く配置されている。僕はそれらの本が好きだ。特に、ドイツ文学が好みだった。あの硬く、真面目な雰囲気が僕の性に合う。もちろん、フランス文学もロシア文学も日本文学も、どんな文学も好きである。ただドイツの本が僕の心を強く引き寄せる。それだけのことだった。
僕は本棚の前で、四つの本で悩んでいた。トーマス・マンの「魔の山」、ギュンター・グラスの「ブリキの太鼓」、バルザックの「谷間の百合」、ドストエフスキーの「罪と罰」のどれを持っていこうかと迷っている。僕は現代文学なら文庫本一冊を読むのに二時間ほどで読める。しかし、古典文学や外国の文学作品を読むには、その約二倍の時間がかかる。時代背景や言葉遣いが難しいためだ。それを考慮し今日の予定を考えると、持っていけるのは一冊だろうと思った。
どの本にしようか。僕は首を捻った。どの本も魅力的だ。しかし、今日の予定を考えると、何となく恋愛の本がいいような気がしていた。どの本にも恋愛要素は多少なりとも含まれている。だが、僕は今日は恋愛を主にした本を読みたかった。
そこで、僕はバルザックの「谷間の百合」を手に取り、ブックカバーを丁寧につけていく。そして、ゆっくりと鞄の中にいれた。
もう一度時計を見る。時刻は八時を指していた。どうやらゆっくりと本を選んでいたせいで、こんな時間になってしまっていたようだ。
僕は急いで着替える。着替えは昨晩組み合わせを決めておいたので、どのような服装にしようかと困ることはなかった。そして、寝室の鏡の前で服装に乱れがないか確認する。紺色のシャツに黒いズボン。スーツにしようかと迷ったが、このくらいの方が今日の予定に合うだろうと思ったのだ。
鏡の前を離れて鞄を持ち、玄関へと向かう。玄関を開けると、暖かい日差しが僕を迎えた。僕はそのまま駐車場に移動し、自分の愛車に乗り込む。それは慎ましい軽自動車で、僕はそれをとても気に入っていた。
キーを差し込み、車を出発させる。車はゆったりと動き出す。僕は車を運転しながら、今日の予定について考えを巡らせていた。今日は、お見合いなのだ。それも、自分が働く会社の社長の娘との。
幸い道路は空いていて、待ち合わせ時間である九時に目的地に着くことは可能なようだった。また、通勤で車を運転している僕は、体が運転を覚えている。それなので、運転しながら考え事をするのは容易なことだった。
「小野くん、お見合いをしてみないかい」
頭の中で一昨日あった出来事を反芻する。あれは、朝7時の社内の廊下でのことだった。
「どういうことでしょうか」
僕は突然の社長の発言に、耳を疑った。彼は渋い顔をして言った。
「いやね、私には年頃の娘がいるのだが、一向に結婚する気配がないのだよ」
社長は僕のことを、朝早く出社するいい社員だと思っているようだった。実際、こうやって話すようになったきっかけも、朝会社の自動ドアを通る際、「君はいつも早いね」と声をかけられたことだった。そして、僕と社長はここ数ヶ月、それぞれの仕事をする部屋に着くまで、歩きながら雑談をしている。
「前娘さんのことを伺いましたが、まだ二十四歳でしたよね。まだ結婚には早いのではないでしょうか」
僕の言葉に、社長は首を横に振る。そしてその時、僕たちの後ろで足音が聞こえた。社長は僕の手を軽く引っ張り、「場所を移そうか」と言い、有無を言わさず僕を社長室まで連れて行った。僕は、朝やりたかった仕事があったのにな、と思いつつ着いて行く。雇われる身としては、上の、しかも社長の言うことには逆らえないのだ。
社長は僕に座るように勧め、自身も僕の向かいの席に座った。
「娘には婿をもらうか、娘が社長になるかして、会社を継いでもらわなければいけない」
社長は拳を握りしめ、力強く言った。継いでもらわなければならない、か。僕はそっと社長に分からない程度に、ため息をついた。確かに社長の言うことには一理あるかもしれない。だが、彼の言葉には、自分の言うことに従わせたい、と言うニュアンスが感じられた。
僕はそう言う人間が、この世で一番嫌いだった。理由は分からない。だが、自分の言うことは絶対正しいのだと思い、その主張を人に押し付ける人間が、何より嫌でたまらなかった。自分の血縁関係に当たるものが会社を継いでほしいと言う気持ちは分かる。しかし、まだ二十四歳の女性に、「自分の会社を継がせたいから結婚しろ」と言うのは勝手ではないのか。
僕は心の中でそう社長を批判した。しかし、僕は雇われの身である。そんなことを考えてはいませんよ、と言うような笑顔を貼り付け、社長にこう言った。
「そうなのですね。では、なぜ私なのですか?」
「それは、君が優秀な人間だからだ。若くして役職に就き、朝早く通勤して来るほど真面目だ。この会社に将来の社長にふさわしいと思ったのだよ」
社長は真剣な顔をして言った。
「いえいえ、そんな。買い被りすぎですよ」
確かに僕は役職に着いている。そして、朝早く通勤しているのも事実だ。しかし、それだけで娘との結婚を考えるというのは如何なものだろうか。その思考を読んだわけではないだろうが、社長はこう付け足した。
「それに、君は好青年だしな」
青年という歳でもないだろうと思いつつ、僕は曖昧に笑った。
そして僕はその話を断れずに、現在に至る。
あれこれ考えているうちに、僕はすでに目的地のカフェの近くに来ていることに気がついた。僕はカフェの駐車場に車をとめ、入り口へと歩いていく。
僕は入り口の扉を開けた。
これが、僕の運命を変える出会いになるとも知らずに。
カフェは人で賑わっていた。
実は僕は社長に娘さんのSNSを教えられて、彼女と連絡を昨日から取り合っていた。そこで、彼女に連絡して居場所を聞く。前日に彼女は九時にカフェの中で待っていると言っていた。
「おひとり様ですか?」
店員が僕に質問をする。僕は手を横に振って、「いいえ、中に待っている人がいるはずなので」と言う。ちょうどその時、携帯のバイブ音が鳴った。彼女から返信が来たようだ。
「すみません、少しバスが遅れてしまっていて。中に入って先に待っていてください」
僕は少し拍子抜けしたが、その旨を店員に伝え、先に席に案内してもらうことにした。
僕は席につき、「谷間の百合」を取り出す。そして、水を運んできてくれた店員に、一杯のコーヒーを頼んだ。
早速本の最初のページを開き、文章を目で追っていく。数ページ読む間に、コーヒーが僕の前に置かれた。そして、その時携帯がメッセージがあることを告げた。僕は本を置き、携帯を手にする。通知画面にメッセージが表示される。
「もうすぐ着きます。どの席にいらっしゃいますか」
僕はぐるりと店内を見渡して、自分の席の位置と服装を確認する。
「入り口から見て左側の窓側の席に座っています。服は紺色のシャツを着ています」
メッセージを送信した後、僕はコーヒーカップに指をかけ、飲もうとした。ぼんやりと、確かカップの正式な持ち方があったな、しかしあれは持ち方が難しい、などと考えながら。しかしその時、背後から声を掛けられた。
「小野さんですか」
鈴を転がすような声だった。僕はコーヒーカップを置いて、「はい、そうです」と振り向いた。そして僕は、後ほどこの時のことを振り返った際、あの時コーヒーカップを机の上に置いて本当に良かった、と心の底から思うことになる。それほどまでに彼女を見たときの衝撃は凄まじかった。
「遅れて申し訳ありません」
そう謝る彼女は、氷の彫刻のように美しかったのだ。
ぽかんと口を開ける僕をよそに、彼女は僕の席につく。僕は呆然としながらそれでも、「何か頼みますか」と彼女にメニューを手渡す。彼女は「ありがとうございます」と礼を言い、メニューに目を通し始めた。
僕は頭のどこかで、あまり見つめすぎては失礼だと考えた。そこでコーヒーをゆっくりと飲むふりをしながら、彼女をそっと観察する。
背中まで伸びる、艶やかな絹のような漆黒の髪。形の良い唇。高く品の良い鼻。そして何よりも目を引くのは、彼女の目だった。
「紅茶にします」
彼女はそう言って呼び鈴を鳴らす。そして、すぐ来た店員に紅茶を頼む。店員が去ったあと、彼女はこちらを見た。僕の目と彼女の目が合う。
彼女の目は、吸い込まれそうなほど美しい青い目をしていた。そして、太陽が微笑むのをそっと見守る青空のような優しい色をしていた。
「小野さん、どうかされましたか」
彼女はそう僕に問うてきた。しかし、そこには新鮮な色合いはなかった。慣れているような口調で、またか、と言うような含みがそこにあった気がした。実際、その通りなのかもしれない。
「いえ、なんでもありません」
僕はそうやって笑って誤魔化す。彼女も少し顔に笑みを浮かべると、青い目で机の上の本を見る。
「本、お好きなんですか?何の本か聞いてもよろしいですか?」
「これはバルザックの『谷間の百合』です。本は好きですね。読書が趣味なもので」
そう答えると、彼女は目を輝かせて身を乗り出してきた。
「バルザック!フランスの偉大な作家ですね、『ウージェニー・グランデ』や『ゴリオ爺さん』などを書いた!」
物静かな女性かと勝手に思っていたので、僕は少し驚く。そんな僕に気がついていないのか、彼女は続ける。
「フランスに生まれて、孤独な少年時代を過ごしたのですよね。出版などの事業にも手を出して――」
彼女は熱心にバルザックについて語った。そしてひとしきり語ったあと、彼女はふと我に帰ったようだ。
「すみません、一人で話してしまって」
少し頬を赤くしながら、消え入るような声で謝罪をする。
「いえ、いいんですよ」
僕はそう答える。そしてその時、彼女の注文した紅茶を店員が運んでくる。「ありがとうございます」と彼女は頭を下げると、紅茶を自身の真前に置く。
「自己紹介をしましょうか」
僕はそう言ってコーヒーを一口飲んだ。喉を潤そうと思ったのだ。僕は、と言いかけて、いや、ここは私はと言ったほうが適切だなと思い直す。
「私は小野菊夫と申します。北沢さんのお父様の会社に勤めています」
彼女の父親の苗字が北沢だったので、僕はそう呼びかけた。
「私は北沢桜です。大学院で文学を学んでいます」
彼女の自己紹介に、僕は少し驚いた。まさかまだ学生だったとは。
「都内の大学院に通ってらっしゃるのですか?」
「はい、東京大学です」
僕はまたしても驚かされる。僕の母校も東京大学だったからだ。
「偶然ですね、私の母校も東京大学です。と言っても、私は院には行かなかったのですが」
「そうなのですね、先輩に会えて嬉しいです」
彼女は柔らかな笑顔をこちらに向ける。
「東京大学へは学部生の頃からいらっしゃったのですか?」
「はい、一年生の頃からです」
「専攻は何を?」
「ドイツ文学です」
僕はそれを聞いて嬉しく思った。前述した通り、僕はドイツ文学が好きだからだ。
「へえ!私はドイツ文学が好きなんですよ。と言っても私は専攻は法律だったのですが」
「法律だったのですね。私、専門用語とかを覚えるのに弱くて、法律専攻の友達にいつも憧れてました」
「いやいや、文学分野も抽象的なことを考えて大変でしょう。趣味で本を読むわけではないのですから。北沢さんはその上院進されて……すごいと思います」
「ありがとうございます。でも結構理系の知り合いには馬鹿にされるんですよ。文学専攻は楽でいいなって」
「酷い、そんなこと言われたんですか?」
僕は憤慨した。確かに文系は理系に比べて楽そうに見えるかもしれない。実験などが無いからだ。しかし、文系も論理を使い、思考を整理してレポートなどを書かなければならないのだ。たくさんの本を読み、考えをまとめ上げなければならない。馬鹿にする方が想像力のない馬鹿だと思った。
「まあ、気にしてないので大丈夫です」
彼女は曖昧に笑う。
「小野さんはドイツ文学がお好きと言いましたよね?どの作品や作者が好きですか?」
「私はトーマス・マンが好きですね。短編集や、ヴェニスに死す、魔の山などが好きです。あとギュンター・グラスのブリキの太鼓も」
その時、彼女は目を輝かせた。そして、バルザックの「谷間の百合」の話をした時よりも更に身を乗り出してきた。
「私もトーマス・マンやギュンター・グラスが好きです!特にトーマス・マンは……」
彼女は再び語りだした。彼女の話していることは完全には理解できなかったが、彼女の話は上手で、面白かった。まるで美しいクラシックを聞いているかのように、僕の耳に甘く響いた。
「あ、すみません私ったら、また語ってしまって」
語り終えた後、学習能力がない、とこれまた小さい声で呟きながら、彼女は頭を下げる。
「いえいえ、楽しそうに話をする人が語るのを聞くことは好きですから」
「そう言っていただけると助かります」
彼女は右手を顔に当てながら微笑む。
「……おっと、もう十一時ですね」
僕はカフェの壁にかけている時計に目をやり、言った。彼女は僕の目線を追いかけるかのように時計を見て、「あら」と言った。
「小野さんはこの後用事はありますか?良かったら少し歩きませんか?」
「十五時から少し予定がありますが、まだまだ時間はありますから問題ないですよ。そうですね、歩きましょうか」
僕は既にコーヒーを飲み終わっていたので、彼女が紅茶を飲み終わるまで、視線を宙に彷徨わせながら待った。人が飲んでいる姿を凝視してはいけないと思ったからだ。それには、ついつい彼女の姿を見たくなる衝動を抑えなければならなかった。
やがて彼女が飲み終わり、僕たちはレジへと向かう。彼女はお財布を出そうとするが、僕はそれを断る。
「女性に、それも学生さんにお金を払わせるわけには行きませんから」
「でも」
「いいんですよ、その分本などのお好きなものにお金をかけてください」
紅茶一杯なら払うことなど容易いことだ。むしろ、払おうとしてくれる律儀な子なのだと好感を持った。
「ありがとうございました」
会計を済ました後、彼女はそう言って頭を下げる。
「いえいえ。さて、どこに行きましょうか?」
「そうですね、それではこの近くにある運動広場に行きませんか?」
「いいですね、行きましょうか」
彼女の提案に、僕は頷きながら僕は足を踏み出した。
傷痕のプロローグ