狂言誘拐者からの手紙

19歳くらい。

 兄さん。
 これ迄いちどとして貴男をこうよんだことはなかったけれども、いま初めてわたしは貴男を兄さんと慕うのです。兄さん。わたしは、好い妹ではありませんでした、いな悪い妹でありました。こんなわたしを赦してくださるかしら、いいえ赦してはくださらぬでしょう、然るにわたしは、貴男をとつぜんに兄さんだなんてよぶのです。けれども断じてわたしは兄さんに甘えたいというのではないのよ、信じてくださるかしら。
 わたしは兄さんのことを慕わなかったとお思いでしょうね、ひがみ屋の貴男ならば、ほんの一寸恨んでさえいらっしゃるかもしれません、でもそんなのは兄さんの認識の誤謬よ、わたしは兄さんを愛していました、ほかのどの女よりも愛していました。と云って、兄さんと恋愛したいだなんておもってやしないわ、兄さんが余り女に好かれなかったことを、からかってみただけなの。あら、眉をそむけないでくださる? せっかくのチャームポイントが台無し、兄さんは素敵よ、妹の私からみればね。
 冬の夜、高層マンションの屋上で、いくたびわたしはくるしいもの思いに耽ったことでしょう。十六の時分、わたしは妻子あるひとと愛し合っていた、それはいまではまぼろしの如くにおもわれるけれども、あの刹那刹那はわたしのむねに、いたみを伴なう閃光を曳き残しているの。あの甘くおもおもしい感情、かの沈鬱な花々、ひとときしか咲くことを赦されぬ薔薇、たといそれがきえうせてしまったとしても、それはけむりのように高く昇り、そうして、黄昏に融かれてしまうのです。あの一瞬は永遠だった、彼もそうおもっていてくださっていたら、うれしいのだけれども。
 然るにわたしは、ある晩にべつの男の愛撫をうけてしまった、いいえ非難しないでください、わかってる、わかってる、おのが醜さを、わたしはこれでもかという程に自覚している、わたしは醜い、愛の奴隷だ、さながら愛するために生まれて、愛されるために苦しんで、愛するために死ぬような。私は獣、それで好い。
 そうして、真冬の夜の空気はつめたかったのだけれども、冷えた空で吸う煙草はおいしいわね、低温で燃やすのが、煙草を美味にするひけつよ、けれどもわたしの胸は燃えさかっているがゆえに、この恋の味ほど苦いものなんてないのです。なんでも、適切と云うものがあります、それがものごとを愉しむ方法です、わたしはそれを識りません、だれからも教わっておりません、いまどき英才教育だなんておかしいわ、そうお思いになりません? そんなもの、わたしになんにも教えなかった。兄さんはおもわないかしら、強いものね。
 兄さん。
 告白いたします、わたしには性癖というものがあるの、変なことを考えていらしてなくって? ちがいます、そういう話じゃないわ、わたしは絶望に身を撚ると、高いところからおのが身をつきおとして、地に打たれる夢想に耽るのよ、いくどもいくども、わたしは飛び降りるの。落ちるわが身は空を切って、したから吹きつける風がここちよい、そして地に打たれて砕け、わたしの肉体は、とるに足らぬ物質へと還元されるの。それはなんという悦びでしょう、なんと鮮烈な瞬間でしょう、これも永遠なのね、この瞬間も永久に吸われるの、わたしは変態よ、異常性癖者。
 兄さん。私は、だれかに誘拐されたいのです。なにか力づよい腕にがしと抱かれ、そうして、なにか美しいところに運びこまれたいのです、この痛みばかり充ちた世界で、私はおのが脚であるくのが怖いのです、これは横暴な希みなのかしら。

 十七の夏、私は事件を起こしました。
 狂言誘拐。
 この、もはや有りふれてしまった事件をおこしてしまったこと、迷惑なことはわかっているわ、然るにわたしはそれをおこした、なにか烈しくいたましいものがわたしにそれを引き起こさせた、それがなにかというのを、ほかでもない、あなたに説明したいのです。
 それというのも、わたしはあの妻子あるひとと別のかたを愛してしまい、みずからの恋をもてあまして、その余りの巨大な情念をもちきれなくて、そうして、どうしたら好いかわからなくなって、けれども観念は、わたしを誘拐なんかしてくれなくて、いつものように醜いわたしのことなんか無視をして、そうして、わたしはついにおのが身を意志でもって誘拐することにしたのです。
 わたしは醜いひと、罪ぶかき魔女、そのひとは十六の冬にわが身を愛したかたではありません、別のひと、そのひとは三十をこえたばかりで、特別に美男ではないわ、腕もなんだかみょうに毛深くて、お酒ばかりのんでいるひと。でも彼ってとてもかわいいわ、優しいひと。
 そうして、恋人からの愛はわたしをくるしめて、もういやになって、わたしは、そのかたに抱かれました。
 もうどうすれば好いのかもわからない、自分がどうしたかったかもわからない、どこかへ行きたい、もっと美しい場所へ行きたい、ここは生き辛い、だれかわたしを強引に連れ去ってほしい、でも彼はそんなことしてくださらないわ、なぜといって優しいから。 これ、皮肉です。
 わたしはある場所へ行きました。家族へ、あんなにも嫌悪していた、憎悪さえしていたあの家へ手紙をおくり、真夏の都会は夜でも暑い、手がふるえる、独りきりだ、これからどうしよう、そんななかで、そのひとに邂逅したの。
 兄さん。
 つぎにしるす、拙い詩のような手紙のなかみを、兄さんは信じてくださるかしら。信じてくださらなくても好いわ、けれどわたしはこれを書く、なにかがわたしに、それを強いるから。
 彼は夢のような美青年で、しかしなにか沈鬱なものがその顔を翳らせ、そのいたましい色香は、わたしに欲求をかんじさせました。
「あなたはだれ?」
「僕は万有引力さ。君を誘拐しに来たんだ」
 そしてわたしは彼に抱かれた、もとめられて抱かれるものの悦び、兄さんにこれがわかるかしら。気がつくと、わたしの肉体は空を切り、下からは強烈な風が吹きつけ、みるみるうちに地は接近し、そのなかで、かれのうつくしい顔は、あんなにもわたしがきらっていた波にも似ていて、それでもわたしは、彼に身をゆだねて、そうして、わたしは、最後の瞬間に、かれの本当の名前を見出したの。それは「死」でした。…

 兄さん。
 そろそろ終わりにするわね。貴男はわたしを責め立てるでしょう、私の醜さ、異常性癖、けれどもやはりこれだけは、言うつもりはありませんでした、けれどわたしの手をなにかが動かすの、あんなにもわが唇はかたくなにつぐんでいたのに、ああ、これだけは言わせてください、わたしは兄さんを、愛していた、こころから、こころから貴男を、愛していました。貴男からのキスを、ひたいでいいから享けたかった、いちどでいいから貴男に抱擁されたかった、然るに貴男はわたしに目もくれなくて、わたしを軽蔑して、ああいくたびわたしは、ベッドで嗚咽をもらしたことでしょう、わたしが誘拐されたかったのは貴男、ただ貴男だけ。わたしは兄さんだけを愛していた、なのに貴男はわたしにつめたい目ばかりをむけ、わたしをなにかとるに足らぬもののようにあつかい、そうして、わたしはこの事件におこすに至ったのよ。
 兄さん。
 いまでも、胸にのこるかのあこがれが、たびたびわたしに、眩暈を感じさせます。貴男はひどいひと、悪そのもの、ひとを傷つけてばかりのわるい男。
 兄さん。
 こんな醜い妹でごめんなさい。この手紙はもしかすると、逆恨みの手紙なのかもしれない、ああこんな自分がいや、壊したい、いっそ壊してしまいたい。
 兄さん。
 もしこんなわたしを赦してくださるのなら、ああそんなことはないでしょう、決してないでしょう、でももし赦してくださるのならば、いちどで好いから、この弱いからだを、やさしく抱きしめてほしい。それはなんという悦びなのでしょう、想像することさえもできないのだけれども 。
 兄さん。
 わたしは、貴男のことを、まだ愛しています。

          貴方のように生きられなかった、妹より

狂言誘拐者からの手紙

狂言誘拐者からの手紙

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-05-01

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted