桜のような

春告黎

それは気が付けば在った。海に桜色が散りばめられるなんて誰も考えていなかっただろう。人々はその美しさに目を奪われ、群がった。海には絶え間なく人が集まるようになった。テレビにも取り上げられた。
 今朝のニュースも同じことが流れている。郁斗(いくと)は牛乳が入ったコップを手に持ちながら、テレビを眺めていた。画面には海中から木が生え、見事な桜を咲かせている映像があった。  
奇しくもその海は郁斗の住んでいる家から近かった。郁斗は頭の中で数秒考えを巡らせたあと、椅子から立ち上がった。タンスから適当な服を選び、貴重品だけを持って玄関に向かった。
「郁斗、どっか行くの?」
 二階から姉の声が聞こえてきた。まだ眠たそうな声だ。
「海行ってくる」
 郁斗は靴紐を結びながら答えた。玄関のドアノブに手をかけたとき、また姉の声が聞こえた。
「桜でしょー? 出掛けんのめんどいから写真撮ってきて」
 姉の言葉に郁斗は小さくため息を吐いた。「わかったよ」と返事してから家を出た。暖かい空気が郁斗の体を包み込んだ。郁斗はあまりにも朗らかな空気に目を細めた。高校三年生になってからというものの、勉強漬けの毎日を送っていた。家の都合で国立受験しか許されず、更には姉が偏差値の高い国立大学に進学したせいで、プレッシャーに押し潰されそうだった。今日も休日ではあるが、四月だからと気を抜かず朝から夜まで勉強をしようとしていた。しかし、ニュースを見て気が変わった。たまには散歩でもして気分を良くしようという気持ちになったのだ。
 郁斗は顔を上げ、空を見た。青空に白い雲がちらほらと浮かんでいる。外はこんなにも綺麗だったのかと格好つけたようなことを思いながら、足を海へと進めた。
 海に近づくにつれ、人通りが多くなっていくのに郁斗は気が付いた。その多くは若者が多く、特に恋人たちが多かった。やはりクリスマス時期のイルミネーションと同じように美しい場所に恋人と訪れたいと気持ちがあるのだろうか。恋愛に疎い郁斗はその心理がわからず、首を捻った。恋人と一緒ならどんなところでも美しいのではないかという疑問も浮かんできた。もっともそんな高尚なことを考えている恋人たちは少ないとは思うが。郁斗は更に足を進めた。
 海に着いたとき、郁斗は時計の針が止まったように感じられた。あまりにも幻想的な風景に今が夢か現かも信じられなくなっていた。郁斗はようやく足を動かして海の傍へ寄って行った。
 桜の木は立派に枝を広げ、花を咲かせている。ちらちらと花弁が一つ、また一つと海面に落ちていく。そのたびに蒼い桜が咲くように波紋ができる。その様子もまた幻想的だった。この桜の周りだけ別世界のようだった。
 郁斗が現実に意識を戻したとき、聞こえてきたのは人の話し声だった。桜の木を見てははしゃぐ声とシャッターを切る音、動画を撮影する音、それらを聞いて郁斗の心の中に薄いもやがかかったような気持ちになった。煙と言ってもいい。どちらにせよ、いい気はしなかったのだ。綺麗なものを見ると写真や動画を撮りたくなったり、声を上げたりしたくなるのは郁斗にもわかる。しかしどうも納得がいかなかった。何故なのかは郁斗自身にもわからなかった。
 郁斗は踵を返して人の群れから遠ざかった。砂浜は歩きづらくて何度か靴の中に砂が入り、いらいらしながらも砂浜の上のほうへ歩いて行った。桜の木が人差し指くらいの大きさになったとき、郁斗はようやくその場にあった岩に腰を下ろした。そしてそこから桜の木を眺めた。ここから見える風景はやけに広く感じた。波打ち際に棒状のものが無数に立っている。人間だ。その光景をぼんやりと眺めていると、気分が悪くなった。郁斗は目を擦った。視界がはっきりとして、また元通りの桜の木と人々になった。疲れているんだ、と心の中で自分を納得させた。
 郁斗はしばらくの間、桜の木を眺めた。そのうち今度は黒い感情が現れてきた。郁斗は気が付けば、貧乏ゆすりをしていた。その感情がなんなのかわかっていたが、そんな感情を持っている自分に嫌気が差した。
「ねぇ、坊や」
 肩越しに声をかけられ、郁斗は振り返った。そこには日傘を差して微笑んでいる白髪の女性がいた。顔に小皺が刻まれているものの、美しさがそこにあった。服も――郁斗は洋裁に詳しくないが――上等なものを着ていて、まさに「貴婦人」という言葉が似合うような女性だった。
「私もそこに座っていいかしら?」
 貴婦人は郁斗の横を丁寧に掌で示した。
「いいですけど……服が汚れてしまいますよ」
「大丈夫よ。服なんて」
 貴婦人は優しく微笑むと岩の上に座った。そして海の方を見て、驚いたような声を上げた。
「あら、あんなところに桜が。不思議ね」
「知ってて来たんじゃないんですか?」
「私は散歩で来ただけよ」
 貴婦人はそう言ったあと、黙って桜の木を眺め始めた。郁斗も桜の木を眺め始めた。しかし消えかけた黒い感情が出てきた。かと言って帰ろうとしてしまえば、この貴婦人に嫌な思いをさせてしまうのではないかとも思った。そんなこと気にしなければいいのだが、この貴婦人があまりにも柔らかく嫋やかな雰囲気を醸し出していることから、郁斗は立ち上がることが出来なくなってしまった。
 その時、貴婦人が小さな笑い声を上げ始めた。郁斗が横を向くと、貴婦人と目が合った。
「僕、何かおかしいことでも……」
 郁斗は普段使わないような一人称を使い、丁寧に聞いた。それがこの貴婦人には正しい話し方だと思ったからだ。
「ごめんなさいね。あまりにも眉間に皺が寄っているものだからおかしくなっちゃって」
「あ、ごめんなさい!」
 郁斗は顔に出ていたことが恥ずかしくなり顔を隠した。すると貴婦人は更に笑い声を上げた。
「やっぱり私は邪魔かしら?」
「いえ、そうじゃなくて」
「じゃあ、あの人たちが邪魔なのかしら?」
 貴婦人はそう言ってまた海の方を見た。相変わらず人々が桜の木に群がっている。その人々がまた棒状の何かに見えて、更には蟻のように見えた。
「……はい」
 郁斗は気が付けば返事をしていた。貴婦人は「そう」と優しく言って黙り込んだ。貴婦人はもう桜の木を見ていなかった。郁斗は返事をしてしまったことに後悔していた。不快に気持ちにさせたかもしれないとちらりと横目で貴婦人の顔を見た。貴婦人は自分の足元を見ていた。その横顔はとても穏やかだった。
「坊や、今度はどうしたの?」
 ふと、貴婦人がこちらを向いていることに気が付いた。貴婦人は不思議そうな表情を浮かべている。郁斗は慌てた。
「いえ、不快な気持ちにさせてしまったのではないかと思って……」
「そんなことないわよ。仕方ないもの、群れはいつだって醜いわ」
貴婦人の口から出てきた言葉に郁斗は驚いた。その言葉は少し尖っていて、薔薇の棘のような痛みを覚えたからだ。こんなに柔らかく陽だまりのような人からそんな言葉が出てくると思わず、郁斗はしばらくの間、硬直した。そして今の貴婦人の言葉について考え始めた。「群れは醜い」という言葉に郁斗は納得していた。ならばあの桜はどうなのだろうか。五つの花弁が集まって一つの桜花ができる。その桜花が身を寄せ合って一房の桜ができる。その一房が集まり桜の木ができる。それは群れだろうか。そして醜いだろうか。郁斗はそうは思わなかった。じゃあ何なのだろうか。郁斗は知りたかった。横にいる貴婦人に尋ねればわかる気がした。その時、貴婦人は岩から立ち上がった。
「私はもう行くわね。じゃあね、坊や」
 貴婦人は颯爽と歩き去ってしまった。郁斗は呼び止めることもできずに貴婦人の後ろ姿を眺めた。肩あたりまで上げた手を郁斗はだらんと下した。郁斗は海を見た。桜の木の周りには相変わらず人が群がっていた。郁斗は小さく「いやだ」と呟いてから立ち上がった。写真を撮り忘れたことに気が付いたのは、夕飯の時だった。
 郁斗は夕飯のあと、部屋に戻り勉強をしていた。しかしどうにも集中できずにいた。頭の中に昼間出会った貴婦人のことが思い浮かんだ。あんなに人間が群れている中であの貴婦人だけが人間でないように思えた。きっと人混みの中にいたとしても見つけられるだろうと郁斗は自信があった。郁斗は勉強道具を片付けた。そして物思いに耽った。その姿を別の人が見れば恋の病を患っているように見えるだろうが、郁斗はそんなちゃちなものではないと言い切れる自信があった。憧憬とも違った。恋なんかよりもっと透明で尊い思いを持っていた。それに名前をつけることなど到底できやしなかった。

 次の日曜日、郁斗はまた海に来ていた。期待を胸に抱いていた。今日も人が多く集まってきていた。しかし先週来た時よりかは人が少なくなっていた。話題性がなくなってきたのかもしれない。例えば、この桜を煎じて飲んだ暁には美しくなれるとか長生きできるとか、あるいは永遠に枯れないとか、そういう現実ではありえないことでも起こったらもっと有名になるとは思うが、郁斗の目の前に咲く桜はただの美しい桜だった。
 ここに来て桜を見に来ている人たちは何をしたいのだろうか。美しい桜を見て余韻に浸りたいだけなのか。それを撮ってその美しさを一枚の紙きれの中に収めて永遠の美しさを手元に置きたいのか。それとももっと醜い思いが人間の中に巣くっているのか。
郁斗は海の傍に群がっている人たちを一人ひとりじっくりと観察した。若いカップルは桜の木を背景に写真を撮っている。写真を撮り終わったあと、女の顔から笑顔が消え、真剣というか感情を失ったような顔でスマホを操作し始めた。SNSに投稿するのだろう。
家族で来ている人もいた。父親と母親はまだ若い。子供たちに目を配らず、二人で浜辺に座り、桜を見ている。陶酔しているようにも見える。子供たちは砂浜で走って遊んでいる。一番小さな子供が転んで泣き始めた。それに気づいた母親は「泣かないのー」と桜の木をボーっと見ながら言った。
大学生らしき男女のグループはまだ春だというのに水着姿ではしゃいでいた。一人の男が女に何かを言われ頷いた。郁斗は嫌な予感がした。男は仲間に向かって呼びかけた。
「俺、桜の木まで行って枝持ってくるわ!」
 銃弾で撃たれたような衝撃を郁斗は覚えた。仲間は盛り上がっている。悪びれもせず、ただの遊びとして、娯楽としてあの桜の木を折ろうとしている。それはとても無邪気な気持ちで。男はさっそく海の中へ入っていった。桜の木までどのくらいだろうか。そんなに近くないが、泳ぎ続ければ辿り着くだろう。
ダメだ、ダメだと口の中で呟き続けた。足を一歩、二歩と前に出した。震えているのがわかった。止めなくてはならない。そんなことをしたらあの桜は。
「坊や、大丈夫よ」
 肩を叩かれた。後ろを振り向くと先週会った貴婦人がいた。郁斗は見開いた目で貴婦人の顔を見つめた。貴婦人はにこやかに笑った。
「辿り着けないわよ、あの桜には」
 確信を持ったその言葉の響きに郁斗は体の力が抜けた。貴婦人がそう言うのであればそうなのだろうと根拠もなく思った。
 泳いでいく男をぼんやりと眺めていたが、貴婦人の言う通り、一向に桜の木に辿り着く気配がしない。男は泳ぐのをやめて浜辺の方へ戻ってきた。
「やっべ! 全然着かねぇんだけど!」
「え~、桜欲しかったのに~」
 女は心の底から残念そうに言った。その様子を気味悪いと思った。そして「お前ごときが桜を手にすることができるか」とも思った。そう思っている自分に嫌気が差した。
 郁斗は貴婦人の方を見遣った。貴婦人は郁斗の視線に気が付くと、お淑やかに笑った。
「ほら、辿り着けなかったでしょ?」
「はい。でも何でわかったんですか?」
「あら、そんなの簡単よ。美しさは簡単に触れないのよ」
 貴婦人はさも当たり前のように言った。その言葉が郁斗の胸の内に響き渡った。それが何度も呼応して郁斗の中に溶け込んでいった。美しい言葉だった。
 その時、郁斗は先週のことを思い出した。
「あの、すみません。聞きたいことがあって」
「どうしたの?」
「先週、あなたが言ってた『群れは醜い』って言ってた言葉について聞きたくて。群れが醜いのであれば桜はどうなるんでしょうか。桜は一つの花弁が五つ集まり、それが更に身を寄せ合い、一つの枝を作る。そして枝が集まって一本の桜の木ができる。桜もまた群れているんでしょうか? だとしたら桜は醜いんでしょうか。それとも一般的な群れとはまた別なんでしょうか。僕、それがずっと気になって」
 郁斗が顔を見上げた時、貴婦人はポカンとしたような顔をしていた。郁斗は自分が喋りすぎてしまったことに気が付いた。郁斗が謝ろうとした時、貴婦人は心底可笑しそうに笑った。郁斗はなんだか恥ずかしくなって俯いた。
「ごめんなさいね。あまりにも良い目をするものだから」
「目?」
「ええ。『知りたい』って目の奥から訴えてきてたわ。キラキラと輝いていて星みたい」
 貴婦人はそう言ったあと考えるような素振りをした。
「まずね、群れがどうして醜いかわかるかしら?」
「えぇっと……」
 郁斗は考えた。しかし、答えらしきものは浮かばなかった。貴婦人は郁斗の様子を見て、口を開いた。
「そこに欲があるから群れは醜いのよ。しかもその欲がバラバラの方向を向いているから一貫性がなくて汚れて見えるのよ」
「じゃあ……」
 郁斗はそう言って桜の方を見た。その時思わず息を飲んだ。男女のグループはもうそこにはいなかった。人も少なかった。桜の木は変わらず海の中で姿勢を正して生えていた。何も変わっていないのに、より美しく見えた。そのうち郁斗の視界は滲みはじめ、涙を零した。瞬きを忘れていたのだ。しかし、涙は止まらず郁斗の頬を伝う。悲しくも苦しくも辛くもない。ただそこに桜があるだけだ。その圧倒的な美しさに全てを包み込むような美しさに郁斗は安心感を抱いていた。
「桜には欲がないの。植物だからってわけじゃないのよ。一つの生命体として。そして同じ方向を向いているの。ただ綺麗に春を彩り、人々を包み込みたいという思いの方向へ。時が来れば散り、初夏に主役を受け渡すという目的の方へ」
 貴婦人はそう言ったあと、綺麗な刺繍のしてあるハンカチで郁斗の涙を拭った。優しい手付きだった。
「坊やはその美しさがわかる。透明で純粋な心を持っているのね」
「いえ、僕はそんなこと……」
 貴婦人に褒められ、郁斗は少し顔を赤らめた。誰に褒められるよりも嬉しかった。
 貴婦人は静かに笑って、桜の方を見た。その時ちょうど強い潮風が吹いた。桜の花弁ははらり、はらりと散っていった。まるで踊っているようだった。桜のワルツだ。きっと桜だけだろう、散る姿がこんなにも美しいのは。郁斗はそう思った。
「桜は永遠じゃなく、時が来れば散るから美しいのよ」
「でも、その桜の美しさは永遠ですよね。散ったあとですら美しいんですから」
「あら、難しいこと言うのね。でも面白いわ」
 郁斗は小さな声を上げて笑った。恋とも言えない気持ちが心の中に巣くっていた。美しいものを知りたい。美しい言葉を知りたい。美しい思想を知りたい。美しいあなたから美しい事を聞きたい。郁斗のその思いは大きくなっていた。
「じゃあね、坊や。私はそろそろ帰るわ」
 貴婦人は背を向けた。郁斗は何かに弾かれたように貴婦人の服の袖を掴んだ。皺にならないよう、優しく掴んだ。貴婦人は振り返った。郁斗は心臓の鼓動が速いことに頭が混乱していた。
「来週の日曜日も会えますか?」
 貴婦人は驚いたような顔で郁斗の顔を見た。郁斗は自分がそう言ったことに今更恥じらいを感じていた。郁斗はバツが悪そうに顔を背けた。その時、貴婦人の空いている手が郁斗の頭を優しく撫でた。
「会えるわよ。あなたが透明な心で願えば」
 「じゃあね」と言って、颯爽と去っていった。貴婦人の言葉がまた心の中で響き渡っていた。透明な心とは何なのか。そもそもあの貴婦人に対する「不透明」とは何なのか。何らかの穢れた欲を持つことだろうか。例えば貴婦人に性的魅力を感じてそれを満たしたいがために会いたいと言ったのだとしたらそれは透明ではないし、郁斗は決してそのような思いを持っていないと断言ができた。ではもっと灰色に近い思い、透明と不透明の間を漂っているような思いだったらどうだろう。例えば悪意のない知識欲は行き過ぎれば、誰かの時間を奪うことになる。それは透明に見えることもあるが、見方を変えれば不透明とまでは言わないが、準透明だろう。
 郁斗は自分が貴婦人に対してどんな思いを持っているか見当もつかなかったのだ。言葉に表せないこの気持ちをどうやって透明か判断すればいいのだろう。そう考えているうちに郁斗はふと思った。自分の心が透明かどうかと考えている時点で自分の心は透明ではないのではないかと。貴婦人に会いたいがために自分の心が透明かどうかを点検して、無理やり心を透明しようとしているのではないかと。そのことに気づいたとき、郁斗は思わず大きなため息をついて、砂浜に座った。そしてそのまま寝転んだ。青い空を眺め続けた。
「透明ってなんだ……」
 郁斗は一人呟いた。その言葉が不透明なような気がした。その時、郁斗はあることを思い立った。
 あの桜を指針にすればいいのだ、と。あの桜を倣えばいいと。
 そう考えると、急に簡単に思えてきた。桜のように生きるというのは決して簡単なものではないが、どうすれば透明な心を手に入れられるかと考えるよりは容易かった。
 風が吹いた。桜が散る。郁斗はその桜の花弁を掴もうとしたがするりと指の間を通り抜けてしまった。そういうものだ、桜は。簡単に掴めやしない。しかし掴めなくても美しい。掴めないからこそ美しい。郁斗は自分がそういうものに惹かれるということを初めて知った。
 郁斗は立ち上がって砂を払い、海から去った。

 また次の日曜日、郁斗は海に向かっていた。見上げると分厚い灰色の雲が空を覆っていた。郁斗は躊躇いなく出掛けた。人通りは少なくなっている。海のすぐそばまで来ると、もう人は見えなくなった。
 海に着いたとき、郁斗は声を失った。海には郁斗以外誰もいなかったのだ。人の声も聞こえず、ただ荒い波が砂浜に打ち寄せていた。桜の木は依然として海の中に立っていた。変わらない美しさを放っていた。
 海に人がいない理由を郁斗は分かっていた。曇っているからだ。皆、青空の下の桜が見たいんだ。その方が「バエる」からだ。他人の目に留まりやすいからだ。「いいね」がたくさん貰えるからだ。人々は桜を、自分を着飾る「装飾品」だと思っている。その事実に郁斗は衝撃を受けた。わかっていたことだ。しかし改めてその事実が露わになると、思わず叫びたくなってしまう。郁斗は口に手を当てて震える体を()なそうとした。その場に蹲りたくなったが、何とか耐えようとした
「坊や」
 後ろから声をかけられた。郁斗は誰だかわかっていた。振り返った瞬間、郁斗の頬に涙が伝った。貴婦人は変わらない柔らかい笑顔で郁斗のことを見ていた。しかし息切れをしている。走ってきたのだろうか。
「坊や、大丈夫よ」
 貴婦人は優しくそう言い、郁斗の頭を撫でそっと抱きしめた。郁斗の口から嗚咽が漏れ始めた。その嗚咽は段々大きくなっていった。郁斗の顔はもう涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「大丈夫よ、大丈夫。桜は変わっていないから」
 貴婦人のその言葉に郁斗はハッとした。そして涙で濡れた顔を貴婦人の方へ向けた。滲んだ視界の奥で笑顔を見えた。そして涙を拭いもせず、桜の方を見た。目を見開いた。それと同時にまた涙が零れた。
 なんて美しいんだろう、あの桜は。
 郁斗は流れ続ける涙を気にせず、桜を眺め続けた。どんなに曇っていても、誰からも見られていなくても桜は変わらず凛としたまま海の中に立っていた。
「ねぇ、坊や。美しさを殺すものは何だと思う?」
 貴婦人がそう問いかけた。郁斗は貴婦人の方に顔を向けた。その時、自分が貴婦人の腕の中にいることに気づき、慌てて離れた。顔どころか全身が熱い。貴婦人はいつも通りの様子で「あらあら」と言った。
「すみません、子供みたいに……」
「私からしたら皆子供よ、坊や」
 貴婦人はクスクスと上品に笑った。確かに、と郁斗は思ったが、子ども扱いされるのも納得がいかなかった。
「いい? 坊や」
 貴婦人は笑うのを語りかけるように言葉を発した。
「美しさを殺すものは大衆性よ」
 その言葉には重さがあった。寒気すらあった。そして何より、郁斗はその言葉に納得した。
「大衆性は欲のもとに成り立っている。本当の美しさには欲なんてないわ。『誰よりも目立ちたい』という欲で、美しいものに群がり、覆い隠してしまう。でも、桜はどうかしら?誰の手にも堕ちず、永遠に残らず散っていく。どれだけ写真に収めようとも、桜の花弁を手元に残しておこうとも、本当の美しさは掴めない。掴めないから本当の美しさなのよ」
 貴婦人はそう言って桜を見た。ひどく愛おしそうな顔をしていた。
「神が日本に神罰を与えるなら桜を咲かなくさせるでしょうね。それほどまでに、桜は美しさの根本なのよ。」
 そう言った貴婦人の顔は何となく寂しそうに見えた。しかしそれでいて美しく儚い。郁斗は貴婦人の顔をじっと見つめた。貴婦人は郁斗の視線に気づいた。そして首を傾げて笑った。郁斗が口を開いた。
「あの、来週も……」
「もう、会えないわ」
 貴婦人は郁斗の言葉を遮って言った。郁斗は思わず言葉を失った。会えない悲しさよりも何故、会えないのかという疑問の方が勝った。
「ごめんなさいね。私は桜じゃないの」
 貴婦人はそう言ったきり、黙って背を向けて去っていった。郁斗は呼び止める気にもならなかった。貴婦人の最後の言葉が気になった。 
一際強い潮風が吹いた。その潮風に乗って桜の花弁が舞った。
「……綺麗だ」
 郁斗は呟いた。呟いたその言葉は桜吹雪に攫われていった。何故か心に風が吹いたような寂寥感を感じた。

 次の日曜日、郁斗はまた海に来ていた。貴婦人がいないとわかっていても足は海の方へ動いてしまう。空は晴れていた。人も多くいた。桜の花弁は徐々に散っていった。貴婦人はもちろんいなかった。しかし淡い期待を簡単に捨てることは出来なかった。
 次の日曜日も海へ行った。貴婦人はいない。次もその次も郁斗は海に訪れた。当然いないはずの貴婦人の姿を探した。その時の郁斗の心は不透明だっただろうか。もうすでに会えない人を思い続けるのは醜いだろうか。郁斗はそんなことを考えながら、海を訪れ続けた。桜は段々散っていく。
「今日で最後にするか」
 とある日曜日、郁斗はベッドの上で一人呟いた。軽く支度をして玄関の戸を開けた。曇っていた。人はいないだろうと踏んだ。
 海に着いたとき、案の定、人はいなかった。そもそももう桜の木も花がほとんどない。見に来る人もいないだろう。それでもまだ郁斗は桜を美しいと思っていた。それでもまだあの貴婦人を待っていた。
 ふと、視界の端に見覚えのある日傘が見えた。郁斗は思わずそちらの方へ走り出し、肩を掴んだ。
「きゃっ!」
「あ……」
 日傘を差していたのは、郁斗と同い年くらいの少女だった。丸い目を更に丸くさせて郁斗の顔を見ていた。人違いをしてしまったことに郁斗は恥ずかしく思った。
「すみません。人違いです……その、見覚えのある日傘だったので……」
 郁斗は少し下を向きながら小さな声で言った。少女は郁斗の顔を覗き込むように見た。そして思い立ったように声を上げた。
「もしかして、おばあちゃんのことを知っていますか?」
「え、おばあちゃん?」
 郁斗がきょとんとした顔をすると少女はポケットからスマホを取り出し、画面を見せた。そこには優しく微笑むあの貴婦人が写っていた。隣には厳粛な顔をした男性が写っていた。どうやら既婚者だったようだ。郁斗は目を見開いて少女の顔を見た。少女は優しそうに笑った。
「おばあちゃんが楽しそうに話してましたよ。『久しぶりにいい目を持った坊やに会った』って。貴方のことですよね」
「ええ、まあ、多分……」
 貴婦人がそういう風に自分のことを言ってくれるのを嬉しく感じた。
「あの、この人は今、家にいるんですか?」
 郁斗はそう聞いたあと、後悔した。少女の表情が曇ったのだ。それだけでわかってしまった。あの貴婦人はもう若くなかったのはわかっていたはずなのに。
「すみません、聞いてしまって……」
「大丈夫です。そのことについて話したいと思ってて」
「……もしかして僕のこと探してましたか?」
「ええ。おばあちゃんが『この日傘を持ってれば、坊やの方から話しかけてくれる』って言ってたので今日はこれを差してきました。まさか、本当に話しかけてくれるとは思わなくて」
 そう言われて、郁斗は顔を赤くした。会いたいという気持ちが前に出すぎてしまったのかもしれない。顔を赤くした郁斗を見て少女は可笑しそうに笑った。
「貴方のことはおばあちゃんから聞いています。純粋で透明な心を持った子だって。だからこそ、私なんかに捉われないでほしいって」
「私なんかって……僕にとってあの人は」
 そこまで言って郁斗は口を噤んだ。自分にとってあの貴婦人はどういう存在だったのか、簡単に言葉にできなかった。恋でもない。憧れでもない。もっと、もっと綺麗なもので。その時、足元に落ちている桜の花弁が目に留まった。郁斗はそれを拾って眺めた。その一枚だけでも美しかった。風が吹いてすぐに桜の花弁は攫われてしまった。それを見て郁斗は気が付いた。
「僕にとってあの人は桜のような人だったんです」
「桜?」
「はい。美しくて儚くて想わずにはいられなくて。すぐそばにいたのにどうしても触れられなくて、そして散っていった。その散り際も美しくて。でもあの人は自分を桜じゃないって言った。それもそうですよね。だって桜はまた春になれば咲くけど、あの人は春になっても僕の前には現れない。でも春になればきっとあの人を思い出してしまう。捉われない方がいいと思っていても、僕はもう」
 郁斗は僕は、僕はと繰り返したあと、黙って下を向いた。なんて醜い心だろう、故人に執着するなんて。郁斗は自分が惨めに思えた。
「あの」
 少女はそう言い、ポケットから何かを取り出した。手紙だ。
「おばあちゃんからです。今日はこれを渡しに来ました」
 少女は郁斗に手紙を握らせ、「今読んでください」と言った。郁斗は手紙をしばらく眺めた後、丁寧に手紙を開けた。書いてあったのは一文だけだった。

『坊やが私を桜のようだと思っているなら、次は坊やが誰かの桜になりなさい。私は役目を終えたのだから』

 郁斗はその文を何度も繰り返して読んだ。あの貴婦人は気付いていたのだ。郁斗がどんな想いを持っているのかを。それは桜を想うような気持ちであったと。貴婦人は随分と先を見据えていたのだ。
「大丈夫ですか?」
 少女が心配そうに声をかけた。郁斗は小さく頷いて手紙を封筒の中に閉まった。
 次は自分が誰かを感化する番だ。そしてその誰かが違う誰かを感化していく。そうやって連鎖して世界は美しくなっていくのだ。その美しさはきっと桜には勝らないだろうけど。
 郁斗はそう決心した。捉われないのは序の口だ。郁斗は手紙を少女に差し出した。
「ありがとうございます」
「え、これは……」
「持っててくれませんか。僕が捉われないためにも」
 郁斗は少女の顔を真剣に見つめた。少女は手紙と郁斗の顔を交互に見た後、手紙を受け取った。郁斗は少女に向かって微笑んだ。
 海の方を見ると、既に散りかかっている桜があった。凛と立っているその木は変わらず曇り空の下で美しさを放っていた。
 あの桜はまた来年も咲くだろうか。その時にはきっと桜のような心で世界を見据えられていたらいい。郁斗はそう思って初夏に主役を渡そうとしている桜の木に微笑んだ。

桜のような

桜のような

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-04-27

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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