かめやのばあば食堂

貧困地域で子供たちを支える、謎の老婆との出会いから物語が始まる。

 かめやのばあば食堂
      

           
「とにかく、安いところがいいんです」
 就活が難航して、年度内ギリギリで三流の建設会社に滑り込んだ俺は、安価で即入居できる物件を探していた。やはり年度末はどこも家賃を釣り上げている。直接行けば掘り出しモノがあるかもしれないと、密かに期待していたのだ。
こちらが真剣な眼差しで相談すると、その不動産屋は、まるまる太った顔をさらに満面の笑みにして答えた。
「ああそれだったら、お客さんお若いし、こんなとこいかがでしょう」
最近はこういうとこもありましてね、とつぶやきながら、ファイルをめくる。
「形式はシェアハウスですけど、寝室は鍵付きの個人部屋なんです。ここなら三万円台でご用意できるんですけどねえ」
家賃三万八千円。快速急行停車駅から徒歩十二分、広さこそベッドを置けば一杯一杯だが、築十一年でまだ真新しい。
しかしそれよりインパクトが強かったのは、〈トイレ、シャワー、洗濯機共用〉の文字だった。
「でもここって、結局それ以外は共用ってことですよね」
俺が部屋を探す条件はあと一つだけ、トイレが個別であることだった。一人暮らししてまで、こっちが大きな用を足してる時に催促されるのは御免だ。それ以外はどんな妥協もできる、本当だ。
すると、不動産屋は呆れた表情で返してきた。
「そりゃあシェアって、そういうもんでしょう。なにせ一人暮らしって孤独でしょう? ここなら朝晩、ルームメイトと会話ができます。あと外国人の方も住まれてますから、異文化交流にもなるでしょう。いい物件だと思いますがね」
全く贅沢言わないでくれよ、という心の声が聞こえた気がしたが、俺は気にせずファイルをめくる。すると最後のページに一枚の紙が挟まっていた。
「あ、ここじゃダメですか」
職場に近い県境の駅から徒歩二十四分で、築五十六年、駐輪場付き。間取りは八畳一間でそこそこ広い。部屋は押し入れに台所、洗濯機置き場、そして個別のトイレ。極めつけは家賃で、敷金礼金なしの二万三千円! 本当に破格である。唯一の欠点は風呂なしだが、徒歩六分で銭湯あり。全然許容範囲だ。
しかしそれを聞くと不動産屋はまた表情を変え、今度はいたずらが見つかった子供のような顔になった。
「いや、こちらは……」
「事故物件とかでも別に気にしませんよ」
「いやいや! うちではそんなもの扱ってませんよ。ただ……」
「トイレは洋式だし、お風呂なくてもいいですよ、近くに銭湯あるみたいだし」
「いや、それなんです」
「え?」
「その銭湯が、ちょっと問題なんですよ」
 話を聞くと、その地域一体の銭湯はそこしかなく、この物件を借りた者は必ず利用することになる。しかしその環境は劣悪で、前の入居者は三ヶ月も経たないうちに出て行ってしまったらしい。理由を聞いても、「あの銭湯には通えない」というだけで、詳しくは教えてくれないという。何故銭湯がダメなのか。所謂ハッテン場? 刺青が入った人達のコミュニティ? 様々な予想を問いただしてみたが、不動産屋は否定するだけであった。
 そして住むのには条件があるらしい。 定期契約ではないものの、できるだけ半年以上は住んでほしい、とのこと。
 俺は迷うことなくこの条件を飲んだ。不動産屋は何度も内見を勧めてきたが、なにせ時間がなかった。しかしこちらが絶対にクレームは言わないと約束しても、その不動産屋は、こっちが印鑑をつく直前まで契約を渋っていた。

そして、気がつけば俺は南京錠に挿すような鍵を二つ握りしめていた。外観は確かに古びている。でも塗装は塗り直されていているし、今すぐ崩れ落ちそうといった感じではなかった。不要なものを捨てに捨てると、荷物はキャリーバックとリュックのみだ。それを見ると、如何に自分が無機質な二十数年間を生きてきたのか痛感する。
ドアを開け、部屋に入る。かび臭い匂いに覚悟―というより期待すらしていたが、思った程ではない。畳も少し前に張り替えられていたようで、至って清潔である。天井や壁を見回しても、雨漏りや破損の跡は見受けられない。窓の立て付けは多少悪かったが、少し持ち上げるようにすると問題なく開いた。春の暖かい風が入り込んでくる。
そこから襖を開けてみたり、コンロに火がつくか確認したり、コンセントにケーブルを繋いでみたりと、初デートの相手を品定めするように部屋を探索したが、何一つ問題はなかった。部屋の真ん中にあぐらをかき、駅前で買ったコーラを飲み干したところで尿意がきた。
そうだ、肝心なのはトイレだ。ドアを開ける、大して臭わない。ペラペラのプラスチックの便座に座りながら、ダブルのトイレットペーパーが三つ置いてある大家の粋な計らいに思わず笑みが零れる。昨日こっそり調べた本体が一万五千円、取り付け費用八千八百円の温水洗浄便座は、小便も座って用を足す俺に許された唯一の贅沢かと考えた。これを買えばこの物件はほぼ完璧になる。その噂の銭湯を除いては。
その時、ドアを鈍い音でノックする音が聞こえてきた。
「すみませーん」
掠れた、弱々しいおばあさんの声であった。
「あ、はーい」
急いでズボンを上げてトイレを出る。家にインターホンがないという感覚は、ここでしか味わえないだろう。
ゆっくりと開けてみると、腰の曲がった七十代ぐらいの老婆が、ビニール袋を持って立っていた。
「あら、どうも。今度は若いお兄さんで」
その一言で、大家だとわかる。引越し前は自分のことばかりで、完全にその存在を忘れていた。
「あ、すみません。こちらがご挨拶しないとといけないのに、古島と申します。宜しくお願いします」
「いえいえ。私大家の橋本です。こちらこそこんな不便なとこにありがとうございます。あ、これよかったら食べて下さい」
大家は、持っていた袋を強引に押し付けてくる。
「え、いやいやお構いなく」
一応一度は断り、結局受け取る。
「家賃とか契約のことは、不動産屋さんから聞いてるわね」
「家賃のことは本当にありがとうございます、助かりました。あの、物件情報よりずっと綺麗でびっくりしてます。あ、トイレットペーパーも……」
ありったけの感謝を伝えている間、大家は黙って聞いているだけであった。一通り話し終えると、その流れでずっと引っかかっていた疑問をぶつけてみた。
「で、あの近くにある銭湯っていうのは……」
「そう、そのことを言いにきたの」
大家はは眼鏡を抑えながら、初めて少し険しい表情を作った。
「あの銭湯に行く時は、絶対貴重品は持って行っちゃだめよ。高い服とかも着ていかないで」
やはりそういうことか。
「あの、やっぱり怖い人たちがいたりするんですか」
「いや、子供よ」
「子供⁉︎」
一瞬理解が出来ずに固まった。子供が窃盗をする? 
「やんちゃな中学生とかですか?」
「いや、小学生、もっと小さい子もいるかも」
「それは、どういうことですか」
「ここって貧しい子たちが多いでしょう。だから片親で夜も帰らなかったりするのよ。それであそこの番台さんが気の毒に思って、一人の子面倒見るようにしたら、たちまち学童施設みたいになっちゃって。気持ちはわかるけどねえ」
「じゃあ、その子たちが……」
「ちゃんと教育してないのもあるけど、やっぱり一人がやろって言うと、流されちゃうのかね。やっぱりこういうとこに生まれちゃうと」
そんなことを言われると、黙って頷くしかなかった。
「ちなみに、なんていう銭湯なんですか?」
「〈かめや〉ていうのよ。名前はふつうなんだけどねえ」

夕食と日用品の買い出しの為に外に出た。改めて街並みを見回して見ると、団地が大半を占めていて、どこも景色が変わらない。駐車場にあるのは、車高を落とした軽自動車やミニバンが大半。すれ違うのは高齢者ばかりで、町全体が廃れているというのがわかる。
大家は結局、〈かめや〉の場所の地図まで書いて教えてくれた。昔はこの近くだけでも四件は銭湯があったらしい。しかしこれらの市営住宅が立ち並ぶようになってから、途端にその需要はなくなった。地方の観光客を呼び込めるところならばいいけど、こんなとこの風呂屋にわざわざ来ないでしょ、と少し寂しそうに語った。
遊具の錆びた公園がある。空のカップ麺やお菓子の袋、タバコの吸い殻が落ちている。貧困地域であることは間違いないが、流石に食べるものに困る程には見えない。そんな子供たちが、この中に隠れているのか。

〈近くのスーパー〉とアプリで調べると、徒歩十五分のところにドンキがあった。もっと近くにはスーパーもあったが、日用品の買い物も一回で済むのでそっちにした。
自動ドアをくぐると、地元のドンキを思い出した。この匂いと音楽、日本のどこでもこの店の雰囲気はあまり変わらない。通りには人出が少なかったが、流石にここは商品と人でごった返していた。普通の家族連れから年寄り夫婦まで、有象無象である。やはりその人達の服装や髪色は派手であることが多く、時々甘い香りとすれ違う。その人たちの買い物カゴをは、大抵お徳用のスナック菓子や冷凍食品が大量にひしめき合っている。
洗剤や食器、追加の下着などの最低限の日用品を揃えた。ペーパーも大家のだけだとすぐ底が尽きるだろう。かなり吟味したはずなのに、気がつけばカート一台が埋まっていた。後は今日の晩飯と明日の朝だ。お総菜コーナーで焼肉弁当とコールスローサラダを手に取った時、二人の少年が目に入った。彼らは、値引きされた菓子パンが大量に積まれたカゴの前に立っていた。
「なんかまたこのカレーパン小さくなってない?」
「いや、全部だよ。値段変わんないだけいいだろ」
兄弟だろうか、顔がよく似ている。年は小学校低学年と高学年ぐらいだろう。
「俺今日お菓子だけでいいや、その方がいっぱい食べれるし」
弟らしき方が言う。
「だめだよ、お前ご飯食べないと。お菓子は俺のもあげるから」
兄が嗜めるも、弟はごねる。弟が指差した先には、一個九十八円のシュークリーム、一個八十円のエクレアがあった。
「わかったわかった、じゃあ一個だけな。俺のパンも食べろよ」
少し弟の顔が綻んだのがわかった。
しかしその瞬間、兄は二つ持っていた袋を一つ戻した。値引きされた一つ八十八円のメロンパンだ。
誰か大人が来る様子は一向にない。
弟のトレーナーからはシャツが丸出しで、袖口も伸びている。口の周りはかぶれて赤くなっていて、頭を掻いている爪先は真っ黒。そして兄はそこまでではないが、靴の汚れ具合は弟と変わらない。
隠れるどころか、この街には当たり前のようにいたのだ。
 しかしほとんどの大人は素通りしている。遠くを見ると、おもちゃをねだる子供の頭を、若い母親が殴っている。そして余計に泣き出した。その横で泣いている子供を無理に引っ張っているパンチパーマの父親の腕には、黒い印が刻まれている。みんな自分の子供たちから目を離すまいと必死なのだ。いや、そうしているだけマシなのかもしれない。この地域の大人たちは、他人を構っている余裕はなさそうであった。
 しかしその中でも二人は目立つ。華やかな店内を一気に黒く染めるような、強いオーラを放っていた。
 すると向かい側で、その二人の様子を見ている恰幅のいい老婆がいた。俺と同じように、彼らのメッセージを察知したのか、その老婆は二人がレジに向かうのを確認すると、その菓子パンを数個カゴに放り込んだ。
俺もこの時ばかりはいてもたっても居られなかった。お菓子売り場へと歩き、ポテトチップスやチョコレートなどを買い込んだ。ここで自分の分も買ってしまう所が、まだ大人になりきれていないのか。
 支払いを終えてレジから出ると、二人はイートインコーナーで、座ってシュークリームと菓子パンを食べていた。隣にはあの老婆が座っている。兄と何か問答をしている様子であった。
「お兄ちゃんも食べればいいのに」
「いや、大丈夫です」
「あんたがお腹すいて元気出なかったら、弟くんも困んのよ」
老婆がメロンパンを差し出す。
「そうだよ、食べなって」
チョコクリームを口の周りにつけたまま弟が言う。
「お母さんに、勝手に人にモノもらうなって言われてるので」
「バレないってそんな」
すると、兄のほうは一度老婆の顔を見た後、恐る恐るという感じで、ゆっくりと老婆からメロンパンを受け取った。
「ありがとうございます」
よし、これはいける! 俺はここ一番の勇気を出して彼らに近づき、その会話に割って入った。
「あのう……」
三人が一斉にこちらを見る。
「あの僕、別に怪しい者じゃないんですけど、ちょっとさっき見てて。これ、もしよかったら、食べてください」
「あ、カントリーマームだ!」
俺がビニール一杯のお菓子を見せると、弟のほうは一斉に目を輝かせた。しかし兄のほうはそれを制しながら、怒りのような目でこちらを見た。その瞬間……
「行くぞ、たいが」
「せっかくくれるっていうんだから、もらおうよ」
すると兄はその言葉を遮るように物凄い力で弟の手を引き、凄まじい速さで店内から出て行こうとした。弟は不服そうだ。
「おにーちゃん! ちょっとまって」
「待ってよ、別に変なものとか入ってないよ! ちょっと!」
俺はすぐに呼び止めた。しかし兄は全くスピードを緩めることなく、自動ドアに向かう。肝心な時に、大量に買い出ししたせいで走れない。荷物を置いて追いかけようとした時、後ろから大きな叫び声が聞こえた。
「やめな、無駄だよ!」
あの老婆だった。その言葉に反応しているうちに、俺はもう二人を見失ってしまっていた。

決まりが悪くそこに戻ると、老婆にため息をつきながら荷物を差し出された。
「あんた、あの子たちがなんで受け取ってくれなかったかわかる?」
「……信用してもらえなかったんですかね」
正直かなりショックだった。てっきり同情してくれるかと思っていたが、老婆は更に追い打ちをかけるように聞いてくる。
「大体なんでこんな余計なことしようと思ったの?」
余計なこと? 流石に少し腹が立ったが、素直に答えた。
「いや、ちょっとあまりにも気の毒だったから」
「それだよ」
ぴしゃりと言われた。
「あんたは聖人気分で幸せかもしれないけど、向こうからしたらどうだい」
一瞬返す言葉がみつからず、言い返せなくなった。
「あの兄ちゃんの顔見ただろう。あの子たちゃ、なんか受け取る度ににペコペコして頭下げなきゃなんないんだよ」
なぜだ、本当に言葉がでてこない、何者なのかこの老婆は。ドスの利いた声とその口調、銀縁眼鏡から覗く眼光は鋭く、そこから垂れ下がったチェーンがキラリと光る。杖をついているが衰えは全く感じられず、それが武器のようにすら思える。年齢はさっきの大家とそう変わらないはずなのに、なんだこの迫力は。
「あの兄ちゃんは、もうあの年で男としてのプライド持ってんだ、立派だよ。男はプライドなくしたらおしまいなんだから」
老婆が嚙み締めるように言った後、ようやく反論が思いついた。
「じゃあ、なんでさっきあげてたんですか」
老婆は顔を上げる。
「自分だって気の毒に思ったから買ってあげたんじゃないですか?」
精一杯の虚勢を張ったつもりだった。しかし……
「あんた、昨日今日ここに引っ越してきた人間でしょ」
唐突に話を逸らされてしまった、まずい。
「こんなに包丁やらまな板やら、まあいっぱいこんなに買いこんじゃって」
「ちょっと、勝手に見ないでくださいよ!」
「ああこれ、カップ麵やら缶詰ばっかり、さては一人暮らしで彼女もいないなこりゃ」
気がつけば俺の顔はとても熱くなっていた。外から見れば確実に真っ赤だ。ここまでくると、もう何だかおかしくなってきた。老婆の顔は、もう気のいい肝っ玉母ちゃんの顔に戻っていた。
「いや、今年からこの近くで働くことになったんです。おっしゃる通り、一人です」
「この辺ろくなとこないでしょ。ボロ屋ばっかりで」
「いや、それがいいとこがあったんですよ。風呂なしだけど」
「風呂なし⁈」
何故か老婆の顔色が変わる。
「そうなんですよ、だから〈かめや〉って銭湯に行こうと思ったんですけど、どんなところかご存知じゃないですか?」
「それ、うちがやってる風呂屋だよ」
「え⁈」

 入り口に着くと、至って普通の、敢えて言えばこじんまりとした銭湯だった。
先程の別れ際に老婆は、後であの子にも会えるかもね、と言い残して去っていった。かなりの人数がいるようだ。中からは甲高い叫び声が聞こえて来て、外には大量の自転車が置いてある。子供用のもあれば、錆びたママチャリもある。荷物は言われた通り、入浴代と着換え、タオル類のみ。

暖簾をくぐって戸を開けた瞬間、そこはまるで公園であった。そこらじゅうで子供たちは走り回っていた。孫の手を使って野球をしたり、空気の抜けたボールでサッカーをしている。   向こうでは取っ組み会いの喧嘩が始まっていた。みんな頭が濡れているので、もう入った後なのだろう。
靴を脱いで上がろうとした時、ボールが飛んできた。拾ってあたりを見回すと、向こうから三、四人の男子生徒たちが駆け寄ってきた。
「すみませーん!」
「これは、君たちの?」
怪訝そうな顔で、彼らは俺のことを見つめていた。
「お兄さん、誰?」
「いや、普通にお風呂入ろうと思って」
「あ、そうなの」
すると一番奥にいた男子生徒たちがが番台に向かって叫ぶ。
「ばあばー!  お客さーん」
「はいはーい」
奥の暖簾から出てきたその老婆は、エプロン姿であった。そういえばさっきから煮物のような匂いもする。銭湯の副業で民宿でもやっているのか。様々な想像を膨らませていると、老婆はその皴だらけの手を突き出した。
「はい、四百八十円」
金を受け取るなり、そこで取っ組み合いの喧嘩をしている男子生徒を𠮟りつける。
「凄い賑やかですね」
「まあ、うるさいガキだけどね」
子供たちの声に負けないように言うと、老婆は多くを語らず、照れ笑いを浮かべた。そしてそのままロッカーの鍵をくれると、早く入ってきちゃいな、とそそくさ奥に戻ってしまった。案外照れ屋なところがあるのかもしれない。
脱衣所に入ると、皆出た後で静まり返り、床は大量の水で濡れていた。確かにここまでは手が回らないだろう。あの老婆以外に従業員はいないのか。少し心配になった。
中に入ると、典型的な昔の銭湯の光景が広がっていた。確かに古いが、浴槽の水は綺麗で整えられている。洗い場にはシャンプーなどはなく、牛乳石鹸が一つ置いてあるだけであった。
湯船に浸かる。少しぬるいが、大きな浴槽は引越し当日の疲れを癒してくれた。壁には至る所に、「騒ぐな、走るな、水出しすぎるな」との注意書きか貼られている。
 その時、脱衣所に二人の人影が現れた。
「ねえ、やっぱ頭染みるからタオルやってー」
「我慢しろよ、そんなの」
「もってんじゃん、それでいいから」
「わかったわかった」
ガラッという扉の音ともに、俺は反射的に目を逸らせてしまった。まさか……
「今日全然人いないねー」
「みんなもう上がってんだろ」
湯気でぼやけていてはっきりとはわからなかったが、洗い場に座った二人の顔を鏡越しに見て、会話する声を聞くと確信した。間違いない、昼間ドンキで会った二人の兄弟だ。やっぱり来ていたのだ。響く水の音が、気まずい空気を増幅させていく。何を、別に悪いことをしたわけではない、むしろ逆である。こっそり出て行こうかとも思ったが、お互いに裸のこの状況なら、素直になれるような気がした。そして再び勇気を出して、二人仲良く洗い場で洗っている彼らの背中に、俺は後ろから話しかけたのだった。
「あのー」
先に気がついたのは、弟の方だった。
「あっ、さっきの!」
兄はこちらを向くと、一瞬目を見開いたようだが、ここまでくるともう観念したのか、ただ頭を下げるだけだった。
「ごめんね、俺何も知らないで、なんかほっとけなくって」
「いやこっちこそ、すみませんでした。折角買ってくれたのに」
「いや、いいのいいの」
「なんかあんな急にくれる人なんていないから、どうしたらいいかわかんなくて……」
外で騒いでいる男子たちとは違い、兄は少し大人びていて、クールな印象を受けた。だから少し彼らとは距離を置いているのかもしれない。
「この銭湯、よく来るの」
「いや、今日ご飯の日だから」
「え、なにご飯って」
「ばあばが夜たまに作ってくれんの」
「月曜日と水曜日は、あの番台さんがタダでご飯出してくれるんです」
さっきの状況と辻褄が合った、あの老婆はそんなことまでしていたのか。しかしあの人数の分、どうやって用意するのだろうか。
その時、外から大声で聞こえてきた。
「おーいもう晩飯できたよ! 早く上がんな!」
「はーい」

上がって行くと、あれだけ騒いでいた子供たちが全員席についていた。俺たちに気がつくと、老婆は手招きをしながら席に案内した。
「あんたも食べな」
「いやいやそんな、申し訳ないです。俺は晩飯あるんで」
「硬いこというんじゃないよ、風呂なしの癖に」
近くの子供たちに笑う、本当に口が悪い。仕方なくあの兄弟の隣の席に着く。
「はい、宿題やってない奴と手ェ洗ってない奴いないなー」
わかってるよー、いないよー、とあちこちから少し面倒くさそうな返事が聞こえてくる。
「いただきまーす!」
メニューは野菜炒めと肉団子、そして白飯。それを食べながら子供たちと話していると、あの噂は完全に嘘だと思った。箸が進むのと同時に、こっちが簡単に自己紹介すると、子供たちも少しずつ心を開いてくれた。みんな本当に人懐っこい。老婆ももう少し愛想良くしていれば、変な噂など立つはずがないのに。
よし、俺も少し仕掛けてやろう。
「みんなは、番台さんのこと好き?」
するとみんな一斉に、やだーと腰をくねらせる。
「まあ、嫌いではない」
一人のガキ大将のような男子生徒が言った。
「怒るとちょー怖いけどね」
「あたしゃ別に好きじゃないけどね、全く君らがいると、手間がかかって大変だよ」
「えーひっどー」
あの兄弟の弟が大袈裟に肩をすくませると、周りの生徒が一瞬で笑いの渦に包まれた。どうやらこの中ではムードメーカーのようだ。
「でもまあ、少なくともあんたらが大きくなるまで死ねないわね」
老婆はそう言うと、カッカッカッと高笑いした。

食べ終わると子供たちは後片付けもそこそこに、帰り支度を始めた。気がつけば夜八時、この団地ではこれより遅くなると奴らが活動し始める。今でも、たまにオヤジ狩りやひったくりが起きているらしい。

一人一人見送り、最後に兄弟二人を見送る。
「帰らなくていいの?」
「うん、まだ後片付け残ってるみたいだったから」
手を振ると、兄が振り返った。
「今日から、毎日来るんですか?」
「そりゃまあ、風呂なしだからね」
「あの、僕、垣根拓郎と、弟の大河です。よろしく、お願いします」
「ああ、確かに名前聞いてなかったね。俺も彼女できるまではずっとここに住むから」
「じゃあずっといてくれるってことだね」
「おい、ふざけんな!」
弟の大河がケラケラと笑い、拓郎も少しは微笑んでくれた、と思う。

戻ると食器を洗っている老婆に近づいて、手伝います、と声をかけた。
「あんた、まだ帰んなくていいのかい」
「はい、明日は仕事とかないので」
「あの子に、わかってもらえたかい」
「はい。俺、やっぱ貰う方の立場になったことがないからわからなかったんです」
「あの子に限ってはな。素直に貰う子もいるんだよ。しつこくせびる奴もいるしねえ」
老婆はそう言って、食器を立てかけた。
「あとこの銭湯も、なんか色んな所から悪い噂を聞いてて、なんか色々と誤解してて」
「誰から聞いた?」
「うちの大家さんと、あと不動産屋さん」
「なんて言ってたんだ?」
「いやあ、なんか不潔で汚いとか、お金を盗る子供がいるとか……無茶苦茶な話ですよね」
表情が急に険しくなった。
「その話、嘘じゃないんだよ……」
「え、本当なんですか?」

昔、まだ風呂屋のみで回していた頃、時々小学生が来て、溜まっていたらしい。その子たちは俺のような風呂なしで毎日来る人間や、風呂好きのお年寄りを狙った。一回数千円、風呂に入っている所を、ロッカーの鍵を巧みに外して札を抜いていた。しかし被害に遭った方も子供だとわかっているので、誰も警察には突き出さなかった。そのような経緯で大人の客足は遠のいていき、噂だけが広まった。そして今訪れるのは、ほとんど子供だけとなってしまった。
「その子たち、盗んでた金、何に使ってたと思う?」
「いやあ、ゲーセンとかですかね?」
「食べ物なんだよ」
「食べ物⁈」
その子たちは盗んだ金を折半して、チキンや、お惣菜、パックのお寿司などを買っていたらしい。昔は万引きも横行していたようだが、それは何度か警察に突き出されてしまった。銭湯のお金は、当時の子供たちが最後に行き着いてしまったところなのだろう。
「私も昔食べるもんで苦労したから、今日の昼間みたいなの見ちゃうと、居ても立っても居られなくなってさ、あんたと一緒だね」
「いや、僕には想像もできませんよ」
「そういうのもあって、その頃から食べ物出し始めたんだよ。最初は自分でやってたんだけど、少しずつ近所の人が差し入れしてくれたりするようになってさ。まあまだ批判も多いけど、なんとかやってるよ」
「まだ足りないこととか、あります?」
「そりゃ人も食材も全然足りないさ、この辺の弱った老人駆り出す訳にもいかないだろ。金のことだって、本当は毎日やりたいけど、とてもそんなんじゃ破産するしさ」
どうしよう。なんとかしてあげたい、俺も金を持っていればいいんだが。
「SNSでアップして、とりあえず多くの人に見てもらうのはどうでしょうか」
「あーダメダメ、私そういうメカのことは一切わからないから」
「そんなの僕がやるから大丈夫ですよ、任せてください」
俺は自分でもびっくりするぐらいサラッと言っていた。
「とりあえず知ってもらえれば、クラウドファンデングで支援者を募ることも出来ます。そういうもののイロハは、大学で多少教わってるので大丈夫です」
「何言ってんのかよくわかんないけど、要はそれで金は何とかなるかもしんないってことかい?」
「あくまでみんなにいいって思ってもらえればですけど。その為に番台さん、もうちょっと外の人にも愛想よくしてくださいね」
「大きなお世話だよ。あと番台さんってもうやめとくれよ。ばあばでいいよ、ばあばで。ばばあはダメだけどさ」
口調では不機嫌そうに見えるが、表情からは照れ隠ししているのがわかる。案外この人の操縦は楽かもしれない。
「とりあえずやってみます。こういうのは名前が重要なんですよ、何か思いつきませんか? いい名前」
「普通にかめやでいいよ、そんなの」
「それじゃあ温泉じゃないですか。全部繋げればいいんじゃないですか? かめや、ばあば、食堂で……〈かめやのばあば食堂〉なんてどうですか?」
「なんかあんまセンスは感じないけど、あんたがやってくれんなら勝手にしな」

俺は部屋に帰ると早速検索をかけた。こんなに人の為に動いたのは人生で初めてである。調べてみると、どうやら「こども食堂」という名称で、様々な自治体や団体が情報発信していた。その数は、この五年で十八倍にもなっているらしい。
まだこの先どうなるかはわからない。でもあの子たちに希望が見えれば、自分の人生も幸せになるような気がした。そう考えていると、自然とエネルギーが湧いてくる。
ここに越してきて正解だな、そう思いながら、俺は静かに眠りについた。

かめやのばあば食堂

かめやのばあば食堂

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-04-26

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted