Vガンダム最終話考察

2022年作品

今日はちょっとオタクな話題です。

ある人にテレパで聞いた話です。Vガンダムの最終回のラスト10分間について、ある方から新解釈を伺いました。ちょっと目からウロコだったのでその話をしたいと思います。

ラスト10分間でカテジナがたぶんカサレリア?ではないところだと思うんですが、シャクティたちの現在住んでいるそこにワッパで現れます。ワッパに目が見えていないはずなのに乗っているところがミソで、シャクティに「オートコンパスが壊れてしまって、ウーイッグに行く道がわかりません。」と言います。シャクティはカテジナに現在地を示すCDーROMを渡し、二人は別れます。ウーイッグに行く途上カテジナは涙を流し、シャクティは戻ってきたウッソにカテジナが来たことを告げず、ひとり涙を流します。ウッソの乗っていたガンダムは森の中に放置されています。

さてこの短い一連の場面ですが、カサレリアではないところだと思うのは、カテジナがシャクティから位置情報の入ったCDを受け取っているところからで、彼女が「目の見えないフリ」でこの場所に現れたのはまさにそのためなのです。つまりカサリレアだったらカテジナはその場所の位置をすでに知っているはずで、従ってその場合はわざわざ彼女は偵察に来る必要はないのです。しかし彼女はやって来なければならなかった。そしてカテジナがわからないはずの未知の場所を突き止めることができたのは、おそらく彼女がニュータイプ能力に目覚めたということでしょう。でなければ「偶然」この場所に現れることはできない。それは彼女がウッソと知り合いで、ウッソを「感知」することができたからです。ではそれはいつかというと、カテジナが最後の決戦で目から光を失った場面の時です。あの場面は一見失明したように見えますが、思い出してください。あの瞳孔のない瞳の処理はあのララアと同じ処理なのです。ララアは別に盲目ではありません。そして彼女は察知したけれども場所の正確な情報は確かめたいし、その位置をガチ党の残党たちに伝える目的があった。このことは、ガンダムシリーズをよく見ている人には、ファーストガンダムのテレビ版に出てくるミハルの乗るワッパの場面との酷似でわかるはずです。あの時ミハルも敵の位置情報を流して、連邦に大打撃を与えたという設定でした。

さてカテジナはシャクティから正確な位置情報をもらいますが、その時赤ん坊の名前を聞き「いい名前だ」と言います。この場面は従来ならばカテジナはカルルマンのことを思い出したという解釈でした。しかしそれはおそらく違います。彼女はこれからこのカルルマンが攻撃で死ぬかもしれないと思いいたり、はたとなったのです。それはもちろん恋人だったクロノクルの復讐のためだったのでしょう。しかしそのことに気づき凍り付いた。この時のカテジナの声優さんの演技はいいと思います。そしてそのあと、彼女はワッパで移動しながら涙を流します。それはウッソに負けて悔しいからではありません。これからこのシャクティたちが爆撃で死ぬんだと思い、涙を流しているのです。そういう解釈はカテジナが嫌いな人には見えないと思いますが、私はそう思いしっくりくるようになりました。カテジナはそういう少女だったのです。いやニュ-タイプになり、そういう少女になったと言うべきでしょうか。おそらくこの偵察を申し出たのも、復讐の前にシャクティたちの顔を一度見ておきたかった気持ちもあったからだと思います。そしてここは私の解釈ですが、カテジナが物陰からうかがっていて、ウッソがいなくなってから現れた点、ここから見て彼女はウッソとまた直接対決するつもりはなかったのだと思います。そのあたりにも彼女の心境の変化が見てとれるところだと思います。

さて最終場面です。シャクティのひとり流す涙、そしてウッソに偵察に来たカテジナのことを話さない理由、それは彼女がカテジナの復讐を受けいれているという覚悟を示すものです。要するに、カテジナに殺される理由が自分たちにはあると思っている。おそらくカテジナが現れた時点で聡明な彼女は敵が迫っていることに気づいていたのでしょう。しかし彼女はカテジナのオートコンパスを直してやります。この時「コンパス」という単語を使っているのがミソで、これはシャクティが決戦の時こもっていたキールームのジャイロコンパスのような球体を暗示しています。あの球体で皆を特攻に追いやった罪をおそらく彼女は考えていたのではないでしょうか。イデオンでのロッタの銃口の前に立つカララなどが、この場面の理解の手引きになると思います。なおこの前のカテジナとシャクティの「冬になるとわけもなく悲しくなりません?」の会話は、ファーストガンダムの「わけもなく人が死んでいく。寒い時代だとは思わんか。」のセリフからの引用だと思います。つまり理由もなくカルルマンらがこのままでは死んでしまうことを暗示しており、それを受けたシャクティはやや怒って「そうですね。」と答えたのだと思います。そしてこのような会話をカテジナとしたことで、もちろんシャクティは身の危険を感じて非常に緊張したので、ウッソに「手が氷のようだよ。」と指摘されたのです。極度に緊張すると血管が収縮し、体温が下がるものです。「顔が青くなった」という表現は、血管の赤い血が血管が収縮して流れにくくなって起きる現象です。

そしてラストに映る森の中のガンダム、出撃して敵をまた倒すのか、それとも・・・・というところで本編は終わります。カテジナは位置情報を伝えたのか、それは不明なまま遠景でこの物語は終わります。とまあそう考えると、あのVガンダムも私には名作に見えてくるのですが、余人には余計な解釈だったかもしれません。カテジナがニュータイプになった説は、嫌いな人には受け入れがたいと思いますが、あのウッソの後ろに亡くなった人たちの霊が見える場面なんか実にその描写だと思うんですよ。だからZガンダムのシロッコの最期もひょっとして彼はニュータイプになっていたのかもしれません。霊とか心霊現象が、私の見るところ超能力とどうも直結しているみたいなんですね。だから頭がうるさいとかまやかすなとかのあの描写も、カテジナがだんだんそういう領域に入っていってしまっていたという描写だったんではないかと思いますね。

Vガンダム最終話考察

今までVガンダムについては否定的だったんですが、この解釈を伺い否定的ではないようになりました。最終話を見返してみて、あの場面でカテジナが偶然通りかかったと思う視聴者の数段上の演出をしていたんだとわかりました。実はVガンダムは全体的に、そのような演出方法で描かれた作品だと思うのですが、私の頭では全部追いきることはできません。その一端を示したつもりです。

Vガンダム最終話考察

【完結作品】Vガンダムの最終話について、思ったことについて述べてみました。この作品はブログのエッセイ記事の再録になっております。

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 青春
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-04-25

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