僕が水に飛び込むとき

 僕が水に飛び込むとき、必ず目は閉じて、口と鼻を手で塞ぐ。そうすると、鼻の穴と口に、プールの水が逆流しなくて済むんだ。

 ブクブクと、泡が上の方に浮かんで行って、自分の真下には、歪んだラインが書かれている。その先は、薄暗く霞んでよく見えない。
 息が続かなくなって、顔を水面に向けて思い切り床を蹴ると、顔が水面を突き破って外の世界に出る。
 思い切り空気を吸い込んで、吐き出していると、先生が怒鳴る。前に進め、泳げと。
 確かに前の方には、先に泳ぎ始めた人たちが上げる水しぶきがどんどん前に進んでいるのがわかる。
 僕も泳がなければならないのだが、肝心の泳ぎ方を忘れてしまって、泳いでいる体を装って、床を蹴りながら前に進む。
 どうにしたって、泳いでいるようには見えないから、また怒られる。何やってんだ、やる気がないなら出ろ、とかいろいろ。

 分かってる。分かってるんだけれど、体が泳ぎ方を忘れている。悪夢みたいだ。逃げたいのにうまく逃げられないというか、殺人鬼が迫っているのにうまく走れないというか。

 僕が流されるように浮かんでいると、笛が鳴って授業が終わる。
 ヒグラシが鳴いていて、それが、甲子園の終わりのサイレンみたいで切ないよね、と野球部のマネージャーが言っていたが、僕には全く理解が及ばなかった。
 そもそも、泳げないのに泳がされる。そのこと自体、かなり巧妙でよくできた拷問だと思った。


 コンスタンティンという映画で、キアヌリーブスが風呂に浸かってあの世に行くシーンを見てからというもの、水に沈むことに少し恐怖を感じるようになってきて、一歩間違えれば、自分も、あの悲鳴と殺戮で満ち満ちていた地獄の底に突き落とされるんじゃないかと気が気でならず、そんな訳の分からない世界と通じている水の中に落ちて目的地まで泳げだのと、正気の沙汰ではない、ような気がして、小学生の頃は、楽しかったプールの時間も次第に恐怖になっていった。


 泳ぐ泳げないの騒ぎではなく、だんだん体が受け付けなくなっている。生理的に無理、というか、生命の危機を感じるというか。

 船が難破して、乗っていた乗組員が全員帰ってこないことだってあるのに、ダイダラボッチだのシーサーペントだの、よくわからない化け物がいたっておかしくない水の中を、泳いで行けと、平気で言えるその神経、僕にはよくわからないまま、青い唇を噛みしめて下駄箱の前でうつ向いていると、先生に呼び出された。体育の松田先生だった。

 先生は、ねぶた祭りのスサノオノミコトみたいに、顔を真っ赤にしていた。

 「お前はなんで泳がないんだ」
 「最近、水の中が妙に怖くなってしまったんです」

 「マラソンの時だってそうだろ。なぜみんなと同じようにできない?」
 「いや、ほんとに生理的に無理で」
 マラソンは、ただ単純に、無理なんです、とも言えず、僕は黙って下を向いたままだった。

 「他のやつらが文句言ってたぞ、同じようにやらせろって」
 
 大体日本男児が、と日に焼けた太い腕をグルグル回しながら、永遠に説教を始めた松田先生の話を、遠くの方に聞きながら、僕は一匹の馬が僕の横で、独特のあの高い声で鳴いているのを感じた。
 ふと、その方を見ると、青い目をした白い馬が一匹、右の前足を地面にこすりつけながら、今か今かと走るのを待っているのを見た。
 深い深い青い目をした馬だった。ちょうど今日見た、プールの底みたいな、太陽の光が、蛇のようにそこらじゅうを行き交うプールの底みたいに、光って見えた。

 馬はまるでメリーゴーランドにつながれた模型みたいに、見事にジャンプの姿勢を崩さないまま、向かいの待合室の摺りガラスの壁の中に消えていった。まるで煙が突風にかき消されるみたいに。
 僕は慌てて目をこすったけれど、改めて見ても目の前には何の変哲もない摺りガラスの壁と、一通り説教が終わって深呼吸する松田先生しか映らなかった。

 「ということで、お前には補習を受けてもらう。夏休みの全校登校日に25メートル何としてでも泳いでもらうからな」

 はいと返事はしたものの、そんな簡単に感覚が戻ってくるとは思えなかった。


 試しに僕は洗面器に水を張って、そこに顔を浸してみることにした。網戸から夜の冷たい風が吹き込んできて、机のライトスタンドは書きかけの絵日記のページを照らしている。
 洗面器の水は反射して部屋の照明を映していた。
 それから、水面をのぞき込む僕の上で退屈そうに水面を見下ろす白馬を。

 僕は息をのみこみ、水面に顔をつける。
 癖で両目を閉じていると、確かに、水面から少し出た耳に馬の蹄の音が聞こえてきた。それは、僕の真っ暗な視界の中に難なく侵入してきて、七色に光る白馬は真っ暗な視界の宇宙の中でひたすら、どこかに向かって走っていた。
 その先を、白馬が全力で向かおうとしている先を見ようとしたところで、息が続かなくなって思い切り顔を上げた。
 そこら中水浸しだった。
 何があったのと母親がいきなり部屋に入ってきた。僕は荒い息で母を見上げて、

 克服してる。

 とつぶやいた。
 何を、と母が深刻そうに聞くと、水が怖いと小さく返し、そばにあった雑巾で回りを掃除し始める。
 母は、今にも失神しそうに、額に手を当て、困り果てたように、

 明日休む?

 と聞いてきたけれど、僕は、心底申し訳なくなって、低い声で、

 いや、もう明日から、夏休みだよと返した。


ブクブクと、泡が上の方に浮かんで行って、自分の真下には、歪んだラインが書かれている。その先は、薄暗く霞んでよく見えない。
 息が続かなくなって、顔を水面に向けて思い切り床を蹴ると、顔が水面を突き破って外の世界に出る。
 思い切り空気を吸い込んで、吐き出していると、先生が怒鳴る。前に進め、泳げと。
 確かに前の方には、先に泳ぎ始めた人たちが上げる水しぶきがどんどん前に進んでいるのがわかる。
 僕も泳がなければならないのだが、肝心の泳ぎ方を忘れてしまって、泳いでいる体を装って、床を蹴りながら前に進む。
 どうにしたって、泳いでいるようには見えないから、また怒られる。何やってんだ、やる気がないなら出ろ、とかいろいろ。


 僕はそれから、深呼吸をして、もう一度水の中に沈む。

 白馬はそんな時に必ずやってきて、悠々と僕を抜き去り、その先の暗い霞の中に消えていく。
 この間摺りガラスの中に音もなく消えて行ったみたいに。

 もしかしたら、先生も、僕の机の上に線香を供えていった田中も、体育館の裏でマルボロ吸ってた池原も、白馬がどこに行くのか知ってたのかもしれないけれど、伝えようがないから佇んでいたのかもしれないし、どこかに向かって走っていたのかもしれない。
 みんな当たり前みたいに白馬がどこに行くのかも何もかも知っていたのかも知れないけれど、僕だけがわからなかったのかもしれない。
 


 僕は生まれてからなんとなくここに来たけれど、これからどこに行くのか、白馬に聞いてみたい気もしたけれど、白馬はもう遥か彼方の霞の中に今にも消えようとしていた。

 そもそも白馬は人間の言葉を理解するのか、そんなこともお構いなしに、僕はなんとなく両手両足をばたつかせて、死なない程度に前に進み始めた。
 息が続く限り、慎重に。


 

僕が水に飛び込むとき

僕が水に飛び込むとき

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-04-24

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