誓いのキスはバルコニーで

一ノ瀬まち

未完結です。現在更新中。

Ⅰ.

「別れた方がいいと思う、私たち」

もう冷蔵庫ほとんど空だよ、明日スーパーに行かないと。そう言って、ついでにあそこに行きたいここに行きたい、あれも買わなきゃ、と動いていたナギの口が止まった。眠そうな細い目をまんまるに見開いてこちらを見るので、場違いにも笑いそうになる。初めて見た、そんな顔。

「……なんで?」
「何にもならないから」

何にもならない。女同士だから。
何も残らない。結婚もできないし子供もできない、誰かに言えるわけでも、祝福されるわけでもない。法律は私たちを取りこぼすし、ナギが怪我をしたって病気になったって、私はどうやったって赤の他人だ。こんな田舎じゃ、ルームシェアと称した同棲が限界だった。

「いつまでも子供みたいなわがまま通していられないでしょ」

分かってよ。声はほとんど出なかったけれど、二人きりの狭い部屋にはよく響いた。ナギは口を開かない。エアコンだけが、ブーン、と控えめな稼働音を鳴らしている。

「私、普通に幸せになってみたいの」

言葉は次々飛び出していくのに、まるで実感を伴っていなかった。まるで別の誰かが話しているみたいな、口が勝手に動いたみたいな。いろんな人に言われた言葉をつぎはぎにしたような、他人事の音がしていた。
ナギはもう、いつもの眠そうな細い目に戻っている。

「ほんとにそう思ってるの」
「そうだよ」
「ずっとそう、思ってたの」
「……そうだよ」

俯いた目に、黒い前髪がかかる。分かった、と言う細い声が震えていた気がして、泣いてしまわないかな、と思った。エアコンだけが相変わらず、静かに鳴いている。
そうやって話したのは、つい昨日のことだ。「私が出てくから」とナギはあっという間に荷物をまとめてしまった。買い物に行く暇も無かったから、冷蔵庫は空のままだ。

「早めに彼氏作んなよ、それでちゃんと幸せになって」

結婚式には呼んでね、と馬鹿みたいな冗談と一緒に、曖昧な顔でナギが笑った。下駄箱の上に合鍵をコトリと置いて、荷物を抱え直す。くたくたのギターケースと、黒い小さなボストンバッグ。それだけの荷物。この家で一緒に過ごした彼女の数年間は、結局のところそれだけに収まってしまった。
最後だと言わんばかりに、私の方を向くナギ。けれど何も言わない。そのまま背を向けた彼女の、耳たぶの金色のピアスがきらりと光る。
重たい音と共に閉まる玄関のドアの前で、そういえば昨日から一度も名前を呼ばれなかったな、とぼんやり考えた。

Ⅱ.

私とナギが別れようが、世界は少しも変わらない。朝は来るし、今日は月曜日だし、仕事もある。朝ごはんを二人分作ろうとして、ああ、と手を止めた。もう一人なんだった。ふわふわと浮いていた身体が、ようやく着地したような心地だった。台所の流し台に、綺麗に洗われたアルミの灰皿と、見慣れたミント色の煙草の箱が置いてある。煙草を吸うのはナギだけだ。後で処分しないと。
涙は出ない。そんなものか、と少しだけ考えた。

「えっ、別れたんですかあ!?」
「うん、まあ」
「えっ、えっ、彼氏さんと結構長かったですよね!?」
「うーん」

そもそも彼氏じゃないんだけどね。そんなことは言えるはずも無いので、とりあえず笑っておく。綺麗にカールした睫毛を瞬かせたのは、仲の良い職場の後輩だ。手に持った箸から卵焼きが落っこちて、弁当箱に逆戻りしていく。それでようやく驚きから脱したらしい彼女は、再び卵焼きをつまみながら、口を開いた。

「てっきりそのまま結婚するもんだと思ってました……」
「それは、なかったんじゃないかなあ」
「ああ、彼氏さん結婚まではあんまり考えてなかったんですね」
「そうだねえ」

考えていなかった訳ではないだろう。できることなら、とは思っていたかもしれない。性別が違えば、ここがもし外国だったら、あるいはせめて、どこか違う、遠い街だったら。そんなもしもの話をしたって仕方がない。ナギはそういう話をしなかったし、だから私からも何も言わなかった。できもしないことを並べて、惨めになるのが嫌だった。

「それは確かに、別れてしまうかもしれない」
「そうだよねえ」
「段々気になってくる歳ですし」
「そうなんだよねえ」
「周りがせっついてくる感じありますよね。友達も結婚ラッシュだったりして」

後輩は、やけに真面目くさった顔で神妙に頷いている。

「次はバンドマンじゃない彼氏作りましょう! 普通の会社員みたいな!」
「別にバンドマンではなかったよ。趣味でバンドやってただけで、仕事はしてたし」
「バーテンダーでしょ。それ付き合っちゃいけない三大職業リーチかかってますからね」
「あはは」
「あははじゃないですよ! チセ先輩の話ですよ!」

もう! とぷりぷり怒る後輩は、ひと月前に「振られました」とべそべそ泣いていた筈なのだが、もうすっかり立ち直ったらしい。お互い頑張りましょうね、と拳を握りしめて、小さい弁当箱を片付けていく。恋の比重が大きい後輩は、私よりもずっと上手に、幸せそうに生きている。それが少しだけ眩しくて、羨ましかった。
「先輩の慰め会と称して飲みに行きましょう」とまとわりつく後輩をかわして、買い物をして帰路につく。人懐っこくて愛嬌もある後輩だが、勢いがありすぎるのが玉にきずだ。そこも含めて可愛い後輩ではあるが。
そうやって考え事をしていたからだろうか。余計なものまで買ってしまったと気付いたのは、冷蔵庫に野菜を移している時だった。六本まとめて売っている、安い銘柄のビール。私は飲まないが、ナギが飲むから、いつでも冷蔵庫に入っていた。どうしようか、と少し思案する。人が来る予定もないし、飲みもしないのに場所だけを取るのは馬鹿馬鹿しい。勿体ないが、流して捨ててしまった方が良い。そこまで考えて。
けれど、捨てられなかった。
そんなものか、だなんて理解したふりをして、本当は今の今まで、何も分かっていなかったのかもしれない。

「……別れたんだ」

捨てられなかった。いつもより丁寧に、冷蔵庫にそっとしまう。ようやく現実が、実体を伴ってずしりとのしかかる。

「本当に、別れたんだ」

流し台の灰皿を見る。捨てなければ。
けれどできなかった。
隣に添えられた煙草の箱を開けてみる。二本しか減っていなかった。持ってってよ馬鹿、と弱々しい文句が飛び出す。

「ナギ、もういなんだ」

駄目だ、と思った。きっと何一つ捨てられない。
灰皿も、煙草も。一緒に選んだカーテンも、二人分ある食器も、笑いながら買った、よく分からない置き物も。


そうして思い知る。
どんなに後ろめたくても、何にもならなくても、私はナギが好きだった。

Ⅲ.

同じ街で暮らしているのだから、もしかして偶然どこかで出会うことはあるかもしれない。そう思っていたけれど、数か月経っても、そんな偶然は一度も起こらなかった。一緒にいようとしなければ交わらない人間なんだぞと言われているようで、落ち着かない。もう終わったことなのに、自分で終わらせたことなのに、見えない何かに責められているような気がした。
大通りから少し外れた、細い路地を進む。突き当たりの小さな建物に「OPEN」の札がかかっているのを見て、ほっと息を吐いた。しばらく来ていなかったので、閉店してはいないかと、少しだけ心配していたのだ。
重い扉を押し開けると、カラン、と古臭いベルの音がした。カウンターの向こうから、あら、と声が上がる。

「随分久しぶりじゃない」
「こんにちは。ご無沙汰してます」

とりあえず座んなさいな、とメニューを手渡され、アイスコーヒーを注文する。この店の店主である彼女は、少し待ってて、とカウンター内を行ったり来たりする。

「……お一人ですか?」

がらんどうの店内を見回して尋ねる。確かアルバイトの子がいたと思ったのだ。

「そうねえ。今はちょうどお客さんもいないし、バイトの子も辞めちゃってね」
「そうなんですね……」
「すっかり静かになっちゃってね。寂しいものよ」

あなたも来ないし、と冗談めかして言う彼女に、曖昧に笑い返す。以前はよく通っていたこの店に来るのも、実に数か月ぶりだ。一人で来ることも多かったが、ナギともよく来ていた喫茶店。

「ナギちゃん元気?」
「ええと」

差し出されたグラスに礼を言いながら、言葉を詰まらせる。今、ナギは元気にしているだろうか。当然ながら分からない。もっと言えば、数か月前から元気かどうかなんて知らない。
そうやってもごもごと言い淀む私を見て、彼女はおや、という顔をした。

「喧嘩でもしたの?」
「喧嘩というか……」
「もしかして別れた?」

予想外の言葉が飛んできて、口に含んだコーヒーが気管に入る。

「なん、なんで」
「見てたら気付くわよ。世間知らずの小娘じゃないんだから」

誤魔化すようにグラスに口をつける。ナギと付き合っていたと誰かに話すのも、別れたと言うのも、認められていない気がした。後ろ指を指されて、嘲笑されているような心地がするから。

「特にナギちゃんはねえ。ナギちゃん、あなたの話をするとき、嬉しそうにするから」

分かりやすいったら。懐かしむように続く声が、楽しげに笑っていた。
知っている。
私と話すとき、いつも眠たげな目が柔らかく下がるのだ。それを見るのがたまらなく好きだった。そんなの、私が一番知っていた。
「そう、別れたのね」と彼女が言う。そこには揶揄う色も、嘲る色もない。ただひたすらに、穏やかな声。

「……気持ち悪くないですか」
「どうして?」
「普通じゃ、ないから」

グラスを握りしめて、俯く。人に話すのは初めてだった。口を滑らせたと思った。言わなくていいことを話した、と。これで「気持ち悪い」などと言われたら、笑ってごまかして店を出て、きっと一生、思い出しては勝手に傷ついて生きていくだろう。
そうねえ、と言葉を選ぶような声が聞こえ、気を紛らわせるように、髪を耳にかけた。

「普通って、何かしらね」

俯いていた顔を恐る恐る上げる。彼女は「これは私の分」と冗談めかして言い訳をしながら、コーヒーを淹れていた。

「例えばね。私にとってはこの店の店主であることは普通のことだけど、あなたにとっては会社で働くのが普通のことでしょう。コーヒーを飲むのが好きで普通だと思っている人もいれば、紅茶を飲むのが普通だって言う人もいる。普通って、みんなにとって違うものよ。私とあなたの好きなものが違っていて、髪型が違って、身長が違って顔が違うのと同じくらい、それは当然のことだわ」

淹れたてのコーヒーから、美味しそうな匂いが漂う。温かいそれを一口飲んだ彼女は、ほんの少し満足げに笑った。

「気持ち悪いって、誰かに言われたの?」
「言われてない、けど。ずっとそう言われてるような気がして」

だから別れた。
テレビの向こうの声。インターネット上の誰かの書き込み。名前も知らない誰かが、ずっと指を指して責め立てているような気がするのだ。それがたまらなく怖かった。
結局、私はただの意気地なしなのだ。二人で生きていく勇気がなかっただけの。

「ナギちゃんが好きだったんでしょ」
「……はい」
「ナギちゃんもきっと、あなたが大事だったわよ。それってとても素敵なことだわ」

これはあなたより長く生きている女のお節介なアドバイスだけどね、と彼女は続ける。

「一度、ちゃんと話しなさいな。取り返しがつかなくなって、後悔する前に」

そう言って寂しげに笑う彼女は、後悔していることがあるのだろうか。

「あなたもナギちゃんも、きっと言葉が足りてないのよ」

誓いのキスはバルコニーで

誓いのキスはバルコニーで

※GL/百合です。大丈夫な方のみお読みください。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-04-24

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  1. Ⅰ.
  2. Ⅱ.
  3. Ⅲ.