痛みを知らぬ男
男は痛みを知らなかった。二十と数年生きてきた中で、痛みというものを感じたことは一度もなかったのだ。子供の時、転んでも彼は泣かなかった。膝からだらだらと血を流しながら、心配してオロオロとしている母親を気にもせず、再びアゲハチョウを追いかけ始めた。
ある日、彼は土手を散歩していた。もう随分くたびれてしまった黒の中折れハットをかぶり、同じ色のジャケットを羽織った、散歩には少々似つかわしくない格好だった。よく晴れた土曜日の朝で、ジョギングや散歩に勤しむ者も多く、まだ朝も早いというのにしんとした雰囲気は全くない。
そこで彼は、花を摘んでいる風変わりな女と知り合った。子供ならまだしも、彼女はもう二十を過ぎた立派な成人で、もうすぐ三十になろうとしていた。
「あなた、そこの黒い帽子を被った、素敵な殿方よ」
彼女はそう言って、男を呼び寄せた。
「なんの用ですか」
男はこの妙な女につっけんどんな態度を取ったが、彼女はそれを気にすることもなく話し続けた。
「なんだかとてもあなたのことが気になってしまったの。お友達になってはくれないかしら」
男は特に断る理由もないので、彼女と友達になることにした。それから彼らはよく会い、話し、遊ぶようになった。チューリップ畑に行った時は、朝から晩まで共に過ごしたりした。そのうち彼は、彼女といると、胸の辺りが詰まるような、変な感覚を覚えるようになった。
「やれ、病気か。医者に行かねば」
男は医者に行ったが、どこにも悪いところはないと言われた。ヤブ医者だと思い、数軒病院を尋ねたがどの医者も言うことは同じだった。
「私ね、知らない人と結婚するの。両親に決められた人。だからもう、あなたとは会えない」
突然のことだった。女は泣いていた。
「いやよ、私好きな人がいるんだもの。その人以外考えられない」
去るものは追わない男は、わかったと言ってそれを受け入れた。わかった、と言った時、女は心底悲しそうな顔をしていた。こうして二人の付き合いは終わった。
それからというもの、男は彼女のことを考えるたびに胸を何かでぎゅっと掴まれたような、苦しい気持ちになった。そして、涙がボロボロと流れてしまうのだ。
「やれやれ、また病気か」
男は再び医者に行った。その医者はとても親切で、男の話を親身に聞いてくれた。そして、医者は長い髭を撫でながら、彼の胸の違和感をこう結論づけた。
「それは、恋の病ですな。その違和感が、胸が痛む、というやつです」
痛みを知らない男はこう反論した。
「しかし、私は痛みを感じない体なのです」
医者はこほん、と咳払いをして続けた。
「それは、体の痛みでしょう。胸が痛い、というのは言い換えるならば、心が痛い。心の痛みは、痛覚がなくても感じるのです」
「つまり、どういうことですか」
「あなたは、その女性のことが今でも好きなのです。忘れられないのです」
男は初めて痛みというものを知った。
「どうすれば良いのでしょう」
「今すぐその女性のところへ行きなさい。そして、君の気持ちを伝えなさい。一緒に居たい、と」
男は急いで勘定を済ませると、彼女の住むアパートへと向かった。途中で転び、ズボンが破けてしまった。それでも走り続けた。
インターホンを鳴らし、彼女が姿を現した。顔色が悪く、少し痩せたようだった。
「来てくれたのね」
土色だった彼女の頬に、ぱっと赤みが差した。
「ああ、遅くなってしまったね。本当にすまない」
彼は大きく息を吸って言った。
「結婚しないで、僕と一緒に居てはくれないか」
女は黙って頷き、男を抱きしめた。男の胸の痛みは、きらきらと輝き、弾けて空へと飛び散っていった。
痛みを知らぬ男