瞳をとじて

なにだれどれ

「ちょうどよかった。乗せてってくれよ。中央図書館まででいい」
「こんにちは。挨拶もなしにぶしつけね。助手席へどうぞ」
「今日もご家族そっくりの、愛くるしいマヌケヅラをしているね」
「あんまり人の身内を馬鹿にしないように。ハンドルさばきが甘くなるわ」
「愛くるしいまでが君んとこ一家のケイパビリティさ。あとは君のスペシャリティだろ」
「今日は資料探し?」
「うん。大学図書館の点数制限にもひっかかってるし、地元の方じゃ全然蔵書が足りないんだ」
「買えばいいのに」
「買ってるよ。しかし部屋にはもう置ききれなくってね」
「出るよ。シートベルト締めて」
「うわあ、ふかふかじゃないか。僕の部屋にもこんな椅子があればな」
「買えばいいのに」
「置き場がない。本も漫画も映画もDVDもアニメのブルーレイもあふれかえってるんだ」
「そんなもの買ってどうするの?」
「読むんだよ。観るんだ。感情を揺さぶられるんだよ。ああそこ。右に入ると近道だ」
「一度読んだら終わりでしょ。まっすぐの道が好きだからこのまま行くね」
「あさはかな」
「はぁやだわ」
「ホラきみだって好き嫌いで道を選ぶ。理にかなうかかなわないかじゃないだろ」
「同じ話を延々、繰り返し観ているだけ?」
「うん」
「つまらないじゃない」
「でも、ずっと見続けてると、今度こそは違う結末を迎えるんじゃないかって気がするんだ」
「ヘンなの! むちゃだよ、それは」
「ふ、ふ、ふ。まあ聞きなよ。ループものってあるだろ。さんざんアニメで流行ったね。僕も人並みに考えてみたんだ。この世界はループしているんじゃないかなって。輪廻の一形態ととらえてみてくれてもいいね。人が世界の現象を認識できるのは生きている間だけ。死んだらどうなるか。産まれた瞬間に戻る。そして、同じ人生を繰り返している。世界はずっと同じ歴史を繰り返している…」
「好きだよ。あなたの突拍子のないとこ」
「ある」
「ない」
「あるんだ。僕はハッピーエンドが好きだ。せっかく物語に寄り添って慕えるようになった登場人物が不幸になる結末には虫唾が走る。どうしてもやるせない。だからハッピーエンドを迎えるまで何度でも同じ物語を繰り返し追ってやろうとした。もちろん、そんなものは狂人の夢想さ。まさかお話が変わろうはずもないよ。実際、僕のような妄念に取り憑かれたら、二次創作に手を出すのが常道なんだろうね。そこにはファンの都合によって成り行きをちょろまかされた人物たちが、私物化されたご都合の劇的境遇を満喫してもいるだろう。だが僕はそんな工夫一つじゃあ納得できない。もっと正当に丸ごとをねじまげてしまいたい」
「ほら見て。あんなにマンホールが連なってる道路なくない? どういう工事したらあんなことになんの?」
「そういうわけで、はじめは小説に手を出してみたんだ」
「聞いてるよ。続けて」
「最初の標的は文庫作品だった。目当ての文庫本に採用されている用紙、インク、印刷技法を特定して…。綴じ方や、カバーの素材、まあ、一通り、何もかもだ。ガワが再現できるなら、中身をいじくる苦労は随分ましさ。本文の書体、字間や行間、段落のコンポーザー、禁則処理あたりの組版もばっちりと把握したら、組版用アプリケーションで全文を一字一句たがえず入力する、そして、結末だけを書き直してやるわけだ。あとは印刷、製本。背表紙の折り目なんかも再現してね、本物と見分けがつかない、完全なる模造品を仕上げられたなら、これで登場人物は救われたともいえるだろ? いえない? 僕は納得できたぜ。この魔法に凝りだしてからは、もう向かうところ敵なしだった。ハードカバー小説でもやったし、自主休講に次ぐ自主休講でありあまる時間まかせに、ついには漫画作品にも挑戦してしまったな。目当ての絵を真似るにはすいぶん骨折った。トレースさながらの描画が求められるのに、トレースだけではまかなえないんだからね。でも僕は真っ当な創作がしたいわけじゃない。だからダーティな手段も選べた。常識だの道徳だのは捨て置いて、合法的である必要性すらないんだ。僕は仲間を募ってみた。手広く募った。最も活躍したのは人工知能の研究者と運用者だったよ。彼らの手伝いがなければ完成しなかった作品がいくつもある。運用段階にない未完成の技術もどかどか投入した。なにしろ公のものじゃない。遠慮もルールも、いっさいの足かせがないんだ。秘密結社めいた地下の集まりだったが、作品が完成するごとに、仲間は増えるばかりだった。技術力のある暇人ているよ。彼らは持て余されるばかりの実力を発揮したがっている。はっきりいって金にはならない。だが金稼ぎなんてのは、とどのつまり手段に過ぎないわけだろ? 何かのために金を使う、そのために金を稼ぐんだから。彼らにとっちゃあ、この仕事そのものが目的化していたから、金なんていらないんだね。趣味や娯楽、生きがいの領分なんだ。仕事をするから賃金が発生するというのは、僕が思うに、会社人たちによる自身が身を置く社会秩序を正当化するための悲しい論法だね。おっと、きみのお兄さんは勤め先のブラック企業を訴えていたっけ。失礼失礼。あの人がこの前マイニチのウェブ記事に寄せていた文章は嘘だらけだったね。大人物だ。世の中には人を感動させる嘘つきがいる。僕はきみのお兄さんが大好きだよ。オンラインゲームでちょっと煽ると怒り狂う。その時の語彙があんまり豊富で、一つの詩みたいなんだ。あんなダミ声なのにね。かわいそうに。きみのお兄さんの話はいいや。仲間には自衛隊あがりの老人から、書道コンクール常連の小学生なんてのもいる。いっぱしの桃李満門さ。いよいよ準備は整った。今度はアニメを手がけようとしてるんだ。こりゃあ漫画の比じゃないぞ。画面効果の種類に加減、カットの間、声優、音響のクセ…。僕らは真っ当な徒党には程遠いのだから、使いまわせるものは容赦なく使いまわす。データの抽出だってためらわない。しかしどれだけ材料をそろえてピッタリはめこんでも、言い知れない違和感が残ったりする。あれはまさに生きものだね。情報のパズルを組み立てれば再現できるってもんじゃない。でも、やりとげるつもりだ。僕には救ってやりたい女の子がいる。皆には、しょせん暇潰しの活動さなんて吹聴してるけどね。全てはそのためなんだ。大好きなアニメの、ほとんど脇役みたいなキャラなんだけど。それまで必死に生きてきた彼女の健気が報われないなんて絶対に嫌だ。必ず救ってみせる」
「へえ。わかるかも」
「きみに? ふうん、やすやす値踏みしてくれたもんだなあ。本当に今のハナシが伝わっていたかすら、僕はあやしんでるぜ」
「救うじゃないけど、むしろ逆に、私には憎い、忌々しい、倶に天を戴かずってくらい嫌いな奴がいてね。友達の友達なんだけどね。人に話すほどでもない、どうでもいいエピソードの積み重ねで、ついには私の天敵になったんだ。知ってる? 私が演劇やってるの。役者一辺倒のつもりだったけど、高校時代、十代だけが集まった劇団で座長になったことがある。そうすると演出家の真似事だってする。脚本にも通じるようになる。そのとき私ね、一本、舞台の脚本を書いてみたの。そして一役を演じのけてやった。憎い憎い、大嫌いなあの子そのものを投影した役柄になりきって、あの子の心境をなぞって、身振り手振り口振りもすっかり模倣しきってやった。するとどうだろう、私の中で、怨念が昇華されたんだよ。彼女本人は何もしてないし何も変わってない。私も彼女本人に何かしたわけじゃない。でも私の中の彼女はもう、私と仲良しになっちゃった」
「やるじゃないか!」
「どんなもんだい」
「まさか君が、この手の魔法に通じているとはね。いや、いや、みくびっていた。うん、僕のそれとは方式こそ異なるが…同等の成果をあげているかもしれない」
「えらそうだな」
「きみは偉大だ」
「うちの兄にも言ってやってよ。私のことを下等な生き物って馬鹿にしてくるんだ」
「あの野郎の言うことなんか気にするなよ」
「ハンドルさばき」
「きみんとこの家族仲が羨ましいよ」
「本当に?」
「まさか」
「覚めてるよね。それでハッピーエンドが好きなの? お涙ちょうだいの感動ドラマで嗚咽して? 想像つかない」
「家族ものは大好物だな。あれもこれも今思い出したって泣けてくる。きみはどんな作品が好きなの?」
「どんなって、傾向なんかないよ。好きな作品が好きってだけ」
「利口ぶっていやがる」
「強いていえば、作家なら宮沢賢治は好きだよ」
「きみが読んだその宮沢賢治が本物だって保証はあるか? 僕らが再現してきた本が世間に出回ってる量は少ないが、僕らと似たような工作を働いている連中が、他にいないとも思えない。読書会でもしなければ、別の誰かと読み合わせなんかしないだろ?」
「したよ、読み合わせ。舞台の脚本の底本にしたから」
「宮沢賢治の話はいいや。僕がいいたいのは、きみがこれまでに」
「入手してきた本が」
「わかってるじゃないか」
「だって演劇やってたらつきものだもん。原作は原作としてあって、でも舞台は舞台としてあって……。当然、同じ作品でも脚本は全部違うからね。しかも演じてみたら毎回別物になるんだから。原作のないオリジナルならなおさら。もう本物なんて、はじめっからないようなものでしょ」
「僕は観劇の道には明るくないが、そういえば演劇論は少々かじった。あれはずいぶん高等な遊びだね。喜劇だの悲劇だのといった区分けから脱するまでには随分長い歴史が要ったそうじゃないか。ギリシア人はありのままの自分を是としない。人間は美しいものだという完全性の理念が初めにあればこそ演劇が発生する。これが中世になってくると、つまりキリスト教の教えが支配的になってくると、人間本来の美しさは神の国においてのみ実現するのであって、現世では醜く穢された存在に過ぎない、人間それぞれには生来の役割があらかじめ定められている、そこには自由も責任もないのだという。すると演劇は失調する。ところが時代が下ってみれば、その中世こそがまさに演劇の題材となりうるのだから皮肉だね。中世はそのありのままが演劇的であったわけだ。本来性なんていう、遠く隔たれた彼方を見据えてるからそうなる」
「その時その場を大事にしていきたいね」
「観劇と観戦で表現の違いこそあるものの、スポーツとの相違が興味深い。スポーツの試合こそ一回性の極致だ」
「うんうん、うちの兄なんてほら、運動狂いだから、スポーツばっかり持ち上げてた」
「しかし彼、スポーツのゲームは不得手だぜ。今度ボコボコにしてやる」
「ゲームは? 最近は、ゲームの大会も流行ってるんでしょう?」
「この話続けるかい? 朝までかけて語り聞かせてもいいが、酒とつまみがいるな」
「ちょうどいいお店があるよ」
「つまらないこというなよ」
「この話ってどの話?」
「きみの家族の話かな?」
「ハッピーエンドの話でしょ?」
「そうだった。まったく世の中はままならない。月並みだが、虚構の世界くらいは幸福で満たしておきたいのさ。現実には不幸があふれすぎてるよ。どいつもこいつもシケた面構えでよっぽどきみのマヌケヅラが羨ましいや」
「私だってねえ」
「悲惨な子ども時代だったね」
「ちぇ、どっちに扱われてもシャクだなあ」
「少なくとも寂しかったろ。お母さんとは随分遠く離されて……。遠く?」
「ウラジオストック」
「なんだ、直行便で行けるじゃないか」
「今となってはね?」
「うん、子どもからすれば宇宙と変わらないな」
「ところがどっこい、私は並大抵の子どもじゃなかったんだなあ。
ママのいるウラジオストックまでの距離を地図で測ってみると、約1000kmあるのね。私はその道のりを絵に描いてみてたんだ。本当に、描いてみたんだよ。幼い私は、習いたてのかけ算を駆使して、まず1000m×1000って紙に書き出してね。その下に、10cm×1000万って書いて、その下に、定規で10cmの線を描いた。"この線を一千万本描いたらママのところへ辿り着く"。呪文みたいに何度も何度も口にして……。私はこの線を、ほんとに、ほんとうに……」
「二千万本描いた」
「そう! 帰ってこなくちゃいけないからね!」
「笑いが止まらん」
「七年くらいかけてね。やりきったんだ」
「ちょっとまってくれ。電話だ。ハイもしもし。うん。うん。やめろ。あきらめて、復帰をかけろ。早まるなよ。いいね。いや、笑ってなどいない。後でパーツと、ついでにダックワーズを持っていく。そうそう。消化器は近くのコンビニから借りてくるんだ。じゃなきゃひったくれ。いいね。またな。悪かったね、それで?」
「世間からは哀れまれてても、シケた面はしてなかったと思うよ」
「まさにそこなんだよ。君はスバラシイ解答を授けてくれた。ファンファーレが鳴り響いた! 人は浮かれると視界が星とか花とかで埋め尽くされるらしいな。僕には今、この車中に無数の虹が見えるよ。爪の先にのるくらいの小さな虹があっちこっちに架けられてる! なんてスバラシイ気分だろう! 運転を代わってくれ!」
「やだよ。もう着いちゃったよ」
「いいよ、停めてくれ。聞けよ。そっぽ向いてて構わないから。なんだ、耳まで愛くるしいな。今の線の件にしても、演劇の件にしても、つまりきみは現実をねじまげたんだろう。いわばね。自分の気の持ちよう一つで世界は変わる。その気の持ちようのコントロールを、常軌を逸したアクションによって成し遂げたわけだ。スバラシイことだ。僕が成し遂げたいのもそれだ。越境したいんだ。この世界の秩序をちょろまかしてやりたい。この世界は時間と空間に制御されている。ほとんど支配に等しいその摂理を、認識だけが超越できる…」
「革命したいっていうの?」
「それじゃあ、わけがわからない」
「わけわかんないのはさっきからずっとだよ」
「わかる」
「わからない」
「わかるんだ。最後まで話を聞きなよ。ダックワーズ食べてもいいよ」
「誰かに持っていくんじゃなかったの?」
「いいよ。食べちゃえ食べちゃえ」
「うへへ。食べちゃおう食べちゃおう」
「害虫殺したことある?」
「食べ終わってからにしてもらえる?」
「当たり前のことだけどさ、僕らは害虫を殺したことあるけど、害虫側は殺されたことはないわけだよ。一個の経験としてね」
「これ甘すぎるよ。しかも甘味が出ていかない。非常口から逃げようとしたら開いてなかったみたいな絶望感ある」
「やっぱり運転席を譲ってくれ」
「どこ行きたいの」
「工房へ!」
「たいそうな名前!」
「今も作業中なんだ」
「人がいるのじゃないの。やだ、こんな化粧で知らない人に会いたくない」
「たしかにやや派手だね。でも、素敵だよ」
「ありがとう」
「資料はいらなくなった。工房も一旦ストップさせる」
「エー。私のせいみたいだな」
「一緒に来てくれ。君が必要だ。甘いものなら好きなだけお食べ。会うたんびに花束を贈ろう。好きな鳥の鳴き声はなんだい?」
「秋の終わりの、高いとこから聞こえる雲雀」
「いつでも聞かせてあげる。ちょっと速度上げるぞ」
「いそぐの?」
「内緒にしろと口止めされているが、実は君の妹を乗せて事故したことがある。怪我はなかった。速度は落とそう」
「イヤ。そのときより速くして」
「まかせろ。速いぶんには自信ある。あのときだって空中で失神した蝙蝠がフロントガラスに激突してこなきゃ余裕だったんだ」
「蝙蝠は死んじゃった?」
「怪我はなかった」
「よかった。気をつけて向かってね」
「あれもなかなか器用なもんだね。動物は専門外だろうに随分手際よく処置してたぜ。衛生面に気を払いながら暖めていただけだけど、だけといったってそうは簡単に立ち回れるもんじゃない。ただ遺憾もある。僕はやめろと忠告したのに、結局逃がす前に名付けちまった。名付けたが最後、もう一般名詞の身分には戻れない。害虫のたとえからは遠ざかる」
「昔からあの子やたら名前付けたがるんだよ。他人の飼ってるペットだとか、夜中に耳元でうるさい蚊だとか、今まさに抜こうとしている雑草にまで。恐ろしいことに、名前を付けるのって、傍からは止められないんだからね。どんな暴力も権力も名付けは食い止められない」
「一人の勝手で名付けてしまえる」
「しまえる。実際には、他人に承認してもらって初めて、名前は機能するのだろうけど」
「僕らは今や名前を知りすぎているね。近年有名人の訃報が増えたのなんのと言うがお門違いだ。名が増殖拡大していくばかりの時代の必然だろう。まったく、真性の他人は年々減ってってる。僕の救いたい女の子には名前がつけられていないんだ」
「モブってやつだ」
「それが、ホントにモブなんだよ。街中の背景みたいな扱いでさ。エンドクレジットにも通行人Bとしか表記されていないんだ。だから彼女を登場人物として規定するのは見た目のデザインと声だけ。多くの視聴者には記憶すらされていないのかもしれない。でも一回限りの出演じゃない。彼女は回を重ねて何度も登場する。その都度、風体やちょっとした動きに差があって、なんとなく彼女の背景にあるドラマが推し量れるんだ。誰も彼女を語らないけれど、たしかに彼女の物語があるんだよ。でもこのアニメは最終回を前にして、彼女に膝をつかせる。ねえきみ、僕は彼女に名前をつけてもいいだろうか?」
「ダメでしょ。要点が呑み込めてきた」
「そうだろうそうだろう。意味もなくクラクションを鳴らしてしまいたい!」
「鳴らそう!」
「間抜けな音だな! クラクションにも間抜けな音があるなんて、まっとうに生きてたら得がたい知見を得たよ」
「私はこの音好き。好きだからって鳴らせないのが常識人の難しいところだね」
「これがかい。これが」
「ふふ、いい音」
「こう、こう」
「まともな常識のない人はこういうとき輝くね」
「何が常識だ。あんなもの、主観と客観のすりかえだよ。他人の承認を得て初めて機能するはずなのに、その他人もまた同じように、別の誰かの承認を要するんだ。厳密に常識人を名乗れるのは神くらいなもんだ」
「雨。雨。雨降ってる」
「ふん、にわか雨なんて今どき流行らないのに」
「やだね。おてんとうさまがダサいのは」
「神もおてんとうさまも洒落っ気のない朴念仁さ。人生の酸いとも甘いとも無縁なんだから。さあ着いた」
「もっと古いアパートかと思ってた。鍵は私がかけるから、いいよ、出て」
「ここ、ちょっと似てるだろ」
「似てる。わざわざ見つけてきたの?」
「仲間の一人がウチを使えって聞かなくって」
「ここに私を連れてきたかった?」
「これでも僕は、きみら一家には悪いことをしたと悔悟しているんだ。そりゃあ、直接手を下したのは僕じゃないが、しかしきっかけではあった」
「でも一回も謝ってないよね?」
「言葉じゃ誠意を込められない。でももし、きみが…」
「やめてよ」
「うん」
「キスしてよ」
「袖をめくれ」
「うん」
「これ懐かしい」
「雲雀の鳴き真似、上手になってね」
「本物じゃなくていいの?」
「模倣が得意なんでしょ?」
「本物と模造の差の不確かさについて語ってたんだ」
「いいよ。どっちでも。どっちでもいい」
「行こう。誰も待ってないけど、僕がもう待ち遠しい」
「ここ停めといていいの」
「こんなとこ誰も来ないよ」
「鳴らしたい」
「しかたないな」
「ありがとう」
「間の抜けた音だがこんな寒景色にはよく似合うね。傘は僕がさしてやろう。傘にも一級の差しかたってもんがあるんだぜ。見ろ、一滴たりとも濡れていない」
「濡れてるよ」
「さ、あがれよ。そこら中にあふれ返ってるゴミみたいなのは、まあ大体ゴミなんだが、中には間違いもある。うかつに触らないように」
「玄関もよく似てる」
「みんな、作業を止めてくれ! 風呂を沸かしてくれ。沸いてるか。さすがだな。ねぇきみ、紹介するよ。このヒョロいのは僕の仲間うちでも特異な傑物でね、風呂の達人なんだ。ひとくちに心地いい湯温といったって、季節や天候はもちろん、本人の心身の調子だってあるだろう。入浴中にも更新されていくしね。温度ばかりじゃない。浴室の調光、調香、調音だってばかにできない。僕らみたいな集中作業者には最高の風呂が必要なはずだって、彼は自ら名乗り出てくれたんだ。何を隠そうこの家も彼のものだ」
「はじめまして。お邪魔します」
「挨拶は省いていいよ。ここにいる全員、会話好きじゃないから」
「あなたみたいに?」
「僕をなんだと思ってるんだ? でも前言は訂正する。ここにいるみんなは、コミュニケーション自体を倦厭してるわけじゃない。ただここを、むやみなコミュニケーションが要らない場だって了解しているんだ。だからってあんまり静かでも寂しい。そこでこの坊主。ほら、止まって顔くらい向けてみなさい。今日も良い目だ。鬼も仏も背筋をゆるますね。この坊主が頼もしくなってくる。何もできない無能だが、にぎやかしで重宝している。跳んだり跳ねたり愉快なやつだよ。おかげで事故が起こるんだが…。やや、これが燃え殻か。不思議とにおいが立ってないな。あとは僕が始末しよう。きみらはほら、風呂に入ってこい。僕は彼女を二階に案内する。いっぺんに全員入れよ。達人の調法に従えばお気楽極楽は約束されてるんだからな」
「家族みたいなんだね。ここ物置? 入っていい?」
「嬉しいよ」
「お邪魔します。なんか踏んじゃった」
「でかい図体が寝そべってるとすぐこうなる。寝かせておこう。骨が折れようと文句一つ言わないから」
「散らかり放題なのに埃は全然ないんだね」
「古いマシンはデリケートだからね」
「これパソコンなの? これも、これも?」
「おっきいだろ。どれもきみのお父さんから譲ってもらったんだ」
「娘の知らないところで」
「きみの知らないところで。正確には、僕は間接的に…」
「ああ、お姉さん」
「そういうこと。いい機会だからちょっと聞いてくれよ」
「水もらうよ。このへん物色してるね」
「聞いてくれ。きみんとこの父さんが僕んとこの姉を見初めたというのは、こちらに都合いいばかりの履き違えなんだ」
「案外足の踏み場はあるんだね。むしろ腕の置き場がなくて落ち着かない。こういう狭くて息苦しい部屋、なんだか知ってる気がする。いや、うん、たぶん、そういうことなんだろうね」
「実際は、僕が姉のやつをそそのかしたんだ。ああまであっさりなびくとは思わなかったけどね。まさかの純正なる相思相愛だ。僕は彼に子どもがいないと聞いていた。当時そんな種無しおやじのどこがいいのかサッパリだったが、なんといっても恋は素敵さ。僕は姉の一途な恋を応援したかった。泣きべそかいて帰ってきた朝の会話をよく覚えてる。
『彼は種無しなんかじゃないよ』『役立たずのほうか』『立つもん』『はらんでるの?』『またマタハラしてる』『また腹立ててる』『名前をつけてよ』」
「つけたの?」
「どうだったかな。それきり会ってないしね」
「ふん。ふん。子どもはいないって?」
「彼なりの気遣いだったんだろうね。浅ましい。浅はかで短絡的で身勝手な…。おっとごめんよ」
「いいよ」
「姑息で愚劣で間の抜けた唐変木の…」
「優しい嘘つきは好きなんでしょ?」
「人を感動させる嘘つきだ。心得違いをしてはいけない」
「揺れてる。地震?」
「連中が風呂に入っていったんだな。古い家だから。振動がやたら通る。きみの家とは大違いだ。よく見たら似てないだろ」
「全然似てない」
「そうだろうそうだろう」
「でも、なんだか居心地いいよ。この家。生きてる家だ」
「僕らが入りびたるようになって血が通っていったんだ。このソファに腰かけてみてくれよ。たまらんぜ。仲間の一人の実家にあったものを頂戴した。真夜中に男四人で忍び込んでね、分解できなかったからそっくり運び出そうとしたら戸を通らない。だから戸の方を分解して搬出した。ところがこの家にも入らない。今しがた取った杵柄だと、同じく戸を分解してやった。戸は新たに別の逸品を都合して設置したんだ。そんな風に、ドンドンこの家は整形されていった。今となっては椅子一つ買い足せないけどね。白状しよう。ここにあるどのパソコンも、きみんとこのお父さんの部屋から頂戴したものだ。姉がくすねた。それを、それと知らず僕がくすねた。奇妙な因果でやってきたもんだ。データというのは不思議だね。いくらでも完全なる複製ができるんだからずるいや。でもコピペした線じゃあ、ウラジオストックには辿り着けない」
「こう……。塩水で壊れるんだよね」
「壊れるというか、ハードディスクが腐食されて読み込み不能になるんだが、何日も浸けておいたらの話だよ。まぁ、そうやって隙間からぶっかけるだけでも、なんせこいつは古いからね、あっさり使い物にならなくなるかもしれない。なにより感電が期待できる。その塩、この前の葬式のだろ。取っておいたの?」
「そんなつもりじゃなかったけど、ちょうどよかった」
「やるなら徹底的にやってくれ」
「じゃあもう水いらない。徹底。徹底。このおうち燃やさなきゃ」
「ふふん。きみんち二世の出来上がりってわけだ」
「あなたの救いたい女の子、もう救えなくなっちゃうかな」
「救うよ。必ず救う。僕がたやすく決心を翻すものか。ただアプローチを見直す。ここでの生活、みんなとの活動があんまり楽しくって、つい転倒してしまっていた。どうやら手段の方に縛られていたみたいだ。工房なんか、いらないんだ」
「また揺れてる」
「大はしゃぎだな」
「叫び声…」
「降りてみよう」
「きゃ! なに、なに」
「蝙蝠だ。例の蝙蝠だ! チフっていうんだ。チフ、今日こそ殺してやるぞ!」
「やった!」
「一撃だ!」
「かわいそうに。ずっと遠くに逃げ続けていたらよかったのに。せめて供養してあげよ」
「庭先にチフの墓がある」
「もうあるの?」
「名前さえあれば墓は備えられるからね。こっちだ。おいきみたちどいてくれ。なんだ裸じゃないか!」
「あなたの救いたい女の子にはお墓も用意できないの?」
「服を着ろ! どいつもこいつも気持ちいいカラダをしているな。ふわふわの食パンを香ばしく焼きあげたみたいだ。裸で喧嘩なんかするな。つい見入ってしまう。墓なんかどうとでもなるよ。つまり、そのものが、そのものであると特定できればいいわけだろ。できるできる。名前なんか、世界に鋲を打つ手立ての一つに過ぎないんだから」
「頭がこんがらかってくるよ」
「僕はきみから答えを得たんだよ」
「どういう答え?」
「名指さずに眼差す。これだね。ずっと、眼差していればいい。それだけなんだ」
「私そんな話、してない」
「人の眼差しこそ地獄であるとたとえた哲学者がある。人の目があって初めて人は、その人たりうる。これぞ承認だね。そのとき人は、自分が自由な自分であることを束縛される。ねえきみ、登場人物は登場するまでは存在していないんだ。名指しは眼差しと対立し得る。僕は姪に名前をつけてやったがあの子はその名で呼ばれることがない。三人はいつもずっと一緒にいて、片時も離れないから」
「そうなんだ。私のお父さんも、あなたのお姉さんも、ひどい怖がり。絶対にお外へ出ていきたくないし、子どもをお外の人たちと触れ合わせたくないって決め込んでるんだろうね。SFの未来人みたいに。知ってる? 放射能に汚染されきった荒野に出れずドームの中に引きこもってるの」
「宮沢賢治か」
「本当に文学部?」
「新聞社に内定してる。花の文化部配属予定だ」
「この扉を開けたら…」
「出るよ。ほら、なんてことない。雨もあがったね。これだからおてんとうさまは偉大だっていうんだ」
「私、社会って怖いよ」
「自信持てよ。きみは身も心も美しい。それは本当の私を知らないからよとかなんとか、くだらないこと抜かすなよ。美は外面だけの問題だ、見た人間の印象の方が正体だ、きみは見てくれは愛くるしいし、心だって、まぁろくろく会話を成立させないチグハグの向きはあるが」
「よくいう!」
「茶目っ気も洒落っ気もあって、僕は大好きだよ」
「どっこい、今の私は私じゃないんだなあ。私には嫌いな女の子がいた。私は舞台上でその女の子になりきってみた。幕が下りてからも私はその女の子になりきって生活してみた。それはもう、かつての私とは別物だよね。振る舞いが変われば容姿も変わる。実は、今もなりきってるんだ。あなたと話すようになったのも事後のことだから、もともとの私は知らないわけ」
「む」
「さて、そんな私が語った”嫌いな女の子”は、果たしてどちらの女の子のことだろう?」
「なかなかやるな。しかしその自覚がある以上、なりきっているとは言えないだろ。だいいちそれなら、よっぽどきみの方が、社会にとって脅威だぜ」
「どっちでもいいんでしょう」
「どっちだっていいじゃないか」
「ずいぶん立派なお墓だね。ちゃんと御影石だ」
「そりゃあもう、この石ひとつとっても一聴に値する驚天のエピソードが……」
「私、出たくない。ここから出たくない」
「ここって? この家から?」
「ここに住むの。ここで生きてここで死ぬ。このお家が私のお墓になるの。紙とペンがあればどこにだって行けるし、話し相手もいるからね。ね。家族になろう。家族になろう。常識なんか、知ったこっちゃないでしょ」
「名案だ。きみに用があるときには外からクラクションを鳴らそう」
「ほら、あぁやっぱり、結局そうだ。あなたはずっと常識人なんだ」
「常識人さ! こんにちは、今日もいい天気だね。車でどこに行く予定だったの?」
「ほら! ほら!」
「時間を割いてもらって悪かったね」
「死なせて! 今すぐ死なせて」
「そうしたら、はじめに戻るよ。産まれた瞬間に戻って同じ人生をやり直しだ。やがて最後にここへ辿り着く。繰り返し繰り返し……。このやりとりも、もう何度もしてきたのかもしれないね。僕らは誰しも一つの舞台で延々、同じ演目同じ芝居を演じてる。神を観客にだ。ありふれた、つまらん野郎だ」
「イヤ。つまらないのはイヤ。なんとかして」
「僕が眼差す」
「なんとか……」
「僕が観客となる。これまでは僕も眼差されていた。それをひっくりかえしてやる。そうだ。きみは、きみたちはここに住むといい。名前も服も剥ぎ取って、正体不明になってしまえばいい。今あるきみがすべてだ。もう何も怖くなくなるまでここにいて、誰が誰かもわからなくなって……。花束も、甘いものも、毎日贈ってあげる。晴れた日には雲雀みたいに鳴いてみせるし、たまには雲雀を連れてこよう。この家はずっと僕に眼差され続ける。もう名前を呼ばれないあの子みたいに。はじめから誰からも名前を呼ばれたことのない女の子みたいに……」
「ありがとう。ごめんね。すごく素敵な夢をくれるのね。常識人だなんて言ってごめんなさい。ちょっとお父さんたちが羨ましくなっただけなの。雨、止んでないよ。もう中に戻って。私も元の道に戻るから。彼を待たせてるの。クラクション一つ鳴らせない、いい人なんだ。ごめんね。長々付き合ってくれてありがとう。最後に二つだけ、お願い聞いてもらっていい?」
「なんでも言えよ」
「瞳をとじて」
「こうかい」
「もう二度と目を開けないで」
「しかたないな」
「ありがとう」
「気をつけて行けよ」
「あなたもね」
「さよなら」
「さようなら」

瞳をとじて

会話劇だけだけど場面が変わったり話が展開していく、
というものをあまり読んだ覚えがないなと思いやってみました。
書いててめちゃんこ楽しかった。

瞳をとじて

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-04-21

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted