とある"それ"の記憶

――現在。
「"それ"はとてもとても大切なものだったんだ」
一人の老人がバーのマスターにそんな言葉をこぼしていた。
マスターはいつものようにグラスを磨きながら、老人の言葉へ静かに耳を傾けた。

――40年前。
「そんなものがあっただろうか……」
一人のスーツ姿の男がウイスキーを片手につぶやいた。
「なあ、お前は……」
話しかけた先にいた同僚は早々と潰れてしまっていた。
男は言いようのない気持ちを、ウイスキーと一緒に飲み干した。

――50年前。
「あぁ?、早くそんなもん忘れてしまいてえよ」
大衆居酒屋の二階で学生風の若者が同期の青年にくだを巻いている。
飲みすぎだぞ、と言われた気もするが若者にはもう聞こえていなかった。
その頃には若者はテーブルに突っ伏して夢の彼方にいた。

――60年前。
「……そんなもの、俺は知らねえよ!」
少年は顔を真っ赤にすると、友人たちを置いてさっさと行ってしまった。
友人たちはそんな彼を見て悲しげにため息をついた。

――60年と半年前。
「……終わっちまった」
雨に濡れていることも忘れて、少年が深くうなだれている。
私はそんな彼を見ていることしかできない。

――60年と半年と1日前。
私にとっての"それ"も終わってしまった。

――60年と半年と1週間前。
「"それ"はお前だ」
少年は私にそう言ってくれた。

私の初恋はそうして叶った。

とある"それ"の記憶

とある"それ"の記憶

――現在。 「"それ"はとてもとても大切なものだったんだ」 一人の老人がバーのマスターにそんな言葉をこぼしていた。 マスターはいつものようにグラスを磨きながら、老人の言葉へ静かに耳を傾けた。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-04-23

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