表現者

mute



 名エッセイストであった米原万里さんがその著作で言及されていた通り、前フリから予想できる論理的な筋と小噺のオチとの落差が笑いを生むのだとすれば、外見などの特徴を誇張して描くカリカチュアの表現から受け取れる愛嬌や皮肉さは、現実に認識する人物の姿形から大きく離れた画面上の描写との間に生まれる飛躍の程度及びその方向性に由来すると考えられる。マニエリスムの不自然な形態表現が強く印象付ける幻想的な場面描写に覚える感動も、鑑賞する側がアカデミックな正しい表現をどこかで意識しているからこそ生まれるものなのだろう。
 ご本人が自称していた通り、描こうと思えばラファエロ並の絵画表現を行えるパブロ・ピカソが手掛けたカラー・リノカットの作品である「花飾りの帽子をつけた女」は全体的な曲線から感じ取れる柔らかさが親しみあるデザインとして目に写り、鑑賞者をどんどんと画面に近付けさせる。
 間近で見る彼女の顔には「やはり」というべき異なる色彩で表現された存在の次元の違いが認められ、一方では太く跳ねる睫毛に吊られて大きく見える瞳が素敵な正面性を、もう一方では外界にま向かう彼女が物語らないシャープな意思に惚れ惚れとする側面性を複合的な魅力として伝える。しかしそれ以上に筆者が感動したのは彼女の頭上に置かれた花飾りの描写で、何重にもわたる空間の区分を花弁の一枚、一枚に至るまで行い、ラテアートを思わせる一時的で流動的な色と形の共演をもって見えない音楽性を感じさせる。絵画鑑賞をしていて、こんなにも楽しい!と思う気持ちが広がる経験をしたことはかつてない。だからこれは筆者にとって愛すべき一枚。皆が良いと褒めるものには一歩、二歩と距離を置きたい天邪鬼な気質を備えることを自覚しながらも、思わず口にしてしまった次の一言はパワフルなフェロモンを纏った姿を過ぎ去った「あの頃」のままに止める写真の中の画家に捧げられる。
「やっぱピカソは凄いや。」
 斜に構えた所を心情的に失ってから巡り直したパナソニック美術館で開催中の『ピカソ–ひらめきの原点–』は、脱帽を済ませた大いなる尊敬に溢れる時間となった。



 適切な距離を取って作品を見れば、点として画面に置かれた数々の色が網膜に写って花弁の如く弾けて開き、外光の眩さを錯覚した視神経によって脳内のイメージが輝く印象派の技法はいわば額縁の外で完成する表現といえる。
 概念としてかかる印象派に対置される表現主義は第一次世界大戦などの不安定な社会状況で生き抜くための、外在的事情に決して奪われない力の淵源として心の自由なあり様をどこまでも求めたものと理解する。だから表現としてはどこまでも写実的で、その良さを判別し得る「外界」が存在する印象派と違い、絵画としての正解なんて表現主義には必要ないのだろうなと半可通な知識に基づいて筆者は想像する。
 けれど、心の赴くままに描いた全ての表現に心打たれる程に人が感覚を鋭敏にして生きるのはある意味で過酷なのだろうし、ときには絵筆を手にする画家の心中を焼き焦がす程に燃え盛る「表現する」ことへの意欲が決して単純でないことはこれまでの絵画表現の歩みが如実に示す。
 表現は、その生成過程においてすら表現行為を行う主体の目に既に晒されているのだから、見られない表現はこの世に存在しないと筆者は思う。
 特に「見る」という行為の中心を貫く意思に注目すれば、視覚的な接触は表現者がその内心において表現しようとするものを思い描く時から始まっていると言ってもいい。これを身体事情として書き換えるなら、情報処理器官である脳内で「情報処理をしている脳内」というイメージを情報として処理することが出来る認識に拠って立ち、行おうとする表現を「行い終わった表現」としてどこまでも他人として冷ややかに見るという突き放し方を表現者が間主観的に行える。そうして生まれる作品との距離感は、心の赴くままに表現することの愉悦から意思主体を目覚めさせる。思うままに気持ち良く描けたはずの表現から自己満足を取り除いて残るものをしげしげと見る「赤の他人」としての時間を過ごす中で、「心の赴くまま」という表題が与えてくれるはずだった自由の所在を仔細に検分する表現者がそこで気付き、そして覚悟することはきっと少なくない。
「その対象とする。」
 かかる一文にセッティングされた見る側の視線ないし意思が許す自由なんてどこにも無い。だから表現者は「それ」すらも何らかの形で表現しなければならないのだという不自由な事実を握り締める。それを野放図に燃え盛る内なる欲望に放り込み、行動する。
 描くべき対象を眺める複数の視点を一枚の絵に落とし込むキュビズムの手法を忠実に実行すれば、描かれたものを統合する視点は欠如する。かかる手法を行う者の立場から作品を総合的に眺める訓練を積めば鑑賞する側が描かれたものを上手くイメージ処理できるようになるかもしれないが、そうでない限りはキュビズムの作品が表すものを理解できない状態に陥るのも無理はない。
 それでもキュビズムの手法を徹底することで得られるもの、すなわちモチーフに引ける線の数々及びその線に沿って折り紙の様に行える角度をつけた絵画世界の感覚的立体化は画面上に引かれた任意の線により認識可能となる各空間領域に独立した存在意義を画家に伝え、したがって各部分で行う表現が等価であり、故に多義的に行える解釈が混在し合い又は互いに否定し合っても、それらが一つの額縁内で行われる「からこそ」絵画表現が破綻することは無い。だから画家は、多様な意味合いを一つの画面に放り込み又は敷き詰めて誰にも捉え切れない表現意図の自由奔放さを意識的に行っていい(そうすることでかかる自由奔放さが観る側にも投影される、その表現の受け取り方は全て等価であり、その優劣を決定できるものは存在しないという形で)。
 均一でない灰白色で塗られた画面の上でパブロ・ピカソの「シルヴェット・ダヴィッドの肖像」は描かれる。高い位置で結ばれるポニーテールが目立つその角度は、モデルを務める彼女が椅子に座る現実に真横から接した画家の立ち位置と思えるが、画面中央、目を閉じる彼女の顔付近で生じている「異常」は画家の真実を辿らせない。
 そこだけ別の絵画が発生していると憶断する勇気を与える、藍色が基本的に映える世界。そこでは灰白色が前髪と首筋、感情を見せない瞳が浮かぶ白目部分に追いやられ、彼女の顔の半分辺りで藍色と接触し、水色系統の反応を見せてモデルとしての女神(ミューズ)の本質の次元を隔てる。ひょっとすると現実の彼女は緊張して怯えたままだったのかもしれない。けれど高齢の画家は彼女の姿を「見る」ことで彫り進め、無口な女神(ミューズ)の若々しさと物怖じしない地金を抽出してみせた。確かにその試みは限定的な範囲でのみ成功したに過ぎない。しかしながら、それ故に多義的な女神(ミューズ)の奥行きがグンと増している。鑑賞する者が尽きない興味を抱いて参集してしまうであろうその異常な次元で私たちの決定権は剥奪される。その代わりに与えられる想いと自由を行使して、私たちは骨の髄までその美術に溺れられる。奪われたものを取り返すための言葉を心の底から生み出す、無駄な努力を尽くしながら。




 空間領域の広狭に関わりなく、一枚の画面に匹敵する程の重要性を認識させる。その結果として生まれる、画面上に現れる各部分が等しい価値を有するという信頼は画家の心と手腕をどんどんと進めて行く。
 描かれるモチーフの不安定さや不均衡さを画面上で展開する点で確かに共通すると考えるキュビズムとポール・セザンヌの絵画表現は、しかしながら後者においてはそれが一枚全体にわたって行われ、故に決して正確でない絵画世界の絶妙なバランスが奇妙な力学として果たされる。その過程を具に追えば日常を生きる上で鑑賞者が身に付けざるを得ない観念のコリが刺激され、気持ち良く解されていく体験を味わえる。かかる体験は、けれどキュビズムの表現からは得られないと筆者は思う。
 したがって、ピカソが先んじて手掛け、またジョルジュ・ブラックと共にキュビズムへと向かった契機にセザンヌの存在があったとしても、歩んだ道程と目指した絵画表現の到達点はかなり異なるものであったのでないか。だとすれば美術史で書かれる通りにセザンヌからキュビズムへの展開をストレートに繋げていいものか。疑問に思うところが少なくない。
 美術史の編纂に関する判断基準へ向ける懐疑の目をもって鑑賞するのもまた面白いという実感を手放すことなく、また食わず嫌いなものして避けてきたものも射程に収めて、様々な表現を目にしていきたいと思う。

表現者

表現者

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2022-04-21

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