幸福

 今朝、ゴミ出しに行ってきてからどうも腰の具合がよくない。ゴミ集積場へ向う途中、おとなりのアパートの棚橋さんとばったり出くわして、三十分ほど立ち話をしたが、さして実のある話題ではなかった。早く解放されたかった。
 腰が痛いわ、と、彼女は帰宅するなり、食卓で新聞を読む夫に訴えた。夫は無反応だったが、やがて敵意のこもったまなざしで一瞥をくれた。そしてまた新聞に向き直った。いったいそこに何が書かれているのだろう、と彼女は思いながら、もう一度、腰がにがるのよ、と声をふりしぼった。発声するのにも痛みがともなう。
「にがる?」夫はフンと鼻で笑った。「面白い表現だ」
「腰が痛むときって、よく、にがるって言うじゃない」
 言うものか、と夫はふたたび鼻翼を広げて、笑う。かつてこんな小馬鹿にした笑い方をするような人ではなかった。もっと、そう、紳士的な人だったのに。紳士的な人だと思って、だから私は結婚したはずだったのに。
 夫が出かける前、夫の鞄を持ち上げた瞬間、とうとう彼女の腰に激痛が走った。それを見た夫は、軽やかに笑った。今まで見たことのない、少なくとも彼女の前では見せたことのない種類の、笑い方だった。
 一人になった彼女はリビングのソファに腰かけ、熟考のすえ夫に対する信頼を捨てた。離婚の二文字が頭をよぎった。このまま勢いで三行半を突きつけるのも可能だが、しかし小学校に上がったばかりの息子のことを考えると、なかなかそうもいかない。ただ、と彼女は確信的に思う、ただ、この先精神的な意味で夫を頼ることはないだろう。
 昼過ぎに整形外科へ行った。医師によると、第四の腰骨がずれているらしかった。骨粗鬆症の気もあるらしかった。ほとんどの女性は胎盤を傷めやすいですから、と男性の医師は言った。どこかが夫と似ているような気がしたが、どこが似ているのか判然としないまま、彼女は、電気ショックと軽いマッサージを受け、湿布のみ受けとって帰宅すると、もう、スーパーへと向かわなければならない時間帯だった。
 夫には大袈裟に報告してやるつもりだったが、見慣れた部屋を見まわすうち、どうでもよくなった。
 ただ一つ――我が子と、我が子を愛するこの気持ちさえあれば、私は絶望とは無縁だ、と彼女は結論づけ、そして何もかもを肯定した。事実、彼女は幸福だった。腰の痛みさえ幸福の一部だった。愛らしかった。
 玄関先で足音が聞こえる。息子だ。

幸福

幸福

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-12-16

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